
『かぐや姫の物語』では「命」
「私は生きるために生まれてきたというのに」
作品の主題上の罪は「生きるために生まれてきたのに、
「死んでもないのに生きてもいない状態」の顔を、
かぐや姫を(男性に献上される)「高貴な姫君」
「天が姫を高貴な姫君にするよう金を授けなさったのだ」
天皇制が欧米の王室や中国の皇帝と違う点は「神(の子孫)
高畑勲が『竹取物語』を映画化すると聞いて、
それにしても、あまりに力みすぎである。まずもって物言いが直接的すぎる。「生」に対してもそうであるし、男性社会や権力の描き方には露骨な悪意を感じる。極めつけは「帝」である。突き出した顎に角張った肩、安直な性格に「私のものになることを喜ばない女はおらんのだ」といった台詞など、時代が時代なら不敬罪で逮捕されるであろう。別に作品のテーマはこれでいいのだ。クールじゃない。せっかくの作画の素晴らしさとアンバランスなのである。それに捨丸の存在も微妙である。原作にはいない登場人物だが「ジブリっぽさ」のために出して来た感じが拭えない。宮廷のしきたりや高級な調度品は馬鹿にしているが、捨丸の家の生業は民芸品の制作であるということも何かをほのめかす程度で書き込みが足りない。文明の高度化は人間の技術の先に現れるということについて、もう少し何かしらの解釈をしても良かったのではないか。高畑勳の意地は十分に観れた。しかし、それに作品が追いつかなかったか、意地が作品を追い越してしまっていることは否めないだろう。
なんにせよ、本作最大の見所が作画であることは間違いない。特に冒頭30分ほどの「かぐや姫が山で暮らしていた頃」の映像は素晴らしい。つぼみが膨らむ瞬間など、手書きの柔らかなタッチで無ければ不可能であったであろう奇跡のような映像である。幼児のかぐや姫の仕草も凄まじいリアリティである。「他人」である赤ん坊が「可愛くて仕方の無い、何より大切な存在」になっていく親の目線がどんどん観てる者の中に入ってくる。冒頭30分の映像だけでも、この映画を観る価値は十二分にある。
そして、
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