Fast Critic -ジャンクな批評-

情報が飽和したインターネット時代。ついに食品だけでなく言葉さえもファスト・フードなこの世界で、豚のように節操無くジャンルを跨り、考え、書いていく萩野U介のレビューブログです。

【映画】高畑勲『かぐや姫の物語』レビュー

kaguyakaiken_4日本最古の物語である『竹取物語』を映画化したい───なんとねじれた愛国心だろうか。高畑勲が『かぐや姫の物語』で行おうとしたことは、日本の文化への根本的な批判なのだから。結論から言ってしまえば、これは天皇制と男性中心社会を批判する純然たる左翼映画である。

 『かぐや姫の物語』では「命」というテーマが用いられる。しかしながらそれは「せっかく生まれてきたのだから、命を大事にしましょう。自分の命も、他人の命も。動物や虫の命まで」といった道徳的教義だけのものではない。本作のキャッチ・コピーは「姫の犯した罪と罰」である。作中で語られる限り、姫の犯した罪は汚れた地である現世に憧れたことであり、その罰として地球に降ろされたのだとされている。しかしながら、それは物語のプロット上の罪と罰である。かぐや姫は月に帰らねばならないことを告白した後に、このように嘆く。

 「私は生きるために生まれてきたというのに」

 作品の主題上の罪は「生きるために生まれてきたのに、生を生きていないこと」である。その罰として月に帰らねばならない。こうして、もう一つの罪と罰が浮かび上がる。

 「死んでもないのに生きてもいない状態」の顔を、かぐや姫は作中で何度か見せている。それは主に「高貴な姫君」となるべく彼女が矯正されていく過程の場面である。なぜ彼女は「高貴な姫君」にならなければならないのか。それは「高貴な御方の妻」になるためである。かぐや姫に求婚した五人の貴公子たちは口を揃えて「かぐや姫さまは私にとって宝です」と褒め讃えるが、それは明らかに「女性は男性の所有物である」という男性中心社会の考え方を炙り出している。つまり、かぐや姫は「生きるために生まれてきたのに、位の高い男性に所有される高貴な『物』となるように育てられた」ことによって、月に帰らねばならなくなったのである。

 かぐや姫を(男性に献上される)「高貴な姫君」に育つよう仕向けたのは竹取の翁、つまり父親なのだが、ここに本作の重要なテーマがある。竹取の翁はかぐや姫を山小屋で育てている頃に、かぐや姫を見つけた時と同様の光る竹を再度見つける。その竹を切ると中から金が溢れだし、翁はこう確信する。

 「天が姫を高貴な姫君にするよう金を授けなさったのだ」

 天皇制が欧米の王室や中国の皇帝と違う点は「神(の子孫)である」ということである。世界には多くの王が存在したが、その多くは「神によって民を治める権利を授かった」という設定によって権力に正当性を与えていた。王権神授説である。しかし、日本の王たる天皇は、建国を行った神から代々続く神の子孫であるという設定によって権力に正当性を与えた。なので「天が私にこのような使命を与えたのだ」という翁の言葉は、西洋の騎士が「神が私にこのような使命を与えたのだ」という言葉とは意味が変わってくるのである。かぐや姫は原作通り五人の貴公子の求婚を断り、最終的に帝にまで求婚されるが、それは最初から決まっていたことなのである。かぐや姫は帝の意思によりモノとなることを最初から義務づけられ、そのために月に帰ることとなる。

 高畑勲が『竹取物語』を映画化すると聞いて、最初に考えたことは「帝をどのように扱うのだろう」ということだった。高畑勲という人は、権力者を嫌悪し、民衆の自由を主張し、子どもと鳥を愛した詩人ジャック・プレヴェールを敬愛していた。彼の翻訳を出版したり、彼が脚本を書いた名作アニメーション『王と鳥』をジブリから配給したりもした。そんな高畑勲が天皇が登場する物語をどう扱うのか。まぁ、やっぱりこうなったかというところである。

 それにしても、あまりに力みすぎである。まずもって物言いが直接的すぎる。「生」に対してもそうであるし、男性社会や権力の描き方には露骨な悪意を感じる。極めつけは「帝」である。突き出した顎に角張った肩、安直な性格に「私のものになることを喜ばない女はおらんのだ」といった台詞など、時代が時代なら不敬罪で逮捕されるであろう。別に作品のテーマはこれでいいのだ。クールじゃない。せっかくの作画の素晴らしさとアンバランスなのである。それに捨丸の存在も微妙である。原作にはいない登場人物だが「ジブリっぽさ」のために出して来た感じが拭えない。宮廷のしきたりや高級な調度品は馬鹿にしているが、捨丸の家の生業は民芸品の制作であるということも何かをほのめかす程度で書き込みが足りない。文明の高度化は人間の技術の先に現れるということについて、もう少し何かしらの解釈をしても良かったのではないか。高畑勳の意地は十分に観れた。しかし、それに作品が追いつかなかったか、意地が作品を追い越してしまっていることは否めないだろう。

 なんにせよ、本作最大の見所が作画であることは間違いない。特に冒頭30分ほどの「かぐや姫が山で暮らしていた頃」の映像は素晴らしい。つぼみが膨らむ瞬間など、手書きの柔らかなタッチで無ければ不可能であったであろう奇跡のような映像である。幼児のかぐや姫の仕草も凄まじいリアリティである。「他人」である赤ん坊が「可愛くて仕方の無い、何より大切な存在」になっていく親の目線がどんどん観てる者の中に入ってくる。冒頭30分の映像だけでも、この映画を観る価値は十二分にある。

 そして、このような自然の美しさを圧倒的な作画で描いているからこそ説得力を持ち得た、高畑勲の鋭い洞察を最後に一つ指摘しておきたい。本作の最大の狙いは恐らく「天皇という日本の古来からある権力構造を批判しながら、日本の古来からある美を讃えるというバランスを保つこと」である。先程も書いたように天皇制は諸外国と違い、神格と王権が同一である。そしてそれはキリスト教のような一神教とは正反対に、自然に対する信仰を主としたアニミズム的な価値観によって支えられている。なので、文明や権力や資本に毒されてはいけない、自然の偉大さを見よ、人間はこのように生きるべきである…というような価値観は天皇制においてはむしろ神格に対する驚異に取り込まれるのである。これは『竹取物語』どころか、万葉集など和歌の頃から美と創作のエンジンとなった構造である。最古の物語に土足で立ち入り「自然と神格」を引き裂いた『かぐや姫の物語』は、その意味において最初から伝統や文化の解体・転倒を目論んでいたのである。





【日記】ピックと右手

色んな種類の固めのピックを八枚購入。
ピックをこんな風に買うの五年ぶりぐらいじゃないか…?

ピックってギターを弾く上で非常に重要で、出る音も、弾く時の反動も全然違うわけで、僕はもう六年ぐらい同じピックを使ってたんですよ。フェルナンデス社のナイロン材で、固さがミディアムのティアドロップ型を。これ以外のピックだともうギターが変わるぐらい、もしかしたらそれ以上ってぐらいの違いがあって。例えるなら長年使ってるゴルフクラブが壊れたから別のを使ったら全然手応えも、スイングのフォームも、飛んでく方向も違うみたいな感じで。ギタリストにとってピックってそういうものだと思うんですけど。

だから、自分に合うピックを探して、高校生の間だけでも少なくとも50種類は試したんじゃないかな。そうやって見つけて何年も使ってる、もう人生の伴侶みたいなピックがですね、師匠から使用禁止の命令が下りまして笑

やー、いつかは来るだろうなと思ってた日が来ました。ピックも人もサヨナラばかりが人生ね、と笑
僕のピッキング・フォームは少し特殊で、入射角が逆なんですよ(弦を撥ね上げるように斜め上に弾く癖がある)
このフォームは端的に言えば間違っていて、先生曰く「スタジオ・ミュージシャンとか目指してるなら直させたんだけど、(高校生の頃の)萩野ちゃんはギタリストとしての個性を手に入れる側だったからさぁ。直すなら、今のタイミングやね」と。

癖というのは恐ろしいもんです。最初は気づかずにやってても「こういう音が出したい」って方向と一致して、半ばわざとそういう特殊な弾き方になっていくというところがあるんですね。僕のこの弾き方だと、音の立ち上がりが遅くなるんですよ。で、ナイロン製のピックって弾性が強いからさらに遅くなる。リズムにも粘りが出る、てことで、大学の頃には「こういう音が出したい」ってのに一致してて、自分からそういうスタイルにしたんですね。ただ演奏の効率性、正確性の部分で不利なのは明らかなわけで、一度このフォームとピックを捨てることになりました。

ギター歴10年にして、演奏スタイルの根幹の一つを変えるとあって、なかなか道のりの遠さに目眩がします。正直。

けど師匠は言いました。

「ギタリストにとって右手のフォームとピックの旅は終わらないでしょ。結局、そこから音が出るんだから。最大のエフェクターは右手だよ」

至言です。新しいピックと共に、次の旅に出てきます。

【チョコ】カフェ・タッセ「ノワール」

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三日ほど夏風邪でダウンしてました。今は治りかけの最終段階で、明日には全快の模様。夏風邪は本当に嫌。冬の風邪って、めちゃくちゃ汗かいて菌が死んで体温下がった時に「体の悪いもん全部だしましたー」的な気持ち良さがあるけど、夏風邪は治ったかどうかもわからないし、だるけが抜けない。

回復してきてチョコが食べたくなったけど、ヴィタメールやエクチュアを買いに行く訳にもいかないので、買いだめしといたカフェ・タッセを。初めてビター(ノワール)を食べてみる。

相変わらずのカカオの濃さ。甘さが抑えられてて、濃さ倍増。うーん、僕はミルクの方が好きだな笑
ただ「やっぱ上質なんだな、すげーな」と思うのは、安いビターチョコと比較すると「甘くないだけで、苦いわけではない」ってところ。苦みはあるんだけど、あくまでチョコとしての性質の苦みであって「渋み」ではない。透明感すら感じるわけですよ。

紅茶も「苦いのが苦手なので、ストレートはちょっと…」って人(実は僕もそうでした)が、しっかりした一級品を飲むと「あれ、飲めるな…」ということは結構あるんですよ。紅茶なんて本当にわかりやすくて、リプトンのイエローラベルとかの「渋み」と、まともな紅茶の「苦み」は全く別モノで。あれを思い出します。

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