2017年02月24日

豊国神社 豊国神社参拝(1日目)

CIMG3228瀧尾神社を後にして13:00頃、東福寺駅から京阪本線に乗り約3分で七条駅で下車、その後、歩いて約5分で旧方広寺大仏殿の跡に造られたといわれている豊国神社に到着でした。説明書きによれば、「豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。慶長3年(1598)に63歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ケ峯の中腹に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長9年(1604)8月の秀吉の7回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官弊社として復興された。また、明治31年(1898)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ケ峯の頂上に再建された。」とのこと。秀吉を祀る神社といいながらも、江戸、明治の時代の変遷とともに同神社の位置づけも変化し今日に至っている様子を理解することができました。とりあえずホウコクさんに丁重に参拝しました。  
Posted by uebaru at 06:30Comments(0)TrackBack(0)近畿 

瀧尾神社 拝殿天井の龍の彫り物を見る(1日目)

CIMG3217拝殿は通常、神社にお参りする場所としてあるのですが、この拝殿はまるで神楽殿のようでこちらで参拝をする人はいませんでした。皆、本殿でお詣りをしていました。その代り、拝殿ではその天井に長さ8mもあるりっぱな龍の彫り物を見ることができました。この龍の彫り物は江戸時代まで主神として祀られていた弁財天の使いとされ、江戸時代後期の彫刻家である九山新太郎により作られたものとのこと。迫力十分、生き生きとし、近づくのが怖い感じでした。常時無料でこの龍の彫り物を見ることができ感激でした。  
Posted by uebaru at 06:15Comments(0)TrackBack(0)近畿 

瀧尾神社 獅子像が猿像と一緒に活躍(1日目)

CIMG3223CIMG3224本殿ではそれぞれ左右一対の獅子像と猿像が一緒になって本殿を守っているように見える珍しい像を見ることができました。獅子像も猿像と一緒になって活躍でき嬉しそうでした。獅子像が厄除けとして使用されているのはよく見ることができるのですが、ここでは猿像が獅子像より上座にいるのを見て、猿像の活躍する神社もあることを知り、楽しくなってしまいました。  
Posted by uebaru at 06:00Comments(0)TrackBack(0)近畿 | 獅子

2017年02月23日

瀧尾神社 本殿欄間には獅子のレリーフが(1日目)

CIMG3222本殿欄間には獅子のレリーフを見ることができました。全般に木製ですが、目のところだけはビー玉のようなものが入っており、迫力のある目でこちらを睨みつけているようでした。木目がよく生かされ、また、ヒゲの渦巻きも素晴らしく綺麗に巻かれ目を奪われてしまいました。  
Posted by uebaru at 06:30Comments(0)TrackBack(0)近畿 | 獅子

瀧尾神社 瀧尾神社到着、本殿に参拝(1日目)

CIMG3215CIMG321912:30頃、食堂を出発し、東福寺駅前を通りこして少し行って、約10分、12:40頃、瀧尾神社(たきのおじんじゃ)に到着でした。この神社の創建や由来は不明とのことですが、平安末期の源平の争乱を記述した鎌倉時代の軍記物語「源平盛衰記」には、瀧尾神社の旧名「武鶏ノ社(後に多景の社)」が記され、平安時代には既に存在していたのではないかと考えられているとのこと。天正14年の豊臣秀吉の方広寺大仏殿建立に伴いこの地に遷座し、江戸時代の宝永年間(1704〜11)には幕府の命により改築され、「多景の社」から「瀧尾神社」と改名したとのこと。ご祭神は大国主命の別名である大己貴命(おおなむちのみこと)と、弁財天、毘沙門天の三神とのこと。このような由緒ある神社とは知らず、ただ、東福寺駅の近くに神社があると聞いてここに来たのでした。早速、本殿に参拝しました。写真左は瀧尾神社の鳥居から瀧尾神社を撮ったところ、写真右は瀧尾神社本殿です。

  
Posted by uebaru at 06:15Comments(0)TrackBack(0)近畿 

泉涌寺 食堂を見つけそこで昼食(1日目)

CIMG3209泉涌寺を12:10頃、後にして、徒歩で東福寺駅方面に向かいました。泉涌寺道から東大路通に出ると丁度、大衆的な食堂があり、時間も12:15ほどになっていたので、そこで昼食をとることにしました。すべてカウンター席の狭い食堂でいろいろな種類のおかずがカウンターテーブルの上段に置いてありました。その中から3種類のおかずを選ぶのですが、相方は筑前煮、茄子の炒め物、卵焼きを、私は焼きサバ、ひじき煮、コロッケの3品を選ぶとそれに味噌汁と御飯がでました。コロッケにはサラダまでついていて、結構豪華に見える昼食になりました。元気のいいおかみさんとお話ししながらバライティに富んだ昼食をおいしくいただきました。ご馳走様でした。  
Posted by uebaru at 06:00Comments(0)TrackBack(0)近畿 

2017年02月22日

泉涌寺 楊貴妃観音堂に参拝(1日目)

CIMG3182泉涌寺の出入口近くでは楊貴妃観音堂を見ることができました。説明書きによれば、「唐の玄宗皇帝の妃は楊太真は、楊貴妃の名で知られる絶世の美女であり、二人の愛情の深さは白楽天の「長恨歌」にたたえられている。しかし、その美貌のためにかえって、玄宗の失政と安禄山の乱を呼び、唐の至徳元年(758)、妃はその乱によって命を落とした。安禄山が討たれた後、皇帝玄宗は亡き妃の面影を偲ぶため、香木によってその等身坐像にかたどった聖観音像を造ったと伝えられる。建長7年(1255)に中国に渡った湛海(たんかい)は、その像を持ち帰り、泉涌寺に安置したという。以来百年ごとに開扉されてきた秘仏であったが、昭和31年(1956)から厨子の扉は参拝者のため開かれることになった。」とのこと。最初、「楊貴妃観音堂」と聞いたとき、何故、ここに楊貴妃の観音様があるのか、わかりませんでしたが、説明書きを見て納得でした。でも、なぜ、湛海はわざわざその聖観音像を日本の泉涌寺にまで持ち帰り安置したのかわかりませんでした。また、どこまでが本当の話しかと思ってしまいました。それでも、絶世の美女にあやかり、参拝させていただきました。  
Posted by uebaru at 06:30Comments(0)TrackBack(0)近畿 

泉涌寺 勅使門を見る(1日目)

CIMG3195舎利殿の裏側に行くと勅使門という門を見ることができました。説明書きによれば、「この門は皇族方や天皇の勅使が寺を訪れた時に開けられる勅使門である。大型の柱を使った四脚門。軒は全て菊の御紋の瓦で飾られ、蟇股(かえるまた)その他には牡丹の彫刻があり、唐戸の上と門の四脚の左右には軸木に木葉紋(このはもん)を付けた細やかな透かし彫りがあり、屋根の破風には雲文懸魚(げぎょ)を付け、皇室の菩提所としての風格のある優美な門である。」とのこと。皇族方や天皇の勅使しか通れないと思っていた門が、我々平民も通れるようになっており、門をくぐると無料休憩所もありました。門は通らせていただきましたが、休憩所で休むことなく戻りました。長苦悶の入口にあった菊の御紋の提灯と屋根の上の鬼瓦が印象的でした。  
Posted by uebaru at 06:15Comments(0)TrackBack(0)近畿 

泉涌寺 霊明殿を見る(1日目)

CIMG3191舎利殿から少し奥に入ったところに霊明殿がありました。霊明殿には天智天皇から昭和天皇までの歴代天皇、皇后、宮様方のご位牌が安置されている皇室の位牌堂とのこと。明治15年(1882)に霊明殿が焼失しましたが、明治17年(1884)に明治天皇により再建されたとのこと。天皇をはじめ皇族の方が泉涌寺に来れれたおりには必ずこの霊明殿にお参りされるとのこと。私は平民ですので遠くから見るだけにとどめました。(それでなくても中には入れませんが・・・)  
Posted by uebaru at 06:00Comments(0)TrackBack(0)近畿 

2017年02月21日

泉涌寺 舎利殿を見る(1日目)

CIMG3187仏殿の裏には舎利殿を見ることができました。説明書きによれば、「舎利殿は釈迦様の遺骨である「仏舎利」を納める貴重な霊殿で、内裏の御殿を移築し、上層部を付け足したことにより重層に変えたものである。泉涌寺の仏舎利は、月輪大師の弟子湛海宗師(たんかいすうす)が安貞2年(1228)宋より請来した三国伝来の佛牙舎利(ぶつげしゃり)と呼ばれ、印度・兜卒天(とそつてん)・中国に伝わった不可思議な舎利で、釈迦の歯にあたり、説法をされる口に有ることから特に尊い舎利だと言われている。牙舎利は舎利塔という建物の形になった容器に納められ、左右には月蓋長者(がつがいちょうじゃ)と韋駄天の像を従え安置されている。舎利殿の天井には、狩野山雪により勇猛な鳴き竜(赤竜)が描かれ、肢体を大きくくねらせながら飛翔する姿、逆立つうろこは悪魔退散の激しい怒りを表現しており、日光の薬師堂と共に東西の鳴き竜として有名である。堂内に立って手をたたくと竜が鳴いているように聞こえるという。」とのこと。6世紀に仏教が日本に伝来して以来、仏教は広く日本人の生活の一部として伝わってきました。その際、お釈迦様の遺骨である「仏舎利」を納めるお堂も日本中に存在しています。どこまで本当かはわかりませんが、泉涌寺の舎利殿にはお釈迦様の歯が納められているとのこと。「仏舎利」がそんなに沢山、存在することに疑問を持っていますが、こころの支えとして舎利殿も存在しているのだと思いました。  
Posted by uebaru at 06:30Comments(0)TrackBack(0)近畿