2006年07月21日

蜘蛛の巣城 2

 さて、ライブも近付いて来たが、どーしようかな〜、一度観てみようかな〜という方のために更にもう一押ししておこう。『7/28京都拾得 7/30銕仙会能楽研修所』だ。『8/18rising sun rock festival 2006 in ezo』というのもあるぞ。
 長〜いようで短い人生、一度ぐらい上田現を観ておいても損は無いぞ〜って俺は誰に話してるんだろう?まあいい話しを先に進めよう。


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 蜘蛛の巣城2

 化け物屋敷を観ながらお酒が飲める店を開店して数カ月が経っていた。リピーターになったお客さまもかなりいたので中々の繁盛店でもあった。

増井 「マスター、今日は又一段とゴミが積まれてるねえ」
 「誰がマスターやねん!」
増井 「それにしても何であんな大量の自転車を横に積むかね?何処から持って来るのかね?」
 「知るか!俺に聞くな。」
増井 「今度 又想像も付かない物積み始めたら呼んでね。」
 「お前を摘んでやる!」

 そんな会話が夜毎行われた。
 
 その日も遅くまでお客さまと飲んで別れた後、なかなか寝つけなく近くのコンビニでも行こうかと思い外に出た。そして僕はある事を目撃する事になる。
 
 それまで、隣の住人は単なる「変なおっちゃん」とか「変なおばちゃん」であると思っていた。
 でも、どうも僕が知る愛すべき「変なおっちゃん、おばちゃん」とは類いが違うと認識せざるを得ない厳しい現実にぶちあたった。

  愛すべき変なおっちゃん、、。そういえば最近、いわゆる変なおっちゃんやおばちゃんにあまり出会わなくなって久しい。もちろん探せばいまでも新宿のタイガーマスクさんや広島の有名なおっさんのような人はいるのだろうけど、圧倒的に数は減ったように思われる。

 子供の頃はどの町にも均一に派遣されたかの様にその変なおっちゃんやおばちゃんの一人や二人はいて、子供達の格好の興味の対象となっていた。
 いつもリアカーを引いてウロウロしているのだけど、そこにはヤカンと何故か緑の虫カゴしかのってなくて、近付くと「ポン菓子やろか?」と話し掛けてくる。が実際には何もくれない「やかんじじい」。
 一日中植木用の小さなスコップで町中のアスファルトの道路をカンカン叩いてうるさい「スコップばばあ」とかは何時の間にかこの国から消えてしまった。ちなみにこのばあさんは町中の植木に勝手に水をやって廻るじょうろババアでもあった。

 子供にとっても別にいても居なくても良かったりする彼等はそれでも僕ら子供達と何らかのコミュニケーションをとる傾向にあった。夕暮れ時に公園に表れたりする彼等は他の大人と違い、僕らのちょっとした残酷なからかいにも反応したり怒ったりしてくれる。だから何だかんだと言いながら僕らは何処か彼等に親愛の情のようなものを感じたりもしていた。もちろん子供特有の残酷な眼差しのその奥にある気持ちだが、、。
 
 現在で言うと彼等は単なる社会的弱者になってしまうのだろうか。同情すべき気の毒な人であり、且つ社会的負担とされる人たちなのであろうか。
 いまや当たり前の様に勝ち組負け組と言う言葉が使われる。でも本来社会はそうやって二分割されるようなシンプルなものではない。
 個人的な魅力はいまさら僕が言うまでも無く、人柄、頭脳、環境、教養、体力、身分、経済力、社会的地位、etc そう、ありとあらゆる物が絡み合って、存在する。いつの時代もそう簡単に勝ったり負けたりできる物では無い。

 話しは少しそれるが 例えば封建主義の中で価値観が一見ガチガチに固められていた様な江戸時代でさえ、それは決して一方方向に流れていない事が近松の作品一つ、八百屋お七の伝説を一つとっても、よくわかる。
 身分を越えて愛に生きようとする遊女お初に、たとえ町中を焼いても好きな人に逢いたいと願うお七に江戸時代の人間は共感している。
 現代ならお七はもうほとんどテロリスト扱いされバカコギャルとして犯罪史に刻まれるはずだ。
 つまりこの時代は社会システムと民意の間に明らかなギャップが存在している。それは多分互いに持っている情報も経験も皆それぞれ違うからだ。忠臣蔵を見ても分かるように、社会的規範と一般論にズレがあり答えが一つでは無い社会が垣間見える。
 
 もう一度言うと現代こそが画一化の時代なのかも知れないぞ〜と言う話しだ。
 現代は価値観の多様化と言うお題目を全員が妄信した、単一化の時代と言い換える事が出来る。

 全員が膨大な同じ情報源から好きずきに必要な物を選択しているに過ぎない。情報がON LINEである以上、いくら引き蘢ってみても結局皆が同じ物を見ているのだ。
 同じ情報を全員で共有する事、逆に言えば自分だけの体験が無いと言う事が、価値観の単一化を引き起こしている、と言っているのだ。
 
 同じく議論に行き詰まった人が必ず口にする「グローバール」という言葉の先にある世界も単一化だと僕は思ってる。
 だって本当は今更そんなもの作らなくても、世界基準なんか実は何千年の昔からちゃんとあって、しかも何千年も変わっていない。
「物を盗むな!」「親を殴るな!」「子供を虐待するな!」「人殺すな!」「人食うな!」「男と男はダメダメよ!」「ちゃんと勉強しないとミュージシャンになるぞ!」etc、、、。
 ねっ、いくらでもある。ただ何年経っても守れないだけなのよ。

 だからそういった側面から考えたら昨今のグローバル化はそれ程目出たい話しでは無さそうだ。だって単に何にでもボーダーラインをはっきりさせてそれに沿うか沿わないかを選別する基準作りに過ぎないからだ。

 僕の子供の頃は別にパッチ履いたおっさんが駅前のベンチでビール片手に将棋しててもいいじゃないかと言う空気があった。もちろん、そんなおっさん、誰だってまったく嬉しくは無い!!!!僕だって嫌だ!でも、別にそのぐらいほっといてやれよといった空気だ、、。多分グローバル君はこれを許さない。
  
 結論から言うと前出の「やかんじじい」も「スコップばばあ」も我々が意識的に消したのだと言う事だ。
 存在しても良いものといけないものを明確にしたのだ。

 誤解されない為にいっておくと、もちろん勝ち負けを明確にする事が絶対に必要な場合も多々ある。
 「スポーツニュースの時間です。今日のプロ野球 タイガースvsカープは4か5ぐらい対3か4ぐらいで多分タイガースが勝ったような気がしますが、それは人それぞれの印象で変わるでしょう。」では非常に困る。
 
 そう同じルールで競う場合僕は勝ち負けは明確に在ってよいと思っている。
 学期末テストも運動会の徒競走もはっきり順位をつけるべきだと僕は昔から思っている。
 「上田君は勉強も体育もいまいちだが、見た目もいまいちで、、、ええと、、」例えが悪かった、、。
 「クラスメートのランディーバース君は勉強はいまいちだけど野球をやらせたら凄いんだよ!!」

 こういった本来あたりまえの線引きでよいではないか。ランディーバース君が勝ったか負けたかを論じる事に意味は無いだろう。

 昔モンティパイソンというイギリスのコメディーにこんなシーンがあった。
 いつも牧場の柵に腰を掛けてボーとしているある道化者がいる。村中の人々は彼を目にする度にバカにして罵っては通り過ぎて行く。
 村びと達が罵声を浴びせて通り過ぎたのを確認した道化者は一仕事終えた顔をして隠していた哲学書を読みはじめるといった内容だった。どう解釈するかは自由だが、示唆に富んだ話しだ。

 僕は隣の住人はそんな素敵な道化者であると一方的に信じたかったのだ。
 長いまえふりだったが、悠長な僕の思いは一瞬にして凍り付いてしまうのである。

                            いよいよ次号蜘蛛の巣城開城だ!


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この記事へのコメント
お〜ぅ、前フリで終了してるぅ!
しかし、十分笑えました≧(´▽`)≦
現ちゃんマスターの居酒屋
あったら行ってみたいなぁ。。。
Posted by ちも at 2006年07月21日 22:17
もしその道化者が隠し持っているだけだとしたら、彼は頭でしか理解していない人かもしれない。
Posted by エニグマ at 2006年07月24日 08:37