上田先生のブログ~トピックス

学校であって学校でない不思議な場所「上田学園」の公式ブログです。

自分の人生に、責任を!!(上田)

94日の新聞記事によると、最高裁が婚外子の相続分を法律婚の子供の
半分とする民法の規定は、違憲という決定を下した。それを受けて、
嫡出子側は「納得できない」と言い、法律婚の子供と同等の扱いを受け
られなかったことで「自分の命の重みが半分と言われた気がした」との
思いを抱き続け、今回の訴えをおこしていた婚外子の女性が最高裁の
決定に「涙が出るような気持ちだった」とコメントをしていた。また、
この最高裁の決定を受けて、ある大学の家族社会学の教授が「親の因果が
子に報うという言葉に象徴されるように・・・」と、日本社会は親に
よって子どもが差別されて当然という考えの方が根強かったが、今回の
最高裁の決定は
「社会の潜在的差別意識に一石を投じたものと言える」
とコメント。

 

「最高裁決定の要旨」の中に、諸外国では60年代後半以降婚外子と嫡出子の
差別が撤回され、現在日本以外で差別を設けている国は欧米諸国にはなく、
国連も本件規定を問題にして、懸念の表明や法律改正の勧告などを繰り
返してきた、と。

 

意地悪なようだが、この記事を読みながら気になったことや不安になった
ことがいくつかあった。それは、もし遺産相続ではなく負債相続だったら
「婚外子の私にも親の残した責任を果たさせて下さい」と最高裁に訴えた
のだろうか。
また、差別がなくなることは大切だが、差別をなくすことが
出来るのだろうか。差別の反対は平等だと考えているが、何の責任も
果たさないで「平等だから」と権利ばかりを主張して平然としている人達を
見ると、平等の定理はなんだろうかと不安になる。

 

また、「欧米諸国にはない」とか「国連から問題視されている」とかの
文字を目にすると、「赤信号、皆で渡れば恐くない」という言葉を思い
出して、なんだか無責任な感じがしてしまう。

 

昨今は特に「若者を国際人に育てよう」ということが連呼さ続けている最中で
あり、憲法第
9条の問題や対シリアの問題とも重なり、日本は法治国家であり、
独立した国なのだから他国を参考にするのはいいが、「他国は・・だから・・」
という理由で何でも決定して欲しくないと思う。

 

日本は日本国民のもの。その日本国民を守るために日本国憲法があり、
その憲法にのっとって判断した結果「違憲」と明確に言い切ってくれた方が、
決定が素直に心に入ってくるように思う。国際社会においても同じだ。

 

混とんとする国際情勢の中で日本の考えを貫き、日本を守ることが出来る
たった一つの方法は、自分たちの主張の明確な根拠と「日本は日本人のもの」
という断固たる考え方だと信じている。そして改めて上田学園のことを
考えてみた。

 

上田学園はフリースクール。学校法人でも資格をとる学校でもない。
「フリースクール出身になると社会で差別されるから」とか「毎日学校に
行けるようになったのだから普通の大学へ」と、親たち。その結果、解決
されていない問題の芽が事あるごとに顔を出し、時間だけが過ぎて行く。
その中で行き場のない子供たちが悶々としながら時間をやり過ごす。それを
親たちも悶々としながら眺めている「不利になるので、絶対フリースクール
には入れたくない」と言いながら。そんな彼らを見るたびに私は学園生に言う
「社会が認めてくれなかったら、認めたくなる人間になればいいだけのこと。
問題は『単純!!』」と。

 

子供は親を選ぶことが出来ない。しかし、親の人生の上に子供の人生が積み
あがって行く。それが生きるということ。だからこそ、どんなに辛くても
自分の人生に責任を持たなければならないし、持てる人間にならなければ
いけない。「人生は自分だけのものではない」ということをしっかり自覚
しながら。

 

親だろうが子供だろうが大人だろうが、年が一つでも上ということは、
生きる先輩である。先輩という立場にいる以上は、後輩に責任がある。
後輩のお手本になる生き方をしなければいけない。でも、先輩といえども
神様ではない。常に正しいわけでもない。真摯に一生懸命生きていても
間違えることは、ある。欲望に負けることも、ある。そんな先輩達を後輩が
単に非難をしてはいけない。非難は単なる難癖。難癖からは何も生まれない。
しかし批判は、どんなに拙い批判でも自分なりの判断基準があって批判を
するのだから、話し合いも出来るし問題解決にもつながる。

 

批判は大いに結構。子供の反抗期を大歓迎するのはそのためだ。但し、批判を
した以上は自分が同じことをしては、いけない。同じようになっても、いけない。
それは体験から何も学んでいないということであり、批判をした相手に一番
失礼な行為だからだ。

 

平等とは不平等のことだ。背の低い人は前。背の高い人は後ろと言われて席が
決まっても、目が悪い人は背が高くても前に座らないと見えない。それを皆で
容認することで、不平等を平等に変えている。それが単なる人としてではなく
人間として生きる知恵だと思う。

 

差別のない社会は、どこを見ても見当たらない。むしろ「ない!!」と思って
丁度いい。

 

理想は理想で、差別のない平等社会を目指すことは大切なことだ。しかし、
人間は弱い者。自分のコンプレックスを解消するのに往々にして自分より
下だと思える人を見つけてホッとしている。だから、どんなに不平等に
扱われても、どんなに差別をされても自分の頭で考え、それを乗り越えて
いける知恵と逞しさを持つことが重要になる。

 

不平等や不幸は、考え方によっては自分を成長させてくれる材料になる。
その材料を有効活用するために、マイナス+マイナス=マイナスだが、
マイナス×マイナス=プラスになることを思い出して、実践して欲しい。
実践出来る知恵と勇気を持って欲しい。同時に、不平等と思える扱いを
受けている人に対しては、自分が「して欲しい」と思えるようにふるまう
ことが、人としての思いやりであり、役割だと思う。

 

在英40年近い学園の先生が常に話して下さるように、国際人とは、
Because」が言える人間のことだ。国を跨いで活躍するとき、自分が
何者で何を考えているかが明確に言える人間でなければ話し合いが出来ない。
それも“
Because”をつけて。まちがっても、英語が出来ることが「国際人だ」
などと、勘違いをしてはいけない。

 

日本語で自分の考えも意見も言えない人間に、習慣も価値観も表現も違う国の
人に、自分の考えを理解してもらうことは、不可能。

 

「隣の人が『良い』と言ったから自分もしました」とか「『やれ!!』と言われた
からやりました」等という意見を言ったら、笑われることはあっても、世界では
通用しない。残念なことに他の人を傷つけてはいけないと言葉を選びに選んで
曖昧な言葉や遠まわしに自分の意見を言ったり、他の顔色ばかりを窺って自分の
意見を明確に表明できない日本の政治家が、世界で認められないことでも分かる
ように。

 

生きていくことは、大変なことだ。右の立場になるか左の立場になるかで、同じ
問題を話し合っていても結果は違ってくる。加害者にも被害者にも簡単になるし、
簡単に被害者意識を持たされることも多々ある。それが生きるということだ。

 

価値観の違う色々な人達の中で、自分の生きたいように生きていくことは
不可能に近い。だからこそ、どんな国でも、どんな社会でも、どんな環境の中でも、
責任を持って自分らしく生きられるようマイナスをプラスに変えることのできる
基本的な考え方を、今まで以上にしっかり学園生には学ばせていきたいし、理解
させていきたいと思った。

独り立ちを応援する「引き算の教育」-3

高校1年生の11月、色々なことに疑問を持っていた彼女は通っていた私立の学校を中退。次の日に学園入学。すでに2年間、問題を見つけ、調べ、考え、発表などをする授業の他に、タイの大学へ日本語を教えに行ったり、ベトナムへ行ったり、添乗員アシスタントとして先生と一緒に商社の買い付け担当者の方々をヨーロッパの展示会にご案内したりという経験があります。

 

また、当たり前に問題を分析し、しっかり自分の頭で考え、まとめ、そして発話することが、日本語で出来ます。また、どんなに困難でも最後まで何とかコミュニケーションをとろうという姿勢が出来ていますので、英語力不足の心配はしておりません。なにしろコミュニケーション能力とは語学力だけではないとの思いからです。

 

伝えたいと思うこともなく、伝えたいと思う意思もなければ、いくら英語が出来てもコミュニケーションはとれません。日本人同士、日本語で話していても「宇宙からの交信不可能!!」と言いたくなるように、意味も通じないし、理解もできない日本語を話す日本人はたくさんいることでもお分かりだと思いますが。

 

 

明確に「伝えたい!」と思うことがあり、伝えたいと思う意思があれば、その伝え方として語学・絵・ジェスチャー・表情・メモなど等、どれを使って伝えてもいいのです。言いたいことが相手に伝わり、相手の言いたいことが何とか理解できれば、それがコミュニケーションの始まりですから。そのためにも、伝えたいと思う最低の材料が自分で作れ、また話し手の話が素直に理解できるそんな人間に育てることが、学校教育だと考えております。

 

 

「必要」と気づいたときに何時でも座学は始められますが、体験から学べる実学はなかなか出来ません。だからこそ学園では実学の出来るチャンスは絶対逃さないように気を付けております。

 

主役は生徒です。教師は主役のアシスタント。アシスタントは旗を立てて主役の前を歩かない。即ち、なるべく手をださない引き算の教育で、学生自身が気づけるように誘導する。それがアシスタントである教師の役目であり、それが出来る授業をするのが、教師の使命だと考えています。

 

今回の大学のサマーコース受講も、その授業の一環です。そこで起こる色々な出来事は始めから終わりまで総て学びです。勿論、学生だけで行かせるリスクは計算してありますし、安全対策はとってありますが、それも含めて学びです。

 

年齢が17歳のため、受講できる科目はあまりないのですが、受講する科目から、大学への手続き、ホームステイ先への送金。ヒースロー空港からホームステイ先への行き方等など、総て一人でやらせました。そして先週の金曜日、「楽しんで来ます!!」と嬉しそうに出かけて行きました。

 

授業の合間に、辞書を引き引き書類に必要事項を書き込んだり、送金しに郵便局に飛んで行くそんな彼女の様子を遠くから見守りながら、私から彼女にアドバイスや注意したことは、ホームステイ先では自分の家にいるつもりで、掃除でも何でもお手伝いさせて頂くこと。時間があれば、ミュージカルを見てくること。夏だけ開いているような、ちょっと田舎の農家でアフタヌーンティーを飲んでくること。そして、日記をつけ、帰国後、来年チャレンジする予定の学生に説明してあげることの4つと、朝の6時半、「パスポート!」、「書類!」、「お金!」と点検させて、彼女が乗った成田空港行きのバスをバス停で見送ったことだけです。

 

彼女にとってイギリスは初めての国です。受講する学生のほとんどがヨーロッパ人というサマーコースで、彼女はたった2週間とはいえアタフタすることも多いと思います。しかし、自分の頭でしっかり考え行動する彼女のことです。短いとはいえ、この2週間が将来の進路に大きな影響を与えることでしょう。

 

そんな彼女が元気に帰国するのを楽しみ半分、ドキドキ半分しながら、親からも学園からも早く独立していけるよう今日も引き算の教育を心がけながら、学生達を応援しています

 

独り立ちを応援する「引き算の教育」-2

最近は若年留学生が大流行した十数年前とは違い、若年留学生どころか、大学生でも留学したがらないようです。その理由が「外国にまで行って苦労はしたくない」ということだそうです。

 

しかし、学問をさせる大学というより就職予備校化している大学としては、学生を無事に就職させたい。そのためには、企業が希望する「英語の出来る学生。」「グローバルに仕事が出来る学生」に育てようと苦労しているようです。それも、外国まで行って苦労したくない学生のために、学生に負担のかからないように便宜を図りながら。

 

ある大学で新しい海外留学プロジェクトが始まると新聞記事で読みました。その大学では、留学前に英語能力テストの一定基準点を満たし、留学している間に留年しないように留学先の大学で当たり前ですが、英語で授業を受け、単位を認定してもらい留年を回避させていたそうです。しかし、それだと学生にとってあまりにもハードルが高いのでそれをやめて、まずは海外に出て語学力やグローバルな視点の必要性を体感させるために留学させることにし、旅費とホームステイ代だけ学生に負担させ、授業料は大学側が負担。また、留年を避けるために学生と一緒に教員を滞在させ、学生は英会話や英語のプレゼンテーションを現地の先生から学びながら専門科目は同行した教員が、日本語で教えるというプロジェクトにしたそうです。期間は4ヵ月半。

 

たったの4ヵ月半の短期留学で、そこまで手厚い保護をするのは何故なのでしょうか。そこまでして海外に行かせる意味があるのでしょうか。大学が考える国際人とはどんな人を指すのかは分かりませんが、学生全員が国際人になる必要があるのでしょうか。よく分かりませんが、きっとあるとお考えなのでしょう。

 

確かに、海外に出て語学力やグローバルな視点の必要性を体感させるのは間違っていないと思います。但し、語学は別にしてグローバルな視点(?)とはどういう視点でしょうか。またグローバルな視点でものをみる方法を知らない学生にとって、それが4ヵ月半で体験できるのでしょうか。あらゆることがお膳立てされ、外国という借景の中で日本をしてくるとしか思えないプログラムの中で。

 

日本人の学生だろうが、留学生だろうが年齢を重ねれば重ねるほど重くなる責任という名前の義務。苦労等は普通の出来事になるこの人間社会で、何事からも逃げずにどう自分らしく生きていくかが学べるせっかくのチャンスを、大人の理屈で潰しているとしか思えないことが多いと感じるのは、私だけでしょうか。

上田学園も来年から夏休みの宿題として、必要だと思える学生達をイギリスの大学のサマーコースに入れることを考えております。それは、日本の学校教育と海外の学校教育の求めるものの違いと、その違いを構成している社会はどんな社会なのかを授業を通して実体験することで、自分の立ち位置をどう確保していくかを考えて欲しいと考えたからです。そして、日本の考え方の物差しにプラスして、色々な国の長さの違う物差しを出来るだけ体験しながらたくさん持つことで「それもいいけれど、私はこういう理由で同意しない」と、誰に対してもしっかり自分の意見が言える人間になって欲しいと願ってのことです。その最初の試みとして17歳の学生が9日から2週間渡英しました。



つづく 

 

独り立ちを応援する「引き算の教育」-1(上田)


昨今、政治家、経済界、そして教育者の中でよく議論されているテーマがあります。
それは、これからの日本を支える若者には国際人になって欲しい。そのために
小学校から英語の授業を取り入れ、英語教育を充実させる。英語で会議をする
企業も増えたので、大学でも海外留学を推進する。また、海外からの留学生を
増やすと。


国際人を育てるために色々な機関が色々な努力をしているようです。しかし、
実際はどうなのでしょうか。


日本政府は海外からの留学生を増やすために、留学しやすいようにと色々な
支援をしておりますが、現実的には問題のある留学生が多いと聞いております。
その大きな原因の一つは、奨学金の額だけで留学先として日本を選ぶ留学生が
結構多いからだそうです。


一人の留学生が日本政府から支給される奨学金は、授業料だけではなく、渡航費、
生活費なども支給され
4年間で総額1000万円以上になるそうです。留学生の中には、
生活費をアルバイトで賄い、支給された奨学金は全部、本国に送金している学生も
いると聞いております。


多くの国が、留学生に対し自国の学生より高い授業料を設定しているのに対し、
日本では留学生の授業料は日本人の学生の授業料よりも安く、国立は無料とか。
また、日本人学生の授業料との差額は政府が補てんするので、大学側としては
留学生が増えることはとてもありがたいことなのだそうです。


留学生は最低4年間、何とか日本にいようとします。それにはビザ取得が不可欠です。ビザなしでは日本滞在が出来ないので授業への出欠は別にしても、在籍だけは
4年間しっかりします。しかし昨今の日本人学生は、
7人に1人の割合で大学を中退してしまうようです。これは学校にとって大きな問題です。だからこそ、少々問題があっても確実に4年間在籍し、授業料を払ってくれる留学生は大切なお客様なのです。


どんな留学生であれ、たくさん在籍してくれてさえいれば「我が校は留学生も多く、
キャンパス内で国際交流が出来、未来の国際人が自然に育ちます」みたいな、
日本人学生やその父兄に向けて学校のアピールにもなるのです。


海外から招喚される語学教師にも、同じような問題があると聞きます。


確かに彼らは英語を母国語としている先生です。でも優秀な先生は、海外にまで
来なくても自国でいい仕事についているので、「日本にまで行って」等と考えて
応募してくる先生に、日本が望むような先生を探すのは難しいようです。


それでも日本政府は、渡航費、生活費、住宅手当など等、破格にいい条件で
招喚するそうで、その選考現場に立ち会ったロンドン在住の先生が「そのお金を、
日本人の現役英語教師の再教育費に充て、イギリスで英語教師として特訓されたら
「大きな成果があがるのに!!」と、とても残念がっておりました。


ところで、日本政府が国際化を連呼するのは何のためでしょうか。また、日本を
国際化するために国際人をたくさん育成したいと考えていますが、そもそも
国際人とはどんな人をいうのでしょうか。英語を話す人達のことでしょうか。


イギリスやアメリカ等の英語圏に仕事で数年間住んでおりましたが、その間に
出会った英語圏の人達は、結構「大字○○村の権平さん」みたいな人の方が多く、
けして“国際人” とは思えませんでしたが。


新聞記事によると、政府が日本の国際化を推進する大きな理由は、日本を好きに
なってもらう。即ち、親日家を増やすことのようで、親日家が増えれば国際外交が
スムースになり、政治的にも経済的にも有利になると考えているようです。しかし、
13年近くの海外生活や40年近く外国人に日本語を教えている経験から考えますと、
外国人はそんなに単純ではないと思いますし、もっと合理的だと思うのですが。


本当に日本を好きになってもらい、親日家を増やしたいと考えているのなら、まず
英語が出来るか出来ないかの問題ではなく、日本が日本人にとって魅力的で誇りが
持てる国になることではないでしょうか。そのためにも、中途半場に英語教育をして、中途半端な国際人をつくることよりも大切にすることは、日本人がもっと日本に目を向け、日本を知り、日本を客観視できるそんな日本人を育てることではないでしょうか。


また「就職予備校化した大学」をやめ、研究者としてだけではなく、興味のある面白い授業をする教育者としても優秀な教授達と、そんな教授達を囲んで嬉々として議論を重ねることが出来る学生達。そんな環境が普通に存在する大学になれば、別にお金をばらまかなくても、秋学期入学にしなくても、英語が話せなくても、「日本の大学で学びたい!」と日本語を一生懸命勉強し、アメリカのハーバード大学やイギリスのケンブリッジ大学、オックスフォード大学等のように、世界中から留学生が集まってくると思います。



つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今の自分を認めることが、第一歩!!

 

日曜日早朝、自宅のインターフォンがなった。引きこもり4年目に
なる27歳の息子さんとお母様のお二人。近所の方のご紹介だとかで、
学園ではなく自宅にいらしてくださったのだ。

 

既婚者の兄と結婚が決まっている弟の間で、あと数年で30歳に
なることや父親が定年になることで、焦り出したのだと言う。
「一番焦っていることは、何ですか?」という問いに、彼は
「分かりません」と言う。なんだか分からないけれど、総てに
焦っているし、それをどう解決していいか分らないと言うのです。
だから家に閉じこもって考えていると言うのです。

 

3人兄弟の真ん中で、勉強はソコソコ出来たが、優秀な兄弟の間で
小さいときからテストの結果から始まって、色々なことで祖母と
父親に叱責されることが多かったそうです。そのうえ、対人関係が
うまく作れず、学校でも一人でいることが多かったそうです。

 

友達がいないのは淋しいので一生懸命努力したこともあるそうですが、
友達を作ろうとすると気疲れして、かえって友達が出来なくなったと
いうのです。それからはなるべく何も考えないように、何も感じない
ようにしてきたそうです。

 

小さいときの思い出を聞くと、家族と一緒にいても常に疎外感が
あったこと。いつも叱責されていたこと。叱責されると頭が真っ白に
なったこと。そんな自分が大嫌いだったこと。中高一貫校だったので、
新しい自分にリセットしたくても、皆が自分の昔を知っているので、
出来なかったこと。

 

大学へ入ったときは、「これで新しい自分になれる」と心からホッと
したこと。しかしコミュニケーションがうまく取れず、学校は何とか
卒業したものの、ほとんど授業には出ていなかったこと。大学には全く
思い出がないこと。

 

授業を「面白い!」と思ったことがなかったこと。他の学生と同じ
ように就職活動はしたけれど、自分に合う会社が探せなかったので就職
しなかったこと。祖母は相変わらず小言を言うが、父親は全く自分に
興味を示さなくなったこと。でも、そんな今の状態が自分にとって
一番合っていて「楽です」と、話してくれました。

 

彼の話を聴いていて思いました。他と接しているからこそ、他を通して
自分の問題を客観視できるのに、他を遮断して家に閉じこもって考えて
いるだけでは、解決出来るものも解決できないと。

 

問題の原因を知ることより、考えているつもり。解決しようと努力して
いるつもり。原因を探っているつもり。「~のつもり」になって時間が
過ぎるのを待っているほうが、本人には楽なのでしょうが、それは今だけ。
単に問題の先送りをしているだけ。問題の先送りをすればするほど
世間の風が冷たくなることを、誰かが気づかせてあげなければと。

 

現実の社会でしか生きられない私たちだからこそ、現実の社会と上手に
折り合いをつけてさっさと前進したほうが、「~のつもり」をしている
より、よほど楽しく生きられると思うのですが。

 

問題を解決する第一歩は、今の自分を認めることでしょう。今起こって
いることを全部認めることからスタートして、はじめて問題の解決まで
こぎつけられるのに、「でも」とか「親は」とか「兄弟は」とか、問題を
他人の所為にしているだけでは無駄な時間だけが過ぎていき、何の解決
にも繋がらないと思うのですが

 

4年間自分の中に閉じこもっていたのです。出てくるのは大変なことで
しょう。でも、良いところも嫌なところも過去は全部自分のものなのです。
誰のものでもないのです。だからこそ、しっかりそれを受け止めることで
今しなければいけないことが見えてくるのだと思います。それが出来て
始めて、将来の目標が見えてくるのだと思うのです。

 

 

上田学園では最近「分かりません」と「おまかせします」が禁句になり
ました。勿論、分からないことは「分かりません」と言っていいのですが、
何も考えず即決で「分かりません」は禁句なのです。それと同じように、
自分で考えずに安易に「お任せします」は禁句なのです。きちんと考え、
「こういう理由でお任せします」は大いに賛成なのです。「分かりません」
「お任せします」とその場だけの返事をしても、責任のない返事からは
何も生まれず、次のステップに進むこともできないからです。

 

学園は3年制です。3年間という決められた時間の中で、考え方を学び、
実行し、反省し、また挑戦する。それが次のステップに自然につながり
卒業して行くのです。

 

過ぎていく時間の早さにはいつも驚かされています。そのうえ、
昨日起きたことが今日起きても、昨日とは違い、昨日は過去なのです。
過去に今日を積み上げて毎日が過ぎていきます。何もしない過去には未来を
積み上げていくことは不可能です。だからこそ、問題解決の一番の近道は、
どんなに辛くても今の自分を認め、現実を直視し、それから逃げず
その次の手を考えて行動することでしょう。

 

頭と体の“筋トレ不足”が、問題解決まで辿り着けない理由なのではと思える
ほど、世事に疎く、自分の問題を他人事のように話す引きこもり4年目の彼。

 

そんな彼の話に耳を傾けながら、親になるって「どういうことなのだろうか?」。
子供を愛するって「どういうことなのだろうか?」。自分の人生を作るって
「どういうことなのだろうか?」。夢を持つって「どういうことなのだろうか?」。
人も含め、生き物には生きられるリミットがあることに彼は気付いているの
だろうか。「自分が納得するときまで動きたくないんです。このままで
いいんです」と、問題の先送りを公言してやまない彼と、そんな彼に小さく
相槌を打つお母様を見ながら、改めて色々考えさせられた日曜日の朝でした。

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