住みたい街No.1に毎年のように選ばれてきた学園のある街ここ吉祥寺で、
先週とても悲しい出来事が起きました。
「相手は誰でもよかった。金が欲しかった」と、17歳と18歳の二人の少年の
身勝手な欲望のために犠牲になった若い娘さんのことを考えると、心が痛く
なります。悲しくなります。日本の未来は大丈夫だろうかと不安にもなります。
そして、ふっと思いました「この二人の少年、誰かに関心を持たれていたの
だろうか」と。
17歳、18歳。一番青春を謳歌できる年齢だと思われる彼らが何故、他の人の
人生を奪うだけでなく、己の人生や親兄弟の人生までも駄目にしてしまう選択を
簡単にしてしまったのだろうかと。それも単に「遊ぶお金が欲しかったから」と
いう理由で。
ここ数年、子供達も含め若者達の間で、「命」がとても粗末に扱われていると
思われてなりません。彼らの起こす「いじめ、体罰、受験戦争」など等、色々な
理由で自殺を選択する若者達。自分の欲望だけで事件を起こす若者達。色々な
理由で命に係わる問題を起こす若者達の根底に流れている不安や淋しさに、
彼らの周りにいる大人の一人として責任を感じずにはいられません。そして
このような問題を新聞やニュースで聞くたびに、マザーテレサの言葉で一番心に
残っている「愛の反対は無関心」という言葉を、改めて思い出しております。
子どものことを思い、愛情一杯に育て、そして25歳すぎても
「良い子でいましょう!」とメールを打ってしまう親。好きなことではなく、
親が安心する仕事をして欲しいと願う親。会社の倒産を経験したので、子供には
倒産しない大手に就職して欲しいとお尻を叩く親。大学という名前がついていれば
どこの大学でもいいからと、就職を選択したがっている子供に進学を強制する親。
就職に役立たないし、こちらの方が有名大学なのでと、勉強したくない学部に
入学することを強制する親や教師たち。それぞれがそれぞれの理由で
「子供によかれ!!」と行動する親たちや教師たちに、若者はうんざりし、
心が離れ、そして素の自分に関心を持ってもらえないことへ無意識の淋しさを感じ、
それを意識しないでいいようにと、退廃的に今だけを生き、時間だけを潰している
ように見える若者達。
“愛”とは広く、人間や生物への思いやり。
“愛情”とは、相手にそそぐ愛の気持ち。深く愛する暖かな心。(広辞苑)
現在どれだけの親や大人達が、深く愛する暖かな心で、子供たちに
無償の愛情を注いで、育てているでしょうか。
子供の為と言いながら本当は自己満足と自己安心の為。そんな自己満足の
愛であるならば、結果、それはマザーテレサが言う愛の反対の無関心ではないで
しょうか。
無関心には種類が二つあり、一つは、完全に無関心。即ち、子供が存在してくれて
いることに感謝の気持ちも愛情も全く感じない、無関心。もう一つは、一見愛情
一杯に子供の将来を案じて育てている風に見えて、その根底には、自分にしか
興味のない親や大人のご都合主義による愛情と言う名前で、相手の心を無視した
無関心。この違いだけで、子供達から見ると、両方とも自分に無関心な
だけであることを見抜き、淋しさを募らせているのではないでしょうか。
無視されていることも淋しいですが、まったく関心をもたれない自分は
もっと淋しいと思います。
人は他の動物とは違い、人の間で人間として生きていくように出来ているはずです。
人の間で生きる動物だからこそ、他の人から色々学んだり学ばされたりするのです。
自分の存在価値も他を通して確認させてもらえます。また、他から頼られ、必要と
されるからこそ自分の存在価値を自分でも確認できるのだと思うのです。
無視に無関心。それは、自分の存在価値を否定されたようなものです。
こんな悲しい出来事が二度と起きないよう、私たちは心してお互いの価値を
認め合い、頼り頼られ、助け助けられ、関心を持ち合い、支え合って生きて
行きたいものです。