いつものように5時半に起き、お花の水を換え、熱いお茶を飲みながら
いつものように新聞をひろげました。しかし、その日の新聞はいつもの
新聞ではありませんでした。
3.11.あの地震とそれに続いた大津波の
犠牲者の方々へ家族からのメッセージが数ページにわたって載っていた
からです「戻らぬあなたへ」というタイトルで。


お一人お一人のメッセージには、最愛の家族を亡くされながらなんとか
その悲しみから立ち直ろうと頑張っているお気持ちが伝わってきて、
心が締め付けられるようで、メッセージを読み進めながら気が付くと
大きなため息をついておりました。そして改めてあれから
2年も経ったのかと、
時間の過ぎていくその速さに色々考えさせられてしまいました。


平成23311日。ここ、上田学園では表現の先生が学期最後の授業を
しておりました。
そしてその手前の教室で、ベトナム人の二人の神学生が
日本語の個人レッスンを受けておりました。その時です、日本語を教えて
いた先生が「これ地震じゃないですか?」と言いながら、椅子から立ち
上がったのは。それを受け、のんびりとした調子で学園の先生に向かって
「先生、地震らしいですよ」と私が言ったとたん、グラグラと大きく
教室が揺れ始めたのです。


地震が大嫌いで、どんなに小さな地震でも、誰よりも一番初めに「地震」
と気づく私のはずなのですが、その時に限って全く気付きませんでした。
おまけに地震が来たら安全な場所へ避難するか机の下に入って「揺れが
収まるまでじっとしていること」と、小さい時から言われ続けていたので
分かっていたはずなのに、ベトナム人の学生二人がとっさに机の下にもぐり
こみ安全を確保しているのに、私たち日本人は全員、机の端にしがみついて
棒立ちになっておりました。


そして、余震が続く中点けたテレビ。45メートルの津波警報が10メートル
の津波警報になり、そして原子力発電所が爆発。


大きな煙が立ち上る映像に「どうなっちゃうの?」と思わずそこに居合わせた
皆と顔を見合わせ、言葉を失ったあの日。あれからもう丸
2年。テレビを
通してとはいえ、被災地の現実を知るごとに「頑張って下さいとは絶対言えない。
あんなに頑張っている方々にこれ以上頑張って下さいではなく、『よく頑張って
生きていて下さいましたね。今度は私たちが頑張ります。だから安心して
任せて下さい。』と言えるようにならなければ」と。


ただただ問題だけが山積みされ、解決されないまま2年が過ぎ、記憶だけが
薄れていく残酷な現実。だからこそもう一度、何をどうしなければいけない
のかを改めて考えなければと「戻らぬあなたへ」のメッセージを読みながら、
心の中でずっと自分に言い続けておりました。


何が出来るではなく、出来ることからやらせて頂く。学生達ともこれについて
一度じっくり話し合ってみたいと考えております。それが私たち、日本人として
生まれた者が当たり前にしなければいけないことだと思うからです。