2006年04月11日

『明日への挑戦』20話 どんびえその後

cc3b0ff4.jpgこのシリーズは平成8年8月8日から20回の連載で山口新聞に掲載されたものですが、今回(20話)のみ内容を変更し、どんびえその後の猯∀鱈瓩鬚話しします。

開発マンの末路
 こうして一時的に急成長した生活文化事業部はどんびえに継ぐ商品開発にせまられた。
ある時、玩具会社の幹部にいたという人が訪ねてきて、どんびえポットを応用したアイスコーヒーメーカーを提案してきた。そのアイデアは、冷却したどんびえポットに熱いコーヒーを注げばポット側面を流れ落ちる間に冷却され、瞬時に冷たいコーヒーに変わるというのである。早速側面内側に波付けをしたポットを試作し試験してみた。金にゆとりのある事業部は商品化とTVCMで打ってでたが大した販売も期待できなかった。
 また、どんびえの反対機能の遠赤外線の加熱ポットで、牋賁襪杷濕鬚できる畩ι覆魍発した。爐燭辰唇賁襪任任る瓩海箸ら、それをもじって「できごごろ」と名付けた。
たしかに間違いなくできるしアイデアはいいが「果実酒が1日で出来る」というコンセプトに問題であったようだ。また余談だが、ネーミングが結婚式の引き出物には採用されないと業務筋からいわれた。どんびえの勢いをかりて数万個は販売したが狷麌ぬ椶里匹犬腓Ν瓩砲泙任論長しなかった。
 一方で事業部の経営サイドでは、仕入れ商品による商品のラインナップを考えていた。欧州から新しいデザインのキッチン用品を仕入れ、<Best From The World>というふれこみで、赤坂三筋通りに専用の店舗を構えた。外見的には華やかではあるが、採算がとれるものではない。結局沢山の在庫を残すこととなった。この計画は、前出のアイスコーヒーポットを提案してきた人がその仕入れを担当した。この人の策略だったことがあとでわかった。
 事業部はまた、訪問販売組織とも手を組んだ。サウナ・ボックスやウォッシュレット便座など大型商品を仕入れ販売するのである。私はこれらの仕事にはタッチしなかったが事業部幹部のやり方に薄々危険を感じていた。
 さらに追い打ちをかけ、米国で大量に販売しているはずのどんびえの入金が滞っているのである。若い実業家の甘えにのり、エル・シー(輸出出荷時決済)を組まなかったことの心配が現実のものとなった。
 こうして、生活文化事業部はどんびえの成功のあと、更に急拡大のために打って出た策はことごとく失敗し大きな損失を残した。そしてこの事業部は誕生からたった2年で解散となった。
 事業部がなくなり狆覘瓩鯆匹錣譴浸笋蓮△修慮絣発の職を与えられることもなく、また責任ある職につくことなく、数年社内を放浪することとなる。
 日本軽金属はその後、二度と消費財分野に手を出さなかった。因みに、どんびえは別の会社に販売権を移し、通販商品として販売されてきた。また、当時私が商品化した次の3つの商品は、日軽金傘下の販売会社で、20年後のいまでも高い収益商品として現存している。
☆ 「マジッククロス8」石膏ボード留め具(ピンを石膏ボード内で八の字に開脚して止める・発明者・高田哲男)
☆ 「スキンダイエット」モンモリロナイト(粘土)保湿性化粧品
☆ 「てんぷら油リサイクル剤」粘土鉱物により残さ、においの吸収
(『明日への挑戦』は今回で終了します)


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2006年04月04日

『明日への挑戦』19話 どんびえ

666a8e3a.jpg写真はニューヨークタイムズに掲載された記事。
アメリカでは世界各国から集まった「世界のグルメ商品」見本市で、どんびえ(Donvier)が年間大賞に選ばれ、米国でも大ヒット商品となった。

 世界の檜舞台で
 サンフランシスコで開催されたグルメショーは、食品と調理容器を合わせた世界各国1,900社が出展する国際見本市である。私はこの見本市を見学するために出張させてもらった。
 どんびえを米国で売り出したいと名乗り出たベンチャー企業である若い実業家兄弟は、私たちが晴海の見本市でやったのと同じようにアイスクリームのデモをしたこともあり、かなりの客が見にきてその反応もすこぶるよかった。
 見本市の最終日、出品商品の審査があるという。十数点の中にどんびえが並んでいて、テレビが次々撮影していった。しかし、この時どんびえはなぜか外された。
このあと思ってもいないハプニングが起きた。この見本市の主催者、フランス人の会長がテレビのライトを浴びながら出てきて、どんびえを高々にかざし「今年の爛哀襯畭臂洵瓩廊爐匹鵑咾┃瓩任△襦廚叛觚世靴燭里任△襦
先のグルメショーで評判を得たどんびえは米国の消費財雑誌62誌に紹介され、その勢いを得た彼らは、まず米国の有力デパートやスーパーマーケットに売場を得、マネキンによるデモ販を開始し、同時に全米にレップ制(在庫を持たない問屋Representativeの略)
を敷いてその夏50万個を超える販売を行った。
 それ以降、米国で行われる各種見本市のたびごとに模倣品がタケノコのように現れた。台湾、香港、イタリア、米国などである。それぞれ各国現地の弁護士を通じて中止を申し入れるが、特に台湾、香港では、つぶれた風をして社名を変えまた始めると言った始末でまるでモグラ叩きである。
 ある時会社は、イタリアの会社を相手取ってシカゴの法廷に、原告として英語のできない私を無理矢理立たせたこともある。
 しかし、どんびえには隠れた武器があった。それはかつて私が体験した蓄冷容器の「膨れ」の問題である。技術レベルの低いこれらの会社は見かけの面で模倣はできても目に見えないノウハウはまねのしょうがない。案の定、彼らは約3ヶ月の後に「膨れ」とそれに伴う「液漏れ」ですべて自爆していった。
 このようにして、競合の追随を許さないどんびえは、発売より4年間に国内外で430万個を売り上げた。米国の古くからあった木桶を使ったアイスクリーム製造器業界が、ほとんどどんびえに淘汰されたという気の毒な話しも彼らから聞いた。
世界的通販会社、シァーズ社の主任バイヤーはどんびえを爛妊ケイド商品瓠塀叔に一度あるか無しかの商品)と評した。事実、日本から海を渡った消費財では、ソニーのウォークマンに続くヒットであるらしい。
 


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2006年03月28日

『明日への挑戦』18話 どんびえ

e326c92a.jpgどんびえの心臓部爐匹鵑咾┘櫂奪鉢瓩話瀘箟佞肇侫ンをアルミ二重容器に入れたもの。
その蓄冷剤とフィンの材料が何らかの原因でポットが膨らむことがわかった。この年、百三十万個生産開始当初の出来事である。

膨れの原因
 工場担当に連絡し、すぐラインをストップ。幸いポットに組み立てられたものは千個あまりであった。せっかく順調にすべりだしたどんびえに予期せぬ難題が待ち伏せていた。
 早速私は、研究所の技術者を集めて対策会議を開き、二重容器の膨れの原因を検討させた。その猖弔讚畍従櫃蓮缶内部で水素ガス発生したことによるものだが、その元凶はフィンの材料で、それが蓄冷剤と反応したものであることが彼らの説明で分かった。
 自動車のラジエーター用フィンは、ろうづけ(ハンダづけ)をしやすくするため特殊な材料が表面に用いられている。そこでフィンの材料を蓄冷剤と反応しない安全な材料に取り替え、さらに技術者によって化学安定性を高める二重三重の工夫が成された。
 このようにしてどんびえはトライ&エラー、そしてその問題のブレークスルーのたびごとに新規の技術を構築してきたのである。
 しかし、いま思いだしただけでもぞっとする。もしこの発見が遅れていたら大クレームを起こすところであった。危ないところで私の首はつながった。このことで約2ヶ月のストップくらったが二年目の生産は再開した。
 この年(昭和59年)の五月、営業課長(どんびえチームリーダー)は初年度の勢いを更に煽るTVCM戦略を打ち出した。人気タレント・研ナオコを登用しての大々的なCMである。
また、製品は一定の値引き販売が可能な大手量販店、小売店向け普及品と、値引きを全くしないデパート向け高級品の二種類を用意した。その結果、流通面でトラブルも少なく、機能をアップしたどんびえの売り上げは予想を大きく上回り、何と百三十万個(国内向け)となった。そしてこの年のヒット商品番付にも二年連続で登場した。また、会社ではその業績を評価され生活文化部は事業部に昇格し、私は日本軽金属始まって以来の社長表彰となった。
問題は海外進出である。米国は日本と違って家庭で常にアイスクリームを作る習慣がある。すでに百数十年前から専用器具が開発されている。その仕組みはバケツサイズの木桶に塩をまぶした氷を入れ、その中央に撹拌ヘラを入れた茶筒を沈めその上についたハンドルを回して約1時間かけてクリームを凍らせるというもので、これでアイスクリームを作ることが家庭サービスとして米国のお父さんの日課であるという。このニーズの高い海外に何とか売り出す糸口はないものであろうか。
どんびえの海外販売は、発売初年度の冬季にさかのぼる。「Kマート」からの引き合いで十万個を出荷した。しかし、それ以降のリピートはなかった。伸びない原因は、実演をしないで、POP(店頭広告説明ボード)だけのプロモーションであるので、それだけでは消費者に理解されないのである。
しばらく時をおいて、大手外食産業の社長の紹介で米国でどんびえを事業化したいという三十代の若手実業家兄弟がニューヨークに現れた。
そして彼らは85年五月、サンフランシスコで開催される「世界グルメ・プロダクト・ショー」にDonvier瓩箸い商品名で出品するという。いよいよどんびえは世界の檜舞台に立つことになった。



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2006年03月23日

『明日への挑戦』17話 どんびえ2年目

60f38eb3.jpg図は性能アップのために改良を加えた蓄冷液入り二重容器。フィン(車のラジエーターに使われる波型形状をしたアルミ薄板)を入れる、たったこれだけのことで性能は一挙に2倍にアップした。しかし、ここにも大きな落とし穴が待っていた。

どんびえの新たな改良
 このようなプロモーション活動の浸透につれ、デパート、スーパー、日用品小売店など当初子会社のもつ家庭用品などをベースにスタートしたどんびえの販路は、業種、業態の幅を広げそして一部はガソリンスタンドにまで広がった。
 その結果、その夏の売り上げ個数は15万個、当初チームが立てた目標の実に3倍となった。
 年末恒例の日経産業新聞が企画している「ヒット商品番付表」で爐匹鵑咾┃瓩固有名詞で掲載された。(通常は健康食品、パソコンなど、固有名は珍しい)
 またさらに、日本経済新聞社主催の「年間最優秀商品賞」において「最優秀賞」も受けた。このようにしてどんびえは、ヒット商品としてマスコミや経済界の話題商品となった。爐匹鵑咾┃瓩呂よそ当時のあらゆる女性雑誌、経済誌、トラバーユ誌などに特集記事として取り上げられた。
 このことは、商品の知名度もさることながら、特に学生・主婦などこれまでほとんど結びつきのない一般消費者への会社の知名度アップと、得意先をはじめとする産業界・経済界に対して狄靴靴い發里縫船礇譽鵐犬垢詁軽金瓩箸靴憧覿肇ぅ瓠璽犬鬚Δ付けた。
 十月(昭和58)の人事異動でどんびえチームは部に昇格し「生活文化部」が誕生、新しい部長(清水昭敏・後に専務)を迎えた。
 早速その秋から生活文化部は二年目のどんびえ事業の準備にとりかかった。私は開発担当者として商品のグレードアップとデザインのモデルチェンジを担当した。
 どんびえはマスコミのおかげでヒットはしたものの、機能面で初年度のものは満足のいく商品ではなかった。私自身、犲業自得瓩箸呂い発売以来夏の間じゅうお客さんからのクレーム電話当番であった。
 自分でいうのもおかしいが、アイスクリームを作るのに実質40分はいかにも長すぎる。その時間を短縮することを考えていたところ、生産担当部長から「自動車のラジエーターに使うフィンを二重容器の中にいれたら」との提案があった。
早速試してみると、なんと凍結時間も、また作る時間もそれまでの半分になっていた。フィンが蓄冷容器内の熱伝導性を高めていたからである。熱伝導をする物なら何でもいいはずだ。
この方式を採用するにあたり、少しでもコストダウンできないかとフィン以外のアルミ箔板の切りくずなどが使えないかをテストしてみた。私の持って生まれた猊亘垣瓩表れた。
 いずれも性能には大差ない。「入れやすさ」の生産時間コストではフィンのほうが勝っていた。この人件費削減は材料コストのわずかな違いより大きいのである。また、常時生産中のラジエーターフィンが偶然そのままの寸法で流用できたのも幸運だ。
この最初の試作をして約3カ月した頃、私はある捜し物があって倉庫代わりになっている試作品保管棚を覗いたところ、驚いたことに試作したアルミ屑入り容器の内側が焼いた餅のように膨れ上がっているではないか。フィン入りの容器の底もわずかに膨らんでいる。
「これは大変!」もう生産も一部始まっているはずだ。私は、真っ青になった。


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2006年03月13日

『明日への挑戦』16話 どんびえ

ad0198b5.jpg写真は発売当時のアイスクリーム製造器「どんびえ」。消費財で無名の日軽金 が、発売後3ヶ月で15万個(小売り価格4800円)を売り上げた。

どんびえの発売
どんびえチームは、発売日を6月1日(昭和58年)と決めた。本来このような夏場商品は、その年の2月の家庭用品見本市に出展することが業界の通例であるのでこの発売時期設定は業界にとってはまったく常識外のことである。
 そしてこの発売に合わせて新製品発表会を行った。招待の対象はマスコミが中心で、鉄鋼新聞・日刊工業新聞などの業界紙は勿論のこと、日軽金がかつて一度も対象としなかった女性週刊誌、スポーツ紙に至るまで幅広く招待状を送った。
 出席予定は実に二百人に及び、会場の都合から午前午後の2回に分けておこなうこととした。当日集まった記者は二、三十代の若い世代である。
 マスコミにとって「素材企業の日軽金が消費財分野に進出したこと」は大変なニュースバリューであり、折しも構造不況のどん底にあえぐアルミ業界最大手の日軽金が開発した「かわいい商品」爐匹鵑咾┃瓩箸いΕ潺好泪奪舛魯泪好灰澆粒聞イ糞事ネタとなった。
 翌日、あらゆる新聞が一斉にこの記事を掲載した。これに引き続き各紙は特集記事を独自に企画し、そのひとつ読売新聞(昭和58年6月22日付)は婦人欄に5段、幅二分の一の大きさの「はいアイス、シャーベットなら5分アイデア商品家庭用アイスクリーマー」という見出しで掲載した。
 この記者発表に引き続き、6月上旬、関東地区でTVCMを流し、さらに下旬東京晴海で開催された家庭用見本市に出展し、どんびえチーム全員がどんびえロゴを入れたそろいのTシャツで、そしてセミプロにお願いして作詞・作曲した「どんびえの歌」なるテーマソングを流しながら、バナナのたたき売りよろしくアイスクリームの実演をした。およそ不況の日軽金社員とは思えない、実に活気溢れたものであった。
 この見本市はこのところの不況のため、どのブースも閑散としていたが、爐匹鵑咾┃瓩両間だけは二重三重の人垣ができていた。たまたまそこを通りかかった大手量販店の社長がこれをご覧になり、「鶴の一声」で全店での取り扱いが決まるという嬉しいエピソードを後日、子会社の販売員から聞いた。
 マスコミの無料での大きなパブリシティ効果、発売初期に集中的に売ったTVCM、オピニオンリーダーが占める見本市への出展などそれぞれメディア特性を生かした多様なプロモーション活動の展開が一連の相乗波及効果を生み出した。もはや七月の時点でどんびえは、気の早いマスコミや業界からヒット商品とまで呼ばれるようになった。
 予期しない急激な大量の注文に生産は間に合わず、市場はパニック状態を引き起こしてしまった。商品が手に入らない小売店は別の問屋に注文しそれが次から次へと連鎖反応を起こしそれら全てが見かけの注文として当チームに還ってくるのである。まさにバブルである。
 ところが、不思議なもので発売以降鳴りっぱなしの注文の電話が九月に入るや、ぴったり止んでしまった。もし注文(実態はバブル)に全て応えていたら大変な在庫をかかえたことだろう。幸運にもたまたま生産が間に合わず電話で締め上げられる嬉しい苦痛だけでこの夏は終わった。
 


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2006年03月10日

『明日への挑戦』15話 どんびえ

aa0656a3.jpgビルに下げた大垂れ膜の趣向は、日軽金がかつて実業団野球で優勝して以来のことである。当時アルミ精錬各社は、2度のオイルショックにみまわれ、アルミの電解に必要な電気代が五倍も値上がりし生産すればするほど赤字が増していったいわゆる犢渋ど垓鍬瓩虜巴罎力辰任△襦

「きたぞ!どんびえ」
 そんな心配をよそにリーダーは、このどんびえの事業化に当たって差し当たり必要な経費と宣伝の必要性を力説して常務を説得して約五千万円の事業費を獲得してきた。気の弱い私にはとてもできないことだ。生え抜きの日軽金社員との差を感じた。
 チームはこれに前後して数社の広告代理店に声をかけ、コンペ形式で宣伝広告・販促プランを募集した。「消費財の進出する日軽金を取り込め」と、電通をはじめとする大手広告代理店がすべて参加した争奪戦が始まり、このプラン提出には各社とも相当な力の入れようであった。それぞれ提出されたテレビCMの絵コンテはいずれも優劣つけがたい作品であった。経費に換算すれば、各社とも数百万円になろう。
 そんな中でこんな意見もあった。消費財業界に詳しい広告代理店から、「この種の商品は、どうみても1万か1万5千個の販売がよいところで、派手なマスコミメディア広告にウエートをかけるより、地道な販売活動に力を入れるべきではないか」という、実に親切な提案である。
 自分が開発した商品がテレビCMにのること、それ自体は私にとって夢であり嬉しいが、根が小心の私には会社の現状を考えるとむしろその広告代理店の意見に賛成であった。
 しかし、リーダーは自分の意志を貫徹しTVCMを決めた。この時、もうどんびえが自分の手から遠くに放れて行くような、妙な安堵感と寂しさを感じた。
 一方、どんびえチームは、もっとも手堅い有力見込み客である日軽金グループ社員を対象としたインナープロモーションを展開することにした。関連会社を含めた日軽金グループの従業員数は約1万名であるので、その社員家庭、さらにはその親戚・知人に勧めてもらえれば、少なくとも1万個はかたいと考えたからである。
 そこで、どんびえの発売に先駆けて、社内報や関係部門を通じての社内PR、そして面白い試みは本社社員が毎日使用するエレベーターの内壁にポスターを貼るアイデアである。
これは当社関係客先も利用するわけでかなりの効果が見込まれる。この企画を当ビル管理会社(日軽不動産)に申し入れたところ「前例がない」と役所のような回答、さらに説得を続け了解をとった。
 そのポスターには、エレベーター利用者が関心をもつよう趣向を凝らした。そのイメージはTVのCMを模したもので、初めは南の島に浮かんだどんびえ(絵のみで文字説明は全くない)が、週毎にだんだん大きくなるなり手前に流れ着くという趣向で、発売の1ヶ月前から1週間ごとに取り替えた。この新しい試みは、素材体質の従業員にも興味と関心を呼んだ。
 日軽金の本社ビルは銀座外堀通りの電通ビルの向かい合わせの地上9階地下5階のビルである。このビルの屋上から幅2メートルの大垂れ膜を下げたのである。「きたぞ!どんびえ」と。この大垂れ膜がこのビルの最後の化粧になるとは当時思ってもみなかった。
 


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2006年03月06日

『明日への挑戦』14話 どんびえ

6ef4b6a3.jpg爐匹鵑咾┃瓮繊璽
 いま思えば、このとき「社内ベンチャー企業」のはしりを私たちはやっていたわけである。
 このプロジェクトチームのメンバーは、リーダーと私以外は二十、三十台の十数名よりなり、会社が正式に認めた組織ではなく本来業務とは別に時間外に有志が集まる組織である。
 このチームがまず手がけたのはネーミングである。日軽金は素材企業であるため一般消費者に対して当社の知名度は著しく低いことから、ネーミングは商品機能をズバリと表現するもので、かつ一度聞いたら忘れられないユニークなものを選定基準とした。
 数日にわたって集めた百あまりの候補の中から数点を選んだがどれもパンチに欠ける。
リーダーは即興で「どんどん冷える」を縮めて「どんびえ」はどうだといいだした。メンバーは賛否両論に分かれたが、新入社員の男女2名が諸手を挙げて賛成した。私は公平をよそおい表向きどちらの意見にもつかなかったが、内心それにはあまり賛成ではなかった。二年かけて苦労して開発した爐錣子瓩こんな不細工な名前でデビューとは。
リーダーは決めかねて、関係部課長のアンケートをとったが、皆さんの意見はいずれもダメ。それは「当社のいまの経営状態をそのまま表すようで世間の笑いものになる」との憶測からである。それでも新入社員はこれに固執した。そして、彼らは、常務も兼ねていた製品事業部長(酒井直之・後に専務)に直談判と常務室に入った。この方は素材企業では珍しい文化人でこの種の商品の理解者でもある。しかし彼らは夜遅くまで説得したが了解を得られないまま帰ってきた。
二、三日して常務から「あれでいいよ」と意外な回答がかえってきた。大手広告代理店に勤めている常務の甥が、「パンチのあるいいネーミングだ」とのことである。こうして、難産の末爐匹鵑咾┃瓩老茲泙辰拭
一方、生産準備については私が書いた製作図面にもとづいて金型を製作し、五月の連休明け、ようやく各部品金型の試験押しも完了して最初の製品見本が手元に届いた。
開発者にとってこの瞬間が一番嬉しいときである。出来上がったばかりの爐匹鵑咾┃瓩鬚靴个蕕ほれぼれと眺め、前述の家電さんとの約束納期より少し遅れはしたが、これなら喜んでもらえると、自信を持って約束の30個の見本を送り出した。
数日待っていたが何の音沙汰もない。私は心配になって電話で問い合わせた。ところが、その返ってきた答えは「ああ、あれはもういいよ」。
受話器をもったまま私は、一瞬目の前が暗くなり、これまでの情景が部屋の天井あたりにぼんやりと浮かんでは消え、しばらく何をするでもない空白の時間が過ぎていった。
会社の厳しいこの時期に無理をしいて1千数百万円の投資をさせ、その肝心のお客から理由もなく断られてしまった。会社に何と説明していいか。このことはリーダーにはこっそり話をしただけで、上司の開発部長には話をする勇気もなかった。
「もう、爐匹鵑咾┃瓮繊璽爐任笋襪靴ない」私は、自分に言って聞かせた。ケセラ・セラとはこんなときの気持ちを言うのであろうか。


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2006年03月03日

『明日への挑戦』13話 どんびえ

5888964f.jpgこの写真は女子社員を集め、試作品でアイスクリームの試食会をしているところ。このお嬢さん達も今では中年のお母さん。

冷蔵庫プレミアムの引き合い
 私が精密押出型材の市場開拓の時期お世話になった商社の紹介で、ある大手家電の冷蔵庫事業部の技術者が話を聞きたいという。いつものように、デモの準備をして実演した。
 それから数ヶ月後の昭和58年の1月、紹介の商社から同社での可能性が見えてきたという情報から、同社を再度訪問し意向を打診した。
「今年の夏、新製品の冷蔵庫にプレミアムとして付け、一部販売もしたい」ということである。先方ではすでに独自の家電らしいデザインも準備されていた。ところが、五月までに同社の支店、営業所の意向を確認するため30個の製品見本の提示を求められたのである。
 試作品は、プラスチック部品6点とアルミ容器からなる。プラスチック部品を機械加工で作るならば1点が約5〜10万円となり、30点の試作総額は量産金型費用に匹敵する。
そんな無駄は到底できない。さりとて金型を作れば1,100万円。そのリスクははなはだ大きい。上司は「先方から金型費用をもらえ」と簡単に言うが、先方の事業本部が営業社内の意向を打診するためのものであるから、当然聞き入れてもらえる話ではない。
 そうして躊躇しているうちに2月に入り、もう準備を始めなければ夏に間に合わない。引くに引けない瀬戸際に立たされた。
 そこで私は一計を案じた。もう一度前述の子会社を巻き込むのである。早速私は高岡に飛び、家庭用品会社の社長に家電さんからの引き合いの話しをし、もう一度「販売する意向はないか」と持ちかけた。案の定、私の勘は当たった。「よそが売るなら、うちも売る」というのである。「ところで、金型費をもってくれないか」ともちかけたが、「それはダメ」という。社に戻って経緯の一部始終を報告すると開発部長(向山茂樹・浅野社長逝去のあと社長)はトップに相談し、金型投資の了解をもらってきた。その時期、銀座の本社ビルが累積折損の穴埋めのため売却が決まるという苦しい経営状況の最中での話である。
ここに、アイデアを思いついてから約2年の年月を要してようやく事業化が実現した。(しかし、そのあと大きな落とし穴が待っていることに、この時、気が付いていない。)
 会社の期待の応え事業化を成功させるためには、これまでのような素材メーカー的考え方を捨て去り、必要に応じて子会社の販売支援や自ら販売開拓あるいは消費者への働きかけを行う狄靴燭淵廛蹈献Дトチーム瓩鮑遒襪海箸、まず必要ではないかと私は考えた。
 そこで、当時私も参加していた消費者研究に興味のある社内グループ(約10名)のリーダー(佐野誠・製品事業部管理課長)にこのことを話し協力を申し入れた。リーダーは早速メンバーを集め、私が試作を見せ説明したが皆の反応は冷たい。「そんな漬物器のようなもので本当にアイスクリームができるのか」と信じてもらえない。
 若手のメンバーの提案で、女子社員を集めて試食会を催したところ、「お店のアイスクリームよりおいしい」と大変好評だったことから、徐々に若手メンバーを中心に協力への機運が盛り上がっていった。


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2006年02月24日

『明日への挑戦』12話

1f72578f.jpg社長の一声
 初夏のある日、知人の紹介で、小物プラスチック商品で急成長している雑貨メーカーにコンタクトできた。
 社長が大変なアイデアマンで商品開発は社長自らが指揮されており、今回の当方の申し出に社長が応対していただけるとのことである。
 アイスクリーム作りを実演できる万全の準備をしてその社長の前に臨んだ。社長は、私が目の前で材料を仕込みハンドルを回す一連の動作をつぶさにご覧になり、出来上がったアイスクリームをスプーンで口に運ばれるや否や、そばに控えていた開発マネージャーに「君、商品化にとりかかれ」と言われた。
 私は、「小回りのきく会社はこうだから話は早い」と、帰り車を運転してくれた部下と成功を喜び合った。
 しばらくして、先方のマネージャーから基本寸法の提示があり、それに基づいて設計し、また見積書も提出した。見積価格は1,100円である。それでも粗利は2割しかみていない。
 その見積を見てマネージャーは「とんでもない、当方の予算は760円である」という。その理由は、「この外観からしてほとんどプラスチック製品であり、価格は3千円が相場である。そして、この製品は実演しないと売れない。したがって、マネキンを雇うなどの宣伝費用をみると当社の仕入れ価格はそうなる」という。家庭用品の原価は市場販売価格の三分の一が標準であることは知っていたので、その説明は理解できたが、いくら切り詰めるにしても限界があり、お金を付けてまで出すわけにはゆかないのでこちらから辞退した。
 しばらく時をおいて、上司の郷里の知り合いで有名な子ども向けブランド商品の企画販売会社の社長が興味をもっているというので、上司とともに訪問した。入り口をくぐるや社内はまるでお伽の世界のような仕事場だ。
 概略を説明したところ、社長は商品化を検討したいということであった。後日、担当マネージャーとこの製品の商品化についての打ち合わせをした。
 しかし、話をしているうちに何か話がかみ合わないのでよく話をきいてみると、「うちのブランドをつけて商品化をしてくれればうちのルートにながしても良い」ということであった。同社はその販売によって多額のロイヤリティを得るのである。その場合、すべてのリスクは日軽金の負担でやって欲しいというので、それには応じかねると辞退した。
 客探しを始めてもう1年が過ぎようとしている。上司から「もういい加減にしろ」とクギを刺された。それまでのこの開発は、私が精密押出型材のビジネスを兼ねていたので許されたが、この時はすでに素材事業部に引き渡してしまっていたので、実りのない売り込みの時間かせぎは企業の中では許されない。
 上司はこれまで個人的な興味で応援してきたものの、開発部としてこのような日軽金の本業でない仕事をいつまでも引きずるわけにはゆかないのである。
 それでも私はこの商品化にはどうしても未練があった。なぜならば、モニターテストで各家庭を回ったとき、アイスクリームの実験をのぞき込んでいたあの嬉しそうな犹匐,両亟薛瓩どうしても忘れることができない。




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2006年02月20日

『明日への挑戦』11話

7da099b4.jpg期待の電話
 開発された蓄冷剤「チルファスト」には、野菜・果物用の「C1」(冷凍温度0℃)魚介類用の(−5℃)、冷凍食品用の「F1」(−15℃)、そしてアイスクリーム用の「F2」(−22℃)の4種類がある。
 私が試作に使用したものはF1タイプである。C1タイプでは温度が高すぎてアイスクリームはできない。望ましいのは−10℃である。そこで私はいいことを思いついた。C2とF1タイプを混ぜ合わせてみたたらどうか、単純計算では−10℃となる。テストしてみると、どうもそれが良さそうだ。
 嬉しくなってチルファスト開発のプロジェクトリーダーに得意になってそれをうち明けた。ところが研究所出身のその先輩から「バカもの!化学は算数と違うんだ」と一喝された。化学品は素人が扱うととんでもないことになると言うのである。
 先輩は専門メーカーを呼んでいろいろ検討したが適当なものが見あたらない。その訳は、「全く人体に無害であること、アルミ材料に影響のないこと」この条件を兼ね備えた−10℃前後の蓄冷材はそう簡単に見つけることはできないという。
 困ったあげく先輩は一つの試案を出した。F1タイプを水で薄めてはどうか。それはもともと尿素を水で希釈したものであり、その希釈率をかえたらどうかというのである。
 今度は研究所で入念なテストが繰り返された。改良品は凍結温度が−13℃で目標よりやや低いがアイスクリームの出来具合はもとのF1より良いという結果がでた。
 これならば心配するものは何もない。約2ヶ月のブランクがあったが、先方の魔法瓶メーカーさんに改良の結果をお話しし、商品化検討を再開していただくようお願いした。
また、先方さんも相当慎重にテストを繰り返され「これなら問題なし」と開発課長からOKがでた。そして、新たにデザインモデルを準備され、また専務さんまでお越しになり当方の開発部長に「どうか私の所で扱わせて欲しい」と正式な申し入れがあった。
これならばもう本決まり、私は、内心喜んでそれを聞いていた。ただ、先方の課長は「一応営業会議にかけて正式に決定する」といわれ、私はその日がくるのを心待ちに待っていた。
 その営業会議があるという夕方、先方の課長さんから電話があった。私はドキドキしながら受話器をとると「上坂さん、ダメでした」一瞬目の前がかすむのをこらえ「なぜですか」と蚊の鳴くような声で問い返した。
 「昨年ミキサータイプ(泡立て式)の商品を出して40万台売れた。それにはアイスクリームの材料であるパウダーを付けて出したが、今年販売を再開したところ小売店で昨年の在庫のものと区別が付かなくなり、流通段階で混乱が生じ、営業はもうこりごりだという」
 こうして、約半年あまりにわたる大手魔法瓶メーカーへの売り込みは水の泡と消えた。
 


uesaka14 at 13:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)