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『新形三十六怪撰』より「新形三十六怪撰 皿やしき於菊乃霊」(月岡芳年画、1890年)


元禄9年(1696年)。尼崎藩主青山播磨守幸督(よしまさ)の老臣、喜多玄蕃の屋敷にお菊という女が侍女として奉公に上がっていました。

お菊は気だてが良く大層美人と評判でしたが、嫉妬深い玄蕃の妻はこのことが面白くありませんでした。

ある日のこと玄蕃の妻はお菊を陥れようと、お菊が給仕した喜多玄蕃の御膳の碗の中に縫い針を忍ばせました。

喜多玄蕃は碗の飯を一口頬張ろうして、針の混入に気付きました。
玄蕃の妻はすかさず「これはお菊のせいに違いない」と騒ぎ立てました。

玄蕃は自分を殺害しようと企てたとして激怒。
お菊を荒縄で縛りあげると逆さに吊るして折檻し、お菊が苦痛のあまり気を失うと井戸の水を浴びせては何日も折檻し続けました。
そしてとうとうその井戸の中にお菊を投げ込んで殺してしまったのです。

事の次第を聞きつけたお菊の母、お米は大慌てで喜多宅に謝りにかけつけましたが、既にお菊は井戸に投げ込まれ絶命した後でした。
その事を知ると母お米も後を追ってその井戸に飛び込んでしまいました。

この一件があってから喜多家では怪異や祟りが続きました。
そしてそれは事件として尼崎城主・青山氏の耳に入り、喜多は改易、屋敷は祟りがあると恐れられ廃屋となりました。

さらに百年の月日が経った寛政7年(1795年)、喜多家の庭に植えられた橘の枝から後ろ手に縛り上げられたお菊の姿をした妖虫が沢山、沢山ぶら下がり恨みごとを唱え、ついには喜多家を呪い滅ぼしました。

尼崎城下でも折檻されたお菊の姿に似ているという「お菊虫」と名付けられた奇怪な虫が大発生し、人々は祟りがあると恐れました。

青山氏に変わり、尼崎城主となった櫻井松平忠宝(ただとみ)は「お菊虫は蛹(さなぎ)であって 菊の亡霊でないから平静になれ」との「おふれ」を出し、喜多宅の跡地にお菊の霊を鎮めるためにお寺を建立しました。それが「深正院」です。

おかげで怪異や祟りはおさまりましたが、「深正院」の境内では菊を植えても花が咲かなかったといいます。

そして今でも「深正院」にはお菊が投げ込まれた井戸があり、入口は石盤で固く閉ざされています。

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葛飾北斎「百物語・さらやしき」


『皿屋敷』は「いちま〜い、にま〜い」で有名な怪談のフォーマットで播州姫路が舞台の『播州皿屋敷』、江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』が広く知られていますが、様々なバリエーションで各地に伝わっています。

尼崎の「お菊」の物語は、「皿屋敷異聞」に分類されていますが、発端が肝心の皿ではなく針であることが異色です。

この「尼崎版・皿屋敷譚」は蜀山人こと太田南畝『石楠堂随筆』上 1800年(寛政12年)を底本とし、ほぼ同様の内容で、根岸鎮衛『耳嚢』にも収録され、津村淙庵『譚海』にも詳しく書かれているそうです。が、僕はいずれの説話のオリジナルにもあたっておらず、郷土史研究本の「尼の散歩道」「尼崎郷土史研究会・みちしるべ33号」そして「weblio」から引用した説話を独自解釈で脚色を大いに加えて再編しました。

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※「深正院」の境内には本当に石盤でフタがしてある井戸があります。



1795年に大量発生し「お菊虫」と呼ばれたのはジャコウアゲハのサナギだそうです。

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妖怪「お菊虫」(『絵本百物語』竹原春泉画)


様々なバリエーションで拡散している「皿屋敷」ですが「お菊虫」のくだりは決まって1795年となっているので、ジャコウアゲハの蛹が異常発生した事実があるのだと思われます。

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ジャコウアゲハの蛹


 暁鐘成『雲錦随筆』では、お菊虫が「まさしく女が後手にくくりつけられたる形態なり」と形容し、その正体は「蛹(よう)」であると書いています。



文化10年(1813年)4月14日、松平忠宝は病気を理由に家督を次男の忠誨に譲って隠居したそうです。


2015年6月28日参拝

「江戸怪談を読む」シリーズ『皿屋敷――幽霊お菊と皿と井戸』