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尼崎郷土史研究会「みちしるべ・第33号」に

『尼崎から兵庫の浦にかけてとれる甲羅が人の顔をした蟹は、武文の霊が蟹に化して「武文蟹」になった。といわれています。』

と紹介されています。


武文蟹って何?(人面蟹ってことなんなだろうけど)とおもって調べてみたら
↓コレ、なかなか強烈な人面っぷり。


「図説日本未確認生物事典」という本にも堂々、紹介されていました。

でも、なんでヒトガニとか人面蟹じゃなく武文って固有名詞が付いているんだろう?


『武文』って誰?

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後醍醐天皇の子、尊良親王は元弘の乱(1331年/後醍醐天皇軍vs鎌倉幕府軍)で、挙兵したが鎌倉幕府に捕縛され、土佐に流された。

配流地の土佐国で尊良親王は嵯峨に残してきた妻・御息所に思いを馳せ、お嘆きの日々であった。
尊良親王の家臣、秦武文は御息所をお連れしようと京まで迎えに上がった。


そして尼崎港から土佐へ向け出港の風待ちのため逗留していたところ、美しい御息所を覗き見た海賊・松浦五郎とその一党に夜襲されてしまう。

秦武文は御息所背負い港に逃れ、別の船に御息所を乗り移らせた。
さらにお供の女房たちも船に乗せようと漕ぎ戻ったところ、その船は沖へと出ていってしまう。

なんとその船は海賊松浦党の船であり、まんまと御息所を奪われてしまったのである。

秦武文は敵と味方の船を見誤ったと知って憤激し「われ龍神となり松浦党の船をとどめん」と叫んで割腹し海へと飛び込んだ。

この一念で波は荒れ狂い、渦が起こり、嵐が吹き荒れ、豪雨が海面を叩き付けた。
さらに怨霊と化した秦武文が松浦党の船を悩ませつづけ、恐れをなした松浦党は御息所に一人の童を付け、小舟に乗せ海上へ放った。

その小舟は沼島、水の浦に漂着した。
漁民の介抱もあり御息所は無事に助かり、尊良親王とも再開を果たし、京都へお戻りになられた。

この一件以来、尼崎から兵庫の浦では鬼面の甲羅を持つ蟹が現れるようになったので、この蟹は秦武文の怨霊が蟹になったとして武文蟹と名付けられた。
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オリジナルの説話は『太平記』ですが、資料によって話の細部が異なります。

・南部再生「尼崎コレクション」
・笹間良彦著「図説日本未確認生物事典」
・沼島中学校ホームページ

を参考に再編しました。



そして尼崎の海中に散った忠臣・秦武文はこの尼崎の地で手厚く供養されていたのでした。


尼崎・寺町「善通寺」にある『秦武文公遺趾』の碑

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境内には「秦武文」の名前が刻まれた供養塔もありました。

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また、尼崎あたりには『武文蟹』のバリエーションとして『島村蟹』という蟹もいるようです。



戦国時代、かねてから対立していた細川春元軍(三好元長)と細川高国軍の対戦で大敗した高国群は尼崎へと敗走しました。これを『大物崩れ』といいます。
この大物崩れの際に奮戦した高国軍の猛将島村貴則は死に際に敵兵を両脇に抱えて道連れに尼崎の海に身を投げました。
その怨霊が「島村蟹」になったと言われています。

『和漢三才図絵』によると「武文蟹」と「島村蟹」は明確な区別はないようで両方ともに毒があるようです。