2008年07月26日
「仕事は5年でやめなさい」を読んで
私はよく本屋さんに行きますが、何となく、ちょっとしたきっかけで偶然に買ってしまう本があるものです。
大体は自分が好きな作家や書籍を決めているので、あれこれ迷うことはないのですが、本のタイトルを見て、何となく気になっている本に何度か出会うと、「この本は僕に買って欲しいと言っているのかな?」とか想像して、買ってしまう時があります。
実は、この最近では、「仕事は5年でやめなさい。」(松田公太著、サンマーク出版)という本を衝動的に買いました。
表紙に著者の写真がでかでかと載っており、しかも若くして起業、大成功しただけあって、当初は何かしらの抵抗を感じていたのですが、立ち読みするうちに、不思議と買ってしまったのです。
著者は私が昔在籍したのと全く同じ日本の都市銀行を5年ちょっとで退職、「食を通じて文化の架け橋になる」を目的にタリーズコーヒージャパンを起こしました。
そして、昨年、会社を売却、社長も退任して、新しいことに挑戦すべく「クイズノス」というサンドイッチチェーンの会社の雇われ社長として一から始めたそうです。まさに気鋭の経営者です。
ところで、何故この本を私が買ったかというと、著者の経歴にも惹かれたのですが、彼の言う、「人生の持ち時間は少ない」という考えに加え、目的、目標をきちんと区別することの重要性を再確認させてくれたこと、自分の人生を悔いのない充実したものにしたいという情熱を感じたからです。
また、著者は、実弟は21歳、実母は54歳にて亡くなるという経験を契機に、自分の人生を50年と区切り、「太く生きる」をモットーに5年毎に人生の目標を描いたと言います。
「目的」は最終的に辿り着くこと目指す「的」です。一方で、「目標」は自分が思い描く場所を目指すために、ひとつひとつ通り過ぎる場所です。いわば「道しるべ」の一つであるわけです。
実はこのことをきちんと分けて理解していない為に、普段の自分の生き方があやふやになってしまうと思うのです。
「目的」は私達の人生の中で到達する最終到着地ですが、それは「心の平安、幸せ、喜び」かもしれませんし、「人の役に立って喜ばれ、感謝されること」のように、より具体的なものとは言え、目に見えないものかもしれません。
一方で、「目標」はそれに到達する為の途中に成し遂げるもの、「英語をマスターすること」「お金持ちになること」「起業すること」「結婚すること」等です。
私は、改めて「目的」と「目標」をしっかりと据えて、これからの人生の目標と目的を確認しながら、着実に前に進んでいきたいと思った次第です。
2008年07月20日
「脳を活かす勉強法」を読んで
茂木健一郎という脳科学者が私達の脳について、非常に示唆に富むお話を凝縮されて書かれた本が「脳を生かす勉強法」(PHP研究所発行)です。
私はこの本を、大切な人に勧められて読んだのですが、読後、「とにかくのほほんとしていてはいけない。」「一日をもっと充実させる時間の使い方をしないといけない。」という意識を強烈に感じました。
著者である茂木氏は、私達が脳を鍛えれば、どれだけの能力を発揮出来るのかを、氏自身の原体験を踏まえながら、こと細かく説明してくれています。
脳の中で分泌される「ドーパミン」という物質が多ければ多いほど、人間は大きな快感・喜びを感じるそうです。
この「ドーパミン」による強化学習のサイクルが回っていけば、私達は、あらゆることに喜びを持って挑んでいけるのです。そして、自分にとって嬉しいことを見つけることで、ますます成長をしていくのが人間だと教えて下さっています。
一時的に苦しくてもそれを乗り越えることで脳は一番喜びを感じ、また不確実なものに挑戦出来た時に、脳は強くなると氏は仰います。
そして、勉強とは自分という存在を輝かせ、人生の次のステージに登るためのものであると主張されています。
また、「偶有性」という、半分は安全で予想出来ること、半分は予想出来ないことの状態の時に脳はより楽しいと感じるそうです。それは、恋愛にも通じるということです。
確かに、「感情」というものは不確実性に対する適応とも言えるわけで、情緒が豊かであればあるほどより不確実なものに対応出来る人になれると言えそうです。
皆様もご経験されていると思いますが、相場の世界に生きていると、この「感情」が溢れるように出てきます。
この「感情」のコントロールを出来れば、よりさらに相場を楽しめるようになれると感じた次第です。
2005年11月12日
もう一度、「ブレイクスルー思考」について
一つの方法は、「これで、一つのカルマが消えた」と思うことです。カルマとは自分が過去に犯した広い意味での罪や負債のことです。とにかく、嫌なこと、辛いことが自分に起これば、「これは良い兆候だ」と努めて思ってしまうのです。そうすると、心がふ〜と穏やかな気持ちになり、平静な状態に戻ることが出来ます。因果応報の法則とか、因果関係の法則という言葉も聞きますが、根底に流れていることは同じだと思います。ちなみに、斎藤一人氏は、何か悪いことが起こると、「因果が一つ消えた。有難いこととして感謝することが大事。」のようなことを仰っています。
私たちが人生において経験することは実に膨大な「出来事」「事象」の連続、重なりであると同時に、互いに密接に繋がっています。その全ての結果として、今の「自分」があるわけです。そして、知らないうちに周りの人達に迷惑をかけたり、お世話になっているのです。時には、広い意味での「罪」を犯しているかもしれません。このことから、自分が回りに対して負っているものが存在するわけであり、「カルマ」が積み重なってきていると言えるかもしれません。
もう一つの方法は、この世は「学校」だと考えることです。私たちがこの世に生まれてきたのは、「学ぶ」為であり、人間性の向上であるわけです。魂の成長と言い換えても良いかもしれません。思い通りにならないのが人生であり、だからこそ、価値があり、色々なことを「学ぶ」わけです。嫌なことがあるから、楽しいことが分かり、まずいものがあるからこそ、美味しいものが分かり、悲しいからこそ、幸せな思いも出来るのです。「魂」とかいう表現をすると、怪しげな人だと思われるかもしれませんが、私は決してある特定の宗教に属しているわけではなく、ただ、人類普遍の真理について言及しているのです。
前回のコラムでも書きましたが、「プラス思考」「マイナス思考」に加えて「ブレイクスルー思考」があります。そして、全て自分に起こることには意味がある、起こるべくして起こっている時もあり、全ては順調な学びのプロセスなのだと考える「ブレイクスルー思考」(飯田史彦氏)はこの世を「学校」と考える根拠とも言えましょう。生まれる前の「魂」「意識体」である時には、経験出来ないけれど、この世である「物質世界」にいることによって、始めて与えられる試練(死、病気、人間関係の悩みなど)は、わざわざ私たちがそれらを通じて「学ぶ」為なのでしょう。
2005年08月20日
ブレイクスルー思考とは
例えば、自分が希望していたK大学の入学試験に失敗して、第2志望のO大学に進学することになった時に、どう考えるか?
「マイナス思考」
ああ、がっかりだ。せっかくあんなに勉強したのに、念願のK大学に受からなかった。仕方がないとは言え、僕の人生は敗北だ。果たして、O大学で一生懸命勉強に打ち込めるかどうか自信がない。
「プラス思考」
K大学には入れなかったけど、O大学にも良いところがあるかもしれない。あまり落ち込んでも親も悲しむだけだし、出来るだけ前向きにやってゆこう。
一般的には、マイナス思考は何も生まないし、良くない考え方だということで、プラス思考が勧められます。当たり前のこととして何の不思議もありません。
ここで、もう一つの思考方法があります。「ブレイクスルー思考」というものです。ブレイクスルー(現状突破)という考え方は、そもそもどなたが提唱したのか知りませんが、私は、飯田史彦氏という福島大学の経営学の先生がお書きになった書物で読んだのを覚えています。飯田氏が「生きがい論」三部作(「生きがいの創造」「生きがいのマネージメント」「生きがいの本質」)にて問いかけている永遠の命題「人生に如何に生きるか」の哲学・考え方の根底に流れている思考方法が「ブレイクスルー思考」だと思っています。9年近く前に買った彼の代表作「生きがいの創造」を改めて読み直して、自分の人生哲学に共鳴するものを感じた次第です。
さて、先ほどの大学受験失敗の試練に対して、「ブレイクスルー思考」だと、どう考えるかというと、
僕は確かに、第一志望のK大学の入学試験に落ちて第2志望のO大学に行くことになったけれど、これにはよほどの理由があるに違いない。その大学では、自分の人生にとってとても重要なことを学ぶかもしれないし、将来の仕事につながる恩師や友人に出会うかもしれない。ひょっとしたら結婚相手と出会うのかもしれない。結局、僕は長い人生の中で最高の学校に進学したのだ。それなりの理由があり、必要だからこそ、O大学に行くことになったのだから、これから楽しんで大学生活を送ろう。
このように「ブレイクスルー思考」というのは、「プラス思考」をはるかに凌ぐ積極的な前向きな考え方、思考方法なのです。そして、単なる考え方というよりも、その発想、考え方をする理由があるのです。この点については、これからゆっくりと、お話してゆきたいと思っております。
2005年07月03日
「聖なる予言」
今回、ご紹介するのは、「聖なる予言」という題名で、一見小説風の形を取っていますが、霊的世界、精神世界になじみやすいように実に巧みに構成された読み物です。著者、ジェームス・レッドフィールドはこのように言っています。「アメリカでは、過去30年にわたって、スピリチュアルな気づきに関する興味が高まっていますが、多くの人々が本書を読んで人生にも確かに思い当たるところがあると感じるからです。20世紀も終わろうとしている今、多くの人々が人生において、より大きな満足感と目的意識を求めています。そして、本当の人生を生きるためには、真のスピリチュアリティが必要と感じているからでしょう。」
本書の中で、著者は「聖なる予言」として、九つの「知恵」を順番に紹介していきます。若干回りくどい表現が続きますが、逆にじんと胸に残るものがあります。出来るだけ、簡潔に要約して、ここに紹介したいと思います。
第一の知恵
その人の人生を変える不思議な出来事に気づくこと。つまり、何か大きな力が働いていると感じ取ること。この目覚めは、自分の人生は霊的にひもとかれてゆくものであり、多くの不思議な偶然の一致によって導かれる旅であるということを体験した人々が一定の数に達することによってもたらされる。
第二の知恵
過去500年間続いた現世的な、生き残りと安楽だけを追い求める思い込みに気づくこと。そして、新しいより完全な世界観を持ち始めること。この物質主義的で技術万能の思い込みは、通過しなければならない重要な一段階ではあったが、その後、人生における偶然の一致に気づくことによって、私達は地球上での人間生活の神の目的と宇宙の真実の姿に目覚めてゆく。
第三の知恵
人間は自分の欲する方向へ注意を向けることによって、自分のエネルギーをその方向へと放射することが出来ることを知る。存在するすべてのものは聖なるエネルギーの場であり、私達はそれを知覚し直感することが出来る。特に自然の美しさに気づくことによって、人間はエネルギーの場を観察することを学ぶ。さらに、そして、私達の思いによって出来事を早めたり、遅くしたりすることが出来、人生に生ずる偶然の一致の起る速度を早めることが出来る。
第四の知恵
人間は現実問題として、ほとんどの場合、聖なるエネルギーの源から切り離されており、そのために無力感と不安感を感じている。エネルギーを得るために、人間が互いに相手を出し抜き、支配しようとするのは、外の世界の具体的な目的の為だけではなく、心理的な高揚感を得るためである。こうしてうまく他人を支配できた時には、私達は自分が強くなったように感じるが、相手は力を失ったように感じる為、しばしばその力を取り戻そうと戦いを挑んでくるものだ。この無意識の、限られたエネルギーを奪い合う競争こそ、人々の間のあらゆる争いの根底をなす原因である。
第五の知恵
不安や暴力は、私達が内なる神のエネルギーとつながる時に消滅する。この感覚は、あらゆる宗教の神秘主義者たちが語っている神との合一のことである。体が軽くなったような感覚・・・浮遊感・・・と、愛にあふれた感覚は、このつながりが本物かどうかの尺度と言える。私達は他人をコントロールすることをやめる必要がる。さもないと、私達は宇宙のエネルギーの源から切り離されてしまうからである。
第六の知恵
内なる神のエネルギーと常につながるようになると、このつながりを失った時は、それにすぐ気がつくようになる。普通、私達がストレスを受けている時は、このつながりを失った状態であり、その場合、私達は、往々にして他の人々からエネルギーを盗もうとする。ところが、自分が無意識で行っているやり方に自ら気がつけば、内なる神とのつながりは更に強まり、次第に、自分の人生の成長への道と、霊的な使命と、世界に貢献する方法を発見出来るようになる。私達の平和な落ち着きは、どれくらい宇宙のエネルギーにつながっているかの尺度である。
第七の知恵
自分の使命を知ることによって、不思議な偶然の一致の流れが早まり、私達は自分の運命へと導かれてゆく。まず、自分の知りたい問題を明らかにし、次に夢、または白昼夢、直感が、その答えへと私達を導いてゆく。通常、こうした夢や直感は、他の人々がもたらしてくれる智恵と同時に起ることが多い。自分が生まれた霊的な理由が分かり、自分が本当は何者なのか明らかになり始める。本当の自分を知り、自分がどこに進み、何をしているのかの教示を受けることになる。私達の人生は、自分自身を成長させる道を見つけ出すためのものである。
第八の知恵
自分の人生に現れるすべての人々にエネルギーを送ることによって、偶然の一致が起る頻度を高めることが出来る。他の人々にエネルギーを送るのは特にグループの中では効果的である。メンバーの一人ひとりが、他の人すべてからエネルギーを感じることが出来るからだ。すべての人々の中の美しさを見ることによって、私達は、その人々を最も聖なる自己にまで高めることにより、その人々から必要なメッセージを受け取るチャンスを大きくすることが出来る。
第九の知恵
私達がみなその霊的な使命の完遂に向かって進化するにしたがって、生存のための技術的手段は完全に自動化され、人間はその代わりに、自己の成長へと焦点を向け始める。このような成長は人間をより高いエネルギーレベルへと高め、究極的には私達の体を霊体へと変容させる。そして、現次元と死後の次元が結合して、生と死のサイクルは終わり、永遠に生き始める。
2005年06月25日
「死ぬ瞬間」の著者キューブラー・ロス女史
1)「人生の個々の出来事は、たがいに噛み合わないように見えるかもしれない。だが、私は経験を通じて、人生に偶然などないということを学んできた。起こったことは、起こるべくして起こったのだ。」
2)「誰だって、生きていれば辛苦を経験する。つらい経験をすればするほど、人はそこから、人はそこから学び、成長するのだ。」
3)「逆境だけが人を強くする。人はいつも私に死とは何かと訊ねる。死は神々しいものだと、私は答える。死ほど安楽なものはないのだ。生は過酷だ。生は苦闘だ。生は学校に通うようなものだ。幾多のレッスンを課せられる。学べば学ぶほど、課題は難しくなる。」
4)「困苦なくして歓喜はない。それを私は学んできた。苦悩なくして、喜びはないのだ。戦争の悲惨がなければ平和のありがたさが分かるだろうか?エイズがなければ、人類社会が危機に陥っていることに気づくだろうか?死がなければ生に感謝するだろうか?憎しみがなければ究極の目標が愛であることに気づくだろうか?」
5)「峡谷を暴風から守るために峡谷をおおってしまえば、自然が刻んだ美を見ることは出来なくなる。」
本文を読めば、以上の彼女の名言の背景、意味が手に取るように分かる。スイスで過ごした少女時代、難民救済活動、ナチス強制収容所で出逢った蝶の壁画の謎、医師への道、結婚とアメリカへの移住、終末期医療と死の科学への取り組み、夫との別離、体外離脱体験、詐欺及び殺人未遂被害、ヒーリングセンターの設立、放火による全ての消失、等々。生々しい実体験からくる強烈なインパクトを私達に投げてくる感じだ。そして、最終的に、明日への希望と感動を与えてくれるのだ。
2005年06月12日
「魂の向上」
この世には、決して無駄な経験はないと思います。もちろん、楽しいこと、嬉しいことは誰しも経験したいことであり、生涯に亘りほのかな思い出として、いつまでも私たち自身を幸福な気持ちにさせてくれるものであり、とても歓迎すべきものでしょう。しかし、一方で、辛いこと、嫌なことも、決して無駄になるとは思いません。その時、その場ではこんな経験は二度としたくない、と誰しも思うのでしょうが、後になって振り返ると私たち自身の人生の年輪を内容のある、意味深いものにしてくれるはずです。
私自身、過去に人間不信に陥ることが何度かありました。そのうち一度は最悪なものであり、その人間を心の底から憎みました。自分が助けたその同じ人に裏切られた時の辛さ、無念さは形容し難いものでした。ある信頼している先輩氏とそのことで話す機会があった時、「神様はどこかで必ず見ているものだよ。」と言われ、ほっと心が救われる思いがしたものです。
私たちは、この世に、何のために生まれてきたのでしょう。思うに、様々な喜怒哀楽を経験し、魂を向上させるためにこの世に生を受けたのではないでしょうか。そうであれば、苦しい思い、辛い思いを経験すればするほど、人間は貴重な経験をし、学ぶことが出来るのだと思います。その結果、人間の魂はより高次なものに成長・発展を遂げるのです。
強い憎しみに苦しんだ経験があるからこそ、強い愛を経験することが出来るわけです。日常の出来事で例えるなら、空腹感があるから、「ああ、おいしい」と感じることが出来るのであり、くずついた天気があるからこそ、晴天のすがすがしい天気の素晴らしさが経験出来るのです。又、人間関係がうまくいかない時があるからこそ、人と分かり合えた時の喜びがあるわけです。
そういう意味では、辛いことは、次に喜ばしいことが起こる前触れだと言えます。苦しみに直面した時に、逃げずに深く向き合えば、その分、私たちの魂は磨かれて、強い光を放つようになるのでしょう。
それぞれの局面では、そんなこと言ってられる場合ではない、と思うのが普通の人間でしょう。しかし、少し時間が経って、後で振り返ることが出来た時に、「ああ、自分は辛い思いをしたけれど、人間的に成長したのだ。」と思えるだけで、私たちは心身ともに救われるのではないでしょうか。決して、神様は見放さない、そう私は信じています。
2005年06月06日
「青春」という詩
私の大好きな詩の一つに、アメリカの詩人であるサミュエル・ウルマンが書いた「青春」という詩があります。希望がいかに大事なものかであることを説いており、どんな挫折があろうとも、希望を失ってはいけない、希望を失うと心がしぼんでしまうということを伝えてくれます。希望を失わない限り、若さも失わないということですね。如何に詩を引用します。
青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年
月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く
求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
人は自信と共に若く 失望と共に老ゆる。
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。
(脚注) 逞しき(タクマしき)がっしりしてつよい
怯懦(キヨウダ)おくびょうで気の弱いこと
却ける(シリゾける)後退させる
孤疑(コギ)疑ってためらうこと
恰も(アタカも)まるで ちょうど
芥に(カイに)ごみ
曰く(イワく)言うのには
星辰(セイシン)星のこと、辰は天体のこと
欽仰(キンギョウ)つつしみあおぐ
剛毅(ゴウキ)意志が強固で不屈なこと
悲歎(ヒタン)悲しみ嘆くこと 歎は嘆と同じ
蔽い(オオい)遮蔽する
2005年06月01日
魂の成長
そのためには、嫌なこと、不幸なことを経験するのが最高の近道のようにすら感じます。もちろん、その瞬間、その時期はとても辛いし、誰も経験したくないと思います。それでも敢えて言いたいです。今までの自分の人生に起こったことは全て意味があったんだと思うことが大切だということを。
刹那的な生き方は何も生まないし、決してやってはいけない。目の前のことに一喜一憂しても始まらない。「輪廻転生」を私は信じます。過去、現在、未来、全てつながっているのだと思います。だからこそ、魂の成長があるのだと思います。どうせ死んだら終わり、そんな風に考えることはやってはいけない、と思います。短い人生、自分の好きなことを勝手にやって生きればいい、そんな考え方では決して幸福にはなれないと思います。
この短い人生に「自分の魂の軌跡」を残せるように毎日を「一日一生」のつもりで生きていきたいと思います。そうして、自分の魂を向上させることが大切ではないでしょうか。「悔いのない人生」という言葉の真の意味はそういうことなんだと思います。
2005年05月22日
「意識」と「肉体」
そして、意識は人間界の上層部にて互いにつながっていて、これがスイスの著名な精神科医カール・ダスタフ・ユングが提唱した「集合的無意識」ということなのではないかと思います。「集合的無意識」は人類普遍の「愛」をつなげるものであると思います。
私達の「思い」は遠く離れた人にも通じると言います。テレパシーという表現もありますが、決して「超能力」というわけではないと思います。私たち人間が誰でも生まれながらにして持っている能力だと信じています。
こちらが会いたいなあと思っていたら、その人から突然連絡がある、といった「シンクロニシティ」(共時性)は私たちが日常でも経験することです。もちろん、その「偶然」を単なる偶然として見過ごすか、それとも、大いなる意味があると思って、自分なりに吸収し、何らかのアクションをとったりするかどうかはその人次第だと思います。
私は、最近、この「シンクロニシティ」なるものをよく経験するようになりました。多分、自分の気持ちを楽にして、素直に自分の心に従っているからだと思います。そして、この「シンクロニシティ」を生かすかどうかは、本当に自分次第だと感じます。これからの輝かしい未来に向かって、前向きに生きていく為にも、自分の心に素直になれればと思います。
2005年05月16日
明日への勇気を与えてくれる詩
昨日は去った----それは単なる夢
過去にはただ記憶があるのみ
希望という名のスクリーンに投影される明日は
幻影か、ただの見せかけか
昨日の病をなぜ嘆き悲しむことがあろう?
思い出を悲哀の色に染めることがあろう?
明日には起こらないことを
なぜ思い悩むのか?
昨日は去った----二度と戻らない----
残されたのは平穏と安らぎ
明日を知る人間はいない
そこにあるのは希望と信頼
私の手にあるのはいまこの瞬間だけ
無駄にするも、うまく使うも私しだい
私の未来は
今日の私の生き方しだい
いまこの瞬間、私は過去と未来をつくっている
過去と未来を選んでいる
いま私がしていることで
いま私が口にした言葉で
だから私は未来を恐れない
過去を悼むこともない
今日できることすべてをしているから
いまこの瞬間を生きているから
あたかもこれが最期のように
あるいはそうなのかもしれない
だれにもわかりはしない
だれにわかるというのだろう?
(T.Cハワード)
2005年05月09日
「ストレス」から逃れるのは
本来、私たちは、かけがえのない人生において「我慢」などしてはいけないと思います。我慢や忍耐をあまりに強いると、私たちは息が詰まり、心の底に鬱憤がたまってしまいます。そしてこの状態が続くことがストレスの最大の原因です。ストレスは自分を殺して生きることから生じるのです。
それでは、我慢や忍耐をせず、ストレスを抱え込まないで生きるにはどうしたらよいのでしょうか?それには、まず、相手のことを認めることが大切です。自分のことだけが全てと考え、「俺が、俺が」「私が、私が」という姿勢があまりにも露骨に出るため、それが周囲に受け入れられなくなった時に、ストレスという形でその人の神経を逆なでし苦しめるのです。そして、家族や周りの人への感謝の心を失って利己主義になればなるほど、結局は自分で自分を苦しめることになるのです。
だから相手のことを考えて、認めることからスタートするのです。決して相手は変えられない、でも自分の心構えは変えられる。それぞれの人間にはそれぞれの立場があり、全て訳があって、そういう言動をとっているのだ、というぐらいこちらが心に余裕を持つようにすれば、す〜っと肩の力が抜けて楽になれるのだと思います。
私たちはやはり自分が一番かわいいはずです。決して、無理をして我慢をしたり、忍耐をしてはいけません。そういう状態を防ぐためにも、そして、自分を守るためにも、さらりと相手のことを考えてやりましょう。感謝の気持ちを忘れずに接しましょう。そうするとストレスと無縁になり、健康にもなれるはずだと思います。
2005年05月03日
すがりたい心
苦しくて、淋しいから、人は自分の苦しみや悲しみを誰かに訴えたくなるのかもしれません。
何かにすがりたくなる。このことはごく自然な人間の行動だと思います。そして、そこに宗教が生まれるのでしょう。
あらゆる宗教は、人の苦しみを救う為に生まれています。キリストも、釈尊も実に様々な人の苦しみの訴えを聞いておられます。
人間が自分の頼りなさに気づいた時に、何かしら超越的な存在に憧れるのでしょう。
世の中には「無神論者」と自ら言う人、言われる人が多いですが、それでも、自分自身の何か頼るものをもっている人が多いと思います。というのも、人間はそれほど強い存在だと思わないからです。
どんな自信家でも、病苦に出会うと、苛立ち、怒り、焦るものであり、淋しくもなるものです。自分の弱さを知るのもそういう経験をしてこそだと思います。
本当に自分の弱さを知った人だけが、人のはかなさを認め、真の優しさを持てるようになるのかもしれません。そういう辛い経験を出来るだけ人生の早いうちに「出来た」人だけが、幸せに一歩でも近づけるのかもしれません。
2005年05月01日
犬「Dog」は神様「God」である
主人(一応、私ということにさせて頂く)が帰る時の出迎えはもちろんのこと、朝出勤する時も、玄関まで見送ってくれる。この愛犬「もも」が先日すい臓炎とかいう病気で入院した。家族で誰も入院したことがないのに、飼い犬が始めて入院したわけだ。入院する前、確かに症状はあったように記憶する。やたらと泣き声をあげていたのだ。特にどこかにぶつけて怪我をしたわけでもないのに、突然小さな声であるが、泣き出したのだ。変だな、とは思っていたが、入院するその当日の朝もいつものように、私の出勤に合わせて無理に起きてきて(そのように見えた)見送ってくれたのだ。振り返ると、相当我慢をして体を動かしていたのだと思うと、とても不憫になった。犬というのはなんて忠実なのかとつくづく思った。
犬は、こちらがどんなに不機嫌でも嫌な顔一つせずに、尻尾を振って近づいてくる。もちろん、こちらが相手にしないと、しばらくは様子を計りながら、距離を置いているが、しばらくすると、いつものように近づいてくる。そして、傍に寝転がる。そのしぐさが実に可愛らしい。
そういう姿、行動を見ていると、自分が何故、つまらないことで不機嫌にしているのかと、反省させられる。こちらの喜怒哀楽など一向に気にせず、ただ、相手のことだけを考えて生きているように見える。「犬畜生」という言葉があるが、それは本能をむき出しにして生きる姿を人間が反面教師として、反省の意を込めて自制心を説くべく作った表現であろう。人間界には「畜生」は多く見られるが、犬の世界には「畜生」はいないのかもしれない。
犬は右脳が発達しているというか、左脳が発達していない分だけ、嗅覚をはじめ、各種の感知能力が人間をはるかに上回っていると言われる。人間は、生まれた時に持っていた自然の感知能力を次第に失い、社会生活を営む中で右脳の能力を後退させ、左脳中心の生活をする。
自然治癒力も犬の方が人間よりはるかに優れていると、あの中村天風もインドでの修行の時に学んだ。私たち人間が犬から学ぶべきものが実に多くあるように思えてならない。「人への感謝の気持ち」もその一つのように思える。ある意味、犬は魂の成長において人間より進んでいるのかもしれない。何か嫌な出来事があれば、犬に教えを請うのも良いのかもしれない。
考えてみると、犬は英語で「Dog」というが、逆から読むと「God」である。思わずそんな気持ちで愛犬「もも」を見てしまった。そう言えば明日5月1日は「もも」の4回目の誕生日だ。
2005年03月28日
「天国で君に逢えたら」「ガンに生かされて」を読んで
日本人で唯一、8年間ワールドカップに出場し続けた世界的プロウィンドサーファーである飯島夏樹氏が、2002年5月肝細胞ガンと診断され、2度の大手術と様々な治療を施したにもかかわらず、肝臓は悪化、2004年6月に余命宣言を受ける。同年8月に慣れ親しんだハワイに家族で移住、最後の時まで執筆活動に生きがいを見い出しながらも、今年2月28日に享年38才にて亡くなるまでに書き上げた2冊のドキュメンタリーである。
私は、死を意識して生きることほど、積極的なものはないと思っている。一日朝起きて、夜寝るまでの時間を自分の一生だと思えば、どれだけ前向き、能動的に生きることが出来るだろうか、と思う。それまで、自分で価値があると思っていたことが、どうでもよくなり、日頃気づかなかった些細なことに意味を見い出し、回りの人々に感謝の気持ちを強く感じるようになる。
事実、飯島氏は、著書の中で、「だから、ガンになって、苦しんでいることにありがたみを感じた。全く不思議な思いである、『ガンになってよかった』なんて・・・。」とまるで不治の病に対して感謝するのである。妻と幼い子供4人を残して先立つことへの恐怖、悲しみ、無念さで一杯であるはずの本人が、余命僅かなところで、それほどの感想を残せるとは、自分ならきっと無理ではないかと思わせる、まさに魂の叫びである。
彼自身が確実に死に近づきつつある中で、次の言葉に出会う。
「どうしたらすばらしい、愉快なことが楽しめるか」を問う代わりに、「今どんな善いこと、正しいことをなし得るか」をたずね、あるいは、この究極の目的のためにどのように自分の状態を改めたらよいかを絶えず問うことに、あなたの全思考力を向けているならばー
あなたが住むこの世界について、全く違った、より満足すべき観念が得られるであろう。(中略)そうなると、さしあたり、善を行う機会さえあれば(この機会がないことはまれだ)、あなたの生活がいくぶん苦しかろうと楽であろうと、また、あなたが健康であろうと病気であろうと、そんなことはこれまでより、ずっとどうでもよくなるだろう。」(ヒルティ『眠られぬ夜のために』)
彼は病に侵されたお蔭で、全てのものが善きものに変わった、と思えるようになるのだ。尊敬出来、頼れる主治医のアドバイスを受けれる状況の中で、やはり彼は感謝の意を表明する。「僕は恵まれすぎるくらい恵まれている。終わりの時に向かって、地図も持たぬまま脅えながらよろよろ歩くか、それともしっかりと地図を見ながらふんふんと納得し、安心してその道を歩くかでは、随分違うと思う。」、と。 これ以上は、私自身がいくら感想を書いたところで、大して意味があるとは思えない。むしろ、著書の中で彼が書いている文章を幾つか引用してみたい。
「終わりの日を垣間見ることによって見えてくるものがある。その日を感じる事によって、優しくなれることがある。
天命を全うする。
天から与えられた最後の仕事を全うする。
その方が今の僕には興味がある。
天に宝を積みなさい、という言葉がある。なざなら、この地上でいくら宝を蓄えても、虫食いと錆でどうしようもなくなってしまうから。」
「どの人も“怒りの人”になっている。“怒りの人”を見るのが、あるときから僕はとてもつらくなった。なぜなら、“怒りの人”の行きつく先に希望はない。たとえ何か得をしても、幸福も安らぎもないと僕は感じる。最終的に辿り着くべきなのは、受け入れること。結局はそこへ行くべきではないだろうか。」
「僕は選手時代の長い間、船とマークを結んだ見えないスタートラインをベストタイミングで切ることに夢中になっていた。見えないスタートライン。決して他人との戦いではなかった気がする。どちらかと言えば、わがままでコントロール不可能な自分自身との感情との戦いだったと今は思う。
―こうあるべきだ。自分はこうならなくてはいけない。
そんなつまらない小さな思いに、右へ左へ心をかき乱されていた。しかし、結果は違った。
―いつもその時その時に、自然から与えられる見えない風といかに調和し、与えられた環境でいかにベストを尽くすか。
その時はよく分からなかった。でも、今はほんの少し感じることができる。」等々。
飯島氏の書き残した文章は又、紹介したいと思う。
2005年03月21日
「第一の矢」と「第二の矢」
お釈迦様は、人の受ける「受(感覚)」はみな同じであるとされるわけです。しかし、仏の教えを聞いた弟子と、教えを聞かない凡夫との違いは何かについて、説明をされるわけです。
我々は何か苦しいことに出会うと、心の中にはまず、不快の感情が起こり、拒否の感情が起こる。その感情は、普通いつまでも私達の心をとらえて離さないものです。この何か苦しいことが「第一の矢」であり、その後に心に突き刺さるのが「第二の矢」なわけです。お釈迦様はこの「第二の矢」をどう避けるかが、処理するかが大きな問題であるとされるわけです。
そして、彼は、苦しいことはもちろん、楽しいこともまた同じであると言うのです。私達は何か楽しいことに出会うと、心中にはまず、快の感情が起こり、愛着の感情が起こる。その感情もまたいつまでも私達をとらえて離さないものです。
しかし、美しい花はすみやかに散り、愛するものともいつかは別れなければならない、楽受に愛着することはそのまま苦受につながる、かくて、私達は、また、憂え、悲しみ、胸を打って泣き、なすところを知らざるものとなる、と説くのです。
お釈迦様は決して、私達人間が、感情を圧殺したほうが良いと言っているわけではないのです。そんなことをすると決して人間のよい生き方ではないわけで、実際不可能である訳です。
彼が戒めているのは、感情に溺れ、感情に囚われ、感情に圧倒されることは決して人間の正しい生き方ではないと言っているのです。そういう意味では、お釈迦様は理性を重んじる考え方の持ち主であったと言えるでしょう。
そもそも、仏教では、「禍」と「福」、「幸」と「不幸」を区別しないようです。全ての物事は善悪を超越した「空」と見ます。「禍福」「幸不幸」は決して別物ではないとするわけです。そういうふうに考えると、日常の悩み事について必要以上に考えこまなくてよさそうです。つまり、胸に突き刺さる「第二の矢」を避けることが出来るわけです。
目の前の新しい事態、しかも、あまり望ましくない事態を受け入れる時、つまり「第一の矢」が飛んできた時、それ以前の過去や価値観にとらわれていたら、事態は悪くなる一方です。新しい事態は固く硬直した心ではなく、柔らかな心で受けとめ、しなやかに対処するのが、「第二の矢」を避ける極意だと言えそうです。
つまり私達の心の持ちよう一つで人生が大きく変わるのではないかと思うのです。実際こんなことを書いている私自身は最近の悩み事にどう対処すれば良いのか考えている毎日であり、今まで学んだ先人の教えに改めて感謝するこの頃です。
幸福の根源とは
私たちは、「いのち」があること、生きていることを当たり前だと思って生活をしています。「手が動く、足が動く。」当たり前。「腹が減る、食べる。」当たり前。「疲れる、眠る。」当たり前。全て当たり前だと思って、「いのちがあるお蔭」だとは気づきません。「いのち」が幸せの根源であることに思い至りません。
身近な人の死に出会う時、私たちは始めて「いのち」のはかなさを知り、「いのち」はあって当り前のものではなかったことに気づきます。
人の幸せは、どんな境遇にあろうとも、どういう仕事をしていようと、他でもない、この「いのちの尊さ」を見つめることから始まるのだと思います。
2005年03月17日
「瞑想」の効用
そして、現実に起こっているゴタゴタに動じることがなくなり、しばらくの間とはいえ悩みが消えます。まさに「涅槃」(ねはん、仏教用語)の境地と言った感じです。
私は、「瞑想」時には「般若心経」や「十句観音経」を唱えるのですが、唱えている間は、心経を思い出すのではなく、口が勝手についてくるといったイメージです。心経を唱えながら、その日にあったことを客観的に見つめ直すといった感じです。
そうしていると、ほんのひと時ですが、とても穏やかな気持ちになれるのです。こういう風に書くと、奇妙な人間だと思われるのが少々心配ですが、正直なところです。
私の場合、「瞑想」のお蔭で何故か不思議と力がみなぎってくる気がするのです。無理に「成功法則」だとか言って、プラス思考をしろ、とか、無理に自分の心を追いやるよりもはるかに幸せになれる気がするのです。
2005年03月13日
「フロー理論」とは
今日は「花粉症」も気になり、一日中家の中でぼ〜と過ごしていた。最近の難題を考えつつ、昔社会人になった頃のことを何気に思い出していた。
大学を卒業して、縁あって入社した日本の銀行で最初に配属された部署は京都市内のとある支店であった。当時、入社したての新人は全て各支店にて基礎的な銀行業務を学ぶ。しかし、学生からようやく抜け出た程度の若輩が先輩行員並みに戦力となれるわけもなく、自分より若い先輩女子行員に毎日ご迷惑をお掛けしながら、札や硬貨の勘定をし、そろばんと格闘するわけである。当然のことながら楽しいわけがない。
そんなある日、支店のNO.2の次長が、「そのうちに毎日銀行に来るのが楽しくなるよ。とにかく、手を動かして、一刻も早く皆の力になることだぞ。」と仰った。彼は所謂たたき上げの、「泥臭さ」のある典型的な昔のタイプの銀行員であった。
当時は毎日の仕事が本当に単調で、無味乾燥に思えたものだ。中南米向けのシンジケートローンなどに興味を持ち、将来は大きな仕事をやろうと大志を抱いて大手銀行に入ったつもりの自分としては、日常の銀行業務がつまらなく思えたのだ。
著名な心理学者、チクセントミハイが提唱した「フロー理論」というのがある。彼は人間の行動の動機付けの問題を解いているのだが、人の喜びというのは、仕事であるとか、遊びであるとかに関わらず、何かに没頭して喜びや楽しみを覚える状態、即ち彼の言う「フロー」の状態が人間の行動を決定付けると説いた。
一般的には、人間というのは、金銭、地位、名誉などに対する期待や、処罰や不名誉に対する恐れなどによって動機付けられるとされ、チクセントミハイはそれらを「外発的報酬」「外発的処罰」と呼んだ。
一方、いかなる報酬を生まなくても、その動機が内部にこみ上げてくる喜びや楽しみである場合、それらを「内発的報酬」と名付けた。
よく言われることは、「仕事」は自分自身の心からの願望に逆らって過ごすもの、「遊び」はたとえ無益であっても好きなことをすることだ、とされている。事実、昔、日本の銀行に入りたての私にとっては、毎日の「仕事」が自分の心の底からの願望に逆らって過ごすものという気持ちが強かった。まさに「外発的処罰」を受けないための「労働」であったわけだ。
しかし、チクセントミハイはそうではなく、即ち、「仕事」か「遊び」という二分ではなく、人間にとって、「外発的報酬」か「内発的報酬」かの区別が最重要になるとしたわけだ。
そして、彼によると、何かに没頭して、喜び、楽しみを感じることの出来る人間、即ち「フロー」の状態にある人間は、「好運」を招き寄せることが出来、結果として、幸せな人生を送れるのだと説いたのだ。
人間が「フロー」の状態にあると、偶然が次々と起こり、出来事が収まるところに収まり、障害が消え去る。人生は無意味な戦いではなくなり、納得のいく目的と秩序の感覚に満たされる。フローは人生を変える莫大な力を秘めている、と彼は提唱するのだ。
私は、市場部門に配属されてからは、自分の仕事に楽しみを感じ始め、気がつくと「仕事」に没頭する毎日を送っていた。毎日銀行に行くのが楽しみになっていた。その意味で、「フロー」の状態に入っていたのかもしれない。
私は、持論として、幸せな人生を送るには「快」を大切にすることが重要だと思っているが、チクセントミハイの理論は私達の心の状態、好運へのプロセスについて極めて説得力をもって解き明かしてくれていると思うのだ。
2005年03月12日
「男のロマン」
私は「男のロマン」という言葉が大好きだ。別に「女のロマン」がないわけではないけれど、私は男なので、今まで自然と口にしてきたフレーズである。
それでは、「男のロマン」とは何だろう。私の心の中では、以下のように解釈している。地位、名誉、お金などに、とらわれず自分がこの世に生まれた使命感のようなものを感じつつ、好きな事、得意な事を世の為、人の為に行い、心の底から喜び充実感を感じながら打ち込めること、といった感じだ。沸々と、心底から満足感を味わえ、時間が経つのを忘れ、精神的疲労感もなく、充実感を感じることが出来、周りの人からも感謝され、生きていて良かった、と至福の感覚だ。
今の自分を振り返ってみると、現状は「決してうまくいっていない」状況である。それでも、何とかしようと思っている。何とか出来るのは自分だと思っている。決して思い上がりではなく、自分の責任、任務だと認識している。ある意味、自分の人生の中で最大のピンチかもしれない。自分は今までかなり恵まれていたと正直思う。何か困難が生じても、どこからか解決策が現れ、又、先輩・友人が助けてくれた。不思議なほど、自分はラッキーだったと思う。しかし、今回はかなり今までとは違う。
ひょっとしたら、神様が自分を試しているのかもしれない、そんな気がする。どこまで真剣にやれるか、人生目標に対する志の高さを確かめる為の最大の試練であるかもしれない。決して逃げず、真正面から問題に直視し、挑んでゆきたい。それが、今までお世話になった人たちへの恩返しかもしれない。
