「アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。」


Twitterで大きな反響を呼んでいると知って一読しましたが……これは……ひどい……。
劇場版ラブライブおよびTVアニメ1期2期に関しては元々万人向けの内容ではなく、完成度が高いとはとても言えない作品であると思っているので、これらを絶賛しようが扱き下ろそうが全て一つの意見として尊重されるべきだと思っています。
従って、劇場版ラブライブが失敗作であるとして評価自体を批判するつもりはありません。
しかしその過程に置いて、あまりにも偏った意見や間違いが散見される上に、作品評とは関係の無いファンの人格攻撃まで行うのは流石にダメだろう……。

そんな訳で上記の記事を引用しつつ、 該当個所へのツッコミを書き連ねてみました。
劇場版のネタバレがあるので追記にて記しますが、上記のとおりラブライブが好きな人には気分を害する様な内容もある為、閲覧の際はご注意ください。




 


 






 劇場版『ラブライブ!』の中盤で、μ'sは重大な選択を突きつけられる。3年生の卒業をもってμ'sとしての活動を終了するのか、それともμ'sを続けるのかである。穂乃果は逡巡の末、μ'sが「スクールアイドル」だから、という理由で活動を終えることを宣言する。この瞬間から突然、今まで大して重要な意味を持たなかった「スクールアイドル」という言葉が物語のキーワードとなる。
 

先ず「スクールアイドル」という言葉が、アニメ1期で重要な意味を持たないと言う指摘には賛成します。
しかし2期に於いては、1話から既に「スクールアイドル」について間接的に言及されています。
それは何かと云うと「卒業」です。1話で三年生は卒業を前提として、残された時間の中でアイドル活動を続けていきたいと言っています。一般的な意味での卒業は必ずしもアイドルとしての引退を指すものではありません。しかしことスクールアイドルに於いては本人の意思や実力に関わらず、留年を除けば最長で3年という絶対的な活動制限があります。
これは商業アイドルにはない特殊な事情であり、それを踏まえた上でμ’sがラブライブ優勝を目指そうとしていたことから、スクールアイドルの特殊性がストーリーの根底にあることは明らかです。故にワードとして度々登場しなくとも、「スクールアイドル」は2期から既に重要な意味を有していると考えます。





問題点を明確化するために、3年前に現実世界で開催されたあるライブイベントと対比してみたい。それは「ゆび祭り ~アイドル臨時総会~」といって (中略) つまり「ゆび祭り」は、指原のアイドル愛が余すところなく表現されたイベントであり、アイドルオタクの成り上がりストーリーを体現したからこそ、感動的なイベントだったのである。


比較対象として商業アイドルを挙げる時点で既におかしい気がしますが、一先ず「アイドルオタクの成り上がりストーリーを体現した」ことがそのイベントの意義であったと仮定します。


では、アニメ『ラブライブ!』のストーリーを締めくくったあのお祭りは、どのような物語性を内包していたのだろうか。筆者の考えでは、残念ながら「どのような物語性もない」のである。


劇場版ラブライブの最後のライブには物語性は存在しないと言ってますが、あのライブは「次のラブライブを開催する為に、スクールアイドルの素晴らしさを知らしめる」意義を有していました。
そもそもμ’sは次のラブライブを開催するために劇場版の最初から動き出しており、ラストで直接的な描写はないものの、ラブライブのドーム大会が開催されたと言及されています。それは世間に「スクールアイドルの魅力」が波及した為であり、ライブの意義は達成されたというストーリーが成立しています。故に物語性が無いと考える方が不自然なように思えます。
そもそもここで言う「物語性」とは何なのか。厳密な意味で言えば物語性の無いフィクションなど存在しないし、何のつながりもないものを時間、空間に沿って配置するだけでそこに物語は成立します。この先にも何度も「物語性」というワードが出てきますが、それがどのようなものであるのかは残念ながら具体的に言及されていませんでした。




あのお祭りでは、「スクールアイドル」がキーワードになっていた。しかし今までの『ラブライブ!』で、「スクールアイドルはいかにあるべきか」とか「スクールアイドルの未来」とかいったことが主題になったことは一度もない。

だから劇場版では導入部から次のラブライブという名目で、「他のスクールアイドルの未来」について触れられているのですが……TVアニメで触れていないからダメというのは、流石に理由にならないと思います。


穂乃果たちは、今まで他の(A-RISE以外の)スクールアイドルのことなんかちっとも考えてこなかったのである。最後の最後になっていきなり《スクールアイドルという問題》を提示されても、あまりにも唐突だと言わざるをえない。


最後の最後が劇中の何処を指すのかは分かりませんが、劇場版の序盤から他のスクールアイドルのことを考えているし、中盤ではμ’sの今後を考える中で何度も何度も穂乃果や真姫がスクールアイドルについて言及しているのですが……この人本当に劇場版見てきたんですかね?
例えば中盤で穂乃果は次のライブを期待する周囲の声に、μ’sはスクールアイドルで三年生が卒業したら活動できないのにと嘆息していますし、真姫は「(そうしたファンは)μ’sがスクールアイドルであるかそうでないのかなんて関係無い」と指摘しています。スクールアイドル故の特殊性と問題が挙げられていることから、ラストで唐突に浮上した問題ではないと思いますけどね……。




今回の劇場版ラブライブ!でとにかく目につくのが、このように行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーである。映画の前半では、脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行くことになるが、そこで何かを得ることはなく、後半ではまったく無関係なストーリーが始まってしまう。
 
本当に劇場版を見たのかどうか怪しく思える一文ですが、とりあえず劇場版ラブライブのストーリーを端的にまとめると以下の通りになります。
  
①次のラブライブ(ドーム大会)を成功させるため、μ’sに協力してほしいとの要請がかかる。
 海外からの取材要請もあり、スクールアイドルという存在を知らしめるためにもμ’sは海外へ赴く。
 ↓
②海外で穂乃果は女性シンガーと出会い、その存在は彼女の後の葛藤に大きく関わる。
 ↓ 
③海外でのライブが成功したことでμ’sの人気は一気に膨れ上がり、それ故にμ’sは活動継続を求められる。
 ↓ 
④穂乃果たちも迷った末、μ’sは活動終了の方針を変えないが、それでもドーム大会を成功させるためにスクールアイドルを集めたライブと、再度のラストライブ開催を目指して動き出す。
  ↓
⑤二つのライブは成功し、μ’sは活動を終了。そしてスクールアイドル人気も更に高まり、ラブライブ大会はその後を規模を縮小することなく続いて行った。

物語の流れは最初から最後まで一貫しています。
「μ’sの今後」「次のラブライブは開催されるのかどうか」という命題が劇中の序盤から中盤にかけて提示され、ラストでどちらにも決着がついています。物語の流れは無視されるどころか貫徹しているんですね。
導入や展開が雑だと言う指摘は尤もだと思いますが、物語の流れは一度も無視されていないし、前半と後半にはきちんとした因果関係があります。そもそも海外でのライブが成功しなければ、穂乃果たちは外圧に晒されることも無く、また次のラブライブが開催されるかどうかも怪しかったのですし。
例え雑であっても、ストーリーの断絶など一度も起きていないのです。

 


後半のストーリーから逆算すれば、前半では「スクールアイドル」の問題が提示されていたり、μ's活動終了への伏線が描かれていたりしなければならないはずだが、そういったことは全然なく、
 
μ'sの活動終了は伏線どころか、2期で既に結論を出しています。劇場版がTVシリーズを見ていることを前提として作られた作品である以上、これほど的外れな指摘もないでしょう。



この女性シンガーは帰国後にも一度穂乃果の前に現れるのだが、それっきりストーリーからは退場し、穂乃果に思い出されることもなく、謎も一切明らかにならない。映画のキーパーソンであるかのように登場しておきながら本筋にはちっとも絡まないというこのキャラクターは、何のために出てきたのか本当に謎なのである。
他にも、映画冒頭で描かれる、穂乃果が水たまりを飛び越えるという過去エピソードがこの映画のストーリーに全然そぐわないなど、

 頼むからちゃんと劇場版を見てくれ!
あの女性シンガーが穂乃果に思い出されないとか、水たまりを飛び越えると言うメタファーが、映画のストーリーにそぐわないとか、これはもう感覚以前にリテラシーの問題ですよ。
そもそも彼の言う映画のストーリーとは何なのか。穂乃果がμ’sの活動と次のラブライブ開催を天秤にかけて苦悩していたことや、迷いを克服する過程を水たまりとシンガーで表現していたことも、映画のストーリーと何も関係無かったと言うのなら、この人は一体何の映画を見ていたんだ……




とにかくこの映画の脚本はいたるところが継ぎ接ぎだらけの雑なものであり、一貫したテーマがないので物語性を感じられない。 (中略)けいおん!』にはストーリーはない(大したことは起きない)が、物語性はある(一貫した主題がある)。それに対して劇場版『ラブライブ!』には、ストーリーはあるが物語性がないのである。


意味不明。この人の言うストーリーと物語性の違いは一体何なのか。
頭の悪い自分にはさっぱり分かりません。主題が無いと言うことだろうか? けいおんにもラブライブのどちらにも主題はあると思うのですが、そもそもこの人の言う物語性とか主題がさっぱり読み取れないので、これ以上は言及できません。





さて、劇場版『ラブライブ!』は以上のように脚本に重大な瑕疵を抱えているにも関わらず、この劇場版が良かったという人々の多くがこのことを大した問題ではなかったと考えているようだ。(中略)その点にこそ本質的な問題がある。なぜなら、これほど重大な物語的欠陥を目にしておきながらそれを大した問題ではないと言うのは、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という物語性軽視の態度に他ならないと考えられるからである。


だからその物語性って何よ?
この時点から人格攻撃が始まり、正直読むに堪えないのですが……敢えて一言だけ突っ込むとすれば彼の言う物語的欠陥の根拠は全て的外れな上に、具体的に提示されていないので反論すらできないのです。
これは批評の皮を被ったただの罵倒であり、卑怯者の言説ではないだろうか……。





『ラブライブ!』はTVアニメ第1期以来2年半のあいだ爆発的に人気を拡大し、日本の二次元コンテンツを代表する作品の一つにまでなったが、残念ながらそれと同時に、物語性をひどく軽視するファンを増やしてしまったように思う。そういった人々は、μ'sを一方的かつ即物的に消費するだけであり、


はい出ました! 
言葉の意味はよく分からないが、とにかく悪いイメージだけ与える魔法のワード「消費」!
この言葉を無自覚に使用している時点で思考を放棄しているに等しいのですが、そもそもこの人の言う消費って何なのでしょう? μ'sを一方的かつ即物的に消費するってどういうこと? 
オナニーや妄想のネタにすること? グッズ転売すること? 金と時間を注ぎ込まないこと? 好きの度合いが薄い事? 物語性をひどく軽視するファンを増やしたっていうけどそのソースは? 
とにかく、この人が言う物語性って何なのですか?
無学でμ'sを一方的かつ即物的に消費するだけの俺にも教えてください。後生だから。





μ'sのメンバーに共感したり、あるいは彼女らから何かを学んだりしようとするチャネルを持たない。そしてそういった人々の消費態度は、実際に『ラブライブ!』の作品そのものに反映されるようになってしまった。その結果がこの劇場版における脚本の崩壊だと考えられるのである。

崩壊しているのは脚本では無く、この人の論拠です。





たしかにμ'sのメンバーは二次元のキャラクターであり、実在する人物ではない。しかし、雑誌連載時代のファンは彼女らがまるで生きている人間であるかのように交流し応援してきたのではなかっただろうか。

これに関してはアニメから入った人間なので詳しくは分かりません。ただ「彼女らがまるで生きている人間であるかのように交流」とは何を指しているのでしょうか。そもそもここでいう彼女たちって物語のキャラクターなの? それともステージに立つ声優なの? 交流って具体的に何をしたの?





もちろん本当に生きているわけではないと知りつつも、それでも彼女らの人生を共有できると信じる真摯な姿勢、それこそがTV版第1期の物語を生み出した原動力であったと思う。

人生を共有するというワードがそもそも意味不明ですが……仮にキャラクターの人生を物語的に体験するという意味であれば、アニメ化以降にSIDやTVシリーズで(媒体によって違いがあるとは言え)、それぞれのメンバーのバックボーンが提示されたという事実をどう捉えているのでしょうか。




 
 劇場版の脚本では、そのような真摯さはすっかり失われてしまった。μ'sのメンバーはこれまでどのような人生を歩んできて、どういう動機でμ'sに参加し、何を考えて今まで活動してきたのか、そして今後はどうするつもりなのか。それらのことを踏まえれば、μ'sはどのような結末を迎えるのがふさわしかったのか。そういったことを真剣に考えた上で脚本を練り込んでほしかった。

 それ全部TVアニメと劇場版でやってるから!
μ'sはどのような結末を迎えるのがふさわしかったのかって、公式で答え出してるし! 
2期も劇場版も同じ命題を取り扱って、全く同じ結論出しているし!
もう良く分からんから、この人の言う相応しい結末とやらを教えてください……





アイドルは単に華やかに笑顔で歌って踊っているから魅力的なのだとか、メンバー同士仲睦まじく百合的関係性を構築しているから魅力的なのだとかいうのは、それぞれ一つのアイドル観であるし、それ自体が悪いわけではない。しかし、アニメ制作陣、つまりアイドルを生み出す側の人間までそのようなアイドル観に染まってしまってはならなかった。アイドルにはそれぞれの人生があり、物語性があるからこそ魅力的なのだ。そのことをわかってほしかったと思う。

 
分かって欲しければ、具体的に書いて制作者に送れば良いんじゃないですか。
少なくとも自分は貴方の言う「物語性」とやらがさっばり読み取れないのですが。





劇場版『ラブライブ!』で穂乃果以外のメンバーがストーリーの本筋に絡む主体的な行動をすることはない。肝心のμ's活動終了問題に際しても、それぞれのメンバーがそれぞれの思考で異なる行動をとるどころか、穂乃果が結論を述べた途端、ことりの「想いはみんな一緒のはず」などというセリフで全員一緒くたにされてしまう(この同調圧力、真剣に怖いし、これが肯定的に描かれているのがもっと怖い)。第2期以来ずっと、彼女らの役目は穂乃果が下した決断に「さすが穂乃果」と言って従うことになっているのであるが、これはただのマシーンであって、人間ではない。
 
同調圧力という言葉を使うなら、先ずその意味をちゃんと調べてから使ってください。それはただの「以心伝心」です。
あとμ's活動終了問題では活動継続を拒否する真姫とにこ、それに対して未練を見せる絵里、希、迷う穂乃果、ラブライブの開催を懸念する花陽と凛の姿が描かれていますけど? 三年生だけ集まって話し合っているんですけど? それぞれのメンバーがそれぞれの思考で異なる行動をとっているんですけど? 最終的に結論が同じだっただけで。
もうツッコミどころしかありません。この人本当に劇場版見てきたの? まとめサイトの適当なあらすじ齧っただけじゃないの?




このように8人のメンバーの主体性が奪われてきた一方で、それと反比例するかのように各メンバーの薄っぺらいキャラ付けは強化されてきた。(中略) この劇場版において、花陽がどういう想いでアイドル活動をやっているのかとか、メンバーとのあいだにどんな新しい人間関係が生まれたのかとか、そういうことは全然描かれない。

だから第1期からちゃんと見ろよ! 全部既に描かれているだろうが!
2期5話でまきりんぱなの新しい関係性が、ちゃんと描かれているだろうが! 
あと劇場版で理事長から活動継続を要請された直後、誰もが自分たちの事しか考えていなかったなか、ただ一人だけ次のラブライブ、ひいては他のスクールアイドルたちのことを心配していたのは誰か思い出して!




完璧なアイドルを演じ続けることの困難さ、時代遅れさを自覚しつつも、それでもなおその道を貫こうとしている。その職人気質、ストイックさ、生き方が人を惹きつけるわけである。このように、アイドルのキャラ付けは表面的にわかりやすいものであると同時に、その人の人生や信念と深く結びついたものでもあるからこそ、見る人の心を惹きつける。アイドルは人間だからこそ、魅力的なのだ。

にこを見てください。
頼むから……頼むからちゃんと見て……


しかし『ラブライブ!』は、元々はそういうキャラ付けをする作品ではなかった。それなのに作品人気が高まり、ファン層が入れ替わるにつれて、人間を描こうという当初のスタンスがすっかり失われてしまった。(中略)『ラブライブ!』を、こんな消費の仕方をするための作品にしないでほしかった。

もうここまで行くとこの人が言うラブライブと、自分が知っているラブライブは名前が同じだけの別作品にしか思えません。
あと「消費」が何なのか説明して……




劇場版『ラブライブ!』が素晴らしいと言っている人たちは、μ'sというアイドルに対してまるで愛玩動物か観葉植物に対するかのように接し、見かけや単純な反応、単純な関係性だけを楽しんでいる人々なのではないだろうか。それに対して僕は、μ'sのメンバーがたとえ二次元キャラクターであっても彼女らを人間として感じたいと思っているし、彼女らの人生に共感し、それを自分が生きるための糧にしたいと思っている。要するに今の『ラブライブ!』を賞賛する人々と僕とでは、アイドル観が根本的に違っているのである。


アイドル観どころか認知機能の時点で異なっているんじゃないかと思うくらいの偏見と、誤りのオンパレードなのですが……。
「俺こそが真の理解者だ」と叫びたくなる気持ちは分からなくもありませんが、「彼女らの人生に共感し、それを自分が生きるための糧にしたいと思っている」って、それこそ即物的な「消費」ではないのですかね…





ツッコミは以上になりますが、これの何処がラブライブ好きによる愛の籠った批評なんだ?
描写の読み違いや偏見に凝り固まって、果ては「人間性」とか「消費」とか「物語性」とかどうとでも解釈できるジャーゴンを振りまわして、他人を殴りつけているだけのテキストじゃないですか!
最初に言いましたが、自分は劇場版を失敗作と評すること、アニメ2期を否定的に捉えることには何も批判しませんし、その意見を尊重します。
けれどこれは全然違う。ただの罵詈雑言でしかない。

こんな風にしか作品への愛を表現できない人の意見など、傾聴には値しません。
勝手に怒ってろ!