◆また超長文です。私的意見ですので、情報ソースどうのこうのツッコミは無しでw

◆アイマス2関係で、どこかで今もブスブスくすぶっている状況ですが(不買運動署名とか、もうね・・・)
 プロデューサー仲間内でいろいろ話していて出たことや、ちょっと考えたことを書き連ねてみる。
 今回は、プロデューサーとなったきっかけで変わる「Pの意識」についてのコラムです。
 
●同人誌から見る、アイマスの「入り口」によって違う「P」という位置づけ

 アイマスの同人誌をオンリーイベントやコミケで買い込んで、気がつけば300冊ぐらい持っている
 自分ですが、そのそれぞれの物語を読んでみると、描く作家さんの「アイマスの入り口」で
 結構はっきりとキャラクターやPの位置づけが違ってきていたりします。

 .▲吋泪垢入り口

 →ほぼ作品にPがいて、アイドルと二人三脚の物語が多い。もしくは背景にほぼ居る。

 360〜DS(家庭用)が入り口

 →Pはやや影が薄め、いたりいなかったりで、アイドルたち同士で絡む物語が多い。

 ニコマスなどの動画が入り口(ゲーム未プレイ)

 →Pはほとんど現れず、アイドル同士がメインになる。

 と、いう傾向が見られます。さて、さらに「別の入り口から入ったが、アケマスで遊んだ事がある」
 作家さんは、Pがどこかに登場する回数が増えるようになったりします。
 (※もちろん、全ての作家さん、作品がこれに当てはまるわけではありません。)
 
 ゲーム系の同人作品というのは、「プレイして感じ取った(体験した)事」がもっとも内容に反映されます。
 「見たり聞いたりしたこと(※プレイしていない情報)」というのはどうしても、想像・妄想で補完せねば
 ならないので、作家の我(が)が出てきて、内容がどうしても原作と離れていくわけです。
 元々全年齢向けの作品の18禁同人なんて、それを膨らませた極致であり、実際のゲームでセックスして
 いるわけでもなく、そういう台詞を実際に言うわけでもありません。

 ただ、読み手が「ありえないけど、あるある」と感じさせる必要はあるわけで、作品をちゃんと知らないと
 読み手にとっては、「なんだこれ、全然遊んでないだろwww」と思われ、作品の楽しみは半減以下となります。
 (※それはそれで面白い作品もあるわけですけど、作家さんの技量にだいぶ左右されてしまいます。)

 同人作品というのは、薄っぺらいながら作品の「非公式な拡大した世界」を感じとるデバイスであり、
 かつ根底にある「公式の世界」を知るデバイスにもなりうるものです。
 アイマス同人業界というのは結構特殊で、比較的固定された作家陣が中心にアケマス時代からおり、家庭用作品が
 出るたびに新規サークルが徐々に追加といった流れになっていて、時期に合わせた変化がわかりやすい
 特徴があります。
 
 ではなぜ、「アケマスをプレイしたら、作品にPが登場しやすくなるのか?」
 ゲームの性質上、ネットを通して「リアルにいる人間vs.人間」という構図がアケマスにはあり、
 「プロデューサー=プレイヤー、アイドル=ゲーム上の駒」という意識が強くなるためだと思われます。
 つまり、ゲーム中のプレイヤーの意識としては、「プロデューサーとしてアイドルと関わっている」
 立ち位置になり、お話を作る場合「自分がいて、彼女がいる=Pがいて、それにアイドル達が関わる」
 という形になりやすくなります。
 またそれを印象付けるのが、「1回でもオーディションに落ちると、後が無くなるシビアさ」。
 そういう「綱渡り」がより、「Pとアイドル」を結びつけることとなります。
 これが印象深い作家さんが、キャラ中心に心情を描いたとしても、ほぼ必ずPがバックにいる
 (※見守っている存在として)ことになりやすいのです。
 
 それでは、家庭用から入って、アケマスに関わらなかった人からみれば、この構図はどうなるのか?
 特に、ニコマスなどの映像から入った(ゲーム未プレイ)人にとってはどうなるのか?ということですが・・・

 傾向としては、Pの存在というのは希薄(いたとしてもかなり後ろのほうにいる)「アイドル同士の絡み」が
 前面に出てやすくなります。いわゆる「カップリング」が、同姓であるアイドル同士で構築されるようになるのも、
 そこに理由があるようです。(「はるちは」とか「やよいお」とか「たかゆき」「まこゆき」「みきまこ」とか)
 しかし、実際のゲームでは、アイドル同士での絡みはほとんどありません。「アイドラ」では少しだけ絡みますが。
 どちらかというと、CDのドラマパートや、アイドラなどの追加コンテンツでのお話、いわゆる「外伝」要素で
 その部分は補完されてきていて、その「素材」から作家さんの創造部分が組みあがるわけです。
 また、創作する作家さんにとって、アイマスというジャンルに触れてきた部分に、どれだけ「Pの存在感があったか」
 という所が、Pの立ち位置を作り上げるのでしょう。

 では、なぜ「Pの存在が希薄」になりがちなのか?というと、家庭用ゲームをしていると自ずとコンピューター相手
 が中心です。人間同士ではなく、「アイドル同士が戦っている」という意識になっていくからだと思われます。
 つまり、特にオーディション中は、「アイドル=プレイヤー」という構図が強く意識されてしまうのです。
 簡単に言えば、「ゲーム中のPを介することなく、直接アイドルと繋がっている」という意識を持つのが
 家庭用版です。

 MAD動画からという人はさらにその部分がアイドルしかいないことが多く、キャラクター好みの傾向がより
 強く意識する事が多いでしょう。Pとしてサポートするのではなく、ファン代表P的な思想となるようです。
 上記のような18禁作品においても、P以外にアイドルが襲われる・・・というものが作られやすい傾向になり、
 いうなれば、「アニメ・漫画作品の同人誌」に近い内容になるのです。
 
 ここに差があります。つまり、「アイドルと自分を重ね合わせる意識の強さ」に、アケマスの経験のある人と、
 家庭用しかない、動画しか観ていない人との差が生まれています。
 
●なぜ、この差を考える必要があったのか?というと、その未だに「燻っている問題」のこと。

 そう、竜宮小町の件について、です。 

 竜宮小町の件で、燻っている部分はプロデュース出来ない、というのも大きい要素になりますが、
 「伊織・亜美・あずさ・律子と身近に接する事ができない」要素が一番ひっかかっているのではないかなと。
 Pの意識より、アイドルに傾ける意識が強い人ほど、この部分に納得がいかない、と考えているように思います。
 
 つまりは、「自分が選んだユニット以外のアイドルとは、いつも戦って蹴落としてきたんじゃないのか?」という
 意識を元々持つか否か?という部分で意識の差が大きいように思います。

 ゲーム中は特に触れられませんが、アイマスは本来の性質上(同キャラ対戦があるといっても)、自分の愛する
 アイドルで構成した「ユニット」以外は全て敵であり、ライバルであるわけです。
 それは765プロ内でも一緒。SPでは、作中に描かれませんが、アイドルアルティメイトで優勝すれば、
 自分専属以外のアイドルは、すべて敗北しているはずなんです。はっきり言って「団結なんてどこへやら」です。
 DSでも、結果的には765プロアイドルを負かしている事になります。

 アケマスの経験値が高い人は、特にこの「設定」をしっかり心に持っており、この「竜宮小町」の件に対しては、
 強い批判をしている人は少ないように思います。
 (※もちろん、アケマスからこの4名のPという人はツライ想いをしていますが…)

 「アイドルマスターというゲームは、芸能界サバイバルを勝ち抜き、トップアイドルを目指すものではないのか?」
 「自分(プロデューサー)が、愛するアイドルユニットのみを幸せにするものではなかったのか?」

 この言葉に相反する「団結」というのは、どちらかと言うとゲーム外の要素から生まれた後付設定で、
 「765プロは、和気あいあいと芸能活動を楽しんでいる事務所」という部分と、「アイドル同士は仲良しこよし」
 という設定がCDのドラマパートなどで組み上げられ、強調されています。

 ここに実は大きな矛盾が生まれていました。
 じゃあ、アイドルマスターの本質は、そもそも「サバイバル」なのか?「団結」なのか?

 もちろん、アイドル同士がギスギスしたCDドラマなんて聴きたい人なんていないでしょうし、
 「765プロ全員にスポットを当てるためには」、アイドル同士を仲良くさせねばいけなかったのでしょう。

 だがアイマス世界には、「勝者がいれば、敗者もいる」ということは忘れていいものなのか?
 SPでは、対961プロとして「ライバルがいる」ストーリーも語られましたが、結果的にはまだ
 弱い要素ではありました。
 DSでは、勝敗がエンディングに左右することが多いシステムになっていますが、勝敗後には
 「負けた側のペナルティ」はほとんどないようなシナリオになっていて、負けてもリカバリー出来ない部分を
 考えなくて良い構成になっています。

 実は、「2ndVision」という意味がここに現れ始めています。

 そして、アイマス2です。

 テーマは「団結」としながらも、竜宮小町やジュピター、そしてまだ見えぬNPCユニットと「サバイバル」して
 アイドルアカデミー大賞を勝ち取らなければなりません。
 この「サバイバルからユニット、そして765プロ全員の団結につなぐストーリー」を楽しむのが、
 2の楽しみ方の中心となるのでしょう。エンディングもDSのように、シナリオ分岐でマルチエンディング
 となるようです。

 竜宮小町やジュピターとして具現化した、「今まで必ず居たのに見えなかった765プロのライバル」は、
 果たして「団結」に至るまでにどれほどの「魅力」を持っているのか。
 それは、過去までの「プロデューサー同士の団結」と同じ意味、いやそれ以上の意味を持つのか。
 竜宮小町は、プロデュース出来ない(Pとのメインシナリオから外れる)事に、どれだけの大きな意味を持つのか。
 
 すなわち、アイマス2の「プロデューサー」は、「765プロ総合プロデューサー」にならなければならないのか?

 これを楽しめるか否かで、ゲーム発売後に大きな評価の差を生む事柄となるのでしょう。
 個人的には、これは大変楽しみにしていますが、シナリオ如何によっては大きな痛手になりそうで怖いです。
 
●アイマス1という世界は、元々「ちぐはぐ」で「非常に狭い」世界、しかし「組み合わせは無限大」だった。

 アイマス1は、自分と、自分の愛するトリオまでのアイドルユニット(実質対象は一人のアイドル)
 が居ればいい世界。
 ライバルなんて、関係ない。勝って蹴落として、100万人以上のファン(スコア)という結果を得るゲームなのです。

 しかし、向こうには現実の人間が居ました。ほんの少しの負けが許されない世界でもありました。
 (※敗北ペナルティについては、家庭用ではやり直しが効くので、緊張感は薄くなってしまいましたが)

 根本的にはサバイバル。競い合い、蹴落としあい、勝ち得たのがPランク「アイドルマスター」や
 400万のスコアでした。
 その過程で、限られた数のアイドルとの「ぶつ切りのシナリオ」をプレイヤー自身でつなぎ、無限の物語を
 紡ぐ作品が、アイマス1でした。
 そこに醍醐味があり、苦行ともいえる戦いがありました。そこは物凄く狭く、線のような世界です。
 
 アイマス2は何故「パラレル世界である」という事が、最初に強調されたのか?

 アイマス2は、「765プロ全体を見る」という要素が、新たに加わっています。
 そう、対象は「限られた765プロのアイドル」だけではなく、「765プロダクション全アイドル」でも
 あるという事です。
 確かに、最初に選べるトリオユニット、そしてリーダーという「エンディング対象」となるアイドルがいます。
 しかしこれは、「始まりに過ぎないという事」であるということ。
 さらに、今回は今までになかった、「横のつながり=絆」も加わっていると思われます。
 それがもしちゃんと表現されるというのなら、今まで「線」だった部分が「面」になります。
 その「線」のような世界だった前作とは違い、「面」の広がりが、アイマス2という世界を作っているのです。
 Pとしては、「個人のプロデューサー」ではなく、「765プロ総合プロデューサー」として
 関わることになるようですね。

 「世界は一つになる」という、根本のテーマに公式はどれだけの物語を用意してくるのか。
 まさか、同人の部分でそこを補ってくれとは言わないと思いますけれど、その「横の広がり」を楽しむのが
 アイマス2なのではないのか、と。
 なので、「事務所経営シュミレーションアドベンチャー」要素が強い作品になるようなシステムなのかと。

 まだ、その辺りの「シナリオの情報」はぜんぜん公開されておらず、現時点ではどうなるかわかりませんけどね。

●アイマス1は「料理できるもの」として自分で作れる「家庭料理」となる作品。
 アイマス2は「料理されたもの」をいただき、評価する客となる作品。


 アイマス界隈の現状を、ちょっと「レストラン」で例えてみましょうか。

 アイマス1のプロデューサーは、言うなれば素材から料理を作るお母さん(※料理が出来る素人)でした。
 「料理できるもの」には無限の拡張性があるものの、作るのはプロではないので、大きな矛盾や
 ズレも生んでいました。
 アイマス2のプロデューサーは、例えるならレストランに通う客です。
 料理されたものには、限定された拡張性しかありませんが、矛盾点も小さくてすむものです。

 今回、我々プロデューサーお客として、レストラン765でお金を払ってその新メニューの料理を食べに行きます。
 固定ファンのつく「自由に味付けできる」家庭料理に、プロらしい新調理法を加えたもので、
 見栄えも味も大胆にすばらしい変化をしている、とシェフが大々的に宣伝しました。

 その新メニューは、もちろん実際に食べてみるまで、我々には美味いのか不味いのかはわかりません。

 それを食べずに見て聞いた事だけで激昂し、レストラン765に「味を戻せ、調理法を変えろ、
 そう思う人この指とまれ!」という抗議をする人がいます。
 「レストラン765なんかにもう二度と食いに行くものか!そう思う人はこの指とまれ」という人もいます。
 それは、経験に基づかない「予想・想像」だけで形作られた「不安」の主張は、正しい主張ではないと
 言えるでしょう。
 しかしその「不安」は誰しも持つ可能性があり、まとまってしまう事で、予想だにしない
 大きな力になるかもしれません。

 だからといって、レストラン765はポリシーを曲げるわけにはいかないでしょう。
 もうすでに、新メニューのために莫大なお金と時間がかかり、沢山の人が動いているのですから。
 もしその要求に対して曲げてしまった時、きっとレストラン765は潰れてしまうでしょう。
 それは、お客となる、我々全体の望む事でしょうか?

 しかし、レストラン765のシェフはその宣伝の仕方も上手じゃなかった。
 まくしたてるように、まるで常連客が「一気に全てを受け入れてくれるはずだ」と言わんばかりに、
 新メニューのアピールポイントを紹介してしまったのです。

 しかし、あまりの情報の洪水に、客達はいきなり全てを受け入れる事が出来ませんでした。

 その紹介された情報というのは、まずマイナス面となる事ばかりが目立っていた。
 もちろん、プラス面という部分は、マイナス面がないと目立ちません。
 しかし、プラス面はまだしっかりと見せられていないまま。あくまで見た目だけはすばらしい。

 そんな状況で、お客側の空気はどういうものになるでしょうか。
 マイナス面しか見えていないのなら、すっかり淀んでしまっていないだろうか。
 このままで新しいお客は獲得出来るのだろうか。
 この空気に飛び込める勇気のあるお客はどれだけいるのだろうか。
 そして、「全てをひっくり返すプラス」はまだ隠されているのだろうか。
 ただ、不安は募るばかりです。

 来春に出る新メニューは、果たして美味いのか不味いのか。
 発売されるその日まで、我らお客であるプロデューサーは答えを誰も知りません。
 そう、厨房に居るシェフたちにしかわかりません。ひょっとしたらシェフだけにしか
 わからないかもしれません。

 繰り返しますが、その新メニューは、実際に食べてみるまで我々には美味いのか不味いのかはわかりません。
 味は想像できても、お腹はふくれませんし、ひもじくなるだけです。

◆我々は、ただ完成を待つだけです。
 我々が何も出来ないわけではありませんが、その行動は邪魔するものであってはいけないでしょう。
 情報が少ない今、ネガティブに考えがちな人は、少し離れたところから見ることも必要かもしれませんね。