善人説了

これまでのブログを閉鎖し、タイトルを改めて新規開店しました。

2013年03月

役立たずの専門家

  昨日の新聞に、日本で二つ目の氷河が見つかったと、大々的に書かれていました。この「氷河」を見つけるのにいったい何人の学者がいくらの費用を浪費したのでしょう。そもそも学者が決めた基準に当てはまる「氷」を特に氷河を呼ぶことになっているだけの話で、現在ある「氷」を「氷河」と呼び換えることになっても、何一つ変わることも得ることもありません。たとえば、ある高さと太さを超えた杉の木を「大杉」と呼ぶことにしようと自分たちで決めておいて、調査の結果日本にも「大杉」があったと騒いでいるようなものです。日本においていいうつ氷河を発見しようが、南極の氷床を調査して得られるような、何万年にもわたる気候変動の歴史を知るといったことはできないのです。もう無意味な氷河探しなどはやめて、差し迫った問題解決に力を注いで欲しいものです。

  先日東大の先生方が気まずそうに頭を下げた事件・・・・。立川で発見された断層について、岩が縦にずれた形跡がある、と発表していたのが、実はそれは岩ではなくコンクリートの塊であったという事実。これなども、断層の種類に対する規定があって、その既定を満たしているかだけを考えているから、こんな情けない間違いが生じるのです。そもそも問題の場所は、大昔は川が流れていた跡地で、堆積した石ころが地層をなしているところです。かつこの場所の石ころはすべて、上流から流れてくる間に小さく砕かれ、ぶつかり合って角が取れ、すべすべの砂利状になっています。あの大きさの、しかも表面がでこぼこでざらざらの岩は、この場所には自然には存在しえないくらい、どうして考えつかないのでしょうか。いや、それ以前に、天然の岩とコンクリートの見分けがつかないとは・・・・・・。

  氷河の事件と断層の事件、この両者はいずれも共通して、決められたある判断基準を満たしているかどうかだけにとらわれ、ゆとりのある視野で物事を見ることができない、悪い意味での(失礼ながら)学者バカの典型だと言うしかありません。

  先日テレビで、ウナギの稚魚が全く取れなくなったと報道していました。これに対して学者たちがしていることといえば、はるか南のマリアナ海溝まで出かけて、ウナギの形になる前の稚魚を捕まえては、未だに解明されていない、うなぎの産卵場所を突き止めようという努力です。現実問題の解決には到底つながりそうにもない研究ですね。

  ウナギの数が激減したのは乱獲によるものだというのが定説ですが、果たしてそれは本当なのでしょうか。私はけしてそれだけが理由ではないと思うのです。葛飾区の、常磐線が中川を渡る辺りには、天然ウナギを捕獲して地元の料亭に卸すことを半ば仕事にしている人がまだ存在しています。橋の上で一度に5本くらい釣竿をセットして、頑張っています。本当にウナギがいないのであれば、こんな無駄な努力をするわけはありません。そもそも私が子供のころには、東京都江戸川区葛西の汽水地域には、季節ともなればウナギの稚魚がそれこそうじゃうじゃと群れをなして泳ぎ回っており珍しくも何ともないそんなものには、誰ひとり見向きもしませんでした。現在であれば軽く数億円の値打ちがある数だと思います。

  しかし、ウナギの稚魚はある時を境に一気に姿を消し、見かけることがなくなりました?なぜ? ウナギの住み家となる水路や湿地帯が全部埋め立てられてしまったからです。この状況はおそらく日本全国で見かけられることだと思います。水路や湿地帯自体は残っていても、水質が悪化して魚の生息に適さなくなってしまたったことも事実です。水辺はあっても、多少の水質汚染には耐えられる雑魚たちの姿も,もう見かけられません。ましてやウナギなど生息するすべもないのでしょう。ウナギの数が激減したのは、成魚が生息できる環境が失われてしまったからです。この現実を直視せずに稚魚がとれないといって嘆いているのは見当違いというものです。しかし私の知る限り、ウナギの数の復活のためには水路と湿地帯の確保と水質の改善が急務であると訴えている学者は皆無です。これではウナギの数の復活など絶対にあり得ません。

  専門家の考えることには、こういった限界があるケースが数多く見られます。私が言うのもおこがましいのですが、現在の教育のあり方では、素直に努力を重ねて優秀な成績を取った人ほどこうした落とし穴に落ち込みがちなのではないでしょうか。ちょっとはずれた生徒を大事にしてやると、すぐに顰蹙を買ってしまうような教育現場のありかたにもまた問題があると言わざるを得ません。更に言うなら、今どきの若者たちを見ていると、既存の価値観や道徳観念をいかに受け入れ、そこにはまり込んでいくかに重点が置かれているような気がします。私に言わせれば、それは先述の専門家たちのように、本質を踏み外したことに血道を上げることになり、けして人のためにも自分のためにもなりはしないのですが。

天守閣(今日は中身がありません。読んだら損をするかも。)

  私が大好きな光景が二つあります。一つは奈良盆地を南に向かう途中、天理に入る辺りで忽然と視野に飛び込んでくる古墳。もう一つは東名や中央高速を走っている途中、徐々に見えてくる、小高い丘の上に立つ岐阜小牧城天守閣。しかし天守閣と言っても昨日の代物はちょっと・・・・。

  私の車に搭載されているカーナビは、突如として錯乱することがあります。筑波山からの帰宅ルートは、最寄りのインターではなく2つ先の谷和原から常磐自動車道に乗ることにしています。ところがある日突然、何回となくそのルートを指示していたカーナビが、帰宅コースの候補から谷和原をはずし、表示しなくなりました。止むなく谷和原を入力して運転開始したところ、カーナビは黙って私を谷田部インターへ連れて行ってしまいました。

  昨日は登山途中から雨天となり、またもや滑って三度尾骶骨を折るのかと恐怖にかられながらも無事下山、カーナビに谷和原を指示して運転開始。しばらくは以前たどったのと同じルートを指示してくるので安心していたところ、突然逆方向を指示し始めました。何と左折を繰り返して、元来た方向へ4.3キロ戻れというではありませんか。

  業を煮やした私はおのれみておれ、自力で帰って見せるわい!と、勘を頼りに車を走らせます。雨模様の空は鉛色、太陽が出ていないので、方向感覚がまったくありません。勘を頼りにというよりは意地だけで走っていました。家から直線距離にすれば30キロほどしか離れていないのに、見渡す限りの田園地帯、春まだ浅い畑には作物の植え付けさえ住んでおらず、雨に濡れた茶色い地面だけがだだっぴろく広がります。ここは本当に日本なのか?と、自分が幻覚を見ているのではないかと錯覚してしまうほどでした。

  こりゃ今日は家にたどりつけないかも・・・・本屋があったら地図を買うのに・・・と、弱気の虫が顔をもたげたその一瞬、我が目を疑う光景が飛び込んで来ました。だだっ広い田園地帯のど真ん中に、巨大な天守閣がそびえているではありませんか。ついに幻覚かい! と、我ながらあきれ返ってしまいました。

  豊田城・・・茨城県常総市新石下にある地域交流センター(公民館)の別称。豊田氏が かつて支配した地域にあり、天守閣を模した建築物であることに由来する。


  なんとも悪趣味な物を作ってくれたものです。本来存在しなかったものを立てるのも間違っていれば、公民館を天守閣にするという税金の無駄遣い。市民は反対しなかったんでしょうかねえ。

  昨日の出来事を反省材料とし、明日は茨城県の最新地図を買いに行くことにしました。定価16万円也のカーナビなんかより800円の地図の方がずっと頼りになりますから。

英語ができてもバカはバカ

hanguru  タイトルは、OSKにプレゼントした本「日本人の90パーセントに英語はいらない」の、とある章の標題です。それにしては写真がこれハングルじゃ?という声が聞こえてきそうですが・・・・。

  外国語の学習は基本的に中身を伴わない文章の暗記と反復練習です。ある程度実力が身につけば英語を多少話すことができますが、ほとんどの人は内容のある英語の本を読もうなどとは思わないはず。本を読む必要のある人は必要に迫られて勉強するのであって、そこには「英語ぐらいできないと・・・。」という動機があいまいな意識は存在し得ないからです。 

  とりあえず英語に絞って話を進めると、英語を学ぶに当たっては「教材」を選択して学習することになります。語学スクールに通おうと通うまいとやることは一緒です。「教材」を通じて英語を学びます。この時、本当に生活に必要な英語を学ぶことはないということは、前に書きました。基本、ちょっと街に出かけたり、旅行に行ったりという限定的な状況での英語を学びます。

  当然ながら、店で値段を聞いたり、街で道を聞いたりする英語を覚えることになりますが、そんなものをいくら覚えたところで頭が良くなるわけではありません。日本人が日本語で買い物ができたり道が聞けたからといって、誰もその人を頭が良いとは思わないでしょう。それを英語に置き換えたところで同じことなのです。
   
  では、外国語を学習する際に、どんな作業をするのかを検証してみます。私の手元には現在韓国語のテキストと中国語のテキストしかないので、とりあえず延世大学が発行している定評ある韓国語のテキストを掲示してみました。これはそのうちの第1巻の257ページです。このテキストは類似した文章をたくさん提示して、これを反復練習することにより効率的に韓国語を習得させようとするもので、私の眼には大変良く出来た学習書です。ではいったいこのページには何が掲載されているのかというと、たとえば 

2) 先生: 女の子を紹介してあげましょうか?
   学生: 女の子を紹介して差し上げましょうか?
4) 先生: コーヒーを入れてあげましょうか?
   学生: コーヒーを入れて差し上げましょうか?

  おわかりと思いますが、これは韓国語の敬語表現を習得するための練習です。韓国語を習得するためには絶対に避けて通れない道です。で、これを完璧に身に付けた暁には、あなたの知的水準なり思考能力なりが向上すると思いますか?あなたがこんな表現を身につけようと四苦八苦している間に、「日本語で」さまざまな書物を読みあさっていた人の方が、物事を考える材料も増え、ずっとお利口になっているはずです。
  最近の若者は、東大生ですら、ライトノーベルかなんかを愛読しているのが現状で、ろくに「書物」など読んではいません。そういう軽い人たちが英語の勉強に走れば、ますます自分を深めるための読書などしなくなるはず。だから、英語くらいできないと、という気持ちから勉強する人間は、馬鹿になる、ということなのです。

  私の知り合いが、 facebook 上で、4月から全国の高校で行われる、「英語による英語の授業」について厳しく批判しています。彼はある会社で英語の文書を取り扱う仕事についています。文字通り「英語で」仕事をする立場にある人です。英語を自在に操って実務を果たしている人が、英語による英語の授業には反対なのです。おそらくこの授業は、英語「で」仕事をした経験のない、間抜けな文部官僚が考え出した浅知恵と思われます。
本当に英語が使える人は、英語について軽々しく語ったりはしないのです。

  では結論。英語「で」仕事をする必要があるのなら、どうぞ英語を勉強してください。どのレベルのどんな英語を身につければ良いかがはっきりしていますし、何よりも必要に迫られての勉強ですから、大いに身につくはずですし、実際に「役に立ち」ます。それ以外の人は、英語の勉強などやるだけ時間の無駄です。英語ができるとちょとカッコ良さそうな気がしますか? 私を見なさい。私を見てカッコいいと思ったことがありますか?ないでしょう?

友達申請

  昨夜は珍しくJTの卒業生から友達申請が来ていました。MOMOKOにIWAKO、それに野球部の男子2人。IWAKOを除けば結局は元一年二組。急にそんな気を起したのは何らかの意味でOSKがらみだろうとは簡単に推察がつきます。一緒に飲んでいて、せーのでアクションを起こしたのだそうです。飲み会の席上での余興と思われます。

  その後IWAKOからはメッセージが来て、やり取りがありました。しかし他の三人、特に男子はその場ののりで、女子につきあって申請したのではないかという気がするので、この先は再び無縁の人となりそうな気がします。

  思えば、男女ほぼ同数だったはずですが、卒業生の男子で曲がりなりにも会おうと言って会ったのはキャッチャーのOSZただ一人。それもKTSで私の受け持ちだった子と同じ飲み屋でアルバイトをしていたという偶然のなせる技で、それがなければ会うこともなかったのではないかと思います。まあ、彼は男子の中では例外的に私と話が出来る男でした。

  私の希望としては、話していてお互いに気疲れするような相手と、無理に機会を設けてもらってまで会う気にはなりません。従って、友達の輪もほどほどで止まってくれて結構、と思っています。facebook 上では次々と友達ではありませんか call があり、多くの卒業生の名前が挙がって来ますが、これまでこちらからした友達申請は皆無。これからも来る者は拒まずですがこちらから声をかけたりはしないでしょう。昨日OSKが引き合わせてくれた子のように、初対面から一気に打ち解けてしまえる相手でないと、残り少ない与えられた時間がもったいないというもの。

  自然体で流れに任せて行きますので、万一このブログを読んでいたら私はそういうつもりなのだと了解してください。

新人教師

  桜は7分咲き。半袖の薄手のシャツで外出すると、世間の人々はまだダウン。ジャケットや厚手のコートを身にまとって歩いていました。なんて季節感のない人たちなんだろうう・・・・????? 世間の冷たい視線が私一人に向けられているような錯覚に陥りました。

  今日はOSKが以前からぜひ引き合わせたいと言っていた若い女性と初のご対面。4月1日から某都立高校で体育教師として勤務することが決まっているとのこと。若さとは素晴らしい。教職を退いた古い人間と、間もなく教職に着若い力との対話。肋骨が折れていることも尾骶骨が折れていることも忘れて楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

  ところで、以下の文章は、たまたまネット上で見つけた、教職について2年目だという、(多分男性の)数学教師の文章。失礼ながらこの文章を読んで私はとても寂しくなりました。この人、自分ではいくらか何かを分かっているつもりなのでしょうか・・・・。今どきの若者の、毒にも薬にもならない、何か言っているつもりで何も語っていない、典型的な語り口ですね。いや、それ以前に、人目に触れさせて良いレベルの文章ではないことに気がついていないらしいところが・・・・・・。


  今,私は,教員という職について2年目の冬であるが, 絶対に忘れてはいけない感情として, 「我々は世界をよりよくするための仕事をしている」というのがある。 子どもにとって生きやすい世界というのもあるが それ以上に,もっともっと大きくて抽象的だが ながーい目で見たときに人間がよりよく暮らせる世界を作る というような意味合いである。 あまりにマクロ的な話であるが,私は心のどこかでこれをいつも意識している。          

  だが,こんなことを言っても 「いち教員ごときが世界なんて変えられるわけないだろ」 と思う人が大半であると思うし,実際に教員をやっている人も そんなだいそれたことを考えながら仕事をしている人はそういないだろう。 でも私は,教員という職業は,人を育てる以上, 結局のところ最終目標はそこにあると思うし, 皆それを目指してやってほしいと思う。 そして,ここからはなんの根拠もない話だが,われわれ教員一人一人が そういう意識を持ちながら仕事をしていけば 絶対に少しずつよくなっていくと思う。世界は。  

   これはね,ぜんぜん根拠なんてない話なんだよ。 ただね,教員っていうのはいつもいつも 「これはこの子にとって正しいことなのか?」とか 「こんなことは教育なのか?」とか  「この子のためになってるのか?」とか いろんな葛藤を抱えて,押しつぶされそうになりながら仕事をしていると思うわけです。なにせ,すぐに答えがでるものでもないから。 というか,はっきり目に見える「答え」は一生分からないから。 だから,もしかしたら 「あーあんな風に言ったけどあれは間違いだったな」 とかいう後悔もあるだろう。私はある。

   でも,そういうことに答えはなく何が正しいか分からない以上, 我々はそういう一つ一つの重い選択に慣れてくるのです。 そして日々の子どもとの戦いがあまりに壮絶で慌しいから, でっかい目標というか根本を忘れてしまいがちだと思うのです。 「結局は子どものため」というのは,もちろんその子が幸せに生きれるように教育するのだけどでも,そのまま,次世代を担う人間を育てている意識は忘れてはいけないと思う。
  この意識がないと,世界なんて変えられないし,よくもならないと思う。 結局こういう意識付けが,世界を変える上で最も大切なことだと思う。  

  銀杏BOYZは 「僕たちは世界を変えることはできない」 と言っていたが, そんな急激に変えることなんてのは誰しも不可能だけど, 小さい部分,末端のところでコツコツ努力しているところが, 大きなことをちゃんと意識することから 「世界は自然と変わっていくんじゃないか」  と,私は思う。
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