Ring Of Angels Ⅱ

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 真夏の恒例行事、ファン投票でベルトへの挑戦者を決める特別興行の季節がやって来た。
 この企画は、現在は現役を引退し、団体を離れた中森あずみが発案したもので、ファンの望みを叶えるイベントとして、非常に人気のある試みだった。
 ベルトを保持しているレスラー以外の全員がシングルかタッグのカテゴリーに名乗りを挙げ、最多得票数を得た選手がベルトへの挑戦権を手に入れる。第1回目となった2年前は、当時ROAチャンピオンだった氷室紫月と葛城早苗の一度きりのシングル戦が実現し、葛城が初めてベルトを戴冠するなど、名場面が生まれている。
 現ROA王者は武藤。ROAタッグ王者は秋山美姫と優香が保持している。共に長期政権を築き上げており、そろそろ新勢力の台頭が望まれるところだった。
 いつも通り、興行中にレスラーたちが自分のエントリー用紙を提出し、一通りの名前が出そろう。3週間ほどインターネット投票の期間を設け、本興行直前に挑戦者の発表をするのが通例だった。
「それでは、エントリー選手を発表します。まずはタッグ部門、『村上千春&村上千秋』、『氷室紫月&ウィッチ美沙』、『ディアナ・ライアル&スイレン草薙』、『ラッキー内田&小早川志保』。以上の4チームがエントリーしています」
 エントリーは常連チームばかりで、いずれも現王者には敗北経験がある。どうやら、秋山優香の快進撃はまだまだ続きそうだった。
「続いて、シングル部門。『草薙みこと』、『伊達遥』、そして…」
――そして?
 自分の言葉に首を傾げる霧子。今までに名前を読み上げたのが10人。王者の武藤、秋山、優香。欠場中の葛城を抜かせば、それが全員のはずだ。しかしエントリー用紙はまだ1枚残っており、不思議そうに霧子はそれを広げた。
「『サンダー龍子』……って、何よ、これは?一体誰のイタズラ…」
 と、話を遮るように入場曲が流れる。花道を歩いてきたのは、団体最高峰のベルトを肩にかけた武藤だった。
 スタッフからマイクを受け取った武藤は、落ち着いた足取りでロープを跨ぐ。渋面の霧子の前に立つと、フンと鼻を鳴らした。
「イタズラなんかじゃないわ。あなたが呼ばないのなら、私が呼ぶ。ROAのリングで、サンダー龍子と戦うわ」
 会場がハチの巣をつついたようなざわめきに包まれる。眉をしかめた霧子は、若き王者を見つめた。
「何度も話した通りよ。その願いは聞けないわ」
「それが、ファンが最も望む試合だとしても?」
 客席を指差しながら、武藤が話す。
「この大会のコンセプトは、『ファンが最も求める試合を提供する』――ですよね?みんな、私と龍子の試合、見たいでしょ?」
 大きな歓声と、わずかながらのブーイング。罵声を浴びせているファンは、「生意気なことを言うな」という意思表示だろう。
「これだけの声、まさか無視するわけにはいきませんよね?それじゃ、結果発表を楽しみにしてます」
 一方的に言い捨て、肩で風を切って帰っていく。言葉を失った霧子はマイクを落とし、処置なしと言わんばかりに首を振った。

――第1部――Enter the Dragon――


 この数時間で何度目かのため息を、井上霧子は吐き出した。彼女がいるのは事務所の一室。ドアを蹴破らんばかりに勢いよく入ってきた、とある少女と机を挟んで対面している。
 その少女の名前は武藤めぐみ。霧子がGMを務める女子プロレス団体――「ROA」のシングルチャンピオンだった。
「どうして試合を組んでもらえないんですか?」
 怒りを抑えた抑揚のない口調で武藤が話す。苦虫を噛み潰したような渋面の彼女に、「せっかくの可愛い顔が台無しよ」と軽口を叩こうかとも思ったが、火に油を注ぐ結果になるのが分かり切っているのでやめておいた。
 アイドル顔負けの美貌を持つ武藤だが、本人はルックスに関しての話題を極端に嫌っている。容姿よりもプロレスの内容で評価してほしいという思いからだろう。
 実際、武藤のスキルは精鋭ぞろいのROAの中でもひときわ強く輝いている。チャンピオン在位期間は1年を超えすっかり団体のエースに成長したと言っていい。
 順風満帆に見える活躍だったが、大きな落とし穴が待ち受けていた。近頃出場した他団体の6人タッグ戦トーナメントに乗り込み、まさかのフォール負けを喫してしまったのだ。
 参戦したのは、インディーの強豪、サンダー龍子率いる実力派団体――「WARS」だった。「ジェネレーション・ネクスト」という若手の有望株が集結したユニットで、武藤はディアナ・ライアル、草薙スイとともにROA代表として順調に決勝まで進んだが、サンダー龍子のプラズマサンダーボムを喰らい、あえなくピンフォールを奪われてしまった。
 チャンピオンが他団体の選手に敗北するという非常事態に、一部のファンから王者武藤に対する痛烈な非難が起こった。
 もともと、武藤は物怖じしない性格で、歯に衣着せぬ物言いを快く思っていないグループが少なからずいた。万全の防衛ロードを突き進んでいる間は鎮静化していたそれらの声が、今回の敗北を機に再び勢力を増してきた。
――龍子と真っ向勝負で戦い、勝利を収めることで、懐疑的な声を消してやる。
 クールそうで、実は人一倍勝気な武藤がそう考えるのも無理はない。だが、GMの立場としては素直に首を縦に振るわけにはいかなかった。
 もし実現したならば、ROA王者・武藤めぐみと、「無敵の龍」サンダー龍子の一戦は、大きな注目を浴びる事だろう。実力では日本を代表する女子プロレス団体――新日本女子プロレスのエース・マイティ祐希子と双璧をなすと噂される龍子が新進気鋭の武藤と対戦する。これまで、他団体とあまり交流のないROAのトップレスラーは、果たしてサンダー龍子を上回れるのか。興行の大成功が確約されたようなカードだ。
 しかし、その夜の大入りが間違いなしだからと言って、長期的に見て団体のプラスになるとは必ずしも言い切れなかった。
 一番の不安は、武藤が敗北し、ベルトが流出してしまう非常事態だった。ハイクオリティなレスラーが揃うことが売りのROAだが、もし武藤が敗れれば、実は団体内で白熱しているだけで、他団体との差は大きいと噂されるのは目に見えていた。
 長くプロレスに携わってきた者として、霧子の目から見て、武藤が10年に一度の逸材であることは疑いようがない。だが、多くのプロレスファンにしてみれば、いまだ、これまで幾度となく目にしてきた「天才」レスラーの1人にしか過ぎないという評価だろう。
 日本女子プロレス界の一時代を担ったパンサー理沙子や、ダークスターカオスや、クリス・モーガンら、世界の名だたる強豪レスラーとの死闘を潜り抜けてきたマイティ祐希子ら、「レジェンド」の域まで達するには、あと一歩足りない。
 龍子も、彼女らと並び称される強豪の一人だ。いくら武藤とはいえ、勝てる可能性は高くない。百歩譲ってノンタイトル戦。ベルトを懸けるなど、言語道断だった。
「何度も話したでしょう。あなたはROA王者なのよ。WARSへの参戦でさえ渋々許可したというのに、これ以上のわがままは止めなさい。タイトルマッチを組む気はないわ」
「あの人だったら…」
「ん?」
「あの人がチャンピオンだったら、同じことを言ってましたか?」
 眉をひそめ、霧子は武藤を見やる。彼女が言う「あの人」とは、前ROA王者の葛城早苗のことだった。父親は元プロレスラーの義一で、数年前に急逝してしまった。生前に準備していた女子プロレス団体旗揚げの夢を、母親の浩子が引き継ぎ、ROAが誕生したのだった。浩子はその後、ROA社長として団体の経営を担っている。その補佐役としてGMの霧子がいるのだ。
 葛城自身は父親への反発から、総合格闘技を習っていたのだが、ふとしたことがきっかけでプロデビュー。父親譲りの蹴り技と、総合格闘技経験を活かしたサブミッションを得意とする実力者で、メキメキと成長していった。
 だが、アメリカのIWWFに参戦した際に右肩を負傷。ケガを抱えたままROA王者に輝くなど活躍したが、ベルトを失うと同時に長期欠場に入り、今なお復帰できずにいた。
「団体の象徴」とまで言われていた葛城から、王座を奪ったのが武藤だった。初めは敵対心しかなかった葛城と武藤だったが、ベルトを懸けた死闘を繰り広げ、何か感じるものがあったらしい。以前のような険悪な中ではなくなっていたが、葛城が休場してから、武藤は彼女の名前を口にすることを避けるようになっていた。おそらく、葛城がいなくても自分がROAを支えるという意思の表れだろう。
「答えは『イエス』よ」。霧子は平坦な口調で告げる。「早苗さんがチャンピオンだったとしても、サンダー龍子さんとの対戦は許可していないわ」
 武藤はしばらくこちらを睨んでいたが、「失礼しました」とぶっきらぼうに言い残し、手荒く部屋を飛び出していった。
「ふう…」
 椅子の背もたれに身体を預け、霧子は深く息を吐いた。
 思う存分戦わせてやりたいという思いはある。王者の立場に甘んじず、自ら挑戦していく姿勢は、評価できるものだ。だが、王座戦をやらせるわけにはいかなかった。
「いいわね、若いって…」
 一人ごちる霧子。無意識に出た言葉に気付き、思わず苦笑した。

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