ブログの更新は滞っていても
興味深く為になる記事を書こうという意欲は持ち続けている。
今回のネタはこれ、小菅さん。




















これら小菅さんのツイートの全内容に必ずしも同意しているわけではないが、
彼女はヒトラーの行動、目指していたものの動機の部分を
決して悪、否定的なものと捉えていない点に非凡さを認めたのである。
常識の考えでは、人が何か悪いことをしたら
それは邪(よこしま)な動機に基づいている
と判断するのがふつうだからである。

だから


ヒトラーとは何だ?
ナチスとは何だ?
どうしてホロコースト、ヘイトクライムは起きたのか?

と問われたら、殺戮や破壊への衝動(=意志)に駆られたから
と回答するのがふつうだし

では、どうしてそのような暗黒の衝動に駆られたのか?
という動機の部分を明らかにしようとすれば、
日本における典型的な俗物である

しばき隊・男組(パヨク)界隈からは
きっとこのような解釈が出てくるにちがいない。

ヒトラーは田舎者であった。
→劣等感が形成される

青春時代はウイーンという大都会で
描いた絵を売って糊口をしのぐような
乞食同然の暮らしをしていた。
→金ナシ彼女(恋人)ナシで欲求不満

ウイーン美術アカデミーの受験にも2度も失敗した。
→劣等感が形成される


その結果、劣等感と欲求不満の蓄積によって
ルサンチマン(怨念)の塊となった。
その一方で、そんな自分を尻目に羽振りを利かせる
ユダヤ人たちのまぶしい姿を見て
自分の人生がうまく行かないのはこいつらのせいだ
と筋違いな逆恨みをするようになり、
社会的マイノリティーの彼らに対して
ヘイトスピーチを吐き、ドイツ(オーストリア)から
叩き出そうと差別排外主義極右政治家になる決意をした。

そして、類まれな弁舌と扇動の才能を生かして政治権力を握り、
悲願のヘイトクライムを実行、
つまりユダヤ人を強制収容所に送ることで積年の恨みを晴らした。

だから、もしもヒトラーが
都会の裕福な家庭に生まれて何不自由なく育ち、
恋人と同棲して満たされたセックス・ライフを謳歌し、
美大受験にも成功してどこかの教授か評論家におさまって
安泰・盤石な人生を送っていたとしたら
劣等感が形成されることも、欲求不満を抱えることもなく
ホロコーストも第二次世界大戦も起きなかった。

したがって、人生とは金とセックスである

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金とセックスの「量」が人間の幸福を決定する。
金とセックスの「欠乏」が人間の暗黒面を構成する。

こういうポリシーを象徴的な率先者にあやかって
ノイエホイエ主義と呼ぶのもよかろう。

※しばき隊(パヨク)の理論的ご意見番に
精神科医の香山リカ氏がいる。
彼女の知的バックボーンに
ジークムント・フロイト(1856-1939)
があることについてはまず間違いない。

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フロイトをして、ブルジョアジーの衰頽期の一定段階の
豫言者たらしめたものは、二つの契機である。
その一は、明瞭な意識の上層界から、
闇黒な「下層意識」と闇黒な衝動との下層界の中に沈没せることである。
又同時に、それを辯護せること、即ち平凡な俗人を引搔いたら
現はれてくるものの名誉恢復を試みたことである。
第二は、性欲的なものを世界の廻轉軸と認むる點である。
この點に於いてフロイトは、殊に、道楽なウイーン人たるかの俗物の友人であった。
總べて俗物の特性は、その私的生活と、それに關する熱情、衝動、表象を世界の
中心點に移すことにある。


『左翼社會民主主義批判』 タールハイマー 白揚社(1928) P101




しかし、青年時代のヒトラーの実像については
アウグスト・クビツェクという
当時のヒトラーとリンツの歌劇場で知り合い、
ウイーンで共同生活を送っていた親友が
回想録を残しており、詳細はその著書に譲るとして
青年ヒトラーが単なる感官の満足
牛飲馬食や姦通といった素朴で原始的な快楽を
ひたすら追い求めて、それらが満たされなかったために
憎悪の塊になったという
しばき隊・男組(パヨク)が好みそうな精神分析は

どうも当たっていないことが明らかになるはずである。

※意志は快楽(幸福)を目的として働くものなのか?
古くから哲学者に突っ込まれているテーマである。

もしもYesであれば、意志は自律的なものではなく
快楽(幸福)によって振り回され、操縦される
他律的なものとなる。
そのような受動的原理は、そもそも意志としての務めを
果たすことができるのだろうか?


それどころか
ヴァーグナーの歌劇を鑑賞するために食費まで削ったり
(食欲という生理的欲求を抑えてまでも優先されるものがあった)
美術館めぐり、図書館通い、街の散策といった彼の日常、
パンのための仕事(定職)に就くことを嫌い、むしろ
芸術家として大成したいと願ったヒトラーの超俗的な人生態度から
彼の非現実的・非実際的(=理想主義的)傾向が浮かび上がってくる。

ここで現実主義と理想主義という
ふたつの対照的な人生観、世界観、価値観が
哲学の問題として問われてくるのである。

現実主義とは、平たく言えば
客観=自分の「心の外側」の世界に基点を置いて
実利を追い求める人生態度で
理想主義はその正反対、
主観=自分の「心の内側」の世界に基点を置いて
人格、人間の尊厳といったものを求める人生態度である。

※立脚地が異なる

これは個人だけの問題に限らず、
全体としての社会にも当てはまることで
現実主義の風潮が行き過ぎると、
その反動で理想主義が出て来たり、
今度は理想主義に対する反動で現実主義に傾いたりする。
欧州の哲学史はだいたいこんな感じである。

ということで、この2つの対照的な思潮と
ドイツという風土に花開いた特殊な精神の変遷を追うことで
多読によって世界観を培ったというヒトラーの人間性なり、
内面の部分を垣間見ることが
可能になるわけである。

ヨーロッパにおける理想主義は18世紀中頃のドイツにまで遡る。
イギリス発祥の啓蒙思想が、フランスを経てドイツに伝わり
それが受容される過程で発生している。
いかにも英国人気質な、経験に基づいた
浅薄皮相で功利主義的な考え方が
人間の内面の部分、価値を蔑ろにしているとして
どうも当時のドイツの民族的な傾向・希求に
そぐわなかったらしいのである。

そしてこの理想主義はドイツにオリジナルなものではなくて
古代の理想主義が新しい衣装をつけて現れたものである。
その古代の理想主義とはギリシア理想主義である。

「ドイツ的なるもの、ドイツ精神は古代ギリシアの模倣・コピーである」
これは覚えておくといいかもしれない。



古代ギリシア理想主義を何と定義するかは
ずいぶん難しい問題であるが、
その根本的な特徴を挙げると
経験(感覚)の世界に対して
理性(理念)の世界が対置されていることである。

この理性の世界が
小菅さんの言っている真善美のことで
プラトンに言わせればイデア
カントに言わせれば経験に先立ち、経験を基礎づけるもの
である。

さて、理性の世界とは表記してみたものの、
これが経験(感覚)の世界と同様に

時間、空間の形式においてどこかの宇宙空間に場所を占めている。
そういうふうに捉えているとしたら、それは誤解である。

正確には「理性の世界」は、実在(存在)ではなく価値である。
だからこそ、物事の真偽や善悪や美醜を判断する際の基準
となりうるわけである。

※基準だからこそ不変不動であり、永久に自己同一を保つ(不滅)

「理性の世界」が経験(感覚)の世界には還元されないと
あくまでも両者を峻別するのにはわけがある。

外界から得られる印象は常に変化し、
また同一の対象であっても人による見方は千差万別である。
したがって、経験(感覚)から得られるものは
すべて相対的で、蓋然性(=確からしさ)を有するのみで
絶対とか必然とか普遍妥当の性質を帯びるものではない。

ゆえに、「理性の世界」が経験(感覚)世界の一部であり
経験(感覚)世界から抽象して得られるようなものにしてしまうと、
ちょうど「人間は万物の尺度」であると言った
有名なソフィスト(詭弁学徒)、プロタゴラスの考え方になる。
各人にとって真理と思えることが真理である。
すべての判断は真理であり、そしてまた虚偽でもある。
これでは「理性の世界」はまず価値基準としての意味をなさないであろう。

それで今度は理性とは何であるか?という話になるのだが、

これは霊魂と同じものである。
そして理性には、その働きによって
(理知)(感情)(意志)という3つの側面がある。

※魂の三分説

日本でもどういうわけか古来から肉体は滅びても魂は死なない
という
観念が通俗的な形で広く普及し、
人間は死後も頭に三角頭巾をつけて足のない状態で生き続ける
と信じられてきたが、この霊肉二元論の発想は

古代ギリシア人の宗教的世界観に起源を有するものである。
以前の記事「エリート支配 その発想の源流」においても
言及したように、
人間は生まれ出ると物質世界の一部になるが
霊魂(=理性)があるために
かつて所属していたイデア(=真善美)を想い出し、
懐かしみ、
恋い慕う(エロース 
Ἔρως )という話である。

知・情・意は、それぞれ真・美・善という対象に向かって働く。
つまり、理性(知情意)はイデア(真善美)を志向する。
この宗教的世界観の主にいわせると、
理想主義、完全な在り方を求めるのは
人間の本性に基づいているというのだ。

そしてこの理性の開発、人間の道徳的改良を
自身のライフワークにしていたのが
あのソクラテスとプラトンで
これ以降の西洋における理想主義の哲学はすべて
彼らの発想を根柢に持っているのである。


※未完
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最近のツイッターランドでは抵抗勢力と名乗る者が台頭してきている。
※ツイッターランド → TL(タイムライン)の誤読らしい

新自由主義(グローバリズム)がもたらしている社会風潮に批判的で
従来の右派・ネトウヨが手控えてきた政権批判、自民党批判を
公然とやるようになった点に彼らの独自色がある。


白ふくろう氏、彩瀬潤氏、まいこぅみ氏が代表格である。





では、このひとたちはネトウヨなのか?といえばちょっと微妙である。
ネトウヨと同じく同じリベラルサヨクを相手に戦っているとはいえ、
主要テーマは反フェミニズムだから
朝鮮関連で「差別主義者」「レイシスト」と罵られているグループとは
東部戦線と西部戦線ぐらいの違いがある。

ということで、引き続き情報を集めたい。

抵抗勢力系アカウント













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 今回はこれ。
ツッコミ所満載でブログ記事にしようかな?と
予告していた件です。

ねずきち氏によれば、「盧溝橋事件が日中戦争のきっかけとなった」
という、よく教科書にも書かれているような見解は
2つの点で大ウソなのだとか。

①そもそも日中戦争なる用語はない

②当時の中国は内戦状態にあり、
統一国家なんて存在しないも同然だったのだから、
国家間の闘争を意味する戦争の語を用いるのは
歴史捏造の手口に嵌っている

というものである。

日中戦争が歴史用語ではなく、
当時の資料、文献を漁ってみても出てこない表現である
というのは確かにそのとおりだろう。
実際に盧溝橋事件の当時の呼称は北支事変である。

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それが上海の方面にまで戦火が拡大したときに
近衛内閣の閣議決定で北支事変から支那事変に変更された。
昭和12年(1937)9月2日のことである。

しかし、2番目の理由はどうだろうか?
ねずきち氏はこんなふうに述べている。


そして支那事変の勃発の昭和12年(1937年)当時、
支那には正式に国際社会で認められた公式な政府がありません。


これは明確にダウトだ。
蒋介石の南京国民政府は、いわゆる北伐を達成した年(1928)の
11月にアメリカから承認され、
イギリス、フランスもこれに追随しているのだから。
翌年、日本も承認。

※当時の日本、しかも対中強硬外交で知られる田中義一内閣が
蒋介石の国民政府を承認していたのは
この種の歴史認識にとって致命的な事実だろう


※その一方で、李承晩の大韓民国臨時政府は国際的に承認されていなかった


そして中華民国は、実態としては
国としての体を成してなかった状態にあったにせよ、
たとえその認識・解釈が妥当なものであるにせよ、
事実の問題としては当時は「国」として扱われていたし、
国際連盟の加盟国であり、またのちに日本に向けて
ポツダム宣言を発した国に名を連ねている。

以上から結論を述べると、
正確な歴史用語を使いましょうという趣旨であれば
北支事変、支那事変でも有りかと思うが、
日中戦争という表記はウソに端を発し、
歴史に詳しくない者たちに対して
日本と中華民国との間に戦争そのものがなかった
と誤解させようとする意図のものであれば、
例の人たちがいう「歴史修正主義」の誹りを
免れることはできないだろう。


※統一主権国家としての中華民国は限りなく虚像に近かった。
こんな笑い話がある。
有名な柳条湖事件が起こった日、蒋介石は湖南省の長沙にいた。
直ちに南京に戻り、全国の省のトップに
「緊急会議をやるから南京に集まってくれ」と打電した。
南京滞在中の身の安全は保障する。
往復の航空機は南京政府で手配するという破格の条件だった。
その結果・・・



誰も集まらなかった。


多くの者は回答すら寄こさなかった。
回答を寄こした者でも
自分が病気であるとか、年老いた親戚の介護で行けない
という理由が添えられていた。

典拠:『支那は生存し得るか』昭和12年(1937)9月6日 教材社
ニューヨーク・タイムス上海支局長 ハレット・アーベント
同 極東特派員 アンソニー・J・ビリンガム




★その他のツッコミ

そして支那事変の勃発の昭和12年(1937年)当時、
支那には正式に国際社会で認められた公式な政府がありません。

当時の支那には、日本が支援する南京政府、米英が支援する国民党政府、
ソ連がバックについた共産党政府の3つ以外にも、冀東防共自治政府をはじめ、
各地に自治政府が混在していました。

とてもじゃないですけれど、統一国家の体をなしていません。


米英が支援する国民党政府はいいとして、
日本が支援する南京政府とは何ぞや?
該当すると考えられるのは
中華民国維新政府(梁鴻志)だが、
これが成立したのは南京戦が終わった後の
昭和13年(1938)3月28日のことである。


参考までに昭和12年(1937)の北支情勢

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冀東防共自治政府 政務長官 殷汝耕


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冀察政務委員会 委員長 宋哲元

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山東省政府主席 韓復榘


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山西省政府主席 閻錫山


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綏遠省政府主席 傳作義

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冀(き)とは、河北省の古名。
河北省の東に位置しているから冀東防共自治政府。
察は、チャハル(察哈爾)。
河北省(冀)と察哈爾省を合わせたものが
冀察政務委員会



さて、その支那事変は、いちおうは昭和12年(1937年)7月7日の
盧溝橋事件が発端ということになっていますが、実はそうなったのは、
昭和16年の「西安事件」による蒋介石の変節を、日本側がこの当時、
十分に察知していなかったことによります。
それまで、支那国民党を率いる蒋介石は、支那国内で、
国民党と対立する支那共産党征伐に血眼になっていました。

当時、共産主義者征伐は、欧米社会を含む大きな社会問題になっており、
また支那共産党がソ連をバックに、事実上支那各地を植民地化していた
西欧諸国の追い出しを目論でいたことから、蒋介石はむしろ積極的に
英米のいいなりになって、共産党バージを繰り広げていたわけです。
このため支那共産党は、勢力を激減させ、ついにわずか三千の軍団となって
延安に逃げ込んでいたわけです。

そして、ついに「共産党にトドメを刺せる」とばかり、
延安の南方にある西安に乗り込んだ蒋介石を、満洲から追い出された
張作霖の息子の張学良が(当時は蒋介石の味方のふりをしていた)、
蒋介石を拿捕監禁し、共産党の走狗となって、日本を追い出すための戦いを
約束させられてしまっていたわけです。

ところが何も知らない日本は、ただひたすらに支那の治安維持を願って、
明治34年(1901)の北京議定書に基いて、
国際協調のもとで支那への派兵をしていたわけです。

ですから日本にしてみれば、まさか国民党が日本に牙をむくとは思わない。


これを読むかぎりでは、義和団=共産主義者であり
日本はちょうどロシア革命時のシベリア出兵のような動機で
シナ大陸に軍事的に進出したことになる。
ねずちき氏の歴史知識に「粗」があり
時系列的に前後が入り乱れる傾向があるようだ。


第二に、日本は侵略のために支那にいたのではありません。
日本が支那を侵略するために軍を駐屯していて、
それを不服とする国民党軍が、盧溝橋で日本軍に発砲したなどと、
これまたとんでもない言いがかりのような歴史を説いている人がいます。

これまた大嘘です。
日本が当時の支那に軍を派遣していたのは、
明治34(1901)年の「北京議定書(ぺきんぎていしょ)」に基づくものです。

「北京議定書」というのは、義和団事件(ぎわだんじけん)の
事件処理に関する最終的な取決めをした正式な外交文書で、
支那では辛丑条約(しんちゅうじょうやく)、欧米では「Boxer Protocol」と呼ばれます。

この議定書に参加、調印したのは、支那(清国)、英国、米国、フランス、スペイン、
オーストリア、ドイツ、ベルギー、ロシア、イタリア、オランダ、日本の12カ国です。
堂々たる国際条約です。


これもやはり、ねずきち氏の歴史知識の「粗」の例証である。
日本が天津に軍を駐留できるようになったのは、
いかにもその義和団事件の後始末の「北京議定書」によってである。
しかし、盧溝橋事件の前に長城の北に満洲国があり、そこに展開していた
別の日本軍(関東軍)についてはどう説明するのか?

こっちのほうは義和団事件も「北京議定書」も関係ない。

そもそも、ねずきち氏が義和団事件という清朝末期の民衆の排外運動が
起こった背景を正確に理解しているとは思えない。
支那(清朝)はイギリスとのアヘン戦争に敗れ、フランスにも敗れ
不平等条約を結ばされたとはいえ、
西洋列強からはまだ眠れる獅子と認識されていた。
ところが
日本との戦争に敗れるにいたって→日清戦争(1894-95)
「なんだ。眠れる獅子じゃなくて単なる肉の塊じゃないか」
と侮られるようになり、
西洋列強の
支那(清朝)に対する侵略がますます
露骨になった。
遼東半島にはロシア、山東省にはドイツの勢力がそれぞれ進出してきた。
山東省ではドイツ人のキリスト教宣教師が布教活動を始めるが、
これが民衆の間で外国に対する排外感情を生むのである→義和団

では、満洲国と別の日本軍(関東軍)はどう関係するのかというと、
義和団事件の際に満洲に出兵したロシアが
その後も撤兵しないばかりか朝鮮半島をも物色し始めたために
日本と戦争になったのである→日露戦争(1904-05)
日本はかろうじて勝利したものの、
ロシアから賠償金をせしめることができなかったために
その現物担保として遼東半島(旅順、大連)の租借権と
旅順-長春間の鉄道の経営権を得たのである。
この特殊権益を警備するという目的で
1919年に設置されたのが関東軍である。
これが北京議定書以外で日本が大陸に軍を駐留させていた理由である。

満洲国はというと、英米と結託してこの特殊権益を無効にしようとする
地元軍閥(張作霖とその御曹司)と日本との
イザコザによって生じたものである。



当時、共産主義者征伐は、欧米社会を含む大きな社会問題になっており、
また支那共産党がソ連をバックに、事実上支那各地を植民地化していた
西欧諸国の追い出しを目論でいたことから、
蒋介石はむしろ積極的に英米のいいなりになって、共産党バージを繰り広げていたわけです。



この認識も問題。
なぜなら、中国国民党もソ連との関係が深いからだ。
国民党の政府がまだ広東にあった時代、
孫文にはミハイル・ボロディンという
コミンテルンの工作員が政治顧問に就き、
また孫文の副官だった蒋介石は
ソ連の軍制の視察のためにモスクワを訪れている。
そして蒋介石は1924年に設立された
黄埔軍官学校の校長に就任している。
蒋介石の反共個人的な事情だろう(配偶者が浙江財閥の令嬢)



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