(2024.10.12)
憲法塾での教基法の話の補遺 時間が足りなくて端折った部分などを補完しておきます。十分な説明にはなっていません が、ご参考になれば、と思います。(憲法塾で教基法の話の補遺)
ご質問に関わって、世界各国での基本法のような事例を参考したのかということで、 ブログには「諸外国では、教育法規に抽象的、理念的な文言を書き込むということは 避けられています。教基法のような条文は、戦前の教育への断絶を明示するための特 殊日本的な現象のようです。」と手短に回答いたしました。
教育法令にかぎらず、法条文には、定義が曖昧な、あるいは多義的な文言は使わな いようにしているようです。条文違反が問題にしにくい、あるいは恣意的な解釈が横 行するなどの問題があるからだと思います。
たとえば、スライドに書いておきました例で、政府答弁書に「教育勅語の学校での 使用はあり得る」などというのは、衆参両院での排除、失効決議を無視した暴論です が、勅語の徳目は教基法に違反しないという解釈論があるからだと、思われます。(推 測に過ぎません、官僚はそういう突っ込まれるようなことは、隠し通すからです)。
そこで問題を広げて、旧教基法が教育の理念、目的、方針を書き込んだことの意味 について、学者間でも論争的な問題になっていることを紹介します。ここには、次元 の違う二つの問題があります。そもそも、法令に理念的、抽象的な用語を使うべきで はない、という問題です。この主張の代表例は、山住正己という教育学者です。これ は法律論としては正しい主張だと思われます。しかし、他方では、教基法の成立時上 の特殊性、つまり、敗戦後の日本の教育の方向を憲法の精神で指し示すことが必要で あり、それをしないと、戦前教育の復活を来しかねないという懸念です。
教刷委の田中耕太郎文相は、「私は個人的には、国家が法律を以て間然するところ のない教育の目的を明示することは不可能に近いことと考える・・・それは国家の目 的を法律的に示すことが不可能なのと同様である。」と述べ、「憲法前文に民主憲法の 政治理念を宣明しているにとどめているごとく、教育基本法も第一条、第二条は前文 的のものとして、第三条から始まるものとする方がよかった」という趣旨の発言が、 それを代表しています。つまり田中は、「法が教育の目的や方針に立ち入ったのは、 過去において教育勅語が教育の目的を宣明する法規範の性質を帯びていた結果とし て、それに代わるべきものを制定し以て教育者に拠り所を与える趣旨」だったという わけです。<引用は鈴木英一『教育改革と教育行政』勁草書房1995p36からの重引、 原文は田中『教育基本法の理論』有斐閣1961から>
もう一つの問題は、法律学の教育法学者、兼子仁が『教育法』(有斐閣63年)とい う著作の旧版では、教育基本法の、つまり教育制度改革の法原理として「民主主義と 平和と心理の教育」を掲げていたが、新版(78年)では「これは訓示規定に過ぎず、法 的拘束力がなく、法原理ではない」と改めている点です。それは「学校制度的基準の 範囲でのみ法的拘束力を有するにすぎないと解さなければ、国民の教育と学習の自由 の保障に抵触する」からだというのです。たしかに、教育内容にまで法原理が介入す- 1 ることは、権力の恣意的運用を非難できなくなり、教育と学習の自由は実践レベルで 保障されるべきであるというのは、それなりに理屈が立つものと思われます。ただ、 鈴木はこれを批判し、平和と民主主義の価値は、悲惨な戦争体験を契機として、戦前 戦中の教育を根本的に改めるとともに、長期の展望に立って戦後教育の未来を切り拓 く指針として制定された」と言って批判しているのです。<引用は鈴木英一『現代日 本の教育法』勁草書房1979pp2-3>
ここでは、教育法学者間の見解、意見の相違があったというとこで終わって良いのです が、問題は、現行教基法の過度の理念、目標の書き込みであります。全体に問題にすべき 文言が多いのですが、特に注意すべきは、第二条の「教育の目標」であって、それは、大 幅に旧法の該当箇所を書き換えているだけでなく、まったく異質の目標規定になっている ことです。実はこの二条の5つの項は、かつての学校教育法の目的規定を教基法に格上げ し、かつ変質させている点に注意すべきです。かつての学校教育法では、次のように書か れていたので引用しましょう。
○ 学校教育法旧法 第18条 小学校の教育目標
小学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めな ければならない。
一 学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と協同、自主及び自立の 精神を養うこと。
二 郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。
三 日常生活に必要な衣、食、住、産業等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
四 日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと。
五 日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。
六 日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。
七 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養い、心身の調和的発達を図ること。
八 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
見られるようにこれは旧教基法の文言を使いつつ、第二項以下では、社会科や国語、 算数、理科、体育などの教科の目標を書き込んでいるようにも見られ、それ自体不要とい う見解もありますが、妥協的には許される範囲と言えなくもないでしょう。しかし、これ がなくなって、現行教基法の第二条は、これに似てはいるけれど、俄然「徳目」化した内 容表現になっているのです。成嶋隆によれば、「これらの徳目規定が文部科学省告示であ る学習指導要領の「道徳」の項目を法律規定に「格上げ」したものになってい」て、法定学習 指導要領が大手を振って闊歩することになる、というのです。これは戦前日本が「修身」を 筆頭科目としていたのと同様に、教育を道徳教育に一元化していく志向が明らかだと、批 判しています。もちろんそのほかにも、第二条の愛国心条項についても鋭く成嶋は批判し ています。その眼目は「それが思想・良心の自由と国家の価値中立性の原則を定めた憲法 一九条に真っ向から抵触する」というわけです。(「世界」2006/7)
このように、法律に教育的価値に関わる文言を書き込むことは、非常に大きな問題を抱 えています。しかし現行教基法では、行政は価値中立的であって、「条件整備」すなわち、 金とモノを提供することに徹すべきという方向性とは真逆で、金とモノは徹底的にけちり、 内容にずけずけと介入し、支配するという構造に転換してしまったと考える次第です。
なおついでに言えば、学校教育法の旧一八条は、現行法では二一条に一〇項目に増やさ れ、そして能力・技能のほかに態度を養うということが最初の3項で強調されています(条 文引用は省略)。これは、まさしく「規範意識」を入れ込もうという意思表明と批判されて も仕方ないでしょう(さらに学校評価の基準として見なされ、子どもに降りてくるのでは ないか)。これらは、法的規範ではなく、訓示規定として拘束力のない条項として慎重に 運用されるべきです。教育はそもそも法律という権力作用とはなじまない非権力作用であ り、学校、教員の主体性が尊重されるべきです。
なお一言補足します。国際的規範としての「子どもの権利条約」の教育条項は、二八条 で「教育への権利」として機会の平等を基礎として達成すべきことをのべ、子どもの人間的 尊厳に適合する方法で条約が運用されるべきと規定しています。そして二九条「教育の目 的」では、世界人権宣言や国連憲章の原則を尊重すべきなどの規定がありますが、これら の規定は、個人、団体の教育機関の自由を妨げるものではない、と書いています。これは いわば、国際的良識と言えましょう。
やはり日本の教育法規の特殊性は、旧教基法の下では戦後の憲法的価値の精神に適合し たものではありましたが、その民主的な価値は権力に敵視され、空洞化され、改正教基法 に至って、特殊性を逆手にとって、権力的介入、行政的管理を強化することに役立てられ てしまうという状況にあります。そしてそれらの具体的な施策が、いじめ不登校、ひきこ りなどの子どもへのストレスを強化し、教員に過度の多忙化、管理主義が高じて、教員の なり手を失っていくという、悲惨な現状をもたらしています。教育勅語のもとで戦争に突 っ走り、教育が崩壊しましたが、いまや、教育の国家による管理主義がそれとは別の「崩 壊」の危機をもたらしているように思われてなりません。
日本の教育は、権力的介入が横行し、競争主義のもとで子どもと教師の自由を奪い、い まや崩壊の道を走っているかのようです。この問題を克服する道はただ一つ、教育(学校、 教室)に自由の空気を取り戻し、行政はその自由を見守るということに尽きます 。
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