知られざる佳曲

   一. クラシックを中心とした音楽が好きです。
   二. 素人ですが、著作権や著作権法について考えたり、情報検索について書いたりしています。
   三. アマゾンの深層webや物流に関心があります。

慶應義塾大学名誉教授でドイツ文学者の深田甫先生が今年(2020年)3月26日に心不全で逝去されました。そのことを知ったのは、小説新潮に連載されていた逢坂剛さんの「鏡影劇場」(本年9月に新刊で出版されるようです)を読み終えようとしていた時でした。




ホフマン全集 1・機.ロ風幻想作品集



十九世紀の不思議な作家であるE・T・A・ホフマン(Hoffmann, 1776-1822)と、小説の登場人物の舞台である現在とが幻想的に交差する面白い連載小説だったのですが、その連載の終わりに、ホフマン全集を一人で訳した深田先生が今年亡くなったことがお悔みと共に書かれていたのでした。

もちろん深田先生がご高齢であることは存じていましたが、それでも驚きました。


鎌倉で先生のお話を聞いていたことを、今も昨日のように思い出すことが出来ます。少年時代の先生が家出をし、北鎌倉の円覚寺に身を寄せていた時のこと(まだ夏目漱石を実際に見たお坊さんがいらしたそうです)。先生のお父様が重体となっていた時、お父様の生霊(?)が鎌倉駅からタクシーに乗って来てそのまま家に入っていったので、玄関の運転手さんから「代金をお願いします」といわれた日のこと。ドイツ語のこと、遠い欧州の国々について、そして音楽の話――。

ユーモアと幻想にあふれる先生の語り口は、まさしくホフマンの不思議な小説のようでした。

先生は同じ慶應義塾の同僚だった江藤淳(Eto, 1932-1999)さんと親しく、同じように奥様を先に亡くされたので、周囲の方からとても心配されたと仰ってました。


シューマンの「クライスレリアーナ(Kreisleriana)」がホフマンの作品から想を得ていることは有名ですが、その他にもホフマンの作品の題名には「Fantasiestucke」とか、「Nachtstucke」とか、そのものずばりな題名が並んでいて、シューマンに大きな影響を与えていることが窺えます。





先生のお話をもう聞けないのがとても残念なのですが、いまごろ、天国でこころゆくまで奥様とお話をされているでしょう。合掌。







鏡影劇場




マチューシン「太陽の征服」(美術:マレーヴィチ)



著者からご恵贈いただきました。ありがとうございます。




まず、基本的な概略から説明したい。本書は、二十世紀初頭のロシア・アヴァンギャルドの音楽に関する著者の複数の論文から構成されている。

第一章では、職業は軍医であったが、音楽におけるロシア・アヴァンギャルドの方向性を示したニコライ・クリビン(Kulbin, 1868-1917)の提唱した「自由音楽」論が採り上げられる。続く第二章では、ミハイル・マチューシン(Matyushin, 1861-1934)の書いた未来派オペラ「太陽の征服(Победа над солнцем)」の音楽について。そして最後の第三章では、日本の和歌をロシア語訳した歌詞に基づいて、アルトゥール・ルリエー(Lourie, 1892-1966)とストラヴィンスキー(Stravinsky, 1882-1971)が作曲した歌曲集について論じる。通常、ストラヴィンスキーはアヴァンギャルドには分類されないが、ルリエーの創作との対比をする上で、「補助線」を引くために紹介されている。


本書を読んで一番印象に残った部分は、アヴァンギャルド(前衛)の芸術は一見デタラメのように見えながら、きちんとした理論に裏付けられているということだ。

その前衛を産み出した理論は、作曲者ひとりひとりによって少しずつ異なるものの、ごく大雑把に言えば、西欧からもたらされた平均律(音楽)と遠近法(絵画)を基礎とする西洋(西欧)芸術を乗り越えた新しい芸術を作り出そうとするものだった。

そもそも新しい芸術が生まれるきっかけとは何だろう?

西洋芸術は、二十世紀初頭までに他の諸文明を圧倒しつつあった西洋(西欧)文明を基盤としていた。ロシアも十八世紀のピョートル大帝の改革以来、文明の進んだ西欧を模範として近代化が進められた。

芸術の分野でも、ペテルブルクに美術アカデミー(1757年)と、音楽院(1862年)が設立され、いわゆるアカデミズムに基づいた西欧芸術がロシアにもたらされた。


もちろん「ロシア・アヴァンギャルド」という運動は、新しい芸術を目指す運動ではあるのだが、筆者には「西欧芸術に対する防衛反応」という側面があるのではないかと感じた。つまりロシアには「西欧とは別の道」があるということを彼らが示そうとしたのではないか。

ただ西欧文明を拒否するだけでは「野蛮」になってしまうが、ちょうどその頃西欧で生まれた「前衛」をロシアでうまく採りいれ、消化することで、西欧芸術、ひいては西欧文明そのものまで超克しようとした運動ではなかったのかと思う。



ストラヴィンスキー「三つの日本の抒情詩」


そんな時代に、ロシアと同じように西欧文明を採りいれつつあったのが我が国、日本である。

第三章で紹介されるストラヴィンスキーの「三つの日本の抒情詩」(1913年)と、ルリエーの「日本組曲」(1915年)は、日本の和歌と俳句をロシア語に訳したものに曲を付けている。

本書の著者である高橋健一郎は、大学でロシア語・言語学を教えているが、もともとピアニストを目指していたので、音楽への造詣が深い。訳詞とともに楽曲の分析を行っている。この二つの楽曲を演奏会で採り上げようとする人には、一読の価値があるだろう。


「ロシア・アヴァンギャルド」という言葉を聞いて何を思い浮かべるだろうか。

筆者が初めて「ロシア・アヴァンギャルド」という用語を知ってから、だいぶ長い時間が過ぎた。でも筆者はそれについて詳しく知っているという自覚は無かったし、本書を読み進むにつれて、ますます知らなかったのだということに気付かされた。ことにロシア・アヴァンギャルドの音楽というものを全く知らなかった。きっと本書を読めば、多くの方々もそう感じるなのではないか。




高橋健一郎『ロシア・アヴァンギャルドの宇宙論的音楽論――言語・美術・音楽をつらぬく四次元思想』水声社、2019年。



ロシア・アヴァンギャルドの宇宙論的音楽論: 言語・美術・音楽をつらぬく四次元思想

この文章は、昨年(2019年)の秋に書いたものです。うまく書けなかったので気が乗らずにお蔵入りとしていましたが、生の音楽が聴きにくい状況となっている現在、拙い文章ですが公開しようと思います。

音楽を演奏する人、舞台で演じ、踊り、歌う人、みんな負けるな。



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久しぶりに体調が良いと感じたので、洗足学園音楽大学で開かれた演奏会に足を運んでみた。大学院生の研究発表を兼ねた演奏会なのだという。

大学院管楽器後期プロフェッショナル研究発表演奏会
〜管楽器が彩る錦秋のひととき〜




行ってみて良かった。第一曲目のジャック・カステレード(Casterede, 1926-2014)の「笛吹きの休日(Flutes En Vacances)」を聴いた瞬間、うまく書けないが、まるで自分の体の中に息を吹き込まれたような感じがして、背中がゾクッとした。

もちろん、ステージと客席は充分に離れていて、管楽器といえども息を吹き込まれるはずはないけど、なにか自分の「生命の根源的なところ」へ息を吹き込まれたみたいに感じた。いつも音楽を聴くのはCDだったり、YouTubeだったり、時にはラジオで聴くだけで、生の音楽から離れすぎているので、やはり音楽を生で体験することは大事だと感じた。

生の音楽には――少なくとも自分にとっては――直接的な強い力がある。そして同時に、魅力と表裏一体の怖さも感じる。毎日聴くのはCDなどで充分だが、機会を作ってなるべく生の音楽を聴くようにしたい。

古くから『ニーベルンゲンの歌』に歌われ、ワーグナーが「ニーベルングの指環」に翻案したジークフリートの物語は、日本のヤマトタケルの物語とよく似ているような気がする。

勿論、神話や英雄譚は世界中どこでも同じような展開を辿るのだろうけど、ジークフリートは龍を殺し、ヤマトタケルも龍の尾から出てきた剣を身に付けて旅に出た。




ギネス・ジョーンズ扮するブリュンヒルデ



炎に身を投じたブリュンヒルデと海に身を投じた弟橘媛の二つの自己犠牲。木更津の吾妻神社や、東京の吾妻橋(墨田区立花にある吾嬬神社へ続く参道だった)など、弟橘媛にちなんだ旧跡は東京湾岸沿いに多いが、相模湾を望む神奈川の二宮町にも吾妻山と吾妻神社がある。若い頃、そこから三浦半島と、その先にかすかに見える房総半島を見て、遠い神話の時代へ思いを馳せたものだった。ヤマトタケルが本当にこの山に登ったかはともかく、遥か遠くに房総半島が見えることから、昔の人々が弟橘媛の物語をこの山と結びつけたのは間違いないだろう。



そして、どちらの英雄も最後には不慮の死に近い亡くなり方をする。

ジークフリートが死に、ヴァルハラの城は炎上して神々の時代が終わる。草薙剣を熱田に置いたままにして伊吹山の神と対決したヤマトタケルは敗れ、病をおして伊勢神宮を目指したが息絶え、生まれ育った大和の国を想いながら白鳥になって天をめざして飛んでいった。


二つの物語が似ていると感じたのは、ニーベルンゲンの神話も実際の史実をある程度もとにしていると聞いてからだった。ヤマトタケルの物語だって、やはり少なからず史実をもとにしているだろう。おそらく東国で人々の記憶に残る活躍をした英雄の死と、大和王権から東国平定のため派遣された王子の死の記憶が合わさって出来ているのだと、個人的には考えている。




Dame Gweneth Jones Sings Wagner





ツイートは流れて行ってしまうので、備忘録代わりに。












これらのレーベルを知ったのは偶然と言うべきで、たまたまウィーン室内合奏団(Wiener Kammerensemble)のCDを探していた時に、ヴィーナス・レコード(Venus Records)が1993年に発売していたこの盤を知り、「コロムビア以外で昔に国内で録音していたの?」と驚いたわけです。まだヴァルター・ヴェラー(Walter Weller, 1939-2015)がウィーン・フィルでヴァイオリンを弾いていた時代の録音で、原盤はオーディオ機器で有名なトリオが運営するトリオ・レコードです。


それから、下段のシューベルトの「感傷的なワルツ」は、ディスク・シャルラン(Disques Charlin)原盤の美しいジャケットにひかれて買ったものです。いいものが見つかった時だけですが、少しずつ集めるようになりました。演奏もとても気に入ってます。

ディスク・シャルランは伝説的な録音技師アンドレ・シャルラン(Andre Charlin, 1903-83)によって設立されたレーベルで、今まで全く知りませんでした。たぶん、リリー・クラウスのデュクレテ・トムソン(Ducretet-Thomson)への録音を持っているので、そこで「音」は知っていたくらいです。


経験ともいえないくらい小さな個人的な出来事なのですが、一枚の中古CDを見つけたことから、今まで全く知らなかった音楽への扉が開かれる――これこそが音楽の楽しみであったり、ディスクを買うことの楽しみだったりするのです。



もう昨年(2018年)の話なので、それは平成のことなのだけど、小田急線の豪徳寺駅前にある「旬彩酒家つき」という居酒屋が店じまいをした。

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ベーコンとポテトの炒めもの

その出来事は、今年(2019年)になって豪徳寺の多くの店が閉まったことの前触れだったように思う。一応、世田谷線との乗換駅なのだが、全く控えめで小さいこの駅には、それにふさわしいくらいの小さな商店街があって、そこには本屋も文房具屋もあったのだけど、一気に姿を消してしまった。

旬彩酒家つきは、九州出身の大将と若い奥様が営む美味しいものを出す居酒屋だった。今まで焼酎など殆ど飲んだことのない自分が銘柄を覚えたのは、この店のおかげだった。ありがとう。つきが無くなってから、そのありがたみが身に沁みるようになった。


消費税の増税にあわせて導入された軽減税率に対応できないレジは一掃され、そして小さな商店も無くなってしまった。小さいけど本屋のある駅だったのが自慢だったけど、それもなくなってチェーン店しかない、どこにでもあるのっぺらぼうの街になってしまうのだろうか。

ありがとう、旬彩酒家つき!

近所のコンビニに入るとフルートの曲が流れていて、「あっ、聴いたことがある曲だけど、何だろう」と思いを巡らせていた。きっと原曲はフルートじゃないなとか、聴きやすいアレンジだなとか考えていた。必要なものを全て籠に入れたころ、やっとサン=サーンスの「白鳥」だと気付いた。

久しぶりに聴いたので、なかなか思い出せなかった。昔、母方の祖母が家に遊びに来た時、テレビ(名曲アルバムだったと思う)からこの曲が流れていて、「いい曲だね。これは『白鳥の湖』とは関係ないの?」と言ってたのを思い出した。もう三十年は前のことだ。もしかしたら、ぎりぎりで昭和だったかもしれない。

別に音楽に詳しいわけではなかったが、いい音楽が好きだった祖母。今年はたぶん十三回忌になるのではないだろうか。可愛がってもらったのに、お墓詣りにあまり行けなくて申し訳なく思う。

コンビニからの帰り道、少し前に古本屋で買った吉田秀和『音楽の光と翳』の中の一節を思い出していた。その文章で触れているのはサンサーンスの「白鳥」ではなく、ワーグナーの「ローエングリーン」に出てくる白鳥だが、若山牧水の白鳥の有名な歌を引用した上で短い文章をこう締めくくっている。


悲しいのはそこに自分の姿をみている詩人の方で、白鳥自身は悲しがってなどいないのだ、澄みきった楽の音と同じように。




「涯てしなく遠い青」『音楽の光と翳』中公文庫、1989年、86頁。


音楽の光と翳 (中公文庫)






全くの偶然だったのだけど、「シューマンを聴きながら(En ecoutant du Schumann)」というバレエ作品があることをYouTubeで知った。








この題名は(分かる方はすぐにピンとくるはず)、フェルナン・クノップフ(Khnopff, 1858-1921)の同名の絵画から採ったのだろう。音楽は「謝肉祭」をジャンパオロ・テストーニ(Testoni, 1957- )が管弦楽版に編曲している。グラズノフたちが編曲している版(アンセルメがデッカに録音している)ではないようだ。


それにしても、六月の記事に「シューマンは不意に玄関の扉を激しく叩」くようだと書いたけど、今回もシューマンに扉を叩かれてしまい、うっかり開けてしまった。こうなると一ヶ月くらいはこの男に居座られてしまう。

謝肉祭は、それこそ二十代の頃に飽きるほど聴いて、本当に飽きて全く手に取らなくなったはずなのに、このバレエの動画を観て以来、またちょくちょくと聴くようになってしまった。

ダン、ダン、ダン、ダン(扉を叩く音)

シューマン「僕だ、ローベルトだ。僕の音楽を聴いてくれ!」




Decca Recordings 1953-1967



自分は決して村上春樹の熱心な読者というわけではないけど、彼がクラシック音楽について書いているものはいろいろ追っかけるようにしている。






少し前のことになるが(2015年)、期間限定サイト「村上さんのところ」でも、お気に入りの音楽が読者とのやりとりの中で挙げられていて、アーリーン・オジェー(Auger, 1939-93)が歌う「四つの最後の歌」がお気に入りとあった(テラーク盤で、バックはプレヴィン指揮/VPO)。この演奏は筆者も好きなので、読んでいて嬉しかった。


公開されている時には気付かなかったが、50年代から60年代のリヒテルに触れた部分があった。

リヒテルの演奏をよく聴きました。この『森の情景』はとても素晴らしいです。完璧な技術と、まっすぐに核心に踏み込んでいく洞察と、みずみずしいエモーション。50年代から60年代にかけてのリヒテルは、まさに魔法のような存在でした。


村上春樹『村上さんのところ』新潮文庫、2018年、282頁。



この演奏はCDがDGから出ていて、手に取られた方も多いと思うが、先日購入した独Profilレーベルの放送曲から音源復刻した「リヒテル/シューマン&ブラームスBOX」であらためて聴きなおした。


RICHTER PLAYS BRAHMS & SC


既にレコードやCDで発売されている音源だけでなく、初出のライブ(放送用音源)など、まさに50〜60年代のリヒテルの「生の」シューマンが収められていて、この「森の情景」に限らず、熱いパッションがぶつけられている部分や、美しい弱音がはかなく響く箇所など、本当に魔法のようなリヒテルを堪能できる。










セッション録音されてないライブでは、本当に自由に羽ばたいているように感じる。




気になった言葉はメモしておこうと思うのだけど、つい忘れてしまったり、最初から面倒に感じてしまったりで、記憶から跡形もなく消え去ってしまうことが多い。

吉田秀和作曲家論集〈4〉シューマン

だから、スマホから音声入力をし、ブログに残していこうと思う。

まずは、吉田秀和がシューマンのピアノ・ソナタ第1番嬰ヘ短調作品11について語った文章から。シューマンの芸術全体に対しての言葉であってもふさわしいように感じる。

シューマンには、「言いたいこと」がいっぱい、多すぎるほどいっぱいあり、それを適当な形にまとめるなんてことは手に負えないというより、そうやってはいけなかったのだ。そんなことをしたら、中途半端になってしまったろう


「アンスネス/ピアノ・ソナタ第1番、幻想曲」『吉田秀和作曲家論集・4シューマン』音楽之友社、2002年、181頁。





次に、同じく吉田がシューベルトの音楽の本質について語った文章から。誰もが思っていてもうまく表現できないことを、吉田が書いてくれた。

シューベルトにとって、音楽は、言葉の深い意味で、“回想” であり、作曲とは何かを想い出すことにつながっていたのではなかろうか?
私たちが、シューベルトの音楽を聴いて、まず感じるあの “親しさ” “親密さ” の印象は、そこに根ざすのではなかろうか? そうして彼の有名な旋律たちが、どこかから発してどこかへ向かってつき進む前進の音楽でないことは、改めていうまでもないだろう。それは、むしろ日だまりでの夢見心地の想いであり瞑想であるのだが、では何についての瞑想かと聞かれれば、シューベルトは、むしろ心の奥底にある何ものかの、音の “鏡” に映した影と呼んだかもしれない。そこには、それくらい、深くて遠い領域からのぼってきたものの気配がある。私は、それを前に「無意識の国からの声」というふうに呼んだのだが。
人びとが、この音楽に「子供っぽい」とは言わないまでも、何か「純潔な」あるいは「無垢な」「素朴な」「非反省的な」性格をみようと誘われるのもこうしたものに基因するのではないだろうか?


「シューベルト」『吉田秀和作曲家論集・2シューベルト』音楽之友社、2001年、23-24頁。

吉田秀和作曲家論集〈2〉シューベルト







今年の初めに週刊文春が日本史を学ぶ上で読むべき本を多くの学者や作家がリストアップする企画があった。そこでの元外交官・作家佐藤優の言葉を最後に採り上げたい。

日本において、天皇は神々と人々をつなぐ特異点なのである。それは、イエス・キリストが、真の神で真の人であると考えられ、神と人間の媒介項となるキリスト教に似た構成だ


週刊文春 2019年1月3日・10日号 179頁


なぜ日本では、クリスマスや教会での結婚式など「キリスト教的なもの」は広く受け入れられても、キリスト教の信者はそれほどいないのかという疑問への答えがここにあるような気がする。

週刊文春 2019年 1/10 号 [雑誌]





「最近、シューベルトを聴いている」と書くと、自分が能動的に音楽を取捨選択しているように見えるけど、いつも「いつの間にかシューベルトを聴いている」ようになっていることの方が多い。

同じように好きだけど、シューマンの音楽との出会いがいつも唐突なものなのに較べて、シューベルトは常に自然な感じでそこにいる。

たとえて言うなら、シューマンは不意に玄関の扉を激しく叩いているが、シューベルトは気が付くと何事もなかったように居間の長椅子に腰かけている――そんな感じ。






吉田秀和作曲家論集〈2〉シューベルト



今、吉田秀和のシューベルト論集を読もうと思っているところ。

いま「大人のための教養」が流行っているらしい。

近所のコンビニの雑誌コーナーに『おとなのための教養入門』(プレジデント社)というムックが並んでいて、試しに「音楽」の項目を読んでみることにした。執筆者は樋口裕一多摩大学名誉教授



おとなのための教養入門

プレジデント社 2018年07月30日
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そこにはモーツァルト、ベートーヴェンというウィーン古典派の二大看板が採り上げられていた(4ページ分)。

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「二項対立」で体系的に音楽を学ぶ
頭がよくなるクラシックへの誘い ●樋口裕一
 感覚的、快楽的なモーツァルト
 哲学的、宗教的なベートーヴェン
---------------------------------------------------------------------(同誌の目次から引用)





紙面の都合上もあるだろうし、芸術としての性格も違うが、この本の中の「美術」が古代ギリシャ・ローマから後期印象派まで、いわば総花的に扱っていたのとは対照的だった(たしか8ページ分あったと思う)。


クラシックがどのように紹介されているか興味があるので、こういう本があるとつい手に取ってしまう。そして、書いていることに対して「あぁそうだな」とか、「それは違う感じがするなぁ」とか、つい批評の批評をしてみたくなる衝動に駆られがちなのだが、この本での採り上げ方というか、クラシック音楽の「切り取り方」には好印象を持った。もし総花的に並べたとしても、読者の印象には決して残らなかっただろう。



音楽や美術に限らないけど、何かを紹介したり、お薦めしたりすることって、難しいことだとつくづく感じる。でも、こういういい意味での「取っ掛かり」を得て、大人になってからでもクラシック音楽を聴き始め、そして、自分の好みに合う音楽を自分一人の力で探せるようになると素敵だと思う。


必ずしも自分で探すことは必須ではないが、芸術や文化の楽しみ方は数多くある中で、自分で探し出す楽しみは結構大きな部分を占めている。自分自身で探せる力――これこそが教養だろう。



『おとなのための教養入門――なぜ、すぐに役に立たない学びほど大切なのか?』プレジデント社、2018年。




元号が令和にかわって最初の記事がこういう題名なのは、複雑な気持ちですが、今回は【緊急】の投稿です。アマゾンでクレジットカードを使って買い物をされている方は、いま一度、明細書で請求された内容をチェックすることをお奨めします。

請求者名「AMAZON.CO.JP」で、身に覚えのない請求が来ていませんか?



ブルームバーグで、本日(9 May 2019 = 令和元年五月九日)、以下の報道がありました。


アマゾン、昨年ハッカー被害に遭う−深刻な攻撃だったと英国で報告

記事の中で、ハッカーが「出品者アカウントに侵入し」たとありました。

先日、筆者のAmazonカードに身に覚えのない請求があるのを見つけました。筆者もご多分に漏れず、アマゾンで多くの買い物をしています。だから、5880円という比較的高額の請求が同じ日付で二件来ていなければ気が付かなかったでしょう。


西日本新聞でも同様の記事が出ていました。

「覚えのない請求」明細に アマゾン名義の不正利用多発 キャッシュレスに不安


筆者の場合も、アマゾンは詳しく話してくれませんでしたが、担当者は「お客様の名義で出品者アカウントが不正に作成され、11760円が請求されたようです」と言ってました。勿論、筆者は出品者アカウントを作ったことも、物を売ったこともありません。

アマゾンの担当者はとても感じのいい女性だったが、しかし「返金はアマゾン側ではできないので、カード会社に補償をお願いしていただけますか・・・」と歯切れの悪い言い方だった。おそらく上から、アマゾンが返金すると言質を与えてはいけないと言われているのだろう。

不正アクセスにあったのはアマゾンなのに、申し出が無ければそのまま顧客に払わせるというのは随分な話だと思ったが、埒があかないのでAmazonカードの発行者である三井住友カードに連絡をした。担当者の話では、(1)今のカードは現時点で利用停止となる。(2)再発行したカードは後日届く。(3)返金も後日になる(「一旦、この金額は引き落とす」という意味だろう)とのことだった。


三井住友カードが、アマゾンの示唆したとおり返金に応じてくれて助かったが、もしかしたら、両社の契約でそのことが決まっているのだろうか? 例えば、「アマゾン側のいかなる不備があろうと、三井住友カードが顧客に返金する・・・」と。もし、そうであれば、GAFA(現代世界を支配するプラットフォームを構築する四社――グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン――の頭文字)の代表格であるアマゾンは一方的に自社に有利な契約を結ばせている可能性があるのではないか。

そして、アマゾンは「個人情報」を盾に、あらゆる情報公開に応じない。先月から今月にかけて、AmazonプライムのCMを大量に流しているから、どこのテレビ局でもこの問題を扱えない。

この不正請求があってから、しばらくはアマゾンで買わず、Amazonカードが届いても、それを使うのを躊躇っていた。だが、それもほとぼりがさめると(以前ほどではないにしても)買ったり、使ったりという「日常」に戻っていた。

あぁ、GAFAって、本当に恐ろしいなぁ・・・とグーグルで検索し、iPhoneで連絡を取り、フェイスブックに投稿する日常なのです。あ、そうそうAmazonアソシエイトのリンクも貼らねば(←貼るのかよ)。













きっかけは、知り合いに薦められたことでした。


クリスチャン・ゲルハーヘル(Gerhaher, 1968- )が歌うドイツ・リートを、最近よく聴いています。YouTubeでシューマンのリーダークライス Op.39 を聴いて、深く胸に浸み込むような歌声に好感を持ちました。





まるでささやくような彼の歌い方が、この曲集にぴたりと合っていると感じました。何かを褒める為に、他の何かを貶すような方法は取りたくないのですが、昔聴いたあるリート歌手の歌い方はどの曲も声を必要以上に張り上げているように見えました。たとえそれが正しい歌唱法だったり、伝統だったりしても、自分には何か嘘くさく、真実でないものに思えてしまい、それ以来、ドイツ・リートの世界から遠く離れていました。


by カエレバ






久々に、またシューマンやシューベルトの歌曲の世界に戻ることが出来て、嬉しいです。


付け足しのようで恐縮ですが、伴奏のゲロルト・フーバー(Huber, 1969- )も素晴らしいです。まさしく傾聴の価値が充分にあります。お薦めします。




去年書いてお蔵入りになっていた記事をアップしておきます。
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誰も問題にしていないのかもしれませんが、一応、貼っておきます。

もし、これでアマゾンからBanされたら、このブログでご報告させていただきます。







勿論、この自由な資本主義社会では、誰がどんな値段で売ろうとも問題ではないということは分かっています。このような記事を書くと、いつもそういうご指摘が(ご苦労にも)即座に飛んでくるので、最初に書いておきます。




Perrier(ペリエ) プレーン 缶 330ml×24本[直輸入品]



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