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友よ、悲劇は終わった

Hope in a Prison of Despair
前回からの続き

本書に限らず、梅田の著作は「楽観的すぎる」と批判されることがある。そのことに触れながら、この感想を書き終えたい。

池田信夫は自身のブログの中で「日本の現実への言及がほとんどない」と批判しているが、そうだとしても、「日本の現実は、著者の目には入らない」とまでは思わなかった。むしろ梅田は現実を踏まえた上で、単なる現状への愚痴に終わることなく進むべき道を指し示したと思う。池田がどのような論拠を示すか楽しみにしていたのだが、「15分で読める」という批判だったのはとても残念だ。

ウェブ時代をゆく(池田信夫blog)


とは言え、池田による批判はまだ良いほうで、この世は酷い言説で満ち溢れている。言うなれば、それが日本の現実である。社会への不満は大事だが、酒場の悪口ではないのだから、挙げ足取りや煽動ばかりでは、これからどうしたら良いか分からない。こうした内部抗争ばかり続けていては、やがて日本は新撰組のように内側から崩壊していくだろう。

今の現状を見て思い出すのは、90年代初頭の頃である。その頃はまだまだ「バブル景気」という言葉もあまり一般的でなかった。まだ深刻な不況の実感に乏しかったからだ。

当時、ソ連から始まったペレストロイカ(改革)によって、東欧にも民主化の波が押し寄せ、89年にはポーランドの自由選挙、汎ヨーロッパ・ピクニック(ハンガリー)、ベルリンの壁崩壊、ビロード革命(チェコスロバキア)、ジフコフ辞任(ブルガリア)、チャウシェスク処刑(ルーマニア)と「革命」が立て続けに起こった。そして革命の熱狂から醒めると、東欧諸国では深刻な経済不振に直面することとなった。

その状況を伝えるニュースキャスターはこう感想を漏らしていた。「社会主義経済からの転換は大変ですねぇ」安堵した様子で話していたところを見ると、「対岸の火事」であること以上に「日本は資本主義経済だから大丈夫だ」と言いたかったのだろう。



それなのに、なぜ長期間に渡って「出口の見えない不況」に覆われたのだろう。私には度を越えた悲観主義がその原因の一つであるように思えてならない。「出口の見えない不況」はその実態以上に、「出口の見えない閉塞感」となったのではないか。勿論、深刻な問題であったし、安易な楽観主義は禁物である。しかし、同様に根拠の無い悲観主義も日本社会に大きな害を及ぼしたように思われる。もう悲劇は充分に観ました。もういい加減終わりにしませんかと世の論客たちに言いたい。

この問題は日本人の生真面目さに関わってくる問題なので、なかなか改善できないかもしれないが、世界にはもっと悲劇を抱えながら希望を捨てずに頑張っている国がたくさんある。まるで明日にも国家が崩壊するだとか、円が暴落して無価値になるとか、叫ぶ「識者」の口車に乗ってはいけない。「ノストラダムスの予言」はどこへいったのか。

しかし悲しいことに、そうした煽動に煽り立てられる国民が多いのも事実だ。例えば、年金問題がある。若者は「どうせ貰えやしない」と嘯く。不思議に思うのだが、それで何も動かない。挙句の果てには「年金制度は崩壊している」とか「数十年後に日本が無くなっている」とか言い出す。どうして「社会を変えよう」とか「俺たちが何とかしよう」とか考えないのだろう。彼らは70歳になっても80歳になっても働くつもりなのか。「貯金をする」と言う若者は利子率すら知らないのだろう。

私は、著者の言動を支持し、ブログを読んでいるが、実は言いたいこともある。こんな日本ではあるが、こんな国だからこそ、日本から良くして欲しい。梅田が進める日本人1万人シリコンバレー移住計画は結局アメリカ社会に貢献するだけで、日本社会への貢献になるのだろうかと疑問を感じる。野茂やイチローが活躍して勇気付けられた日本人は多いだろうが、日本球界は果たして活気付いただろうか。いまや日本のプロ野球はテレビから消えようとしている。ここは野球にも明るい梅田の意見を聞いてみたい。



さらに、この本とは直接関係しないが、昨年の河合隼雄(1928-2007)の死に寄せるブログ記事に対しても疑問を持った。

取り返しはつかない

元々は養老孟司(1937- )が書いた記事への梅田の賛意なので、養老に言うべきかもしれないが、少なくとも河合は自らの意思で科学技術庁長官就任を決めたはずなのだから、長官の役割への過度の侮蔑は、勢い余って河合への最大級の侮蔑に繋がりかねない。勿論、養老も梅田もそんな意図は無いはずで、「わずらわしい政官界」を腐す気持ちは充分わかるのだが、度を過ぎれば日本社会全体を腐してしまうだろう。

私には科学技術庁長官の職務がそんなに意味の無い仕事だとは思えない。確かに河合の能力を生かせる仕事では無かったかも知れない。それでも学者が公官庁のトップに就く事はそんなに無意味な事だろうか。政官界に問題がないなどとは間違っても言えないが、安易な大衆迎合主義への接近を感じて、私は怖れを感じた。もしも、梅田が大衆に迎合し権力を目指し始めたら、何でも出来るようになるだろう。


このような意見を少しでも書くと、「お上ベッタリ」とブロガーにとっての死刑宣告を出されるので、書きたくなかったのだが、政治家や官僚の悪口を言えば事足れりとする大衆迎合主義は現代日本の病理であると、私は思っている。重要なことは彼らが何をしているかのチェックであり、悪口を言って酒飲んで寝て忘れてしまうのは、却って彼らに好都合だろう。

それでも不満がある方には、「政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことはできない」というトーマス・マン(Mann, 1875-1955)の言葉を返しておこう(「魔の山」から)。振り回した刀の刃は、実は自分に向けられているのだ。

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書 687)




と、私も批判ばかりになってしまったが、本書には全面的に賛同する。フロンティア(まだ見たことの無い土地)への希望に溢れているからだ。「ここではないどこか」と言い換えてもいい。そういう希望が、梅田望夫の一連の著作に爽やかな風となって吹き抜けている。


私が「ウェブ開拓論」を考えたのも、この本を知ったことが大きなきっかけになった。「あちら側」、「アメリカ」、「もうひとつの地球」と様々な形で変奏される梅田の曲の主題はこの「希望」である。東に「日本経済にもう成長の伸び白はない」と断言する者があれば、「ウェブのあちら側」にはまだ開拓すべき土地が広がっていますよと訴え、西に「大企業に就職できなかった」と嘆く者がいれば、「今は違う生き方でも充分に食べていける」と謳う。やはり、このポジティブさが今の日本には必要なのだ。

「ウェブ時代をゆく」を十文字以内で要約せよと言われたら、私は32頁に出てくるこの一文をあげる。

未来は創造するものだ


おわり


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