知られざる佳曲

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タグ:吉田秀和

近所のコンビニに入るとフルートの曲が流れていて、「あっ、聴いたことがある曲だけど、何だろう」と思いを巡らせていた。きっと原曲はフルートじゃないなとか、聴きやすいアレンジだなとか考えていた。必要なものを全て籠に入れたころ、やっとサン=サーンスの「白鳥」だと気付いた。

久しぶりに聴いたので、なかなか思い出せなかった。昔、母方の祖母が家に遊びに来た時、テレビ(名曲アルバムだったと思う)からこの曲が流れていて、「いい曲だね。これは『白鳥の湖』とは関係ないの?」と言ってたのを思い出した。もう三十年は前のことだ。もしかしたら、ぎりぎりで昭和だったかもしれない。

別に音楽に詳しいわけではなかったが、いい音楽が好きだった祖母。今年はたぶん十三回忌になるのではないだろうか。可愛がってもらったのに、お墓詣りにあまり行けなくて申し訳なく思う。

コンビニからの帰り道、少し前に古本屋で買った吉田秀和『音楽の光と翳』の中の一節を思い出していた。その文章で触れているのはサンサーンスの「白鳥」ではなく、ワーグナーの「ローエングリーン」に出てくる白鳥だが、若山牧水の白鳥の有名な歌を引用した上で短い文章をこう締めくくっている。


悲しいのはそこに自分の姿をみている詩人の方で、白鳥自身は悲しがってなどいないのだ、澄みきった楽の音と同じように。




「涯てしなく遠い青」『音楽の光と翳』中公文庫、1989年、86頁。


音楽の光と翳 (中公文庫)






気になった言葉はメモしておこうと思うのだけど、つい忘れてしまったり、最初から面倒に感じてしまったりで、記憶から跡形もなく消え去ってしまうことが多い。

吉田秀和作曲家論集〈4〉シューマン

だから、スマホから音声入力をし、ブログに残していこうと思う。

まずは、吉田秀和がシューマンのピアノ・ソナタ第1番嬰ヘ短調作品11について語った文章から。シューマンの芸術全体に対しての言葉であってもふさわしいように感じる。

シューマンには、「言いたいこと」がいっぱい、多すぎるほどいっぱいあり、それを適当な形にまとめるなんてことは手に負えないというより、そうやってはいけなかったのだ。そんなことをしたら、中途半端になってしまったろう


「アンスネス/ピアノ・ソナタ第1番、幻想曲」『吉田秀和作曲家論集・4シューマン』音楽之友社、2002年、181頁。





次に、同じく吉田がシューベルトの音楽の本質について語った文章から。誰もが思っていてもうまく表現できないことを、吉田が書いてくれた。

シューベルトにとって、音楽は、言葉の深い意味で、“回想” であり、作曲とは何かを想い出すことにつながっていたのではなかろうか?
私たちが、シューベルトの音楽を聴いて、まず感じるあの “親しさ” “親密さ” の印象は、そこに根ざすのではなかろうか? そうして彼の有名な旋律たちが、どこかから発してどこかへ向かってつき進む前進の音楽でないことは、改めていうまでもないだろう。それは、むしろ日だまりでの夢見心地の想いであり瞑想であるのだが、では何についての瞑想かと聞かれれば、シューベルトは、むしろ心の奥底にある何ものかの、音の “鏡” に映した影と呼んだかもしれない。そこには、それくらい、深くて遠い領域からのぼってきたものの気配がある。私は、それを前に「無意識の国からの声」というふうに呼んだのだが。
人びとが、この音楽に「子供っぽい」とは言わないまでも、何か「純潔な」あるいは「無垢な」「素朴な」「非反省的な」性格をみようと誘われるのもこうしたものに基因するのではないだろうか?


「シューベルト」『吉田秀和作曲家論集・2シューベルト』音楽之友社、2001年、23-24頁。

吉田秀和作曲家論集〈2〉シューベルト







今年の初めに週刊文春が日本史を学ぶ上で読むべき本を多くの学者や作家がリストアップする企画があった。そこでの元外交官・作家佐藤優の言葉を最後に採り上げたい。

日本において、天皇は神々と人々をつなぐ特異点なのである。それは、イエス・キリストが、真の神で真の人であると考えられ、神と人間の媒介項となるキリスト教に似た構成だ


週刊文春 2019年1月3日・10日号 179頁


なぜ日本では、クリスマスや教会での結婚式など「キリスト教的なもの」は広く受け入れられても、キリスト教の信者はそれほどいないのかという疑問への答えがここにあるような気がする。

週刊文春 2019年 1/10 号 [雑誌]





「最近、シューベルトを聴いている」と書くと、自分が能動的に音楽を取捨選択しているように見えるけど、いつも「いつの間にかシューベルトを聴いている」ようになっていることの方が多い。

同じように好きだけど、シューマンの音楽との出会いがいつも唐突なものなのに較べて、シューベルトは常に自然な感じでそこにいる。

たとえて言うなら、シューマンは不意に玄関の扉を激しく叩いているが、シューベルトは気が付くと何事もなかったように居間の長椅子に腰かけている――そんな感じ。






吉田秀和作曲家論集〈2〉シューベルト



今、吉田秀和のシューベルト論集を読もうと思っているところ。

吉田秀和(YOSHIDA, 1913-2012)が亡くなってから、もう短くはない月日が経った。

筆者は、生前も今もあまり熱心な読み手ではないが、手に取った雑誌に彼が寄せた文章があると、必ず最後まで読んでいたような気がする。

その理由は、吉田の文章が必ず最後まで読めたからだった。音楽理論や難しい話は理解できなかったが、読んでいてそれなりに楽しめたから読んでいたのだと思う。

いつでも手に取れる本とは違って、FM放送「名曲のたのしみ」はとうとう殆ど聞くことができなかった。今思えば、とても勿体ないことをした。





最近知ったが、没後の2014年に「吉田秀和が語ったモーツァルト」と題して、同放送を再編集したものを流していたらしい。

最初に紹介されるのがジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団の交響曲第39番変ホ長調 K.543 で、なかなか好感を持った。今までこの組み合わせの演奏を良いと思ったことがなかったのだけど、もしかしたら、CDを一枚か二枚かだけ聴いて、気に入らなくて遠ざけてしまっていただけだったのかもしれない。

吉田は「胸を打たれた」とこの演奏を評している。



今月(2017年2月)、再発されるようなので、買ってみよう。



by カエレバ













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