東電文庫本 今から7年前の平成九年(1997)3月8日深夜、東京・渋谷区円山町の空きアパートの一室で39歳の一人の娼婦が何者かに殺されました。ところが、この娼婦が東京電力のキャリアウーマンだったことから一転スキャンダラスな展開となり、世間の好奇な目にさらされることになりました。犯人とされたネパール人は、無罪となりましたが、二審で逆転有罪となりました。昨年10月、最高裁は上告を棄却し、二審の無期懲役が確定しました。これは冤罪の可能性が高く、弁護団は再審請求中です。事件の根本的な解決には至っていません。
 この事件のキーワードの一つが<因縁>です。佐野眞一の先駆的なドキュメント「東電OL殺人事件」(新潮文庫)には、殺された女性を取り巻く不思議な因縁が書かれていますが、実は私もこの事件となった現場の街に、ちょっとした因縁があります。
 また、この本のほかに、桐野夏生「グロテスク」や久間十義「ダブルフェイス」などの小説もあり、文学からもこの女性の内面の「闇の迷宮」(佐野眞一の言葉)を巡ってさまざまな試みがなされています。
 今後、できれば2週間に一回位のペースで特集を組み、関係する本を読みながら私なりに事件を考えていきたいと思っています。

追記:冤罪の可能性が高いネパール人被告の裁判経過について事実誤認があったため訂正しておきました。(平成16年5月14日)
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 ※事件の概要については、「無限回廊」HPの「東電OL殺人事件」に詳しく書かれています。

 ■<因縁>の街の「磁力」に引き寄せられ、彼女は殺された

円山ホテル街 佐野眞一(以下・佐野、敬称略)の「東電OL殺人事件」第1部「堕落への道」には、殺された女性()と、殺害現場となった渋谷区円山町のラブホテル街との不思議な<因縁>が書かれています。
)佐野は本書で実名を出していますが、実名の記述には問題があるので、私は匿名扱いにします

 それよると、円山町は戦前から花街として知られ、昼間から三味の音が流れる粋な街だったといいます。料亭や待合の数は300軒を超え、芸者衆も300人は下らなかったそうです。
 しかし、戦後、この街は都内でも有数のラブホテル街に変貌します。
 その先鞭をつけたのが岐阜グループと呼ばれる人たちです。
 
 岐阜グループは、岐阜県荘川村に昭和35年に完成した御母衣ダム工事に伴って水没した村の人たちです。
 彼らは莫大な補償金を手に円山町にやってきて、経営が傾きかけていた料亭などからこの辺りの土地を買占め、連れ込み旅館やラブホテル次々と建設していきました。
 岐阜グループは春秋会という組織を作って、年中集まりを持つなど、結束が固いといいます。この辺りのホテルに「白川」など川の名前が多いのは水没した村のことを忘れないように、という彼らの気持ちの表れなのだそうです。 ※ホテル街の写真は「東電OLの見た風景」より

 さて、その御母衣ダムの建設主体が東京電力です。そしてその東電に勤めていたのが殺された女性であり、しかも彼女の父親もまた、東電に勤めていました。父親は東大第二工学部を卒業後、東電に入社。重役一歩手前の副部長まで昇進しましたが、彼女が慶応大学経済学部2年の時、52歳の若さで急死しました。
 父親は直接、御母衣ダムの建設にはタッチしませんでしたが、首都圏の電線地中化事業で大きな功績を残しています。巨大ダム建設にせよ首都圏の電気インフラ建設にせよ、東電が日本の高度成長を支えた電力業界の雄であることは間違いありません。その東電エリートの座は父親から娘へと引き継がれていたのです。

 しかし、その娘は「御母衣ダムと地下茎でつながった円山のラブホテル街に夜ごと出没し、そしてある夜、凶暴な力で絞殺」されました。
 佐野は、彼女が円山町に通ったのは、「彼女を吸引する強い磁力のようなもの」がこの街にあったとし、次のように書いています。
 
 そして彼女は、湖に沈んだ奥飛騨の村のように、この街の底に水没していった。

 ■<因縁>の街に、私(up_down_go_go)は「住んでいた」

 私は、事件から4年後の平成13年(2001)の2月中旬から3月下旬にかけての1ヶ月半の間、事件現場の円山町に「住んでいました」。
 実は、私の本業の関係で都内で研修があり、それに参加するため、ラブホテルに囲まれたこの街の一角にあるマンスリーマンションを借りて、単身生活をしていたのです。
 事件のことは知っていましたし、マンションの業者から「近くに東電OLの殺人事件の現場があるんですよ」と聞かされていましたが、その時は研修の方に精一杯で、それほど関心はありませんでした。
 しかし、最近になって佐野の本を読み始め、事件について調べているうちに、ネットで事件現場の写真を紹介したHP「東電OLの見た風景」を見つけ、びっくりしました。

 そこには3年前の研修の際、生活の場として見慣れていたマンスリーマンション近くの風景が次々と紹介されていたのです。

道玄坂地蔵神泉駅と現場 私の借りていたマンションのちょうど裏側にあたるところに、道玄坂地蔵がありました。ここは彼女が「立ちんぼ」として客をとるため、いつも立っていたところです。夜になると、ここは地蔵堂に明かりが灯され、なんとなく風情があったのを思い出します。
 
 この辺りはアップダウンがあって(私のハンドルネームにひっかけたジョークではありません)、マンションがあった高台から、ホテルや商店の間に何本かある細い階段のひとつを降りていくと、井の頭線の神泉駅に出ます。私はいつもこの駅を利用して渋谷方面に研修に行っていました。
 ※写真左は道玄坂地蔵。右は神泉駅から現場方面を見通したところ。写真はいずれも「東電OLの見た風景」より


現場のアパート 駅の渋谷寄りのところがすぐ踏み切りになっており、ここを渡って(駅構内から抜けても行けますが)すぐ左にマクドナルドがあります。その反対側にマンスリーマンションの看板が出ている4階建てのビルがあります。
 そしてその隣の古ぼけた2階建てアパートの一階の空き部屋が事件現場だったのです。
※左の写真は殺害現場のアパート 手前右がその部屋 「東電OLの見た風景」より
 
 休みの日など、この辺りをよく歩きましたが、事件のことなど全然、気にしていなかったので、アパートの前も、そこが現場と知らず通り過ぎていました。
 
 ただ、このアパートの地下部分に、後から事件に関連して話題となった居酒屋があるのです。よく目立つ看板と地下へ降りる階段が印象的で、「こんな店でも(失礼)流行っているのかな」と思っていました。
 店といえば、この女性がおでん汁(これも話題になりました)を買ったというコンビニによく買い物に行っていましたし、この女性が客を追いかけて店の中で「ねえ、お茶しない」と迫って店主が怒ったという八百屋も知っています(ここで荷造り用に段ボールの箱を分けてもらったので)。

 しかも、彼女が殺されたのは3月8日。私の研修期間中の一日にあたります。
 事件から4年後、私は、彼女が娼婦として夜ごと徘徊していた街の空気を吸い、同じ道を歩き、同じ光景を見、彼女が客と過したであろうラブホテルのすぐ隣だったかもしれないマンスリーマンションで寝起きしていたのです。  
 
 もし、時間の偶然が作用して4年のタイムラグがなかったら私も彼女に声をかけられていたかもしれない。
 なにか、彼女の存在がすっと身近に感じられるような不思議な感覚になるのです。

もうひとつの私の<因縁>

御母衣ダム 私が今の本業に就く前、勤めていた会社の最初の赴任先が岐阜県の飛騨高山でした。高山は上司が担当しており、私の担当は、主に郡部でした。
 そして、荘川村もまた私の担当だったのです。御母衣ダムは何度も行きました。ロックフィル式の変わった形態をしたダムなので、大変よく覚えています。ダムをまたぐ道路に車を止め、弁当を食べたこともあります。
 ※写真は御母衣ダム ダム風土記「御母衣ダム」より
 
 もちろん、その時は、このダムの工事で沈んだ村の人たちが、はるか東京の渋谷・円山町でラブホテルを建てていたとは知りません。ましてやダムを作った東電に父と娘が二代にわたって勤め、その円山町で娘が非業の最期を遂げることになるとは、想像すらできませんんでした。
 
※次回は、5月中旬を予定。佐野の「東電OL殺人事件」の別の側面、濡れ衣を着せられた可能性が高いネパール人男性の冤罪事件に触れます。
 また、事件のもう一つのキーワード<堕落>について書きます。