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図書館から小谷野敦氏の「反=文藝評論」(新曜社)と斎藤美奈子氏の「文壇アイドル論」(岩波書店)を借りてきました
この二人の村上春樹氏批判が面白いというか痛快というか、ハルキファンの私がこんなこと言うのもなんですが、結構当たってるじゃん、みたいなところもあって、いささかフクザツな心境です


この二人の村上春樹氏批判が面白いというか痛快というか、ハルキファンの私がこんなこと言うのもなんですが、結構当たってるじゃん、みたいなところもあって、いささかフクザツな心境です
★続きはここから
■「モテる男」への《嫉妬》−小谷野敦氏■
小谷野氏は、「モテない男」というスタンス(※注※)を公言しているだけあって、「モテる男」が主人公の「ノルウェイの森」を俎上に上げています。(「反=文藝評論」所収「『ノルウェイの森』を徹底批判する−極私的村上春樹論」)
ハルキを容認できない理由はこれです
「美人ばかり、あるいは主人公好みの女ばかり出てきて、しかも、それが簡単に主人公と『寝て』くれて、かつ二十代の間に『何人かの女の子と寝た』なぞというやつに、どうして感情移入できるか」
わかる、わかる小谷野さん、たしかに「ノルウェイの森」などは、次から次へと女の子が出てきて、フェラチオしてくれただの、何回挿入しただの、あっけらかんとセックス描写が展開し、「やれやれ」と、いささかあきれ返ってしまいます。
でも、これって 小谷野氏の《嫉妬》?
私としては、なぜ、ハルキがセックス描写に熱心なのか、そのあたりをもっと深く掘り下げてテツガクしてほしい気もするのですが…
※注※たとえば、「もてない男―恋愛論を超えて」(ちくま新書)、「軟弱者の言い分」(晶文社)、最新刊(今年7月刊)の「俺も女を泣かせてみたい」(筑摩書房) など。
■「単なるゲーム」という《毒舌》−斎藤美奈子氏■
斎藤氏はハルキワールドをゲームランドになぞらえて、そのスタートから過熱する目下のブームまで「クロニクル」風に書いています(「文壇アイドル論」所収「村上春樹 ゲーム批評にあけくれて」)。
スタートは喫茶店でした。「気分がいいね」と感じるようなインテリア小物が置かれた自分だけの知っているお気に入りの店です。
やがてそこにゲーム機が置かれ、ゲーム喫茶となった店で、「ゲームの解読」が行われます。やがて店は増改築を重ね、メジャーなゲームランドと化していくという次第。
増改築のたびに、マスターは変身し、新たなゲームソフトとしての小説が次々提供されます。時々ノンフィクションなどのサービスもありました。
こうした変遷が具体的に作品を挙げてつづれられていくと、なるほどピタリとあてはまってしまうから、不思議です。
これぞ斎藤マジックといいたいところですが、終始流れているのは、斎藤氏がハルキ作品を「単なるゲーム」としてしかみていない、いわば《毒舌》です。
ただ、実を言うと私は先日の「文章読本さん江」以来、斎藤氏の《毒舌》をおおいに買っています(評価しているという意味)。正直なところ、ハルキへの《毒舌》も甘んじて受けるべきかなあ、とヒヨって(日和見!)いる自分に気が付くのです。
●●ただし、これからも《ハルキ党員》であることをやめるつもりはありません!●●
■「モテる男」への《嫉妬》−小谷野敦氏■
小谷野氏は、「モテない男」というスタンス(※注※)を公言しているだけあって、「モテる男」が主人公の「ノルウェイの森」を俎上に上げています。(「反=文藝評論」所収「『ノルウェイの森』を徹底批判する−極私的村上春樹論」)
ハルキを容認できない理由はこれです
「美人ばかり、あるいは主人公好みの女ばかり出てきて、しかも、それが簡単に主人公と『寝て』くれて、かつ二十代の間に『何人かの女の子と寝た』なぞというやつに、どうして感情移入できるか」
わかる、わかる小谷野さん、たしかに「ノルウェイの森」などは、次から次へと女の子が出てきて、フェラチオしてくれただの、何回挿入しただの、あっけらかんとセックス描写が展開し、「やれやれ」と、いささかあきれ返ってしまいます。
でも、これって 小谷野氏の《嫉妬》?
私としては、なぜ、ハルキがセックス描写に熱心なのか、そのあたりをもっと深く掘り下げてテツガクしてほしい気もするのですが…
※注※たとえば、「もてない男―恋愛論を超えて」(ちくま新書)、「軟弱者の言い分」(晶文社)、最新刊(今年7月刊)の「俺も女を泣かせてみたい」(筑摩書房) など。
■「単なるゲーム」という《毒舌》−斎藤美奈子氏■
斎藤氏はハルキワールドをゲームランドになぞらえて、そのスタートから過熱する目下のブームまで「クロニクル」風に書いています(「文壇アイドル論」所収「村上春樹 ゲーム批評にあけくれて」)。
スタートは喫茶店でした。「気分がいいね」と感じるようなインテリア小物が置かれた自分だけの知っているお気に入りの店です。
やがてそこにゲーム機が置かれ、ゲーム喫茶となった店で、「ゲームの解読」が行われます。やがて店は増改築を重ね、メジャーなゲームランドと化していくという次第。
増改築のたびに、マスターは変身し、新たなゲームソフトとしての小説が次々提供されます。時々ノンフィクションなどのサービスもありました。
こうした変遷が具体的に作品を挙げてつづれられていくと、なるほどピタリとあてはまってしまうから、不思議です。
これぞ斎藤マジックといいたいところですが、終始流れているのは、斎藤氏がハルキ作品を「単なるゲーム」としてしかみていない、いわば《毒舌》です。
ただ、実を言うと私は先日の「文章読本さん江」以来、斎藤氏の《毒舌》をおおいに買っています(評価しているという意味)。正直なところ、ハルキへの《毒舌》も甘んじて受けるべきかなあ、とヒヨって(日和見!)いる自分に気が付くのです。
●●ただし、これからも《ハルキ党員》であることをやめるつもりはありません!●●
村上春樹の作品は、半分も読んでいませんけど好きです。
文学を真剣に‘学問した’ことがない私などは
「読者が感銘したらそれでいいのでは?」と、我ながら浅はかな捉え方しかできません。
ただ、新聞やラジオでよく見聞きする意見
「インターネットの普及により、昨今は文章を書く垣根が低くなった」
「印刷物として文章が世に出ることが、以前ほど重みを持たなくなった」
これらには確かに納得しますし、blogを書いている自分を恥じる瞬間です。