汎用的に使われるネパール語の形容詞ふたつ。
Sajilo サジロ 簡単/与しやすい/(意訳)便利
Raamro ラムロ 良い/好ましい
これは私のネパール語能力が乏しいのかもしれない。ので、掲示板やFBで思い違いをご指摘いただけると有り難い。この部分、どなたに向かってお願いしているか、分かるでしょ。その「どなたか」さん。
ネパールでの仕事では、日本とネパールの「間」に入って交渉したり調整したりという、いわゆるコーディネーション業務が、私の得意分野である。有り難いことに近年、コーディネーションに加えて、より専門性を発揮できる業務も任せてもらえるようになった。しかし、思う。日本人とネパール人。日本社会とネパール社会を「つなぐ」。コーディネーションする能力について、これまた確固たる専門職である。そう、胸を張れる自分もいる。
日本側からは、複雑怪奇で理解出来ない(理解しようとすると面倒だから)ネパール組織に対して、日本の言い分を浸透させるツールとしての私。ネパール側も、予算を握っている日本組織に対して、私を通じればネパールの希望を伝えられるだろう。という、優越感/劣等感と損得勘定混じった感情。それぞれの国側から、日本語とネパール語で伝えれば、私の中で然るべき翻訳、解釈を経て相手側にアウトプットされるであろうという期待。有り難いことである。結果は出すけどね。
専門職としてのコーディネーションは基本的に有償であり、業務として発注された時に最大限発揮できる。お金の問題が一番。そして、仕事としてそれなりの大義名分を背負わないと(首から下げたIDカードとか、名刺とか)、世の中に切り込めない。怪獣スーツを着ないと、スーツアクターがステージでウルトラマンと対峙できないってところか。もちろん金銭が絡まずとも、自分が一個人として「これはやるべきだ」と確信を持てることも出来るのだが、こんな出会いは世の中限られている(でも、たまにある)。
さて、コーディネーションを期待される時、ネパール側がよく云ってくれるのが「あなたがいるとサジロだから」というもの。このサジロ。「あなたがいるとこちら(ネパール側)に便利(簡単)だから」というニュアンスが感じられて仕方ない。自分たちは一段高いところに立ち、私を使い回そうという黒いものが感じられる。
日本側がネパール側の主張を受け入れなかった場合、「あなたがいるのに、何故日本側を説得できないのか?」と、間に入った人間=私の能力が足りない、または私の過失のような態度を取ることが多い。立派な、偉い、高い階級にいるネパールの方たちは、絶対に間違わないのだ。と、思い込んでいる。彼らは(彼ら、である。ネパールの女性たちから、このような理論で責められることは少ない)。
一方、私に空しさを感じさせないネパールの人たちは、全く同じ状況でも、サジロとは云わない。
「あなたがいると、ラムロ(好ましい)から」 と云ってくれる。
ラムロと云ってもらえると、こちらの気も強くなる。これはなんとしても、頑張ろう!と思う。でも、ラムロを使ってくれる人とは沢山出会えない。ラムロと云ってくれる人は、実はその人の方が私を助けてくれることが多い。例えば、うちの息子がバンコクに留学した時。アパート探しなど、私のタイ人の友人が助けてくれた。生活立ち上げの時は私も息子に同行することになった。その時、ネパールの家族は「おまえが一緒に行ってくれれば、ラムロだし安心だ」と声をかけてくれた。特に、孫が外国に行くことを心から心配していた義母が。
サジロとラムロの違いについては、ネパール語ネイティブである連れ合いに云わせると、違うニュアンスを込めて使い分けていないと云う。ので、私の思い込みなんだろう。が、気になるんだな。
仕事で衝突すること多かったあるネパール人。業務が完了し、挨拶に行った時。こう云われた。
「あなたはネパールの言葉も状況も分かるし、理解しようとするからつい、あなたの責任ではどうにも出来ないことまで何とかしてもらおうとして無茶な主張をぶつけてしまった。ボクたちにとってはサジロ(便利)だったけど、あなたにとっては実にガハロ(Gaahro 困難)だったと思う。分かっちゃいたけど、つい、やっちゃった。でも、キミと仕事出来たことはラムロ(良い経験)だったよ。忘れないからね」
私にサジロを求める相手にも、衝突しながらも誠実にぶつかって、ラムロと感じてもらえる結末に持ち込むことが、大人としての自分の、ネパールに戻ってからの進む道なのだ。と、最近やっと思えるようになった。
同時に、自分で抱えるだけでなく、仕事を人に振り分けることも増えてきた自分は、他人に対してもサジロじゃなく、ラムロな関係を求めていくべきなのである。「心」があるのは、私だけではないのだから。
Sajilo サジロ 簡単/与しやすい/(意訳)便利
Raamro ラムロ 良い/好ましい
これは私のネパール語能力が乏しいのかもしれない。ので、掲示板やFBで思い違いをご指摘いただけると有り難い。この部分、どなたに向かってお願いしているか、分かるでしょ。その「どなたか」さん。
ネパールでの仕事では、日本とネパールの「間」に入って交渉したり調整したりという、いわゆるコーディネーション業務が、私の得意分野である。有り難いことに近年、コーディネーションに加えて、より専門性を発揮できる業務も任せてもらえるようになった。しかし、思う。日本人とネパール人。日本社会とネパール社会を「つなぐ」。コーディネーションする能力について、これまた確固たる専門職である。そう、胸を張れる自分もいる。
日本側からは、複雑怪奇で理解出来ない(理解しようとすると面倒だから)ネパール組織に対して、日本の言い分を浸透させるツールとしての私。ネパール側も、予算を握っている日本組織に対して、私を通じればネパールの希望を伝えられるだろう。という、優越感/劣等感と損得勘定混じった感情。それぞれの国側から、日本語とネパール語で伝えれば、私の中で然るべき翻訳、解釈を経て相手側にアウトプットされるであろうという期待。有り難いことである。結果は出すけどね。
専門職としてのコーディネーションは基本的に有償であり、業務として発注された時に最大限発揮できる。お金の問題が一番。そして、仕事としてそれなりの大義名分を背負わないと(首から下げたIDカードとか、名刺とか)、世の中に切り込めない。怪獣スーツを着ないと、スーツアクターがステージでウルトラマンと対峙できないってところか。もちろん金銭が絡まずとも、自分が一個人として「これはやるべきだ」と確信を持てることも出来るのだが、こんな出会いは世の中限られている(でも、たまにある)。
さて、コーディネーションを期待される時、ネパール側がよく云ってくれるのが「あなたがいるとサジロだから」というもの。このサジロ。「あなたがいるとこちら(ネパール側)に便利(簡単)だから」というニュアンスが感じられて仕方ない。自分たちは一段高いところに立ち、私を使い回そうという黒いものが感じられる。
日本側がネパール側の主張を受け入れなかった場合、「あなたがいるのに、何故日本側を説得できないのか?」と、間に入った人間=私の能力が足りない、または私の過失のような態度を取ることが多い。立派な、偉い、高い階級にいるネパールの方たちは、絶対に間違わないのだ。と、思い込んでいる。彼らは(彼ら、である。ネパールの女性たちから、このような理論で責められることは少ない)。
一方、私に空しさを感じさせないネパールの人たちは、全く同じ状況でも、サジロとは云わない。
「あなたがいると、ラムロ(好ましい)から」 と云ってくれる。
ラムロと云ってもらえると、こちらの気も強くなる。これはなんとしても、頑張ろう!と思う。でも、ラムロを使ってくれる人とは沢山出会えない。ラムロと云ってくれる人は、実はその人の方が私を助けてくれることが多い。例えば、うちの息子がバンコクに留学した時。アパート探しなど、私のタイ人の友人が助けてくれた。生活立ち上げの時は私も息子に同行することになった。その時、ネパールの家族は「おまえが一緒に行ってくれれば、ラムロだし安心だ」と声をかけてくれた。特に、孫が外国に行くことを心から心配していた義母が。
サジロとラムロの違いについては、ネパール語ネイティブである連れ合いに云わせると、違うニュアンスを込めて使い分けていないと云う。ので、私の思い込みなんだろう。が、気になるんだな。
仕事で衝突すること多かったあるネパール人。業務が完了し、挨拶に行った時。こう云われた。
「あなたはネパールの言葉も状況も分かるし、理解しようとするからつい、あなたの責任ではどうにも出来ないことまで何とかしてもらおうとして無茶な主張をぶつけてしまった。ボクたちにとってはサジロ(便利)だったけど、あなたにとっては実にガハロ(Gaahro 困難)だったと思う。分かっちゃいたけど、つい、やっちゃった。でも、キミと仕事出来たことはラムロ(良い経験)だったよ。忘れないからね」
私にサジロを求める相手にも、衝突しながらも誠実にぶつかって、ラムロと感じてもらえる結末に持ち込むことが、大人としての自分の、ネパールに戻ってからの進む道なのだ。と、最近やっと思えるようになった。
同時に、自分で抱えるだけでなく、仕事を人に振り分けることも増えてきた自分は、他人に対してもサジロじゃなく、ラムロな関係を求めていくべきなのである。「心」があるのは、私だけではないのだから。