4月25日、そして5月12日と、マグニチュード7.8そして7.3の強い地震に襲われたネパール。

これまでに8,670人の人命が失われ、負傷者21,443人。77,925戸の公共と個人家屋全半壊という未曾有の大災害に見舞われている(http://drrportal.gov.np/)。本震発生が休日の昼間であり、特に、子供たちが学校の倒壊の被害に遭わなかったこと。ほとんどの人が起きている昼間であり、ネパール食生活にとって炊事が終わった時間帯であったことなど、不謹慎を恐れずに云うなら、不幸中の幸いであった。平日の昼間、または国民が寝静まっている夜間の地震であったとしたら。考えるだけで背筋が寒い。

首都圏において今回の地震は、実に不可解である。その象徴がこの写真。
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4月の本震で建物構造にダメージが入ったものの倒壊を免れていた建物が、5月の余震で、突然全壊した。ぐしゃりと潰れている。しかしその後ろや、隣の建物には被害がない様子が写真から分かる。同じ地域の中で、被害を受けている建物、受けていない建物がはっきり分かれている。

また、首都圏内地域によっても被害状況が異なっている。鉄筋コンクリート(RC造)の建物まで多数被害を受けた地域あれば、崩壊しておかしくない古い建造物が残り、RC造にはどこも被害無く見える地域もある。

我が家のあるカトマンズ盆地南側、市街地と村落部境に位置する新興住宅街は、幸いにも被害は無い。地震発生時、ドン!と突き上げるショックに続き、大きなゆっくりとした横揺れで、家全体、家具、人、全てがシンクロしていた。家具も倒れず、観音開きの食器棚から物が振り落とされることもなかった。しかし、立っていられない激しい揺れであり、一度は1メートルほど横に飛ばされる経験もした。照明の電球が落ちて割れた。

携帯電話が繋がりにくくなり、固定電話は比較的良好であった。本震発生直後にニューデリーから電話が入り、我が家は家業として緊急報道体制に組み込まれた。私は5月6日の朝まで(心身の限界で離脱)。連れ合いは2週間。へとへと、ぼろぼろ、スカスカになるまで絞り抜かれた。2001年王室惨殺事件の時より、2012年マイナリさんネパール帰国の時より、大規模で長期間の報道オペレーションとなった。私自身望んでいなかったのに、何ものかに絡め取られていくように、得難い経験をさせてもらった。過去のオペレーションで様々な出来事が記憶に残っているのとは違い、今回は、いったい何をしていたのか?業務記録ノートを見ないと思い出せないほど翻弄されていた。今思うとあっという間であり、その時感じていたのは日々、耐えられないほどの時間の長さであった。

そんな日々から解放され、一息ついていた5月12日の大きな余震。地域全体の人たちの心が崩れてしまい、恐怖に支配された。

4月の本震直後、たまたまそこにいた某ホテルのロビーでかなり大きな余震に巻き込まれた。築30年を超える8階建ての建物全体から「ミシッ」という鈍い音がして、1階ロビーの窓ガラスがゆがんで砕け落ち、柱の表面に貼り付けられていた大理石も落ちた。守衛に追い立てられるように外に避難したが、この時も、自宅で遭遇した本震の時も、正直それ程恐くはなかった。それなのに、5月12日の余震では脚が震えた。

揺れは激しかったけれど、カトマンズではごく短い揺れであった。なのに、命の危険を感じた。恐かった。地震は終わったと油断していたら、もう一度やってきた。その、掴み所のなさに恐怖を感じたのかもしれない。

その日を境に、人々の口に「いついつ大きな地震が来る」「有名な予言者がこういった」というデマが語られるようになり、それは街全体を包む集団ヒステリーとなっていった。流言飛語を信じていない自分も、じわじわと、心が追い詰められていくのを感じた。

つづく...