けぇ がるね?日記

ネパールの首都、カトマンズから発信しています。

震災復興

雪男と仏さま

夢のように美しかったバンディプルから、ポカラレイクサイドに帰ってきた。ホテルとレストラン建ち並び、客はいなくても夕刻からはそれなりに電飾ギラギラ。ライブバンドの重低音が街角に流れてきたりもする。世俗的。だが、ちょっと「ホッとする」のは何故?

考えてみた。バンディプルは清く正しく美しいが、「宿の外のカフェでエスプレッソ飲もうかな?」とか「カクテルでハッピーアワー」とか「小洒落たケーキ」なんてお店はない。一方ポカラはよりどりみどり。

選択する楽しさ....があるんだなぁ。

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今回カトマンズ〜ポカラの移動、行きはイエティエア、帰りはブッダエアを使った。敢えて別の航空会社にしてみた訳で、比べてみようと。オンタイム運行については両者とも、天候が許す限りほぼ定刻。ポカラに新しい国際空港が出来て、レーダー誘導システムがポカラにも整備されれば、曇りや雨の時ももっと時間通りに飛ぶかもしれない。随分先の話だけれど。同時に、無理して飛ばないのは安全とも言える。

さてさて、カトマンズ国内線の出発ラウンジにこんなショップが出来ていた。
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雪男くんのゆるキャラ?

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CAさんと同じ制服のお嬢さんたちが接客してくれます。

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イエティエア直営の、イエティ(雪男)グッズショップ。カトマンズやポカラの街中でまだ見かけないので、カトマンズ国内線でだけ買えるレアアイテムかもしれない。ポカラはショップエリア改装中で、秋頃にはここにもお目見えかもね?

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帰路のブッダエア。仏さま航空。
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ネパールで一番安全な航空会社との触れ込みで、長年信頼を集めてきた。米国ビーチクラフト社の機体を使用している。向こう側に少し写っているのは、イエティのジェットストリーム41、英国製。

ブッダのひとり勝ち状態に挑戦するため、イエティは小型機による運行で事故も発生しやすい山岳路線を「タラエアー」と分社化し、ポカラやタライの都市部を結ぶ路線だけに特化した。機材も信頼性の高いものを導入した。

ブッダのCAさんはパンススーツが制服で、ベテランが多い。頼りになる感じ。一方イエティはチベットの民族衣装風の制服。若くてキレイなCAさんが揃っていて愛嬌も良い。うむむむむ。企業努力しているのが見て取れる。

両者ともにネパール在住者については、ネパール人外国人共にマイレージ会員も募集。今回帰路のブッダは、溜まっていたマイレージの無料航空券(空港使用税とサーチャージは現金払い)だった。イエティもカード申し込んだ。これからは、頑張っている雪男くんも使っちゃおうかな?

我々ノンツーリストビザの居住外国人の場合、通常の外国人料金より安くて、ネパール現地通貨払いの料金が設定されている。イエティエアはこれで発券してくれた。私の知る限りだが、ブッダは最近、ドル払いで高額の外国人料金でしか受け付けてくれない。このあたりでも、雪男くん押しになってしまう。

競争することでサービスが向上する。安全性も向上してほしい。期待するところだ。ここでもまた、選択肢が増えることは貴重である。

バンディプルに行ってみた

ポカラから車で1時間半、カトマンズに向かう国道上の宿場町ドゥムレから山道を更に30分。中世、バクタプルから移住したネワール族が築いたバザールが掌の上のような尾根の上に続く小さな街、バンディプル。

中山道木曽馬籠宿のネパール版というと、イメージが浮かぶと思う。

かつてはマナンを経由してチベットに至り、南はインドとの徒歩による陸上交易路の拠点として栄えた。カトマンズとポカラを結ぶ車道であるプリトビ国道が1974年に完成し、尾根の上にあるバンディプルは国道から外れてしまった。タナフ郡の中核の地位は、低地の国道沿いにある街、ダマウリに移っていった。賑わいを奪わたバンディプルでは、豪商が競って建てた立派な町家に住む人もなく打ち棄てられていたと云う。住民の多くは車両交通の要所であるナラヤンガートなどに移住してしまっていたとも聞く。

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コンクリートによる開発から取り残された古い街並みは、2000年頃、復古調の古民家ホテルとして再利用されるようになった。カトマンズの観光開発業者が地元のオーナーと共同でホテルに改築し、バザール筋にだけは車両が乗り入れられないように両端にブロックを作った。

2008年に訪れたときには、古民家ホテルの先駆となったOld Innに滞在した。今回は隣の家にその後出来たGaun Ghar(村のおうち)に宿を取った。カトマンズやチトワンでホテルや伝統料理レストランを手広く展開するカトマンズの観光企業と地元の合弁である。

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他に泊まり客いない村のおうちは静かでゆったりとしていた。伝統的土壁の家は自然素材の厚い壁が天然の断熱材となる。夏涼しく、冬暖かい。鉄筋コンクリートの家とは違い、家全体も呼吸しているような感じがした。

私も友人も、部屋に入るなり眠気が来て、そのまま深い午睡に落ちていった。その後も、何時間寝てもまだ眠れる。心と身体が心底リラックスできる、不思議な感覚だった。今回の地震で、より良く復興するためには村でも鉄筋コンクリート建築を!と提唱する声があるのも当然だが、伝統工法の家がこんなにも人間に優しいこと。深く感動してしまった。

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部屋の窓からは、絵本の世界のような景色が見える。2008年に来た時より、村の中に建物が増えている。鉄筋コンクリートの建物が建設中であるのも見える。

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午後、学校帰りの子供たち。普通の村とは違い、ぱりっとアイロンの効いた制服に身を包み垢抜けている。

バンディプルには1980年代より、京都ノートルダム学院のシスターたちが開いた立派な学校がある。バンディプルの子供たちだけでなく、周辺の村々から、より良い教育を求める子供たちが集まってきている。村にいくつもある寄宿舎に入る子供もいれば、お父さんは海外に出稼ぎして送金。周辺部の村々から子どもとお母さんだけはバンディプルに部屋を借りて下宿。子どもをノートルダム学院に通わせる例も少なくないと聞いた。

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制服から着替えると、やっぱりやんちゃ。雨上がりのバザールの石畳で、クリケットに興じていた。

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車の走らない道は、観光客にも子供たちにも安心だ。クラクションの音もない。

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日が暮れ始めた。

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優しい光が、バザールを包む。

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村のおうちの玄関先には、灯明が灯される。

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カトマンズ資本のホテルだけでなく、地元の人たちも宿やカフェを開いている。今から30年くらい前、ポカラのレイクサイドにあったような、素朴で土の香りがするような施設も多い。

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村のおうちの夕食は、やっぱり、ネパールの国民食ダルバートだ。ネワール族伝統の蒸留酒も振る舞われる。素焼きの杯に高いところから注ぎ、星のような泡を立たせることで酒の純度が高いことを示す。

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バンディプルの夜はほのかに明るく、そして暗い。

バザール周辺の、一軒一軒が離れて建つ民家には地震被害も出ているそうだ。しかし、家が隣接して続くバザール筋では被害無かった。全ての家が揺れから支え合っていたのではないか?とのことだ。

秋と春の観光シーズン中は、夜遅くまで騒がしいほどに欧米人観光客が押し寄せるそうだ。今はとても静だが「秋の予約は快調ですよ。心配ないです」と、宿の人曰く。静かな滞在を望むならオフシーズンの雨期か、欧米人が自国に帰ってしまう12月1月あたりがおすすめかもしれない。 

ポカラに行ってみた

4月25日の震災、5月12日の余震の影響で、ネパール全体の観光業が落ち込んでいる。震災の直接的被害と、その後のキャンセルを合計すると、600〜800億ルピー(720〜960億円)の損失に及んだと試算されている。

世界的に有名な山岳観光都市ポカラは地震による被害が殆どなかったにもかかわらず、観光客がいない。ヒマラヤが見えない雨期のオフシーズンに多く来るインド人避暑客も、年間通して訪れる中国人観光客もいない。ポカラは危機的状況だ!と、カトマンズで漏れ聞いていた。

普通の外国人に出来る、一番確実な復興支援は、ネパールに来て、楽しんで、お金を消費していくことだ!秋の観光シーズンにはネパールに行こう。と、呼びかけも始まっている。しかし、実際どうなのか?ネパール側の云う事を鵜呑みにすると、痛い目をみること少なくない。信用していいのか?

ならば、よし、行ってみよう!自分の目で見てみよう。

パタン市内でレストランを経営する友人とふたり、4泊5日。ポカラとバンディプルを巡る旅に出た。

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ポカラの宿は、レイクサイドのMt. Kailash Resort。以前からずっと気になっていた目を引くホテル。今回シーズンオフディスカウントをいただき、合計3泊。広く清潔な客室。蒸し暑い中観光から帰ってきて、身体を冷やせるプール(ガンガン泳ぐには小さい)。豊富に出るお湯(バスタブつき客室あり)。親切なスタッフ。

満足いく滞在であった。なのに泊まり客は、非常に少ない。

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そして、レイクサイドでは定番のひとつ。Cafe Concerto。

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いつもの雰囲気、いつもの味。なのに客がいない。そのせいか、楽しみにしていた手作りジェラードはなかった。それが残念。


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レイクサイドでは新しい建物の建築も多い。カトマンズでは最近殆ど見られない、竹を使ったコンクリ打ち。こんな工法が許されること自体、ポカラが如何に地震被害に見舞われなかったか。物語っているような気がする。

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突如出現する、北京の胡同(フートン)風赤い扉。

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施錠された中は、中華秘密倶楽部なのか?

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夜、二人とも大好きなMoon Dance。席を選ぼうとするとウェイトレスさんが
「宜しければ、テラス席はいかがですか?外から見える場所に...」
と。うちはちゃんとお客さんいますよ。と、外に向かってアピールしたいのだろう。もちろんOK。このような細かい営業努力を、困難なときにも継続する企業姿勢に好感が持てる。

実際、隣の店(某H.E.レストラン)は毎昼、毎午後、毎夜客が一人もいないのに比べ、Moon Danceには少ないなりに客が入っていた。
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お次は、これなら買っていいかな?と思えるTシャツ屋さん。

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レイクサイドに2軒展開中のUrban Yeti。ポカラの若手デザイナーのオリジナルで、カトマンズでプリント。ポカラに来ないと買えないレアもの。

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カフェも併設した店内は、ポカラらしくてイイ感じ。「ネパールをおうちに持ち帰ろう」がコンセプトとか。とても薄いコットンニットのTシャツは1枚850ルピー。日本円で千円弱と手頃。普通のコットンTシャツより薄いので、沢山買ってもかさばらず土産物に適している。

中国人観光客はひとり20枚30枚50枚と爆買いする人も多いそうだ。よくある厚手コットンのTシャツでは厚すぎて、スーツケースに入らないだろう。でもここのなら「没問題」ね。

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デザインも良く、ネパール土産ものには飽き飽きの私でさえ、亭主用とお揃いで買ってしまった。

ただし、布地が薄いので耐久性は弱い。バッグでこすれる腰回りなど、すぐに毛玉が出てくる。メリヤス編みニットの弱点だ。反面、肌触りは最高によい。カトマンズのJuju Tシャツの方が耐久性あるので、お好みでどうぞ。
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滞在最終日、ジップフライヤーという冒険アクティビティに参加した。ポカラ近郊、サランコットの丘頂上から、ワイヤーにぶら下がって森の上を下るという、単純かつエキサイティングなもの。


バンジージャンプやパラグライディングと比べ、自分で一歩踏み出す勇気が少なくても大丈夫。それでも最初の数十秒、脚の下に広がるジャングルの上を飛んでいる自分がSF映画の主人公になったような気分が味わえる。

今回は震災復興半額セール中で、お得に楽しめた。今年雨期の間だけの特典だと思う。シーズン中は毎日40人〜80人が飛ぶという。滑降スタート地点の横には、現在建設中の巨大ホテルもあった。元日本人、現在ネパール国籍を取得した観光実業家、宮原さんのホテルだと思う。

ポカラではパラグライディング、ウルトラライトプレーン、バンジージャンプ、ジップフライヤーなど、最近流行りの冒険系アクティビディがよりどりみどりで楽しめる。特に、インストラクターとタンデムで飛ぶパラグライディングは、ふわりふわりと大空に浮かぶ感覚が刺激的。着地時に失敗して(客が)脚を骨折することが希にあるとの話は聞くが、墜落したとか、死亡事故の話は聞かない。

価値観、人生観の問題だが、各アクティビティ共に一度はやってみると楽しいですわ。二度やるか?と云われると、うーむ。パラグライディングとジップは、もう一度やってもいいかな?と思う。ヒマラヤ見える時期に、ね。


バンディプル編に、つづく... 

震災復興の国際パワーゲーム

西暦の上で地震から2ヶ月となる今週木曜日、6月25日(ビクラム暦上の2ヶ月はアサール月12ガテ/6月27日)。カトマンズ(ソルティークラウンプラザ・ホテル)で、第1回ネパール震災復興援助国会議が41ヶ国参加の元、開催される。

先日発表されたPost Disaster Needs Assesment(PDNA)に基づく(筈の)震災復興計画について、各国政府と国際援助機関、そしてネパール政府が話し合う場となる。ネパールにとって非常に重要な会議になる...と、普通は考えられるのであるが。どうも、きな臭い。

震災直後の救援で大きな印象を残したインドと中国。その後の復興計画策定については、国連や世銀、アジ銀、日本や西欧各国が目立った中で、しばらくローキーでやり過ごしてきた様子であるが。ところがどっこい、深いところでネパール政界への根回しを続けていたと推測(邪推?)出来る現象が出始めている。

ネパール政府内の特定の勢力は、先進諸国や国際援助機関主導の復興ではなく、インドと中国の直接支援を復興の中心に据えようと画策していると見える。国際社会に親和性の高いマハト外相を復興支援から外そうという動きと同時に、南北の隣国とのつながり深いゴウタム内相の台頭が噂されている。

救援の段階でネパールが、英国の大型ヘリ・チヌークの投入を拒否した背景などが今になって、(整合性の取れた)噂として伝わってきたりもしている。本当であったとしたら、ネパール政界は国民よりも自己の利益を、大災害の中でも優先したと考えざるを得ない。

より良い復興(BBB)コンセプトを掲げて、災害に強い国造りを提唱している日本。そして国際援助機関にとって、見えない逆風が吹いていると考えたら、考え過ぎだろうか?

ネパール援助国会議、印中外相出席 The Himalayan Times
インドはスシュマ・スワラージ外相、中国は王毅外相が出席する模様である。

国際援助機関側も大幹部が出席する方向の模様であるが、西欧諸国からの閣僚はノルウェイ外相以外の情報を聞かない。日本は外務副大臣と、JICA理事長が出席されると聞く。特にJICA理事長については、震災1ヶ月目の国際セミナーにも出席され、短期間に2度目のご来訪となる。日本政府のネパール復興に対する強い意志を感じる。

ネパール政府は復興に必要な予算を66億ドル(8,100億円)と試算している。今年7月中旬で終了する今年度(ネパールの次年度会計年度は2015.7月中旬〜2016.7月中旬)国家予算にも匹敵する。ネパールとしては巨額の復興資金、言い換えれば利権を引き寄せようとしている。

透明性を含む西欧的論理を要求される西欧諸国や国際援助機関からの援助ではなく、ネパール政界・官界の伝統的論理と親和性の高いインドと中国からの直接援助を望む勢力が存在するようだ。印中にとっても、地政学的に重要なネパールでの政治・経済・社会的重要性を確保するために、利害が一致する部分少なくない。

地震災害防止については世界最高の英知と経験を持つ日本に、期待するネパール市民社会の声が低い訳ではない。印中と現在のネパール支配層の思惑に負けないで欲しいと、私も願っている。

印中に限らず、どの国や援助機関の支援も政治的利害は存在し、印中はダメで先進国なら全て良し!とも云えない。そんな中で日本の支援は、日本への見返りを求める事が少ない善良なポリシーがネパールでは広く認識されている。いやいや、今回については、日本と隣国の国際援助政策パワーゲームの代理戦争的側面があると指摘する声もあるが、それを声高にここで書いてしまうのは自粛したい。

日本の耐震技術が、民間への技術移転や助成金を使った普及。学校や病院等公共施設に対する無償資金協力でネパールに定着すれば、大きな視点から、ネパール国民の利益になる。ただ、このネパールの政界・官界の中で実現に結びつけていくのは簡単ではない。

極論を言うならば、どんな方法でも最後には容認するから、ネパールの被災者の方たちのことを忘れないで欲しい。ネパールの一部に対する利益が優先されないことを祈っている。

【報道】ネ政府、NGO活動指針を策定

ネパール震災復興に参加するローカル/国際NGOと個人に対する政府方針が策定された。とする、6月1日付e-Kantipur(Kantipur紙電子版)の報道。原文クリック(英語)。

以下抄訳...
ネパール政府は震災復興支援に参加する団体と個人に対し、政府との間に協定を結ぶ必要があるとの閣議決定を行った。ネ財務省外国援助課によれば、この措置は閣議決定が為された先週から今後6ヶ月間有効となる。

政府筋は、「震災支援のために集められた巨額の資金がどのように、如何にして使用されたのか明らかにするための措置である」と主張している。

ネパール内閣によって採択された “Directives on Mobilising Assistance of National and International Non-Government Organisations-2015” は、NGO/INGO、企業や個人はネパール政府と取り交わした協定(契約)に基づき、被害を受けた教育、医療、住居に関するインフラ再建に対し独自資金を運用することが出来ると規定している。資金はまず首相直轄救援基金への入金が推奨される。独自に資金運用を望む場合は、プロジェクト終了後建設されたインフラを政府に引き渡すことが条件となる。

物品による支援の場合も、同様な協定を政府と結ぶものとする。

政府以外の団体や個人がインフラ再建を行う場合、政府が策定した手続き、基準、デザインに準拠すべきであり、Post Disaster Needs Assesment (PDNA 6月15日発表予定)との整合性も必要である。政府が建設するインフラと、NGO等が建設するものの同一性を持つことで、公平な援助を目指す。
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一方NGO/INGO側は、この種の政府規定は常によい結果をもたらすと限らないと警鐘を発している。 

「方針の考え方はよいが、ネパール官僚機構の手続きにより復興が妨害される恐れがある。NGO/INGOは、政府による資金凍結の可能性を抱えている。政府はもっと実際的な対処をすべきである」
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政府規定によれば、政府との協定締結後は募金活動は行えない。また、協定に反する事実があった場合、許可は無効となる。NGO/INGOは協定締結後一週間以内に活動を開始し、決められた期間内に活動を終了する。その後はプロジェクト(注 建設したインフラ)を政府に引き渡す。

建設において出来る限り、ネパールの人材と資材を使用する。外国人の雇用については別途許可を取る。建設されたインフラに、ドナー側の宗教、文化、商標をつけることは出来ない。

このような措置により、ネパール国内で行われる協力活動の追跡ができる。

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ここからはネパールの空の下による...

この規定は震災「以降」、ネパールでの協力支援活動に新規参入する団体と個人に向けてであると推測できる。震災以前からネパール政府に登録した団体については、それぞれ中央/地方政府と協議・認可の下活動を継続している。震災支援についても同様である。

NGO/INGO側が主張するように、政府の言い分は正しいことを云っているのであるが、官僚機構の中での運用がスムーズに為されるかどうかが鍵となるだろう。「6ヶ月で完了させて出ていって下さい」という政府の主張であるが、ネパール役所仕事で数ヶ月止まってしまう事はあり得る。支援の足かせになる恐れは大きい。

同時に、中央や地方政府や行政、地域住民との摺り合わせなしに行われる支援については、問題点が多いことをNGO側からも聞く。独善や政治的野心に基づく支援は無駄と支援重複を生みやすい。

ネパール政府側の姿勢もあまりに上から目線であるし、一方、支援をする側に問題がない訳でもない。

政府も支援者も、被災者の立場を考えなくてはならない。そこをどうやって上手く合法的に、効果的に立ち回るのか?プロに任せるのが一番迷惑をかけない。そうでなく、自分たちで飛び込むのであれば、余程覚悟して賢く、自分の目の前にない状況や人たちのことを考える力。自国とは全く違う文化や価値観であるネパールを洞察する力が不可欠だ。

自分がやっていることは常に正しい...とは、考えないことをお願いしたい。自省を込めてである。

ネパール政府に対しても云いたいことは山ほどある。然るべき外側からのロビーイングを継続して、政府を動かしていかなくてはならない。しかし同時に、ネパール政府の主張には必然性があることがある。問題は、行政の現場での運用に支障あることを紙の上で提唱してしまうこと。これまでいくつもの閣議決定が、結局有名無実化して運用されなかった。

震災という未曾有の事態である。政治をお願いしたい。政治屋による政治ショーは勘弁してほしい。 

2015年、ネパール地震〜4

この項、本ポストで完結させます。

現在ネパール政府(主幹: National Planning Commission)と主要ドナー(世銀、ADB、国連、EU、日本JICA、米国、インド)が中心になって、震災復興に関するニーズアセスメント Post Disaster Needs Assesment PDNAが実施されている。この結果は6月15日発表される予定であり、復興計画の骨子となると予想される。

6月25日カトマンズで、ネパール政府とドナー諸国による復興支援会議が開催される。40〜70ヶ国の代表が参加する規模になると聞いている。7月中旬からはネパールで新しい会計年度が始まるため、次年度(ビクラム暦2072-73)ネパール政府予算に復興支援援助計画や予算を反映させるための会議設定である。

政府やドナーが試算する復興計画は数年単位のものとなるだろう。より災害に強い国家再建については、10年単位それ以上の期間が必要になる。 ネパール政府内、(使い物になる)官僚の数は限られており、復興計画策定と実施においては深刻な人手不足が発生する。これを埋めるのはアウトソーシングであり、ネパール国内、国際的民間コンサルタントの雇用が急務となる。 

地方の再生については、積極的なNGOとの連携も必要となるだろう。しかし、これら基本計画策定に、ネパール国内のNGOや国際NGOが参加しているか?もっと云えば、被災地住民の声をすくい上げ、計画に盛り込む視点があるのかどうか?今後の展開を願うところだ。

震災直後の救援については、隣国インドと中国の活動が派手であった。復旧・ 復興の段階については、いつもお決まりの国際援助巨大プレイヤーに混じり日本の立場もクローズアップされている。地震からの復興。地震やその他の災害に強い国造りについて日本は世界最先端であり、政治的野心の見られないアプローチはネパールからも歓迎されていると見える。今年仙台で開催された国連防災世界会議で提唱された「より良い復興 Build Back Better」を国際的に実行する機会となれば、ネパール、日本両国にとってWin-Winとなる。

私にはいつ余震が来るか予知する能力はないが、ふたつだけ、確信を持って予測できる。
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その1
 ネパールの復興は人間の善意だけでなく、近い将来、国際的に大きな開発ビジネスの現場となる。 より現場に近い立場のNGOも、この流れに巻き込まれていくことだろう。翻弄されるのではなく、NGOや被災地住民自身も、流れを決めるための主要プレイヤーとして参加できることを願いたい(が、6月の第一回会議での大きな役割が設定されるとは思えない)。開発や復興についての技能を持つ方々は、コンサルタントとして業務参加する機会が増大するであろう。

その2
 ネパールは今回の復興 を通じて、新しい社会構造を獲得する。既存の政治体制や官僚機構が発展してゆくのか?全く別の市民勢力が新たなパワーとして勃興していくのか?今は分からない。ただ、ネパールは変わる。国民の愛国心は徐々に、観念的なNationalismから、実行を伴ったPatriotismに変革していくことが望まれる。
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ネパールがより良い国となるか?より大きな混沌の国となるか?より良い復興が、より良い国造りに結びつくことを祈るばかりである。

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政府の一括支援基金(首相直轄災害救援基金)以外、外国から個別の震災救援資金はネパール国内銀行口座からの引き出しを凍結するというネ政府政策については、谷川先生の「ネパール評論」の記事が詳しい。

ネパール評論 Nepal Review 谷川昌幸先生 発行
震災救援の複雑な利害関係
 単一窓口政策と首相基金(1) 原文はクリックでリンク
 単一窓口政策と首相基金(2) 原文はクリックでリンク

ネパール政府の主張は、私なりに要約すると以下のようなものである。
 個別の資金による救援活動では、地域、メディア報道、諸外国、国内有力者との関係性において支援に格差や重複が生じる。支援基金をひとつにまとめ政府が管轄することで、全ての被災者に公平に救援が行き渡ることを可能にする。 

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震災以前からネパールで活動を続けてきた某団体に取材し、別の場所に書いた記事を以下、一部加筆修正して掲載する。プロのNGOがどのようにして対処したのか?この情報を分析することで、新規に救援・復興活動を行いたい日本人や団体にとっても参考になると思う。
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情報ソース: 20年前から活動を開始し、ネパール社会福祉協議会(SWC)に団体登録、事業登録共に行い、ネ政府許可の下活動。外国人駐在員常駐。震災以前から激震被災地を含む地域で開発援助事業を行ってきた外国NGO。
 

1.震災発生以前にSWC登録を完了し活動してきた団体については、外国送金資金のネパール国内銀行口座引き出し「可能」

 平時の活動と震災支援特別資金を会計上明確に区別するため、震災後、震災支援・復興支援に特化した新規銀行口座をネ国内銀行に開設した。
 ただし今後ネ政府の方針変更もあり得るため、新規時口座名に、震災復興や緊急支援という単語の使用は避けた。

※筆者脚注 事業口座2などと云う口座タイトルであると分析。
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2.震災復興・緊急支援活動についての事業承認をSWCに申請する

 SWC登録済みの団体による震災支援活動審査・合意締結について、SWCは迅速に行うとの態度を示している。様々な分野を担当する外国人専門家の中長期駐在が必要であるし、事業費の合法的運用も不可欠であるため、(現在継続中の通常プロジェクトは別に)新規プロジェクトとして計画、申請、許可を受ける。

※筆者脚注 ネ国内で活動する(ネ国内での年間事業費10万米ドル以上の)外国NGOはSWCと事業所登録(GA)を交わすだけでなく、各プロジェクトごとに事業合意(PA)をSWCと締結する必要がある。これにより事業費の海外送金の合法的受領と、外国人駐在員のNon Tourist Visa発給を受ける事が可能。
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3.震災復興支援に関する新規外国団体の、ネパール政府登録の可能性についての推測

 ネ政府の説明としては、震災直後の超緊急時の外国支援活動については緊急性に鑑みネ政府の承認を得るプロセスを省略することを認めた。しかし今後、長期にわたる支援(当該NGOは、1ヶ月以上の期間と判断)、家屋や学校の再建支援等について活動する団体については、ネパール政府への登録が必要であるとのこと。
 ただし当該NGOの予測として、復興支援を目的とする新規外国NGOのSWC登録が許可されるか否か?について、先行き不透明である。許可されない可能性がある。
 一方、震災救援・復興を目的としたネパールの国内NGO「新規」登録については、現状困難である可能性がある。
※筆者脚注 中長期的復興については、ネパール政府、各国ドナーによるマスタープランが策定される。特に地方の救援・復興についてはNGOが重要な一翼を担うと予想される。この場合は、震災復興関連新規NGO登録が認められる可能性はあると思う。しかし、今すぐではない。数ヶ月の時間が必要である。

※筆者脚注 復興マスタープラン策定後はネパール政府、各国ドナーだけでは手が足りず、開発コンサルタントの参入が推進される可能性が高い。建築、都市計画、プロジェクトコーディネーション等の専門分野がある場合、コンサルタントとしての復興支援参入が(将来的に)可能になると思う。

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どのような支援活動であれ、ネパール国内地方行政のコアとなる郡(District / ネパール語 ジッラ)単位で存在する「郡災害救援委員会 DDRC, District Disaster Relief Committee)」の許可が必要である。

ネパール国内NGOであったも、外国NGOの場合も(この時は業務にあたるネパール国内ローカルNGOが)、DDRCとの間に覚え書き(MOU)を締結することが必要。

郡レベルでの地方行政と合意無いままに活動を行うのは、地域内での不公平を助長する恐れあり。協力、援助のあるべき姿から逸脱する。

※筆者脚注 ネパール国内で活動する外国NGOは「直接」による協力活動は、ネ政府に認められない。必ず、ネ国内合法的に登録してあるローカルNGO(ネパール国内NGO)とパートナー関係を締結し、これを通じた現場支援を行う必要がある。

※筆者脚注 長年ネパールで協力支援活動に携わっているNGOの方々の考えに共通するのは、ネパール政府を全否定するべきではない。ネパールという国の中で活動するのであれば、ネパールの法律や行政の決まり事を尊重するべき。煩雑な手続きや、外国人の論理から見ると理不尽なこともあるが、ネパールの行政のルールを無視してはいけない。と云うこと。


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開発援助やNGOのプロでない善意の個人や団体が、ネパールの今後にどのようにして関わってゆけばよいのか?複雑な手続きに翻弄されている間に、被災地の人たちはどうなるんだ?という、じりじりとする想いを感じられるだろう。

しかしこれも現実。実績ある団体は既に乗り越えつつある。その力がない場合は、これまで何度も書いてきたが、「実現する力のある信頼できる団体」への募金という形で、善意は必ず届くのだ。

そしてカトマンズでは、復興と云う名の、国家と国際社会が巻き起こす強烈な嵐が吹き荒れる前の静けさであること。忘れてはならない。この嵐は、ネパールという国家を根本から変えていく「可能性」や「希望」と、同時に「恐ろしさ」を内在している。次回、この部分について考察を進めたい。

つづく...

カトマンズ首都圏、崩壊したRC造建物の現実

Himal Media社発行のネパール語週刊誌に興味深い記事があり、系列の英語週刊新聞Nepali Timesに英訳が掲載されているので、抄訳紹介する。
崩壊した建物の現実 Himal Khabarpatrika 元記事リンク

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イメージ画像 2015.05.18撮影 by ネパールの空の下 カトマンズ市内ゴンゴブ
4階建ての1〜2階部分が潰れている。傾いて崩落時、隣の建物を破損。
元は同じ高さの2軒が並んでいたこと、想像するのは簡単ではない。


建築時のオーナー/建築許可/建築した階数/転売記録
 インド国籍A.H.+ネパール国籍配偶者M.M.B
 カトマンズ市役所から2階建てで許可取得/5階建設
 転売記録 A.H⇒C.S.⇒B.K.
B.K. 震災3週間前C.Sより2,250万ルピーで購入
震災当日C.S.家の引っ越しパーティ中。C.S.氏夫妻、近所住人含め7名死亡。
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カトマンズ市6区にあった、通称「七階建て」ビル 1997年建設
建築時のオーナー/建築許可/建築した階数/転売記録
 R.S. カトマンズ市役所から5階建てで許可取得/7階建設
 転売記録 R.S.⇒N.R.
最上階に教会あり、30名死亡(祝日礼拝中か?)
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カトマンズ市内ゴンゴブ地区にあった9階建ての雑居ビル
(スーパー、商店、ゲストハウス)

建築時のオーナー/建築許可/建築した階数/転売記録
 R.K.P. ゴンゴブ村役場(当時)から6階建てで許可取得/9階建設 
 転売記録 R.K.P.⇒P.P.(息子に所有権変更)
17名死亡。2名救出。
10年前建設時はこのエリアカトマンズ市の外であり、建築確認が甘かった。
9インチ角の柱と16mmの鉄筋という、9階建てを支えられない構造であった。

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ショッキングな動画であるため閲覧注意


Morgan International Collage 学生数約400
建築時のオーナー/建築許可/建築した階数 
 B.S. (首都圏内郊外)トカ村役場から5階建てで許可申請/7階建設
沈積土の上に、脆弱な基礎工事で建設。
地震当日休日であったため学内無人であったため死傷者なし。

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ここからは、ネパールの空の下による
結局、建築確認と異なる階数水増し違法建築であり、市役所、村役場共に許可が形骸化していたことが分かる。また、その後転売されることで、建物の構造強度が認識されない状態でもあった。

今回の震災で一般的には鉄筋コンクリート造り(RC造)の建物は被害を免れているものが多い。しかし全壊したり、傾いたりしたRC造建造物には、それが起こるべき「理由」と「必然」があったと考えるのが自然であろう。

人災である。

2015年、ネパール地震〜2

2015年ネパール地震では、発生当日から先ずはインド、続いて中国という南北の隣国。そして、日本、米、英、EU ....世界中から救命レスキュー隊と支援隊、医療隊、救援物資が続々とカトマンズに到着した...のであるが、ネパールでたったひとつしかない国際空港は混乱の極みであった。

各国が軍用機などで支援物資や人材を送り込み、カトマンズ国際空港は民間機が着陸できる余裕がない事もあった。タイ航空機で27日にネパール入りを目指した日本の国際緊急援助隊はカトマンズ上空まで来たものの着陸不能。カルカッタに緊急着陸。その後バンコク引き返しを経て、最終的にネパール入国し、カトマンズ首都圏内で生存者捜索に入れたのは、地震発生から丸3日を過ぎた4月28日午後遅くであったと記憶している。自衛隊の救援先遣隊も29日深夜に到着した。これまた記録では、ドバイ経由の民間機であった。

脆弱な、限られたインフラ。例えばカトマンズ国際空港は、日本で云えば国際線も離着陸する地方空港程度の大きさしかない。これが国に「たったひとつ」の国際空港である。

カトマンズ国際空港も被災して、使用不可能であっても不思議ではなかった。それが数日、数週間続いていたとしたら。お手上げであった。想像するだけで恐ろしい。今回空港閉鎖が地震直後の数時間に限られた幸運は、いったい何処から恵まれたのであろうか?
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そんな中中国は、地震発生時ネパール国内に1,000人ほどいたと云われる自国民(ほとんどは観光客)を26〜27日民間特別機を多数飛ばして見る間に回収。連れ帰ってしまった。

中国人観光客を専門とする旅行会社曰く(私が直接聞いた話であるが、誇張や間違いが含まれている恐れあるものの)
「25日夜空港が再開されたらその日のうちに飛行機が7機中国から飛んできて、全員連れ帰った。その手腕たるや、中国のパワーに舌を巻いた」

P5050354

空港には各国政府から大量の、個人や民間団体からの小口多数の支援物資が到着し山積みであった。支援物資にも課税されるとか、無税だが通関手続きしろとか、荷物がぶん投げて散らばっているとか。様々な情報が飛び交った。

ネパール政府が「これ以上の外国救援隊は来ないで下さい」と表明したとの一部報道に、国内外から非難の声があがった(ネパール政府の受け入れ容量がパンクしたのだろう)。

震災直後の外国人団体/個人ボランティアは受け入れますというネ政府の対応から、地方行政事務所(DAO)に登録して下さいとなり。

そして、政府の一括支援基金(首相直轄災害救援基金)以外、外国から個別の震災救援資金はネパール国内銀行口座引き出しを凍結するというネパール政府政策が発表され、ネパール国内外は騒然となった。

つづく...

2015年、ネパール地震〜1

4月25日、そして5月12日と、マグニチュード7.8そして7.3の強い地震に襲われたネパール。

これまでに8,670人の人命が失われ、負傷者21,443人。77,925戸の公共と個人家屋全半壊という未曾有の大災害に見舞われている(http://drrportal.gov.np/)。本震発生が休日の昼間であり、特に、子供たちが学校の倒壊の被害に遭わなかったこと。ほとんどの人が起きている昼間であり、ネパール食生活にとって炊事が終わった時間帯であったことなど、不謹慎を恐れずに云うなら、不幸中の幸いであった。平日の昼間、または国民が寝静まっている夜間の地震であったとしたら。考えるだけで背筋が寒い。

首都圏において今回の地震は、実に不可解である。その象徴がこの写真。
P5120409

4月の本震で建物構造にダメージが入ったものの倒壊を免れていた建物が、5月の余震で、突然全壊した。ぐしゃりと潰れている。しかしその後ろや、隣の建物には被害がない様子が写真から分かる。同じ地域の中で、被害を受けている建物、受けていない建物がはっきり分かれている。

また、首都圏内地域によっても被害状況が異なっている。鉄筋コンクリート(RC造)の建物まで多数被害を受けた地域あれば、崩壊しておかしくない古い建造物が残り、RC造にはどこも被害無く見える地域もある。

我が家のあるカトマンズ盆地南側、市街地と村落部境に位置する新興住宅街は、幸いにも被害は無い。地震発生時、ドン!と突き上げるショックに続き、大きなゆっくりとした横揺れで、家全体、家具、人、全てがシンクロしていた。家具も倒れず、観音開きの食器棚から物が振り落とされることもなかった。しかし、立っていられない激しい揺れであり、一度は1メートルほど横に飛ばされる経験もした。照明の電球が落ちて割れた。

携帯電話が繋がりにくくなり、固定電話は比較的良好であった。本震発生直後にニューデリーから電話が入り、我が家は家業として緊急報道体制に組み込まれた。私は5月6日の朝まで(心身の限界で離脱)。連れ合いは2週間。へとへと、ぼろぼろ、スカスカになるまで絞り抜かれた。2001年王室惨殺事件の時より、2012年マイナリさんネパール帰国の時より、大規模で長期間の報道オペレーションとなった。私自身望んでいなかったのに、何ものかに絡め取られていくように、得難い経験をさせてもらった。過去のオペレーションで様々な出来事が記憶に残っているのとは違い、今回は、いったい何をしていたのか?業務記録ノートを見ないと思い出せないほど翻弄されていた。今思うとあっという間であり、その時感じていたのは日々、耐えられないほどの時間の長さであった。

そんな日々から解放され、一息ついていた5月12日の大きな余震。地域全体の人たちの心が崩れてしまい、恐怖に支配された。

4月の本震直後、たまたまそこにいた某ホテルのロビーでかなり大きな余震に巻き込まれた。築30年を超える8階建ての建物全体から「ミシッ」という鈍い音がして、1階ロビーの窓ガラスがゆがんで砕け落ち、柱の表面に貼り付けられていた大理石も落ちた。守衛に追い立てられるように外に避難したが、この時も、自宅で遭遇した本震の時も、正直それ程恐くはなかった。それなのに、5月12日の余震では脚が震えた。

揺れは激しかったけれど、カトマンズではごく短い揺れであった。なのに、命の危険を感じた。恐かった。地震は終わったと油断していたら、もう一度やってきた。その、掴み所のなさに恐怖を感じたのかもしれない。

その日を境に、人々の口に「いついつ大きな地震が来る」「有名な予言者がこういった」というデマが語られるようになり、それは街全体を包む集団ヒステリーとなっていった。流言飛語を信じていない自分も、じわじわと、心が追い詰められていくのを感じた。

つづく...
 
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