舞監@日誌 since 2005

大阪在住、舞台監督・CQ塚本修(ツカモトオサム)の日記です。 観劇の感想や舞台用語の解説、たまに日々の出来事や劇団ガンダム情報も書いてます。 コメント・トラックバックは承認制ですので、すぐには反映されません。非公開希望の方はその旨お書き添え下さい。返信用アドレスも基本的には非公開にいたします。

2012年03月

【観】芸創ゼミ『そうだったのか、関西小劇場の50年史』

d1064c94.jpg芸創ゼミ vol.54
〜そうだったのかシリーズ第一弾〜
『そうだったのか、関西小劇場の50年史』
講師・語り手/菊川徳之助
聞き手/松原利巳
@芸術創造館・演劇練習室大
3/31(土)17:00〜

芸術創造館副館長の松原氏が、また興味深いことを始めた。
62年から劇団「くるみ座」「関西芸術座」を経て86年に「創造集団アノニム」を結成し、現在も代表を務める俳優で演出家、演劇評論家でもある菊川徳之助氏を語り手に、関西小劇場の50年史を振り返るゼミが開催された。
私も日本維新派(現・維新派)に入団したのが80年なので、学生演劇を省いて芸歴35年、舞台監督を始めて25年になるが、さすがに60年代から70年代に掛けての小劇場事情はほとんど知らない。
首都圏の演劇史は資料も多いのだが、関西の演劇史はあまりにも資料が少ないのだ。
まさに関西小劇場の生き字引と言える菊川氏の話を生で聴けるのだ、参加しないでどうする。
まず、資料として頂いた関西劇団年表と関西劇場年表が素晴らしい。
有名劇団と劇場の遍歴が一目で判る。
東京の演劇事情と関西の動向を年代別に記した比較年表をテキストに、60年代関西小劇場の黎明期から話は始まる。
予想通りと言うか、2時間を費やしてようやく80年代に突入するところで本日は終了する。
残りの30年は次回へと持ち越された。
次回は未定だが、行くしかあるまい。
かなり面白い。
お勧めしておく。

【観】空晴『32年生の8時間目』

7a492f2d.jpg空晴 第9回公演
『32年生の8時間目』
作・演出/岡部尚子
@ウイングフィールド

震災以降、劇作家の舞台作品に変化が見られることは、何度か書いてきたが、今回の空晴で最大の興味は、震災を経た岡部作品がどのように変化したか、或いは変化しなかったか、私の関心事の最大の注目点であった。
舞台は小学校6年生の同窓会場となった集会所。
窓からは懐かしい母校が見える。
担任女教師の発案で、初めて同窓会は生徒たちが当時の自分と同じ38才になった時と決められていて、26年の歳月が経ち、生徒たちが38才になった今、ようやく初の同窓会が開かれた。
26年という時間は同級生の顔や名前、容姿や記憶、或いはその存在すらも、あやふやにしてしまうのに十分な時間である。
結婚や人事異動、多くの理由でその地を離れ、日本全国に同級生が散らばることもあるだろう。
もちろん連絡先も不明瞭で、幹事となった者は文明の利器を活かし、所在不明の同級生をネットで探して同窓会の開催を告げるのだ。
多くの同窓生が集まり、同窓会が終わって2次会へ向かい、集会所の後片付けに数人が残ったところから物語は始まる。
その展開は岡部氏得意の勘違いや早合点、思い込みと早とちりを巧みに組み合わせて、演者のみならず観客もコロリと騙されるミスリード主体のシチュエーションコメディだ。
そして最後はいつものように、優しく温かな心にさせてくれる良質のコメディである。
ラストの仕掛けも子供らしい間違いを巧みに用いた勘違いで、26年間のわだかまりを見事に払拭する。
さて、この作品に一番騙されたのは、他ならぬ私自身と言える。
何のための26年越しの同窓会であるかを考えた時に、当然ながら昨年の大震災と、同級生の中には東北に引っ越した者もいるだろうとの思い込みから、勝手ながら深読みし、見事に肩すかしを喰らうこととなった。
そこにはいつも通りの、家族や親戚やクラスメートの、小さな小さな世界を丹念に描き、震災や数々の社会問題に対峙しても決してブレることのない、作品に対する信念を見ることが出来た。
だが、決して岡部氏が震災を全く意識しなかった訳ではない。
そこには、せめて物語の中だけでも、災害が起こらず、悪人も登場しない、皆がこの短いひと時を安心して過ごせる、そんな芝居を作りたいとの意思表示があり、このささやかな物語には、その願いと祈りが満たされている。
そんな呪いが込められている。
この場合、[呪い]は[まじない]と読む。
[のろい]と[まじない]は、どちらも[呪い]と書く。
幸運や平和を願い、良い方向に使えば[まじない]となる。
怨みや妬みから他人を貶める悪いことに願えば[のろい]となる。
[呪い]は正と否の、両極端の側面を持つ。
だからあながち、あの文集も間違いではないのかも知れない。
来月には福岡演劇フェスティバルに参加するため、福岡公演に旅立つ空晴の成功を呪うことにする。
今も彼らの成功を、祝う気持ちに溢れている。

【舞】追伸(空の驛舎・千秋楽)

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f10e95f9.jpg
空の驛舎『追伸』終了。
3.11の震災以降、小劇場演劇の作品傾向は明らかに変化した。
日本に住む誰もが地震に対する認識を改め、原発と放射能汚染の問題を身近なものとして意識するようになった。
そしてそれは被災地との距離や被災した知人の有無に係わらず、劇作家や演出家の舞台作品に顕著に表れることとなる。
空の驛舎の前作『under-ground』は、被災地ではない関西の演劇人である我々が、演劇を通して被災地や被災者とどう向き合っていけば良いのか、その距離感を測る尺度にまだ迷いのある作品であった。
今回、中村氏が書き下ろした新作『追伸』も、根底には震災が与えた傷が大きく残っている。
だが前作と明らかに違うのは、本作には迷いが一切無いことだ。
私はこのひと月の間に、3人の知人を亡くした。
2万人を越す震災の犠牲者も、病気や事故で亡くなった友人も、その命の重さに変わりはなく、そこに在るのは[生]から[死]へと姿を変える命の有り様であった。
劇中で語られるように、[死]を隠してはいけないのだ。
他者の[死]と向き合い、正面から見詰め、感じたことを心に留め、それを経てこそ、見えてくる[生]がある。
この作品に迷いがないのは、真摯に生死と対峙し、中村氏なりの答えを見い出したからであろう。
作風を違えた3つの小作品は、同一のテーマでしっかりと結ばれ、それぞれに死の物語があり、それを見送る人が居て、人と人が触れ合い、伝えられず言葉にならなかった思いを描き出す。
以下に各エピソードの感想を記すが、直接観劇されたならば読む必要は薄いので、最後の総括まで飛ばして読んで頂きたい。

episode1「校庭で」
高校時代にクラブ活動を共に過ごした先輩後輩と女子マネージャーが、事故で死んだ後輩マネージャーの葬式を葬儀会館で済ませた帰り道、久しぶりに母校を訪れる。
日曜日の夕刻、誰も居ない校庭。
3人の会話から、次第に4人の関係が見えてくる。
卒業後、東京に進学か就職した女子マネージャーは、同級生の先輩と密かに付き合っていた。
後輩も卒業後に関東に引っ越したが、亡くなった女子マネージャーが好きだった。
先輩は亡くなった女子マネージャーの相談役で、二人は関係を持っていた。
後輩が去ったあと、残された元恋人同士の二人。
男はこの期に及んでも、真実を明かせないでいる。
実に往生際が悪い。
会話から人間関係を読み取る推理劇にもなっている。
3話とも、重苦しくならない程度に、社会問題を扱った場面が挿入されていて、後輩は盲聾者(もうろうしゃ)の支援団体を経営しており、触手話通訳が出来る。
盲聾者は、目と耳の両方が不自由な身障者で、視覚で伝える言語である手話を、両手を繋ぐことで相手の手話を触覚を介して読み取り、同様に相手に伝える言語に変換したものが触手話である。
敢えて、ここでは触れないでおくが、劇中では昨今の障害者自立支援法についての問題が提起される。

episode2「児童公園で」
この作品では明白にアクティングエリアが固定される。
黒色の床に、太く描かれた白色のラインは、あの世とこの世の境界線であり、天使の輪をイメージさせる。
円内の3人は既に亡くなっており、閉じられた空間の中、閉じられた時間を延々と繰り返す。
同じ毎日が訪れ、同じ毎日が終わる。
民生委員の男は、低所得者の女がパチンコ中毒と知りつつも、生活費を支援する。
生活福祉資金貸付制度の必要性と認可基準、更には民生委員の在り方を考えさせられる。
女には離婚した夫が居る。
夫は不測の事故で両腕を失い、障害者年金で施設に入って暮らしており、女は別れた夫は幸せだと言う。
うつ伏せのまま動かない男は、円外から自転車で迎えに来る妹に、運動する機能が停止して朽ち果てていく人間の死について語る。
失った両腕、動かない身体、人との触れ合いは二度と叶わないとの考えは、物の見方を変えることで意外と変わるものである。
劇中で話される妖怪「赤えい」は、江戸時代の奇談集に記された巨大なエイの怪物で、全長12km以上の巨体は島と見間違うほどあり、島と勘違いした船乗りたちが上陸すると、たちまち海中に沈み人々を溺れさせてしまう。
アカエイは実在し、本来の体長はせいぜい2mで、普段は砂底に身を潜らせている。
別名を「傾城魚」と言い、この名称からアカエイには背に城を載せるほど巨大なものがいて、突然海中に沈んで背の城を傾けると言う伝説が生まれたのかも知れない。
「赤えい」は背に溜まった大量の砂を払い落とすために、時おり海面に浮上するのだが、その巨大な魚が現れる際には、海底から雷鳴のような轟音が響き、大波が起こると言われた。
舞台上の大きな円は、首をもたげたエイのように見え、円内つまり赤えいの背中の上で同じ時を繰り返してきた死者たちの時間も、やがてゆっくりと動き出す。

episode3「病院のそばの公園で」
2作目と同様、白い円は生と死の境界線として存在するが、内外の世界は反転し、円内が現実世界となる。
「例えば、全部、嘘やねん」
バイク事故で入院中の男が発する第一声の台詞に、この作品は集約される。
全てを架空の出来事として、(括弧)の中に入れて置くゲームが始まる。
ミュージシャンである男には恋人が居て、見舞いに訪れた彼女が連れてきた友人から、駅前に建設される葬儀会館建設反対の住民運動の応援歌を作って欲しいと頼まれる。
山間部にあるその町は、太古の昔は海であり、その地域には地面の下に大きな「赤エイ」が眠っていると言う伝承がある。
葬儀会館建設問題と絡めて、男の口からこの作品の本質が語られる。
死を隠してはいけないこと、死を絶えず意識することで生あるものを愛しく感じ、大切な人が亡くなった時にも、その人の死ときちんと向き合えば、それを乗り越えらるのではないか。
やがて友人は、自分が昔その地にあった遊園地の観覧車に巣を持つツバメで、かつてその地を襲った地震で観覧車が傾き、巣から落ちた自分を救ってくれたのは、まだ幼かった頃の男の恋人であったこと、その時の手が、とても温かだったことを告げて立ち去る。
ようやく二人の括弧を外す時が訪れた。
バイク事故の時、その後部座席に座っていた恋人は事故で亡くなったのだ。
彼女は死んだ自分自身を受け止め、男は恋人の死と向き合う決意を固め、二人は手を繋ぎ、別れを告げるのだ。


この作品の成功は、舞台美術を担当した岡氏の発案と、脚本の世界観を舞台上で融合させた中村氏の演出の手腕あってのものだ。
3つの脚本はどれも関西弁で描かれており、3話目に登場するミハラダイが全3話に共通する舞台であろう。
1話目で葬式のあった葬儀会館は、3話目に建設反対の住民運動が起こった葬儀会館であろうし、2話目で水死した人たちは、ミハラダイの地中に眠る赤えいが目覚め、海中に潜った後の世界かも知れない。
拡大解釈するならば、世界一の地震大国である日本は、赤エイそのものであり、国土となる巨大な傾城魚の背中の上に築いた全ての建造物や人工物は、砂上の楼閣に等しく思われる。
我々はこんなにも危うい地の上で暮らしている。
だからこそ多くの死と、きちんと正面から向き合わねばならない。
人と人との関係を、しっかりと見据え、問題に目を背けず、生きて行かねばならない。
触れ合える手を持つ者は幸いである。
その手は常にあたたかい。


追伸



















 

【舞】空の驛舎『追伸』

18e7c0ec.jpg空の驛舎 第15回公演
『追伸』
作・演出/中村賢司
@AI・HALL
3/16(金)19:30〜
3/17(土)15:30〜、19:30〜
3/18(日)15:30〜

またまた更新が追いつかない。
先週は久しぶりにKAVCに、『地中』の観劇へ。
また、高橋いさを作品の2本立て『旅の途中』『モナリザの左目』が芸術創造館で拝見し、ウイングではエイチエムピー・シアターカンパニーの『HOME』を鑑賞する。
3月に入ると私は花粉症が始まり、鼻炎薬を服用するとボンヤリして思考がダルくて眠たくなるの。
書きかけた文章がなかなか進まない。
だが、来週には更新できそうだ。
さて、空の驛舎が始まった。
『追伸』は伝えたかった思いや、言いたくても言えなかったことを、人と人のふれあいを通して描く小作品の3本立てだ。
独立した3つの作品は、起承転結のある明確な物語ではなく、生活や日常や何気ない会話のスケッチで、取り留めもない時間の中から抽出された3つの風景が会話劇として構成され、それらはほんの少しずつリンクしながら存在している。
岡一代のシンプルで美しい舞台美術が、中村氏の演出と見事に融合し、3つの作品がそれぞれに違った味わいを醸し出す。
大切な人が生から死へと向かう境目を行き交う人たちの、伝えたかった思いを是非とも感じ取って欲しい。

【観】声を出すと気持ちいいの会『A MIDSUMMER NIGHT'S DREAM』

62d80012.jpg演劇集団 声を出すと気持ちいいの会 第8回公演
『A MIDSUMMER NIGHT'S DREAM』
原作/W・シェイクスピア「夏の夜の夢」
脚本・演出/山本タカ
振付/木皮成
@一心寺シアター倶楽

2012おうさか学生演劇祭の最終演目を飾るのは、昨年度のシアターグリーン学生芸術祭にて最優秀賞に輝いた明治大学出身の「声を出すと気持ちいいの会」である。
脚本と構成は、ずば抜けて良く出来ている。
今回のおうさか学生演劇祭では、抜きん出た才能と言えるだろう。
舞台の使い方は3間四方菱形に平台をベタ置きして、床面化粧を施したシンプルなもので、菱形の頂点となる舞台奥だけが、3段ほどの階段で上る小舞台となっている。
開演時間が3月11日14時なのは、昨年同日14時46分に起きた東日本大震災の時刻に合わせてのものである。
「夏の夜の夢」をモチーフに、震災当日の首都圏で起きた大混乱と、1977年7月に起きたニューヨーク大停電のパニックを重ね合わせたメタフィクションとなっている。
2011年3月11日の東日本大震災により、首都圏では東京を除いて大規模な停電となり、携帯電話は不通、交通機関は麻痺し、帰宅困難者は10万人を超えた。
その状況下に措かれた東京近隣都市に住む主人公とその家族が、震災の前日からの数日間で、家庭崩壊にいたる顛末を描いた秀作である。
停電した夜の暗闇の中、主人公は1977年のニューヨークに迷い込むこととなる。
1977年7月13日の夜、落雷に端を発したシステム障害からニューヨークの灯が一斉に消え失せ、地下鉄やエレベーターも止まり、ニューヨークは大パニックとなった。
折しも財政破綻寸前の経済状況下で、治安も相当悪く、停電の最中に商店強盗や放火等の犯罪が多発した。
そこに迷い込んだ主人公はライサンダーと呼ばれ、それに呼応して恋人はハーミアとなり、友人がディミートリアス、友人に恋する女友達がヘレナとなる。
主人公の両親が、オーベロンとタイターニアで、原作同様オーベロンは魔法の媚薬を使者に託す。
原作と違うのは、オーベロンの使者がパックではなく、ロビン・グッドフェローであることで、ロビンはこの一目惚れの秘薬を強力な魔法の媚薬にすり替えてしまう。
この媚薬を嗅ぐや否や、肉体は火照り、理性は消え去り、目の前の異性に食らいつき、肉欲の虜になってしまう。
もちろん、違法ドラッグのメタファーである。
かくして大停電の夜に「夏の夜の夢」の展開通り、ライサンダーはヘレナを強姦し、ヘレナはディミートリアスを追い求め、ディミートリアスはハーミアを執拗に口説き、辛くも貞操を守ったハーミアはライサンダーを慕いつつも後ろめたい負い目を感じるようになる。
同じ夜、媚薬の効いたタイターニアは、ダンスチームに似つかわしくない巨漢の醜男と関係を持ってしまう。
その最中、ロビンの手引きでそこに連れて来られたオーベロンは妻の淫らな行為を目撃することになる。
本来なら見えないものが、見えない筈の停電の夜に見えて来る。
地震の夜に帰宅しなかった両親、前日から連絡が取れなかった恋人、自宅まで帰れないからと深夜に突然来訪した女友達、行方知れずの友人。
愛する者に対する愛情と嫉妬、疑惑と憎悪が浮き彫りにされる。
停電により繋がった2つの時間と2つの世界は、次第に融合され現実のものとなって行く。
普段は他人に見えない、密閉され、閉ざされた秘密の関係が露見した時、現実の世界も崩れ始める。
本作では大団円は望めない。
地震と共に恋人や友人との関係も壊れ、母親は家出し、父親は精神を病んで、ついに家庭は崩壊する。
「夏の夜の夢」は悪夢であった。
いや、悪夢ではなく「まだ寒い初春の昼間の現実」であった。
本当に、夢なら良かったのに。
たとえ悪夢でも、夢なら良かった。
パックをロビン・グッドフェローに変えただけで、喜劇は悲劇となった。
諸説はあるが、ロビン・グッドフェローは妖精王オーベロンと、美しい人間の田舎娘との間に生まれた半妖精で、パックと同一視するのは間違いとされる。
人間界で暮らすロビンがオーベロンに与えられた使命は、欲張りや好色な者、身勝手で邪な心を持つ悪人を悪戯で懲らしめ、正直者や働き者の善人が困った時には助けることで、それを条件に妖精の力を授けられ、この能力を上手に使えたならば、妖精の国へ連れて行く約束をしたオーベロンが、この作品ではロビン・グッドフェローに手痛いしっぺ返しを喰らうことになる。
父親もまた、若い女性との浮気を隠していたのだ。
本当に良く出来た作品である。
ただ一つ私が残念に思うのは、主人公が自宅のテレビで地震と津波の報道を見る場面で、大音量で響き渡る地震の音と、押し寄せる津波の轟音に重ねて、救助を求める人々の声や、九死に一生を得た者が津波の有り様を語る声、地震と津波で生き別れになった家族を探す肉親の声、目の前で家族を亡くした人たちが家族の名を呼び号泣する声、津波に呑まれゆく人たちに声の届かぬ高台から大声で呼びかける人々の悲痛な叫びを、劇中に大音量で使用したことで、この音響効果が本当に必要なのか疑問が残った。
私は自問自答する。
退廃的とも不道徳とも思わないが、あまりにも軽はずみで恣意的ではなかろうか。
自問自答は続く。
たとえそれが意図したものであり、故意に用いられたとしても、思いやりに欠けるのではあるまいか。
演出の意図は理解できるし、その日の事実をリアルに伝えたいのも解る。
だが私は、地震と津波の音だけで十分に思うのだ。
それらは、長年過ごした家屋を流され、愛する家族や友を亡くし、手塩にかけて育てた家畜や農作物を全て無にし、生まれ育った故郷そのものを失った者たちの心を、著しく傷付けやしないか。
その時の苦しみと悲しさを、再び呼び起こすのではなかろうか。
作者がパンフレットに書いたことには大いに賛同する。
だが、表現の自由を勘違いしてはならない。
劇場で、演出効果を高めるために、観客席の上から瓦礫や鉄塊を落とす演出家は居ない。
もちろん、観客が外傷を負う可能性のある演出は劇場が許さないし、それは演出ではなく危険行為と見なされる。
だが、傷を負うのは身体だけではない。
心も痛くなり、精神も傷付くことを忘れてはならない。
芸術の中には、それを体感した者をどうしようもなく傷付ける表現もあるだろう。
どのような表現も、ある特定の人たちにとっては、苦しく耐え難い側面を持つのかも知れない。
だから観客には、それを選ぶ権利がある。
表現者に自由があるように、観客にもそれを選ぶ自由がある。
全ての観客は、わざわざ大切な時間を割いて、観劇料を支払って見に来て下さるのだ。
ならば細心の注意を以て作劇し、不可避に一部の観客に不快感を与える可能性があるならば、せめてチラシやネット上に明示し、予め告知すべきであろう。
随分と厳しい意見を述べたが、決してこの作品を責めるものではない。
震災を扱った作品を見る度に、何度か感じてきたことで、いつかブログで書こうと思っていたことだ。
この作品のお陰で、その機会を得ただけのことである。
作品自体は非常に素晴らしい。
早々と、2012おうさか学生演劇祭Vol.5演劇賞の発表があった。
最優秀劇団賞には「劇想からまわりえっちゃん」が輝いた。
惜しくもこの作品で「声を出すと気持ちいいの会」は、優秀劇団賞と優秀スタッフワーク賞を受賞した。
3月15日から下北沢の小劇場「楽園」で、東京公演が始まる。
願わくば、この素晴らしい作品が、誰の心も傷付けませんように。
誰しもに喜ばれ、皆に感動を与えますように。
遠く離れた西の地から、願わずには居られない。

3月11日に【舞】劇団態変『一世一代福森慶之介 又、何処かで』

360885b9.jpgあの日から1年が経った。
思うことは沢山ある。
言いたいこと、書かねばならないことも山ほどある。
だがその前に、こんな報告をすることになろうとは、思いもしないことだった。
震災から1年が過ぎた今日、私は相変わらず劇場へ通い、一心寺シアター倶楽で観劇を終えて時間を確認しようと携帯電話を見た時に、ちょうどウイングフィールドの福本さんから着信があった。
いつもなら劇場を出てからリダイヤルするのだが、妙な胸騒ぎがして電話に出ることにした。
不思議なことに、電話に出る前から、私はそれが何の電話であるかを知っていた。
そんな時の私の勘は、悲しいほどよく当たる。
福本氏はいつものように丁寧に言葉を選びながら、静かな声で私に話された。

「今朝方、劇団態変の福森慶之介さんが、お亡くなりになりました。」

私も同行した昨年3月と9月、2回3ヵ所に渡る韓国公演を終え、その頃からの体調不良で精密検査をした福森さんの右上肺野に腫瘍が発見された。
74歳の高齢障害者であることを考慮し、自身の身体表現の真価を発揮できる最後の機会になるかも知れないと舞台作品に臨んだのが、つい先月、2月4日と5日に伊丹AI・HALLで上演された『一世一代福森慶之介 又、何処かで』であった。
その僅か35日後に、永眠されることになろうとは、想像も着かないことだった。
最後の舞台となった作品のために、どれだけ肉体を酷使し、どれほどの精神力で舞台に立ち続けたのであろうか。
実際、稽古中も劇場のリハーサル中も、芝居が止まる度に椅子を用意しなければ立って居られず、楽日のカーテンコールでは、すでに袖中に退場する体力すら残っておらず、車椅子を舞台に持ち出して、車椅子に座っての退場であった。
まさに命を削って稽古と本番に臨んだ、本物の役者であった。

福森氏は1937年に生まれ、11歳で脊椎カリエスに罹患し、背骨が湾曲し、歩行困難となり、小学校の後半は通学も出来ず、ついには16歳から32歳の16年間は寝たきりの状態で、トイレも食事も寝床での生活が続く。
ようやく動けるようになった35歳で通信制高校に入学し、38歳からは詩作を、39歳からはフルートの演奏を始める。
46歳で劇団態変の旗揚げ公演『色は臭へど』(1983年)に参加し、以降はほとんどの態変作品に出演している。
2012年3月11日6:05永眠。

加えて劇団態変には、もう一つ悲しいお知らせがある。
福森氏の最後の公演が終わり2週間も経たぬ2012年2月17日、劇団態変最古参の役者、木村年男氏が55歳で死去された。
木村氏は授乳期に森永ヒ素ミルク患者として重度寝たきりの障害者になった。
劇団態変へは旗揚げから参加し、主宰の金満里氏とはもちろん、福森氏とも30年来の役者仲間である。
福森氏最後の一世一代の大舞台終了を入院中の病床から見届け、安心して永眠したのであろうか。
(※詳細は劇団主宰のブログ「金満里の庭」参照)
2012年2月17日18:10永眠。

劇団態変
『一世一代福森慶之介 又、何処かで』(『一世一代福森慶之介 ゴドーを待ちながら』改メ)
原作/サミュエル・ベケット
翻案・演出/金満里
@AI・HALL
2/4(土)18:30〜
2/5(日)15:00〜

多忙期に忙しくて未だ書けないでいる日記がいくつか在る。
この公演もその1本だったのだが、今日書くためだったのか、何らかの必然性があったのかも知れない。
劇団態変の古参役者で74歳の福森慶之介氏が、自らの命と魂を賭けて臨んだ最後の奮闘公演は、福森氏の体力的な限界もあり、2日間2回のみの舞台であった。
しかし両日とも早々にチケットは完売してしまい、何とか増席をとの制作の要望に、増席に次ぐ増席で、これ以上は不可能と思える苦心をして、200席以上の観客席を準備した。
ところが心配した通り、予約のない当日客が連日20名近くご来場され、満席以上に詰め込んだ客席に如何に増席するかに翻弄された。
満席で入場できないからと帰って頂くには忍びなく、私も制作も、何よりも福森氏最後の作品になるやも知れぬ本作を、どうしても見て欲しかった。
舞台監督としてはあるまじき行為だが、たとえ立ち見でも、一般客の入場が禁止されたバルコニーからでも、一人の客も帰さず観劇して貰う決意があった。
それは表方全員の総意であり、皆の努力により余すことなく観客を入場させ、一世一代福森慶之介の『ゴドーを待ちながら』は開演した。
知っての通り「ゴド待ち」は、ベケットの名作不条理劇である。
田舎道、一本の木、夕暮れ。
ゴドーという名の人物を待つ二人の男。
その日、ゴドーはやって来なかった。
翌日もまた然り。
繰り返す日常。
待つ二人。
台詞があっても難解なこの戯曲を、いつものように態変は身体表現で上演するのだ。
不条理を超えた超シュールな展開にも関わらず、不思議なことに観客はすんなり順応する。
もはや舞台と客席の隔たりすら無く、役者と観客が渾然一体となった共有空間が誕生した。
今回の舞台には、態変には珍しく一部台詞がある。
開演して10分も経たない頃、福森慶之介が唐突に挨拶を始める。
「じゃあ、ここらでボチボチ。本日はご来場、誠にありがとうございました。これにて終わります」
すかさず小泉ゆうすけがツッコミを入れる。
「それ、アカンやろ!」
場内は大爆笑である。
「なんで?」
「ゴドーを待ってるんだよ、おれたち」
「そうやったなぁ…」
公演が終了し、僅か35日後。
「じゃあ、ここらでボチボチ。これにて終わります。」と、人生の幕を降ろした福森さん。
それ、アカンやろ!
それ、アカンやろ!
それ、アカンやろ!
何度ツッコミを入れようと、「なんで?」と無邪気にボケを返して来ることは、残念ながらもう叶わない。
あまりにも早く、ゴドーはやって来て、福森さんを連れ去って逝った。


追記:
タイトルの『一世一代福森慶之介 ゴドーを待ちながら』は、原作の台詞を使用しないことに関する著作権との関係から、タイトルを『一世一代福森慶之介 又、何処かで』に改められた。
翌日に参列したお通夜には、多くの方が駆けつけて、福森さんにお別れを告げた。
悲しくて悲しくて、涙が溢れ出し、胸が詰まって声にならない。
だがその老優の死に顔は、全てをやり遂げて満足に溢れる優しい顔であった。

【観】劇創ト社deネクタルグン『阿国神舞』

310fe405.jpg劇創ト社deネクタルグン#2
『阿国神舞』
作・演出/城田邦生
@インディペンデントシアター1st

出雲の阿国を題材に、創作の中に史実を織り交ぜ、阿国のしなやかながらも逞しい生き様を、美しい衣裳と華麗なダンス、軽快でスピーディーな展開で描いた歴史エンターテインメント。
誤解のないよう解説しておくと、歌舞伎の創始者とされる出雲阿国(いずものおくに)は、伝承では出雲大社の巫女になったのち、文禄年間(1592年〜1596年)に出雲大社勧進のため諸国を巡回する内にその踊りが評判となり、慶長年間(1596年〜1615年)には京や江戸で一世を風靡する。
阿国はその時代の流行歌に合わせて踊りを披露し、慶長8年(1603年)の北野天満宮での興行では、男装でかぶき者の振る舞いを取り入れた当時最先端の演芸を生み出した。
阿国歌舞伎の誕生である。
慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演し不動の地位を得るが、この公演を最後に消息を断ったとされる。
ところが阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎(女歌舞伎)や、少年の役者が演じる若衆歌舞伎が行なわれたが、その中には売色目的を兼ねた集団もあり、風紀を乱すとの理由から禁止される。
この頃の歌舞伎とは、かぶき踊りを指し、歌舞伎踊りを取り入れた歌舞伎劇が始まるのは、男性のみで演じる野郎歌舞伎が主流となってからである。
劇中での恋愛シーンや、出雲からの追っ手、その他の登場人物等、城田氏の創作となる。
だが恋愛を絡めることにより、女性らしさが表現でき、追っ手との駆け引きや対決では緊張感と高揚感を劇的に高め、物語に華やかな彩りを添えていく。
また、芝居小屋の踊り子が遊女を兼ねているのは阿国歌舞伎以降の遊女歌舞伎の設定で、徳川将軍に召されて江戸城で踊るのは1607年、初めて男装で踊るのが1603年なので、時間的な設定も変更が為されている。
歴史上に実在した人物の物語を脚色しドラマ化する時に大切なのは、史実や歴史通りに描くことではなく、その人物の考え方や生き様を描き、その人物の魅力を、或いは思想を、或いは心の闇を、後世に残さねばならない何かを、明確に舞台上で表現し、確実に観客に伝えることだと思う。
それが許されるのも、舞台表現の魅力の一つである。
出雲阿国の魅力を溢れんばかりに脚色する劇作家が居て、それを自らの精神と肉体に宿し、脚本以上の魅力を表現する役者が居る。
400年を経て、今もなお皆々から愛される。
出雲阿国は幸せ者だ。

【観】エイチエムピー・シアターカンパニー『Home』

f892427d.jpgエイチエムピー・シアターカンパニー
『Home 静止した日常』
3月11日午後2時46分
大阪に居た私たちの話
構成・演出/笠井友仁
@ウイングフィールド

「演技を停止したパフォーマーたちによる、空想默劇」と書かれたフライヤーの通り、プレイヤーは一人ずつ登場し、定位置に着くと停止して、静止したまま動かない。
静止したままのパフォーマンスに重なり、パフォーマー自身の声で録音された台詞が流され、静止したポーズの解釈や状況が説明される。
次のプレイヤーが現れては静止し、同様に繰り返され、全員が登場した頃には「静止した日常」の切り取られた風景が完成する。
この着想は凄い。
1年前の震災発生の時刻に、大阪に居た自分たちの姿を切り取り、地震や津波の圧倒的な動的エネルギーを、精神的に凍りついて動けない静止状態で静的に表現する。
公演当日の3月10日は、震災から数えてちょうど一年が経つ前日で、1年前のあの日、ありふれた日常が一変し、多くの人たちの精神が凍りつき、日常が静止した。
濁った水が入れられた水槽に、プレイヤーは管を挿入し、汚水を全て飲み干していく。
水槽は、透明で美しい状態に戻る。
震災から1年、ようやく明日から新しい1年が始まる。
復興は人任せでは成し得ない。
一人一人が小さな力を寄せ合い、いつの日か澄んだ美しい世界に戻すことを信じて、ゆっくりと静止した日常は動き出す。
とても上手く構成されている。
遠く離れた私たちの日常をも静止させたあの日、その前日の私たちは余りにも平和で、のどかで、穏やかだった。
この静止した日常と、翌日の惨劇を対比した時に感じる違和感の大きさが、私たちが災害に対して抱く危機感の大きさに思えてならない。

【観】Nana Produce『旅の途中』

4331a97a.jpgNana Produce Vol.4
『旅の途中』
作・演出/高橋いさを
@芸術創造館

Nana Produceは、女優でありタレントの田崎那奈さんがプロデュースした舞台作品企画で、劇団ショーマの高橋いさを氏に脚本と演出をお願いなさることが多いようだ。
活動拠点はもちろん首都圏が中心で、関西圏にまで公演に訪れるのだから、余程お芝居の好きな方に違いない。
高橋いさを氏の脚本作品は、学生演劇で度々見かけることがあり、『けれどスクリーンいっぱいの星』や『八月のシャハラザード』は数回見ているし、中でも学生に人気の高い『バンク・バン・レッスン』は、私の長い観劇歴の中で、最も多く見た作品の一つである。
なのに一度も高橋氏の演出作品を拝見したことが無く、ようやくその機会に巡り会えた。
しかも本作はご本人の新作書き下ろしで、更に昨年度のロクソドンタフェスティバルでグランプリに選ばれた『モナリザの左目』(「知らない彼女」改題)と、2本立ての上演なのだ。
二重舞台の上段を広く構えソファーと机、椅子といった応接セットがあり、下段は横長の狭い通路になった一杯飾りの舞台美術ながら、上段の室内は探偵事務所となったり、ホテルのロビー、マンションの一室と、流用性が高く、装置転換なしに場面を次々に変えていく。
下段は主に屋外として用いられ、冒頭は旅の途中に恩ある先輩の墓参りに訪れたストーリーテラーとなる探偵が、とある事件の顛末を死んだ先輩に報告する場面から始まる。
探偵物の割りにはミステリィ要素は全くなく、ヤクザに依頼された人捜しの相手が、見つけてみれば先輩の妹で、あれこれと練った策が次々と失敗の連鎖を生むコメディ作品である。
コメディらしい大団円となるストーリーに目新しさは無いが、場面転換が非常に上手い。
次々と変わるシーンにストレスを感じさせないよう、場面が終わる頃合いに次のシーンの登場人物が現れ、前場面の役者が退場すると同時に、次の場面が小気味良く開始される。
やはりプロは上手い。

【観】メイシアター×sunday『牡丹灯籠』

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メイシアタープロデュースshow劇場vol.6/sunday play日本の名作
メイシアター×sunday
『牡丹灯籠』
原作/三遊亭円朝
脚色・演出/ウォーリー木下
美術/野井成正
音楽/indigo jam unit
@メイシアター 小ホール
『牡丹灯籠』は、中国が明の時代に出された小説集に収録されている小説を基に、三遊亭円朝が23〜24才の頃に落語の演目として翻案した怪談噺で、日本で初刊行されたのは円朝が47才になった1884年(明治17年)だそうである。
その後『怪談牡丹灯籠』として歌舞伎となり、これが人気を評し、時代と共に舞台化や映画化されていく。
今回はメイシアターとsundayの共同作業で、インスタレーションによる演劇作品として作成されている。
ここに登場する幽霊は、恨み辛みの怨念を抱いた幽霊ではなく、純粋に恋をして本懐を遂げられなかった女の恋心である。
だが幽霊の出る怪談噺はほんの一部に過ぎず、この作品には実に70名もの登場人物が居り、物語は1743年の斬り捨て事件に端を発し、1760年から翌年までの1年間、複雑な人間関係の物語を巡るものである。
純愛、仇討ち、横領、暗殺、騙し合い、逃亡、生き別れ、様々な人間模様が描かれている。
これに18名の役者とウォーリー木下氏の演出が挑む。
舞台は200本以上の竹が天井から吊された野井氏の美術作品。
この吊られた竹が役者の動きで、けたたましく揺れ動き、全員が一斉に動き回るシーンは舞台全体が激しく躍動する。
幾重にも吊された多くの竹が視界を遮り、竹藪のようであり、全ての動きは視認できない。
芥川龍之介の「薮の中」のように、全貌を見せず覆い隠され、真実を見えなくする効果を生み出す。
小道具には、落語らしく手拭いと扇子で全てを表現し、別に小型のペンライトが用いられる。
構成も分かりやすく整理され、ストレスを感じさせない。
欲を言えば、この作品は額縁舞台ではなく、舞台だけでなく客席を含む全ての空間に、無数の竹が吊された空間美術が望ましい。
観客を舞台空間に巻き込んでこそのインスタレーション作品であり、よくある観客参加型の演劇ではなく、観客が舞台空間に在ることから派生する変化や異化を、如何に作品に取り込み完成させるかを見たいのだ。
それが意図して出来る演出家は関西にはあまりにも少なく、ウォーリー氏はそれを成し得る空間認識力と、柔軟で変幻自在な構成力、誰もが想像し得ない素晴らしい発想力を持つ極めて稀少な演出家である。
我々、旧世代の演劇人には想像すら及ばない、驚愕の作品を期待してやまない。
期待してやまない。

【観】劇団コダマ『レディ?GIRL!!on air THE GOLDEN』

94941898.jpg劇団コダマ 第3回公演
『レディ?GIRL!!on air THE GOLDEN』
作・演出/勝山修平
@インディペンデントシアター2nd

バンドの生演奏に唄、役者のダンスや殺陣、アクション、パフォーマンスを加え、盛りだくさんなコラボ作品を目指す劇団コダマに勝山氏が書き下ろしたのは、とてもステキな音楽劇だ。
近未来の日本か世界のどこかの国、或いは地球の全ての国で、唄を禁止した世界が舞台です。
音楽の、特に歌詞と歌声が人に与える影響と犯罪や自殺の抑制のため「音楽規制法」が施行され、自由に唄の歌えない世界で、歌手を夢見る田舎から来た一人の女性が、数年を費やしてすったもんだの挙げ句、ついには打ち上げられたロケットから、世界中に向けて唄を放送するのだ。
この単純なストーリーに、陰謀や裏切りや大袈裟な戦いは要らない。
登場人物が多いので、それぞれに見せ場があり、どうしても上演時間が長くなる。
すると必然と物語が主軸となり、唄も演奏も殺陣もアクションも、全てが物語を構成するパーツになってしまい、コラボ作品とはならなくなってしまう。
作ろうとする劇世界は着想も良いし、融合しようとする表現も多彩で面白い。
だから物語を作ろうとせず、どうすれば唄や演奏やアクションが、演技や台詞と同じくらい引き立つのかを考え、再構成して欲しい。
上手く融合できたなら、これまでにない新しいタイプの劇団になる可能性があるのだから、ひたすら精進するのみである。

【観】それかん劇団有馬九丁目『スターラインエクスプレス』

37b850b9.jpgそれかん劇団有馬九丁目
『スターラインエクスプレス』
作・演出/岡崎マサフミ
@一心寺シアター倶楽

今回のおうさか学生演劇祭には、関西大学生演劇の集い「それかん」から二団体が参加している。
関西各地から集まった役者16名によるハイスピードSFエンタメ群像劇である。
抽象美術ながら舞台美術 が大変美しい。
常設の黒の舞台上に、アクティングエリアとなる真っ白な正方形のステージを菱形に設え、この後方にステージを囲むように未来都市を思わせるオブジェが配されている。
この造形が素晴らしく、基本的には全て白く塗った角材のみで出来ている。
明らかに低予算で製作されているのだが、白と黒のコントラストが美しく、作品にも非常にマッチしている。
役者はほぼ全員が出ずっぱりで、多くの役柄を次々と演じながらテンポ良く進行する。
脚本はとても面白く、宇宙の歴史や人間関係まで、無理なく上手く設定されている。
惜しむらくはオリジナリティが薄いことで、脚本構成、物語の展開、コロスの使い方、場面転換、役者の配置等、全てにおいて先駆者があり、それらの良いエッセンスを上手く抽出し、難なく仕上げている。
とても良いセンスとバランス感覚を供えている。
この作品もそうだが、最近の若者は、世代的にアニメやコミック、ゲーム、ネットで育ってからか、若手劇団の演劇作品もこれらをモチーフにしたものが大変多い。
それが悪いとは思わないが、表現者には吸収した知識を再構成し、独自の芸術を生み出す独創性が不可欠である。
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