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劇団乾杯 第11回本公演
二人芝居・大改訂再演
『アラユル』VERA
作・演出/山本握微
@安治川倉庫・FLOAT

私の最も理想とする小劇場の作品は、台詞の面白さ、構成の素晴らしさ、テンポの良い流れ、観客を予想を見事に裏切る仕掛け、ラストの意外性、最後に浮かび上がるタイトルの意味と重要性、それらが全て詰まった作品で、それが低コストで上演されるならば最高の幸福である。
それをいとも簡単に劇団乾杯はやってのける。
本当に凄い作品だ。
毎回、無料公演にこだわり、2年振りの公演となる劇団乾杯だが、これを見逃すと、次はまたいつ見られるか知れないので、本当に見ないと後悔する。
言葉遊びの得意な劇作家と言えば野田秀樹だが、私は野田秀樹より天野天街(少年王者舘)の方が凄いと思っている。
そして天野天街に匹敵するのは、関西では山本握微しか在るまい。
さらに絶妙なのが場面の構成力で、少年王者舘が時間軸を巧妙に操り、劇中に開演時間のアナウンスが流れる開演前の状態に戻ったり、終演時に開演時に戻る時間軸の無い作品を何度も提示して来たが、この作品でも実に巧妙に場面構成を駆使しており、作品の最後に全てが明かされた時の爽快感は、私の過去の演劇人生に於いても最大級のものである。
基本的にはダブルプロットの二人芝居である。
1場面は客入れ時に観客にも販売する食堂の延長で、閑古鳥が鳴く場末の食堂に、珍しく女性の客が訪れる。
見事な言葉遊びの応酬による女性二人芝居。
と思いきや、新聞配達員が闖入し、二人芝居の構造すら壊してしまう。
定食を注文した女性客が、食事を食べ終えようとした開演20分を過ぎた頃、突然この寸劇は終わり、5分間の休憩後、本編が始まるとアナウンスされる。
何と、まだ始まってなかったのだ。
20分もの前座芝居を終え、25分押しでの開演。
着替えた二人は過疎化が進む田舎の分校の教室で、教師と生徒になって現れる。
次々とテンポ良く学校の授業が行われ、アンデルセン童話の「パンをふんだ娘」をモチーフとした最終話までを一気にコント仕立てで見せると、再び5分の休憩が入る。
再度場面は第1場の食堂へ。
女性客が定食を食べ終えたところから再開するが、2場の教師と生徒の物語も渾然一体となり、開演から続けて来た言葉遊びも、いよいよ聖戦(ジハード)へ向け、数人の闖入者は食堂をメシヤ(メシア)となる旅客機に改造し、WCはWTCとなり、銃撃戦が始まり、結局女優二人が生き残り、しかし旅客機はハイジャックされ、最終的に飛行機はWTC(世界貿易センター)へ自爆テロを決行する。
実に良く出来ている。
よくよく考えれば、今日は9月11日。
入場券は航空チケットじゃないか(画像参照)!
この作品の素晴らしいところは、作品自体が全て前座芝居であることで、物語の最後にいよいよ『アラユル』が開演することが告げられる。
終演後に物語が始まるのだ。
一体、何が始まるのか?
近くで起こった大震災や、遠くで起きた大事件や大事故を見聞きした我々が、今後何を考え、どう生きて行くか、その物語が今から始まるのである。
生き残った「アラユル」者たちの物語であることが、最後に明確に突き付けられることになる。
タイトルの意味は、最後に明かされる。
もう一つ、この作品が二人芝居であることを見逃してはならない。
社会を構成する最小人数の二人芝居は、「私とあなた」の物語であり、「私と私以外の全て」との物語であり、つまりは「私と世界」の物語である。
この作品は二人芝居の構造を一旦崩し、再び再構成することで二人芝居の意味を明確に提示している。
社会の最小構成単位である二人が、お互い自分勝手にならず、ちゃんと相手と見つめ合い、お互いを理解し、相手の立場になって考えれば、ほとんどの争いは解決されるに違いない。
「パンをふんだ娘」のテーマは、最後に明白となる。
パンは踏むものに非ず。
それを求めるものに与えるならば、アラユル者は天に召されるであろう。