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空の驛舎『追伸』終了。
3.11の震災以降、小劇場演劇の作品傾向は明らかに変化した。
日本に住む誰もが地震に対する認識を改め、原発と放射能汚染の問題を身近なものとして意識するようになった。
そしてそれは被災地との距離や被災した知人の有無に係わらず、劇作家や演出家の舞台作品に顕著に表れることとなる。
空の驛舎の前作『under-ground』は、被災地ではない関西の演劇人である我々が、演劇を通して被災地や被災者とどう向き合っていけば良いのか、その距離感を測る尺度にまだ迷いのある作品であった。
今回、中村氏が書き下ろした新作『追伸』も、根底には震災が与えた傷が大きく残っている。
だが前作と明らかに違うのは、本作には迷いが一切無いことだ。
私はこのひと月の間に、3人の知人を亡くした。
2万人を越す震災の犠牲者も、病気や事故で亡くなった友人も、その命の重さに変わりはなく、そこに在るのは[生]から[死]へと姿を変える命の有り様であった。
劇中で語られるように、[死]を隠してはいけないのだ。
他者の[死]と向き合い、正面から見詰め、感じたことを心に留め、それを経てこそ、見えてくる[生]がある。
この作品に迷いがないのは、真摯に生死と対峙し、中村氏なりの答えを見い出したからであろう。
作風を違えた3つの小作品は、同一のテーマでしっかりと結ばれ、それぞれに死の物語があり、それを見送る人が居て、人と人が触れ合い、伝えられず言葉にならなかった思いを描き出す。
以下に各エピソードの感想を記すが、直接観劇されたならば読む必要は薄いので、最後の総括まで飛ばして読んで頂きたい。

episode1「校庭で」
高校時代にクラブ活動を共に過ごした先輩後輩と女子マネージャーが、事故で死んだ後輩マネージャーの葬式を葬儀会館で済ませた帰り道、久しぶりに母校を訪れる。
日曜日の夕刻、誰も居ない校庭。
3人の会話から、次第に4人の関係が見えてくる。
卒業後、東京に進学か就職した女子マネージャーは、同級生の先輩と密かに付き合っていた。
後輩も卒業後に関東に引っ越したが、亡くなった女子マネージャーが好きだった。
先輩は亡くなった女子マネージャーの相談役で、二人は関係を持っていた。
後輩が去ったあと、残された元恋人同士の二人。
男はこの期に及んでも、真実を明かせないでいる。
実に往生際が悪い。
会話から人間関係を読み取る推理劇にもなっている。
3話とも、重苦しくならない程度に、社会問題を扱った場面が挿入されていて、後輩は盲聾者(もうろうしゃ)の支援団体を経営しており、触手話通訳が出来る。
盲聾者は、目と耳の両方が不自由な身障者で、視覚で伝える言語である手話を、両手を繋ぐことで相手の手話を触覚を介して読み取り、同様に相手に伝える言語に変換したものが触手話である。
敢えて、ここでは触れないでおくが、劇中では昨今の障害者自立支援法についての問題が提起される。

episode2「児童公園で」
この作品では明白にアクティングエリアが固定される。
黒色の床に、太く描かれた白色のラインは、あの世とこの世の境界線であり、天使の輪をイメージさせる。
円内の3人は既に亡くなっており、閉じられた空間の中、閉じられた時間を延々と繰り返す。
同じ毎日が訪れ、同じ毎日が終わる。
民生委員の男は、低所得者の女がパチンコ中毒と知りつつも、生活費を支援する。
生活福祉資金貸付制度の必要性と認可基準、更には民生委員の在り方を考えさせられる。
女には離婚した夫が居る。
夫は不測の事故で両腕を失い、障害者年金で施設に入って暮らしており、女は別れた夫は幸せだと言う。
うつ伏せのまま動かない男は、円外から自転車で迎えに来る妹に、運動する機能が停止して朽ち果てていく人間の死について語る。
失った両腕、動かない身体、人との触れ合いは二度と叶わないとの考えは、物の見方を変えることで意外と変わるものである。
劇中で話される妖怪「赤えい」は、江戸時代の奇談集に記された巨大なエイの怪物で、全長12km以上の巨体は島と見間違うほどあり、島と勘違いした船乗りたちが上陸すると、たちまち海中に沈み人々を溺れさせてしまう。
アカエイは実在し、本来の体長はせいぜい2mで、普段は砂底に身を潜らせている。
別名を「傾城魚」と言い、この名称からアカエイには背に城を載せるほど巨大なものがいて、突然海中に沈んで背の城を傾けると言う伝説が生まれたのかも知れない。
「赤えい」は背に溜まった大量の砂を払い落とすために、時おり海面に浮上するのだが、その巨大な魚が現れる際には、海底から雷鳴のような轟音が響き、大波が起こると言われた。
舞台上の大きな円は、首をもたげたエイのように見え、円内つまり赤えいの背中の上で同じ時を繰り返してきた死者たちの時間も、やがてゆっくりと動き出す。

episode3「病院のそばの公園で」
2作目と同様、白い円は生と死の境界線として存在するが、内外の世界は反転し、円内が現実世界となる。
「例えば、全部、嘘やねん」
バイク事故で入院中の男が発する第一声の台詞に、この作品は集約される。
全てを架空の出来事として、(括弧)の中に入れて置くゲームが始まる。
ミュージシャンである男には恋人が居て、見舞いに訪れた彼女が連れてきた友人から、駅前に建設される葬儀会館建設反対の住民運動の応援歌を作って欲しいと頼まれる。
山間部にあるその町は、太古の昔は海であり、その地域には地面の下に大きな「赤エイ」が眠っていると言う伝承がある。
葬儀会館建設問題と絡めて、男の口からこの作品の本質が語られる。
死を隠してはいけないこと、死を絶えず意識することで生あるものを愛しく感じ、大切な人が亡くなった時にも、その人の死ときちんと向き合えば、それを乗り越えらるのではないか。
やがて友人は、自分が昔その地にあった遊園地の観覧車に巣を持つツバメで、かつてその地を襲った地震で観覧車が傾き、巣から落ちた自分を救ってくれたのは、まだ幼かった頃の男の恋人であったこと、その時の手が、とても温かだったことを告げて立ち去る。
ようやく二人の括弧を外す時が訪れた。
バイク事故の時、その後部座席に座っていた恋人は事故で亡くなったのだ。
彼女は死んだ自分自身を受け止め、男は恋人の死と向き合う決意を固め、二人は手を繋ぎ、別れを告げるのだ。


この作品の成功は、舞台美術を担当した岡氏の発案と、脚本の世界観を舞台上で融合させた中村氏の演出の手腕あってのものだ。
3つの脚本はどれも関西弁で描かれており、3話目に登場するミハラダイが全3話に共通する舞台であろう。
1話目で葬式のあった葬儀会館は、3話目に建設反対の住民運動が起こった葬儀会館であろうし、2話目で水死した人たちは、ミハラダイの地中に眠る赤えいが目覚め、海中に潜った後の世界かも知れない。
拡大解釈するならば、世界一の地震大国である日本は、赤エイそのものであり、国土となる巨大な傾城魚の背中の上に築いた全ての建造物や人工物は、砂上の楼閣に等しく思われる。
我々はこんなにも危うい地の上で暮らしている。
だからこそ多くの死と、きちんと正面から向き合わねばならない。
人と人との関係を、しっかりと見据え、問題に目を背けず、生きて行かねばならない。
触れ合える手を持つ者は幸いである。
その手は常にあたたかい。


追伸