7/30(日)HPF2017
咲くやこの花高校
『放課後失踪クラブ』
作・演出/金本大樹
@一心寺シアター倶楽

舞台中央の奥には両側から階段で昇り降りする高さのある小舞台、作者(ではないが)がイーゼルに立てた画板に絵を描く自室となる。
高台の下はマンホール大に丸くくり抜かれていて、その穴は舞台奥へと続いている。
下手奥には小舞台より更に高い電柱が建てられ、その前と上手奥には乱雑に椅子や机が積まれていてゴミ溜めのようだ。
但し以上の舞台美術は、開演するまで舞台前に立てられた白い壁で隠されている。
壁は5枚の高い白パネルを繋げたもので、オープニングでスクリーンとなり、オリジナルのオープニング曲の歌詞が映像で映し出される。
オープニングの後、白壁は唐突に倒され、件の美術が現れるのだ。
装置も仕掛けも実に良く出来ている。
そのまま劇団として旗揚げしても大阪の小劇場で活躍する若手劇団に引けを取らない。
照明も音響も技術的には高校生以上で、まずはこれを誉めておきたい。
その内容はすこぶるアナーキーで70年代後半から80年代のアングラ臭が漂う。
実際に彼らが見たはずもない寺山修司の模倣にも思える。
構成的には咲くやこの花高校の学内劇団で既に卒業した「べろべろガンキュウ女」そのままで、その影響が窺える。
まぁ「べろべろガンキュウ女」も「がっかりアバター」の洗礼を受けた劇団なので、元を辿っても仕方がない。
演劇部の稽古場として始まった舞台は、マンホールの下に広がる地下世界へと姿を変え、そこに棲むと言う怪物を殺しに行く辺りは、怪物を創り命を与える古屋兎丸「光ライチクラブ」の真逆を突くあざとさで、更に舞台は地下にある演劇劇場へと変容する。
そこでは面白いと信じる芝居が上演されているにも関わらず、顔を白く塗った高圧的な2人の女が、つまらない、やめてしまえ、死をもっとデリケートに扱えと、罵声を浴びせるのだ。
そして舞台装置にブルーシートが被せられ、白い壁が再び立てられて、舞台は閉じられてしまう。
ついに創造者は白壁に大きく「演劇なんか やめちまえ」と書き殴り、急速に暗転して劇終する。
そのメッセージは誰かに当てられたモノか、はたまた自己に向けられたモノかは明かされないが、暗転中に演劇が大好きなのだと発して、本当の劇終が訪れる。
70年代に生まれたアングラ演劇が反体制的でアナーキーな存在であった頃、アングラ演劇から派生した「此処(ここ)ではない何処(どこ)か」へ向かう芝居が流行った頃があった。
社会や規範から逃走し、真の自由を目指して、演劇に拠り所を求める芝居が多く演じられ、今の小劇場の基盤を築いたのだ。
彼らはあの頃の私たちそのモノである。
体制からはみ出した若者が自由を探して演劇に辿り着いたら、それは違う、ヤメておきなさいと、年長の演劇人に叱られたら、彼らは何処に行けば良いのか、何を目指せば良いのだろう。
表現は本来、特定の誰かを傷つけるモノでなければ、何をどう表現しても良い筈だ。
それが我々が目指した演劇ではなかったか?
ここまで書けば、誰にもあらゆるメタファーが紐解けると思う。
社会に属さぬ自由人のホームレスが、ミンミンと喧しいセミを食べてしまう場面を思い出す。
実に痛快ではないか!

追記
私が見た本年度のHPF作品の中で、咲くやこの花高校の公演パンフレットが最も良く出来ていた。
構成や配役とスタッフの記載までが行き届いている。
何よりも衣裳の[しょう]の字が、衣装ではなく衣裳なのが、正しい演劇用語を解っていて嬉しい。
衣裳は、上半身に着る[衣]と、下半身につける[裳(も)]の意からなる日本古来からの正しい使い方で、常用漢字に[裳]の字がないため、意味の異なる[装]の文字が当てられたもので、慣例として映画や舞台では今も衣裳の文字を使う。
現代では衣装の文字が一般的になったが、演劇における衣裳は衣裳以外にはなく、衣装の文字を用いるのは誤用である。
英訳すると判りやすいが、衣装はclothesで、衣裳はcostumesに訳される。