5 金熊川上流に医王谷と呼ばれるエリアがあります。医王谷には曽山、小田谷、槍平、鹿籠そして桑梨の集落がありますが、今回紹介する桑梨を含め、曽山以外の集落はいずれも廃村になっており、静寂の谷といえます。

 桑梨集落は北桑梨と南桑梨に分かれていましたが、現在の地形図では「桑梨」として表記されています。

 江戸期は切久保村の枝郷として、ある程度の人口を擁し、昭和25年には15世帯103名(男42名、女61名)が在住していましたが、集落移転事業により、昭和51年全世帯が梨平集落へ転出しました。

 なお、桑梨集落の薬師堂は大塚小学校の分室として使われ、桑梨集落の他、槍平、小田谷、鹿籠、谷田川集落の子供たちが桑梨に集まり、学んでいたといわれています(2009年12月訪問)。

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 桑梨集落に至る道。
 かつては、自動車の通行も可能だったのでしょうが、廃村と化した今は道なき道を辿ることになります。

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 西の窪集落の記事でも紹介した飯綱神社は西の窪集落と桑梨集落を隔てる稜線上にあり、桑梨集落の産土神社でもありました。
 永正3年(1506年)に信州飯綱山飯綱宮から分祇されたものとされています。
 祭日は新年祭(1月1日)、春まつり(4月24日)、雹祭(6月5日)、風祭り(8月25日)、本祭り(9月27・28日)、秋祭り(10月8日)。これらのうち、本祭りは神楽が繰り出す大イベントでした。
 また、新年には筒粥神事(筒粥占い)が行われていました。
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 北桑梨にある薬師堂跡(・・・だと思います・・・)。
 3月、9月の彼岸の中日にお参りをしました。家内安全、無病息災のご利益。かつて、大塚小学校の分室として使用されていまた。金熊二十八番札所。 
 周辺にある古い集落の子供たちが集まり学んだのも100年以上前のことです。
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 ほぼ全壊に近い家屋。
 ここにはどんな人が住んでいたのでしょうか?、おそらく西の窪集落と同様に飯綱山城の番兵の末裔がこの集落に定着したものと思われます。

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 土壁の家がどのように建てられたのか?、いろいろとよくわかる写真です。

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 金山神社跡(だと思います)。
 祭日、行事不明。

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 また、桑梨地区にはこのほかにも以下の信仰施設がありました。

1 戸隠権現社。
 飯綱神社近くの山中にあります。祭日は8月7日で神楽などを繰り出すそれなりの規模のある祭りでした。
 また、西の窪集落と共同で「エエ祭り」なるものを行ったとのことですが、祭日はよくわかりません。

2 諏訪社・荒神社
 南桑梨にありました。祭日、行事不明。跡かたもないと思われます。

3 疱瘡神社
 飯縄神社が祀ってあった場所にかつてありました。祭日は特に決まっていませんでした。


 桑梨集落の墓地。

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 他の墓地の墓石には「天保13年」の文字が刻まれていました。
 天保13年(1842年)と言えば、日本では水野忠邦による「天保の改革」が行われていました。太平のオリが溜まった江戸の末期・・。制度疲労した日本を内部から立て直すという水野の試みは翌天保14年にとん挫しました。
 また、アヘン戦争が終結し南京条約が締結されたのも1842年です。

・・・・・こう書くと、この時代は不幸なものと思われがちですが、桑梨のような信州の片田舎ではお気楽で結構幸せだったのではないか?、と思います。天保の飢饉が終わり、締め付ける幕府の力も疲弊し、自由で食べ物がそれなりにある平和な時代だったのではないでしょうか?。
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