
訪れたのは旧八坂村(現大町市)の槍平。
槍平は1627年(寛永4年)に開拓された集落で、当初は「槍平新田村」と称されていました。
1627年といえば、徳川3代将軍「家光」が将軍職を継いで4年目、前年暮れには偉大なる母「江(崇源院)」が逝去しています。
昭和25年の調査によると、10戸62人(♂29人、♀33人)が居住、隣接する小田谷と合わせると150人強が居住していました。
また、昭和28年4月20日には、4戸15棟が全焼する大規模火災が発生した記録があります。
そして、1976年(昭和51年)、集落移転事業により、350年にわたる槍平集落の歴史に幕が閉じてしまいました・・。
(探索レポート)
槍平は3年前に訪れたことがあります。前回の探訪は雪のない晩秋。
集落入口近くにある見覚えのある屋敷も雪を纏うとずいぶん印象が異なります。
3年前に撮影した屋敷の内部。
転がされた大きな木樽が寂しさを醸し出しています。
雪をかきわけ、集落の下部にある大きな屋敷につきました。
玄関前に水道とシンクが置かれた印象深い屋敷でしたが、今回訪れると崩壊していました。
3年前に写した同じ屋敷。このときは半壊状態でしたが、なんとか耐えてたのに残念です・・・・。
同じくこの小屋の3年前の姿。
現在はペシャンコになってしまいました・・・・。
そして、もと来た道をたどり、集落入口にある「神明社」を目指しました。
神明社は槍平集落の産土神社で、周囲にはたくさんの石造文化財が鎮座しています。
下の写真は丸彫りの弘法大師坐像。
大師様は優しい顔で長年にわたりこの集落を見守ってきましたが、今となっては住人の姿はありません。
無雪期の神明社入口。
神明社の拝殿は倒壊し、現在は本殿が残っています。本殿には常夜燈と石祠が安置されています。
この本殿は明治39年に建てられたものです。毎年、9月の日曜日にはお祭りが開かれていたようです。
文殊菩薩像。
ご存じ、学問の神様ですが、路傍の石仏としてはあまり見ない神様です。槍平集落には文殊菩薩像が3体もありますが、その設置理由について私は知りません・・・。
庚申塔と二十三夜塔。
そして、この大きな大黒天がこの集落のランドマークかもしれません。
倒れてしまっている馬頭観音像。
槍平集落には「八坂村槍平部落地籍旧大町新町街道の傍に六地蔵が建てられてある。昔ここへおばけが出て村人を驚かして困ったので村人が集まって相談したところ、ある人が六地蔵を建てるとおばけが出なくなるといたので、みんな大賛成で六地蔵を造ってそこへ安置した。するとその後は決しておばけが出なくなったという。」
・・・・・という伝説がありますが、この伝説に出てくる六地蔵の石造は残念ながらありません・・・・。
350年の歴史に幕を閉ざした槍平集落・・・・。その集落の記憶が残された多くの石仏やお化けの伝説とともに末長く語り継がれていくことを願います・・。
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槍平はいちどだけいった「通過した」事があります、
この極寒の中、強行軍でしたね。
それにしても写真のストックがすばらしい。
歴史に残るショットばかりですね、是非過去の
制覇場所も数年たってどうなったかを納める必要が
ありますね。
例の入山分校も、裏山の探検隊さんは崩壊後の
写真ですが、私は崩壊前の姿を納めています。
関係ない話
槍平は八坂から美麻にぬける道から入れたのですが、
入り口の少し北の美麻寄りに駐車場みたいなところがあり、
冬場、車を止めて付近を散策していたら、除雪車がきて
「ここは除雪車のUターン場所だから駐車するな」
と不機嫌そうな声で注意を受けました。それだったら
その旨の看板出すとか、もうすこし丁寧な説明をしろと
大町建設事務所に抗議してやろうと思いましたが、
しっかりと除雪車に委託先の土建屋の名前が書いてあったので、
上位のゼネコンの知人に「***は使うな」と文句を
言ってやりました。
田舎山奥の土建屋はこれだから困ったものです。