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24 昔、新潟県と山梨県が大戦争した時、人のいい長野県は戦場を提供するだけで、右往左往していました・・・。

 という冗談は置いといて、戦国時代、武田と上杉が激闘を繰り広げましたが、地理的に両雄の間にある「戸隠神社」はどちらの勢力に組するか逡巡しました。

 当初は上杉勢に加担していた戸隠神社ですが、武田側に寝返り、謙信の逆鱗に触れ、存亡の危機に陥りました。
 
 永禄7年(1564年)、謙信の復讐を恐れた戸隠衆徒78名は武田方の武将である大日方氏を頼り、小川村筏ケ峰に避難しました。

 筏ケ峰にも奥の院、中院、宝宝院を作り、文禄3年(1594年)までの30年に渡り、筏ケ峰の避難生活は続きました・・・・。

 数奇な運命を感じさせる筏ケ峰は現在、ただの原野と化していますが、そのような歴史とロマンあふれる筏ケ峰には人知れず廃村集落が眠っています。
 
 それが、今回訪れた「栗尾」です。
 

探索レポート

 栗尾の航空写真。集落名の記載はあるものの、森林に深く覆われています。 


大きな地図で見る

 筏ケ峰は現在、地図上では「筏ケ原」と記載され、一帯は長野県の「史跡」に指定されています。 「史跡」だけあって、立派な看板も設置されています。

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 かつて奥の院のあった場所には木の祠が設置されています。この辺りは恐ろしいほどの山奥で、30年に渡り避難生活をした戸隠衆徒78人は苦悩の日々を送ったのかもしれません。
 なお、戸隠衆徒をこの地に案内したのは立屋村の「和田斧右衛門」という名の男性です。

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 文禄3年(1594年)、上杉景勝により、戸隠は復興され、避難していた衆徒たちは帰山することが叶いました。そして、帰山した際、筏ケ峰に燈明番として三戸を残したと言われています。ひょっとすると、かつての栗尾の住人は残された燈明番に由来するのかもしれません・・・。もちろん、確証はありませんが、そう考えるとロマンを感じます。

 奥の院から目と鼻の先に廃屋が残されています。
 写真は風呂跡・・・。 

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 上の家屋のほか、草に埋もれかかった小路を進むと、緑に覆われた廃屋が見つかりました。

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 2階建ての家屋・。
 美麻や八坂で見られる廃屋と少し趣が異なります。小川村は美麻や八坂ほど積雪が多くないという理由により、このようなスマートな家屋になったのかもしれません。

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 郵便受け・・・・。
 栗尾集落の祖先は避難してきた戸隠衆徒だったのか?。想像すると楽しくなってきます。小川村高府にある仏性山金剛寺は、現存しているようですので、次回は訪れて戸隠のことも聞いてみようと思っています。

 なお、筏ケ峰についてはこちらのサイトに詳しく書かれていますので、興味のある方は御参照ください。

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