
その近くには戦国時代の「大野田城」があり、集落名は山城の名に由来するもので、住人の祖先はこの山城の番兵だったと推測されます。
太ノ田は大変山深いところにある集落ですが、周辺地域は昭和の初めごろまでは、山間に多くの集落が散在していました。
しかし、昭和30年代から40年代の高度成長期に、太ノ田含む多くの集落が「挙家離村」という形で失われてしまったのです・・・。
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(レポート)
・・・・実は以前もこの集落を訪れようとしたことがあり、道迷いをしてしまうという失態を犯してしまいました・・・。
現在の地形図では集落の記載は一切なく、地図の空白地帯となっています。太ノ田集落は極限られた人が知る秘境と言えるかもしれません。
太ノ田に至る道中には「大野田城跡」があります。戦国時代の山城で、大町から高地地区に至る街道を監視するのが目的だったそうです。
昔、この城で戦になったとき、馬の背に白米を流し、遠くの敵に城内は水が豊富であると勘違いさせた・・・、という言い伝えが残っています。
城跡の「土橋」は細く、厳しい地形であることがわかります。

太ノ田の墓地に到着・・・。

墓石に遺された家紋はカタバミです。

墓石に彫られた兎の紋様が実に美しく、見惚れてしまいます。優れた石工の仕事ですね。

そして、墓地から谷に降りると、すぐに太ノ田集落に到着しました。
集落内には3軒ほどの家屋があったと思いますが、建物はすべて倒壊し、平坦地には生活用品が散乱しています。

電柱の跡。
中部電力の標識には「太ノ田」の文字が遺っています。集落があったことを証明する大切な証拠と言えるかもしれませんね。

平坦地に遺された釜・・・・。

太ノ田のような謎を秘めた廃村集落が点在するこの地域・・・、過疎化の波は今も続いています。

墓地に遺されていた石造文化財はバラエティに富んでいます。
以下は、供養塔。

供養塔は霊場参拝を記念して建立されることが多いようですが、嘉永年間の日付が記されています。

青面金剛と三猿が彫られた趣のある庚申塔です(写真は2012年秋撮影)。宝暦四年(1754年)と彫られています。
江戸の中期にあたるものですが、廃村で見られる石造文化財の中ではかなり古いと思います。ほんとでしょうか?。

今年の春に訪れると、この庚申塔は倒れていました。重い石仏でなので、一人で起こすパワーもなく、残念ながら放置してしまいましたが、修復してできるだけ長く遺したい石造文化財です。

最後に、1970年代の太ノ田を写した航空写真です。今回訪れた場所(左上)の南東方向にも家屋が見えます。次回、訪れることがあるならば、探検してみたいと思っています。
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