かせっとB面寺 - サブカル系インターネット寺院

★サブカルチャー仏教法話&アイドルファンアートblog. --- buddhist kidz tokyo.

■寺院案内(はじめに)

かせっとB面寺
若いピーポにも仏教を身近に感じてもらいたいと書き始めた、様々なカルチャーから仏教を
読み解くサブカル法話が満載の、いま最もキてるインターネット寺院。(a.k.a.ブログ)

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真宗大谷派僧侶。イラストレーター。インターネット寺院「かせっとB面寺」住職。(...ブログ管理人)
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HIPHOP法話「この世界は故郷であり戦場 - ”自分が投影した影に怯えて暮らす”」



ここは俺の故郷であり戦場
(MACHEE DEF / City Boy's Revenge)


こんばんわっさ、ゆあ(UR)です。
HIPHOP法話を始めて早いもので
もう二年以上が経ちました。有難うございます!

さて、そんな今回のHH法話は

MACHEE DEF / City Boy's Revenge

の一節から感じたことを法話として
書かせて頂きたく思いmass。

2017022000
get!

ここは俺の故郷であり戦場
(MACHEE DEF / City Boy's Revenge)

ところで、僕たちが生きているこの世界のことを
仏教では”サハー”と呼びます。

まさしくここは、様々な苦しみ(思い通りに行かないこと)に
耐えていかなければいけない”世界です。

「戦場」と言い換えても違和感がないかもしれません。

このサハーを音写すると、”娑婆(しゃば)”となります。
この娑婆という名称のほうが馴染み深いかもしれませんね。

そんな”故郷”であり、”戦場”でもあるこの娑婆世界。

僕たちはこの世界をどう生きていけばよいのでしょうか。

原始経典のことばを取り上げてみていきたいと思います。

2017022001

戦場において百万人に勝つよりも、
ただ一つの自己に克(か)つ者こそ、
実に最上の勝利者である。

(ダンマパダ・103)

仏教はこの娑婆世界を「苦」と捉えます。
仏教でいう「苦」とは、苦痛や苦労ということだけではなく、
「思い通りにならない」ことを指します。

「苦」「思い通りにならないこと」
「思い通りにならないこと」「苦」

ということです。

娑婆世界は、自分の”思い通りにならない”世界です。

では、なぜ”思い通りにならない”のか。

お釈迦さまはその原因を外部ではなく、
自分自身のなかに求めました。

自分自身に由来し、迷いの生存にみちびく
素因によって顕示された矢。

ーこれらを休止させるために、
最上の道を説き示された。

(テーラガーター・767)

自分の”まわり”に、自分を苦しめる「百万の軍勢」が
いるわけではありません。

この世界に「苦」が満ちていて、
世界のほうから「苦」が自分に向かってやってくる
ということではないのです。

「この私」の行動、思考、心の活動によって
「苦」が「苦」として、自らに降り注いでいるわけです。

ですから、この”戦場”において立ち向かうべき相手は
己自身に他ならないわけです。

我々は自分の都合を投影して
他者や物事を認識しているというわけだ。

自分が恐怖を感じている他者は、
その人が笑っていても怖い。

嫌いな人物は、声を聞くだけでも
胃が痛くなる。

自分が投影した影におびえて
暮らしているのである。

もし、それが虚構だとわかれば、
その後ろにある宝物を手に入れる
ことができる。

(釈徹宗 / 「落語に花咲く仏教 - 宗教と芸能は共振する」朝日選書954)

hiphophohwa2017

自ら「苦」を生み、自ら放出し、自ら吸収しているのが
僕たちの姿であるといえるでしょう。

自分がつくり、自分から生じ、自分から
起こった悪が智慧悪しき人を打ちくだく。
ー金剛石が宝石を打ちくだくように。

(ダンマパダ・161)

僕たちは、”自分によって”打ちくだかれぬよう
励んでいかなければいけません。

人間は分別心(ふんべつしん)があるために、
どうしても仮構(かこう)された世界に生きており、
その世界が現実であると勘違いしています。

腹がすいているときには、石ころが
饅頭に見える道理です。

それが、次第にものが正しく見えるようになれば、
他人の気持ちがわかるようになり、
慈しみの心が深くなります。

我執(がしゅう)が崩れはじめると、
外境や他者と素通しとなり、
自然に世界を受け入れ、
愛するようになるでしょう。

利己的自己を挫けば
自己のアイデンティティー(独自性)が
なくなると思うかもしれませんが、
全くその反対です。

利己という名のカラには
もともと独自性などありません。
人間的な癖があるのみです。

近代的な自我は
個のオリジナリティ(独創性)を
強調しますが、行きすぎは、迷妄であり、
はた迷惑であります。

(中村元・田辺祥二 / 「ブッダの人と思想」NHKブックス)

この己の認識の”カラクリ”に気がつくことで初めて、
自らが投影する影の向こうの生きる世界の本当の大きさ」に
身をゆだねて生きていくことができる、その第一歩を
踏みこむことが出来るのではないでしょうか。

ここは俺の故郷であり戦場
(MACHEE DEF / City Boy's Revenge)

苦が満ちる”戦場”ではなく、いのちの”故郷”としての
娑婆に目覚めていくということです。

この世界の真実の広さを、お経のことばは
僕たちに伝えてくれているはずですね。

みずから悪をなすならば、みずから汚れ、
みずから悪をなさないならば、みずから浄(きよ)まる。

浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。
人は他人を浄めることができない。

(ダンマパダ・165)


合掌

twi2017

HIPHOP法話「”夢の告げ”の先に - ”夢を追うならマジでRUN & GUN”」



夢を追うならマジでRUN&GUN
(サイプレス上野とロベルト吉野 / 「RUN AND GUN」 feat.LEON a.k.a. 獅子, DOLLARBILL)

2017020900

こんばんわっさ、ゆあ(UR)です。

本日のHH法話は

サイプレス上野とロベルト吉野 / 「RUN AND GUN」 feat.LEON a.k.a. 獅子, DOLLARBILL

のラインから僕が感じとったことを法話として書かせて頂きたく思いMASS。

カッケェー!

hiphophohwa2017

親鸞聖人(1173~1263)という、
浄土真宗をお開きになったお方がいらっしゃいます。

僕はRUN AND GUNを聞きまして、
親鸞聖人が見た”夢”のことを思い起こしました。

それは京都の「六角堂」(ろっかくどう)にて、29歳の聖人が
百日間の参篭(さんろう)をしていたときに受けた夢の告げ、
夢告(むこく)のことです。

どういうことなのか、順を追ってみていきたいと思います。


・六角堂

親鸞聖人は9歳で出家してから、
比叡山での仏道修行に日々励んでいました。

しかし20年間修行を続けても、煩悩はいまだ存在し、
さとりを得ることが叶わないでいる。

青年であった親鸞聖人は、こうした自分のすがたに
悩み苦しんでいたようです。

比叡山から六角堂への百日参篭は
そうした状況のなか行われました。

六角堂は聖徳太子の建立と言われており、そして
親鸞聖人は日本に仏教を広めた聖徳太子のことを
とても敬っていました。

こうしたことから聖人は、参篭の対象として
六角堂を選択したのではないかと思われます。

人生の悩みのただ中にいた聖人は、
太子からの”言葉”を求めていたのではないでしょうか。

和国の教主聖徳皇 / 広大恩徳謝しがたし
一心に帰命したてまつり / 奉讃不退ならしめよ

(親鸞聖人 / 「正像末和讃」)

晩年になって詠まれたご和讃(わさん)でも
「和国(わこく)の教主」=「日本のお釈迦さま」だと
聖徳太子のことを讃えておられます。

2017020900

では本題の、聖人が六角堂で見たという”夢”について
お話させて頂きます。

それは百日参篭の95日目の暁(あかつき)の出来事でした。
※(”この時代の暁とは夜が明ける直前ではなく、真っ暗な時間帯を指す。
 - 小山聡子 / 「浄土真宗とは何か - 親鸞の教えとその系譜 」中公新書)


親鸞聖人の前に観音菩薩が現れ、
聖人は”夢告(むこく)”を受けたのです。

その内容は、


行者宿報設女犯   

我成玉女身被犯   

一生之間能荘厳   

臨終引導生極楽
 


もしあなたが女性と交わることがあるなら、
私、観音菩薩が美しい女性となり、相手になりましょう。
そしてあなたの人生を一生のあいだ荘厳して、
臨終のときは、あなたを極楽浄土へと連れて行きましょう。

※僕の意訳です。

といったものでした。

分かりにくい箇所があるかもしれませんが、
このことが言わんとしていることは、

僧侶のあなたが「結婚」という戒律破りをしたとしても、
(つまり、さとりを得ることができなくても)
『あらゆるいのちを救う』という阿弥陀仏の願いは
あなたを捨てることはありません。


ということになるのではないかと思っています。

hiphophohwa2017

この夢告は「女犯偈(にょぼんげ)」等と呼ばれています。

「女犯(にょぼん)」というワードにびっくりするかもしれません。
僕も学び始めた当初はびっくりしました。

「女犯」とは、平たくいうと「結婚」のことです。

「結婚」することが、聖人にとっては「女犯」になる。

なぜならそれは聖人が”僧侶”であるからです。
結婚するということは、戒律を破ることになるわけですね。

このことについて、仏教研究者の源淳子氏の
言葉を引いてみます。

親鸞が女性と交わることは犯すことになる。
なぜ”犯す”なのか。

仏教の修行のあり方を破ることになる
からである。

出家とは性交しないことであり、
僧とは女犯していないことの証明であった。

(二葉憲香・編「浄土真宗の祖 親鸞 」新人物文庫)

また、当時の仏教界の様子についても
このように述べておられます。

しかし、仏教の流れの中で、
仏教の発祥地インドでは五世紀になる前に、
すでに僧の妻帯がおこなわれていた。

日本においても、親鸞が生きた鎌倉時代では、
僧の妻帯は珍しくなかった。


時代は、親鸞が妻帯して悩まなくても
不思議ではなかった。

しかし、「女犯の夢告」をみる限り、
親鸞は仏教者としての自覚をもち、
苦しみ悩んだことがうかがえる。

(二葉憲香・編「浄土真宗の祖 親鸞 」新人物文庫)

hiphophohwa2017

聖徳太子は観音菩薩の化身だといわれています。
ですからこの「観音菩薩から受けた夢告」は、聖徳太子を敬う
親鸞聖人にとって、とても大きな支えとなったはずです。

救世観音大菩薩 / 聖徳皇と示現して
多々(たた-父-)のごとく すてずして /
阿摩(あま-母-)のごとくに そいたまう

(親鸞聖人 / 「正像末和讃」)

観音菩薩は聖徳太子となってこの世に現れ、
父のように私を見捨てず、母のように私に寄り添ってくださいます。


聖徳皇のあはれみて / 仏智不思議の誓願に
すすめいれしめ たまひてぞ /
 住(じゅう)正定聚(しょうじょうじゅ)の身となれる

(親鸞聖人 / 「正像末和讃」)

聖徳太子が、迷っている私をあわれんで
阿弥陀仏の本願に導いてくださったので、
私は「必ずさとりが得られることが約束された位」に住む身となれます


※僕の意訳です。


2017020900

この六角堂での出来事によって
聖人は二十年間修行してきた比叡山を下りる決心がつきました。

それは、

【自分のはからいによって、さとりを得ようとする道】

からおりるということでした。

仏道を歩むのを止めてしまったということではなくて、

阿弥陀仏の救いにあずかる【浄土の道】
この”道”を、私は歩んでいこう。

と、自身のありかたが翻(ひるがえ)って、
定まったということでしょう。

そして山を下りた聖人は、貴族から民衆まで、
身分を超えたすべての人々に【浄土の道】の教えを説いていた
法然上人のもとへ向かったのです。

hiphophohwa2017

夢を追うならマジでRUN&GUN
(サイプレス上野とロベルト吉野 / 「RUN AND GUN」 feat.LEON a.k.a. 獅子, DOLLARBILL)

親鸞聖人は、六角堂での”夢”を追いかけました。
それはまさにRUN&GUN、”速攻”の勢いであったかもしれません。

そしてその”夢”を追いかけた先には、法然上人がお待ちになっていました。

法然上人こそ、親鸞聖人にとってのちの師となるお方です。

”夢”の先で、師と、阿弥陀仏の教えに
出あうことができたのです。

その喜びはどれほどのものであったでしょうか。

2017020900

また、親鸞聖人は自分ひとりの救いに
埋没することはありませんでした。

どういう意味かと言うと、今度は聖人自身が人々に
【浄土の道】の教えを説いて伝えていくわけですね。

インドから中国、そして日本へと阿弥陀仏の救いは
時間と空間を超えて伝わってきました。

それが法然上人に届き、そして聖人にも届いたのです。

この「教えのリレー」と途切れさせてはならない。
そう思ったに違いありません。

なぜなら、仏の教えは”苦しみ悩む人々”を
救い上げるためにあるからです。

苦しみ悩んでいる人がいるのに、
そのひとたちを放っては置けません。
伝えていくことは、教えに出あった者の役割です。

いま僕が親鸞聖人の言葉や、浄土の教えに
出ああうことができているのは、ずっとそういったリレーが
僕まで相続されてきたからですね。

親鸞聖人の追いかけた”夢”の先、未来には
現代に生きる僕たちがいたのです。

そして、今度は僕たちが
この”夢”をつむいでいく出番なのでしょう。

そのように感じております。


合掌

ここに愚禿釈(ぐとくしゃく)の親鸞、慶(よろ)ばしいかな、

西蕃(せいばん)・月支(がっし)の聖典(しょうでん)、
東夏(とうか)・日域(じちいき)の師釈に、

(あ)いがたくしていま遇うことを得たり、
聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。

真宗の教行証を敬信して、特(こと)
如来の恩徳(おんどく)の深きことを知りぬ。

ここをもって、聞くところを慶び、
(う)るところを嘆(かん)ずるなりと。

(親鸞聖人 / 「教行信証」総序)

twi2017

アイドル法話「仏の裸足の足あと- ”仏の悲願を踏んづけている我が身”」



裸足になってどうするつもり? /
そのままどこかへ歩いていくの?

(乃木坂46 / 裸足でsummer)

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こんにちは、ゆあ(UR)です。

今回のアイドル法話は

乃木坂46 / 裸足でsummer

の一節から僕が感じましたことを
書かせて頂きたく思います。

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あしゅ鬼かわいい。



20170207

最高か・・・。



さて、仏陀を表現する際のシンボルとして
「足」が用いられることがあります。(突然の法話)

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(写真引用:wikipedia「仏足石」より。パブリック・ドメイン)

これは「仏足石(ぶっそくせき)」といい、お釈迦さまの
歩まれた”足跡”を石に刻んで、礼拝(らいはい)の対象と
したものです。

そのことからか、「仏足跡」という表記もみられます。

なぜ仏教徒たちはお釈迦さま、仏陀の「足」を
礼拝したのでしょう。

まず、「足」の意味するところから
みていきたいと思います。

僧侶の神戸和麿氏は次のようなお話をされています。

私たちは日ごろ、
「足」
の有難さということは
思ってもみない。

足は縁の下の力持ちである。
そして足の下には大地がある。

生きとし生けるものの命があり、
悲しみがあり、恩恵がある。


そしてこのように続けておられます。

十方衆生(あらゆるいのち)を摂して
自己とする仏の悲願を踏んづけているのが、
我が身ではないか。

(神戸和麿 / 「歎異抄に聴く -本願の生活者」東本願寺出版部)
※カッコ内は僕の注釈です。

僕たちは足元に広がる大地を踏みしめ、
支えられ、生かさせて頂いています。

しかしそのことを普段は忘れがちです。

自分中心的な考え方で生きています。
これは、自己のいのちを支えてくれている大地を
踏んづけている生きかたと言うことができるでしょう。

idolhohwa2017

それでは、お釈迦さま、仏陀も、僕たちのように
大地を踏んづけて粗暴に歩いていたのでしょうか?

そうではありませんよね。

仏さまの歩まれる道は、
”自分だけかわいければいい”という
自我の暴走を超えた道です。

【みなと「共に」生きている、生かされている自己】に
目覚めた(気がついた)ところに、仏さまの歩んだ大地は
あるでしょう。

裸足になってどうするつもり? /
そのままどこかへ歩いていくの?

(乃木坂46 / 裸足でsummer)

「仏足石」は、”仏陀が歩んだ道”につく足跡を
表現しています。

その足跡を辿ることで、僕たちは仏さまの歩み、
しいては生き方というものに触れることができます。

そのとき、いまの自分の姿が問われてくるのだと思います。

如来の本願の光、阿弥陀如来の
摂取不捨(せっしゅふしゃ)の光の中で
もう一度見直すと、

「ここはここじゃないか」と思っていた
私どもの足元、生活の現場というものを、

いかに自分の勝手な思いで穢していたか
ということに思い当たるわけです。

(弧野秀存 / 「浄土往生の道」東本願寺伝道ブックス70)

「仏足石」を通して僕たちがみるのは、仏さまの
肉体的な姿ではなく、”仏さまの歩まれた大地”なのでは
ないでしょうか。

「仏足石」は仏さまの生き方を示します。
僕たちはそれを受け取り、そして自身のあり方を
問うのです。

共に生きるという言葉は知っていても、
実際にそうなるということは
そう容易なことではありません。

でも、だからこそ「共に」という世界が
願われているのだと思います。
” -藤場芳子
(東本願寺 / 「大きい字の法話集」東本願寺出版部)

「お浄土は平等の世界らしい」と
聞くのではありません。

平等ということを教えられていても、
そうならない私がいる。

そのことが見えたときに初めて、
一歩一歩教えに導かれて歩んで
いかなければいけないということが、
はっきりするのです。

(一楽真 / 「この世を生きる念仏の教え」東本願寺伝道ブックス64)

裸足になってどうするつもり? /
そのままどこかへ歩いていくの?

(乃木坂46 / 裸足でsummer)

お釈迦さまはその王位を棄(す)て、
「裸足」になって出家し道を歩まれました。

そのお釈迦さま、大乗仏教の仏さまの”裸足の歩み”を、
僕も頂いていきたいと思います。


合掌

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