見栄やプライドの鎖に繋がれたような / つまらない大人は置いていけ
(欅坂46 / サイレントマジョリティー)

blogひらてちゃん

こんばんは、ゆあ(UR)です。
本日アイドル法話は、

欅坂46 / サイレントマジョリティー

のラインから僕が感じたことを書かせて頂きたく思います。

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見栄やプライドの鎖に繋がれたような / つまらない大人は置いていけ
(欅坂46 / サイレントマジョリティー)

『見栄やプライドの鎖に繋がれたようなつまらない大人』というのは、
そのように生きている「自分自身」のことだと、ここでは解釈させて頂きます。

無理をしながら生きている。無理をして「立派な大人」のように振舞っている。
本心とは真逆の指示であろうとも、「大人の対応」で従っている。

僕たちは、どこかでこのような息苦しさを感じながら生きているのではないでしょうか。

確かに「大人」であることは、社会人として大切な姿勢であると思います。
社会に生きるひとりひとりが「大人」であるからこそ、秩序は守られています。

しかしたとえば、「大人というのは、こうでなければならない」といった思いが強くなりすぎると、
それは「偏見」になり、視野を狭め、自分自身から思考と行動の自由を奪ってしまう
ことになりかねません。

そして視野が狭まるということは、他者への寛容のこころが持てなくなるということです。

つまり、なんでもかんでも自分を中心にして物事を考えるようになってしまうのです。
そうなると「自分の都合に合わないものは敵だ!」と言わんばかりに、心はすさんでいってしまいます。

「こうでなければならない」という枠から”外れた”人をみては、【お前は間違っている!】と、
怒りの思いに駆られてしまい、多様性を認められなくなってしまいます。

まるで鎖のように凝り固まった偏見は、自分自身をある一点に繋ぎとめ自由を奪ってしまうのです。
それによって世界の”広さ”に出あう機会も奪われてしまうでしょう。

2016idolhouwa

他の誰でもない、自分が自分自身を縛っているという状況はとても苦しいものです。
自己矛盾が重く圧し掛かり、身動きが取れなくなるからです。
つまり自分が自由ではないのです。

己のプライドが鎖のように自分を繋ぎとめてしまって、
本当に自分が行きたい場所に向かうこともできないのです。

ダンマパダというお経にこのようなことばがあります。

憎む人が憎む人にたいし、
怨(うら)む人が怨む人にたいして、
どのようなことをしようとも、

邪(よこしま)なことをめざしている心は
それよりもひどいことをする。

(ダンマパダ・42)

最後の文章は、

邪なことを目指している「自分の」心は、「自分」に対して何よりもひどいことをする。

という意味合いです。

自分で自分を縛って、繋ぎとめ、動けなくしてしまう。自分を苦しめてしまう。
自分の言葉、自分の行動、自分の思いは時として、自分を傷つける凶器になります。

2016idolhouwa

先述しました「偏見」も、そんな、自分を苦しめる「鎖」だといえると思います。

「偏見」とは、「ある一つの意見や価値観にこだわりすぎている」、そのような状態です。
凝り固まった考え方、偏った物事の見方のことです。

その極端な考え方によって、自身の行為もまた偏ったものになります。
AからZまでの選択肢があるのに、どんな状況でもかたくなにAしか選び続けない、
認めないようなものです。

Aというものに縛られ、身動きが取れないのです。

このような「鎖」はどうすれば外れるのでしょうか。
それはシンプルです。 この「偏見」を捨てることです。
偏った見方を止めることで、自己は自由になります。
何事も柔軟な姿勢で受け止めることができたなら、それは自分を苦しめる頑丈な「鎖」には成り得ないでしょう。

ですが、僕たちはなかなか「偏見」を捨てることが出来ません。
シンプル、単純なことですが、それがとても難しいのです。

たとえば自分で「あ、この自分の見方は間違ってるな」と気が付いても、意固地になってしまい、
己の間違いを認めたくありません。
間違いを認めるのは恥ずかしいし、何より自分が”負けた”気になるからです。
負けて、惨めな気持ちになってしまうのが嫌なのです。
”認めたくない”から、「偏見」を捨てることも出来ません。

なぜこのように僕たちは感じてしまうのでしょうか。

それは、「自分の意見」=「自分自身」だという思いがあるからです。

2016idolhouwa

「自分の意見」を否定されたら、「自分」が否定された気分になるし、逆に、
「自分の意見」を押し通すことができたら、「自分」が認められたり、”勝った”気分になります。
だからこそ僕たちは、必死になるわけです。

しかし、そもそも「自分の意見」=「自分自身」ということではありませんよね。
”勝ち”も”負け”もありません。それは僕たちが”勝手に作り出している実体のない幻”です。
落ち着いて考えてみれば、当たり前の事実です。

ですから、「自分の意見」=「自分自身」と考えてしまうのも間違った見方、「偏見」であり、
「思い込み」であり、自分を苦しめている「鎖」だということです。

「鎖」というのは、ひとつだけではなく、何重にも巻かれているものですね。
様々な鎖、「煩悩」が僕たちにはまとわり付いているのです。
このことに自覚的になれば、またちがった景色がみえてくるでしょう。

『これは「鎖」だ』と気づけば、いつまでもそんなものにこだわっているのが馬鹿らしくなります。
そうなると、肩の荷が降りたように、心身は軽くなるものです。
一呼吸置いて、そんなに必死になるな、意固地になるな、と「私」をなだめてくれます。
そこに少し、こころに余裕が生まれると思います。

そして余裕が出来ると、まわりに”うなづく”ことができるようになるのではないでしょうか。
そういう考えもあるよねと、他の意見を”受け入れる”スペースがこころに生まれるのです。

2016idolhouwa

自分中心主義で、我(が)を押し通すような生き方では、そのような余裕は生まれません。

「相手の立場になって考えてみる」。いろんな見方から”世界”を見てみる。
そうすることが出来たのなら、僕たちのこころは豊かに育ち、凝り固まった「鎖」も
外れていくのではないかと思います。

見栄やプライドの鎖に繋がれたような / つまらない大人は置いていけ
(欅坂46 / サイレントマジョリティー)

そのように「鎖に繋がれた大人」を捨て置いた人、「相手の立場になって考えることができる」ような人を
本当の意味での「大人」と呼ぶのではないでしょうか。

「鎖に繋がれた大人」の生き方は、冒頭で書いたように、息苦しさが付きまとうものです。
それは、まわりのためと言いながら、結局は自分のことだけを考えている生き方だからです。
常にまわりと”戦争状態”で、心身が休まるときがないのです。

「相手の立場」に立って物事を見ることができる人は、人間関係において
まわりと”戦争”をしない人です。その人のこころには安らぎがあるでしょう。

鎖に繋がれたようなつまらない大人ではなく、真実の大人へとなっていきたいものです。


合掌


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