2009年08月29日

茂木健一郎『脳の饗宴』(青土社)

祖母が死んだ。妻は毎日のように病院に通っていたのだが、ある日「今日は病室にものすごい死臭が充満してるよ。でも、私以外は誰も臭わないみたい」とメールがあった。祖母が死んだのは、その翌日のことである。妻は過度に鋭敏なところがあるから、何か死の予兆を感じ取ったのかもしれない。

愛昇殿で通夜、葬式、初七日を一息で済ませた。

 

茂木健一郎『脳の饗宴』(青土社)を読んだ。港千尋、渡辺政隆、池上高志、布施英利、池上高志・郡司ペギオ-幸夫との対話が纏められている。茂木健一郎のもっともラディカルな問題意識が存分に展開されていて、そのエッジ感に興奮させられた。

とりわけ、最後の、池上高志・郡司ペギオ-幸夫との鼎談は、読んでいて久しぶりに味わう種類の興奮があった。マイケル・ポランニーだったろうか(あるいはマイケル・ポランニーを紹介する栗本慎一郎の文章のなかだったかもしれない)、「人間のあらゆる欲望は、“世界を欲望する”ことのバリエーションでしかない。どんな矮小で低劣な“欲望”であれ、人間が抱えるあらゆる“欲望”は、本来ただ“世界の全体”を志向しているものなのだ」という意味のフレーズを昔読んで、ものすごく興奮した覚えがある。そのときの興奮と同じ種類の興奮を感じた。

気を許しあった研究者同士の間で、時間の成り立ちをどう捉えればよいのか、という、世界の根本に届く問題意識が共有され、妥協のない意見が戦わされる。ひじょうにスリリングだった。

 

港千尋との対話から、創造性の母体となる「無明」ついて語られているくだりを引く。

「何か知的なものを獲得することは、同時に喪失を意味するというのは、極めて大きな問題だと思います。科学の歴史もそうだと思うんですけど、ある理論ができちゃうと、その理論以前にあった無明の世界というか精神状態は失われてしまう。でも。次の革命は、無明の世界に舞い戻ることによって起こるんだと思うんですね。

ニュートン力学がああいう形で時間と空間を立ち上げてしまったために、時間空間概念があのようなものであるという世界観に人々が安心してしまって、それ以前に戻った人はアインシュタインまでいなかった。あれほど大きな発見じゃなくても、わえrわれは日常にそれを経験しています。つまりある概念やあるイメージに着地する以前に自分の中にある無明の境地、夜明け前みたいなほわほわしたものは、ある形が生まれた瞬間に消えてしまう。必要なくなってしまったから忘却しちゃうんだけど、実はその中にいろいろなポテンシャルがあったかもしれない。」

無明にたたずみ、いまだ形を成さない予兆に耳を澄ましている、その境地に、くりかえし立ち戻ること。

未明のうごめきのなかにあるポテンシャルは、つねに形を成したものを逸脱して、過剰である。

過去のなかに、「別の現在」を形成したかもしれない可能性を予感することを通して、「未知の現在」がたちあらわれる。

創造性は、つねに、この「未知の現在」のなかで発揮される。

「生成するということは耐えることじゃないかな。創造された産物も興味があるんだけど、創造するときに人間が陥るある状況にとても関心があるんです。(・・・)生成するとはいままで置かれたことのない状況に自分を置くことで、それは非常に厳しいことだけど、そこで自分の中でぎりぎりになって立ち上がってくるものでなければ、自分は生成することはできない。

そう考えると、われわれが生まれたこと自体が最大の生成です。自分には計り知れないし、コントロールできない。それは大人になって何かを生み出すときにも起こっているはずです。そのような生成の現場が、現代では隠蔽されていく。個々のクリエイターやアーティストがやっていたとしても、そこはうまく隠蔽されて市場に流通する準備の出来た産物だけが磨き上げられて社会に出ていく。

われわれは生成の現場の生々しさをどうも見ないようにしています。誕生の生々しさも、死の生々しさも見ようとはしない。生成というものを本当に前面に押し出そうとするならば、そこには隠されたものがいろいろあるはずだから、それに触れる覚悟がないといけないのに、あまりにも市場経済に寄与するポジティブなところでしか生成が語られない。本当はもっとぐちゃぐちゃなはずです。」

 

もう一箇所、同じく港千尋との対談から、生命が発揮する確率論を超える能力について、語られているくだりを引いておく。
桜井章一、甲野善紀、内田樹、名越康文、植島啓司らの問題意識とも通じる。

「ある意味では、生物の命題は、いかに不確実な未来に対処するか、ということでしかない。不確実性へのロバストな対処の方法論としての感情のメカニズムが、最近は能科学の中で最も注目されるテーマのひとつになった。不確実な状況の中で、いかに直観を働かせて判断し、自分の行動を選択するかという命題に、どのように感情の脳機構が関与しているかが研究されています。そこで大いに問題なのは、パスカルの確率概念をいかに超えるかです。

われわれは不確実性を、いまのところ確実性を通してしか扱えない。少なくとも、科学主義の文脈の中ではそうです。しかし、主観的体験としては、確率以外のものがあることをわれわれは知っている。直観とかインスピレーションは確率で捉えられるものではない。

確率は、物理学をはじめ、近代の計量主義を支える概念です。それをどう超えるかというのが情動の問題を扱う際に中長期的に最も重要な課題だと思います。これはとてつもなく難しい問題です。」



uribose196748 at 22:12│Comments(0)TrackBack(0)

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