今更ながらに「おおかみこどもの雨と雪」を観て感じたことを書いてみよう。
おおかみこども、ヒットしてますね。興行収入は8月6日時点でサマーウォーズを超えました。
参考:宮崎あおい : 友人からのメールで細田作品の素晴らしさ実感
公開館数や宣伝量の違いもあるものの、前作を興行収入という分かりやすい形で超えたのは、この作品が持つ魅力が大勢の人に伝わったからだと思います。
大勢の人に見られるということは、それだけ多種多様な反応が出てくるわけで、肯定であれ否定であれ、それは一般向け作品としては健全なことだと思います。そういうものを読んでいて、どうせ感想や疑問点を書くならネタバレ全開で書きたかったのもあってこの時期になりました。
おおかみこども、ヒットしてますね。興行収入は8月6日時点でサマーウォーズを超えました。
参考:宮崎あおい : 友人からのメールで細田作品の素晴らしさ実感
公開館数や宣伝量の違いもあるものの、前作を興行収入という分かりやすい形で超えたのは、この作品が持つ魅力が大勢の人に伝わったからだと思います。
大勢の人に見られるということは、それだけ多種多様な反応が出てくるわけで、肯定であれ否定であれ、それは一般向け作品としては健全なことだと思います。そういうものを読んでいて、どうせ感想や疑問点を書くならネタバレ全開で書きたかったのもあってこの時期になりました。
Ⅰ.視聴者目線での時系列順に感じたこと
①母の存在
花は奨学金で大学へ通っていて、父については葬式云々言っており部屋にも写真が飾られている。ここまでなら「父親を早く亡くして片親(この場合母親)で育った子」なのかと思うだけだが、この作品において母について言及されることは一切ない。子育てに関しても自らの記憶と照らし合わせる風でもなく、書物から得た知識で行っている。普通であれば、自分の娘がどこのだれとも素性の分からない男と結婚なんて認めません!と母親がしゃしゃり出てくるものだが、親戚すら出てこなかった。この時点で花の中には母親の記憶どころか頼れる親戚というものがないことが推測される。葬式のくだりで出てきた親戚とは既に縁が切れているのだろう。
②彼(花の夫、雪と雨の父親)は何故大学へ通っていたのか?
免許を取得して都会へ出てきて運送会社で働いて、世間的に見ればごく普通の人として生きていく中で彼は何故大学の講義へ潜りこんでいたのだろうか?またそれは何故あの学部学科の講義だったのだろうか?この点について彼が花に語ることはなかった。
③獣姦シーン
丘の上で花に本当の姿を見せた彼。その後花の部屋へ戻って2人はセックスするわけだが、何故そこでもオオカミの姿だったのか。人の姿でセックスしなかったのか。本当の姿を見せた彼、それを受け入れた花、2人にとってはオオカミの姿のまま、ありのままの姿でセックスすることが自然な流れだったのかもしれない。
④雉と台所
これは内容とは直接関係なく、あくまでも作画面での話。花がつわりで苦しんでいるところに彼が雉を捕まえて帰ってくる。台所での男料理。愛する人のために男が料理する姿いいですね。だがしかし、締めたばかりの雉を台所で捌いたのにまな板含めてキッチンが綺麗なままなのである。
⑤指輪
2人が生活している映像が流れる中で、お互いの指に指輪がなかった。指輪なんか要らない、ほんの少しのお金でも貯金や子育てに回したいという考えだったのか?
⑥引越を決意した時の言葉
雪と雨に向けた「どちらでも選べるように」という言葉がここから最後まで効いている。ただ、最後に「オオカミとして生きることを選んだ」雨を止めようとしたのは、母親として子離れ出来ていなかったのか。
⑦変身シーン
変身した時に服は首に巻いてるけど、下着はどこ行ったのか?引越後初の冬、雪に包まれた森の中を走るシーンで、花が雪と雨の後を追って服を拾ってるが下着は拾っていない。
⑧家の向き
家と畑と夕暮れの位置関係から判断すると、家の南側に裏山があるのかな?
⑨人としての自覚
小学校に通うことで他の人間の女の子との違いから恥ずかしさを感じた雪。人間として、女の子としての自我が強くなっているからだろう。
⑩雨がオオカミとしての道を選んだ時期
教室を横スクロールで見せていくシーンがある。小学校らしく、教室の入り口に貼り紙がある。雪が4年生、雨が3年生の時の教室のドアに「じぶんでかんがえよう3年生」という貼り紙がある。この頃から雨はいわゆる不登校児になった。オオカミとして生きていくことをうっすらと意識し始めたのがこの時期ではないか。
⑪教室の描写
草平を怪我させた雪が教室に戻ってくるシーン、わいわい騒いでるクラスメイトが先生に向かって質問を投げかけるのだが、全て男の子。女の子はそういう男の子をたしなめている。小学生にありがちだが、こういうシーンをさらっと見せるのは上手い。
⑫描写の重ね合わせ
引っ越してきて初めての冬は親子3人で山を駆け巡った。数年後、山を駆け巡り雲を抜けた雨の横にいたのは「先生」だった。この土地に来る前、彼はまだ人間だったが、ここに至り彼はオオカミとして自我を確立したように感じる。
⑬オオカミの10歳
花が雨に言った言葉「たとえオオカミの10歳が大人でもあなたは…」。途中で言葉が切れてしまったのは花も雨がオオカミとしての道を選んでいることを解っているからであろう。だから先が続かなかった。直前に縫っていたぬいぐるみが雨のオオカミ姿だったからこそ、この言葉が重くのしかかった。
⑭雪の告白
草平が転校してきてから積み重ねた時間、自分を守ってくれている母とあれだけ草平を守っていたのに見捨てた(ような描き方)母、一人で生きていくという草平の言葉、頼るものがないという寂しさ、自分が抱えている秘密、様々なものが折り重なってあの嵐の夜の告白に繋がったのだろう。ここで雪はこれから先を共に出来る仲間を見つけたのではないか。
⑮同時性
雪と雨の別れが描かれなかった、雪のシーンと雨(+花)のシーンが別だったから物語の締めとしてはおかしいと感じる人がいるかもしれない。しかし、雪と雨の別れはすでに描かれている。あの大げんかのシーンがそれだと自分は感じている。今までずっとお姉さんで、雨が溺れた時も助けた雪が、完膚無きまでに負けた。人間として生きてきた雪と、オオカミとしての能力を磨いてきた雨の決定的な別れがあのシーンであろう。
⑯雪の目線で作られた物語
全体を雪のモノローグと花からの伝聞形式で描いているので、花目線のシーンであってもそれは雪が花から聞いた話である。それが解っていれば、描写の偏りが出るのもうなずけるのではないか。
と、ここまでつらつら羅列。これらについては小説版で描かれたり、ムックなどで語られているかもしれないので、映画に限定した疑問と感想。
Ⅱ.他の感想について
あくまでもこれは2時間という枠のある映画であることを前提で読んで欲しい。
色んな感想を読んでいると目にするけど、「田舎の暮らしは~」とか「子育ては~」とか「周りが善人ばかりで~」って指摘は的外れであろう。枠の決まっている中で取捨選択して描く能力も監督には必要である。いざ田舎に引っ越して村人との対立描くことが重要なのだろうか?中には「DSもWiiも見あたらない」などとさもゲームがあることが当然、ないのはおかしいことのように書いているものもあった。
→『おおかみこどもの雨と雪』におけるヒロインの怖さ(愛書婦人会)
この方の場合、「信頼できる周囲に打ち明けたほうが」「貴重なサンプルとして」と書いてるので、元々の発想が違うのかもしれないし、それを否定するつもりもない。ただ、そういう展開を描いた場合、全く違う作品が出来上がるであろうことは容易に想像できる。
また同時に他でも見掛ける農業経験なしでの田舎ぐらしについても言及しているが、花が2人の子供を抱えて出来る限り人の目に触れない場所での生活を探した結果があの土地でのそういった生活であるし、生きていく中で無理だと思うことでも選択しなければならないことなんて誰にでもある。現実に彼の残した貯金がいくらなのか描かれていれば、田舎暮らしや子育て費用
についての無意味なツッコミはなかったのかもしれないが、これは野暮だろう。
同じように田舎暮らしでの人とのコミュニケーションについて。おばさんがやってくるシーン(韮崎のおじいちゃんに頼まれたことが後で判る)含めて村人が花に関わり始めるが、田舎の集落に住むとああやって新住民の様子を見に来る人がいる。会話の中で色んなことを探ろうとする人、何か悪さをしないか心配している人、どういう家庭環境なのか知りたがろうとする人。今回はあくまでも韮崎のおじいさんに頼まれたという展開にしているので「あんな良い人ばかりなのはおかしい」と映るのかもしれない。話の流れ、全体の構成、尺を考えればあれでいい。突然現れた不思議な子持ちの母と村人との対立なんて描く必要性がどこにあるのだろうか。そういうのは最初に見せた畑や商店で遠巻きにうわさ話するシーンだけで十分である。
最後ではあるが、母のいないであろう花について書いた記事も紹介。
→母のない子が父のない子を「おおかみこどもの雨と雪」(北沢かえるの働けば自由になる日記)
なんにせよ、ファンムービーではなく一般向け作品でこれだけのものを観ることが出来たのは一アニメファンとして嬉しい。この作品を観終わった後にツイッターで呟いたが、細田守監督はもはやファンムービーを作る監督達とは同列に語ることは出来ない存在ではないだろうか。次回作も楽しみで仕方ない。
①母の存在
花は奨学金で大学へ通っていて、父については葬式云々言っており部屋にも写真が飾られている。ここまでなら「父親を早く亡くして片親(この場合母親)で育った子」なのかと思うだけだが、この作品において母について言及されることは一切ない。子育てに関しても自らの記憶と照らし合わせる風でもなく、書物から得た知識で行っている。普通であれば、自分の娘がどこのだれとも素性の分からない男と結婚なんて認めません!と母親がしゃしゃり出てくるものだが、親戚すら出てこなかった。この時点で花の中には母親の記憶どころか頼れる親戚というものがないことが推測される。葬式のくだりで出てきた親戚とは既に縁が切れているのだろう。
②彼(花の夫、雪と雨の父親)は何故大学へ通っていたのか?
免許を取得して都会へ出てきて運送会社で働いて、世間的に見ればごく普通の人として生きていく中で彼は何故大学の講義へ潜りこんでいたのだろうか?またそれは何故あの学部学科の講義だったのだろうか?この点について彼が花に語ることはなかった。
③獣姦シーン
丘の上で花に本当の姿を見せた彼。その後花の部屋へ戻って2人はセックスするわけだが、何故そこでもオオカミの姿だったのか。人の姿でセックスしなかったのか。本当の姿を見せた彼、それを受け入れた花、2人にとってはオオカミの姿のまま、ありのままの姿でセックスすることが自然な流れだったのかもしれない。
④雉と台所
これは内容とは直接関係なく、あくまでも作画面での話。花がつわりで苦しんでいるところに彼が雉を捕まえて帰ってくる。台所での男料理。愛する人のために男が料理する姿いいですね。だがしかし、締めたばかりの雉を台所で捌いたのにまな板含めてキッチンが綺麗なままなのである。
⑤指輪
2人が生活している映像が流れる中で、お互いの指に指輪がなかった。指輪なんか要らない、ほんの少しのお金でも貯金や子育てに回したいという考えだったのか?
⑥引越を決意した時の言葉
雪と雨に向けた「どちらでも選べるように」という言葉がここから最後まで効いている。ただ、最後に「オオカミとして生きることを選んだ」雨を止めようとしたのは、母親として子離れ出来ていなかったのか。
⑦変身シーン
変身した時に服は首に巻いてるけど、下着はどこ行ったのか?引越後初の冬、雪に包まれた森の中を走るシーンで、花が雪と雨の後を追って服を拾ってるが下着は拾っていない。
⑧家の向き
家と畑と夕暮れの位置関係から判断すると、家の南側に裏山があるのかな?
⑨人としての自覚
小学校に通うことで他の人間の女の子との違いから恥ずかしさを感じた雪。人間として、女の子としての自我が強くなっているからだろう。
⑩雨がオオカミとしての道を選んだ時期
教室を横スクロールで見せていくシーンがある。小学校らしく、教室の入り口に貼り紙がある。雪が4年生、雨が3年生の時の教室のドアに「じぶんでかんがえよう3年生」という貼り紙がある。この頃から雨はいわゆる不登校児になった。オオカミとして生きていくことをうっすらと意識し始めたのがこの時期ではないか。
⑪教室の描写
草平を怪我させた雪が教室に戻ってくるシーン、わいわい騒いでるクラスメイトが先生に向かって質問を投げかけるのだが、全て男の子。女の子はそういう男の子をたしなめている。小学生にありがちだが、こういうシーンをさらっと見せるのは上手い。
⑫描写の重ね合わせ
引っ越してきて初めての冬は親子3人で山を駆け巡った。数年後、山を駆け巡り雲を抜けた雨の横にいたのは「先生」だった。この土地に来る前、彼はまだ人間だったが、ここに至り彼はオオカミとして自我を確立したように感じる。
⑬オオカミの10歳
花が雨に言った言葉「たとえオオカミの10歳が大人でもあなたは…」。途中で言葉が切れてしまったのは花も雨がオオカミとしての道を選んでいることを解っているからであろう。だから先が続かなかった。直前に縫っていたぬいぐるみが雨のオオカミ姿だったからこそ、この言葉が重くのしかかった。
⑭雪の告白
草平が転校してきてから積み重ねた時間、自分を守ってくれている母とあれだけ草平を守っていたのに見捨てた(ような描き方)母、一人で生きていくという草平の言葉、頼るものがないという寂しさ、自分が抱えている秘密、様々なものが折り重なってあの嵐の夜の告白に繋がったのだろう。ここで雪はこれから先を共に出来る仲間を見つけたのではないか。
⑮同時性
雪と雨の別れが描かれなかった、雪のシーンと雨(+花)のシーンが別だったから物語の締めとしてはおかしいと感じる人がいるかもしれない。しかし、雪と雨の別れはすでに描かれている。あの大げんかのシーンがそれだと自分は感じている。今までずっとお姉さんで、雨が溺れた時も助けた雪が、完膚無きまでに負けた。人間として生きてきた雪と、オオカミとしての能力を磨いてきた雨の決定的な別れがあのシーンであろう。
⑯雪の目線で作られた物語
全体を雪のモノローグと花からの伝聞形式で描いているので、花目線のシーンであってもそれは雪が花から聞いた話である。それが解っていれば、描写の偏りが出るのもうなずけるのではないか。
と、ここまでつらつら羅列。これらについては小説版で描かれたり、ムックなどで語られているかもしれないので、映画に限定した疑問と感想。
Ⅱ.他の感想について
あくまでもこれは2時間という枠のある映画であることを前提で読んで欲しい。
色んな感想を読んでいると目にするけど、「田舎の暮らしは~」とか「子育ては~」とか「周りが善人ばかりで~」って指摘は的外れであろう。枠の決まっている中で取捨選択して描く能力も監督には必要である。いざ田舎に引っ越して村人との対立描くことが重要なのだろうか?中には「DSもWiiも見あたらない」などとさもゲームがあることが当然、ないのはおかしいことのように書いているものもあった。
→『おおかみこどもの雨と雪』におけるヒロインの怖さ(愛書婦人会)
この方の場合、「信頼できる周囲に打ち明けたほうが」「貴重なサンプルとして」と書いてるので、元々の発想が違うのかもしれないし、それを否定するつもりもない。ただ、そういう展開を描いた場合、全く違う作品が出来上がるであろうことは容易に想像できる。
また同時に他でも見掛ける農業経験なしでの田舎ぐらしについても言及しているが、花が2人の子供を抱えて出来る限り人の目に触れない場所での生活を探した結果があの土地でのそういった生活であるし、生きていく中で無理だと思うことでも選択しなければならないことなんて誰にでもある。現実に彼の残した貯金がいくらなのか描かれていれば、田舎暮らしや子育て費用
についての無意味なツッコミはなかったのかもしれないが、これは野暮だろう。
同じように田舎暮らしでの人とのコミュニケーションについて。おばさんがやってくるシーン(韮崎のおじいちゃんに頼まれたことが後で判る)含めて村人が花に関わり始めるが、田舎の集落に住むとああやって新住民の様子を見に来る人がいる。会話の中で色んなことを探ろうとする人、何か悪さをしないか心配している人、どういう家庭環境なのか知りたがろうとする人。今回はあくまでも韮崎のおじいさんに頼まれたという展開にしているので「あんな良い人ばかりなのはおかしい」と映るのかもしれない。話の流れ、全体の構成、尺を考えればあれでいい。突然現れた不思議な子持ちの母と村人との対立なんて描く必要性がどこにあるのだろうか。そういうのは最初に見せた畑や商店で遠巻きにうわさ話するシーンだけで十分である。
最後ではあるが、母のいないであろう花について書いた記事も紹介。
→母のない子が父のない子を「おおかみこどもの雨と雪」(北沢かえるの働けば自由になる日記)
なんにせよ、ファンムービーではなく一般向け作品でこれだけのものを観ることが出来たのは一アニメファンとして嬉しい。この作品を観終わった後にツイッターで呟いたが、細田守監督はもはやファンムービーを作る監督達とは同列に語ることは出来ない存在ではないだろうか。次回作も楽しみで仕方ない。