居心地の悪い作品~アニメ『はねバド』感想~

アニメのはねバドは見ていて居心地の悪い作品だった。


全体的な雰囲気もさることながら、冒頭の全日本ジュニアでの一戦を受けた、最後の県大会決勝の一戦が居心地の悪さを決定づける。
作中にて沸く観衆から一歩引いた視線、第三の目線を強いられることによって、試合自体としては何も問題のない極めて普通な良い試合であっても、果たしてこれで良いのだろうかという気持ちがどこかに残るように作られている。


県大会決勝は、羽咲の精神的な傷と荒垣の身体的な傷が見える形で示されて始まる。
荒垣の膝の状態を知っている立花は、当然のように「駄目だと思ったら止める」といったような発言をするが、結局の所止めることはない。
試合中、羽咲の母と藤沢が話をする。そこでも、羽咲母の「娘にはすごい才能があるんだから仕方ない」といったようなひどく投げっぱなしな意見が示されるのみで、まともに否定されることもなく、話は終わる。
作中の登場人物によっては、何も変わらないままで試合は進む。試合の描写を行うとなると、どうしても羽咲と荒垣に寄っていかざるを得ない。
当然のように、両者の身体的状況、精神的状況が描かれ、視聴者として両者の痛みも知ることとなる。
こうして、作中の観客は知る由もないが、視聴者は知っているという状況が生まれ、両者の間でギャップが生じる。
ここにさらに追い打ちをかけるように試合後、荒垣の膝の状況が描写され、それ見たことかといった気持ちにさせられる。これもまた、作中の観客は知ることはない。


こうしてアニメ本編が終了し、なんとなくスッキリしない状態でこれまでのお話を振り返ってみると、穿った見方をしてしまう。
  • 葉山は大学に入ってもバドミントンを部活で続けると言っているが、流石に厳しいんじゃないか
  • 石澤は荒垣の膝を潰して勝ったほうが良かったのではないか。眼前の将来を考えたら。
の2つが代表例である。
これらについて、なんとなくキレイな話で押し通せはするものの、実態としては羽咲と荒垣の県大会決勝の風景とそれほど違いはないように思える。
将来を見据えた選択とは一体何なのだろうか。


これを更に日々行われるスポーツに広げていくと、頭部に死球を受けても試合出場し続ける野球選手や、膝や肘にテーピングをした力士はわかりやすく痛みを抱えているであろうと想像できるのに、なんとなしに大丈夫なのだろうと判断している。
見えないところでは、あまり良い成績を残せないスポーツ選手がそれでも諦めずにという美しい言葉に乗せて、ひょっとしたら誤った選択をしているのかもしれない。
過去に色々と問題を抱えていること(当人の行動によるものではない)が可視化された事例として有名な事例があるが、同様の事案は見えてないだけで発生しているのかもしれない。ドラフトの契約金が母校への寄付等で消えてしまうというのは本当なのだろうか。


アニメはねバドで描かれた第三の目線に見えるものはどこにでも生じていることなのかもしれない。
だから、特段気にすることなく、作中の観客のように素直にスポーツ観戦を楽しみたいと思うのであった・・・。