「ラブライブサンシャインの映画の感想書きたいなあ・・・」と思いながら幾星霜(3ヶ月)・・・。
1回目見たときに感想書きなぐってしまえば、それはそれで済んだ話だったのだが、うっかり2回3回と見てしまったのが運の尽きで、回数を重ね、頭の中で考えるたびに「これだけで十分だっけなあ・・・」と思ってしまい、1文字も書くことなく今に至ってしまった。

ようやく「これで良いんじゃないか」と思えてきて、あとイオンシネマ幕張新都心とイオンシネマ港北ニュータウンのULTIRA上映も4月11日をもって終わる(終わる終わる詐欺のように今まで生きながらえてきたけど、流石にあの名探偵が来るから終わるでしょ)ことから、とりあえず書きなぐっておく。

以下では、前半でTV版の私的な整理を行い、後半で劇場版の感想を記す・・・つもりだったが、ウダウダと書いていたら、劇場版感想で何を書こうとしていたのか忘れてしまったので劇場版の感想はまた別に書くことにする。

なお、書いている者はTVアニメと劇場版しか見ていないため、それ以外のメディア展開についてはピクシブ百科事典を一読したのみであることをご留意願いたい。
○ 『私たちの輝き』ってなんなのさ

「いやお前、今更そんなことかよ」と思われるかもしれないが、ずっと引っかかっていたことなので仕方ない。
「『私たちの輝き』の『私たち』ってなんなのか、『私の輝き』なのではないか」という疑問である。
ラブライブサンシャインにおいて、『輝き』という単語が使われるのは、千歌によるところが多く、更にその『輝き』が見つかるのか見つからないのかが深刻に描かれるのも、千歌によるところが多い。(鞠莉がよく使っているが、あれは『シャイニー』であり、『輝き』と同じかどうかは不明)
それだったら、『私たちの輝き』じゃなくて、『私の輝き』なんじゃないのか。

確かに説明はされている。これでもかというぐらい説明がされている。

梨子「私ね、わかった気がするの、あのときどうして千歌ちゃんがスクールアイドルを始めようと言ったのか。スクールアイドルじゃないと駄目だったのか」
曜「うん、千歌ちゃんにとって、輝くということは自分ひとりじゃなくて、誰かと手を取り合い、みんなと一緒に輝くことなんだよね」
梨子「私や曜ちゃんや普通のみんなが集まって、ひとりじゃとても作れない大きな輝きを作る。その輝きが、学校や聞いている人に広がっていく、つながっていく」
曜「それが、千歌ちゃんがやりたかったこと。スクールアイドルの中に見つけた輝きなんだ」
『ラブライブサンシャイン』第1期第11話より引用

でも、この説明で納得できるかというとそんなことはなくて、第11話のこの場面において、曜と梨子の私的な会話(電話?)であったとしても、この展開でこの会話をするのかというところには違和感を覚えてしまう。
第1期第10話と第11話において描かれていたのは、思いを押し殺してしまっている(ように見える)梨子や曜に対し背中を押してあげるということであって、二人の現在過去未来に向けた輝きの発現にあった。
そこで「どうして、~スクールアイドルじゃないと駄目だったのか」につながるのかというと、あまりそんな気はしない。スクールアイドルじゃなくても別に良いような気がする・・・と思ってしまうのである。

つまり、

「感動などないっ! あんなものに…… オレが求めているのは…… オレの鼓動 オレの歓喜 オレの咆哮 オレのオレによる オレだけの……感動だったはずだ!」
福本伸行『最強伝説黒沢』第1巻より引用

が前提としてありつつも、何らかの選択を行った結果として、社会との関係において何かが生じていくのではないかということである。(黒沢最終回における「あったけぇ・・・最後の最後・・・あったけぇ・・・」みたいなの)


○ それでも『私たちの輝き』とするのは

「それなら、『私の輝き』とするべきなのか」というと、それはそれでなにか違うようにも思える。
『私たちの輝き』でも問題ない、むしろそちらのほうが作中の表現との親和性が高く、妥当性が高いという要素がどこかにあるのではないかと最近考え始め、もう一度全体を思い返してみた結果として、次の3点によることができるのではないかと思うようになった。

  1.  『輝き』の総量
  2.  『私の輝き』の寄辺
  3.   『私たちの輝き』の範囲

1. 『輝き』の総量
これは
「1+1は2じゃないぞ。オレたちは1+1で200だ。10倍だぞ10倍」
のアプローチであり、結局のところ、前述した
梨子「私や曜ちゃんや普通のみんなが集まって、ひとりじゃとても作れない大きな輝きを作る。その輝きが、学校や聞いている人に広がっていく、つながっていく」
の考え方に基づくものである。
これは
人間の諸事象における理性の役割を一般にいずれかといえば低く評価し、人間が理性によって導かれるのは部分的にだけであり、個人の理性はきわめて極限されていて不完全であるという事実にもかかわらず、人間は現に所有しているものを成しとげたことを主張する見解
ハイエク『市場・知識・自由』P6より引用

という古典経済学的な、個人の力のみによって発生しうる事象は、相当に狭められたものにすぎず、顔も名前も知らない人々の何らかの協力によって成し遂げられる事象は、ただの個人の集積を超えたものをもたらすことであるという考え方である。
この考え方によって立てば、『私の輝き』と表現してしまっては、その『輝き』が個人によるものなのか、協力をしてくれた者全体によるものなのかが見えてこない。
むしろ、『私たちの輝き』であるものを『私の輝き』であると詐称する。自らの成果であるとホラを吹くこととなってしまうのではないか。

そして、『私たちの輝き』について、本編においては、次のように思い返されている。

むつ「あのとき、私たちから見えてた千歌たち、輝いてたなぁ」
いつき「本当、目を開けていられないぐらい」
千歌「私たちにも、見えてたよ。輝いてるみんなが、会場いっぱいに広がるみんなの光が」
むつ「じゃあ、全部輝いてたんだ」
千歌「うん、そうだよ全部輝いてた」
ラブライブサンシャイン第2期第13話より引用

ここにおいて、第1期第3話におけるはじめてのライブや第1期第6話において得ることのできた協力との類似や、第1期第7話における東京でのライブにおいて触れられることがなく、見ることができなかった会場の輝きとの相違を見ることができる
特に第1期第6話による協力は、映像としての『輝き』を底上げする力があり、まだまだ力量不足であったAqoursを東京へいざなってしまった点において、逆説的ではあるが、そこにある『輝き』の総量が個人による『輝き』を上回ってしまったことを示す事例となっている。


2. 『私の輝き』の寄辺

『私の輝き』とした場合、その寄辺はどこにあるのかを考えると、どこにも無いのではないか、少なくとも、この作品においては、そのように描かれている。
第2期第12話においてもなお、なのか、に至ったから、なのか、両面から捉えることができるだろうが、第2期第12話において次のように綴られている。

千歌「勝ちたい? ラブライブ、勝ちたい?」
曜「もちろん、やっと一緒にできたことだもん。だから良いんだよ。いつもの千歌ちゃんで、未来のことに臆病にならなくて、良いんだよ。ひとりじゃないよ、千歌ちゃんは」
千歌「ありがとう」
ラブライブサンシャイン第2期第12話より引用

このシーンは、ラブライブ全国大会前日から当日にかけて、千歌が他のメンバーに対し、「勝ちたいか」と確認し、それぞれからそれぞれの回答を貰っていくというところである。
第2期第7話において、優勝すると大見得を切ったにもかかわらず、この回において再度見直しを行うのは、この時点においても千歌が『私たちの輝き』の正体を掴みかねている点が主たる要因である。
ただ、同時に、『私の輝き』と『私たちの輝き』の双方が、分かちがたく結びついているのか、『私たちの輝き』が『私の輝き』を包含しているのか、それはハッキリとは分からない(個人的には前者)が、『私の輝き』というものは、何かを通じて生じた『私たちの輝き』と離れては存在し得ないことを示しているのではないか。


3. 『私たちの輝き』の範囲

色々とあちらを引用したりこちらを引用したりとしてきたものの、あと一つ、『私たちの輝き』の範囲である。
結局のところ、『私たちの輝き』というのがどこに収まるのか。どの範囲に収まるのかが、主語をでかくすることを望まないこの感想を書いている者のような受け手(居るのか?)にとって重要なのである。

本作においては、基本的に『私たちの輝き』の範囲は、気にかかる範囲にまで及んでいなかった。第1期第13話のライブにおいて、一時的に『私たちの輝き』が私たちの外にまで拡張しており、不自然さを感じずにいられなかったのだが、第2期第1話において、その不自然な拡張の結果なのかどうかはわからないが、本予選には進めないという結果が示されていたため、さして気にならないものとなったのである(第1期終わった時点では気になったけど・・・)。



以上により、『私たちの輝き』であるべきか『私の輝き』であるべきか問題は終焉を迎え、この4月に入ってようやくラブライブサンシャインTV版に対し、一旦の整理をつけることができたのであった。


一旦終わり