東谷文庫

二年間のうちに且て東谷と呼ばれてゐた土地に単身移り住む計畫の、成功するか頓挫かを隠居生活のスタートと共に開設したブログにて記録

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1971夏号から1973秋号まで、全体で5巻発行された『沖縄経験』。
季刊を謳ひながら11季で5号ですよね、などと突込みを入れるなんてとてもとても。
「年四冊、送料をふくめて、一一一〇円を、現金書留で」送りながら、定期購・読者とはとてもいへませんから。
数ページに書き込みがあるだけのノオトのやうな読者でした。

沖縄歴史研究会 新城俊昭『高等学校 琉球・沖縄史』の年表でいへば
1964 復帰協、辺戸岬でたき火集会―については1999年に辺戸岬を訪ねるまで知りませんでしたし、
1968 嘉手納基地でB52墜落炎上―は池澤夏樹『カデナ』読了後に知りました。
1970 コザで反米騒動発生―は新聞の一面の大きなモノクロ写真を見たのでしたが、見たといふ記憶のほかはどうにも思ひだせません。
モノクロと断らなくても、横転した車は黒焦げで、それは朝刊の部分でありながら全体です。

大学紛争はぼくの高校まで及んでゐました。火元から見ればくすぶり続ける物の、煙たいばかりの風下のあれこれではありましたが。
また、大江健三郎『死者の驕り』(1957)の光景は、むしろ沖縄に運び込まれる米軍の「死者」に置き換はつてゐたのではないか。

余談ですが、ベ平連にシンパシーを持つてゐましたから、ベトナムに平和を!といふベ平連に対し、時の政府が頑なに「ベトナム和平」と発したことも憶えています。
学園祭に、「私は私の良心にもとづいて、いかなる名目、いかなる状況のもとにも、兵役を拒否することを誓います」といふビラに署名を求めやうとして、生徒指導教諭に呼ばれたこともありましたつけ。

1996年6月3日、ぼくは一度も沖縄といふ意識がないまま、鄙びた宮古島空港に降り立つたのでした。


めげる。
広島西部地方では「挫ける」ではなく専ら「壊れる」。
左脚が壊れました。

体側の右をしたにすればなんとか眠りに落ちてゐましたが、胎児のやうに丸まつてやつとなんとか―が直きに来て、今や痛みなしの(就寝の)姿勢は、上半身を壁に凭せ掛けて両足を揃へて前に伸ばす―これつきり。
未明に気温が下がつてくると毛布で上半身を包む。
無意識に横になつてしまふと痛みがネ、炭酸ガスの泡のやうに湧き上がつてくる。どんどん体積が増して、引き換へに我慢が萎んで、萎んで……
この繰り返し。

いまのところなんとか午睡で補へてゐるやうですが、紹介状を持つて総合病院の整形を受診できるのは来週の木曜。
混んでゐるのださうです。

「記事を書く」最中も左の座骨を宥めながらですから、よくまあ二時間も運転できたな、と感心します。
東谷の図書館に寄贈本の一回目を届けてきました。
小学校、中学校の司書の方のリクエストは新学期が忙しくて受け取れませんでしたが、感触はある様子。

動ける間に動いておこうと出かけたのでしたが、地理的に筍には早すぎたのか、不作の年なのか。

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苧環。東谷のご近所の庭先で。


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猩猩袴。竹藪の入り口で。




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ボールペンで描き始めた理由は線描だけでタブロオにしたかつたから。

六枚の構成はすぐに決まりました。その一枚は先の「廃墟ギャラリー」で公開したもの(会場でも手を入れ続けてゐた、段ボールを張り合わせた)で、パネルを使ふ残り五枚に、切り落としてサイズを合わせました。
『他人の雨のなかに立ち』といふタイトルについてはすでにこのブログの一月一二日分に書きました。

上野の都立美術館まで片道九〇〇粁を車で搬入していたころに一度、帰路、埼玉県入間市に寄り道したことがあります。
ここに、中村宏油彩画工房で二年目以降も残る生徒専用のアトリエがありました。
油彩画工房を講座のひとつとする「美学校」は本校を神田神保町に置き、単年度の講座も複数年度の講座も一年目は神保町です。

先生は週に一度の月曜にやつてきました。
なので他の曜日は使ひたい放題。これはぼくのこと。一年目二年目と続けて不登校でありながら、三年目を受け入れていただき、続く二年間は助手として残りました。
そしてほぼ毎日、朝から晩までアトリエに。助手の一年目は住み込みでしたし。

受け入れたのはたぶん授業料目当てだつたのでせうが、そうね、ダメだつたとしたら―といふ問には答へられません。

寄り道のついでに、入間市駅近くのビジネスホテルに一泊することにしました。
で、何気無くつけたTVでは、大江健三郎さんとカート・ヴォネガットの対談が半ばを越えてゐました。
いまだに憶えてゐるのは、大江さんが問ふたことに対するヴォネガット氏の答。
※先に御断り。マーク・トゥウェインだった筈。十幾つは十三だったか十六か、ともかくはつきりした数字。

「マーク・トゥウェインの自伝にあるdecencyという単語は、十幾つもの意味で使われています。loveには反対語がありますが、decencyは反対語を持ちません」

疎覚えですが、キリスト教のloveといつてなかつたか。

直近のラジオ番組ではいとうせいこう氏が近著『「国境なき医師団」を見に行く』を書き終へて、「hateの反対は“愛„ではなくて敬意ではないか」と語つてゐます。
章立てに使はれている例では「難民キャンプで暮らす人々への敬意」。


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日付けから、これは1991年の齣展に出品したシルクの一部。

※その齣展なるものは美術文化協会、前衛美術会と変遷した会派のひとつ。
 中村宏油彩画工房の助手になつてから先生に誘はれるまま出品を重ねました。
 郷里で就職した三回目からは車に出品作を積込み、広島県三次市辺りまで開通して
 ゐた中国自動車道を、夜中に乗り、明け方上野に着くなんてことを繰り返した筈。

たぶん二〇点の構成で、七〇糎のパネルが二〇枚だから一四米。
都立美術館に展示しました。ただいかんせん長尺なので二段掛けになつたやうです。
といふのも展示を友人に依頼しただけでなく、会期途中の合評会にも出席してゐないのではないかな。

退会したのもこの年のことではないか。


さて、いま、古くからの知り合いひの工房で、久しぶりにちよいと使つてみやうかなと思つてゐるところ。
トルエンへの耐性はとうに無くなつてゐるだらうな。



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たつた一枚作つたリトグラフ。
それに纏わる事の起こりと顛末はもうどうでもよい。編年体とはいへ、掘り起こしても不快になるばかり。
(化石化せず、いまだ腐敗臭を放つ、とかなんとか?)

このリトを描画したのは金属板ではなく石。60×40×10(糎)くらひの石版石。
その産地がゾーレンフォーヘンと知つたときは、少なからず興奮しました。
なぜなら一八六〇年代にそこで始祖鳥(の化石)が発見されたのであるから。
始祖鳥Archaeopteryxの種小名であるlithographicaはリトグラフlithographのことです。

序だから元のスケッチも。

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公開してゐないのでタイトルもつけてゐない筈で  とここまで書いて思ひだしました。
リトの方の背景はアルファベットのT。駄洒落から生まれた背景で、タイトルです。

その昔、何枚か刷ったうちから弟が一枚を持つて行つたのですが、まだ残してゐるのだらうか。


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