うさぎの穴

2016年01月


あれまあ、と言うニュースが入ってきました。

28日、東京都千代田区の書店「書泉グランデ」で予定されていた、
「そうだ 難民しよう」の著者 はすみとしこさんのトーク&サイン会が
数十件の抗議電話で中止に追い込まれました、だそう。

「難民しよう」著者のサイン会中止 告知後に抗議相次ぐ


はすみさんは著書「そうだ難民しよう」で、日本人への差別である在日外国人特権や違法難民の問題にイラストで鋭く切り込んだ話題の方。

これらの問題は前から一部で言われていたものの、肝心のメディアが初期に反日外国人勢力に牛耳られどのテレビやメディアも伝えなかったため、日本人は長い間気付くことが出来ず、インターネットの発達でやっと問題が広く知られ始めた現在では既に日本の国益を毀損するほどまで大きくなってしまっている。

そもそも国会議員さえも多くの帰化人で構成されるようになった日本。
民主党議員の3分の2は帰化人で、本来は韓国朝鮮人や中国人だという噂があるくらい。
見た目は日本人だけど血は韓国や中国人だから日本の行く末を邪魔するような行動ばかりするんだよね、民主党始め野党の議員は。

話戻って、そうした危機的日本の状況をひと目で理解できる美しいイラストで表現したのがはすみさん。
発売と同時に大きな話題になり、アマゾンでもランキングトップ辺りを獲得、多くの日本人がその実情を知ること人貼ってしまったの。

そこで真実が世間に知られては困る反日勢力や在日外国人勢力が彼女のサイン会を妨害したたんだけど、バカだよねー。
この報道のせいで最近人気が落ち始めたはすみさんの本が、またランキングがぐっと上ったらしい(^o^)

     ←amazon 972円

抗議電話を掛けまくった方々には「お疲れ様」、って言ってあげましょう。
「そうだ難民しよう!」 ひと目で今の日本の危機がわかる、異色の美麗イラスト集。
真面目におすすめです。


 


在日韓国人による日本侵略の話は「スヒョン文書」が有名。

でもあれは巷では作り話だとも言われていて、確かに在日たちによるやり取りである確証はありません。
その点、こちらはソースが存在するようなので紹介してみます。

書かれていることは既に問題として表在しているから思い当たることばかり。
知らぬは、お人好しの日本人ばかり?

大阪市では、ヘイトスピーチ条例が可決される見通し

これは、日本人が外国人を非難すれば訴えられるという言論弾圧の条例。
日本人は声を上げることができなくなり、そして日本は日本人から奪われる。

民主主義で言論の自由がある日本でこんなことが始まったなんて恐ろしいね。
手遅れかもしれないけど、何とか出来るものなら何かしないと。


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<ある在日の告白>

(在日韓国人の魯漢圭は、在日韓国人のための民団の新聞にこう書いている。
※大韓国民団広島支部 魯漢圭-民団新聞 2004/6/30 )

…『今や創価学会や統一協会など宗教界や年間30兆円のパチンコ業界・消費者金融業界・風俗業界・ラブホテル業界を在日は掌握したよ。全国の駅前も在日が握っている。宗教やパチンコで儲けた金で、駅前の一等地を買い制覇するつもり。

外国人参政権も達成する為、工作しているよ。日教組の上層部は我々在日が制覇して、日本人の子供には我々の歴史観を徹底的に教育する。日本海の名前も東海に変える。靖国も徹底的に叩く。日本の永住権取得も緩和させ、移民を多く受け入れアホな日本人は30%ぐらいにする。

反対するなら「差別!差別!」と騒ぐ。今の時代は戦争で侵略するような時代じゃないんだよ。我々はあくまで合法的に日本を侵略してるんだ(笑)芸能界もほとんどが在日プロダクションだし、新人なんか体売るか、創価に入信しないと仕事は与えない。

我々は日本への帰化など望んでいません。日本の兄の国である韓国国民としてのプライドと誇りがありますからね。民団総連日本の市民団体の方々とともに手を組んで我々寄りの議員をどんどん送り込んでいきますよ。

当然我々寄り議員は韓国にメリットの大きい条例や法案を作ってくれるでしょう。60万在日のパワーを見せつけてやります。 コリアン特区コリアン自治区を日本全国に広げます。そして日本をのっとります。

マスコミは我々が大勢でちょっと大きな声をだしてやるだけですぐに動きますからね。 この条例成立がそれを証明しているでしょ?

あとは日本中の在日コリアンコリア系日本人を総動員し日本中の都市街で投票条例を得る。
マスコミは我々が大勢でちょっと大きな声をだしてやるだけですぐに動きますからね。 この条例成立がそれを証明しているでしょ?

あとは日本中の在日コリアンコリア系日本人を総動員し日本中の都市街で投票条例を得る。公務員にもなる。 最後は参政権【日本の主権】を手中に収めます。住民票を移したり引っ越しだってやりますよ。対馬にだって後ろには民主党 ,公明党がついてます。 独島も実質的に我らのものになっていますし強制連行や従軍慰安婦も事実として認められました。

今からこれからですよ。対馬も韓国のものになるでしょう。広島・静岡の首長は帰化した同胞。 もう日本による歴史歪曲や妄言や差別はたくさん。これからの日本の主人は我々コリアンです。

どうせあなたたちは何も出来やしない。
パチンコ・携帯電話 で我々に貢ぐだけ。
デモの1つもできない。結婚も出来ない。
我々は日本人の主人として日本を変えていく。
あとは我々に任せてあなたたちは消えなさい。
民主党 はわれわれの党。
地方参政権があれば、実質日本国内に在日の独立国を建国することが可能。半島からのニューカマーを、引き入れて日本人を追い出せば誰も、手出しできない。治外法権の在日独立国家を完成させることができる。

まずはカナダのケベック州の様な、特別州を作り出すのが在日の当面の目標で、そのための今最も力を入れてるのが、地方参政権獲得闘争の完全勝利。 それは確実に実現へと近づいている。在日の地方参政権獲得で表社会を制圧。 既に裏社会は殆ど支配下に置き、その暴力と経済力を背景に日本の政官財界を侵略する。

60万在日の経済力は日本経済の2割に相当し、それは実に韓国の経済力の2倍という凄まじい物だ。

経済力に加え、地方参政権によって政治力も手に入れ。やがては軍事力も手にした日には完全に日本から独立した。世界で最も豊かな国家を手に入れることが出来る。 もはや完全に在日の奴隷状態の日本人には、在日国家の軍門に下って貰うことになる。

こうして、在日朝鮮民族はアジアの頂点に立つことが可能となり、半島と日本を実質支配する。アジアでもっとも強固な支配階層、特権階級となるだろう。

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以上。

 

昨年末の慰安婦合意、未だに世論は引きずっていますね。

欧米各国ではなんということか、日本がついに軍による20万人の強制性奴隷を認めて謝罪をした!と一斉に報じたようです。

そもそもかつてのアジア占領国であるイギリスやオランダは、
大東亜戦争で自分たちより劣っていると思っていた有色人種の日本人に美味しい植民地からあっさりと追い出され実益を損なうだけでなくプライドを傷つけられたため、今もはっきりと反日国です。
カナダに住んでる人の話ではカナダも反日だそうです。
 
そういう国は、日本を決して良くは言わないし、機会があれば叩いて弱体化させたいのは当然でしょう。

慰安婦合意で、日本も今後は捏造された慰安婦問題をあれこれ修正発言がしにくくなりました。
これが多くの保守の人達を激怒、落胆させているのですよね。

しかし、国ができないなら国民が頑張りましょう。
実際、慰安婦の強制性を証明する資料は、あの米国が何億円も掛けて調査しても、ひとつとして出てこなかったのです。
米国は元から、慰安婦が強制ではなかったことを知っているのですが、それを認めると日本を優位にしてしまうし、自分たちが朝鮮半島で韓国慰安婦を使っていたことがバレてしまうので出来ないのです。

そんなことで、我々は頭を冷やして、自分たちで出来ることを粛々とやっていきましょう。
以下、引用記事です。
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さて、本日のお話は、所謂慰安婦問題の一次資料で、元慰安婦だったという文珠玉(ムン・オクチュ)さんの体験談です。
日本語と、英訳をご紹介します。

(ここから)
文玉珠 『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(梨の木舎)
 
(ビルマのマンダレーでの経験)
 63ページ
戦地の軍人たちの思いと、私たちの思いは同じだった。妻も子も命も捨てて天皇陛下のために働かねばならない、と。わたしはその人たちの心持ちがわかるから、一生懸命に慰めて、それらを紛らわしてあげるよう話をしたものだった。
 
 68ページ
私は一生懸命ヤマダイチロウの無事を祈った。二、三ヵ月して、前線からヤマダイチロウの部隊も戻ってきた。ヤマダイチロウは無事だった。すぐに慰安所にきた。「ヤマダ上等兵、無事帰還いたしました。」
ヤマダイチロウは私に向かって敬礼した。私たちは抱き合って喜んだ。そういう日はマツモト公認で、慰安所全体も大騒ぎになり、閉店休業だ。早速私たち慰安婦も一円ずつ出し合って大宴会をしたのだった。
 
 75ページ
私の手もとには少しずつもらったチップが貯まって大きな金額になった。(中略)事務を仕事にしている軍人に、私も貯金できるか尋ねると、もちろんできるという。兵隊たちも全員、給料を野戦郵便局で貯金していることを私は知っていた。貯金することにした。兵隊に頼んで判子も作ってもらい、お金を五百円預けた。わたしの名前の貯金通帳ができあがってっくると、ちゃんと五百円と書いてあった。生まれて初めての貯金だった。大邱で
小さい時から子守や物売りをして、どんなに働いても貧しい暮らしから抜け出すことができなかったわたしに、こんな大金が貯金できるなんて信じられないことだ。千円あれば大邱に小さな家が一軒買える。母に少しは楽をさせてあげられる。晴れがましくて、本当にうれしかった。貯金通帳はわたしの宝物となった。
 
(アキャブ(インドに近い島)の回想)
93ページ
ヤマダイチロウは一週間に一度くるはずで、その日になると、わたしは朝からウキウキしながら待っていた。反対に、約束の日に何か非常事態でも起きて勤務しなければならなくなったときなど、なにかあったのではないか、敵にやられたのではないか、と心配で何も手がつかない。何度心配したことか。
 (ラングーンでのこと)
 
106ページ~107ページ
ラングーンはこれまでにくらべると自由だった。もちろんまったく自由というわけではないけれど、週に一度か月に二度、許可をもらって外出することができた。人力車に乗って買い物に行くのが楽しみだった。
(中略)ラングーンの市場で買い物をしたことは忘れられない。(中略)宝石店もあった。ビルマは宝石がたくさん出るところなので、ルビーや翡翠が安かった。友達の中には宝石をたくさん集めている人もいた。わたしも一つくらい持っていたほうがいいかと思い、思い切ってダイヤモンドを買った。
 
 107ページ
日本の活動(映画)や内地から来た歌舞伎を観にいったこともあった。歌舞伎は衣装をたくさんつけて、男が女の役をしているのが珍しかった。
わたしはここラングーンでもすぐに売れっ子になった。将校の数も前線とはくらべものにならないくらい多かったので、宴会にたびたび呼ばれた。チップがもらえるのが楽しみで、わたしは喜んでうたいにいったものだ。
 
(サイゴンにて)
 115ページ~118ページ
 二カ月ほどかかって帰国許可がでた。(中略)すぐにタイを通ってサイゴンに向かうことになった。船はサイゴンからでるのだそうだ。(中略)するとツバメがいった。「わたしも今朝夢をみたの。かあさんが病気で血を吐いていた。不吉なことが起きそうだから、私も朝鮮に帰るのをやめる」ヒロコとキファとヒフミも「それじゃ、わたしもやめる」と賛成した。(中略)帰国の許可がおりたのなら、帰らなければならなくなっていた。それは命令なのだった。帰りたくないのなら逃げるしか方法はなかったのだ。
 
 120ページ
日本の軍人が出入りしているキャバレーに入った。海軍のパイロットが数人いて(中略)
「どうしてこんなところにいるの」と聞く。「朝鮮に帰りたくないので、ラングーンにまた戻りたいのですが、証明書を書いてもらうにはどうすればいいでしょうか」と事情を話してたのんでみた。「自分たちにはできないけれど、司令部に行けば書いてもらえるだろう。そこを紹介してあげるから、しばらく遊んでいきなさい。」パイロットたちは御馳走してくれた。
 
 121ページ
 ワニ革のハンドバックとハイヒールに緑のレインコート。こんなおしゃれな恰好でサイゴンの街を闊歩した。だれがみたって、私を慰安婦だとは思わなかっただろう。いまも思い出してはなつかしく、得意になってしまう。
 
ラングーンにて
 123ページ
ラングーンはやはり大きくてきれいで、いい街だった。
軍人が自転車に乗ってやってきた。そして「ヨシコは乗れるか」と聞く。「乗れない」と答えると「教えてやろう」という。よろこんで教えてもらうことにした。(中略)私は緑のレインコートを着て、ラングーンの街をスイスイ走った。女で自転車に乗っている人などだれもいなかったので、通りをあるく人たちはみな、わたしを振り返って見ていた。ラングーンの街にでかけることは楽しみだった。わたしは、ビルマ語と朝鮮語と日本語を使って話した。買い物することくらいなら言葉で不自由することはなかった。
 
 126ページ
酔っぱらって切りかかって来た兵長を逆に殺した。(中略)日本軍の軍法会議で正当防衛が認められて無罪となった。(中略)わたしの無罪に多くの日本人の軍人たちも喜んでくれた。
 
137ページ
アユタヤの病院にいた時は母に送金もした。(中略)貯金から下ろして5000円送金した。
係の兵隊に頼むと「貯金があるなら全部送ったほうがよい」といった。私は「あとのお金は朝鮮に帰ってからおろすからいいです」と答えておくらなかった。後にあと6000円程度残っていたはずと言っている。(1992年3月31日付フクニチ新聞)
 
以下英文翻訳
 
Myself as a comfort woman for Tate Division deployed in the Burma Theater (by Mun Oku-chu, published by Nashinoki-sya publishing company)
 
(An experience in Mandalay of Burma)
Page 63
The soldiers and we had the same thoughts, that is, we must work hard for the emperor giving up their wives, children and even lives. I did my best to solace them by having conversation with them to ease up their mental burden very diligently based on understanding of their minds.
 
Page 68
I prayed for safety of Ichiro Yamada. After two or three months, the troop unit to which Yamada belonged returned from the front. Yamada returned in good health. He immediately came to the comfort house. He said “I, private first class soldier Yamada, have just come back from the front”.
Yamada gave a salute to me. We hugged in full of joy. Such a day was so special that the commanding officer Matsumoto allowed the soldiers to enjoy themselves, so the comfort house was full of excitement and the work became inactive. And we, comfort women, contributed 1 yen per woman to hold a big party.
 
Page 75
I saved up the tip amounting to considerable amount of money. (Snip) I asked a clerical staff whether or not I could have a saving account and put the money in the account. His reply was positive. I had known that all the soldiers put their earnings in the saving accounts in the field post office and I decided to put the money in the savings account. I asked a soldier to make a personal seal and put 500 yen in the account. I got my savings passbook and found 500 yen written on the passbook. I became the owner of the savings passbook for the first time in my life. I worked in Teague as a nanny and a street seller from the childhood but I could not rid of poverty even if I worked very hard. I could not believe that I could have so much money in the savings account. A small house in Teague costs 1,000 yen. I could let my mother have an easy life. I was very happy with joy and pride.
The savings passbook became my treasure.
 
(Reminiscence of Akyab, an island near to India)
Page 98
Ichiro Yamada should have come once a week and I used to be in a great mood in that day from the morning. On the contrary, when he had to work on a scheduled holiday when an emergency happened, I was so much concerned wondering if something happened or he was killed by the enemy that I could not begin the job. I got anxious about him so often as it is difficult to remember how often.
 
(In Rangoon)
Page 106~107
I could have more freedom in Rangoon compared with the past time. Of course, not completely free but I could go out once a week or twice a month with permission. It was fun to go shopping by rickshaw.
(Nips) I cannot forget the experience of shopping in a market in Rangoon. (Nips) There were jewelry shops. As Burma produced much jewels, ruby and jade were not expensive. One of my friends collected much jewels. I thought I had better have a jewel and went and bought a diamond.
Page 107
I went out to see Japanese movies and Kabuki play of which players came from the mainland of Japan. It was uncommon for me to see the players putting on many costumes and the male players portraying women’s role.
I became a popular woman in Rangoon too. The numbers of officers were much more than those near the front, so, I was often invited to parties. I was delighted with invitation to parties where I sang songs expecting much tips.
 
(In Saigon)
Page 115~118
It took two months to get permission to return home. (Nips) It was decided to go to Saigon via Thailand. The ship was to depart from Saigon. (Nips) Then Tsubame said “I had a nightmare in the morning about my mother vomiting up blood. I am afraid that something unlucky will happen, so I will not return to Korea.” Hiroko, Kifa and Hifumi agreed with Tsubame saying “I will not return too.” (Nips) We had to go back once the permission to return to the home country is issued. It was an order. Only remaining way for someone who didn’t like to return was to run away.
 
Page 120
When I went to a cabaret where Japanese military men had often visited, some navy pilots were there (Nips) some of them asked me “why do you still stay here? I replied “I still stay here because I don’t want to go back and want to return to Rangoon.” I asked them “How can I get the certificate and can you help me?” They replied “We cannot do it but the headquarters may be able to issue the certificate. We can introduce you to the headquarters. Would you enjoy yourself here for a while?” The pilots gave a dinner for me.
 
Page 121
I put on a pair of high heel shoes and a green raincoat and carried an alligator leather handbag. I swaggered about in a fashionable dress. No one could guess that I was a comfort woman. It is my happy memory and I felt pride.
 
In Rangoon
Page 123
Rangoon was a big and beautiful city as expected. A military person came on bicycle and asked me “Hi! Yoshiko can you ride a bicycle?” I replied “No, I can’t.” He asked “Would you like to learn the riding?” I decided to learn with pleasure. (Nips) I rode it smoothly through the town of Rangoon.  I didn't see any woman on bicycle. Passersby on the street looked back on me. It was fun for me to go to the town of Rangoon. I talked with people in Burmese, Japanese and Korean. I didn’t experience any difficulty in conversation for shopping.
 
Page 126
I killed a non-commissioned officer who had drunken and tried to put me to the sword.
(Nips) I won acquittal as legitimate self-defense and many military men were pleased with the court decision of innocence.

Pge 137
I sent money to my mother when I was in a hospital in Ayutthaya. I draw down 5,000 yen from the saving account and send that much money. When I asked a soldier in charge of the money transfer the transfer of money, he recommended me to transfer the total amount if I had more in the account. I didn’t transfer more replying to him that I decided not to transfer more and would transfer it when I go back to Korea. Afterwards, she said that she still had 6,000 yen in the account. (The Fukunichi dated Mar. 31, 1992)  』


(引用ここまで)


逞しいじゃないの!

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    ※この方が文珠玉さん (既に故人です)

いかがですか?逞しいじゃないですか!ねえ!
売春ってしんどいと思うんです。たとえそれが自分の意思で慰安婦になったとしても、忙しい時は何人もの客を相手をしなくてはならなかったそうですので。
でも、恋をして、しっかりお金も貯めて、ショッピングも楽しんで。酔って切りかかってきた日本兵を返り討ちにしたけど、正当防衛が認められて、彼女の無罪を日本軍の兵士たちは喜んでくれたって、どう読んでも「性奴隷」ではないですよね。汗

逞しいじゃないの!
      ※彼女の預金残額を証明するもの

ちょっと見づらいですが、1940年代に5万円貯めたって凄いですよ!ええ!!
もちろん、慰安婦全員が彼女のように貯められたわけではないでしょう。
悪徳な雇い主であれば、それこそ奴隷働きさせられたと思います。
まぁ、それは現在のブラック企業と同様です。でも「奴隷」ではないですよね。


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以上、Echo Girl 

文珠玉さん、逞しいじゃないの!


http://ameblo.jp/comm-cork/entry-12115786389.html 
から転載させていただきました。
 

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