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読んだ本のこと、それ以上に買った本のこと、ときどきライブのことを書き散らかしてみたりする。

カテゴリ: 笙野頼子


文芸誌「群像」(本作の初出誌)の読者に語り掛けてくるのは、某作家の家の台所に住む荒神、若宮ににだった。彼が語るのは自身の来歴、TPPの正体、そしてこの家に住む作家と飼い猫の現状。4匹いた猫のうち3匹を亡くし、残った1匹の雄猫・ギドウも甲状腺の病を得ているし、作家本人も混合性結合組織病を抱えていた。もしTPPが――あるいはそれが流れたとしても、それに代わるたくさんの「人喰い」条約がやってくれば、薬の価格は高騰し、たちまちこれを買うのが困難になることは目に見えている。そうして弱い物が搾取されていく未来を幻視する荒神と作家。やがて作家はようやく自分の言葉で語り始める。例えば亡き飼い猫・ドーラが生前に自分に語り掛けていた内容を誤訳してしまっていたこと。そんな猫たちと自分のために食事を作るようになったこと。そしてそこから思い起こされる、両親と食に関する記憶……。

今年の「群像」4月号にて発表された同名長編の書籍化。2015〜2016年にかけての作家「笙野頼子」と、彼女の家の台所に住む荒神との視点から「戦前」としか言いようのない現状が描かれている。

前作「ひょうすべの国」同様、TPPの持つ危険性について語る若宮にに様および作家。と同時に、作家本人とギドウの病状、そして生前のドーラのことが語られる。わがまま気まま女王様気質だと思われていたドーラだが、それは勘違いで、実際は病気持ち(当時の本人はまだ知る由もないが)である作家を引き留め、無理をさせないための行動だったに違いない……と作家は振り返るのだ。

ここで繰り返し語られるのは「見えなかったものが見えてくる」ということ。自身の病気を知り、ほんとうのルーツを知ったことで、過去は塗り替えられていく。これまで何度も語られてきた――もちろん本作でも――政治家たち、あるいは人喰いたちによる「見えないものはないことと同じ」「だから奪って食ってなかったことにしてもいい」というような論調。しかし作家がこうして「見えなかったものを見ようとする」ことで、隠されようとしていた欺瞞は暴けるということが証明されているのではないか。病気、あるいは食事といった身近な事柄が取り上げられることで、現実に危機が差し迫っているということをひしひしと感じさせられる。そして同時に、生きていくうえでこれらがどれだけ大事なのかということも。台所は死を生に裏返す場所――死んだ食材を調理し、食べることで生を繋ぐ場所という解釈がとても印象に残った。その台所が生活の中心になっているということは、生きるという決意、あるいは生きてほしいという祈りを示しているような気がした。

ひょうすべの国――植民人喰い条約
笙野 頼子
河出書房新社
2016-11-26

主要国においてTPPの調印と批准が行われた――そこからにっほんの地獄は始まった。やってきた「ひょうすべ」――「NPOひょうげんがすべて」は、カギカッコ付きの言説で言葉巧みに政治家を誘導しハンコを押させる。そこで取り決められたのはひょうすべがすべての利権を掌握できる仕組み。例えば薬代は高騰し、国民保険も解体され、病人は満足な治療を受けられず死んでゆく。保険金だってまともに下りない。店に並ぶ肉なんて何の肉か分かったものではない。しかし少女の「権利」を守ることには熱心で、声高に彼女たちの「権利」を主張し遊郭へ送り込む。男は常に被害者ぶり女は虐げられる、すべては男の「権利」のため。そんな地獄を埴輪詩歌は生き抜いてゆく。少女遊郭に入り浸る父親や、趣味にいそしむ母親を横目に、膠原病に苦しみながらも大学で講師として働く祖母からごくまっとうな――しかしこの時代では反権力的な――教育を受けて。しかし祖母は死に、残された詩歌が生きるために取れる道はほとんど残されていなかった……。

「文藝」に2012〜2016年にかけて発表された「ひょうすべ」シリーズがついに書籍化。今回の焦点はTPP――自由経済の名の下に企業が国を超えた存在となり、人々を食い物にしていく未来を幻視してゆく。

TPP、そしてひょうすべによって蹂躙されるにっほんで生き抜こうとするのは埴輪詩歌――「だいにっほん」シリーズに登場した埴輪いぶきの母。彼女がどんな教育を受け、そしていぶきたちを産むに至ったかが描かれてゆく。そんな彼女の半生は、地獄となったにっほんの縮図そのものだ。無責任に押されたハンコのおかげで割を食うのは一般人――声を上げることも許されずただ「世界企業」に売られ、搾取され続ける存在。ひょうすべは搾取する手段に事欠かない。大切なことはいつだって小さく、なんなら書類の裏側にしか書かれていない。けれど書いてあるからにはないことにはならないのだ。そして一方で、詩歌たちの存在は、声は、見て見ないふりをする。見えなければないことになるからだ。またしてもこの言説がもっともらしく、しかし大きな壁となって物語中にそびえたっている。

そんな詩歌にウラミズモの「男」との縁談話が持ち上がるのだが(ただし結果としてこの話はナシになっている)、あちらはあちらで相変わらずきな臭い。一見すればにっほんと比べて天国のような場所にも見えるが、こちらからは――というよりは女性の目からは?――見えにくい問題が存在しているような雰囲気を漂わせている。しかしひょうすべによって骨抜きにされたにっほんがウラミズモに勝てるはずもなく、2067年、ついににっほんはウラミズモに占領される。詩歌もいぶきも死んだ、そのあとで。TPPの網から逃れているウラミズモは、この先「世界」とどう渡り合ってゆくのだろうか。

ディストピアと称されているが、この物語が現実にならないとはとても言い切れない。ここで描かれるにっほんの姿には絶望しかないが、であればこの先、ウラミズモが辿る道はもうひとつの未来――希望の道となりえるのかもしれない。その未来は、けれど今書くことはできないだろう。これから就任する米国の新大統領がこの先どういう舵取りをするかで、ウラミズモの未来もまた変わってくるのだろうから。

猫キャンパス荒神猫キャンパス荒神
笙野 頼子

河出書房新社 2014-12-25
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これまで信じていた自分の経歴の一部が虚偽であったことが分かった。そして「伴侶」であった愛猫と死別した。深い喪失を抱えた作家はただワープロに何かを打ち込んでいたが、そこに「私」はなかった。「私」以外の何者かが手を動かし、文章を紡いでゆく。ある時は「荒神」若宮にに様の来歴を。ある時は作家の身体の本来の持ち主であったイザ・ナビ童女の呟きを。またある時はヒトとして生きてきた「金毘羅」であるところの作家自身が遭遇した大きな事件――伴侶との別離、そして2011年3月に起きた震災のことを……。

2012年に文芸誌「すばる」に掲載された「猫キャンパス荒神」の書籍化。荒神シリーズとしては3作目となる。なお、この作品は「未闘病記」以前に書かれたものであるため、作者および作中の主人公が長年悩まされていた「身体の不具合」が膠原病によるものと発覚する前の物語。よってそのあたりをリセットさせるための「謹告」が冒頭に置かれていたりする。

前作「猫ダンジョン荒神」で愛猫ドーラを喪いそうになった「私」は、その記憶を閉じ込めるがごとくダンジョンを作って閉じこもろうとしていた。しかし実際にドーラを喪ってしまった今作では、それが失敗に終わったことが語られる。そこに彼女がいないという事実と、悲しみとは両立せず、どちらかが不意に襲ってくる――そんな状態。ただでさえその存在に揺らぎがあった「金毘羅」は、これまで精神的支柱となっていた伴侶の死に耐えきれなかったのかもしれない。けれど空虚な身体はそれでも言葉を紡ぎ続けた。そこに「私」があろうとなかろうと、その身体は書くための機械になる。あたかも神を降ろしその言葉をかたる託宣の巫女のように。

そしてもう一方で語られるのは、「私」の家にようやく定着しつつある荒神・若宮にに様のこれまでの歴史。これまで「私」は様々な神を信仰してきたが、実はその裏には荒神の涙ぐましい努力があってね……という展開なのだが、ここでなされているのはやはり「語り直し」。これまでの不具合の正体が判明したことで「未闘病記」を執筆し過去を振り返ったように、新しい神を正式に迎えることで、作者はまた自身の過去を振り返っている。見えていなかったものが見えるようになったことで、これまでの誤りを正すというその姿勢は、これまでと一貫しているもの。喪失の狭間で、それでもここまで冷静に、外側から事象を俯瞰し書き上げるその胆力にはただ驚くばかり。

現在、作者そして作中の「私」は某大学へ講師として招かれ、実作の講義をしているという。こうして見ると復調したかのようにも見えるが、一方では「別人として」動いているというようなことも書かれている。講師としての彼女は公人であり、学生という他者と関わるために作り上げた、外向きの、「教える」用の新たな人格なのかもしれない。けれどそれだって結局「もうひとりの彼女」、その内面からわき出ずるもうひとりの自分なのだと思う。喪失を経て生まれた(生まざるを得なかった)もうひとりの自分という存在は、今後の「語り直し」にも大きく影響してくるのだろう。喪失、病、荒神、そして新たなる自分――新しく見えてきたもの。


◇前巻→「小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神」

群像 2014年 05月号 [雑誌]群像 2014年 05月号 [雑誌]

講談社 2014-04-07
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膠原病の一種「混合性結合組織病」であることが判明した作家・笙野頼子。だがその病の不可解性に反し、彼女の体調は以前よりも逆に良くなっているように見えた。投薬によるものとはいえ、病気の発覚前に比べると、身体の動き具合がまったく違い、「なんでも/できる」ような状態になっていて……。

雑誌「群像」2014年5月号掲載の「未闘病記」後篇。
病を宣告され、投薬生活を送る作者のその後と現状が綴られてゆく。

投薬中であるからして油断は禁物。完治しているわけではないので、ほんの小さな怪我なんかが命取りになる場合すらある。そう担当医には言われるものの、以前に比べれば段違いに「健康」になっている作者。愛猫の世話は言うに及ばず、階段の上り下りも、庭の手入れも、大学での講義や課外授業もなんのその。それは「痛み」であり「死にたい」と思うその状態が――少なくとも現時点では――克服されているから。

いつ薬が効かなくなるかわからないし、いつ病状が悪化するかわからない。どこに病状が出るかまったく読めない。そんな綱渡りのような、不自由の中の自由、ではある。けれどここに作者は幸福を見出す。出来なかったことが出来る喜び。意味のわからなかった倦怠感・不安感が、「病」という明確な原因を得たことで、意味のわかるものになったという安心感。自身が病気にかかっているということは一見不幸なことに思えるが、ことこの作者については、それは不幸一辺倒のものではなかった。だからこその「【未】闘病記」――病と未だ闘ってはいない記録、ということなのだろう。そして病と共存しながら、作者は再び金毘羅に戻ってゆくという。今後の作者の語り口がどうなっていくか、(不謹慎かもしれないが)とても興味深いと思う。


◇前篇→「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病』の(前篇)」

母の発達、永遠に/猫トイレット荒神母の発達、永遠に/猫トイレット荒神
笙野 頼子

河出書房新社 2013-02-23
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老猫の介護をしつつ小説を書き論争を続ける作家・笙野――しかしてその実態は、生まれて間もなく死んでしまったこどもの身体を乗っ取った「金毘羅」。それゆえの生きにくさを抱えながらこれまでなんとか過ごしてきた笙野だったが、不意に自分の生い立ちが――自分という人間が形成されてゆく過程で、そのルーツとされていた部分が、すべて虚偽であったことを知る。ただでさえヒトの身に閉じ込められた金毘羅という不自由かつ不自然な立場も手伝って、寄る辺を失ってゆく笙野。やがて自我は揺らぎ、「俺」あるいは「私」と定義していた人称が「あたし」に変わってしまう始末。そんな時、彼女の前に荒神が現れる。名は若宮にに。人の道御三神の御子。子猫の姿を取るこの神は、クイズに正解すれば、笙野の家で何の守護も受けていないトイレに便所神を招いてやろうと言い出して……。

「荒神」シリーズの序章にあたる「猫トイレット荒神」に加え、「母の発達」の続編となる短編を収録した作品集。

様々な自分なりの「信仰」を経て、今回語り手の前に現れたのは荒神、地神、そして便所神。いずれも朝廷によって存在を抹消され、元いた場所を追われた神々。けれどその存在は、根の部分は「濃い」。ゆえに消えることなく、土地と人の境界線上を渡り歩いてここまで存続してきた存在。
対して語り手である笙野は、ただでさえ人間の身体に金毘羅の精神という微妙な――人でもなければ神でもない――いや、どちらかといえば人に近いけれど、けれどやっぱりどちらとも言えない存在。かてて加えて、このたび判明した自身のルーツの揺らぎ。そして心の拠り所である愛猫の老いと病。そんな笙野に荒神、そして地神はクイズを出す。

世界は謎に満ちている。それは恣意的なものだ。都合の悪いものを隠したいという「誰か」の思惑。けれどクイズに答えることで、虚偽の幕を引き剥がし、隠されたものをあらわにしていこうとする力に、この小説は満ちている。日常を、過去を、世界を語り直すことで世界は変わってゆく。だがその試みのさなか、作者は大きな病を得ることになる。今後、この「語り直し」はいったいどうなってしまうのだろうか。


◇本編→「小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神」

群像 2014年 04月号 [雑誌]群像 2014年 04月号 [雑誌]

講談社 2014-03-07
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難病になった、と作者は語る。これまで間断なく続いてきた、けれど休めば治ると思っていた体調不良は、この病によるものという可能性もある。今でも確かに休めば治ることもあるが、そうでないこともある。ギドウだけになってしまった愛猫の世話はおろか、ベッドから起き上がることすら難しいことも。作者がかかってしまったのは、すぐ死に結びつくわけではない、けれど経過を見続けないことにはどう転ぶかわからないという、そんな難病――膠原病の中のひとつである「混合性結合組織病」とはさて一体どのようなものなのか……。

文芸誌「群像」2014年4月号に発表されている新作長編、その前篇となる本作は、告白小説というか、でもやっぱりいつも通りの笙野文学というか。「混合性結合組織病」であることが判明した作者による、過去の語り直しと現状について。

よくある体調不良だと思っていたことが、実は難病のせいだったのかもしれない。これまで感じてきた生きにくさは、それではなんだったのか。現実にうまく馴染めないという自身の経験を神の存在に仮託して語ったのが「金毘羅」だったが、それに明確な――とりあえずは、その正確な意味はわからなくても、事象に名前が付いたことで、見えないものが見えてくるようになり、そのせいで変わってくるものがある。その事実をまっすぐ見つめ、再び語り始めた作者。「難病」というレッテルが貼られたとしても、作者と作品の距離は変わらない――変わらないようにするために、この記録はなされているのかもしれない。とまれ、来月発表予定の後篇を待ちたいところ。

小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神
笙野 頼子

講談社 2012-09-28
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作家の笙野は4匹いたはずの飼い猫たちを立て続けに2匹亡くし、そして今また、残る2匹のうち高齢で認知症を患うドーラを付きっきりで介護し続けていたのだが、そんな中でも論敵からの攻撃や複雑な家庭の事情がなくなるわけではなかった。しかもこのたび、これまで彼女が信じてきた自分の家族の成り立ちに虚偽が含まれていたことが分かる。さらにこの頃、彼女にはある「声」が聞こえていた。それは荒神の声。託宣の声。そしてもうひとりの「あたし」の声で……。

2010年に「すばる」にて発表された、「小説神変理層夢経」シリーズ第1章。
実際はこの前に「文藝」で発表された「序章」となる作品があるようなのだが、残念ながらそちらは未読なうえ、まだ書籍化されていなかったりする。まあそれはさておき。

これまでの流れと同様、主人公は猫と共に建売住宅で暮らす作家の笙野。しかし彼女は人間ではなく、生まれてすぐに死んだ赤ん坊の身体を乗っ取った、野性の神「金毘羅」。それゆえに普通の人間とは異なる感性を持ち、どうしようもない生きづらさを抱え続けていた。さらに彼女を支えていた猫が次々と失われ、今またドーラが治ることのない病を得てしまう。そんな時に気付いたのが、家の中にいた「荒神」の存在。とはいえそれは一般的な「台所の神様」ではなく、すべてを奪われ追いやられた原始の神のひとつであり、マルチプレイヤーな「言葉の神」であった。3つの人格(神格?)を持つその荒神は笙野に囁く。そしてそれによって救われる笙野。だがそこにもうひとつ現れたのが、自身を「あたし」と呼ぶ声――金毘羅に身体を乗っ取られた「笙野」の中身というか魂というか精神というか。言わば「本物の笙野」というところだろうか。

「あたし」が現れた頃から、笙野の語りの中には「あたし」が混じり始める。パソコンの文書の中だけに存在するのかと思いきや、時に笙野の一人称が不意に「私」から「あたし」になっていることもある。「あたし」は笙野と付かず離れずの位置にいると述べてはいるが、岡山での神降ろしの「経験」が笙野ではなく「あたし」の経験だというところを見ると、彼女は外ではなく内に棲むものなのかとも思ってしまう。

そんな感じで今回のテーマは「言葉」なのかもしれない。
託宣の神の声。存在しないはずの、死んだはずの「あたし」の声。言葉を持たない猫との生活の中で聞こえてくる声。失われたものたちが語りかけてくる、その言葉。けれど声はあとに残らず、消えてしまうもの。聞いた本人にしかその存在が分からないもの。だから笙野はそれを言葉として書きとめる。なかったことにしないために。ドーラとの日々が、大変ではあるけれど、幸福であったことを示すために。「猫が死ぬのが怖くて小説が書けません」と笙野は荒神に訴えたけれど、実際に書けない日々はあったけれど、それでも猫ダンジョンなるものを作ってまで、彼女は書いた。失ってしまっては書けないから、せめて失うまでは、と。その切なる想いが胸に刺さる。と同時に、託宣の神は、言葉の神は、この主人公本人のことではないかとも思った。

人の道御三神といろはにブロガーズ人の道御三神といろはにブロガーズ
笙野 頼子

河出書房新社 2011-03-23
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古代、宇佐地方を守り、原始八幡と呼ばれていた三柱の神様は、「空の民」ヤマトの天孫たちに追い立てられ放浪の旅を続けていた。そんな「人の道」を歩み続ける御三神がこの現代で見出したのはネットの中。長い時を経て定住する地を持たない――持つことのできない御三神は、S倉に住まう野性の金毘羅を利用してネット巡行をお始めになり……。

「文藝」2009年春号および夏号にて発表の「人の道 御三神――人の道御三神といろはにブロガーズ」に加筆・修正を加え、単行本化された作品。
気付きにくいけれど、よくよく見れば確かに方々に転がっている「構造」――大きいところで見れば社会の仕組、とか――を、架空の神様である「人の道御三神」を通して描く物語。ヤマトの、ひいては日本の歴史とは、徴税と収奪の歴史。御三神はわかりやすいくらいにこのシステムの被害者であり、けれどそのシステムをもってしても無視しきれない存在でもある。全能で、場合によっては福神だったり凶神だったりと柔軟な行動が可能。いろいろなものを上書きしてきたヤマトの神々と違って、オリジナルだからとにかく濃ゆい。

何もかも均等に覆い隠して、その場では見えないようにする。見えなければ「ない」ものとして無視することができるし、見えなければそのうち、人々の記憶からは消えてしまい、本当になかったことにされてしまう。けれど「ない」ものとして無視しようとするのは意識的に強制的にしなければならない行為であり、だからこそどこかに瑕疵は存在する。みんなが忘れようとしても、忘れさせようとしても、覚えている誰かはどこかにいる。さらに、隠されてしまった側が動き出してしまえば、それはもうなかったことにはならない。

野性の金毘羅である作家「笙野」は、論敵だけでなく身内からの理不尽な攻撃に耐えつつ、年老いた飼い猫の介護に追われていた。自身の尾を噛もうとする猫をじっと見張り、見えないようにシーツで隠してしまう。見えなければないものとして、猫は噛むのをやめる。猫にとってだって、見えなければないのと同じ。けれど尾を少しでも動かせばシーツはずれてしまい、また見えてしまう。そうすればまた噛もうとする。その繰り返し。

御三神と天孫との抗争(あるいは一方的な攻撃)は繰り返される。そして「笙野」と論敵(まあ「敵」というのもおこがましいようなレベルだったりするようだが……)たちの、不毛とさえいえる戦い(こちらも一方的な攻撃)も。でも「なかったことにする」という戦法に対して、通り過ぎるまで黙って見守る、あるいは無視するという対応は通用しない。そうするともう向こうの思うつぼだから。作者のおかれている現状が、そして現在の世の中に存在する問題が垣間見えたような気がした。

なお、雑誌掲載時に予告されていた書き下ろしは「楽しい!? 論争福袋」にタイトル変更。没にした論争エッセイ、短編、日記などなど、タイトル通り福袋のごとく詰め込まれている模様。なんかもう脱力感がいろいろとすごい。でも相手にしないわけにはいかないんだろうな、と思わずため息が出てしまった。

金毘羅 (河出文庫)金毘羅 (河出文庫)
笙野 頼子

河出書房新社 2010-09-03
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ある嵐の夜、不意に深海から浮かび上がってきた「私」は、その夜生まれ、同時に死んだ女の子の身体に宿ってしまった。それから40年を経て、「私」は自分が何者だったのかを知ることになる――いわく、自分は「金毘羅」なのだと……。

文庫化に際して再読。
「金毘羅」であることを自覚した「私」は、これまでの生きにくかった半生を振り返る。人間とは一線を画すメンタリティを抱えているがゆえに、人間としての常識が分からなかった「私」。そんな彼女を、家族は男として育てようとする。女であるのに男――その矛盾まで抱え込まされ、「私」はさらに歪んでゆく。だがその歪みの中で、「私」は自身の正体を知らぬまま、信仰の対象を求めてさまよい続ける。

都合の悪い首長や女首長は消され、都合のいい男の首長にすげ替えられ、そうやって事実は書き換えられてゆく――騙られていく。それは今も昔も、人も神も変わらない。
自身のルーツ、消された信仰、習合と分離――何も知らぬまま生きてきた半生を、すべて解ってから振り返ってみると、見えなかったものが見えてくる。そして見えなくされていた「私」もまた、見えてくる。そうやってすべてを、そして自身を語り直し、「所有」していく、そんな物語。

人が生きていくためには《私》を所有していかざるを得ない。しかし権力は、人が「所有」するものを根こそぎ奪ってゆく。それを奪われぬよう戦うこともまた、生きることなのだろう。そしてこの金毘羅である「私」は、全身全霊をかけて、言葉を尽くして戦ってゆく――笙野作品に通底するそんなテーマが、この作品には凝縮されている。とすれば、これはすべての始まりの物語と言えるのだろう。

海底八幡宮海底八幡宮

河出書房新社 2009-09-17
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2008年に「すばる」にて発表された同作の単行本化。

手を替え品を替えて「存在」そのものを奪い去ってゆく「捕獲装置」の存在を知らしめられて――あるひとりの小説家は、近づいてくる愛猫の死の予兆に抗いながら、海の底に沈む原始八幡宮を幻視する。存在を「徴税」され書き換えられ、なかったことにされた原始八幡、その主である亜知海との「接続」。亜知海というフィルターを通して見えてくるのは、現代における徴税装置の、その仕組み。そして、奪われる側の叫びの声。

一度でもわずかでも、書き換えられてしまったものは、後から見ると真実が――書き換え前の状態がどうだったか分からなくなってしまう。調べる術はもちろんあるだろうが、そもそも目の前に提示された「現実」をいきなり根底から疑う者はそうそういない。だから書き換えてしまったもの勝ち。まさに後出しじゃんけん。このモチーフを繰り返し作者が訴えるのは、このことを理解してほしい人たち(いわゆる「ニュー評論家」たち?)がいつまでたっても理解してくれないからだろうか。あるいははるか昔から続いてきたことだからこそ、抗う側にも同等の年数が必要とされるということか。――それもあるのだろうけど、一番はやっぱり、巻末「捕獲装置とは何か」にある通り、時間はずいぶん流れているのに、昨今の「敵方」が過去の「敵」の劣化バージョンしかいないせいなのかも。

文藝 2009年 05月号 [雑誌]文藝 2009年 05月号 [雑誌]

河出書房新社 2009-04-07
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「文藝」2009年夏号掲載の本作は、前号に掲載された「前篇」の続き。後出しじゃんけんのごとく後からやってきたヤマトの神々に追い出された御三神は放浪の旅に出る。後出しというのはすなわち狡いやり方ではあるけれど、大声で言った方が正しくなる「馬鹿の論理」のような理屈で御三神は追われ続ける。そうして御三神は地上にも居場所をなくし、ついにたどり着いたのがネットの世界。書物というかっちりした言葉の中ではなく、常に流動し、真実も嘘も欺瞞も含め、あらゆるものを内包するネットという情報の海に、かくして御三神は船出する。その名もいろはにブログ巡行。

居場所をなくした御三神がたどり着いたのはネットの中。ここには何でもあるが、裏を返せば何もないとも言える。見えるけど見えない。真実と虚偽の線引きもなく、発言者の顔も見えない、そんな場所。そこに住まうということは、どこまでいっても発言者同士が対等であることができるという利点がある。御三神はまあ神だから「上から目線」な行動を取っているが、所詮は電気信号、敵対する者がいれば、それを消すことはたやすいと言うのもまた事実。けれど消されてもまた手を変え品を変えて「復活」できるのもまた利点。先般からブログを使って妙な波状攻撃を仕掛けてくる「ニュー評論家」の存在を逆手に取ったのが、本作のスタンスなのかとも思う。

さて、「三姉妹」をキーワードとしたブログに現れる次々と御三神。出てくるブログはどれもこれもフィクションではあるだろうが、その多彩な駄目さ加減が笑えると同時に、「母の発達」を思い出させる。あの時はあいうえおの母だったが、今回はいろは。いろはの最後は「す」で、御三神が向かうのは寸志のブログか須礼戸のブログか。どちらにせよ「す」のつくブログが最後に来るようにきちんと「設計」されている。いや、逆かもしれない。まあこれは些事ではあろうが。

ブログ巡行のくだりは近作の中でも久しぶりになかなか笑える展開なのだが、それ以外はやはり暗澹とするようなことも書かれている。そして最終項として提示されていた「おまけ、何が出てくるやら判らぬトロイのスパイウェア福袋です」は単行本での書き下ろしになるとのこと。「何が出てくるやら判らぬ」というくだりに期待。

文藝 2009年 02月号 [雑誌]文藝 2009年 02月号 [雑誌]

河出書房新社 2009-01-07
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「文藝」2009年春号掲載の笙野頼子最新作、前篇。

縦書きで水中画像しかない妙なサイトがあった。海底八幡宮、野生金毘羅宮という奇妙な鳥居群の中にひっそりと「人の道御神宮建設予定地」はあった――以降、宗潟三女神に追い立てられ放浪する三女神「人の道御三神」の来歴を中心に、日本古代史の真実を語り換えていく。もちろん語り手はおなじみ「野生の金毘羅」。

濃すぎるあまりにヤマトによって追放されつづける三女神。その複雑さ緻密さは、彼女たちにとって代わったヤマト、「空の民」たちにはないもの。だから都合の悪い彼女たちをヤマトは追い立て、居場所を奪い続ける。見なかったことにする。けれど濃すぎるあまりどこか抜けているのかあるいは無頓着なのか、三女神は追われても追われても、またどこかに不意に現れる。その展開は奇妙で、けれど面白すぎる。しょせん「天然」には勝てないのですよ――という簡単な話ではないけれど。

本作ではある程度見出しが提示されているので、順序立てて読むことができて、いろいろと考えやすいのではないかと思う(……単に氏の文章に慣れただけ、ということかもしれないが……)。
続きがとても気になるところ。次号に載ればいいのだが。

おはよう、水晶-おやすみ、水晶おはよう、水晶―おやすみ、水晶
笙野 頼子

筑摩書房 2008-12
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笙野頼子の最新刊は2006〜2008年にかけて「ちくま」に連載されたもの。この2年間に起こったのであろう出来事をなぞりつつ、「ろむる」というヒトトンボとの遭遇を書いていく、まさに3部作完結前後の時期の総括のような作品。

作品の執筆、雑誌で組まれる特集、論敵や他作家・編集者からの妨害――まさに心身共に削りながら、神や権現に祈り、水晶を握りしめて日々を生きていく「私」。だが愛猫の死が「私」に与えた影響はあまりにも大きすぎた。ともすれば死に向かおうとする精神の中で視えた「ヒトトンボ」の姿。追体験なのか現在見えているのかもよく分からないまま、人の形をしたその「生物」を目で追っていく。

生きていくために拠り所にしているなにかというのは誰にだってあるはずだが、それが喪われてしまった時に覚える感情というのは想像に難い。その拠り所がどれだけ自分の魂にまで食い込んでいたかで「痛み」の度合いは変わってくる。私にもそれなりの拠り所はあるけれど、それが不意になくなってしまったらどうなるだろうか。そう考えるとすごくこわいし、だから「私」の痛みを完全に理解することはできなくても、共感はできる。

そんな「私」の絶望からの再生の道は、タイトルにもあるように、物語の随所に現れる水晶に示されている。中に傷が入っているものだったり、いったん欠けたところからさらに生えてきたものだったり……そんなふうに完全なかたちではないものだが、歪みとして切り捨てて見ないのではなく、積極的に受け入れる。ありのままの、真実の姿を伝える巫女としてのスタンスにも重なりあうようで、印象に残った。続きを読む

笙野頼子「海底八幡宮」(「すばる」2008年9月号)

新作は〈俺〉の物語「金毘羅」、〈君〉の物語「萌神分魂譜」につづく〈彼〉の物語。「だいにっほん」3部作とつながり、この先の展開を導いていく物語。

物語――ものをかたること。かたりは「語り」であり「騙り」である。笙野頼子の物語は、騙られたことを語ってゆくものだと個人的に思っている。真実を歪めて「正史」を紡いでいくこと。あるべきはずのものを見えなくすること。皆が真実だと思っている事柄の本質を叫ぶ巫女としての役割を負っているのが、金毘羅である「私」なのかもしれない……なんて、今更ながら再確認。ならばフォイエルバッハだとか千プラだとかは巫女が神降ろしに使う呪具なのだろうな、とか。

今回現れた〈彼〉は、海の底で怨念を抱えて生きてきた亜知海なる神。〈彼〉は、ヤマトによるあらゆるものの収奪を「徴税」だと言い換える。金銭的なものに限らず、上はさまざまなものを下から取り立てる。命もそう。その話を聞いて、金毘羅であるところの「私」は、自分の置かれている現状も「徴税」された結果であるし、現在もなお「徴税」されつづけていることに気づく。たとえばドーラの命を、たとえば自分の時間を、周囲の人々を。例のニュー評論家に加え、高齢のとある女性作家――「白山黒尼」から。個人を潰され、なかったことにされ、従わされる。だから「私」はそうされないように戦うのだ。

本作ではとんと姿を見せなくなった〈君〉である萌神だが、こちらは亜知海によれば「ヒメ」である〈私〉に対応する「ヒコ」なのだという。神を降ろし託宣を伝える「ヒメ」と、その神的パートナーである「ヒコ」。とはいえ、「ヒメ」が女でなくともよい、というのには目を開かされた。「ヒメ」が男だったら女装すればいいという。「だいにっほん」3部作で野々百合子が女装していたのは、彼が託宣の「ヒメ」「巫女」だからなのか、と思ったり。で、百合子の「ヒコ」が歌錦祥瑞だった、とか。

最後に余談。
倉敷に「阿智神社」というのがあるのだが、古代、この神社があるあたり「阿知海」という海で、そこに土砂が堆積して平野となり、さらに応神天皇の時代、ここに大陸から阿知使主という、石や鉄を加工する技術者の一族が渡ってきて帰化したとか。また、神功皇后がこのあたりで嵐に遭ってしまった際に祈願したところ、3振の剣が天下ってきたため、宗像3女神を祀る「明剣宮」を作り、それが現在の神社のもとになったのだとか。
……なにやら、本作中に散見される単語が……。
意外と身近にも、関係ありそうな逸話が転がっていたようである。本作を読んだ後だと、この神社にも何か別の姿があったのではないか、とか考えてしまう。

笙野頼子「九条越え前夜と火星人少女遊廓の誕生」(「論座」2008年6月号)

「論座」掲載の新作短編は、完全に「ろりりべ」の続き。しかもややエッセイ風味。頭上で響く太鼓の音から「二百回忌」所収の「アケボノノ帯」について思い出したり、「シゲユキハスミ」を引用したり、≪告白実用小説「キャラクターズの一生」を書いて≫みようとするなど、のっけからアクセル全開ではある。そして「私」に生えた蛇の内の1体、肌色の≪笙野頼子≫は、いまだに「孤高愚弄之介」列伝を書き続けていた……。

冒頭から響く太鼓の音。終盤で聞こえていたその音は、キーボードを叩く音に変わってはいないだろうか。いつしか「私」は自らキーボードを叩いていた。それはきっと、これからも書き続けるのだという強い意志。

作中の≪笙野頼子≫は、炉里竹に語らせる――≪言葉の力はここまで人間を変形させるのだ≫と。それは比喩ではないのだろう。言葉は人間を、社会を、すべてを変えていく。おんたこは言葉によってあるものをなくし、ないものをあらわし、あらゆるものをすり替えていく。そしてそれに立ち向かう「私」たちもまた、言葉をつくして戦うしかないのだ。「レストレス・ドリーム」で、言葉を解体して書き換えて戦った桃木跳蛇のように。

「だいにっほん、いかふぇみうんざり考」の発表が待たれるところ。

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