phantasmagoria

読んだ本のこと、それ以上に買った本のこと、ときどきライブのことを書き散らかしてみたりする。

カテゴリ: 長嶋有

もう生まれたくない
長嶋 有
講談社
2017-06-29

A大学の学内診療室に勤めている首藤春菜は、ある日新聞でX JAPANの元メンバー・TAIJIの訃報を目にする。それを聞いた同僚の小波美里は、そういえば昔TAIJIに会ったことがあったな、と思い出す。実際はTVゲームの中の話だし、TAIJIではない別のメンバーだったことが後でわかるのだが。そんなふたりの共通の友人である清掃員の根津神子は、食堂に置かれていた新聞で、トムラウシでの遭難事故の犠牲者が三回忌を迎えたという記事を目にし、親戚がまったく同じ日、同じ山に登っていたが運よく遭難しなかったという話を思い出す。犠牲者と神子の親戚の間にあった「ちょっとの差」――つまり死ぬか、死ななかったかの差――がなんだったのかはわからない。しかし3月に起きた地震ではそれが「数字で」表されていた。そのことがどこかで納得できないのだった……。

「群像」2017年1月号で発表されていた本作は、人の「死」について様々な想いを巡らせてゆく物語。

A大学の職員である春菜と美里、清掃員の神子、大学生の遊里奈や素成夫、講師の布田、そして美里の元夫の名村。彼女たちは日々の生活の中で様々な「死」に接することになる。ひとつは有名人の死――つまりは「知っている」けど身近ではない死。新聞やニュース、あるいはだれかとの会話の中で出てくるそれはあくまでも「話題」であるけれど、それを知ることで彼らの残した業績を思い出し、それにまつわる私的な体験をもよみがえらせることになる。そしてもうひとつは身近な人の死――よく知っている人の死、あるいは自分自身に迫る死。これは「実体験」であるからして、前者とは異なり、その人の生活だとか在り方だとかに容赦なく影響してくる。

生きている以上、誰ひとりとして逃れることができないのが「死」という現象。それを肌身に感じた時、人はどうなってしまうのか。見知らぬ人の死にだって涙を流すことはある。逆によく知った人の死を目の当たりにすると、涙すら出ないこともあるだろう。ただその喪失が何をもたらすかは、対象によっても、そしてそれを受け取る当人によっても様々な違いがある。そうやって人の在り方が変容してしまう様子が、日々の些細な出来事や感じたことと一緒に描かれていく。海の底のような深い場所に、何かがしんと降り積もるように、ただ静かに。

三の隣は五号室
長嶋 有
中央公論新社
2016-06-08

第一藤岡荘の五号室は、代々の住人たちのほとんどから「変な間取りだ」と思われていた。玄関を真ん中に置き、その左手に浴室、右手にトイレ。向かって左側は四畳半の和室(出入口は障子)で右手は台所(出入口は扉)。そしてその2部屋の奥に六畳の和室がある。ふたつの和室と台所はそれぞれ隣接する部分が障子となり行き来できるようになっているため、四畳半の和室は三方すべてを障子に囲まれていることになるのだ。そんな五号室に住んでいた顔ぶれもまた、多岐にわたる。単身者もいれば夫婦もいるし、単身赴任でやってきた者もいれば学生もいる。彼らは過去の住人たちの遺した痕跡と共に生活し、新たな痕跡を残し、そして出ていくのだった……。

2015年に「アンデル 小さな文芸誌」に連載されていた、とあるアパートの1室をめぐる連作集。ちなみに本作に登場するのは歴代13人の住人たち(しかも名前に入居順の数字が組み込まれているため、時系列がとてもわかりやすい・笑)で、その経過時間は1966〜2016年の計50年間にもわたるので、年代記的群像劇とでも言えばいいだろうか。

まず面白いのがこの本の構造で、表紙をめくるといきなり本文が始まる。「第一話 変な間取り」と題されたエピソードでは、代々の住人たちによる「第一藤岡荘 五号室」の間取りに対する感想がつらつらと語られる。捉え方は様々だが、やはり皆この部屋の四畳半の和室のつくりに注目しており、人によっていろいろな使い方をしているのが面白い。そんなイントロダクションめいた(とはいえ実際に「そう」なのだろうが)エピソードが終わって初めて、タイトルページが現れる。装丁の言葉をそのまま借りるなら、まるで映画のアバンタイトルのように。そして歴代住人たちの言葉でぼんやりと想像されていたこの部屋の間取り図と、本作の目次がようやく現れるのだ。この形容しがたい物語の導入としてはとてもよくできているなあ、と思わずふむふむと頷かされてしまった。

以後、各話ごとにあるテーマが設けられ、それにまつわる住人たちのエピソードが断片的に語られていく。シンク、雨と風邪、来客、停電、テレビ……などなど。決して大きな事件が起こるわけではなく(実は犯罪っぽい出来事の形跡もあるっちゃあるのだがそれはさておき)、この部屋で彼らが暮らして――生きてゆくという営みそのものが淡々と描かれてゆく。そこには時折、現実の固有名詞が混ぜ込まれることによって、いくばくかのリアリティが足され、より「日常」というものが浮き彫りになってゆくのだ。ただそこに存在している瑣末な出来事――しかし時にそれは何かの転機になることもある。そんな「ただそれだけのこと」をここまで丁寧に、そして確実に描き、物語として成立させた作品というのは、昨今ではあまりないのではないだろうか。そしてそんなたくさんの積み重ねが、最終的には「懐かしい」という簡単なひとことで片付いてしまうという無常さも。

愛のようだ
長嶋 有
リトル・モア
2015-11-20

40代になってから運転免許を取ったライターの戸倉は、友人である同い年の須崎、そしてその彼女である年下の女性・琴美と共にドライブへ出かける。行き先は伊勢神宮。須崎と交代で運転しながら、取りとめのない会話をする3人。実は琴美は手術を受け、現在は一時退院の身。再発の可能性は50パーセント、そして再発すれば助からないとも言われていた。須崎は琴美の快癒を願って伊勢神宮へ行こうとしているのだ、と戸倉は当然気付いていた。そしてその道中、不意に戸倉は琴美のことが好きになってしまったことに気付き、戸惑っていた……。

書き下ろしとなる本作は、タイトルにもあるように、この作者にしては珍しいくらいに「愛」をストレートに描いた長編小説。

40代の戸倉が、年下の、しかも友人の彼女である女性に恋をした。そのことに気付いたのは第1話でのことだが、それ以降、戸倉と琴美の関係は断片的にしか語られない。とにかく各章で登場人物が変わるのだ。第2話では草津温泉へ、第3話では取材のために富山まで、そして第4話では落ち込む友人を励ますため岡山へ、戸倉は友人たちと共に車で向かう。描かれるのは到着地のことではなく、道中、しかも運転中のこと。そして、その車中でかかるBGMや、会話の内容から戸倉が連想した漫画のこと。そんな決まり切った枠組みの中で、戸倉は同乗者たちの恋愛模様を知ることになる。温泉街で手を付けた女が妊娠したらしいという永嶺、恋多き祥太、彼女が欲しい卓郎、彼女にいきなりフラれた神山、離婚した水谷さん。恋をして、けれどそれが幸せに繋がるとは限らない。いきなり終わりを迎えることだってあるし、思いがけない結果をもたらすものだってある。

恋心を自覚し、けれど告白することもできず、戸倉は琴美とメールのやり取りを続けてゆく。くだらないことでも、琴美が気に止めそうなことを写真に撮って送る――それこそがラブレターの代わりだったのかもしれない。けれど結局何も伝えられぬまま、戸倉と琴美の関係は終わりを告げる。琴美からの最後のプレゼントは、戸倉との何気ない会話から生じたものだった。他人から見れば意味が分からない、取るに足らないものだったとしても、当事者たちにしてみればそれがどれほど重い意味を持つか。愛というのはそういうものなのかもしれないなと、腑に落ちたような気がした。

問いのない答え問いのない答え
長嶋 有

文藝春秋 2013-12-09
売り上げランキング : 136315

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
震災の3日後から、作家のネムオはツイッター上で「それはなんでしょう」というゲームを始めていた。それは何らかの問いかけの一部(最後の部分)だけが提示され、参加者は自由に答えを考えていく。問いの全文はその後で改めて提示され、参加者は問いと答えの整合性のなさを楽しむというものだった。顔も本当の名前も知らない、ツイッター上のみでゆるやかに繋がる人々は、自分の日々の暮らしを見直したり、他の参加者たちに想いを馳せたりしながら、この「問いのない答え」を考えてゆく……。

作者の久々の長編は、実際に作者がツイッター上でやっている言葉遊び「それはなんでしょう」を軸に、様々な「(3.11以後の)今」を切り取ってゆく物語。一応章立てはあるものの「●」で区切られているのみで、多数いる登場人物の視点の切り替わりの際もこれといった区切りがなく、連想ゲームのようにつらつらと視点が切り替わっていく様相はまさにツイッターのタイムラインのよう。慣れるまでは読みづらいのだが、慣れてくると視点の切り替わるタイミングの妙がなんとも楽しくなってくる。

タイトルの「問いのない答え」は、問いかけが完全にわからない状態で答えだけを出してゆく「それはなんでしょう」というゲームそのものを意味している。しかしこのゲームの参加者たちは、その「答え」を通して、回答者の想定している「問い」を――ひいては、その想定に秘められた回答者の背景をも読み取ってゆく。そうしてそれを自分に置き換え、さらに想像を広げてゆく。

震災を経て、人々の意識も生き方も、否応なく変わってしまった。変わっていないように見えても、どこかにその痕跡は残っている。想像することで人々はその痕跡に気付かされる。そして変わってしまった世界にも。
その変化が正しいのかそれとも間違っているのか――ひいては「今」をどう生きているか、どう生きるべきか、そこに答えはない。どうすべきかという問いすらも、本当は存在していない。そんなどこにもない問いに対して、私たちは何かを答えなければならないとは思っている。ただしそれは今すぐではなくてもいいのだと、そう言われているような気がした。ツイッター、そして「それはなんでしょう」という道具を使い、日々の欠片を共有しながら、人はそれぞれの「答え」が降りてくるのを待っている。そして「答え」が降りてきたその時、見えなかった「問い」が初めて見えてきて、そこでやっと目の前の現実に納得できるようになるのかもしれない。

佐渡の三人佐渡の三人
長嶋 有

講談社 2012-09-26
売り上げランキング : 38954

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
作家の道子は、祖父母の家の隣に住んでいる親戚のおばちゃん(正確には祖父の弟=大叔父の奥さん)の納骨のため、弟と父と3人で一族の墓のある佐渡へと向かうことになった。そもそも故人の夫である大叔父が行かないというのも変な話ではあるが、代わりに行くことになった道子たちもまた、およそ真面目とは思えない様子であった。あからさまに普段着の道子、故人のお骨と、祖母から預かった納骨代および旅費以外にはなにも持ってきていない弟、そして家長のわりにはまったくしっかりしていない父……。(「佐渡の三人」)

家族の死とそれに付随するあれこれ(葬式だの納骨だの)を通じて、作家である道子が家族というものを見つめ直したりもする、わりとゆるめな短編連作集。表題作「佐渡の三人」では大叔父の妻が、続く「戒名」では誰も亡くならなかったものの、その次の「スリーナインで大往生」では祖父、そして最後の「旅人」では大叔父と、「戒名」で登場した祖母が立て続けに亡くなり、作家という自由業の身である道子は何度も佐渡へ向かうことになる。そしてその中で、変わりゆく家族の関係、立ち位置を再確認することになる。

親族間の人間関係や老人介護、あるいは人の死だとかを扱っているわりに、全編通してゆるーい雰囲気が漂っているのは、どう考えても登場人物たちの行動や発言自体があまりにもゆるすぎるせいだったりする。死んだ妻の骨は海にでも撒けばいいと言った大叔父。99歳9カ月で亡くなった祖父に対して「惜しい!」「スリーナインだ!」と盛り上がる父たち。祖父母と一緒に暮らしてその面倒を見ているが、基本的には無職で引きこもりの弟。生前に自分の戒名を自分で決めてしまった祖母(ただし文字数が足りないということでのちのち問題になる)。祖父が亡くなった時、喪主であるはずなのに、葬式の段取りを決める際に席を外そうとする叔父。さらには、他の親族に対する証拠として納骨や葬式の様子を写真や動画として記録する道子。いちいちみんな突拍子もないというか常識外れと言うか、あまり「儀礼」的なものを重んじるところが見受けられない行動ばかりとるため、不謹慎だとか思う前にくすりと笑ってしまう。

けれど道子は考える。それは決して死者や儀礼を軽んじているわけではないのだと。死者を悼むという想いはあれど、それと形式的な儀礼を結びつけることに意味はないのだと。そしてその反面、死というのはつまり「なくなる」ということなのだと。悼む想いと結びつける必要がないのは、故人が持っていた意志もまた同様。結局生きている人がその後の世界を動かしていくのだから、そこにはすでにいない人の意志が介在する余地はないのだ――と言うと大げさかもしれないが、それでも弟は、祖母が生前考えていた(不備のある)戒名を無視した。また、祖父母が亡くなったことで、「祖父母の息子たちであるが、祖父母の面倒を見ていなかった」父や叔父たちと、「祖父母の孫であり、祖父母の面倒を見ていた」である弟とのパワーバランスは必ず崩れる――端的にいえば遺産問題。そこに祖父母の意志は介在せず、生きている人がなんとかするしかない。そういったものを離れたところから道子は眺め、文章にする。いつかは叔父たちの死も文章にするのだろう。客観、または傍観。手を出さないかわりに、全てを見届けようとするかのように。けれどそれは無関心ではなく、弟たちとはまた違ったひとつの関わり方でもある。そんなふうにどうしようもない、手放すことのできない、仕方のない関係、それこそが家族なのかもしれない。

安全な妄想安全な妄想
長嶋有

平凡社 2011-09-22
売り上げランキング : 4293

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
長嶋有名義では2冊目となるエッセイ集。2005年以降に雑誌や新聞、フリーペーパーなど各所に寄せたエッセイ66編(書き下ろし含む)を収録。わりとブルボン寄りでは?と思われるものもあったりするが、とにかくくすりと笑えて(大爆笑ではないところがポイント/褒め言葉です)、「ああ、あるある」と時々思わせてくれる。

某出版社からお中元やお歳暮として贈られてくる某蕃爽麗茶をいかにして拒むか、という「蕃爽麗茶」や、ジャパネットについて熱く語る「愛しのジャパネット」、女子に気付いてもらう、という自分の好きなシチュエーションについてこれまた熱く語る「長嶋くん!?」など、気に入ったエッセイはいくつもあるのだが、特に気に入った(?)のは「餃子パーティ」。

要は餃子作り――みんなで集まって、具を皮に包むというのはあくまでも「作業」であって、「パーティ」なんていう楽しいものではないんじゃないか?という話。まあ確かに、餃子作りという料理の中で、具を包む部分というのは個人的にも楽しいとは思うし、実際に我が家でもその部分だけは私や兄弟が呼ばれて一緒に包むというようなことをやっている。みんなで楽しくできる部分、というイメージは確かにあるし、だからこそ大勢で集まって楽しくやる=パーティという図式は間違ってないようにも思う。けれどこの作者はそうは思ってない。別に楽しくないとか言うわけではなく、あれはとにかくパーティではなくて作業だ!とのこと。別のエッセイでも似たようなことを言っていたので、よっぽど腹にすえかねるというか、釈然としていないんだろうな、という感じ。けれどそれはきっと、気分の問題だけではなく、言葉への強いこだわりがなせるわざなのかもしれない。

ちなみに、ゴーイング好きとしては「ゴーイングアンダーグラウンド」も外せなかったりする。ゴーイングが震災翌日に札幌でライブをしたことについてのエッセイ。そういう見方もあるんだなあ、とはっとさせられた。

祝福祝福
長嶋 有

河出書房新社 2010-12-11
売り上げランキング : 14130

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
作者にとって第10作目となる今回の本は、初の短編集。2003年から2010年にかけて雑誌やアンソロジーなどで発表された、男主人公5本、女主人公5本で計10本の短編を収録。作者いわく「ひとり紅白歌合戦」なのだとか(笑)。
以下、特に気に入った話を。

◇「丹下」
外からなんとなく聞こえた「丹下!」という声。それを聞いた主人公、昔聞いたなぞなぞを思い出しながら町に出て、また家に戻るまでの話。それだけと言えばそれだけの話なのだが、この主人公の女性はとにかくこまごまとまわりのものを見ている。そして妙な想像をする。そんなゆるやかな「普通」さがたまらない。

◇「マラソンをさぼる」
男子高校生が、学年でただひとり「不良」と呼ばれる同級生とマラソンをさぼる話。
不良と言われながらも、実際に話してみると全くそんなことない川田。その描写に「ああ、わかる」という気がする。教師たちが「なんとなく手をこまねいて」しまう、その感じ。

◇「ジャージの一人」
「ジャージの三人」スピンオフ、というべきか。主人公が父親抜きで、珍しくひとりで山荘に向かう話。これをしないと、と思うこともできずに――する気も起きずに、ただ気ままにゲームして、本を読んで、お腹がすいたら買い出しに出て、の繰り返し。ひとりきりというシチュエーションが「ゲーム感」を増幅させていく。自由にやっているつもりが、そうでもないように思える瞬間。不意に訪れるそれが楽しいような、でも少しこわいような。

◇「ファットスプレッド」
結婚して、一緒に暮らすことで見えてくるもの。「同じ」だと思うこともあればそうでないときもある。些細な違和感の、その折り合いをどうやってつけていくか――目には目を、歯には歯を、ではないが、無関心には無関心を、そのまま返していく状況。それでいい時もあれば、そうでないときもあるかもしれない、そんな微妙なバランスの上を歩く。目に見えるものがすべて嘘かも知れないと思いつつ、例えばライブに行った時なんかに、世界の輪郭をつかんだような気がする――この矛盾もまた真実。そうやって生きていく。なんとなく、わかる気がする。

◇「祝福」
元職場の同僚の結婚式を訪れたAは、かつての仲間たちと出会い、他愛のない話をする。それは同僚であったり、元彼女だったり、よく覚えてない人だったり。そしてその帰り道、今の彼女に呼び出されてそこに向かう。そしてまた別の結婚式に行って、その帰りにまた彼女に呼び出されて。その繰り返しの中で周囲を見渡して、想いをくみとって。生きているとわかることはたくさんある。以前知り、学んだことにまた遭遇して「それも知ってる、と思う」、その感覚を私も知っていると、そう思う。

というわけで男主人公3本(マラソンをさぼる/ジャージの一人/祝福)、女主人公2本(丹下/ファットスプレッド)で、個人的には白組の勝利、ということで(笑)。

どの作品にも――もちろんこれまでの作品にも――共通するのは、やはりその描写の細かさ。主人公たちは些細な、どうでもいいような細かいところをきちんと見ている。そうすれば本質を見透かせるのだとでもいうように。その細かすぎるところに共感したり、逆にできなかったり。けれどそんな細かな観察結果が幾重にも重なり合うことで、そこで起きていることの「普通」感、あるいは「特別」感が不意に浮き彫りになってくる。それこそ「ファットスプレッド」の主人公のように「世界が本当にあること、自分もまた世界であること」を確認し、「世界の輪郭をつかんだ」ような気分にさせられる。それがただ宙をつかんでいるだけだとしても、それでも。そうやって知って、生きていく。そんな物語。

ゲームホニャララゲームホニャララ

エンターブレイン 2009-09-12
売り上げランキング : 1491

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
約5年ぶりのブルボン小林ゲームコラム本・新作。2005〜2008年まで連載された「ゲームソムリエ」、ならびに2008年から連載中の「ゲームホニャララ」から厳選されたコラムを収録。

前作と同じく古いところから新しいところまで広くカバーするスタンス、そして独特の語り口や視点は健在。そして相変わらず「スキマカゼ」(笑)。

というわけで、また某恋愛シミュレーションゲームの女性主人公版について(笑)。その第2弾のオープニングムービーが褒められていたので見てみた。終盤で主人公が手を引いて走らされるシーンは確かにすごい。酔いそう(苦笑)。
ちなみに、作者がよく、最近のゲームの3次元具合に「酔いそう」と言っているが、これにはまったく同感。

ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ (ちくま文庫)ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ (ちくま文庫)

筑摩書房 2009-09-09
売り上げランキング : 11096

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
2005年までに発表されたゲームに関するコラムを集めた単行本版同作に、当時未収録だったコラムを追加したちくま文庫版。ちなみに作者の「ブルボン小林」とは、芥川賞作家「長嶋有」のコラムニストとしての名義。

一口にゲームといっても、取り上げられたゲームはピンキリ。というか、どちらかといえばマイナーどころばかりのような気も。ファミコン以前の、私にとっては見たことも聞いたこともないようなゲーム機まで登場している。
しかも内容も、ゲーム攻略とかレビューとかそういうのではなく、いろんな切り口から「ゲーム」の持つ魅力、楽しさ、くだらなさ(褒め言葉)を語る。

個人的に一番気に入っているのが「スキマカゼ」ネタ。
某恋愛シミュレーションゲームの女性主人公版をやる際、女主人公(=プレイヤー=作者本人)につけた名前が「好間風福子(スキマカゼ・フクコ)」。字画もばっちりらしい(笑)。しかもこのゲーム、キャラクターが主人公の名前を呼んでくれるらしいのだが、そのカタコトっぷりが面白すぎるらしい。ぜひやってみたいがPS2を持っていない……。
ちなみにこの「スキマカゼ」、作者がこれ以降、ゲームで女性キャラになるときは必ずこの名前になっているとのこと。気に入ったようで……。

とにかく、知らないゲームのオンパレードだったりするのだが、その語り口や視点が面白く、ゲームを知らなくても十二分に楽しめる。

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)
長嶋 有

講談社 2009-04-15
売り上げランキング : 117013
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
西洋アンティーク専門店「フラココ屋」のバイトである「僕」は、店の倉庫代わりになっている2階で暮らしている。本店とこの2号店とを行ったり来たりしている店長、夫と別居中のイラストレーターの瑞枝さん、大家の孫で美大生の朝子さん、その妹で定時制高校に通う夕子ちゃん、顧客で相撲好きのフランス人女性・フランソワーズなどに囲まれて、ゆるやかに日々は過ぎてゆく……。

第1回大江健三郎賞受賞作。文庫化に際し再読。
ちなみに、元は新潮社から出ていたのに、講談社文庫に入ったのはなぜ?
「文学賞メッタ斬り!」のトークショーでも、はっきりとした理由は言われていなかったようだが……。

ともかく、何気ない描写、何気ない日々、細かい(ともすれば「どうでもいい」ような)視点、描写がいつものように秀逸。特に大きな事件が起こるわけではなく、起こったとしても気付けばあっさり解決。みんなめいめいに勝手に生きているはずなのに、どこか重なり合う日々。この場所にいながらも、はっきりした「居場所」を確定させずにいる主人公にとっては居心地のいい場所。だからこそ、みんなの「勝手」さ加減に気付いてからの行動はすばやい。でも、こちらも「勝手に」生きている瑞枝さんにあっさり見つかってしまうあたりが笑えてくる。
互いのことを必要最低限のことしか知らない面々――そんな関係の希薄さがすごく現代らしいのに、交わされる会話や起こる出来事は「ああ、あるある」といった懐かしささえ帯びているのも不思議。

ねたあとにねたあとに
長嶋 有

朝日新聞出版 2009-02-06
売り上げランキング : 3946

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
「朝日新聞」に2007〜2008年にかけて掲載された、作者初の新聞連載をまとめた最新刊。そんな経緯のせいだろうか、どこから始まっても、どこで終わっても、全く不自然ではないような、不思議な流れの長編作品。

ウェブデザイナーの女性・久呂子さんの視点からつづられる、「ナガヤマ」家の別荘暮らしの様子。東京での酷暑が嘘のような、別世界のごとき涼しさが得られるナガヤマ家の別荘だが、霧が深く湿気がものすごいため、布団をはじめとしたほとんどのものがしっとりとしているのが難点。あと虫が多いのも。
久呂子さんがサイトを管理している作家・コモローと、その父で古道具屋を営むヤツオ。ヤツオの店で働く店員の友人・アッコと、彼女の友人のエミ。コモローの友人で作家のコウさんと、バンドマンのジョーさん。毎年、夏になるといろんな人が別荘を訪れる。しかし何か事件が起こるでもなく、この別荘に昔からある、ヤツオやコモローによる様々に自作の遊びに興じる姿が淡々と描かれていく。

タイトルの「ねたあとに」というのは、作中のコモロー親子の台詞。自分が寝た後になにか楽しいことが起こったら嫌だから、早く寝たくない――夏休みの子供そのもののような台詞。彼らは大人だからきっちり期限の決まった「夏休み」があるわけではないけれど、仕事があるからいつまでも休んではいられない。それでもこの物語を見ていると「終わらない夏休み」というフレーズが浮かんでくる。途切れずに続く夏の思い出――とは言っても、本当に何も起こらないので、ただ無目的に過ごすことがこの「夏休み」の目的なのかもしれない。ある意味、理想的な休日の使い方。

面白いのが、コモローたちが興じる自作の遊び。麻雀牌を使った「ケイバ」。さいころを振り、出た目に沿って、一覧表に書かれた言葉を組み合わせて架空の人物をつくる「顔」。質問の最後だけを聞き、それに対する答えを考えて、後で質問全文と答えを照らし合わせる「それはなんでしょう」。そして、オリジナルの要素が入って複雑なルールになった「軍人将棋」……。
単純だけど手の込んだ遊びの数々がとても魅力的に見えてくるのは、さびれた山荘の様子とこの光景が妙にマッチしているからかもしれない。

さらによく見てみると、登場人物が現実の人物とリンクしてくることがわかる。
「コモロー」は作者本人で、「ヤツオ」はその父親。「久呂子さん」は作者のサイトとメルマガを管理している黒子さん。「コウさん」は中村航で、「ジョーさん」はGOING UNDER GROUNDの河野丈洋。「ジョーさん」の年齢や「武道館公演を控えている」という設定、そして「コモロー」の「オーエ賞」受賞の時期から見て、この物語に現実の時間軸をあてはめるなら、2007年以降の出来事だろうと思われる。
しかも、それだけ身近な人のことを題材にしておきながらも、それぞれの人物のいわゆるパブリック・イメージをそのまま踏襲して書いているふしがある。ひらたく言えば、作風だとかエッセイだとか、公人としての発言から導かれる長嶋有の、中村航の、河野丈洋のイメージがそのまま使われているように見える。ごく私的な内輪話を披露しているように見えて、実際はまったく手のうちをさらしていないというつくり。
まあノンフィクションではなく小説だから、どれだけ現実にリンクしているか、などと考えても詮ないのだが、そういうあたりに注目するのもまた面白い。

電化製品列伝電化製品列伝
長嶋 有

講談社 2008-11-05
売り上げランキング : 4340

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
作者初の書評集は、作品に登場する「電化製品」を熱く語る異色作。
どちらかというとブルボン寄りな気もするコンセプトなのだが、映画、漫画、さらに自作も含む多数の作品に描かれる電化製品を中心に、その重要性や背景、作品との関わりについて考えていく。なので、対象となる作品を読んでいなくてもじゅうぶんに楽しめる。

この書評を読んでいて思うのは、電化製品を書くことはそのときの「時代」を書くこととほぼ同義だということ。《長嶋有「猛スピードで母は」の炊飯ジャー》にもあったが、この作品が書かれた当時はまだ炊飯ジャーはありふれたものだった。ご飯を炊いて、炊けたら自動的にスイッチが切り替わって「保温」になる。現在、炊飯ジャーが淘汰されたわけではないのだが、今であればごはんを保温しておかなくても、冷凍して電子レンジで解凍する、という選択肢が存在するようになっている。つまりはそういうことだ。
電化製品は次々と新しいものが生まれる。だからこそ、今使われているものがこの先も使われているとは限らない。今は可能な描写が、何年か先にはできないかもしれない。そんなライブ感、あるいは臨場感的なものが電化製品には存在する。
そのことに気づかされたこと、そして作者が当たり前のようにそのことに気づいていたところに、長嶋有の「すごさ」を感じた。


ところで今回も「ウラ」がすごい。
またしても「フランスの女にすごい怒られた」。
……気になる人はぜひ買って、全部めくって見てほしい。

ぼくは落ち着きがないぼくは落ち着きがない
長嶋有

光文社 2008-06-20
売り上げランキング : 68299
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

桜ヶ丘高校の図書室には、ベニヤ板で仕切られた「書庫」なる空間がある。その場所こそ、望美が所属する「図書部」の部室でもある。クラスからほんの少しはみ出したような面々が集まる図書部。主な活動内容は、さぼりがちな図書委員と共に本の貸し出し業務を行うことと、「図書室便り」を定期的に発行すること。用がなくとも自然と部室に集まり、めいめいが好きなことをして過ごしたり、昼食をとったり。仲がいいんだか悪いんだかわからない面々の間に起こるささやかな出来事を、部員のひとり・望美の視点からつづる不可思議な文化系学園小説。

そんなわけで、長嶋有の約1年ぶりの新作にして第1回大江健三郎賞受賞後第1作となる本作は、まさかの学園もの。帯の裏部分に書かれたコメントがまたすごい。

青春小説の金字塔、
島田雅彦『僕は模造人間』(’86年)
山田詠美『ぼくは勉強ができない』(’93年)
偉大なる二作に(勝手に)つづく、’00年代の『ぼくは〜』シリーズとも言うべき最新作!
「本が好き!」連載中に第一回大江健三郎賞を受賞したことで、ストーリーまでが(過激に)変化。
だから(僕だけでなく)登場人物までがドキドキしている(つまり落ち着きがない)、
かつてみたことのない(面白)不可思議学園小説の誕生!
* ( )内は作者談


「作者談」って!

そんな「落ち着きがない」という物語だが、そこに流れるテーマはいつもの長嶋節。
人と人の間で生きること、その関係。

学校の、しかも部活動という狭い空間、少ない人数の間でも、1年もあればその関係はたやすく変わっていく。喧嘩したり振られたり共感したり落ち込んだり。
主人公の望美は、ほんのわずかだが、他人との価値観がズレている。価値観のズレなんてものは誰にだってあるものだが、少なくとも多数派に属する価値観とは明らかに違う、自分なりの指針がある。おまけに心の底で思っていることがあっても、それを言語化することが難しいくらいの曖昧さであるせいか、目の前の事件に対して口をはさむことができず、結局は俯瞰するようなスタンスをとることが多い。そうして時折、目の前で起こっていくことがすべて「わかっていた」かのように思うことがあったりも、する。けれどその「理解」はたいてい事が終わってから感じるものなので、事件に相対しているその時は、どうも落ち着きがなく見えてしまう。
そんな立場にある望美だからこそ、人と人との関係について考えざるを得なくなる。

人って、生きにくいものだ。
みんなみんな、本当の気持ちを言っているのかな?


そうやって問いかけながら、日々を過ごしていく。目の前で流れ去っていくものを眺め、時にはその流れに呑まれながら。

ちなみに学園ものとしてもすごく面白くできていた。部員同士のあだ名の付け方とか、本好きな面々の住み分け具合とか、文芸部との微妙な関係とか、どれも「あるある」とうなずける。

それと、長嶋有と言えば「カバー下」あるいは「カバー裏」。この本もカバー下に仕掛けがあるので、ぜひ図書館で借りずに、買って読んでいただきたい1冊。

長嶋肩甲「健康な俳句」

ある時は作家・長嶋有、ある時はコラムニスト・ブルボン小林、そしてまたある時は俳人・長嶋肩甲――。

そんな作者の3足のわらじのうちのひとつ、長嶋肩甲のミニ句集。
なかなか味わい深い句が並ぶ。その中で特に印象深かったのがこの1句。


 フランスの女にすごい怒られた

…………!?

というわけで、気になった人はぜひ、公式サイトを見てほしい。

泣かない女はいない (河出文庫 な 23-1)泣かない女はいない (河出文庫 な 23-1)
長嶋 有

河出書房新社 2007-10
売り上げランキング : 72340
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

こちらも文庫化に際し再読。

泣いたことがない、というドライな性格の睦美が、就職した物流会社の同僚・桶川に惹かれていく表題作「泣かない女はいない」。そして離婚寸前の夫と、昔の親友とのエピソードを交錯させて、ある雪の日を描く「センスなし」の2作を収録。

桶川がカラオケで歌った「NO WOMAN NO CRY」を聴いて、自分が泣いたことがないことに気づく睦美。自宅のCDの歌詞カードにあった「女 泣くな 女 泣くな」という訳と、桶川の言った「泣かない女はいない」という訳の差異が最後まで響いてくる。直接的なエピソードが出てくるわけではないが、日々の瑣末な出来事の描写から睦美の感情の動きが伝わってくる。

離婚という、一見重いテーマをさらりと書ききってしまった「センスなし」も良い。親友・みどりとの不思議な馴れ初めから現在に至るまでの付き合い方も面白い。切れてしまう異性間の縁と、続いていく同性間の縁。人生の明と暗が対比されているかのよう。

このページのトップヘ