結婚して数年、サンちゃんはそれなりに稼ぎのある夫のおかげで、専業主婦として暮らしていた。そんな夫の顔と自分の顔が似てきたような気がするサンちゃん。夫は帰宅すると毎日ハイボール片手にテレビのバラエティ番組を見続け、家では何も考えたくないとごろごろしてばかり。そんな夫の振る舞いは理解できないが文句を言うわけにもいかず、日々をやり過ごしていたサンちゃんだったが、ある日その夫の顔のパーツがどんどんズレて緩んでいることに気付いて愕然とする。さらに、いつしか自分の顔のパーツも同じようにズレていることに気付き……。(「異類婚姻譚」)
第154回芥川賞受賞作「異類婚姻譚」を含む最新作品集。
表題作の主人公・サンちゃんは専業主婦だが、その暮らしをどこかで後ろめたく思っている女性。そのせいか、夫のだらけた姿に文句をつけることもなく、穏やかに夫婦生活を送ってきた。しかし自分と夫の顔が似てきたように感じ始めた頃から、歯車が狂い出す。夫に養われているのは自分だが、夫の食事を作り生活をさせているのは自分。それが専業主婦であるサンちゃんの根底にはきっとあった。それは自分の恋人に対する姿勢が、相手に影響されやすいものであるという、これまでの経験のせいでもあるのだろう。相手の影響を受け、まったく同じものになろうとするサンちゃんは、だからすでに「自分」というものを喪失していると考えていた。ゆえに自分の顔が夫に似てきたのだと考え始めたのだ。
しかし夫の顔が「崩れて」きて(というのは字義通りではなく、サンちゃんの主観によるものだが)からというもの、サンちゃんはいつしか自分を夫から切り離そうと考え始める。それはこれまで彼女が恋愛の終わりにしてきたこととおそらく同じで、結婚の理由、あるいは夫婦を続ける理由が愛から打算へと変わってきたからなのかもしれない。しかしそこに目を向けず、ただ夫の「変貌」に翻弄されるサンちゃんは、自分が被害者なのだと信じて疑わない。だから夫の痛烈なひとことに返す言葉が見つからず、考えることを止めたのだろう――かつての夫のように。けれどその思考停止を止めたのもまた夫の存在だった。「自分」を取り込み変貌しようとする夫を、今度はサンちゃんが手ひどく突き放す。サンちゃんの言葉は夫を解放する呪文であったと同時に、自分を解放する呪文でもあったのだ――「婚姻」という、一度結べばなかなか解消することのできないしがらみからの。
これまでの本谷作品に登場する女主人公は自意識過剰すぎる人物ばかりだった。彼女たちはともすれば人格破綻者とも言えるくらいに突き抜けていて、同時に自分の欲望に対してとても忠実だった。本作の主人公であるサンちゃんも、最初は普通の無欲な専業主婦を装っていたが、夫との関係について考え始めた頃から、その自意識が少しずつあらわになってゆく。しかし夫という存在に取り込まれそうになった自分を無理矢理取り戻し、逆に夫を追い詰めてゆく様は、これまでの女主人公たちとはスタンスがまったく違うようにも思える。
今までの女主人公たちは日常の外側から突然やってくる天災のようなものだったが、今回の主人公は日常の内側から外へ向けて飛び出してゆくタイプ。サンちゃんは「何不自由ない日常」に潜む違和感、あるいは不安感に気付き、過剰なまでに反応し、対抗していった。そしてそれは表題作だけでなく、併録されている3作品すべてに共通しているとも言える。作風の変化という点ではどこか寂しい気もしないでもないが、しかし表題作の奇妙な結末や、併録作のどこか不安感を誘う展開などはこれまでと変わっておらず、どころかその煽り方が巧妙になっているような気もする。特に「トモ子のバームクーヘン」に潜む得体のしれない空虚感がなんとも恐ろしかった。
















