女子高生の村崎紫こと《床》は老人であることを夢見て、自身の年齢を68歳と公称し、その年齢らしく振る舞おうと努めていた。クラスメイトの紫優香里こと《雁》はその逆で、現在の年齢らしさを追求し謳歌する反面、同じように年齢にこだわる床に興味を持つようになり、ふたりは友人になった。そんなある日、老人参加率の高い近所の「編み物クラブ」に参加した床は、そこで同学年の男子学生と遭遇する。坊主頭なのにスカートを履いている加藤こと《徐々にちゃん》は、性別にとらわれることを嫌ってそのような格好をしているのだという。床と雁、そして徐々にちゃんは仲良くなり、いつしか雁と徐々にちゃんが付き合うようになり、さらに雁は高校卒業前に徐々にちゃんの子供を身ごもってしまう。しかしそんな矢先、徐々にちゃんが事故で亡くなってしまい……。(「ネンレイズム」)
2015年に「文藝」に掲載された中編「ネンレイズム」と短編「開かれた食器棚」を収録した、作者の最新作品集。
年齢や性別について自由に追求する3人の思春期のこどもたちを描く「ネンレイズム」は、まるでジェットコースターのように物語が展開してゆく。3人が出会い、仲良くなり、そのうちふたりが交際・妊娠を経て父親の方が急死し……という流れは、ともすれば必然性のない空虚な展開に見えなくもない。しかし3人がこだわっていた「年齢」あるいは「性別」というカテゴリーの在り方と照らし合わせた時に、ここで3人に起きた出来事は、いずれも年齢という一般的な概念に反したものだということがわかる。まだ若いのに老人のふりをする、男の子なのに女の子の服を着る、未成年なのに妊娠する、10代の若さで亡くなってしまう――「ありえない」と眉をひそめ、あるいは悲しむべき出来事。しかしそういった一般的な概念をはぎ取って生きている3人にとってはそうではない。ごくありふれた、人間としての営みの結果でしかないのだ。
また「開かれた食器棚」は、ふたりの主婦が開いたハワイアン・カフェと、障害を持つ娘にまつわる短編。こちらも「ネンレイズム」同様、他人からは奇異の目で見られたり同情されたりといったことが発生してはいるが、当事者たちにとってはおかしなことでもなんでもなく、ただ当たり前の、自分たちがやりたいようにしている結果にすぎないということが描かれてゆく。本物のハワイには行ったことがなく、真のハワイらしさをいっさい追求してはいないが、それでも彼女たちがイメージする「ハワイ」そのものの店がこうしてできている。障害を持っていたって娘は普通にいい子に育つ。何の問題もないのだ。
周囲がどう思おうと、それは外野の言葉であり感情であるからして、当事者たちにはいっさい関わりがない。周囲がそれぞれ自分の信条に即した一般的な価値観を持つのは自由だが、それを当事者に押しつけるのは意味がないし、当事者がそれを助言として有り難がって受け取る必要ももちろんない。何が幸せなのか、あるいは何が最善なのかは自分が決めることなのだから。2作とも異なる雰囲気の作品ではあるが、いずれもテーマとしては同じものが見えてくるという点で面白いと思った。