phantasmagoria

読んだ本のこと、それ以上に買った本のこと、ときどきライブのことを書き散らかしてみたりする。 (当ブログは全文無断転載禁止です)

カテゴリ: 遠田潤子

雨の中の涙のように
遠田潤子
光文社
2020-08-18

時代劇役者になるという夢をあきらめた伍郎は、故郷で祖父が遺した印章店を営んでいた。そんなある日、姪が持っていた雑誌に載っていた人気アイドルグループの中に、見覚えのある顔を見つけて驚きを隠せない伍郎。「染井わかば」というそのアイドルは、かつて同じ夢を志し、結婚まで約束していた「小桜しのぶ」こと染井よし子の娘・若葉だったのだ。「染井わかば」が所属するグループが握手会を開いていることを知った伍郎は、CDを買い、わかばに会うために会場へと向かうが……。(「垣見伍郎兵衛の握手会」)

「小説宝石」にて2017〜2020年にかけて掲載されていた連作小説の書籍化。元アイドルにして実力派俳優・堀尾葉介に大小さまざまな形で関わったことのある人々に訪れた転機、そしてその葉介自身の半生が綴られていく。

アイドルグループ「RIDE」のメンバーとして14歳でデビューし、あっという間にブレイク。しかし22歳で本格的に役者を志してグループを脱退し、やがてアクションから時代劇まであらゆるジャンルの作品をこなす実力派俳優として有名に。もちろん容姿にも恵まれ、誰もが彼に対して好意を抱かずにはいられない――それが「堀尾葉介」という男。本作には、いろんな時期に葉介と関わった人々が、思わぬ転機を迎えていく様子が描かれていく。

彼らの視点から見えてくるのは、才能と容姿に恵まれ、誰からも愛される実力派俳優であり、何不自由ない充実した人生を送っているであろう「大スター」としての堀尾葉介の姿ばかり。人々は葉介と接し、その輝きに圧倒されながら、その光にあやかるかのように――まるで神様にお願い事をして、それが叶えられたかのように――その時とらわれていたしがらみから解放されていく。しかし堀尾葉介はそんな神様めいた完璧な存在なのだろうか――それがラストに近付くにつれ、少しずつ明かされていく。葉介の視点で描かれた最終章のタイトルは「美しい人生」。ここで描かれるのは、人から見れば栄光に満ち溢れた美しい人生であっても、本人にとってはそうでなかったという事実。しかし彼にもようやく救いが訪れる――否、これまで差し伸べられていたかもしれないが、自らの意志で振り払い続けていたその手を、ようやく取ろうと決心できるようになる。まさに「雨の中の涙のように」、乗り越えることも、忘れることもきっとできるのだ。

銀花の蔵
遠田 潤子
新潮社
2020-04-24

画家を目指す父と、料理上手な母に囲まれ――たまに起きる母の万引き癖には悩まされていたが――、幸せに暮らしていた山尾銀花。しかし大阪万博を目前に控えた頃、一家は父の実家に戻り、父は家業である醤油蔵を継ぐことになってしまう。もともと後を継ぐ気がなく、醤油作りも商売事も向いていなかった父は日に日にやる気を失い、気の弱い母は厳格な姑・多鶴子と折り合いが悪く、少しずつ家族の雰囲気はぎくしゃくし始める。そんなある日、銀花は蔵の中で着物姿の見知らぬ少年を目撃する。父から聞いていた「蔵に住む座敷童」だと思った銀花は、驚いて周囲の大人たちにそれを話すが……。

老舗の醤油蔵で育った少女が、様々な困難を乗り越え、「家族」のかたちを問いながら懸命に生きてく姿を描く長編小説。

夢を追い求める父、どこか浮世離れした母、厳しい祖母、美しい叔母(とはいえ実際は1歳年上なだけ)、蔵を守りたい杜氏、そしてそんな父に反発して不良になった杜氏の息子……銀花の周囲にいる人々はけして悪い人たちではなく、自分の理想を追い、あるいはその理想と現実との間にできる限りの折り合いをつけて生きようとしていただけなのに、どこかでひとつボタンを掛け違えてしまったかの如く、少しずつその想いも思っていたものとはズレてゆき、いくつかの決定的な破滅を引き起こしてしまう。銀花はそんな彼らの生き方に翻弄されながらも、自分がなにを大切にすべきかをひとつひとつ選び取り、時には打ちのめされながらも、なんとか前に進んでいく。だからきっと、そんな銀花があの日見たのは、本当の「座敷童」だったに違いないと、そう思う。

廃墟の白墨
遠田 潤子
光文社
2019-09-18

父親の後を継ぎパン職人として働く和久井ミモザは、入院中の父親宛の郵便物を届けることに。中に入っていたのは黒板に白のチョークで書かれたと思しき薔薇の絵の写真と、「4月20日。零時。王国にて」というメッセージのみ。それを目にした父親の様子が明らかにおかしくなったことが気になったミモザは、父が捨てたその手紙をこっそり拾い、指定された日時に大阪の明石ビルという建物へと向かう。果たしてその古びたビルでミモザを出迎えたのは、このビルに住んでいるという3人の老人――山崎和昭、鵜川繁守、源田三郎だった。この3人とミモザの父・和久井閑は、ある秘密を抱えて生きてきたのだという。ミモザの求めに応じて3人が語り始めたのは、このビルの家主だった女性・明石とその娘・白墨のこと、そして大阪万博の後にこの明石ビルで起きたある事件の経緯だった……。

書き下ろしとなる本作は、ある母娘を巡る男たちの悔悟の物語。

父親に溺愛されて――というよりかは愛玩動物さながらに育てられた明石という女は、おおよそまっとうな感覚や常識を持ち合わせておらず、とにかく何もかもにだらしない人物。様々な理由で居場所をなくした山崎、鵜川、源田、そして和久井は明石ビルに次々と転がり込み、明石と関係を持ちつつ、その日暮らしのような生活を送っていた。それぞれの事情と明石への鬱屈した想いを抱えつつ暮らしていた4人だったが、ある出来事がきっかけで明石が死んでしまったため、残された娘・白墨の処遇を巡ってある決断を下し、長きにわたって秘密を共有することになるのだ。やがて、物語はミモザの過去、そして山崎たちに今回の手紙を送り付けた人物の登場により、のちに行方不明になった白墨の足跡を辿ることになる。

それにしても「白墨」とはなんともひどい名前だとは思うが、これは本名ではなく、常には母である明石に放っておかれ、ひたすら白いチョークで床に絵を描いていたことに由来している――つまり誰も、彼女の本名を知らないのだ。もうこのエピソードだけでも明石という女性のありえなさが伝わってくるのだが、しかし彼女の生い立ちや現状を知るにつけ、ただ彼女を非難するだけで終わる話ではないことも分かってくる。結局のところみんなして「共犯」であり、その罪の意識がさらなる罪を重ねさせていくという流れには、人の持つ業のようなものを感じずにはいられない。

彼らが暮らしていた明石ビルは、建物の中心が吹き抜けになっていて、そこには今、ミモザの木が植えられている。外に通じる空間でありながら、建物に囲まれているこの場所から抜け出すことはできない。その情景はそのまま、このビルに住んでいた人々の境遇と重なって見える。だからこそ、山崎たちはこの場所を解き放とうと考えたのかもしれない。その結末は果たしてこれでよかったのか、と思う反面、こうするしかなかった、こうするのが一番いいのだとも思えてしまう。結局のところ、人が生きる中で正しい答えというものはないのだと、そんな気持ちにもさせられるラストだった。

ドライブインまほろば
遠田潤子
祥伝社
2018-10-11

事故で娘を亡くし、離婚した比奈子は、亡き祖父母が経営していた「ドライブインまほろば」を再開する。山奥の旧道沿いという立地条件もあり、経営状態は完全に赤字だったが、実家に帰りたくない比奈子はそれでも店を続けるしかなかった。そんなある日、幼い兄妹が「まほろば」にやってくる。どう見ても家出状態のふたりを放っておけなかった比奈子は、働くから夏休みの間だけ置いてほしいという兄・憂の申し出を受けることに。しかしその夜更け、比奈子は布団から起き出し外で泣いていた憂を見つける。彼は「人を殺した」と涙ながらに呟いていて……。

傷と絶望を抱えた人々が、互いに傷つけあいながらも再生していく姿を描く、書き下ろし長編。

実母が起こした事故で娘を失った比奈子。実父、次いで義父から数々の虐待を受け、ついに義父である流星を殺してしまった憂。比奈子はそんな憂と、何も知らないその妹・来海を放っておけず、遠縁の子供と偽って匿ってやることに。憂はそういった環境で育ったせいか、子どもといえども大人の行動に敏感で、比奈子が来海と亡き娘を重ねていることに気付いてはいたが、それでも比奈子の優しさに触れて、少しずつ普通のこどもらしい気持ちを取り戻していく。けれどそうしながらもやはり、人殺しであるという自覚は常に彼を苛み、現実へと引き戻す。

比奈子や憂だけでなく、この物語に登場する人々はことごとく親との間に確執を抱いている。憂が殺した流星と、その双子の兄で憂を探し出そうと奔走する銀河は、両親に捨てられ、祖父母にも見放されてふたりきりで生きてきた。憂の母親である芽衣も両親とは仲が悪く、最初の結婚相手からはDVを受け、その後流星と再婚するが、一貫して子供たちには関心を持とうとしないし、自分を守るために、夫による子供たちへの虐待を助長しさえもする。銀河の妻・慶子もかつて両親から虐待を受けていたために、身体を売ることで金を稼ぎ、家を出たのだという。だからもう誰が悪いとか悪くないとか、そういった白黒を付けるのはとても難しい。しかしやってはいけないこと、超えてはいけない一線というのは確実に存在する。犯してしまった罪は消えないけれど、それらときちんと向き合い、受け入れたのちの結末には、ちゃんと救いがあった。それだけでもう、十分だと思う。

カラヴィンカ (角川文庫)
遠田 潤子
KADOKAWA
2017-10-25

ギタリストの青鹿多門が元義兄である吉井から依頼されたのは、ある女性シンガーの自伝のためのインタビューだった。相手は「実菓子」――かつて多門の父、次いで兄と結婚し、ふたりを死に追いやった最悪の女――そして多門もまた、一時期思いを寄せていた娘。実菓子は多門のインタビューであればこの仕事を受けるという。吉井の妹と離婚したという負い目がある手前、彼の依頼を断り切れない多門は、しぶしぶ故郷へと戻ることに。しかし実家で待っていた実菓子は何も語ることなく、ただ多門から見た自分を文章にしてほしい、とだけ告げるのだった。結局、多門は言われるがままに実菓子との出会いから回顧し始める――多門が生まれたこの小さな村にはふたつの大きな権力を有する家があった。一方は多門の家である「藤屋」。もう一方は「斧屋」と呼ばれていたが、「斧屋」の方は先代が狂死し、ほぼ絶えたも同然の状態だった。その「斧屋」の娘である鏡子が、自分の娘である実菓子を連れて「藤屋」へとやって来る。前時代的な厳格ぶりを示す父は鏡子母娘を客分として迎え入れるが、実際のところ鏡子を愛人として囲っているのだった。多門は病弱な兄・不動と共に実菓子を迎え入れ仲良くしようとするが、不動が実菓子に惹かれていることを隠さなくなった頃から、次第に3人の関係が――そして青鹿家自体がどんどん狂い始め……。

2012年に「鳴いて血を吐く」というタイトルで刊行された長編ミステリの改訂文庫版。新タイトルの「カラヴィンカ」とは、頭は美女、身体は鳥で、美しい鳴き声を持つ想像上の生物「迦陵頻伽」のことで、もちろん実菓子のことを指している。

旧弊な山村に存在する権力者たちの因縁と怨嗟。美しい少女に惑わされる兄弟。多門に憎まれていることを知っているせいか、現在の実菓子は周囲に対する露悪的な態度を崩さない。しかし多門の思い出の中に出てくる実菓子はそんな蓮っ葉で態度の悪い娘ではなかった。周囲の欲望によってゆがめられた娘は、唯一持っていた歌声で何を伝えようとしていたのか――少しずつ提示される謎と、明かされる真実。すべてを知った多門に実菓子が最後に差し出したのは、たったひとつのささやかな願いだった。彼女がどんな思いで2度の結婚を経て、今でも青鹿家にいたのか――それを考えると、改めて胸が締め付けられる思いがした。

オブリヴィオン
遠田 潤子
光文社
2017-10-17

妻の唯を殺した罪で服役していた吉川森二。出所した彼を出迎えたのはふたりの男だった――ヤクザとなり森二の「奇跡」を利用しようとする実兄の光一と、妹を殺した森二を許せず真相の告白を迫る義兄の長嶺圭介。ふたりを振り切り、自身の罪を悔みながらも新たな生活を始めようとする森二は、このたび借りたアパートでひとりの娘と出会う。アルゼンチン人の母親に捨てられながらも、失踪した日本人の父親を待ちながら、借金を返し母に送金するためデリヘル嬢をしている佐藤沙羅――彼女が時折部屋で弾くバンドネオンの音楽を聴きながら、森二はこれまでのことを回顧する。ギャンブル依存症の父親、なぜかボートレースの結果がわかってしまう「奇跡」、長嶺兄妹との出会い、更生と結婚、そして妻の不貞と死――ひょんなことから発覚した、娘の冬香の父親が自分ではないという事実。いったいなぜ唯は自分を裏切ったのか、そしてその相手はいったい誰なのか……。

娘の前で妻を殺してしまった主人公・森二の存在を軸に、複雑に絡み合う不幸の連鎖とその顛末を描くミステリ長編。

いったいどれがこの「不幸」の始まりだったのか、そしてなぜそれが始まってしまったのか、もはやだれにもわからない――そのくらい根が深く、そして運命と呼ぶにはあまりにも短絡的すぎて、しかしそうとしか言えないくらいにどうしようもないことが積み重なった結果が今回の物語。取返しのつかないことというのは思いがけずあっさりと起こる。そしてそれを目の当たりにした森二は後悔に苛まれ続ける。そうやってすべてを諦めた森二の前に現れた少女・沙羅もまた、若くしてすべてを諦めた少女だった。沙羅の「いつか」という言葉は、森二の「今更」という言葉と同じだ――というフレーズにははっとさせられる。向いている方向は逆かもしれないが、しかし自分たちの願いが実現することはないと、ふたりとも諦めているのだから。

真実はあまりにも残酷だし、どれもこれもがボタンの掛け違えによって起きたようなものだ。しかし森二はそれらの「罪」を甘んじて受けようとし、それを沙羅が止めようとする。当事者には見えないことを指摘する沙羅の存在がどれほど彼にとって救いになっただろうか。本作のタイトル――なおかつ沙羅がバンドネオンで弾く曲のタイトル「オブリヴィオン」の意味は「忘却」、そして「恩赦」。忘れられることは罪人にとって最大の赦しとなる。しかし周囲が忘れたって唯が死んだことに変わりはなく、森二の世界には彼女はもういないのだ。だからこそ森二は忘れないでおこうと思う。そして沙羅に手を差し伸べる――かつて唯がそうしてくれたように。そうやって森二が再び前を向こうとするラストが強く印象に残った。

冬雷
遠田 潤子
東京創元社
2017-04-28

害虫駆除の会社に鷹匠として勤めている夏目代助は、弟・翔一郎の葬式のために魚ノ宮町に戻ってきたが、住人たちの視線は冷ややかだった。なぜなら、代助こそがかねてから行方不明になっていた翔一郎を殺した犯人だと疑われていたのだから。代助をストーキングし続けたのちに自殺した三森愛美の兄・龍の家に身を寄せつつも、気になるのは従姉妹である加賀美真琴のことだった。翔一郎の遺体の第一発見者が真琴であり、その遺体のそばには真琴の持ち物が落ちていたのだという。しかし発見場所である神社の氷室は、当時代助が探し、何もなかった場所。代助はこれまでのことに思いを馳せながら、事件の真相について考え始めるのだった――孤児だった代助が魚ノ宮町の名士であり、町を支える神事で重要な役割を果たす鷹匠の千田家に引き取られたこと。同じく神事に携わる神社の跡取り娘である真琴と出会い、成長し、惹かれ合うようになったこと。やがて千田夫妻に実子・翔一郎が生まれ、代助が居場所を失ったこと……。

怪魚と姫君の伝説に端を発した神事に支配される小さな町で、しきたりに縛られながらも未来を夢見た男女の姿を描くミステリ長編。

冒頭では現在の代助の状況が描かれているが、その時点ですでに彼の人生にあまりにも多くの不幸が絡みついていることがわかる。同郷の後輩である三森愛美にストーカーされ続けたあげく自殺されたばかりで、しかもその矢先に判明するのが行方不明だった義弟が遺体となって発見されたという事実。やがて故郷に戻り、過去の回想が始まってから判明するのは、どちらの件でも代助は被害者でしかなく、なのに周囲から犯人扱いされ、追い立てられるように町を出ざるを得なかったということ。そもそものスタート地点が親に捨てられた孤児だったということも拍車をかける。周囲の者が自分から離れていくのは、自分に問題があるからで、どこに行っても不要になればあっさりお払い箱にしてもいいような、あとくされのない人物――代助の自己評価はおおむねそのようなもので、だから被害者であるにも関わらず、彼は常に自問し、悔やみ続ける。あの時ああしていれば、こんなことにはならなかったのだろうか、と。そしてそれは、神社の跡取り娘でもあった真琴との関係でもそうだった。

町の神事を司る重要な役割を担っていたのが「冬雷閣」の鷹匠と、鷹櫛神社の巫女。周囲からの尊崇を受け、同時に敬遠される存在――それが代助と真琴の置かれた環境だった。そんなふたりが惹かれ合うのは無理からぬことで、周囲に傷つけられながらも、互いの存在を支えに生きてゆくふたりの健気さだけが救いだった。けれど鷹匠と巫女は結ばれてはならない――そんな掟と、さらに代助の身に降りかかった災難により、真琴は代助の手を離してしまう。これもまた、代助の心にひとつの澱として残り続けていたのだろう。終盤で明かされるいくつもの真実はふたりの傷を完全に癒すものではなかったけれど、しかし離れた手を再び近付けるには十分だったのかもしれない。誰もが幸せになれるという結末ではなかったけれど、それでもかすかな光の差すような真琴の台詞には、そして遠くで鳴った冬雷の音には、代助でなくとも救われるような、そんな気がした。

蓮の数式
遠田 潤子
中央公論新社
2016-01-22

長年にわたる不妊治療の甲斐なく流産を繰り返し、心身ともに疲れ切った状態の安西千穂。医者からはいったん治療を中止するよう提案されるが、夫の真一も姑も取り合わず、すべて千穂が悪いと言わんばかりに嫌味や皮肉をぶつけてくる。家事全般を同居している姑にすべて奪われている千穂にとっては、真一に頼み込んで始めたそろばん塾だけが心のよりどころだった。そんなある日、真一が運転する車が人にぶつかってしまう。世間体を気にする真一は千穂を身代わりにして逃げ、千穂は真一から渡された現金を手に男に詫びるが、その男は「身代わりか」と吐き捨てると姿を消してしまった。以来、男のことが気になった千穂は現場付近を探しまわり、ようやくコンビニで買い物をする男を発見。しかしレジで精算している男の奇妙な振る舞いを目にした千穂は、彼が算数障害を持っていることに気付く。千穂の説得でその男――高山透は少しずつ勉強を始めるようになり、そんな彼を見ているうちに千穂の気分も少しずつ上向きになってくる。しかし千穂の変化に気付いた真一は透の存在を突き止め、千穂が浮気しているとして一方的になじり、暴力をふるうのだった。長年にわたって蓄積してきた苛立ちが爆発した千穂は、真一が酔い潰れている間に家を出ようとするが、それを姑に見とがめられる。自分がすべて悪いという書き置きを残していけと命じる姑に対し、かっとなった千穂は姑を殴りつける。反撃し、なおも追いすがる姑を振りほどいた千穂だったが、はずみで姑は階段から落ちて即死。その場から逃げだしてきた千穂を迎え入れた透は、「蓮の花を見に行こう」と彼女を祖母の家へと連れてゆき……。

周囲から不良品となじられ続けた男女の逃避行を描くサスペンス長編。数字や図形がうまく認識できないという「算数障害」を持つ無愛想な男・高山透の存在を軸に、夫と姑の仕打ちに耐えかね、姑を死なせてしまった女性・千穂、かつて妻を殺した女の息子・大西麗を探し続ける老人・賢治のふたつの視点から構成されており、千穂と透の出会いから逃避行、そしてその顛末までが語られてゆく。

千穂の置かれた状況はそれはもう悲惨なものだが、そんな彼女を救ったのが透の存在。決して優しいとかそういうわけではなく、いきなり襲われそうになったり、女子高生と関係しているところを目撃してしまったりと、当初はまるでいい印象がない男だったのだが、千穂にとってはそうではなかったのだろう。夫が与えてくれなかったものを透が与えてくれたという、ただそれだけのこと。しかしそれこそが、長年の結婚生活に苦しみ続けてきた千穂にとっては救いとなる出来事だったのだ。

そしてもうひとつ、千穂たちの逃避行の裏側で進んでゆくのが、新藤賢治による「大西麗」なる男の捜索。賢治の妻だけでなく、実の息子・麗をも殺した大西理香の獄死、そしてニュース番組で麗らしき男の姿を見かけたことを契機に、大西麗は生きているのではないかと考えた賢治は、テレビで見かけた男を追い始める。そしてその末に、妻が殺された事件の真相を知ることになるのだ。

事情を知らない人から見れば、千穂は「何不自由なく悠々自適に暮らしていた主婦」であり、「夫を捨て年下の男と逃げたろくでもない女」である。そして透は「殺人犯」である。そんなふたりの逃避行となれば、ワイドショーや週刊誌が喜んで追いかける格好のネタであっただろう。しかし「大西麗」と「高山透」の関係とかつての事件の真相、そして千穂が受けていた仕打ちを知れば、仕方がない、こうするしかなかったとしか言いようのない、やりきれない結末。終章は賢治の娘である恵梨の独白で締められるのだが、彼女の過去もあらわになった今、その言葉はとても空虚だ。透と千穂の関係は彼女が言うようなものではなく、生まれて初めて与え合い、受け入れ合うことができるようになった唯一の存在同士だったのだ。それだけが救いだと、そう思った。

アンチェルの蝶 (光文社文庫)
遠田 潤子
光文社
2014-01-09

大阪の下町で父親から受け継いだ居酒屋を経営している藤太。そこへ中学時代の親友・秋雄が幼い少女を連れてやってくる。中学卒業以来一度も会うことのなかった秋雄は、ろくに説明もしないまま、その少女・ほづみと彼女の身の回りのもの、そして大金を藤太に渡して姿を消す――ほづみがかつての同級生・いづみの娘であることを告げて。動揺しながらもほづみを預かり、共同生活を始める藤太。しかしその矢先に、秋雄が住んでいたマンションが火事になり、秋雄は行方不明という報道がなされる。犯行は弁護士である秋雄を恨む少年によるものだった。ショックを受けながらも気丈にふるまうほづみを見て、藤太は自身の堕落しきった生活を改め、ほづみのためにまっとうに暮らそうと努力し始める。と同時に、秋雄の周辺を探り、彼といづみの消息を追い始める藤太。しかしそんな藤太に襲いかかるのは、秋雄といづみにも関わる、中学時代――25年前の陰惨な事件の記憶だった……。

消せない過去に苦しみながら、それでも再生を願う男の姿を描くサスペンス長編。

著者の単行本をいくつも読んでいると、共通するテーマがある。それは「不条理」。主人公たちは心ない親の仕打ちに耐え、傷付いた心を抱えたまま成長し、やがてなにかしらの事件を起こす。誰も恨むことのできない、どうしようもない状況に追い詰められての犯行ではあるが、しかしそれが罪であることに変わりはなく、彼らはその罪を心の奥に沈めたまま、うまく生きられずにいる。ある者は自棄を起こし堕落した生活を送り、またある者は贖罪に走って自身の人生を犠牲にする。いずれにしたってそれは自身の犯した罪と向き合い、けれど受け止めきれずにわかりやすい方向へと流れてしまったという、ただそれだけのこと。しかし作者は彼らに救いの道を用意する。今回の主人公・藤太にとってのそれはほづみという少女、そしてその母親であるいづみという同級生だった。

救いの道を与えられた藤太は、自分の生き方を見直し、罪を受け止め、新たな道を踏み出してゆく。しかし今回、もうひとりの「罪を犯した者」――秋雄にはそれが与えられず、彼は破滅の道を辿ることになる。皆が等しく救われるとは限らない――これもまた不条理としかいいようのない現実。さらにいづみにも過酷な運命が待ち受けていたことを藤太は知ることになる。藤太が迎えた結末はハッピーエンドだったのかどうか、それはわからない。結局、抱える罪はその重さを増しただけだったかもしれないし、彼にあの「後」があったのかどうかはさだかではない。そんな余韻の残るラストシーンもまた、不条理のひとつだと思うしかないのだろう。

雪の鉄樹
遠田 潤子
光文社
2014-03-19

2013年7月2日――約束の日まであと5日。かつて負った火傷の後遺症に苦しみつつも庭師を続ける雅雪は、14年前からこの日が来ることだけを心待ちにして生きてきた。そんな雅雪の元に届いたのは、以前彼が面倒を見ていた少年・遼平が喧嘩で怪我をして、病院に運び込まれたという報せだった。遼平を迎えに行った雅雪だが、彼の過去を知り距離を置かれるようになっていた遼平との会話は相変わらずうまくいかない。しかもその矢先、遼平のたったひとりの肉親である祖母が急死。雅雪はしぶる遼平を自宅に引き取ろうとするが、それはすなわち、7日の「約束」が果たせなくなるかもしれないという可能性をはらんでいた。しかしそれでも雅雪は、自分の望みを後回しにしてでも遼平を救おうとする。すべてはまだ18歳だった雅雪に起きたある事件が原因となっていた……。

10年以上も前に起きた悲劇――誰にもどうしようもなかった事件に苦しみ続ける男の半生、そして現在を描くサスペンス長編。

他人はおろか、肉親にすら興味を持たない祖父。そんな祖父から無視され続けた父。しかもふたりは女グセが悪く、周囲からは「たらしの家系」と呼ばれる家庭で育った雅雪。母親は幼い頃家を出ており、誰からも愛情を受けずに育ってきた雅雪は、そのせいか誰かと一緒に食事を取ることが出来ず、そんな自分が人としてどこかおかしいということにも気付いていなかった。

しかしそんな彼を見出し、愛情をくれたのが、その形状から「扇の家」と呼ばれる家の娘である舞子。自分が「壊れて」いることを初めて知った雅雪は、舞子と愛し合うようになるが、しかし自分の修復にせいいっぱいで、舞子の抱える闇に気付いてはいなかった。やがて実父の起こした事件、さらに舞子の双子の兄・郁也との諍いによって、雅雪の人生はあっと言う間に狂ってしまう。しかもその事件のせいで、雅雪たちとはまったく関係のなかったはずの遼平は、両親を失ってしまったのだ。誰が悪いわけではない――もちろん雅雪が悪いわけでもない。しかし彼らが抱えていたどうしようもない「闇」はあっという間に膨れ上がり、真っ赤な炎となってすべてを焼き尽くしてしまう――不幸な事故が立て続けに起こったとしか言いようがないこの事態には、見ているこちらもただ辛くて、どうしようもない絶望感に襲われてしまう。

タイトルになっている「鉄樹」というのは蘇鉄のこと。雪に覆われた庭の蘇鉄を見て「雅雪のようだ」と舞子が言ったことがあった。それがふたりの、最後の幸せな記憶。これだけがきっと、長く苦しい時間の中で、雅雪の支えになっていたに違いない。「約束の日」を前に、これまで苦しみ続けてきた雅雪にさらに悲劇が襲いかかるという展開には目を覆いたくなるが、ゆえにその先に待っていた結末にはただ良かった、としか言えないくらいに眩しいものだった。「報われる」というのはこういうことを言うのだろうなと、そう思えるラストで本当に良かった。

お葬式
遠田潤子
角川春樹事務所
2015-02-12

交通事故で唯一の肉親であった父・和彦を亡くした大学生の片瀬在。懇意にしていた弁護士から渡された父の遺言状には、葬式や戒名は一切不要であり、これまで家族ですら立ち入らせたことのない書斎の中のものは、すべて中身を見ずに処分するよう書かれていた。遺言通りに書斎を片付けようとしていた在だったが、その中に内容の書かれていない母子手帳を見つける。そこに書かれていた名前は、子供の名前こそ自分と同じ「片瀬在」となっていたが、母親の名前は実母ではなく「翠」という知らない女性のものだった。その女性・森下翠が高校時代の父の恋人であり、一時は子供を授かり「在」という名前を付けようとしていたが、何らかの理由で母子ともに亡くなっていた――という事実を知った在は、ショックを受けながらも父の過去を調べてゆくが……。

常に優しく気遣いができ、外見も清潔で、まるでドラマや映画に出てくる理想の父親そのもの――そんな父親の秘められた過去を、遺された息子が探ってゆくという書き下ろし長編作。

高校生の頃に彼女である翠を妊娠させ、卒業直前には同棲までしていたのに、間もなくして事故で彼女を失ってしまった父親の和彦。その後、別の女性と結婚して在をもうけ、常に良き夫・良き父親として振る舞っていた和彦だったが、その一方でなぜか百合の花をいつも書斎に飾っていたり、そもそもその書斎に家人を立ち入らせなかったり、車はスカイラインにしか乗らなかったり、という奇妙な一面を持っていた。それらの習慣が亡き恋人の存在によるものだと知り、なおかつその恋人との間に生まれるはずだった子どもの名前が自分に付けられていたことを知った在の心中はいかばかりだったろうか。

次々と明かされてゆく真実は在の立場からしてみれば目を覆い耳を塞ぎたくなるものばかりであり、これまで抱いていた父親の姿とは真逆としか思えないものだったが、それでも在は懸命に過去を突きとめようとする。最初は意地か、あるいは父親への復讐のようなものだったのかもしれない。しかし最終的には、これが父親の死を受け入れるための儀式になっていたのではないだろうか。喪失を受け入れ、新たな一歩を踏み出すための。父親を乗り越え、大人になるため――というのはいかにも綺麗事のようではあるが、それでもこんな事実に向き合い、受け止める在という青年の素直さに救われたような気もした。

月桃夜 (新潮文庫nex)
遠田 潤子
新潮社
2015-11-28

兄を亡くした絶望のあまり、奄美の海を漂う茉莉花の前に現れたのは、隻眼の大鷲。彼は茉莉花に乞われるままに、ある兄妹のことを語り始める。両親を亡くし、一生奴隷のようにしか生きられない身分の少年・フィエクサは、同じ境遇の少女・サネンと出会う。人のぬくもりを知らなかったフィエクサはサネンの存在に救われ、やがてふたりは山の神に兄妹の誓いを立てる。互いに支え合って生きていく中で、いつしかフィエクサは、無意識のうちにサネンを妹ではなくひとりの女として愛し始めていた。だがそんなある時、サネンにある役人との縁談が持ち上がり……。

第21回日本ファンタジーノベル大賞受賞作、文庫化に際して再読。過去と現在で重なり合う、狂おしいまでに純粋な2組の兄妹の物語。

夢も希望もない生活の中で、それでもフィエクサとサネンは夢をみる。フィエクサは都に上り、高名な碁打ちと一戦交えること。サネンは島の女性が両手に描く「刺突」を作り上げる「ハヅキデーク」になること。そしてふたりで穏やかに、普通の暮らしを送ること――ヤンチュと呼ばれる奴隷階級のふたりには、どれもが叶わぬ夢のはずだった。しかしそれらがひとつでも叶うかもしれないという局面が訪れた時、悲劇が起きる。それを引き起こしたのは不運でもなんでもなく、ふたりが互いを想っていたこと、ただそれだけだった。互いへの愛情がすれ違ったことで引き起こされた破滅は、しかしふたりを甘美な約束へと導くことになる。

そしてそれは、茉莉花とその兄に起きた悲劇と同じとも言える。兄を追う中で起きた事故により、長く昏睡状態に陥った茉莉花。責任を感じた兄は目覚めた茉莉花を甲斐甲斐しく世話し、しかしやがて病を得てこの世を去る。兄は妹の昏睡が自分のせいだと自分を責めたまま死に、そして妹は兄の死が自分のせいだと自分を責め、残された自分を罰するかのような行動に出る。絶望にまみれる茉莉花だが、その彼女を突き動かすのも、そして支えるのも、どちらも兄への愛情、ただそれだけだった。

越えてはならぬ一線を越えようとしたことがきっかけとなり、離ればなれになってしまった2組の兄と妹。しかし残された兄はこの世の終わりでの再会を妹と約し、妹は兄のすべてを手に入れることを決める。その中に見えるのは愛情という名の狂気――しかしそれはあまりにも美しく甘やかで、何度読んでも目をそらすことの出来ないものだった。

鳴いて血を吐く鳴いて血を吐く
遠田 潤子

角川書店(角川グループパブリッシング) 2012-09-01
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売れないギタリストの多門は、類稀な美声を持つミステリアスな歌手・実菓子の自伝本のインタビュアーを引き受けることになる。多門と実菓子は実は旧知の関係で、実菓子がデビューするきっかけを作ったのは他でもない多門本人。しかしその後、多門の兄である不動が実菓子のせいで変死を遂げたため、ふたりの関係は断絶状態となっていた。そんな多門が今回の仕事を引き受けたのは、彼の前妻の兄のたっての依頼だったため。しぶしぶ戻った実家で多門は実菓子と再会し、今回の仕事について説明をするが、実菓子は自分では喋らず、「多門から見た実菓子」を本にしてほしいと言い出す。かくして多門は、実菓子との出会いからこれまでの出来事を思い出し、語り始めるが……。

怨念渦巻く人間関係が、年月をかけて真実を捻じ曲げてゆくミステリ長編。
多門と実菓子の出会いは幼少期。小村の権力を二分する旧家のうち、多門は「藤屋」と呼ばれる一族の次男。長男の不動は優しく聡明だが病弱で、厳格で外面だけはいい父親に長男は罵られ、次男は無視され続けていた。そんな父親が突然「客分」として家に連れ込んだのが、藤屋と対立していたもうひとつの旧家「斧屋」の娘・鏡子とその実子である実菓子だった。鏡子の父親は多門の父親と対立したことがきっかけで自殺していたのだが、そんなことはおかまいなしと言わんばかりに、彼女は父の愛人として藤屋に居候するように。そんな性格だから当然鏡子は実菓子を可愛がっているはずもなく、多門と不動はいつしか大人たちから彼女を守るようになる。そしてそのうち、不動は実菓子に惹かれるように。だが実菓子が年頃の娘になった頃から、彼らをとりまく状況は不穏なものになっていく。

実菓子に愛情を、厳格な父に憎悪を抱く不動。母親にうとまれ、生きてゆくために口を閉ざし続けた実菓子。夫から妻ではなく使用人のようにしか見られていないばかりか、愛人まで家に連れ込まれてしまった母親。男漁りが大好きで、誰にでも居丈高な振る舞いを見せる鏡子。外面はいいが家では厳格を通り越して理不尽な仕打ちを実の家族に向ける父親。そんな「家族」たちの中で起こる事件を見つめ続けてきた多門だったが、それはどこまでが真実で、どこからが虚偽だったのか。

誰もが嘘をつき続ける中、多門がたどり着いた真実はあまりにも残酷で、やるせなくて――けれどこの絶望的な物語の中にも、ひとつだけちいさな希望はあった。そんなささやかな結末には、これまでの経緯を考えるとめでたしめでたし……とはとても言えないけれど、それでも良かったと、そう思えた。

月桃夜月桃夜

新潮社 2009-11-20
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兄の死に絶望し、パドルを捨てたカヤックに乗ったまま奄美の海を漂う茉莉香。そんな彼女の前に現れたのは、人語を話す大鷲だった。その大鷲は、茉莉香にせがまれるまま、ある兄妹の物語を始める。
――天保の頃、奄美の島は薩摩の黍畑として、あらゆるものを絞り取られていた。ヤンチュと呼ばれる奴隷的身分の子供として生まれ、一生を黍畑でこき使われて生きる運命にあった少年・フィエクサは、父を亡くしたヤンチュの少女・サネンと出会う。なぜかフィエクサに懐いたサネンを、彼は妹として守り育てていくことになるが……。

第21回日本ファンタジーノベル大賞受賞作の本作は、禁断の兄妹愛が招いた悲劇と、そこに訪れたかすかな希望の光の物語。そして、その物語に救われる、もうひとつの兄妹の物語。

ひょんなことから碁を習い、腕を上げたフィエクサは、いつか都で名うての碁打ちと戦うことを夢見る。そしてサネンもまた、島の娘が成人や婚姻の印として腕に彫る「針突」に憧れ、自分の腕に針突をするか、あるいは針突師になって娘たちに針突を施してやりたいと思うようになる。しかし死ぬまで奴隷の身分であるフィエクサと、亡くなった父の代わりに多額の借財を抱える身であるサネンには到底無理な話。たとえ夢がかなうかもしれないチャンスを得ても、互いを想い合うふたりは、そのために相手を犠牲にすることができない。そんな純粋な想いそのものが招いてしまった結末は、とてもではないがやりきれない。

そんな物語に自分たちの姿を重ねるのは茉莉香。事故で長らく昏睡状態に陥り、7年経ってようやく目覚めた彼女だったが、回復したのも束の間、自分の世話をしてくれていた兄が病死してしまう。それに絶望した彼女は自殺まがいの行動に出たのだが、その行為に隠されていた真実は、フィエクサとサネンの物語に重なっていく。

互いを想い合うあまりに自分を犠牲にして、結果としてすべて喪ってしまった2組の兄妹。しかし喪失の向こうに待っていたのはわずかな、けれど確かな希望。どうしようもない事態の中で、それでも相手のために文字通り「身を尽くす」――そんな激しさを秘めた関係が、あくまでも静謐に、うつくしく描かれていく。「永遠」が垣間見えるような、そんな幻想的な物語。

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