肥後翁のblog

民俗・古代史及び地名研究の愛好家

肥後 山上三名字は海賊だった。
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/47327860.html


日本列島へやって来た人々の移住経路:百嶋由一郎先生講演より
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/44982601.html

支那津彦という神様は、雲南省から日本にやって来た。
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/47462518.html

『上野の勢田の赤城の韓社、大和にいかで跡をたれなむ』源実朝 金槐和歌集
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/44943266.html

 
阿蘇高森夏合宿 百嶋由一郎先生講演 2012年7月28~29日
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/44934205.html 


母たちの系図 (海人と天皇 日本とは何か 梅原猛 1995より)
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/47333337.html

温故知新:香港民主化デモ(2014年9月30日)
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/44934246.html


製鉄・精銅地名: 高良/香春/川原(河原)/郡浦: かわら、こうら、こら
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/33742201.html

菅原道真の先祖神は何か 百嶋雄一郎先生2012年1月21日講演
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/32360306.html


大分県中津江村鯛生金山:地名の由来及び金山発見説
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/33651949.html


玉名・山鹿・菊池の神々 百嶋由一郎先生講演2012年2月5日CD テキスト版
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/33437470.html

黒木一族(調党)の出自
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/32888821.html


科学論文から見た新大陸への人類の移動経路

http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/33041079.html


百嶋由一郎先生 神社研究会講演2011年5月28日CD テキスト版
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/32359100.html


久留米大学講演「九州王朝前夜」 百嶋由一郎先生講演 2011年7月16日
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/32482577.html

春日神社について、百嶋由一郎先生講演2011年4月23日
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/31199875.html

百嶋由一郎先生久留米講演2011年2月5日CDテキスト版
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/31290301.html


宇佐神宮とは2012年3月17日 百嶋由一郎先生講演CDテキスト版
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/30564718.html


菊池(キクチ)の地名と菊池一族の由緒
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/29345273.html


女帝と比羅夫と猿田彦そして安曇の磯良
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/29155310.html 


肥後山上三名字、牛島氏は橘氏の末裔
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/28836293.html


百嶋由一郎先生
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/28466186.html

 
百済王伝説
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/45107723.html


貝と月と竹 海の道
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/45179229.html 

メラジカ物語 (中武雅周 著 ふるさとの記 米良の荘 より:中武雅周文庫、米良風土記)
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/45454529.html
 

 
牛島辰熊(柔道日本一)東条英機首相の暗殺を計画した男
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/44860956.html

麦わら帽子1975年
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/43278673.html

戦中・戦後の歌謡曲
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/44850827.html 


安保法制反対 日本を安倍政権から守れ!!!
http://blog.livedoor.jp/ushijimatosh…/archives/44819833.html 

本当にやばいぞ安倍政権!!! 昨年の1票を返せ!!!
http://blog.livedoor.jp/ushijimatosh…/archives/44890522.html


写真:昭和30年代の中津江村の林業
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/47329668.html


慢性閉塞性肺疾患(COPD)の概要    COPD overview.
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/47328417.html 
   
難治性の遺伝病「嚢胞性線維症」と「原発性線毛機能不全症」 遺伝子治療の試み
http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/47330829.html



 


支那津彦(1);   宇佐神宮とは何か  百嶋由一郎先生講演  2012年3月17日より

 草部吉見の一族の移動ルートを西暦紀元前後から書きますと、両方とも雲南省です。雲南省はヒマラヤの東の端っこ、従って平地もあるが7000m近い想像に絶する世界の連中の憧れの山が二つ三つある。そして、阿蘇家の先祖、支那津彦が残したいろいろな文書、諺が残っている。現在も残っている。支那城の跡も残っている。そしてその子孫は全部が日本に来たわけではない。一部分は現在のミャンマーを逃げて、インドのアッサム地方に近い、インドの東北地方に逃げている。そして、私達と似たような習慣、千木の習慣がある。千木は栄誉、誉れのある家だけがこれを掲げることが許されるのである。この人たち、民族は、例えば、カレン族とかいろいろありますが、あくまでも宝石(金、ダイヤなど)にしがみついている。ずっと宝石にこだわっている。それで、ビルマの軍隊と長い間、いまだに、権益を巡って争っている。阿蘇の草部吉見さん、支那津彦の系統は、メコン川を下って、ベトナムの南のほうで小さな船をおいて大きな船に乗り込みます。一方、櫛田神社の神様のほうは、昆明の近く、紅河を利用した。その時期は紀元前後と思ってもらえばよいです。阿蘇家の調査、博多の櫛田神社の調査で大体検討がつきます。
CV0YCb-VAAAUhpB

 支那津彦のほうは何ヶ所かに鎮座されていますが、現在でも見ることができる場所を申し上げます。
 ひとつは、奈良の春日神社の奥の支那津彦(日本における支那津彦の原点)、支那津姫(伊勢外宮様)です。現在では文字をすり替えていらっしゃる。支那が志那になっている。
 琵琶湖の方ではまだ支那のままの所も幾つかあります。
 福岡も佐賀も何十年か前までは支那の字を使っていた。例えば、呼子の田島神社です。この頃は字を変えている。
 支那津彦は支那城からきている名前、場所は雲南のミャンマーに大変近いところ盈江(えいこう)に支那城の跡がある。草部吉見の呼び方は草部(かやべ)と呼ぶが、伽耶即ち、朝鮮半島との関係はその出自としての関係はまったくございません。ゼロです。それは草壁吉見(支那津彦、海幸彦)さんが、縁組によって高木の大神の配下・系統に入ったからです。それで伽耶、朝鮮半島にも当然行かれた。そしてこの方のお子さんである大山くい(佐田大神)のみことのお名前は、くまかぶとあらかしひこ(熊甲安羅加志ヒコ)です。この名前を解説すると、“熊甲”は熊本県甲佐、“安羅”は日本のいくつものグループが安羅に任那としての出先を持っていた安羅は地名です。 “加志”は梶取のことです。すなわち、熊本の甲佐出身の安羅にいる舵取という意味です。
 そして海幸彦(支那津彦、草部吉見)、大山くい(熊甲安羅加志ひこ)、さらに大山くいのお子さんが敦賀の式内社気比神宮にお祭りされているツヌガアラシト(天の日槍、素戔鳴尊、贈崇神天皇)です。近くではそれを見ようと思えば、久山町山田にある審神者神社です。船の航海を天に御伺いするシャーマンで船の舵取りです。すなわち、海幸彦(草部吉見、支那津彦)、大山くい(熊甲安羅加志ひこ)、贈崇神天皇(ツヌガアラシト、天日槍、素戔鳴)と3代に渡って朝鮮半島と縁のある方々で、舵取りをなさっている。

  さて、支那津彦の民族が、盈江の支那城にたどり着くまでのことを少し話します。蒙古の入り口の張家口で、漢民族の記録では約4700年前(支那津彦の先祖のほうの苗族は約4000年前といっているが、漢民族の言う年代は記録に残っているので、4700年前を採用しておく)の戦いにおいて、普通いう漢民族の祖先といわれる連中の連合軍に負けるんですよ。そして、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、そして逃げるのも一回や二回ではない、あっちの民族とくっつき、こっちの民族とくっつき、500年たったらこんどはどことくっつきどこへ逃げた、また、500年経ったらどことくっつきどこへ逃げたと、日本に渡ってくるまで、2700年もの間、あっちとくっついて逃げ、こっちとくっついて逃げ、時には勝つことも在ったが、どうしても漢民族は人数が大きいので最終的には敗れて、負けて、その逃げた民族の最も大きい集団が現在では苗族(すなわち、かつての黎族の主流系)で、一番多いのは貴州省です。したがって、現在、貴州省の苗族は『青檳榔之味』という映画を5年に1回くらい作っている。日本でいえば忠臣蔵、赤穂浪士のようなもの、そしてこの映画は、香港、ベトナム、タクラマカン砂漠なんかでよく見られる。苗族は現在主に、貴州省、四川省、雲南省に住んでいる。

支那津彦(2);   春日神社について、  百嶋由一郎先生  講演2011年4月23日より

 これは阿蘇の春日の大神の間違いなく先祖だと思います。これは中国の支那津彦です。阿蘇の春日大社の神様もお名前は支那津彦です。この支那という地名が今も残っていることをやっと中国の雲南省がその地図を発行しました。向こうの雲南省研究家が日本人は、支那人、支那人というがそれを中国人は我々を馬鹿にしている呼び方と思っていたが、実際、支那という地名と、支那城があったことを中国の文化誌に発表したんです。そこで、俄然、中国の一部の人はこの支那津彦の存在にきずいたんです。そしてこの方は現在、どこに鎮座しておられるか、そしてその銅像はどこにあるか、私はそれを見に例のごとく馬鹿振りを発揮して跳んで見に行きました。その場所は東ヒマラヤの一角、標高2400m、土地の名前は麗江です。ここに銅像がありました。そしてこの方をお祀りするお宮さんは、お宮とといっても日本のお宮とはちょっと性格が異なって、お宮兼お寺ですね。そんな霊廟が複数個所にございます。
 これは日本のテレビにたびたび登場する苗族です。大体5年に一回、熊本市と姉妹都市の桂林地区を中心にして、苗族の映画『青檳榔之味』をつくります。日本の四十七士赤穂浪士と同じです。内容は漢民族のクソヤロウ、我々を馬鹿にしやがって、という映画です。そして、溜飲を下げているのです。そして、苗族のふるさとは、雲南だけではなくて、楚の国、中国のど真ん中、湖北省、湖南省、武漢三鎮、あの地区です。現在、中国の桃源郷として、世界遺産に指定されています。そこまで、この人たちの先祖はさかのぼりまして、さらに、さかのぼってゆきますと、倭人・倭人・倭人という名が出てきまして、北へ北へ行きます。何で中国の本に日本と同じ、倭人が出てくるのか?、にまで到達します。これも倭人の素性を手繰ってゆきますと、中国の辞書、日本で言う、姓字家系大辞典に相当するものです、をみると、どうみても阿蘇家の先祖、苗族、それをさかのぼった倭人の先祖はヘブライ人となります。100%信じることは出来ないかもしれませんが、中国の辞書ではヘブライ人となります。


支那津彦(3);   百嶋由一朗先生講演 神社研究会 2011年5月28日より

 先日、私は多さんに会ってきました。この多さんは日本の多さんではなく、阿蘇家の先祖多さんが鎮座しておられる雲南省の麗江です。場所は、ヒマラヤの東に属する標高2400mのものすごく水に恵まれた世界の桃源郷の一つです。ここの麗江に多さんのご先祖の多大将軍の銅像がございまして、銅像だけではなくて、霊廟もたくさんあるんです。年齢は積年2000歳と少々です。春日の大神の年齢は生きておられれば1862歳です。どこにおられたかというと、春日の大神のお名前、日本では支那津彦といわれました。多大将軍も支那津彦なんです。場所はですね雲南省の詳細地図を見ますと支那という地名が3箇所残っています。

今まで中国人は勝手に、日本人の奴等、支那という言葉を使って馬鹿にしているといっていたのですが、ところが此の頃雲南省から火の手が上がりまして、自分達のところには支那という地名が現在あるのだということを10、4・5年前、平成の世になって主張された方がありまして、それが世に出たのです。本当に支那という地名が3箇所あるのです。
②   雲南省黎族(紀元前10世紀頃)→海南島(紀元前後)→台湾→日本列島(紀元前後)
(1)支那:雲南省 楚雄市 永仁県 支那  
(2)支那郷:雲南省 徳宏徳宏傣族景頗族自治州 盈江県 支那郷
       
   
雲南省シナ
 
そして支那城の主が支那津彦、多大将軍だったのです。そして多さんの子孫が、多という固有名詞を持ってこられたと考えればよいのだと思います。そしてどのようなコースをとって、こちら日本に到着されたか、それは雲南省とミャンマーの国境、ビルマを越えていくつかの大河が南シナ海にまで流れています。そして、ハノイに流れてくる川が一つ、もう一つはずっと南を迂回しているメコン川ですが、結論、ハノイに流れてくる川の方を利用して、雲南で船にのりますと、昔は堰がなかったから、ハノイに到着するようになっています。そして、ハノイで、ハロン湾で仕入れられたのがバンブーボート、日本語に直すと、目無籠、竹を利用して、網目を牛糞と土を混ぜたもので水が漏れないようにする技術で作ったボートです。4~5人乗れます。現在もベトナムでは使われています。そしてこれが日本にもあるんです。栃木県に近い茨城県の山の中に金砂神社というとてつもない古く、いったい誰をお祀りしているのだろうかという謎の神社があります。そこの西金砂神社のお宮さんの天井にこのバンブーボートが描かれています。これは神武天皇がご巡幸なさった時(長臑彦にじゃまされるあれ以前の話です)、相当、大きな船で廻ってらっしゃいます。ところが、岡に上陸される時は大きな船では入れませんのでバンブーボートで上陸したのです。その上陸された場所で一番有名なのが、日立の浜、茨城県です。それで、日立の浜からずっと上ったところの金砂神社にバンブーボートの絵が残っているのです。

 

母たちの系図

(海人と天皇 日本とは何か 梅原猛 1995より)
mom image001
 

 

宝皇女(皇極35/斉明37帝)【茅渟王(押坂彦人大兄王の子)×吉備姫王】

宝皇女(皇極35/斉明37帝)【茅渟王(押坂彦人大兄王の子、すなわち敏達30の孫)×吉備姫王】
 宝皇女は斉明天皇として崩御し〝御霊〟となる。彼女の亡くなった地〝朝倉〟は御霊を宿す地である。土佐の地にも〝朝倉〟の地名があり、「土佐国風土記逸文」には朝倉神社の名がみえる。赤鬼山の東南麓に位置する。祭神は「天津羽羽神」。同名の〝朝倉〟の名をもって、土佐の朝倉にも「斉明天皇出兵」伝説がある。この天皇は〝鬼〟と呼ばれた人たちとどこかで繋がっている。また八幡信仰とこの天皇との関わりも考えたい。筑前の朝倉宮跡地として、朝倉町山田の恵蘇八幡宮境内が挙げられている。宝皇女の名には、山の民の伝承が眠る。因みに高知市朝倉の朝倉神社のもう一柱の祭神は天豊財重日足姫即ち斉明天皇である。
阿倍引田臣比羅夫
 比羅夫は「船師:ふないくさ」が得意である。彼は布勢臣に対し、阿倍氏の傍流で、奈良県桜井市白河(辟田郷)を本拠としたというが、果たしてそれだけで十分であろうか。斉明天皇が皇極帝であった時代に、「阿曇山背連比羅夫」という人物が出て来る。彼は百済への使者であった。安曇氏は海人の長である。「山背の」とあるので、おそらくこの氏の活躍した場所は「巨椋池」であろうと、喜田貞吉はいう。「ヒラブ」は貝の名として「天孫降臨」の場面に登場している。    梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  
額田部連比羅夫 額田部氏 允恭天皇 
 おもしろいなと思うのは、推古女帝【豊御食炊屋姫(幼名、額田部皇女)】が蘇我氏を誉め讃える時に、「太刀ならば呉の真刀」。呉というのは中国の江南です。だから鉄ならば中国の江南のものがいい。「馬ならば日向の駒」がいいと例をあげて誉め讃えている。そうすると推古女帝は、非常にいい馬は日向の馬だと思っている。ところが、もう一つよく考えてみると、額田王で有名な額田ですね。字だけが一緒で氏族としての額田部ですね。その額田部氏が、『新撰姓氏録』のなかで先祖伝承を書いている。それは、允恭天皇の時に薩摩での戦争でとってきた名馬の額に田という格好の巻毛があった。それを天皇に献上したので額田という名前をもらって氏の名になったのだと書いています。そうすると、古い時代は隼人の根拠地である薩摩と大隅は日向の一部で、奈良時代頃になって日向からだんだん大隅と薩摩が分かれていくわけですから、推古女帝がうたっている日向の駒というのは、なにも宮崎県に限定しなくても、隼人の馬である可能性がある。そしておもしろいのは、推古女帝のもとに中国や朝鮮半島から使いが来たら、だいたい額田部連比羅夫が多くの飾り馬に乗った兵士を引率して、外国の使いを大和で迎える。だから、推古女帝は、たしかに額田部氏の率いていた馬を見ていた可能性があるのです。      森浩一・網野善彦 馬・船・常民 講談社学術文庫(1999) より

 

 

天智天皇・間人(はしひと)皇后【舒明34帝(田村皇子)×宝皇女(皇極35/斉明37帝)】

*86(16)中大兄皇子【舒明34帝(田村皇子)×宝皇女(皇極35/斉明37帝)】
 大化改新に際し蘇我入鹿暗殺に自ら手を下した様子を、『書紀』は次のように語る。「即ち子麻呂等と共に、出其不意く、劒を以て入鹿が頭肩を傷り割ふ」‐そしてついに「入鹿臣を斬りつ」(皇極四年六月)。歌舞伎『妹背山婦女庭訓』では、疑着(嫉妬)の相のある処女の血と爪黒の鹿の血でもって初めて入鹿を殺すことが出来た。処女の名は杉酒屋の娘お三輪、そして入鹿を討つのはお三輪の恋人、淡海公。入鹿は刀で斬っても死なない。〃血〃という犠牲が必要なのだ。
*229(14) 間人(はしひと)皇后【舒明34帝(田村皇子)×宝皇女(皇極35/斉明37帝)】
 間人と中大兄は妹と兄である。しかも同母である。二人は一対である。間人はその名の通り、神と人との〃間〃の女であろう。『万葉集』では「中皇命」と呼ばれる。彼女は〃国見歌〃をうたった舒明帝の娘である。彼女もまた母・斉明帝と同様、呪力を持った女性であった。彼女の歌にはその面影がみえる。「やすみししわご大君の(略)梓の弓の金弭の音すなり」(巻一・三)は、歌うことによって梓弓を鳴らし、神を呼んでいる。彼女は巫女である。そして〃間〃は〃橋〃に展開される。ただし、析口信夫は『万葉集』の「中皇命」は斉明(皇極)天皇とする(『女帝考』)。
*234(l)天智38帝(中大兄皇子)
 天智天皇も伝承の世界では〃神〃である。神は時に眇であったり、一つ目であったりするが、天智もまた目を傷つけたことがある。阿波の葛城大明神社(http://g.co/maps/54pkr)の伝承では、この社のある村、板野郡北灘では男竹が育たぬという(柳田國男『目一つ五郎考』)。それは天智天皇が、この社の池で鮒を釣ろうとして落馬した際、目を男竹で突いて、傷つけたからだという。また大友皇子(弘文39天皇)とともに祀られることが多く、天智を主神、大友を御子神としている。そして斉明帝と同しく、なぜか〃土佐〃にその伝承が多く残る。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より   
 

倭姫【古人大兄皇子(舒明34帝×法提郎媛(馬子の娘))の娘】

*234(2)倭姫【古人大兄皇子(舒明34帝×法提郎媛(馬子の娘))の娘】 
 倭姫とは巫女の一般名称ではないか。あのヤマトクケルの叔母、「倭姫命」も神の花嫁であった。この名も玉依姫、豊玉姫などと同じくやはり巫女の名ではないか。倭姫は天智帝の皇后であったが、子はなさなかった。ここにも彼女の神の花嫁の資格がある。ところが不思議なことに、伝承の世界では、彼女は多くの子をなしている。天智38帝もまた用明31帝と同じく天子潜幸の物語を持つ(薩摩・大隅、土佐に分布)。天智の恋の租手の名は玉依姫。この玉依姫は即ち倭姫ではないか。もちろん彼女の産んだ子供たちは、神の御子であるので「若宮」として祀られた。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  
 

遠智娘【蘇我倉山田石川麻呂の娘】

*423(11)遠智娘【蘇我倉山田石川麻呂の娘】
 遠智娘は天智38帝の「嬪」であるが、大田皇女、鵜野皇女(持統天皇)、建皇子の三子をもうけた。皇后・倭姫王は子をなさなかった。名はやはり意味深い。倭姫は天皇の配偶者としてよりも巫女的性格が強い。伊勢斎官の「倭姫」の名を負っている。遠智娘は、「小千御子」の物語の「オチ」に繋がるのではないだろうが。この物語は父は都の尊い方、母は彼の地の美しき娘、二人は結婚して彼の地で子をもうけている。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  
 建皇子は長男である。当然、皇太子になる皇子である。しかし建皇子は口が利けなかった。それは母の傷心が原因ではないかと思う。おそらく父を夫に殺された狂乱の中に建皇子を身ごもったのであろう。そして彼女はついに夫によって父が殺されたショックで死に至った訳である。 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 本文より 
 

大友皇子【天智38帝×伊賀采女宅子娘】

 *159(11)大友皇子【天智38帝×伊賀采女宅子娘】
 伊賀皇子ともいう。伊賀の名は母の「伊賀采女宅子娘」に依る。壬申の乱によって、皇位を継承することなく死んだとされる半面(『書紀』)、天智十年十二月の天智天皇崩御後、帝位に就いた(『扶桑略記』)との説もある。明治三年、三十九代弘文39天皇と遣諡された。大友皇子も御子神として崇拝される。貴種流離譚がこの信仰を支える。やはり山の民の伝承するところのものである。伊賀の名は、高崎正秀の「私は思ふ。近江・伊勢・伊賀・紀伊ほど、近世に至るまで、多くの団体的漂泊遊芸者を出した国はない」(『伊勢物語の成立』)という一文を想起させる。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  


 

大海人皇子(天武40帝)【舒明34帝×皇極35/斉明37帝】

髪長姫  霊鹿の娘  海人の娘


*245(5)大海人皇子(天武40帝)【舒明34帝×皇極35/斉明37帝】
 柳田國男の記す「髪長姫」は、天武40天皇(大海人皇子)の后となった処女の物語である。この髪長姫は紀州の海人の娘とある。「髪長姫」の話は同じく紀州「道成寺開創縁起」として伝わる。こちらの髪長姫も海人の娘である。ともに伝承であるが、前者が陰陽博士によって、後者が藤原不比等によって入内しているところが異なる。そうして道成寺の髪長姫は文武天皇夫人・藤原宮子ということになっている。もう一人の「髪長媛」は仁徳16天皇の妃として大草香皇子と草香幡梭皇女を産む。天皇と髪長姫。二人を結ぶのは〃海〃である。
*235(3)吉野 
 応神天皇十九年十月、天皇は「吉野宮に幸す」。この時、吉野人、つまり国樔人は産物を奉る。酒、山の菓、ギノコ、年魚、そして蝦蟆(かえる)。このカエルを煮たものを「毛瀰」というと『書紀』にある。その料理は「上味(よきあじわい)」であった。吉野という地は、山の幸、川の幸に恵まれ、人々は歌を詠む風流人であった。大海人即ち天武天皇は今もこの吉野の地で〃神〃である。天武天皇を祀る桜木神社(吉野宮滝/現・吉野町大字喜佐谷)には、大己貴命・少彦名命が合祀されている。なぜが持統は夫・天武とともに祀られていない。
*243(6)吉野
 地元の人々は吉野の桜木神社を「疱瘡の神」として崇拝する。少彦名を薬神とみれば、疱瘡の神というのは自然である。しかしなぜ、天武はこの桜木社で大己貴、少彦名、そして末社に坐す大山祗(山神)とともに祀られるのか。天武は吉野で山の神となっている。「神」というのは古くは海の彼方からやってきて、後に山に降るように成った」(岡見正雄「御伽草子講義」ノート)。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  

大田皇女【天智38帝?×遠智娘?】【天武40帝の最初の皇后】【大津皇子の母】 

大田皇女
 大田皇女は大津皇子を産み、鵜野皇女は草壁皇子を産んだ。草壁皇子と大津皇子はほぼ同じ年齢で、草壁のほうが少し上である。とすると、鵜野皇女は母を失った後には、最も信頼出来る味方であるはずの姉、大田皇女と好むと好まざるとにかかわらずライバル関係にならざるを得なかったのである。もちろん大田皇女が生きている以上、大田皇女に一目置かねばならぬであろう。おそらく彼女は姉である大田皇女に強いコンプレックスを覚えていたに違いない。そればかりではない。特に大田皇女の産んだ大津皇子は体格もたくましく聡明で、深く祖父の天智帝に愛されたという。一方、彼女の産んだ草壁皇子は休も弱く、性格も平凡であった。おそらく彼女は、このただ一人の同母姉に強い愛情と同時に、強い憎しみを感じていたに違いない。 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 本文より  

 
大津皇子
 持続政治の第一歩は大津皇子殺害であった。天武天皇が亡くなったのは朱鳥元年(六八六)の九月九日である。大津皇子の謀叛が顕れたのが十月の二日である。そして十月三日、大津皇子は死ぬ。父天武帝が亡くなってから一カ月を経ず、謀叛が発覚してからたった一日で大津皇子は、鵜野皇后によって死を賜わっている。皇后は、大津皇子を抹殺する日を待っていたのである。この事件は全くのでっち上げであろうというのが大方の歴史家の意見である。というのは、この事件の加担者として『日本書紀』には八口朝臣音橿、壱伎連博徳、中臣朝臣臣麻呂、巨勢朝臣多益須、新羅沙門行心、礪杵道作などが挙げられているが、事件後、新羅抄門行心、礪杵道作を除いて皆許されているからである。 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 本文より 



持統41天皇(鵜野皇女)【天智38帝×遠智娘】【天武40帝皇后】

*158(10)持統41天皇(鵜野皇女)【天智38帝×遠智娘】【天武40帝皇后】
 伝承の持統は歌詠みの美しい上蘢の一人である。持統七年正月十六日に「漢人等、踏歌奏る」という記事が『書紀』にみえる。「踏歌」は『書紀』補注によれば隋・唐の民間で行われる正月行事であったものが日本化したというが、日本古来より「踏歌」はあった。それは後世傀儡子が伝え、また琵琶法師が伝えた。海部の芸能ともいう。しかし足踏み、反閇・達陀は山の民のものでもあった。持統はたびたび吉野に行幸している。そして紀伊、伊勢ヘ。また隼人、蝦夷と親しい。  梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  
 

尼子娘(胸形君徳善の娘)【天武40天皇妃】【高市皇子の母】

22(8)尼子娘(胸形君徳善の娘)【天武40天皇妃】【高市皇子の母】
 「尼子氏」について柳田國男は次のように言う。「尼子氏は佐々木京極の庶系で本國は近江、犬上郡の尼子郷を名字の地とすると謂ふにも拘らず、或代に家滅亡に瀕した時、幼少の孤兒僅かに一人有り、租母の尼公之を養育したまふと謂ひ、或は尼の弟子と為つて命を助かるなどゝ称し、之に因って尼子と名乗ったことになって居る。一には叉其先祀天人の子なれば、天子と呼ぶと記し、いわゆる余吾湖の羽衣の傅説へ持って行った本さへある」(『念佛水由束』)。この「尼子」は湖の人。アマやアマベという音にどんな漠字を当てたがを考えねばならない。
22(7)胸形君
 ムナカタは宗像である。宗像の神は三女神。天照大神の息から生まれた。多紀理毘売、市寸島比売、多岐都比売。なぜかこの三女神はスサノオの五柱の御子と交換され、スサノオのもとで育てられる。三女神は〃女神〃の性格とともに〃御子神〃の性格を併せ持つ。「延喜式に敷多く見ゆる御子神は即ち主神の御末で同時に神意の宣傅を職掌とした家の祖神であらう。語を換へて言はば巫女のミコは御子神若宮のミコと同じ語意から分岐したものであらう」(柳田國男『傅説の系統及び分類』)。
11(2)伝承
 光明皇后にも「髪長姫」の伝承がある。興福寺の宝蔵には皇后の一丈余りの髪があるという。また一人の〃髪長姫〃は天武天皇の御后に立ちたまう、という。この御后とは高市皇子の母「尼子娘(あまこいらつめ)かも知れない。「尼」は「海人」に通ずる(伊勢神宮の忌詞:いみことば「尼」は「女髪長」と言い換えられる)。そして彼女の父は、胸形氏(宗像氏)であった。さらに伝承の天武の后の出身は紀伊国であり、「兄海士;けあま」或いは「九泉郎;くあま」の家の出とある。ただし、「世につれて今は御坊となれり。其御坊の家の妻娘などは、世にいふ市子口寄懸神子の業をなせり」(管江真澄『筆のまに/\』)という。
高市皇子
 持続は即位した年、つまり持続四年(六九〇)の七月忙、高市皇子を太政大臣に祭り上げ、丹比嶋真人を右大臣とする。もとより持続には高市を含め、天武の皇子たちを政治の要職に就けようなどという考えはない。天武の「皇親政治」の理想はない。しかし壬申の乱において功績を果たした高市皇子を無視する訳にはゆかない。そこでとりあえず、天武の皇子の中で最も年長で、壬申の乱に功あった高市を太政大臣に就けるのである。高市は皇子たちの中で皇位継承者としてはナンバースリーの位置にいた。草壁、大津、高市の順である。大津が死に、草壁が没した今、高市は一挙にナンバーワンの地位に躍り出た。持続帝は今やナンバーワンになっ高市を味方につけようとする。持続五年、高市皇子は二千戸を賜わり、今までの封戸と合わせて三千戸の封戸を手に入れている。さらに持続六年、高市は二千戸の封を賜わり、これで高市は五千戸の封戸を有することになる。高市皇子の権力は抜群であった。これは持続十年(六九六)、高市の死の記事によっても解る。
庚戌に、後皇子尊薨せましぬ。(『日本書紀』) 「尊」という尊号を持つのは高市の他には皇太子草壁皇子のみである。ここから高市皇子が皇太子ではなかったかという説が生まれる。梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 本文より 
 

刑部(親王)/忍壁皇子【天武40帝皇子】

*122(2)刑部(親王)/忍壁皇子【天武40帝皇子】
 名は呪的な力を持つ。古代、天皇・皇后・皇子らは自分の名を冠することで「民」を私有した。これを「御名代」という。この皇族の私有民はやがて、皇族の名を伝えるようになる。「刑部」は允恭19天皇の皇后「忍坂大中姫」より始まった御名代である。その最も有名なものは「軽部」であろう。軽部は木梨軽皇子より始まる。この皇子の物語「軽皇子と衣通姫」の悲劇は軽部によって語られた。、刑部親王が『万葉集』(巻二・一九四)で、柿本人麻呂によって「忍坂部皇子」と呼ばれていることに注意したい。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  

 

紀朝臣橡姫【光仁49天皇の母】 紀朝臣竈門娘【文武42帝妃】

*273(5)紀朝臣橡姫【光仁49天皇の母】 紀朝臣竈門娘【文武42帝妃】
 紀朝臣の祖は建内宿禰と伝えられる。「竈門娘」という名もまた、玉依姫・豊玉姫・倭姫と同じく巫女の一般名称であろう。さらにこの氏は〃海〃と関係深い。『日本霊異記』に伝えられる「紀麻呂」の物語はその一つ。「紀麻呂」は紀伊国日高郡の人である。そして「網を結ぴて魚を捕る」人と記される。つまりこの物語の紀麻呂は〃漁師〃である。この伝承の時代は光仁天皇の代、宝亀六年(七七五)。光仁49天皇の母は紀氏の出身(紀朝臣橡姫)、祖父は天智帝、即ち淡海帝である。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  
 

長屋王【高市皇子(天武40帝×尼子娘)×御名部皇女(天智38帝×姪娘)】

*428(14)長屋王【高市皇子(天武40帝×尼子娘)×御名部皇女(天智38帝×姪娘)】  
 『日本霊異記』中巻の第一縁には「己が高徳を恃み、賎形の沙彌を刑ちて、現に悪死を得る縁」という説話が載る。ここで長屋王は「長屋の親王」と呼ばれる。天武天皇の孫。おそらく天武がその後継者としていた後皇子尊、即ち高市皇子の第一皇子・長屋王は、皇位に就くべき位置にあった。この説話のながで聖武45天皇と長屋王は対立している。また、王の骨を「土左の國」に流したところタタリがあったので「紀伊の國の海部の郡の椒抄の奥の嶋に置」いたという。
*477(7)長屋王 
 長屋王の父は天武の第一皇子・高市皇子。母は天智と姪娘の長女・御名部皇女(『尊卑分脈』『本朝皇胤紹運録』)。長屋王の血統はすこぶる正しい。しかし長屋王の父・高市皇子の母は胸形君徳善の娘・尼子娘。胸形氏は地方豪族である。高市皇子は「後皇子尊」と称され、皇太子並みの地位にいたと思われるが、壬申の乱の功も空しく持統十年(六九六)に死んだ。そして待っていたように軽皇子即ち文武42天皇が即位する(六九七)。高市皇子暗殺説もここに登場する☆。長屋王の祖母の出自と彼の「左道」を考えてみたい。また王の母についても再考の余地があると思われる。
 ☆ このあまりにタイミングのよい高市皇子の死を疑う人もあった。かつて大浜厳此古氏は、この死に疑いを投げかけ、高松塚を高市皇子の墓と想定した。当時、私はこの大浜氏の説に反対であったが、今は氏の説も一理あると思う。梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 本文より

20(5)左道
 長屋王の「左道」事件とは実は「霊の秩序」の交替劇を言うのである。長屋王のたてた霊の秩序とは、父・高市皇子と「その妃」を最高神とする意識である。しかし「長屋王の変」後、霊の秩序は王の意識とは全く異なる形で再編される。つまり、草壁皇子を最高神とし、天智・天武・持統・文武・元明・元正の「七世先霊」という霊の秩序である。草壁の霊を最高としたのは中臣大嶋であるが、七世の霊に名を与えたのは一体誰であろう。藤原仲麻呂であろうか。(新川登亀男『奈良時代の道教と仏教‐長屋王の世界観』参照)
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  

 

吉備内親王【草壁皇子(天武40帝×持統41帝)×阿閇皇女(元明43帝)】

*295(18)吉備内親王【草壁皇子(天武40帝×持統41帝)×阿閇皇女(元明43帝)】
 吉備内親王は御霊となって、京都の上下御霊神社に祀られたという。ともに祀られるのは光仁天皇の皇后・井上内親王、その子・他戸親王、籐原広嗣、早良親王(崇道天皇)、橋逸勢ら八柱である。吉備内親王が御霊と化すのは、彼女が長屋王の妻というより、草壁皇子の皇女であるという要素のほうが強い。彼女もまた皇位継承者の資格を持つ女性であった。ただし、現在、上下御霊社の八柱に吉備内親王は入っていない。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  

 

賀茂朝臣此売

*305(l)賀茂朝臣此売
 カモヒメは藤原宮子の母である、と史書は記す。カモヒメの父は賀茂小黒麻呂、祖父は賀茂朝臣吉備麻呂と史書は言う。祖父吉備麻呂は『続日本紀』に登場している。もちろんカモヒメも『続日本紀』にその存在を記されている。天平七年(七三五)十一月「正四位上賀茂比売卒す」。さらに彼女ははっきりと天皇(聖武帝)の外祖母と記されている。史書はカモヒメなる人の実在を語るが、それでもなお彼女の存在は怪しい。「加茂氏系図」を丹念に追うと、宮子の時代に賀茂比売は存在出来ない。「ヒメ」は巫女の一般名称である。
*444(21)賀茂朝臣比売
 「聖武天皇の外祖母ならば、文武天皇夫人宮子の生母にちがぴなく、不比等の妻の一人にちがひない。賀茂『朝臣』は天武改姓(六八四)の結果であつて(略)、鴨君蝦夷の一家に与へられたものである(略)。然る所、宮子の入内は文武元年(六丸七)であるから、この時、天皇とおない年の十五歳ならば、天武改姓の前年に賀茂朝臣比売は宮子を生んでゐる筈で、鴨君蝦夷以外に賀茂朝臣がなかったとすれぱ、比売は蝦夷の娘に違ひない」(神国秀夫『鴨と高鴨と岡田の鴨』)。賀茂比売がその名に負っているものは、古いカモ族の職能である。カモ族の女は子を育てる。天子の子を育てる。もう一つ、カモ族の職能に〃鋳造〃がある(賀茂県主同族会 藤木正直氏談)。この職能は宮子の故郷・紀伊国のものでもあったし、また宮子と関わり深い八幡神の性格であった。紀伊国・熊野の「弁慶」は、熊野より叡山を経由して〃都〃ヘ下りてきたとき、背に鍛冶師の技物を負っていた。熊野から京へのルートにカモ族の歩いた跡がみえる。物語の伝播者、熊野比丘尼・琵琶法師の関係とともに、「カモ族」を考えたい。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  

 

栗隈黒嬢娘【天智38帝采女】 栗隈王【壬申の乱時の大宰帥】

*279(11)栗隈黒嬢娘【天智38帝采女】 栗隈王【壬申の乱時の大宰帥】      河童と古代氏族にもどる
 巨椋池の南に居住していたとみられる古代豪族・栗隈氏は秦氏と同じく土木工事の技術をもって大和政権に仕えた。『日本書紀』仁徳天皇十二年十月の条に「大溝を山背の栗隈懸に掘りて田に潤く」とある。栗隈氏は、「井戸を掘る」犬養氏とここで繋がる。また近鉄寺田駅の西に「水主(みずし)神社」がある。「水主」は「みぬし」とも読む。水主氏は栗隈大溝を管理した者と伝えられる。後、水主の神は雨ごいの神ともなっている。栗隈王の名は「美努王」によって伝えられる。また栗隈黒媛娘は采女として天智天皇との間に「水主皇女(もひとりのひめみこ)」をもうけている(天智七年二月)。橘諸兄は孫に当たる。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  


美努王【栗隈王(壬申の乱時の大宰帥)の子】

*279(10)美努王【栗隈王(壬申の乱時の大宰帥)の子】            河童と古代氏族にもどる
 「美努」の「みぬ」は「水沼」に通ずると思われる。筑紫の水沼氏は宗像神(海神)に仕えた故に、「みぬま」の名を称したという。「みぬ」が「みぬま」の省略形であることは、折口信夫が『水の女』で記している。美努王と県犬養橘三千代の結婚も、三千代と不比等の結婚も、「水の神事」を媒介になされたものではないか。三千代がこの二人の夫との間にもうけた橘諸兄と光明子が政治の中心の人となってゆく背景には、彼女が〃乳人〃であったということが重要である。或いは彼女は御子、「とりあげの神女」であったのではないか。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  


 

県犬養橘三千代

79(8)橘三千代                                                 
 「首皇子を御養育申し上げたのは県宿禰犬養三千代であったろうと思われる」「三千代は天武天皇の御代に宮廷に奉仕し、又持統天皇の御代にも奉仕しておった事が知られるのであるが、これは天武天皇の皇太子草壁皇子の御子軽皇子(文武天皇)の乳母として又養育掛として奉仕したのであろうと久米博士は記している」(筒井英俊『東大寺論叢』)。久米博士とは久米邦武のことである。三千代が文武帝、聖武帝、二代にわたって乳母であったということは、三千代という人物を知る極めて重要な手掛かりである。彼女には乳母とともに出産の手助けをする「桂女」的性格がみえる。
*279(9)県犬養橘三千代                 河童と古代氏族
 「犬養」という姓からは「犬養部」や「鷹飼部」が連想されるが、柳田國男はこれらの部の職能の初めは「井戸掘ナリ」という(『所謂特珠部落ノ種類』)。また「犬」という動物はこの世とあの世を自由に往き来した。アイヌの伝承に、あの世で大に吠えられたという話がある(ジョン・バチェラー)。また昔話に出てくる犬は「ここ掘れワンワン」のポチに代表される如く、人間には見えぬものを感知する能力を持っている。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  

※ 人名としての橘  吉武利文著 ものと人間の文化史87 『橘』 人名としての橘より

        ヤマトタケル尊と弟橘姫

        雄略天皇皇后、草香幡梭姫皇女(またの名を橘姫皇女)

        「仁賢紀」、春日大娘皇女の第五子に橘皇女

        「宣化紀」、仁賢天皇の女橘仲皇女を皇后とす。

        欽明天皇の妃で蘇我稲目の女堅塩媛は、七男六女をもうけ、その第一子が橘豊日尊(後の用明天皇)、第十二子、橘本稚皇子。

        同じく欽明天皇の妃、糠子の子橘麻呂皇子(「欽明紀」には橘と名のつく皇子三人)。

        橘豊日尊(用明天皇)と欽明天皇皇女(穴穂部問人皇女)の間に聖徳太子、その妃に推古帝の初孫であり、尾張皇子の子にあたる橘大郎女

        聖徳太子の死後、左大臣阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)の女橘娘の孫にあたるのが舎人親王。

※ 欽明帝から敏達、用明、崇峻、推古へと続く天皇の時代は、『集解』に「橘の京に都す」とも述ベられているが、この時代の人名に橘が多くみられるのが注目される。


 

橘諸兄【美努王×県犬養橘三千代】

50(18)橘諸兄【美努王×県犬養橘三千代】           河童と古代氏族にもどる

 「井手村(京都府綴喜;つづき郡井手町)が橘諸兄の本拠地であった事には間違いない。そうしてこの井手村は隣地の多賀村と合せて往昔多賀郷と称せられた土地である事に私は興味を持つのであるが、それは東大寺の開山良弁僧正が鷲に取られて山城多賀辺に落され、郷人が之を見て養育したと云う東大寺要録の記事と照応する時に、橘諸兄と良弁僧正との間に何だか一連のつながりのある様に感ずるからである」(筒井英俊『東大寺論叢』)。井手という土地もやはり〃金属の民〃の住むところであった。「綴喜郡も、若しかしたら後述すぺき熊野の鈴木と同語なのではあるまいか」(高崎正秀『伊勢物語の成立』)。

78(7)橘諸兄

 『太平記』巻三(岡見正雄校注)に「橘諸兄」の名が出てくる。「河内金剛山の西にこそ、楠多門兵衛正成とて、弓矢取て名を得たる者は候なれ。是は敏達天王四代の孫、井手左大臣橘諸兄公の後胤たりといへども、民間に下て年久し」。「橘」姓は後に楠正成の「楠」に変化するのであろうか。楠正成は何故、橘諸兄を祖とするのか。橘氏と黄金の関係、そして正成が「金剛山」を拠点に活躍した山の民→金属の民であったことを考えたい。両者は〃黄金〃を介して確かに結ばれている。諸兄のもう一つの名「西院大臣」にも留意したい。西院の「サイ」とは境界の意である。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  


 

県犬養広刀自【聖武45帝夫人:井上内親王・安積親王・不破内親王の母】

73(5)県犬養広刀自【聖武45帝夫人:井上内親王・安積親王・不破内親王の母】
 「刀自」とは「戸主」の転化で、家の中心にある婦人と言われているが、その発生は神酒を製する処女にあり、しかも後に「酒売る遊女」と変化する。処女と遊女の間にそう距離はない。どちらも神に仕える巫女であるからである。そしてこの刀自が物語文学に関係していることは析口信夫が指摘している(『階級傅承』)。「広刀自」という名には後に、〃女帝〃となり得るような〃力〃が秘められていた。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  

 

文武42天皇【草壁皇子(天武40帝×持統41帝)×阿閇皇女(元明43帝)】

*145(4)文武42天皇【草壁皇子(天武40帝×持統41帝)×阿閇皇女(元明43帝)】
 文武帝は幼かった。しかし彼は母や祖母に抱かれて〃天皇〃となった。彼には皇子のおもがげが残っていた。「文武天皇の御遺蹟」が修験の山々に残るのも、彼の〃皇子〃的性格に因るものであろう。文武帝が夭逝したことも、伝承の主に祀られる背景となっている。文武帝は「大宝天王」という神の名を持つ。「大宝天王」は「太梵天王」の転訛である。ボンテンは御幣の最も大きく、立派なものである。それにしても「天王」というこの伝説の名称には、山の民たちの何か伝えたい物語があるように思われる。ポンテンは劇場の正面、矢倉(櫓)に神の降臨の印として今も立てられる。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  系図へもどる  トップへもどる

 

元正44天皇【氷高内親王(草壁皇子×阿閇皇女(元明43帝))】

*287(13)元正44天皇【氷高内親王(草壁皇子×阿閇皇女(元明43帝))】
 「あしぴきの山行きしかば山人の朕に得しめし山つとそこれ」(『萬葉集』巻二十・四二九三)。この元正上皇の歌は、奈良・帯解町大字山(奈良市山町)に行幸した折、「〃山人〃が、こんな〃土産〃をくれました」という内容の歌である。折口的解釈をすれぱ〃山人〃とは山・川の精霊を負っている〃常世人〃である。この歌はフィクションである。ここで元正は仙人であり、その仙人に仕えるのが山人である。彼女はこういう呪的な言葉を発することで、常世の国へ入ってゆくのである。
*294(17)元正44天皇
 元正は称徳48帝によって「中天皇」と呼ばれた(神護景雲三年十月朔日の宣命)。元正も称徳もともに未婚の女性天皇である。称徳が元正を「中天皇」と呼ぶのは、この言葉の持つ力を、自分に引き寄せているのではないか。元正はオバとしてオイの聖武45に皇位を譲るべく天皇位に就いた。「宜命」に言う「二所天皇」とは元正と聖武のことである。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  

*292(16)聖武45即位の宜命
 この宣命は「父帝なる文武42天皇は曾租父、元明43帝は祀母、元正44帝は母と言ふ形に表され」(折口信夫『國文学の誕生』)‐-つまり、この宜命は物語であり、それ故、呪力を持つ。現実には文武帝は聖武の父であり、元明は祖母であり、元正は伯母である。しかし皇位は、文武↓元明↓元正と続いて、今、聖武に至ろうとしている。そういう意味で、前帝は母であり、前々帝はその母の母であり、そして聖武の父・文武は、その母の母の父、つまり「曾祖父」に当たるという訳である。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  

 

宮子【文武42帝夫人】

*468(3)宮子【文武42帝夫人】
 藤原宮子という人が、紀伊国と何らかの関係を持っていたことは、たとえその母がカモ族出身の賀茂比売であったとしても、ほぼ間違いないであろう。紀伊国に鍛治の技術のあったこと、カモ族に鋳造の技術のあったこと、加えて八幡神の持つ鍛冶の性格を宮子が負っているということは既に記した。紀伊の鍛冶は、一方で〃鉄砲〃を作る。時代は下るが、江戸城大手の三門を交替守備した鉄砲方は近江の甲賀組、伊賀の伊賀組、そして紀伊の根来組であった(高崎正秀『伊勢物語の成立』)。天皇が〃宮子〃を介して結びつく紀伊国は、武術にもたけていたのである。 
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  


 

聖武45天皇【文武42帝×藤原宮子】

*379(12)聖武45天皇【文武42帝×藤原宮子】
 行基開基と言われる寺には聖武天皇勅願寺が多い。聖武帝の第三皇女、松蟲姫は癩病を患い、そのため東国に流落したという伝承がある。そこは下総国(千葉県)印旛・松蟲。薬師如来が姫を救う。そして聖武勅願の寺・松虫寺が今に残る。本尊は榧材による木彫仏・薬師如来坐像。左右に三体ずつの立像が並ぶ。通称「七仏薬師」(重文)。平安後期の作とされるが、「寺伝」は聖武帝の代の仏としている。またここに行基伝説‐‐行墓と因縁ある大銀杏が現存---があることがら(柳田國男『杖の成長した話』)、この榧材による薬師仏を「行墓仏」と考えてみたい。
 佐賀県多久市「桐野山妙覚寺」は行基開創の勅願所である。本尊二体のうち一体、「聖観世音菩薩」は行基作(もう一体は慈覚大師作、不動明王)。佐賀市白山にある「瑞石山高寺」は和銅四年(711)、行基開山。薬師如来は行基作(本尊は十一面観音。この観音は讃州志度寺からやって来たという。あの房前の伝承の寺である)。高寺には「聖武天皇の勅願にて楠一本を以て尊像八體を作る」という伝承がある。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  
28(9)聖武天皇
 聖武は夢を見る。夢の中で行基に出会う。その時の行基はみに鯖を担った老翁であった。鯖大師である。また彼は伝承の光明子と夢で出会っている。その時、光明子は和泉の国の「織女」であった。また聖武の臣下の「船手大臣」という者は木地師の棟梁となっている。また彼は聖徳太子の生まれ変わりと伝えられる。これらの不思議は一人聖武の作るものではない。行基とともに聖武の霊性は作られたと思う。「和泉の国」は、二人を結びつける。
36(13)聖武天皇
 聖武天皇は夢を見る。天平十四年十一月十五日の夜、伊勢の神、玉女として示現し、金光を放つ。そうして自分は「大日如来」であり、その本地は「毘廬遮那仏」という。さらに「衆生はこの理を悟解してまさに佛法に掃依すべきなり」という(『東大寺要録』)。そして天平十九年九月ニ十九日、大仏の塗金が完成せず、聖武が思い悩んでいると、またもや玉女が現れ、その結果、天平二十一年ニ月の陸奥国黄金出土という吉兆に見舞われるのである。聖武が都を離れ、伊勢に行った天平十二年十月、伊勢大神は聖武の守護神となる(堀一郎『東大寺建立の理念と民間佛教の台頭』参照)。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  
31(11)恭仁宮
 恭仁官の在った山背国相楽都は橘諸兄の別邸の在ったところである。「恭仁京は瀧川(政次郎)博士の御指摘によれば、東西に流れる木津川を洛陽城の東西に貫く洛水に見立てて建設されたもので、北極星に擬せられる北の宮城と南に展開する街区の坊を衆星と見立てたその間を、天漢つまり銀河を象徴する川が流れるという、秦の始皇帝以来の首都構想が聖武天皇によりとり入れられたのである」(村山修一『日本陰陽道史総説』)。
31(12)遷都
 聖武の放浪は一つの〃国見〃の儀式ではなかったか。聖武は新しい都を生もうとして歩いた。山に登り、川を下り、海を見て、地霊と交感し、〃都〃を生もうとした。彼の〃国見〃の儀式の助言者は、橘諸兄と行基であったと思われる。しかし最終的に国見をする人はスメラミコトである。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  

 

光明子【藤原不比等×県犬養橘三千代】

*428(13)光明子【藤原不比等×県犬養橘三千代】
 聖武45天皇が生まれたと同じ年に誕生したという。その出生にまつわる伝承は興味深い。彼女の父は利修仙人。母は霊鹿(この伝承は藤原則隆の女玉依姫も持つ。彼女は天智38帝の妃となった)。母鹿は利修仙人の小水を舐めて懐妊、利修仙人の修行の地、三河の鳳来寺山(蓬莢山に因むと思われる。利修は鳳に乗って山を地を自在に巡った)で女児を生む。利修はこの子を都の「或る貴人」の家の前に捨てる。この女の子が後の皇后・光明子という(柳田國男『和泉式部の足袋』)。  鹿児島県開聞岳大宮姫伝説
*443(20)光明子
 光明子が仙人と霊鹿の子として深山で生まれたという伝承は、彼女の不思議な力を語る。また彼女が「捨て子」であったということはこの伝承の深さを物語る。子を一度捨てると、その子は力を増す。子は一定の場所に捨てられた---橋の袂、馬場、樹の下、辻---神の場所である。門前というのも意味があるがも知れない。伝承の光明子は「或る貴人」の門前に捨てられている。また霊山の麓は赤子の泣き声のする所である。九十九王子信仰は「赤子」と関係深い。「峯の薬師」の信仰もまたそうである。〃光明子〃の父・利修仙人は鳳来寺山で薬師を刻んでいる(柳田國男『和泉式部の足袋』参照)。
57(l)光明皇太后【藤原不比等×県犬養橘三千代】
 『興福寺流記』に記される光明皇后伝承は次のようである。光明皇后、和泉国の織女、田を植ゑるに光あり{或いは夢に見る、或いは聖武右を見る、と云々。}嫌ひ出るの後、田植の諸人一人づつ上に至るに、光明女上り畢りぬれば田に光なし、と云々。仍て之を語り、奈良の都に迎へ取りて立后す。而して見聞恵稽首君二人の仏師に問ぴ阿弥陀仏三尊を造立し奉り、和泉の木津に船に入れ之を運ぷ。和泉国国分寺を建立し之を安置す。是光明皇后の御願なり。而して件の国分寺には免田の照田・光田二町を寄進す、と云々。是即ち皇后の昔植ゑ給ふ田なり。(訓読・宮崎健司)この伝承では光明皇后は巫女である。神の花嫁である。だから彼女も天照大神や「水の女」たちと同様、機を織る処女なのである。しかしなぜ彼女たちは機を織るのであろう。神の衣を紡ぐのであろう。岡見正雄の言う「衣」はその偉大なるヒントとなる。「京都」で有名な壬生狂言の際にその着ける衣裳は元来死者の衣裳を寺にあげたもので、その衣裏に死者の戒名と物故日が書いてある。それを着て念佛狂言すれば回向になると言ふ考へ方があつたわけである。死者の衣をかたみとして寺にあげる例はふり袖火事から考へられる様に、昔から行はれた慣習であつたが、かたみの代表は衣であつたのも衣類と霊魂とは開係が深かつたからであり(略)、兎も角祭禮の衣には霊魂宿つたので、能の着物なども言はば神が乗り移る手段であつた」『「もの」出物・物着・花の本連歌』)。神の花嫁たる巫女はまた、死者の魂を鎮める人であった。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  


 

孝謙女帝(阿倍内親王)【聖武45帝×光明皇后】

110(l)孝謙女帝(阿倍内親王)【聖武45帝×光明皇后】
 孝謙天皇が皇太子であった時に舞った「五節舞」は天武帝の創製であるという(高野辰之『日本歌謡史』)。「凡そ諸の歌男・歌女・笛吹く者は、即ち己が子孫に傅へて、歌笛を習はしめよ」(『日本書紀』天武十四年九月)。天武がこの舞を作ったのは「壬申の乱」を契機としている。この舞は、やはり、天武の皇統を伝える舞なのである。そしてこの歌舞というものは、〃天皇〃と〃天皇の民〃とを結ぶ絆であった。天武は舞を好んだ。ワザヲギたちは天皇の民となった。そして〃天皇〃その人もワザヲギであった。
128(6)孝謙天皇
 天平十五年(七四三)五月五日、阿倍内親王は皇太子として、自ら「五節舞」を舞った。この時、元正太上天皇は「そらみつやまとのくにはかみからしたふとくあるらしこのまひみれば」と歌った。二人の処女天皇は「舞」と「歌」で呼応する。孝謙即ち高野天皇が、自ら「舞」を舞うとはどういうことを意味するのか。彼女にはもう一つ大きな「芸能」の事蹟がある。河内「由義宮」で宝亀元年(七七○)三月二十八日に行われた「大歌垣」である。女帝はまず三月三日、由義宮を流れる博多川の辺で、宴を催す。この時、百官文人及び大学生らは、「曲水の詩」を奏上している。そして二十八日、葛井・船・津・文・武生・蔵の六氏の男女二百三十人が「歌垣」を奉り、この「歌垣」の後、「河内大夫」・藤原雄田麻呂(百川)らが「倭舞」を奏したとある。「五節舞」の作者は天武天皇であった。またこの舞は天皇と「天皇の民」を結ぶ手段であった。歌垣も同じような意味を持つ。そして「倭舞」は「鎮魂の舞」であった。「歌垣」を行った者たちの名、河内大夫という役職名に「天皇の民」が何者であったかが知れる。つまり、高野天皇の芸能は、「国見」の儀式なのである。「五節舞」は恭仁宮で舞われた。恭仁の土地、恭仁の民、そして由義宮の地・河内の国、河内の民と〃天皇〃は主従の関係を結ぼうとして、その土地の精霊を慰めているのである。高崎正秀の言葉を借りれぱ、「その土地の精霊たちを讃め、あやしながら、使役しようとする古代信仰」を女帝の「舞」にみる。彼女は祭祀の長者としてまことに古代的な形を採った。芸能によって民を支配するというのは、神々の時代の方法なのである。彼女は「国家」という「劇場」の主宰者であり、その劇場で演ぜられる芸能のヒロインであった。高野天皇の御代の「宜命」の乱発は、宣命が芸能であったことを示す。
*281(1)市場
 境内に「市場」を持つ「龍華寺」(橘寺)は、大聖勝軍寺(下の太子)の僧坊の一つであったというが、その実体はよく解らない。ただ龍華寺の在った安中が交通の要衝の地であったことは、平城京と難波宮との往来のための道・渋川道があったことで解る。龍華寺の別名、橘寺は、この地と橘氏の関係を想像させるが、証拠はない。むしろ、聖徳太子との関係から明日香村の「橘寺」と関係があるかも知れない。ただ諸兄の父・美努王の名が気にかかる。この地は物部氏の地であるが、弓削氏と同じく美努氏も物部の一族である。龍華寺が孝謙女帝によって「市場」として開かれる前、既にこの地は、市場たる条件を満たしていたのであろう。西京と呼ばれた「由義宮」は左右京職に並ぶ都として、ただ道鏡のためにだけ作られたのではないような気がする。ここは平城京と難波宮、あるいは智努宮(和泉)を結ぶ重要な地であった。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  

160(4)孝謙天皇
 天平勝宝四年(七五二)四月九日「大仏」が完成する。この時、五節、久米舞、楯伏、踏歌、抱袴等の歌舞が奉納される。天平十五年(七四三)五月五日、孝謙即ち阿倍内親王は「五節舞」を舞った。「五節はともあれ、その他はいずれも足踏を主体とした跳躍乱舞であり、聖なる開眼供養の斎会において、まずはこれらを演して悪霊を退散させ、仏・菩薩の来臨を期したものにちがいない」(福田晃『中世語り物文芸』)。五節は田舞に発す。即ち後の田楽である。田の豊穣を祈るこの舞の元は山伏の延年舞である。山伏の芸能には必ず反閇(へんばい;足踏み・達陀)が伴う。「天津神が反閇を踏み、宣座から詔り下す宣座言一その最も神聖なものが天津詔詞の太詔詞に対して、下位者-‐土地の精霊・服従者が誓詞を言上し、服従の意思表示をするのだ。(略)ここから古代神事劇は発芽する」(高崎正秀『賀歌』)。彼女はワザオギとなることで同時にスメラミコトとなる。
295(6)孝謙=称徳天皇
 孝謙天皇は持統天皇に似ている。持統天皇は柿木人麻呂が歌ったように、「大君は神にし坐せぱ」であった。持統は天照大神に似る。女帝たちは、やはり神の花嫁であった。ならぱ彼女たちは神の声を伝えねばならない。〃物語〃を語らねばならなかった。持統の物語とは何であったか。それは二人の皇子の物語であると思う。一つは「大友皇子」、もう一つは「大津皇子」の物語‐‐この皇子の〃悲劇〃を侍統は背負っていた。孝謙は、異母弟・安積皇子の悲劇を背負っていた。古代の女帝というものは必ず〃物語〃を持っていたと思う。その物語とは鎮魂さるべき人の物語と思う。その多くは皇子であった。即ち御子であった。推古も、持統も、孝謙も、皇極も元明、元正も、〃母〃であり、あるいは姉であった。しかしこの母たちは、〃子〃を殺す。姉は弟を殺す。なぜか。この母なる人、姉なる人の本性は「天照大神」にある。アマテラスとスサノオの関係こそが、女帝の〃物語〃の始まりであった。そして女帝は、この物語する人は、悲劇の生き証人なのである。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  

 

高野新笠【光仁天皇最初の妃、桓武50帝並びに早良親王の母】

*442(19)高野新笠【光仁天皇最初の妃、桓武50帝並びに早良親王の母】
 白壁王の最初の妃。桓武50天皇の父・白壁王即ち光仁49天皇の皇后は井上内親王である。井上内親王は聖武帝と県犬養広刀自との間に生まれた。当然、その皇子は最も有力な皇位継承者である。皇太子・他戸皇子がその人である。しかし彼は藤原氏によって排斥される。大和国宇智郡に幽開され、母とともに彼の地で没する。高野新笠は白壁王即位とともに〃夫人〃となり、桓武夫皇即位の後は皇太夫人、没後皇太后を贈られた。彼女は京・上高野の地より出でたと土地の伝承は語る。上高野には新笠の第二皇子・早良親王の怨霊を祀る「崇道神社」(崇道は早良親王の天皇号、追号)がある。
163(6)渡来人
 桓武天皇の母・高野新笠の諡号は「天高知日之子姫尊」。新笠の遠祖は百済の都慕王;とぼおう。この王は川の神の女が日精に感じて産める御子という。新笠の諡号は都慕王の伝承に依る。京・上高野では新笠をこの地の出という。その由をもって、上高野の人は、祖先を百済人とする。京・大原も同族を称し、若狭・小浜も同系統という。しかしなぜか、上高野と大原の間の地、「八瀬童子」の住む八瀬は新羅人をその祖とする。 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  
 
 

藤原不比等 

*120(1)藤原不比等
 彼の伝記はなぜ現存しないのか。不比等は実は鎌足の子ではないという伝承がある。鎌足の歌、「われはもや安見兒得たり皆人の得難にすとふ安見兒得たり」(『萬葉集』巻二・九五)がその証拠とされる。安見兒は采女。朝廷に仕えていたと思われる。折口信夫はこの伝承に関して「藤原不比等落胤説」もまんざらではないという(『宮廷儀禮の民俗學的考察』)。上田正昭氏はこれを否定し、「藤原摂関家の遠祖とあおがれるにいたった不比等を〃皇胤〃とすることによって血脈のいわれを権威づけようとした後代の作為」(『藤原不比等』)とする。それにしてもなぜ、「史伝」は消えてしまったのか。もし不比等が皇胤であったとしたら、その父は中大兄皇子、天智天皇となる。
梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  系図へもどる  トップへもどる


288(5)吉備真備

 吉備真備は『吉備大臣入唐絵』なる物語を持っている。この話の奉は大江匡房の『江談抄』にある。この絵巻は『彦火火出見尊絵巻』『伴大納言絵詞』とともに、「若州松永庄新八幡宮」にあった。このことは、後祟光院の『看聞御記』に記されている。なぜ、吉備真備の物語が、若狭・小浜にあったのか。

 「彦火火出見」はこの地の若狭彦神との関わりで、また「伴大納言」はこの地と大伴氏の関係から解る(『八幡宮考』の著者、伴信友は大伴氏である)。二本の絵巻までが、この地との関係を示していることから『吉備大臣入唐絵』もまた必ず、この地と深い関係にあったと思われる。

 絵巻をみよう。入唐した真備の才能を恐れた唐人が、彼を楼に幽閉する。これを助けるのが、唐土で非業の死を遂げた安倍仲麻呂である。彼は〝鬼〟となっていた。絵巻では、仲麻呂とともに飛行する真備の姿が描かれる。安倍氏、大伴氏、吉備氏---この三氏は若狭で出会う。

 真備の出帆は難波からと言われるが、確証はない。若狭からの出帆も考えられないか。またなぜ彼があの「道鏡伝」を載せる『宿曜占文抄』に描かれるのか。また彼は、他人の夢を横取りして出世したという「夢買い」の伝承を持つ。彼は神仙の人。「絵巻」に描かれるということは、それだけで十分、神仙の人なのである。かつて「絵巻」というものは呪具であった。

 

120(5) 道鏡 梅原猛 海人と天皇-日本とは何か- 新潮文庫 1995 注記(執筆:西川照子)より  

 道鏡とは何者か、を考える時、「河内国」(道鏡の出身地は河内国若江郡弓削)はいくつかのヒントを与えてくれる。まずこの国の南は「和泉」、その南は紀伊国である。和泉国は行基の故郷である。また八尾市に在る「河内国之志幾」(『古事記』)はヤマトタケル伝承の「白鳥の陵」の地である。またこの「志紀郷」には、「百姓志紀松取」が橘の樹を土器に植えて献じたという記録が残る(『続日本後紀』)。

 まず行基は聖の初めであった。聖は橋を架け、道を拓いたが、もう一つ、人間の死と深く関わった。

 「志幾」「志紀」は道鏡が天智帝の皇子・施基王の子というのと絡む。ヤマトタケルの〝墓″も気になる。さらに「橘の樹」とは、タジマモリのトキジクノカグノコノミである。かつて葬式に子供たちに配られた「山菓子」のもとはこの橘という(五来重)。いくつかの偶然を編みあげると「道鏡が称徳天皇梓宮に奉侍し陵下に留りょした」(堀一郎「民間佛教史に於ける死後往生の思想と死者追送の機能」)のは、彼が彼女の夫あるいは恋人という理由だけではないような気がする。道鏡は「鎮送呪術」をもって称徳の陵(奈良市山陵町)に奉侍した。

287(4) 弓削 

 弓削という地は聖徳太子の明日香から四天王寺までの「太子の道」と、熊野信仰の「熊野の道」が交差する場所である。この弓削の地の西北、かつて「市場」として賑わったという龍華寺の界隈に、今、杭全神社と大念仏寺がある。

 杭全神社は平野熊野三所権現社と明治まで呼ばれていた。大念仏寺は四天王寺で聖徳太子の夢告を得た良忍が建立。融通念仏の根本道場。江戸時代に「融通念仏宗」の総本山となる。融通念仏は芸能である。「全国に大念仏あるいは踊念仏が民族芸能化したものが、津々浦々にひろまっている。その中には融通念仏の詠唱をうしなって和讃になったもの、和讃が今様から小歌化して世俗歌、民謡、盆踊歌、くどき歌になったもの、総じて風流化、娯楽化した郷土芸能が無数にある」(五来重「田代尚光著『融通念仏縁起之研究』序文」)。

 熊野信仰の伝播には熊野比丘尼とともに琵琶法師が関係している(岡見正雄談)。杭全神社には『熊野本地』の絵巻がある(元は冊子)。杭全神社境内では、この物語の絵解きが長く行われていた。正に「弓削」という地は、奈良・大阪・熊野、そして京都を結ぶ、チマタ(衝)であった。遊行の民がここに集まった。

 

257(7) 和気清麻呂

 「たまたま清麻呂が河内にたてたという『神願寺』の原型が、すでに、和氏が若狭にたてていた『神願寺』にあるらしいことも注目せねばならない」(平野邦雄『和気清麻呂』)。若狭・神願寺は即ち現在の若狭神宮寺である。御祭神は若狭彦神(遠敷明神)。遠敷明神の直系と伝えられる和朝臣赤麿が紀元一世紀頃、唐服を着て白馬に乗り、下根来の白石神社に影向していた遠敷明神を「神願寺」に迎えた、と伝えられる。和気氏と和氏はかなり近しい関係にあろたという。「神仏習合」にこの両氏が関わっていたことは興味深い。和氏は桓武帝の母、高野新笠を出している。

 若狭の「送水神事」の第一の神事、「山八神事」は、根来八幡で行うが、かっては白石神社の講坊で行っていた。遠敷明神は神仏習合の初期の〝神〃であろう。


 そして、この神の周りには〝巫女〃がいる。豊玉姫・玉依姫というヒメたちが、後の八幡の巫女たちへ乗り移るのである。白石神社には椿の巨樹の林がある。八百比丘尼の〝椿〃である。 







続きを読む

このページのトップヘ