2005年01月30日
2005年01月24日
義経は本当に美形だったのか!?パート1
まぶしいほど輝いてましたね^^
ついに登場の超美形・タッキー義経ですが、ここで疑問。
義経といえば当たり前のように美形イメージが付いていますが、果たして本当に美形だったんでしょうか?
ん〜素朴な疑問です。美形だったと信じて疑わない人にとっては余計なお世話かもしれませんが・・・
検証します^^
義経美男説は、作者不明の『義経記(ぎけいき)』(義経の生涯を英雄伝説的に描いた軍記物語)によって広められました。
それによれば、少年時代の義経(牛若)は色白で目や眉が美しく たぐいまれな美少年だったとのことです。
その美しさは、夜中にたいまつの光で牛若を見た強盗団が 遊女と見誤るほどだったといいます。
成人してからの義経についても、「色白にて容貌優美、進退優なり」(『源平盛衰記』)とあり、 都で義経のもとに忍んで通ってくる女性が24人もいた(『義経記』)など、美男説を裏付ける記述が多くあります。
これに対して、実際の義経は醜男だったという説もあります。
これについては次回更新で続けます^^;
ついに登場の超美形・タッキー義経ですが、ここで疑問。
義経といえば当たり前のように美形イメージが付いていますが、果たして本当に美形だったんでしょうか?
ん〜素朴な疑問です。美形だったと信じて疑わない人にとっては余計なお世話かもしれませんが・・・
検証します^^
義経美男説は、作者不明の『義経記(ぎけいき)』(義経の生涯を英雄伝説的に描いた軍記物語)によって広められました。
それによれば、少年時代の義経(牛若)は色白で目や眉が美しく たぐいまれな美少年だったとのことです。
その美しさは、夜中にたいまつの光で牛若を見た強盗団が 遊女と見誤るほどだったといいます。
成人してからの義経についても、「色白にて容貌優美、進退優なり」(『源平盛衰記』)とあり、 都で義経のもとに忍んで通ってくる女性が24人もいた(『義経記』)など、美男説を裏付ける記述が多くあります。
これに対して、実際の義経は醜男だったという説もあります。
これについては次回更新で続けます^^;
2005年01月22日
迷信が大嫌いだった平清盛2
迷信嫌いの清盛ですが、次のようなエピソードもあります。
神戸に港をつくるときのことです。
当時 橋や堤防をつくる大工事のときは、神様の心を和らげるという理由で、
「人柱」といって「人間」を水底に生き埋めにしていたらしいのですが^^;
清盛はその代わりに石を放り込んだといわれています。
人の命を大事にしたのか、無神論者だったのかはわかりませんが、これも
現実主義なところをみせたエピソードですね。
当時清盛の命令は絶対だったといいますから、みんな不思議に思いながらも従ったんでしょうね^^
そんなカリスマ清盛にも 最後のときがきます。
からだの中で火をたいてるような重い病気にかかり、7日間ほどもがき苦しんだあと 息を引き取ったそうです。
人々は普段の清盛の行いを知ってか「タタリじゃ!」とウワサしたそうです。
by ローン ローンクレジット
神戸に港をつくるときのことです。
当時 橋や堤防をつくる大工事のときは、神様の心を和らげるという理由で、
「人柱」といって「人間」を水底に生き埋めにしていたらしいのですが^^;
清盛はその代わりに石を放り込んだといわれています。
人の命を大事にしたのか、無神論者だったのかはわかりませんが、これも
現実主義なところをみせたエピソードですね。
当時清盛の命令は絶対だったといいますから、みんな不思議に思いながらも従ったんでしょうね^^
そんなカリスマ清盛にも 最後のときがきます。
からだの中で火をたいてるような重い病気にかかり、7日間ほどもがき苦しんだあと 息を引き取ったそうです。
人々は普段の清盛の行いを知ってか「タタリじゃ!」とウワサしたそうです。
by ローン ローンクレジット
2005年01月16日
迷信が大嫌いだった平清盛1
第一話「運命の子」で 命を助けた常盤御前をあっさりゲットしてしまった カリスマ・平清盛ですが、まずはその勢いのすごさをザッと紹介します。
保元の乱で勝利し、さらに平治の乱でも勝利した清盛は太政大臣の地位をつかみます。
そして 妻時子の妹が産んだ皇子を皇位につけ、そこに娘を嫁がせ、さらに娘が産んだ皇子を皇位につける^^;
もうわけがわかりませんが、常盤御前の事といい とにかく思うがままといった感じ。
なんでもその絶頂期には、「落ちる夕日さえ招き返した。」と伝えられています^^
そんな清盛ですが、当時としては珍しかったであろう かなりの合理主義者だったようで、こんなエピソードが残っています。
ある年、田植え時にしばらく雨が降らなかったことがありました。
そこで比叡山の僧に頼み、雨乞いの祈祷をしてもらったところ、大雨が降ったそうです。
そのことに後白河法皇は大変喜び、その僧に位を与えようとすると 清盛は大笑いしてこう言ったそうです。
「雨乞いしたから雨が降ったのではない。長く雨が降らなかったから降っただけだ。」
・・・もちろん科学などはなく、仏教思想が浸透していた当時のことなので、一般の考え方からするとかなりの合理・現実主義者だと思われたんではないでしょうか。by ローン ローンクレジット
保元の乱で勝利し、さらに平治の乱でも勝利した清盛は太政大臣の地位をつかみます。
そして 妻時子の妹が産んだ皇子を皇位につけ、そこに娘を嫁がせ、さらに娘が産んだ皇子を皇位につける^^;
もうわけがわかりませんが、常盤御前の事といい とにかく思うがままといった感じ。
なんでもその絶頂期には、「落ちる夕日さえ招き返した。」と伝えられています^^
そんな清盛ですが、当時としては珍しかったであろう かなりの合理主義者だったようで、こんなエピソードが残っています。
ある年、田植え時にしばらく雨が降らなかったことがありました。
そこで比叡山の僧に頼み、雨乞いの祈祷をしてもらったところ、大雨が降ったそうです。
そのことに後白河法皇は大変喜び、その僧に位を与えようとすると 清盛は大笑いしてこう言ったそうです。
「雨乞いしたから雨が降ったのではない。長く雨が降らなかったから降っただけだ。」
・・・もちろん科学などはなく、仏教思想が浸透していた当時のことなので、一般の考え方からするとかなりの合理・現実主義者だと思われたんではないでしょうか。by ローン ローンクレジット