2017年09月20日

手堅さの秋か?

日経平均は、台風一過に加えて北朝鮮情勢も一段落ムードで、連休明けに上昇した――と説明されている。確かに北朝鮮情勢は上値を抑えてしまっていると伝えられてきたから、そんなものか。米国でもハリケーン「イルマ」の影響が懸念されていたから、米国市場とも連動しているという。

どさくさ紛れに米国株式扱いのアリババグループ(BABA)を連休前に購入。円換算すると一時は4千円ぐらいのマイナスとなったものの、現在は5千円ぐらいのプラスへ。といっても実際には膠着状態ですかねぇ。

安くなったら買うぞ、安くなったら買うぞという考えていると、買うタイミングがやって来なかったんです。狙いを定めてから169ドル指値指定するも1日目が購入できず、2日目になって175ドルで指値指定も購入できず、3日目に179ドルで購入。つまり、じりじりと吊り上げられてしまったタイミングでの購入でした。うーん。4日前に準備が整っていたら、ガツンとスタートダッシュをかけられたのに、なんだか、怪しい膠着状態になってしまった。

うーむ。頻繁に売買をする方ではないから、このBABA株の購入が吉と出るか凶と出るかで大きく損益に影響するような、そういう買い方をしてしまった…。

そんなに投資が上手ではないという自覚もあるのですが、やはり、一銘柄に200万とか300万で投資信託の売り買いをしている人たちの話を念頭に置くと、手堅く買って手堅く利益を出しているのが確認できるんですね。高格付け債権で運用している投資信託に300万円を10年程度放置した投資信託のトータル収支を見せてもらったんですが、プラス90万円でした。羨ましいよなぁ。斯くいう私の場合なんて株投資をはじめて2年後ぐらいにリーマンショックに遭遇、一時的に300万円ぐらいマイナスを記録し、ひょっとしたら現在でもトータルでは20〜30万のマイナスの可能性があるのに。

それを慰めてくれているのが「純金積み立て」ですかねぇ。マジでおすすめです。多分、ド素人でもマイナスになる可能性は低いと思う。こちらはコンスタントに20万円ぐらいのプラスを出してくれている。途中で数グラムのゴールドを現金化して預金通帳に入れたり、セコくセコくやれば、少ない資金の割には効率的に利益も出せる。金の相場は「今、金価格が高騰中がですよ」というタイミングが忙しくないので「お、おう。わかった」という具合にぼさっとした反応でも、売るタイミングを逃さないで済む。で、普段は定額で積み立て購入。手数料もバカにならないけど、それ以上にラクチンですかね。

株の場合は、やはり、変な銘柄を掴んでしまうと、もう地獄ですからねぇ。売っても地獄、持ったままでも地獄。勿論、買い足しても地獄です。

この10年間ぐらいの感想だと、なんだか日本経済って、東京五輪というのが一つのネックになりそうで怖いんですよね。思えばトヨタ自動車であるとかパナソニックであるとかコマツであるとか15年ぐらい前に羨望の眼差しで語られていた主要銘柄らしいものは欠かさずに10年間、チェックしてきたつもりなんですが、どうも展望というのが分かり難い。トヨタ自動車は頑張っているよなって思ったことは何度かあったものの、確かリーマンショック前には9000円台だった時があり、現在では6700円台。9000円台の時に100株購入した知人が居ましたが、そういうタイミングってのも実際に起こり得るワケで。当時、トヨタ自動車株が1万円を超えるのは時間の問題だ、世界のトヨタだよと楽観視されていたのだけれども、そうなったのだったかな。現在でも「世界のトヨタ」は変わらないのだけれども、今後、20年後とか30年後でどうなのかって考えると、昔よりも安定的には考えられていないと思う。

先週だったかな、池上彰さんの番組で「アメリカ」が特集されていて、時価総額が高い企業の上位50社をパネルにしてみせたシーンがありましたが、日本企業で50位以内にランキングしていたのは、案の定、たった一社のみで、それがトヨタ自動車。池上彰さんにしても、グローバリゼーションというものの正体について、少し解説していたと思う。時価総額上位50位のうち、33社はアメリカ企業になっているんです――と。(ドイツ企業とフランス企業は一社もなし。)

ホントは、このグローバリゼーションというもののルールとは、どんどん中央に全てが集まる犢渋き瓩任垢笋諭ニューアカとやらが提示した「構造とチカラ」は実は正しかったのかも知れない。どんどん、どんどん、中央に牴礎有瓩集中する。カネと、本当に優秀な人材は、本場へ、メッカへと集まる。そして、高い高いタワーを築く。そうなると、周辺は窪みますワな。数日前の新聞に長崎県が過疎化しているという記事が出ていて驚きましたが、2040年までに2割も人口が減ると予測されているという。ホントは、深刻な問題だと思いますけど、もう、政治家もマスコミも東京在住の人しか居らず、そういう問題には目が向かない。「過疎地は努力が足りんのじゃ、ボケが! これからは民主主義原理にのっとって一人一票ルールにしまーす」ってなってますやね。驕れる◆◆◆たちによって、日本は解体されてしまったよなって思う。

東京オリンピックが終わった後、日経平均、大丈夫だろか。いやいや、私なんてJリートを30万円ぐらい持っているけど、既に評価額は購入時よりも下がっている。分配金をもらってきたからトータル収支はプラスだけれども、正直、東京オリンピック前に、これほどJリートが低迷しているというのは頭を傾げてしまいますかねぇ。マンションの過剰建設は社会面でも報じられているけど、Jリートの多くは商業ビルの賃貸収入などで形成しているともいい、それが思いの外、いい感じで推移していない。私の持っているのは上場投信と呼ばれるタイプのものなのですが、2014年の購入価格からマイナス6パーセントぐらい。誰も彼もが五輪前に売り捌けば儲かるだろと皮算用していたワケですが、オリンピック開催まで3年を残して、既に、そんな状態になってる。

五輪開催後の東京って、ホントに大丈夫なのかな。図形としての高く高く聳え立つタワーは、どうなるのか? 構造と力の図形を思い出してみると、ぺっちゃんこになる可能性がある。可能性という意味からすると、周辺以下に中心が抉れてしまう事も有り得るという話だったかな。

2017年09月19日

DVDアニメ版「沈黙の艦隊」の感想

チャンネルNECOにて、アニメOVA作品「沈黙の艦隊」全三部作を視聴。今更ながらの視聴でしたが、やはり、スリリングにして衝撃的な展開なので、食い入るようにして視聴しました。VOYAGE1、VOYAGE2、VOYAGE3という具合に三部作になっているのですが、やはり、VOYAGE1の緊張感が物凄い。(「VOYAGE1」という言葉は便宜的に使用していて、実際には2と3のみがある。)

これは粗筋に触れてしまうと楽しめなくなってしまう可能性が高そう。とはいえ、私にしても少しは粗筋は知っていながらの視聴だったので、ストーリーの骨子ぐらいは大丈夫そうですかね。以下、視聴の支障にならない程度に――。

極秘裏に世界最高水準の原子力潜水艦「シーバット」が製造され、そのシーバットは日本の海上自衛隊の手に委ねられ、運用されるという計画。日本初の原子力潜水艦「シーバット」の館長には、海江田が抜擢される。海江田は冷静さで定評のある人物であり、適任者であるかに思われたが、その海江田艦長はシーバットを奪うと、そのまま、独立国宣言を行なう――というもの。

奇想天外な、その基本的な舞台設定が、ストーリーを進行する中で、さまざまな問題点を浮き彫りにしてゆく。また、海江田の魂胆らしい魂胆が不透明なままに、周辺は「海江田がシーバットを奪って姿をくらませた!」と捉えて動くので、実にスリリングで、飽きさせない。

日米安全保障条約そのものに対して、それが持っている欺瞞性にも触れてしまうし、国連なら国連に対しての欺瞞性にも触れてしまう。基本線としては、海江田は自らが艦長をしている原子力潜水艦を以って、それを「独立国家である」と宣言し、その同盟国として日本を指名する。(シーバットに海江田は核兵器を搭載したらしいという設定。)同盟国に対しては国防面での見返りが期待できるという提示なのだ。この奇想天外な海江田の要求に対して、アメリカ政府はどう対応し、日本政府はどう対応するのか。

大胆な、いや、大胆すぎる設定に興奮します。漫画でどうなのか分かりませんが、アニメのテンポだと非常にスリリングで楽しめました。なんていうんでしょ、知らぬ間に我々現代人というのは国連であるとか、その戦後体制を容認した世界観の中で善悪を構築しているし、日米安全保障条約にしても欠かせないものになっているから、それを引っくり返すような狎瀋雖瓩箸いΔ里蓮▲侫クションであってもタブー視されている部分があると思うんですね。日米安保体制が生み出したシーバット、そのシーバットを強奪した海江田が、米空母カール・ビンソンと対峙し、海戦を行なうなんて展開は、ちょっと鳥肌が立ちました。アニメなんだけど、やはり、衝撃的で無意識にキモチが高揚してしまう。

ああ、やはり、多くを語るのは躊躇われるか。VOYAGE3になると、さすがに娯楽作品的な要素が強まりますが、VOYAGE2までの展開は、夢中になって視聴してしまいました。現在ともなると、佐藤栄作時代から核密約があった事も明らかになってしまっているので、一部、事情は異なってしまっている部分もありましたが、それでも充分に楽しめました。





2017年09月18日

理解不能は理解不能

秘書に暴言を吐き、暴行を働いたとされる政治家さんの心情というのが、さっぱり、分からない。少なくとも、音声データは既に公開されているワケで。本人は事実関係として元秘書の言い分は違っているというのだけれども、音声データの存在というのは覆らず、勿論、尋常ならざるレベルの暴言は音声データで確認できてしまっているし、何やら叩いていると思われる音も確認できるワケで。

こういう場合に、自分に置き換えて心情を探ろうとするものの、ムリですよね。思う存分、我を見失って他者に牙を剥くという事は、そういう状況に迫られて牙を剥くことは有り得ても、他者の無能に対してホンキで牙を剥き、怒鳴り散らし、それに暴力行為が伴うという、そういう理性の喪失の仕方ってのは、まず、自分はしないだろうなぁ――って思ってしまうから。「取り乱しました。乱心してしまったんです」としか、説明のしようがない。

「政治家を続けたい」という具合に自らの意向を語ったと? 

そういうものも全く想像がつかない。つまり、説明なり謝罪なりをすれば、許される事だと思っているから、自分の希望として「政治家を続けたい」という意向を話せるだろうなぁ。ホントは、かなり、ポジティヴな発言のような気がするんですけどねぇ。

興奮してしまって、自制心が利かなくなるという状況は有り得ると思う。しかし、あの音声テープから嗅ぎとれるのは、そうではないと思う。自制心が利かなくなるのは、ごくごく短い時間なんじゃないですかね。あんなに長い時間、だらだらと暴言を並べることができるというのは、それこそ、良識を疑わねばならず、おそらくは恒常的に、そういう人であったのだろうなと推測しるしかないんだと思いますよ。

こういうのって、小学生でも中学生でも高校生でも、ずーっと、関係している事柄だと思う。好き放題に感情を解き放って暴れることができてしまう資質の者があるんじゃないだろか。絶対に自分は間違っていないという矜持がないと、あそこまでキチガイ状態になれないものだよなっていうのが、率直な実感ですかねぇ。

情緒的な何かの欠落があるとしか思えず、実際に現在も入院していると説明している。しかし、政治家は続けたいという。

うーむ。そう言われましてもねぇ。

ussyassya at 23:55|この記事のURLComments(24)雑記 

2017年09月17日

強気と弱気の紙一重

今朝視聴のフジテレビ「新報道2001」の中で、或る専門家の解説に耳を奪われました。このブログの場合は、タテマエではなくホンネという部分を列挙する性質なのですが、現在の北朝鮮情勢というのも、それと関係していると思うんですね。

つまり、

「現実問題として手詰まり感があるよね」

という部分を強調したいんですね。具体的には現在の北朝鮮情勢への対処としては「対話と圧力」しかない。その中で安倍総理は「今は圧力をかける時期である」という風に理解して、その対処をしていることも確認できている。

こういう話というのは非常に微妙にして複雑な問題であり、どうやっても揚げ足取りが出来てしまう問題でもあると思う。正解らしい正解はないから。ただ、その状況下で、「どういう対応をすべきか?」なんですね。

人には思考のクセもあり、且つ、勇ましく振る舞う事を美学とする人たちもあり、場合によっては強気を競い合うという事が有り得る。「葉隠」だったか「武士道」であったか忘れましたが、薩摩の侍たちが鉄砲を括りつけた囲炉裏を囲んで、ロシアンルーレットのような遊びをし、誰が勇ましいのかと競い合っていた逸話が紹介されていましたが、蛮勇というのは蛮勇を競い合ってしまうところがあるんですよね。そして誰も彼もが、垢抜けたゲーム理論のようなもので物事を思考しているワケでもない。ホントに、正解らしい正解がない問題なのだ――と、思うんです。

で、厄介なことに、現在のアメリカ大統領である「ドナルド・トランプ」という人物の反応は非常に読み難いんですよね。

「なんだかんだいってアメリカの大統領なんだもの、最低限度の常識は兼ね備えているさ」

と、強がって嘯くことも簡単だし、その逆で、

「ツイッターを見てみなよ? これ、常識は通用しそうもないんじゃないの? 周辺事情も入れ替わり立ち代わりが激しく、トランプがどういう選択をとるかなんて分からないじゃん」

という考え方の方が、今というタイミングには即している状況だと思う。

後だしジャンケンではありませんが、多くの日本人は原油の輸出制限を最初にトランプが口にしたときは、不安であったと思うんですね。先の大戦に於いて日米開戦に踏み切らねばならないという状況になったのは、それと強く結びついていると解釈されてきているから。で、今回の北朝鮮への制裁措置としての原油輸出制限は、結果からすれば輸出の上限を制限するという事で決着しましたんですよね。この先、どう転ぶかは勿論、分かりませんが、一先ず、良かったのではないかという風に思う。

裏返すと、もし、仮に、

「キサマ、何を弱腰な事を言っちょるのだっ! 厳しい制裁措置を課すに越したことは無いのであーるっ!」

という論者に対しては、冷ややかに眺めてしまうかな。そういう蛮勇というのはヤバい。幸いにも、見かけませんでしたが。

で、金正恩という若き独裁者の出方が読めない。これはホントに読めない。ここでも、専門家なり、コメンテーター氏なりが、それなりの見解を述べたり、感想を語ったりするのですが、まぁ、今のタイミングであれば「圧力のかけ方」の話になりますよね。で、気になったのが、やはり、中には楽観的な人もあるよな、という部分。つまり、「北朝鮮は暴発しないであろう。もし軍事攻撃に出ればアメリカが黙っている筈がない。当然、金王朝の滅亡を意味しているのは歴然だ」という前提を、どこまで信じられるのか――という部分なんですね。

仮に、この仮定も強引ですが、もし仮に私自身が北朝鮮の金正恩だったとする。周囲からのアドバイスなども聞いているから、当然、それがゲーム理論的な挑発ゲームであるという事も理解しながら、挑発を繰り返しているという部分もあると思う。しかし、それは「部分もある」という程度の話であり、選択肢としては犲爆カード瓩魴持すると思うんですね。暴発はしないさって考えるでしょ? しかし、それはゼッタイではない。するさ。するよ。最期に目にものをみせてくれるっていう思考回路は、有り得る。その人によって、この自爆カードを切るか切らないかの判断は分かれると思うんですが、仮に私であったなら、その自爆カードを選択する可能性は、他のプレイヤーよりも高いんじゃないのかなって、ちょっと考えてしまったんですね。

通説では、松永久秀は織田信長に逆らって信貴山城に籠城し、平蜘蛛茶碗という茶碗を差し出して投降するように圧力を掛けられた。しかし、松永久秀は火薬を平蜘蛛茶碗に詰めて、あてつけがましく平蜘蛛茶碗もろとも爆死した。(平蜘蛛茶碗を叩き割って、自害、天守に火を放った。)

最期に、そういう選択を採ることってあると思うんですよね。新右翼活動家の野村秋介は、築地にあるという朝日新聞社の社屋で拳銃自殺をした。それなりに衝撃的な出来事だったと思う。しかし、その決行については計画的であったという。

その日は朝日新聞社のお偉いさんからの謝罪を受けて、その後は冗談を交えながら談笑していたという。12時30分頃に態度を急変させ、懐からイタリア製の拳銃二丁を取り出したという。皇居の方角を尋ね、正座をして「すめらみこと、いやさか!」と三唱した後に、胡坐をかいた。しばらくの間、その部屋にいた朝日新聞社側の人物らは呆気にとられていたが、「これはただ事でない。今からここで拳銃自殺する気なのだ」と察し、刺激しないように

「途中で申し訳ありませんが…」

と制止しようとしたが、野村は

「男が命を賭けてる目の前で、俗っぽい話をするなよ!」

と、強く一蹴し、次の刹那に「たぁっ!」という声と共に胸に当てていた二丁拳銃を発砲。更に、うめき声を上げながら、もう一発。

野村秋介の拳銃自殺などというのは、野村側の付添人も決行を知らされていなかったが、止められなかったといい、朝日新聞社の人間にしても、正直、止めようがなかったという状況であったという。まぁ、狂信的といえば狂信的な人物の話なのですが、それでいて、一般人にしても、ちょっと、そういう心性が存在している事を知っているワケですよね。ずっと一人で計画を練って、折をみて、厳かに作法にのっとっての自殺。これから本人の美学に基づいて自殺をしようとしている者を目撃したとして、それに怯まない人間は居ないのではないだろか。

ここで先の挑発合戦の話に戻りますが、もう、「自分の道は断たれたよな」と観念したとする。次の行動はどうか。潔く敗北を認めて自らの死を以って襲撃とするだけなのか、それとも最後にミサイル攻撃という現世への置き土産をすべきか、すべきじゃないのかって迷うと思うんですね。キレイごとを並べるのは簡単だ。敵性国の者であっても罪のない人たちを地獄に道連れにするなんて醜悪な最期だ。しかし、究極的な闘争というのは、そこまで行けてしまうのではないだろか。「負けました、死にました」では、何も変わらない。ところが、もし仮に「世界を変える」という風に狂信的に思考している場合、壮絶な、それこそ世界史、人類史に残る盛大な自爆劇を演出しようとする心理って、実はヒトは持っているものなんじゃないのかな。

仮に、私が金正恩のような独裁者であったなら、

「チキンレースをしているだけだって読んでるでしょ? あっちは。そういう読みが完全じゃないことをオレが教えてやっか。オレは本気だ。さぁ、死ぬぞ、滅ぶぞ! 奴らを道連れに!」

ぐらいのテンションになって怨恨爆弾のスイッチを入れてしまう可能性ってあるよなって思う。ヒトって、そういうところがあると思う。冷静に。

なので、(対処法の話ですが)口先では「今は圧力が必要だ」とは言うけれど、それは「対話と圧力」がセットであることには変わりないのだと思う。

今、北朝鮮はアメリカと対等な立場になって、核保有を認めさせ、また、制裁措置の解除を勝ち取ろうとしているという風に6〜7割の解説者は解説しているように見えるんですね。それが北朝鮮の最終的な目的だから、どこかの時点で対話に持ち込み、それが、この北朝鮮情勢の猴遒箸靴匹海蹐砲覆覘瓩箸いΑそれは定式に基づいた思考で、勿論、そうなる可能性が高いとは私も思うんですが、下駄を履くまで分からないというが真理であろうと思うんですよね。

で、今朝の「新報道2001」の中で或る専門家が、更に私のウラをかくような発言をしました。要約すると、

「北朝鮮は早ければ8ヶ月後には核弾頭を搭載したICBMの技術を確立させてしまう可能性があるが、その技術が確立した場合、今度はアメリカ側が交渉の席に引き摺りだそうとしても北朝鮮は交渉に応じる必要性がなくなる」

――と。ああ、そうかぁ…。やっぱり、これは厄介な問題じゃないか。圧力をかけていれば北朝鮮が折れてくるという風に語るのが現在のトレンドなのだけれども、タイムアップして苦境に陥るのは北朝鮮ではないかも知れない。。。。

この数日間で、為替や株価なんてのは楽観ムードになっていたのを確認したけど、ホントは、何ら進展もないって事だよなぁ…。勿論、暴発する可能性があるという話で、暴発する可能性が高いという話ではありませんよ。ただ、なんていうんですかね、強気と弱気というのは紙一重のところがあって、やる気満々だったがやらない事にするという気まぐれがあるのもヒトだし、逆に、「私に限って、そんな酷い事、しないよォ」なんて考えていながら最後の瞬間に「ああ。もう決めた。こうする!」と確信し、そういう決定をする事も有り得るのがヒトというものじゃないのかな、と。

2017年09月16日

「中村屋のボース」〜6(終章)

1943年6月1日、来日したチャンドラ・ボースとビハリ・ボース、二人のボースの会談が実現する。二人のボースは約一時間ほどの話し合いをしていたが、ビハリ・ボースの表情は非常に晴れやかであったという。その後の同月10日に東条英機がチャンドラ・ボースと会談、当初、東条はチャンドラ・ボースを警戒していたがチャンドラ・ボースとの会談後に東条は、

「熱誠あふれる理知的な議論に、完全に魅せられてしまった」

と当時の読売新聞に報じられているという。

その後、二人のボースはシンガポールに渡り、1943年7月4日、ビハリ・ボースはインド独立連盟の代表をチャンドラ・ボースに譲り渡す事を宣言した。また、チャンドラ・ボースの要請により、ビハリ・ボースは勇退するものの最高顧問として名を残す事としたという。



1944年2月、ビハリ・ボース、喀血する。病床のビハリ・ボースは、新聞やラジオで、インパール作戦の動向を気にしていたという。このインパール作戦は、日本軍とチャンドラ・ボース率いるインド国民軍とが共同しての大作戦であったが、大東亜戦争史の中でも指折りの大失敗に終わる。

1944年10月5日、頭山満が没し、その訃報がビハリ・ボースの元にも届くと、「そうか」と一言だけ呟き、目をつむって落涙したという。

1945年1月20日、ビハリ・ボースは脳溢血で半身不随となり、翌21日、静かに息を引き取った。享年58歳であった。

1945年8月15日、終戦。

1947年8月15年、インドはパキスタンと分離する形で、ようやく独立を果たした。

(また、チャンドラ・ボースも1945年8月、台湾(台北市)で、離陸した直後に飛行機の爆発事故が起こり、その事故で死亡した。)



さて、この「中村屋のボース」こと、ビハリ・ボースの話というのは、植民地経営を肯定した帝国主義、或いは、それに抗おうとして生み出されたアジア主義(大アジア主義)の流れを象徴している話のように眺めることが出来そう。太平洋戦争(大東亜戦争)には思想家の大川周明が深く関与していたとも言われますが、その大川周明はビハリ・ボースらとの出会いから、インド独立運動については、かなり精力的な執筆活動をしていたといい、また、それらを読む日本人の中にもイギリスの圧政下のインドの様子について「涙なくしては読めない」という程、情緒的に訴えるものであったという。翻って、それらが情緒的に西洋列強への憎悪を募らせ、アジア主義構想に繋がったと考えられる。一方で、現実問題としてのアジア主義は、主導権争いがあちらこちらで発生して、中々、一枚岩になれていなかった実像というものを浮き彫りにしている。

ビハリ・ボースは急進派であった。しかし、盲目的な急進派であったかというと微妙でしょうか。現代人の視点から眺めると、ビハリ・ボースの反応というのは「支那事変はイギリスの陰謀である」であり、真珠湾攻撃&マレー作戦については、「これで東洋による世界新秩序が構築できる」ぐらいに歓喜していたのが分かる。また、最終的にはチャンドラ・ボースに託したインド独立の具体的な作戦、日本軍との共同作戦という名目になったインパール作戦の大失敗についても、ビハリ・ボースは特に作戦失敗を責めるような言動はなく、インド人だけではなく多くの日本人が死亡した戦いであった事を受け止めていたという。

「インパールの失敗はまことに残念でしたが、私はインド独立援助のために尊い血を流して下さった日本軍将兵に厚く感謝しています。私は今でもインド独立の成功を信じています。インド人は今までに何度となく失敗の経験を持つていますが、今度の失敗でも決して落胆することなく、ますます勇気を奮い起すでしょう」

という反応であったという。


この近代アジア主義が見せた幻想とは、何であったのか?

ビハリ・ボースの場合は、宗教哲学者オーロビンド・ゴーシュに影響を受けていたとされる。このオーロビンドは反英運動を展開させ、弾圧を受けて投獄も経験したが、その後にヨガの行者となり、哲学雑誌「アーリヤ」を発表するなどした人物であるという。

途中からビハリ・ボースの思想が、アジア主義をも超越して世界新秩序を視野に入れて語られているのは、オーロビンドの哲学と関係しており、究極的には犢駝厩餡搬寮を超越した世界秩序瓩鮖峺していた。そのベースになっているのは、物質文化の西洋文明、つまり、近代社会を破壊し、アジア的な精神主義によって世界を包み込む必要性があると考えていたからだと推測されるという。(著者の中島岳志は「近代の超克」の問題が関係しているとする。)

現在でも、新宿・中村屋は新宿の一等地に本店を構えており、「クリームパン」発祥の老舗として広く知られているワケですが、中村屋には、もう一つ看板メニューがあり、それは「インドカリー」である。それはビハリ・ボースが中村屋に匿われていた時代、ボースが日本人たちにインドカリーを振る舞う機会があり、犬養毅はじめ、多くの者がビハリ・ボースが作ったインドカリーの美味しさに舌つづみを打ち、或いは衝撃を受けた。なので、ビハリ・ボースから作り方を教わった中村屋は、そのインドカリーを商品化し、店頭で取り扱われるようになったのだという。中村屋のインドカリーは評判が評判を呼び、いつの間にやら中村屋の看板メニューとして定着したものであるという。

ussyassya at 00:00|この記事のURLComments(12)歴史関連 

2017年09月15日

「中村屋のボース」〜5

シンガポール陥落後、日本軍はインドを巡る戦略として、インド国民軍を利用する事にした。しかし、インド国民軍は一個大隊を率いて投降、そのまま、インド国民軍として戦ったモーハン・シンを司令官として認めるという密約があった。しかし、具体的にインド国民軍を統制するにあたり、インド国民軍の上部組織としてインド独立連盟を位置付ける必要性が出て来たという。

そんな中、ビハリ・ボースを巡って複雑な動きが起こる。ビハリ・ボースは1930年代から東京に於いて印度独立連盟を主宰し、以降も様々なインド独立に向けての活動を続けていた。後に、その印度独立連盟は、その印度独立連盟よりも古いバンコクでプリタム・シンによって立ち上げられていたインド独立連盟と発展的合流を経て、爛ぅ鵐鋲販連盟瓩箸覆辰討い拭

そのインド独立連盟の下にインド国民軍を置くべきか、置かざるべきかという問題が浮上したのだった。インド独立活動家らを複数名集め、その問題をどうするかという会議を3月に東京で、6月にバンコクで会議をしたが、基本線としてはモーハン・シンを巡っての揉める事となった。3月の東京山王会議の時点でも軋轢は生じていたが、6月にバンコクで開催されたバンコク会議には18名のインド人が出席して、三日間にわたって会議が行なわれたが、その中で、モーハン・シンが明確に、「インド国民軍はインド独立連盟の下部組織には属さない」という旨の主張を展開した。ビハリ・ボースのホンネとしてはインド国民軍を率いる司令官はチャンドラ・ボースを推していた。

モーハン・シンは、インド国民軍を巡る主導権争いの中で、日本軍批判をも展開させてゆく。モーハン・シンや、その他の一部のインド連盟幹部のギルらは、ビハリ・ボースが日本軍に近すぎる事を警戒し、疑心暗鬼状態となり始めたという。つまり、「ビハリ・ボースは日本の傀儡だ」、という認識がインド人革命家たちの中で広がったという事のよう。

同年12月29日、ビハリ・ボースは岩畔機関の岩畔豪雄(いわくろ・ひでお)との協議の末、モーハン・シンの罷免を決める。この日、モーハン・シンを岩畔機関本部に呼び出して、そのまま、インド国民司令官の罷免をビハリ・ボースが通告した。罷免されたモーハン・シンが一礼をして退出したところを日本の憲兵が取り押さえた。捕らえられたモーハン・シンは、そのまま、岩畔機関の顧問を務めていた千田牟婁太郎の家に強制連行し、軟禁状態となった。

事情は複雑であり、モーハン・シンが投降して以降、このモーハン・シンと共にマレー侵攻作戦に当たってきた藤原岩市(ふじわら・いわいち)が率いていた特務機関である通称「F機関」がある。藤原岩市はモーハン・シンを信用していたようで、モーハン・シンが罷免され軟禁状態になってしまった事を心情的には悔やんだという。藤原岩市は、モーハン・シンが軟禁されているという千田邸に赴き、一緒に無言でしばし落涙していたという。

また、モーハン・シンが罷免・軟禁された事で、最悪の場合、モーハン・シンに忠節を感じているインド国民軍兵士が日本軍と正面衝突してしまうのではないかという懸念も浮上。これにより、藤原岩市はモーハン・シンに懇願した。

「(モーハン・シンの口から)インド国民軍兵士は、日本軍との軍事衝突を自重して欲しい、そう、言ってくれないか?」

――と。

最終的に、モーハン・シンは、その要請を受け容れた。その後、モーハン・シンはシンガポール島の東北にあるセントジョン島に軟禁されたという。

しかし、このモーハン・シンの罷免・軟禁という事態を経ると、インド人リーダーらの各方面からビハリ・ボースは批判を受けてしまう。いわく「ビハリ・ボースは、日本の操り人形である!」――と。


ビハリ・ボースは、このモーハン・シンの罷免騒動後、急激に痩せ始めた。持病の糖尿病を悪化させ、更にはシンガポール、マレー、タイ、ビルマを飛び回るハードスケジュールのストレスの蓄積、その上に肺結核に感染した。僅か半年間の間に体重が激減し、頭髪も抜け落ちてしまったので、周囲の者から見ても、これ以上、ビハリ・ボースをインド独立連盟の代表という職、その激務に当たらせる事は困難であろうと見えるレベルであったという。

かねてよりビハリ・ボースは、もう一人のボースである、チャンドラ・ボースを高く評価していた。このチャンドラ・ボース(生年1897〜1945)は、ビハリ・ボースと同じベンガル地方出身のインド独立運動の指導者であった。ケンブリッジ大学を卒業後、マハトマ・ガンジーの対英不服従運動に参加したが、後に国民会議派と衝突して1939年に除名処分となる。1941年にナチス政権時のドイツに渡り、ベルリンを拠点としてインド独立運動を続けていた。そのチャンドラ・ボースをベルリンから日本へ招聘してはどうかというアイデアが日本の参謀本部第二部内で浮上、ビハリ・ボースは「ぜひ、呼んでいただきたい」と快諾した。

日本の外務省がチャンドラ・ボースに打診すると、チャンドラ・ボースは日本行きを希望。しかし、ドイツ外務省がチャンドラ・ボースの希望を聞き入れなかったという。その為、チャンドラ・ボースは日本大使館やベルリン駐在武官補佐官らと協議を重ねた上、最終的にはアドルフ・ヒトラーとの直接会談まで持ち込んでヒトラーを説得、その場で日本行きを勝ち取ったという。

チャンドラ・ボースをドイツから日本に移送することは決定したものの、手段は限られていた。ドイツには日本まで送り届ける遠航用の潜水艦に余裕はなかったので、日独双方の潜水艦同士が落ち合って、チャンドラ・ボースを受け渡しする事となった。マダガスカル島の南東沖で、日独双方の潜水艦を接近停泊させ、小型ボートを使ってチャンドラ・ボースを引き渡すという、スパイ映画のような移送劇が実際に行われたという。

ussyassya at 12:07|この記事のURLComments(4)歴史関連 

「中村屋のボース」〜4

1937年7月7日に発生した盧溝橋事件を契機に日中戦争(支那事変)に突入する。ビハリ・ボースは以下のような発言をしていた。

「支那事変は単なる日支抗争ではなく、実は世界大戦後英国が支那に対して用ひ来った離間政策のために勃発したもの」

「今回の支那事変を発生せしめたる主因が英国の策動であることは言ふまでもない。英国は多年に亘り東洋の二大国を相喰ましむるべく公然と或は秘密裏に種々の策動を続けつつあつたのである。英国は大戦以後アジアに於て英国の勢力に挑戦し得るは日本のみであることを知悉し、競争者を打倒すると云ふ英国の伝統的政策に従ひ、支那を日本に対抗せしむべく全力を画して来たのである」

ビハリ・ボースは、イギリスの陰謀によって日中戦争が始まったという論陣であったのが分かる。勿論、ビハリ・ボースの祖国であるインドの敵はイギリスであり、且つ、この頃には日本に帰化していたものの、アジア主義を掲げてきた経緯なども作用しての、解釈であったようにも見えますかねぇ。

1940年9月、日独伊三国同盟が成立した折には、「世界新秩序樹立を目標とするもの」として絶賛し、その後も、中村屋の社報にはヒトラーを英雄視するかのような言辞も掲載したという。

彼の英雄ヒトラーの前進、向かうところ必ず決死不動の信念が躍動してゐる。彼の勝利は悉く信念によつて裏づけられている。彼が偉大なる人物である所以のものは実にこの信念と至誠との保持者、その実行家たるに在る。それ故に彼は往くところ敵なく、進むところ必ず勝利の凱旋が挙がる。

そして1941年12月8日を迎える。この日は真珠湾攻撃の日として語られる事が多いものの、同日には日本軍はマレー半島北端に奇襲上陸作戦を展開し、太平洋戦争(大東亜戦争)へ突入する。

ビハリ・ボースは、どのような反応をしていたかというと、自宅のラジオ放送で、そのニュースを知ったという。

そこにあるラジオで、あの感激深い放送を聞きました。日本帝国が西太平洋に於て米英と戦闘状態に入つた――これで私の過去三十余年にわたるあらゆる苦難も苦労も、悩みも悲しみも、一瞬にして消えてしまったのです。自分はこの儘死んでもよいと思ひました。これでインドも解放される、否アジヤ全体はアジヤ人のアジヤになるといふ喜びに泣いたのです。この戦争こそ、単なる日米と日英の戦ではなく、全アジヤ人とアングロサクソンとの戦だと考へるのです

十二月八日、畏くも対米英戦に関する詔勅煥発せられ、而も日本海軍が広大なる太平洋の各地域に於て、世界戦史に類を見ざる赫々たる戦果を収むるに至つた事については衷心より慶祝と感謝の意を表せざるを得ないのである。今や事態は極めて明瞭であり、全亜細亜人は日本と相携へ英米打倒の聖戦に従事すべき崇高なる義務を有する次第である。

マレー半島に上陸した日本軍にはインド人兵士が投降してきた事もあって、快進撃を続けた。事前に参謀本部がインド人工作の為の作戦をしていた事とも関係していたとされる。モーハン・シンというインド人将校が一個大隊を率いての日本軍への投降を打診し、そのまま、モーハン・シンはインド国民軍を編成し自分が司令官になることを条件に提示、受け容れられた。

1942年1月11日にクアラルンプールを陥落させる。

1942年2月15日にはシンガポールを陥落させる。

このシンガポール陥落の二日後、イギリス軍と日本軍との間でインド人捕虜の接収式が行なわれたが、約6万5千の捕虜で溢れかえることになったという。

シンガポール陥落の翌日となる16日、東条英機は次のような演説を行なった。

今や(印度は)英国の暴虐なる圧政下より脱出して大東亜共栄圏建設に参加すべき絶好の秋であります。帝国は印度が印度人の印度として本来の地位を恢復すべきことを期待し、その愛国的努力に対しては敢て援助を惜しまざるものであります。若し夫れ印度がこの歴史と伝統を省みず、その使命に覚醒することなく、依然として英国の甘言と好餌とに迷ひ、その頤使に従うに於ては、私は茲に永く印度民族再興の機会を失うべき憂へざるを得ないのであります。

この東条の演説の内容は、ビハリ・ボースを感激させたという。大東亜共栄圏構想からインドの名前が無かった事、また、インドの独立こそが悲願とし、日本に亡命して三十年以上も経過していたビハリ・ボースにとっては、まさしく、待ちに待った瞬間であった――。

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2017年09月14日

「中村屋のボース」〜3

1926年8月、第一回全亜細亜民族会議が開催される。主催した全亜細亜協会は政友会幹事長の岩崎勲らによって発足した協会であり、即ち、これは現役の代議士らが狒完〆抂´瓩箸い事を念頭に置いて結成したものであった。その全亜細亜協会が主催した会議が第一回全亜細亜民族会議の意。

全亜細亜協会の設立主旨は「西洋列強の帝国主義の打破とアジアの復興」がメインテーマであった。そこには

「全人類の共存共栄、是れぞ我等人類の究極の理想であります」

或いは

「九億の全亜細亜の天地をして人類共栄の理想郷たらしむ」

等の文言もあった。この会議の開催にビハリ・ボースは精力的に取り組み、晴れて1926年8月に第一回会議が実現した。

しかし、会議は初日から紛糾した。中国代表団から「二十一箇条要求の撤廃を決議すべきだ」という発議が行なわれたのだ。現役代議士らは難色を示した。この全亜細亜協会は有志の代議士らが主催している会議であり、必ずしも日本政府が公的に関与している会議ではなかったので、受け容れようがなかったというのが実情であったよう。(また、著者の中島岳志氏にしても、予め中国代表団による戦略であったと考えるべきだという見解をつけている。)

一日目の会議が頓挫した事から、その晩から日本代表団は中国代表団との折衝を続けたが、主張は平行線をたどり、日本側代表の代議士4名は匙を投げる方向へ傾いた。夜明け近く、午前4時過ぎには日本代表も中国代表も、互いに会議への不参加、脱退をするという、完全に決裂の方向へ傾いたという。しかし、ここでビハリ・ボースが必死の調停に乗り出し、二十一箇条要求撤廃を盛り込んだ決議を、同会議として発表することで決着した。

二日目の会議は一般傍聴を禁止するという措置が取られた。ビハリ・ボースが議長となったこともあって会議は二十一箇条要求を巡る緊張こそあったものの、なんとか無難に進行した。しかし、最終日となる三日目に、波乱が起こった。朝鮮代表として李東雨と姜世馨の二氏を招待していたが、「双方のうち、どちらが真の朝鮮の代表なのか」という問題が起こり、主催者は姜の出席を見合わせるという裁定をしていた。それに檄した姜が大阪の全韓国人連盟会長を伴って抗議を展開し、会議の運営にあたっていた日本人代議士の今里準太郎の胸倉に掴みかかって抗議するという事態に発展。(ああ、なんとなく、想像できてしまう光景かも…。)

ビハリ・ボースが仲裁に入り、最終的には姜世馨を除名するという決定を下した。中々、複雑な問題があったという。初期の段階では、全亜細亜民族会議は朝鮮代表団の枠を設けて居なかった。しかし、民族という単位で全亜細亜民族の会議をするというのであれば、朝鮮民族を固有の民族として扱うべきだという批判が「朝鮮日報」で報じられた。その後に今里らが朝鮮で参政権運動をしていた国民協会所属の李東雨をピックアップしたものであったが、朝鮮では「日本政府に協力的な朝鮮人が朝鮮代表になってしまっている」と猛烈な不満の世論が朝鮮半島にはあったという。

波乱の幕切れとなった全亜細亜民族会議はビハリ・ボースらの裁定が行なわれた。フィリピンやアフガニスタン、トルコ、イラク、ペルシャ、中華民国からは理事及び功労者が選出されたが、朝鮮の名前は除外されている。

更に、もう一つ、この第一回全亜細亜民族会議にはサプライズがあったという。傍聴席から一人のモーニング姿の紳士が壇上に現われ、演説を始めた。会場は何事が起ったのかと、どよめきに包まれたが、直ぐに拍手喝采に変わったという。

壇上に現われた謎の紳士の正体は、フランス統治下のベトナム代表のフエレバー・ロイであった。このロイは元々は日本に留学しながら祖国解放運動をしていた人物であったが、1908年に締結した日仏条約の為に日本居留が認められなくなり、ベトナムに帰国させられた人物であった。その為に主催者側はフエレバー・ロイの参加は難しいと判断し、招待することを遠慮していたのだ。しかし、昔の知人が「今度、日本で全亜細亜民族会議が開催される」という知らせをロイにした為に、ロイは、どうしても参加したいと考え、はるばる海を渡って、再び日本に舞い戻ってきたのだ。

どよめきの中、登場したフレエバ―・ロイは

「安南(ベトナム)は多年保護政府の横暴手段に苦しめられたが、(現在も)獣形的文明人の圧迫を受けつつあり、諸君には既に安南(べとなむ)のこの苦しい立場を諒解して貰へることと思ふ」

と、演説したという。当時の大阪朝日新聞によれば、このロイは広東の隠れ家から香港、上海を経由して日本にやってきたらしく、身の危険を冒しての来日であったという。また、その演説を終えると直ぐにロイは姿を消して帰国の途についたというから、まさしく命懸けのサプライズ演説であったらしく、ロイが姿を消してからも、しばらく場内はどよめきが続いたという。

また、二十一箇条要求の撤廃について、日本側は「不平等条約の廃止に努力をする」というニュアンスで何とか乗り切ったという。それでも場内からは「日支間、何の不平等条約があるか!」という怒号が飛び、その怒号に中国代表らが怪訝な顔をするなどする光景があったという。

一つにまとまることが出来ぬアジア。しかし、心情という部分では、一つにまとまろうとしていた何かも感じ取れますかねぇ。

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「中村屋のボース」〜2

1916年2月、イギリス軍艦が日本船である天洋丸に発砲するという天洋丸事件が起こる。この天洋丸事件では乗船していたインド人7名がイギリス当局の手によって強制的に拉致され、シンガポールへと相関されたという。日本外務省は、この天洋丸事件を強く抗議。それまでイギリスは日本に対してビハリ・ボースとグプターの両名に国外退去命令を出すようにと強く要請していた。日本を国外退去になった場合、自動的にイギリス当局が両名を逮捕、処刑するという事を意味していたが、この天洋丸事件の後、イギリスはビハリ・ボースとグプターの国外退去命令を撤回したの意。これによって、日本の警察からビハリ・ボースとグプターは追われる身ではなく、保護される身になった。しかし、以前とイギリスは神経を尖らせていたようで、イギリス大使館は横浜山下町にあった東洋探明社という私立探偵を使用し、ビハリ・ボースらの行動確認を続けたという。

1916年3月、ビハリ・ボースは警察が見繕った家に引っ越す事となり、「中村屋のボース」状態は終わった。インドの革命家が新宿・中村屋の奥にひっそりと隠れて生活していた期間は三月半であった。イギリス大使館から依頼を受けていた私立探偵らがビハリ・ボースの身柄を拘束し、大使館に引き渡す可能性がある事から、依然としてビハリ・ボースの周辺は警戒が必要であったという。ビハリ・ボースは17回もの転居を繰り返したが、その面倒を見ていたのは玄洋社の葛生能久であったという。

また、ビハリ・ボースは、玄洋社メンバーの宮川一貫を通じて、国防問題を取り扱う雑誌「大日本」の主筆をしていた満川亀太郎と知り合ったという。ボースが満川と出会った頃、満川は、まだ大川周明の事を知らず、ボースが大川周明を満川亀太郎に紹介した事が縁となり、満川亀太郎&大川周明によって「老壮会」が発足させられる。

この「老壮会」の名前は右翼団体と紹介されている事があるが、実際には右から左まで、国家主義者、国家社会主義者、農本主義者、無政府主義者らが一堂に集まった国家革新運動の基点となったものとされる。この老壮会という大枠の中には、大川周明が大陸から呼び戻した魔王・北一輝を筆頭に、権藤成卿、堺利彦、下中弥三郎、中野正剛らが集まり、実に35回もの定期会合が1918年まで継続した。内容も濃密で、支那革命、インド独立、アフリカ、バルカン半島などの国際情勢、更には労働問題、更には婦人問題までもを俎上に上げていた。

この老壮会、驚かされるのは、堺利彦のような勢力的に活動していた社会主義者の姿が名前がある事、また、巨魁・大杉栄も会にこそ参加していないが、その妻である堀保子と付き合いのあった柳葉清子、権藤誠子(権藤成卿の実妹)、平塚雷鳥らは老壮会に所属していた。とても長続きするようなメンバーではなかったが、意外と長続きしていた事が確認できる。多くの政治団体が堕落してゆく中で、大川周明の登場と、その大川周明が日本に呼んでしまった北一輝によって、本格的に犢餡罰弯訓親悪瓩硫蠅出てしまったかのようにも観察できる。

国家革新運動としては、この老壮会を敲き台に北一輝と大川周明とが猶存社(北一輝、大川周明、満川亀太郎、安岡正篤ら)を結成し、更に革命気運を育てた。しかし、北一輝と大川周明の仲はギクシャクとしはじめ、1923年に解散。後に発生する五一五事件、ニニ六事件は、この系統の革命思想から生じていると考えられる。

それを念頭に置くと、タゴールの親戚を名乗って日本に脱出してきたインド独立運動の革命家であるビハリ・ボースが果たした役割は、大川周明と満川亀太郎とを繋げたという意味合いでも、日本史の中で大きな役割を演じていたようにも思える。


ビハリ・ボース自身はというと、1920年代にはコツコツとインド独立運動についての言論活動を続けた。以下、ビハリ・ボースの主張を摘まみ食い的に着色文字で――。

白人とは違ひ、亜細亜は決して、その権力と指導権とを濫用することなしに、人類の幸福と増進と、そして不正と暴力に基礎をおくものではなく、万人の正義と権利とに基礎をおく本当の平和を確立するために、それを利用することであらう。

東洋人の政治的、経済的、軍事的勢力が、白人の勢力に対抗し得るに到る時、否、白人の勢力に優る時、正義と真理は自ら其の影を全世界に投ずるであらう。茲に於て初めて国際平和は持ち来たされるのである。而して此の勢力は全く東洋人連盟に其の基礎を置くものである。

我らは、一個人としてわれの解放、内面の革命と共に、亜細亜革命を、また世界革命を来たさねばならぬ。

インドを独立させることが根幹にあるが、それを発展させてアジア主義としている。また、敵として【白人】という単語を使用しているのが確認できますが、他には、より具体的に【アングロサクソン】という言葉も使用されている。それが指し示しているものが、焦点を絞ればイギリス、アメリカであり、少し焦点を絞れば西洋列強の、帝国主義批判である事も読み取れる。

しかし、時代はビハリ・ボースに苛酷な方向へ転がった。第一次大戦中の1915年に、日本が袁世凱政権に対して突き付けた「二十一箇条要求」などは、ビハリ・ボースの目には「これでは日本も西洋型の帝国主義になってしまう」と批判していたが、日本人の手前、遠慮していた。しかし、その後の日本の歴史に歩みというのは、脱亜入欧の歩みであったワケですね。ビハリ・ボースは日本にアジアの盟主となってアジアの解放に進む事を期待していたが、時局としては日本もまた倏篤鮫瓩鯀択した。

孫文の晩年の演説で、次のように述べたという。

「あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質も持っています。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです」(【干城】は盾と城の意で、つまり、「日本人は西洋的覇権主義の番犬になるのか、それとも東洋の王道を守る武人となるのか、日本国民がよく考えることにかかっていると述べている。)

孫文が当時の日本政府に対しての不満を抱えていたのは歴然ですが、やはり、ビハリ・ボースも同じだったようで、孫文が死去して一年後となる1926年3月、機関紙「月刊日本」で、痛烈な日本批判を掲載したという。

我らの最も遺憾とするところは、声を大にしてアジアの解放、有色人種の大同団結を説く日本の有識階級諸公にして、猶中国人を侮辱し、支那を侵略すべしと叫び、甚だしきに至りては、有色人種は生来、白人に劣るの素質を有するが如くに解すること、これである。従来の支那通なる人々を点検するにここ皆、然り。真に自らを知り、同時にアジアを認識するの士は暁の星の如く実に寥々たるものである。

支那は列強の狂暴なる帝国主義、侵略主義を完全に駆逐することなくして、自我の確立は不可能である。支那の学生、商工会、労働者団、学者団等の民衆運動を目にして、単なる煽動の結果なりと嗤ふを止めよ!


上記は、狎爾鯊腓くしてアジア主義を唱えていた日本の有識階級諸公瓩紡个靴討痢苦言であり、怒りを爆発させたものだという。

ビハリ・ボースは、もっともっと日本が国力を増強させ、「東洋人連盟」のような枠組みの中で、日本がリーダーとなってアジア解放運動を展開してくれることに期待していたという事のよう。

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2017年09月13日

「中村屋のボース」〜1

中島岳志著『中村屋のボース』(白水社)を読了。複数の書評を目にしていた本だったので、「きっと、そのうち文庫本化になるのだろう」と思って、購入を見送り続けてきた本だったのですが、このたび、古本で入手しました。田代富雄の野球人生を描いた『最後のクジラ』も文庫本化を待っていたところ廃版商品扱いになっていたので古本での購入となりましたが、ハードカバー本だと価格的にも、また、保管場所にも苦慮してしまうなぁ。売れ筋の本じゃないと文庫本にはならないって事かもね。

著者自らが「自分の20代は、この本を書く為に費やしてしまった」と、あとがきで述べていましたが、内容は戦前・戦中に日本にやって来たインド独立運動をしていた革命家であるラース・ビハーリ・ボースという人物に迫っている。

以下、『中村屋のボース』に沿って――。


ビハリ・ボース(生年1886〜1944)は、英領インドで生まれ育ち、15歳の頃から祖国解放というイデオロギーに傾倒してゆき、インド独立運動の中でも急進派と呼ばれるリーダーとなる。1906年頃からベンガル地方ではイギリス人官僚に対しての暴力事件が頻発するようになり、それに対してイギリス側の警戒心が強くなっていた。そんな中、若き活動家たちはインド独立を掲げた秘密結社をつくるなどして、地下活動をしていたが、その中の一人が、このビハリ・ボースであった。

1911年頃、ビハリ・ボースは、宗教的指導者にして哲学者でもあったオーロビンド・ゴーシュ(生年1872〜1955年)の影響を受けたという。これは、ずっとずっと後に関係してくる部分であり、且つ、そこに、どんな思想や哲学が関係していたのかと関係しますが、そちらは後回しとします。

1912年12月23日、この日、は遷都を祝う祭典パレードが執り行われようとしていた。それ以前からイギリス植民地政府はインドの首都をカルカッタからニューデリーへと遷都させる計画を進めており、晴れて、この日、デリー遷都を記念しての街頭パレードを行ない、イギリスの統治が盤石である事を示そうとしていたという。

しかし、そこで事件が起こった。パレードは、一頭目の象には案内係の役人が乗っており、二頭目の象には警護役の兵隊が乗っており、そして三頭目の象には、ハーディング総督が乗っていた。そのようにして現れたハーディング総督に対して、何者かが爆弾を投げつけたという、ハーディング総督爆殺未遂事件が起こったのだ。現場から立ち去った実行犯は二名あり、指示を出したのがビハリ・ボースであった。

斯くして若き革命家ビハリ・ボースは、イギリス当局から追われる身となった。(このハーディング総督とビハリ・ボースの関係は、実話でありながらスリリングに描かれている。)

追われる身となったビハリ・ボースは、インドに残ってインド独立の為に戦いのだという意志が強固であったが、仲間たちは次から次へと捕縛され処刑されるに到った。そうした中で、1915年、ビハリ・ボースは海外脱出を画策し、日本を目指して脱出した。当時の日本は日英同盟の最中の事であった。

日英同盟の関係にあった事から、イギリスから日本の外務省に対してビハリ・ボースの逮捕、引き渡しの要求が出された。しかし、日本国内の様子は少し違い、ビハリ・ボースは葛生能久(くずうよしひさ)、頭山満・内田良平らによって匿われた。

ビハリ・ボースはインドを脱出するにあたり、後にノーベル文学賞をアジア人として初めて受賞する詩人タゴール、そのタゴールの親戚であると装って日本に潜伏していたが、隠れ家にしていたのは、狄圭鼻γ翅鴫悪瓩任△辰拭7抻,睨楹陛にビハリ・ボースを捜し始めた為、頭山や葛生らは隠し通すことに苦慮していたが、「クリームパン」の元祖として知られる中村屋が匿うと申し出ると、妙案だと飛びつき、これ以降、ビハリ・ボースは「中村屋のボース」となる。また、中村屋を経営していた相馬夫妻にしても、官憲に逆らってインド人を匿うという行為が何を意味しているのか充分に承知した上で、そのような対応をしたという。

(余談ながら、新宿・中村屋の沿革としては、1904年で、創業者及びクリームパンを生み出したのは中村萬一夫妻の時代、本郷にあった頃の中村屋である。その中村屋を、そっくり買い取ったのが相馬夫妻で、この相馬夫妻の代になって新宿へ拠点を移し、ビハリ・ボースを匿った。「あんぱん」を生み出したのは木村總本店。)

当初、中村屋はボースの他にもう一人のインド人革命家グプタ―(ヘーランバ・ラール・グプタ―)を匿っていた。このグプターは、大川周明を頼りにしていた人物であり、且つ、大川周明の思想そのものに大きな影響を与えた人物であるという。大川周明の処女作「印度に於ける国民的運動の現状及び其の由来」という書物は、大川がビハリ・ボースやグプターとの交流の中で影響を受けたものと考えられるという。

また、時代は複雑である。ビハリ・ボースは、やはり、この時期に日本に居住していた孫文にも会いに行っているが、孫文は1895年に中国・広州で武装蜂起するも失敗した為に日本へ亡命。その後、2年ほどかけてアメリカやヨーロッパを回ったが1897年に日本に戻り、頭山満、宮崎滔天、寺尾亨、犬養毅らと親交を持つようになり、1911年の辛亥革命によって孫文は中華民国を打ち建てて臨時大大統領になるも、間もなく袁世凱との主導権争いで追い落とされ、1913年12月から日本に居を構えていたのだ。

この頃の日本に、アジア主義、大アジア主義とした思想が芽生え、その発展形としての大東亜共栄圏構想が掲げられるワケですが――。

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