どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

今春に入ってからであったか、テレビに映っている宮崎学さんが、

「今にして思えば、あのキツネ目の男の似顔絵というのは私を陥れる為につくられたんじゃないのかと思うようになった」

と発言しているのを視て、少し違和感を感じました。鋭いなと思ったのではなくて、あの宮崎学さんが、そんな安っぽいシナリオを語っているなんてという違和感でした。これには理由もあって、NHK総合が放送した「未解決事件」シリーズなどを回想しても、あそこに登場していた刑事らは、確かにキツネ目を男に迫りながらも取り逃し、その後悔が生々しく語られていたような記憶があったから。キツネ目の男と捜査員との間にはギリギリの攻防があり、あれで取り押さえられなかったのであれば何十年も後悔が残ってしまう感覚というのは生々しい。それをNHK総合「未解決事件」では描いていたので、その「キツネ目の男の似顔絵は、そもそも私を陥れる為につくられたのではないか?」という宮崎学さんの言葉は何か拍子抜けしてしまうように感じたの意です。


しかし、この宮崎学さんに係る「最重要参考人M」或いは、キツネ=FOXとして捜査員らが符牒としていたF関与説というのは、思えば長い疑惑だよなって思う。

改めて『突破者』(上下巻)に目を通してみると、京都の老舗ヤクザの「ぼん」として育ち、その後に左翼運動に傾斜、早稲田大学に入学して上京していた時代は日本共産党系の地下組織的な学生ゲバルト部隊「あかつき行動隊」を率いて全共闘に日共系組織の暴力装置として参加、その後は週刊現代で記者をしたり、実家の解体業の為に奔走したり、企業恐喝事件を起こしたり、地上げビジネスに首を突っ込んでみたり、挙げ句の果てには立ち退き交渉に介入していたところ、銃撃事件に巻き込まれ脇腹に銃弾まで実際に受けた経験さえ持っている。こうした経歴の持ち主は、さすがに稀有でしょう。或る意味では、あのバブル期前後の日本社会の裏面史を知り過ぎている人物であり、他に、こうした人物が何人も何人も存在していたとは、推測とはいえ、結構、難しい。極めて稀有なレベルで日本の裏面史を体現していた人物でもある。

だからこそ、グリコ森永事件の犯人にデッチアゲられてもおかしくないとも言えるが、一方で、本当に、その「警察はワシに腹を立てていたから、ワシを犯人にする為に意図的に、あの似顔絵をバラまいたのではないか?」という陰謀論の信憑性は成立するのかどうかというのは、非常に悩ましくもある。どうしても引っ掛かるのは、グリコ森永事件の場合は警察庁広域重用指定事件(114号)であり、仮に最重要参考人Mをホンボシと捜査陣が思っていながら、そうした似顔絵の使用をするという事は考えられるのか…と。仮に、これが公安であれば、左翼活動歴があり、且つ、ヤクザとも密接な関係にあった人物に、そうしたカマを掛けるような陽動的な捜査戦術も行なう気もしますが、警察庁が威信を掛けて取り組むべき事件の捜査で、カマを掛けるような陽動捜査をするかどうかを考慮すると、どうしても抵抗がある。

また、本人も『突破者』の中で指摘しているように、列挙されている情報からすれば、宮崎学さんに擬せられても半ば仕方のないような、状況証拠がある。最重要人参考人M説というのは、確かに際どいとしかいいようがない。土地鑑を含めての地理要件その他、どうしようもなく、疑われてしまうであろう不可解な一致がある。

箇条書きにしてみると、以下のような感じでしょうか。

〆能斗彁温与唯諭淵ぅ縫轡礇襭董砲亮揃擦六村土建を営んでいたが、一連のグリコ森永事件に係る「ハウス事件」で現金輸送車が走ったコース沿いに寺村土建があった。

▲哀螢蛙恒併件の一連の過程で、栗東インター近くで滋賀県県警のパトカーが不審な車を発見、カーチェイスをして取り逃がした、また、その不審者は警察無線を傍受していた事が明らかになった。それに対し、寺村土建では警察無線を傍受できる無線機はダンプカーなどで使用していた。

グリコ森永事件では多数の犯行声明文などが出た訳ですが、それらに使用されていたパンライターを寺村土建の会社の関係者が持っていた。

ね兒罎脇端譴瞥兒罎使用されており、それは京都府伏見の「園城」という文具店のみが独自に取り扱っている極めて珍しい用紙であったが、この「園城」は伏見であるが故に最重要参考人Mは勿論、同Mが設立した寺村建産は園城をよく利用していた。

ス昇螢哀螢骸卍垢監禁され、脱出した水防倉庫の近くには寺村土建が懇意にしていた取引先があり、且つ、最重要参考人Mが卒業した高校も近くにある。

Ε哀螢鎧渦爾離哀螢咳浜椰品伏見工場ではパートの解雇を巡って、ちょっとした労働争議めいたものが起こり、その際、最重要参考人Mは労働組合側について、組合を応援していたという経緯が実際にあった。

Д魯Ε校件では、犯人は現金輸送車に最初の待機場所としてファミリーレストラン「さと伏見店」を指定した。このレストラン「さと伏見店」はMの実兄が建築に関わった店であった。

┌咤里箸隆愀犬砲弔い董この最重要参考人M説(F犯人説)は、Mの単独犯行ではなく、複数の関係者が関与していたのだろうと考えられており、Mの周囲にはイニシャルにして「SN」氏があった。一橋文哉著『闇に消えた怪人』では「SN」とされているが、N元S一郎氏という事らしい事が『突破者』では明かされている。このSNは、Mが「人間行動科学研究所」なる団体を結成した際、その京都の責任者をしていた人物であるという。また、このSNには韓国人女性と同棲関係にあったが、警察はグリコ森永事件で登場した子供の声で朗読されている「脅迫テープ」の声の主を、その韓国人女性の連れ子ではないのかと疑っていたらしい。(これについては、最近も、音声解析によって少し年齢条件が変わっていたかも知れない)。また、このSNは学生時代に自動車部に在籍し、実際にB級ライセンス保持者であった為、(△脳匆陲靴芯未蝓縫ーチェイスでパトカーを振り切るぐらいの運転技術を持っていた。(当時の新聞でも犯人は相当な運転技術を持った者と報道されていた。)

つまり、MとSNとが中心になって、一連のグリコ森永事件を起こしたのではないかと、当時の警察は勘繰っていたと思われる。しかし、当のMには完全なアリバイがあり、そのアリバイが崩れることはなかった。これが最重要参考人Mに係った一連の疑惑であった。SNは事件当時は京都市伏見区に在住しMと親しかった事から、このキツネ目の男Mと、それに協力したSNらによる犯行グループ説のようなものを警察は疑っていたという事らしい。

脅迫状や挑戦状、あの文章やら文体を、どう捉えるかという問題がある。警察をおちょくるかのような、もしくは揶揄するかのような、物凄く警察の内部事情にも通じているかのような、あの文章ですね。劇場型犯罪と呼ばれ、愉快犯であるかのようにも指摘されたのが、グリコ森永事件であった訳ですが、ああした文章を発信しそうな人物となると、これは主観頼りになるものの、或る意味では最重要参考人Mは、やってもおかしくない人物なのではないかと推測されていた事が考えられる。実際に、宮崎学さんはメディアを通じて過激ともいえる挑発的な態度をしたこともあり、「私は犯人ではありません」と真面目に答える一方で、雑誌『噂の真相』では「迷宮入り確実といわれるかい人21面相グループのキツネ目の男といわれた宮崎学サンが初めて衝撃告白!」と銘打ち、対談記事の冒頭では「私がキツネ目の男だった」と煽ったりもしているので、本当に虚実が入り乱れてしまう。(「私がキツネ目の男だった」は「私が犯人である」とは同一ではないが、それが挑発的なのは言うまでもない訳です。)

実は、余計に混乱してしまったかな。最重要参考人M説及び「キツネ目の男の似顔絵は見越し捜査でMをホンボシにする為の謀略であった」についても余計に混乱してしまったような気もするし。


時効の日、「筑紫哲也のニュース23」に出演していましたよね。今でもよく覚えている。父親が風呂上りにコップにビールを持ったステテコで姿で、

「大変だ、グリコ森永事件の犯人が筑紫哲也のテレビへ出てるぞ! なんで逮捕しないんだろうな! アレが犯人なんだろ? な? な?」

といった具合に興奮していたのだった。確かに「キツネ目の男」らしき人物が筑紫哲也さんの横に並んでいたのだから、衝撃的な画だったと思う。

番組の最後に筑紫さんから、

「ズバリお聞きします、あなたが犯人ですか?」

「いいえ、私は犯人ではありません」

と返答して、その日の「ニュース23」は終わったのであった。





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「法の下の平等」とは、絶対的平等であろうか相対的平等であろうか?

宮崎学著『突破者』(新潮文庫)に目を通して最終章で、その問題が掲げられており、ハッとしました。おそらく、現在は「法の下の平等」を相対的平等として理解するようになってきているのかも知れない。新暴対法を巡る疑義の中で、暴力団に於いては罪を裁くのではなく、存在そのものを根絶すべしという方向性で物事が思考されるようになっているという指摘で、その中で露見したのが「法の下の平等とは絶対的平等を意味していない」という答弁が陳述されたのだという。おそらく、「法の下の平等」とは言いながら、反社会的存在と名指しできる者に対しては、存在悪というレッテル貼りが可能となり、おかしな言い回しなのですが、「ヤクザにも人権はあるが、実質的には人権はない」といった具合の法解釈が通ってしまっている可能性がある。ヤクザを社会から殲滅する事はいい事だろうから、そういう法解釈も許されるとか、或いは憲法の本来的な主旨からすれば問題は重大であるが、そこは例外的に扱っていいのだという考え方…。

しかし、思うに「法の下の平等」という大前提が絶対的平等ではなく相対的平等であるという解釈には違和感を感じますかねぇ。その相対的平等にかかる相対的評価ってのは、結局、何によって為されるのかって問題になってしまうでしょ? 結局は誰には価値が認められるが、誰には価値は認められないという判定にならざるを得ず、その存在をも否定して撲滅する事を正義と言い出せてしまうのか? これをやりだしてしまうと「平等」の本義が失われてしまうように感じなくもない。

思えば、「絶対的平等ではない」と解釈した御都合主義の側から、やまゆり園事件のカレのような、勝手に人命に価格札をつけて「生きる価値ナシ」などと言い出す輩が登場したようにも思える。

昨晩、ウィキペディアに目を通してみると、西洋では「神の前の平等」という概念があるのだという。つまり、この西洋の神の場合とは唯一神であり絶対神である訳ですが、その絶対神に御前にあっては誰も彼も平等であるというもの。それがいつの間にか「法の下の平等」に置き換わったのでしょう。そうなのであれば「法の下の平等」とて、法の下でも誰も彼も平等ではないとおかしい気がするが、リベラル思想体系の中で、やはり、これも歪められ、比較的近年、「法の下の平等」の平等とは相対的平等を意味しているのような解釈が宣伝され、主流になった事を意味している。

これは梅原猛に倣って「神殺し」で語るなら、人類は神という絶対者を殺した後に、その次に法律と科学からなる学術体系の近代神を崇め出した。そして、その近代神を支えているものは経済力であり、結局は近代神は金銭の多寡を巡って人間の選別を始め出し、その価値体系の中で正義と悪とを分別し、とうとう「法の下の平等」の法解釈さえも弄り出したという事のようにも思える。

「神の前の平等」は、おそらく日本人にも別の言葉で、馴染みがある話だよなって思う。福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」ですね。で、その起源にしても東洋思想の荘子あたりであると強く推測できる。これは、実は東洋思想の叡智の根源だよなって気もしますが「万物斉同」(ばんぶつせいどう)であろうなって思う。天地(あめつち)は万物が斉(ひと)しく同じであると、自然の摂理を説いたのだ。虫けらの命と人間の命、或いは犬の命でもイルカの命でも構いませんが、そもそも、それらに価値の上下や優劣、貴賤などの基準があろう筈もないじゃないかという。これは自然の摂理として万物斉同と説いているから、普遍的事柄、絶対的真理として説いている。もう、これ以上の話もないんですよね。貴賤とか優劣、上下は便宜上、人がつくりだした価値観・価値体系であり、そんな事、そもそも神たる大自然は説いていない。

「偉大なる神は仰せになった。多数派こそが正義であり、少数派は邪悪である」

なんて明示していない。そのように人の子の中の支配者層が、自分に都合のいいように価値体系をつくり、それを人的解釈を加えて改変できる法支配を梃子にして、勝手に言い出しているだけである。しかも、そのように人のつくった法体系の基準を、あたかも絶対神が如く今も崇めている。

宮崎学さんの主張には多く首肯することになりました。そういう人がつくる基準というのは、常に自己都合の基準となってしまうものであり、実際に権力機構とは、個人の個益とか、省庁であれば省益を希求して動いてしまうものである。ホントはエゴイズムのみが支配体系であり、それを可能にしているものは暴力装置と、法支配である。その法に係る解釈を自在に権力機構が操れるようになってしまっている事は危険な事だろう――、と。

これは非常に鋭い現代批判でしょうねぇ。現在進行形で安倍政権が無節操なバラマキを行なっていますが、これを「無節操なバラマキ」と理解できるか否かは大きな問題でもある。なんでも160兆円規模の大盤振る舞いだなんて言っているし。しかし、従来までの制度体系を国難的危機だからとして、何もかも度外視し、ばんばんとカネをバラマキしてしまっている事実は覆しようもない事実である。しかも「平等」の解釈を勝手に政府が行っている。誰々にはカネを給付するが、誰々には給付しない。

その絶大な差配する権限を行使し、ひょっとしたら、それによって支持基盤を買収しているようにも見える。末期でしょうねぇ、民主主義としても。案の定、補償とか支援にしても、結局は徐々に大企業優遇に擦り寄りつつある。そうするのは簡単だ。「大企業が潰れたら大変な社会不安が起こる。だから公費をバンバン投入する。これは社会正義なのです」と言い出す。しかし、実際には、どうも、これを繰り返しているから日本的無責任体制になっているという指摘にも賛成してしまうかな。だって従来は「淘汰される者は淘汰されるのが世の習いだ。スクラップ&ビルド、時代の移り変わりは諸行無常なんじゃよ」と言っていたのに、実際には例外的な解釈が正当化されてしまう。そんなもん、基本的には自業自得ですなって考えてきたのが、そもそもの東洋思想だし、日本人ですしねぇ。何故、千二百年ぐらいの蓄積のある価値観を、ヒョイと海外から持ってきた最新の学説に譲歩し、文化を破壊したがるのか分からない。

宮崎学さんは住専問題を引き合いに出していますが、結局、実力主義みたいな言説も嘘であり、権力層は自分たちが取り込めるところを取り込んで自己増殖をしていくだけだってのが、確かに真理でもあるからなぁ。また、見事な批判だなと感心しましたが、これを「清潔なファシズム」と評している。

これは正鵠を射ている気がするので、引用してみる。

彼らは従来のダーティなものに依存した「不潔」で「非合理的」な統治を清算し、「清潔」で「合理的」な統治を実現しようという構想をもっている。汚いものはいらない、異物はいらない、そんなものすべてを切り捨てた社会を実現しようという、朝シャン時代にフィットした実に潔癖でデオドラントな思想を持っている。

その若手官僚の論文を読んでびっくりした。そういう支配体制が実現できる、実現しなければならない、と本気で考えているのである。「暴力団が生きていける環境を根絶する」ことを本気で追求しようとしているのだ。これは、暴力団追放という形をとりあえずは取っているが、気色の悪い思想、というより感性である。徹底した異物排除の上に立った「清潔なファシズム」を目指しているとしか思えないのだ。

ここには、悪、狂気、暴力などを人間の宿命的な属性と認めつつ、なおかつそれらを社会に取り込んで統治しようという、統治者としての現実的な発想も諦観もない。あるのは痩せ細った単眼的な人間観・社会観と、それに基づくファミコンゲームのような統治観のように思う。


まぁ、「排除の論理」の正義化の問題、ヒステリックなまでの潔癖・清潔に係る現代日本人の狂奔を抉っているなぁ…と感じました。どちらも厄介な事に、ポピュリズム(大衆政治)と関係しており、必然的に現在のような分断を招いているような気もしますかねぇ。

また、町中から公衆便所が消えて、都市部では当たり前のようにコンビニ店のトイレを公衆便所のように使用している。町中にごみのポイ捨ては減ったが、実際にはコンビニ店のごみ箱への家庭ごみの持ち込みなんてのが起こっている。行政はクリーンを実現しているのだけれども、どう考えたって、コンビニ、それも、そこで働いている人たちに体よく、それらの雑務を押し付けてきたのが、平成以降の日本のような気がする。筒井康隆の短編にもありましたよ。潔癖化が進んでビル内から便所がなくなってしまい、最後には、そのサラリーマンはビルの窓だか屋上だかから、小便を撒き散らしてしまう話とかね(笑

「相対的平等」と言いながら、一方では絶対的正義、普遍正義があると思っている。もう、本当は深部では支離滅裂なままに時を重ねてきてしまったって事かもね。そういえば昨年あたりから【上級国民】というキーワードが定着してしまいましたが、あれも「法の下の平等」の話ですよね。上級国民になると、刑罰さえも手加減されちゃうのに、それでいて法治国家、法律に従え、コンプライアンスの遵守が肝要だって言っている。支離滅裂でしょ、ホントは。

宮崎さんは暴対法の条文も引用している。

当該暴力団の威力をその暴力団員が利用することを容認することを実質上の目的とするものを認められること

とか、ホントにあるらしい。何を言いたいのかさっぱり分からないが法制化されている。来月1日からレジ袋有料化らしいのですが、小売店の側がレジ袋を出す場合、レジ袋代を客から取らなんだ違法行為に当たるのだという。しかも罰則をつけるとかつけないとか未だに会計士さんにも伝わっておらず、もう、メチャクチャですな。国民のシツケまで全部、民間企業に丸投げ状態だ。先ずは国が国民への周知徹底をしてなきゃ、無理でしょ? 全国のコンビニやスーパー、商店がクレーム対応でパンクするのが目に見えている。しかし、今どきの日本の有権者の多くは「安倍政権は法案を何本も通して立派だ」と本気で言っている。世も末だよなぁ。


『突破者』上下巻は、幻冬舎アウトロー文庫で発行された後に新潮文庫にもなった話題作でしたが、確かに読み応えがありました。てか、どうしても、この宮崎学さんについては「グリコ森永事件と関係しているような…」という感慨を逆に強くしてしまってりする。裏面史をこれだけ語れてしまう人物ってのは、そんなに存在しないよなって逆に思えてしまったりも。。。



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芸能人らのツイートを巡って、「#検察庁法改正案に反対します」以降、何か燻ぶっているものがあるように感じている。平たく言えば、「分からねーくせにツイートしてんじゃねーよ」という声ですね。そりゃ、そういう気持ちが全く分からない訳ではありませんが、控えるべき行動だよなって思う。グレタ・トゥンベリさんの扱いも似ていますが、昨今ともなると、この「芽を摘む」という行為が結構、露骨になってしまったような気がする。

マイナーだった時代から応援していたバンドがメジャーになってしまい、そのメジャーになってしまった時に、マイナー時代に応援していたファンは、少し鼻白む感慨を持つと言いますね。早くから目をつけて応援していたのであり、そのバンドの良さに早期に気付いていたにも自分や自分たちであるが、おそらく、そのバンドがメジャーになってしまうと、嬉しくもあるが何か不満も同時に抱えてしまう。応援していたマイナーなバンドがハレてメジャーになったのであれば、喜んであげればいいものを、何故か人間というものは、そう素直に反応できない。むしろ、メジャーになってしまうと、距離が遠くなってしまったかのように感じて、そのバンドへの愛着が揺らいでゆく――みたいな心理があるという。

しかし、この話というのは「ニワカ」の問題と似ていると思う。自分は「より詳しい」とか「より昔から知っていた」とか「より熱情がある」とか、そうした思いがあるから、ついつい、新しい声に対して「ニワカのクセに」みたいな事を思ってしまうものなのだ。そう思ってしまうのは致し方がないが、それを口外してしまうのは中々にカッコ悪い事だと思う。仮に、一定以上の年齢であれば、そのように感じても、「まぁ、若い人の芽を摘むような事はしたくないな」とか「新しい観点で物事を眺め始めた人たちの芽を自分が摘むのは変だよな」と感じるべきなんだと思うんですね。

殊に「人種差別反対」とか「環境問題」のような問題は、絶対に、その入口は「このままでいいのか!」という犁ど佞瓩ら始まる。気付きが無ければ、始まりもしないのだ。仮に、中学生や高校生と会話していて、その若い彼等が人種差別を肯定するような言辞を述べたり、環境問題なんて偽善だと怪気炎を上げていたなら、それこそ、心配になってしまうのがオトナのオトナたる態度ではないだろか。ホンネを言えば、オトナだって精神状態はコドモのように波打ったりするものなのだけれども、その辺のコントロールが効かない、バカなオトナの見本にはならないよう心掛ける事は、そんなに難しくもない訳ですよね。

仮に、仮にですよ、どこぞの芸能人がロクに問題意識なんて持っていないクセに、ここぞとばかり、アメリカ発のツイートに便乗する等とは、何事だって感情になったとしても、それを口外してしまったら、その口外している奴は何なんだとなる。おそらくは人種差別に賛成な訳でもないのだろうし、どんどん環境を汚染させようじゃないかという意見でもない訳だ。単に、その発言内容ではなく、発言者を見て、反応している訳だ。誰が発言しているのかという問題は「言論そのものの本質」ではなく、副次的要素の問題だ。要は、気に入らねーって話で、一定以上のオトナがそういう態度を採るのは「大人気ない」と、嘗ては言ったのではなかったか。まぁ、グレタさんになると、トランプ大統領あたりでも張り合ってしまっている訳ですが…。(大人ぶった発言をする子供に嫌悪感を抱く事は多いけど、それを口にしてしまったら、おかしい。心の中で「クソガキ」と思う事は実際に多いけど、わざわざ発言したり、表情には出しませんね。)

ニワカ論争も、同じでしたよね。誰だって、最初にサッカーの面白さに気付くというタイミングや、ラグビーの面白さに気付くという入口がある訳だ。そこで「ニワカがっ!」のように言葉を浴びせる者の、その心性を考えるべきだ。僻みっぽい性分だとして、敢えて、そういう発言をする事もない。「ニワカのクセにあれこれ言ってるんじゃないっ!」とやってしまえば、その行為は露骨に新しい芽を摘むようなものだし、その自分の余裕のない心と向き合うようなものでもある。

仮に、人種差別に賛成というのであれば、敢えて主張する意味もあるのだとは思いますが、結局は、そうではなくて、生意気な態度を許せない(オレの方が立派)とか、調子こいている芸能人を許せない(オレの方が立派)というマウントになってしまう。

心に余裕がないのは、みんな一緒だし、変なタイミングで変な相手に怒りをぶつけるのっては、病んでる証拠のような気もする。
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漫画家・ジョージ秋山の訃報を目にして、訃報と同時に掲げられている作品は「銭ゲバ」や「アシュラ」などが目立つ中、私が思い描いたのは「ほらふきドンドン」と「パットマンX」でした。志村けんさんもそうでしたし、岡江久美子さんもそうでしたが、じわじわと時代が巡ってゆくものですねぇ。

志村けんさんが予定していた山田洋次監督作品の代役に沢田研二さんの名前が挙がった事などもあって、一時的に週刊文春では桑田佳祐さんの連載「ポップス歌手の耐えられない軽さ」が5月14日号と21日号で沢田研二さんをメインに取り扱い、28日号では山田洋次監督作品「キネマの神様」の代役決定となった舞台裏が記事になったので、実質的に週刊文春では3号にわたって「沢田研二」という名前がクローズアップされる事となった。

拙ブログ:沢田研二さんについて〜2020-3-14

そして5月29日にはホームドラマチャンネルが大物アイドルスター特集として沢田研二を特集する番組編成をし、郷ひろみと共演した「ふたりのビッグショー」、森光子をゲストに迎えた「ビッグショー」(1978年7月)、その他にも「カックラキン大放送」なんてのも放送されたのかな。期せずして、昭和の大スター沢田研二を改めて映像で確認することが出来てしまった。ファミリー劇場では志村けんさんを追悼しての番組編成になっているので往年の「ドリフ大爆笑」が放送されていますが、確かに、そちらにも沢田研二さんは登場していたかな。今にして思えば、如何に昭和のスターは、ひたむきであったのかも伝わってきましたかねぇ。

「ふたりのビッグショー」は、沢田研二がデビュー28年目とかで郷ひろみがデビュー20年目だったのかな。舞台上で、デビュー何周年を巡っての掛け合いがあったので、その頃の映像でしたが、まぁ、色々と感心する部分が多かったような印象です。沢田研二と郷ひろみであれば、確かに明確な記憶はなくとも結局は知っている歌だらけという事になる。それも凄い事ですが、何やら沢田研二さんの軽妙なトークに目を奪われましたかね。「ベテランの域に入ってしまっていますが、派手さは忘れませんよ」というキャラになって、互いに張り合っている感じ。視聴していて時間が短く感じられたから実際に愉んで視聴できたのかな。特別に「ゴー・ジュリー・ゴー」というユニットを一夜限り結成したというノリで繰り広げられた文字通りのふたりのビッグショーって感じ。「あの曲は歌わないのかな?」なんて思っている内に「ゴー・ジュリー・ゴーも解散です」となっている。郷さんの曲ってのも凄いですね。

「恋の弱味」なんてタイトル、私は全然記憶になかったんですが視ているうちに思い出しました。ああ、あの曲、こんなタイトルだったのか…。

♪ミルクの好きな 仔猫を抱きしめて

「ビッグショー」は、70年代だったので、おそらくは「TOKIO」以前だったんでしょうか。どこか貴公子みたいな雰囲気だった頃のジュリーでした。井上尭之、大野克夫といった面々が参加し、ゲストには森光子。実は、同じ高校の先輩と後輩なんですよ、森さんの頃は女子高で、その後に校名が変わっていますが、実は先輩と後輩という関係なんです、と。「旅の夜風」なんてのをサラリと一節歌う一幕もありましたが、歌唱力の片鱗を窺がわせるようにこなしていました。そして、この「ビッグショー」では最後から2曲目に海外の楽曲と思われる「絆」という曲を熱唱したのでしたが、ああ、迫真であったかな。歌が上手であるというのも重要ではありますが、この70年代中盤か後半かというのは、ちあきなおみさんの映像でも思った事があるのですが、歌い手は完全に、その歌詞の中の人物になり切って演じてしまう場合があり、それを確認できた。玉置宏の名調子に「歌は三分間のドラマです」ってのがありましたが、完全に歌唱がドラマと化してしまう。こう述べるとミュージカルを想像してしまう可能性もありますが、そうではなくて、その歌の設定を演じて演じて没入してしまう感じ。ちあきなおみさんの場合はリサイタルと呼ばれた「かもめ」に顕著でしたが、もう、港町の酒場の女になり切ってしまっており、何もかもが独り舞台の、独演会状態となる。独演会という言葉も存在するので説明が難しいものの、完全に一つの世界を演じ切ってしまう。沢田研二さんの場合というのも目つきが変わってしまっており、本人は本人であるが表情のつくり方なんていうのは、まるで人相が変わってしまっていたように見えた。ここまで一曲を演じる事に徹するというのは、中々、お目にかかれない演じ方だな、と。

桑田佳祐さんの連載が述べていたのも、少し似たニュアンスがあって、先ずは「沢田研二といえば美貌の大スター」を想起するのですが、それでいて慢心がない。桑田佳祐さんは複数のアーティストが出演するライブで競演したことがあって、最後に沢田研二さんが登場したが、結局、誰よりも尖がったパフォーマンスをしたのが沢田研二さんであったと回想していた。つくられたスター、操り人形的なアイドルであるかのように言われながら、その実、ある次元まで到達した人たちというのは、歌うことや演じることに対しての徹底ぶり、熱量の次元が少し違っていたのかも知れない。小泉今日子さんには第二章みたいなものがあった、と感じましたが、実際に、それを抉じ開けたのは結局は本人であり、本人の資質のような気もしますかねぇ。


野坂昭如の晩年の、脳梗塞で倒れて以降の文章が収録された『絶筆』の中には、60年代、70年代、80年代頃の回想も語られいました。しかし、底辺を貫いているのは、ノサカの場合は、やはり、戦争体験っぽい。朝日新聞から若い人たちに向けてメッセージ性のある書籍を上げる文章を依頼されて、その中で挙げたものは、やはり『アメリカひじり』と『火垂るの墓』と共通した敗戦体験を描いた作品が挙げられている。そこは強いメッセージなのでしょう。また、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』にも埴谷雄高(はにやゆたか)の「限りなく透明に近いブルーは、ロック&ファックである」という評を添えて触れていたのだったかな。そのように言いながらも、既に文壇であるとか小説といったものが、社会の変遷の中で影響力を失っている事を諦念で回想している。裏返せば、いつもノサカが戦争を話を持ち出してしまっていたのは、ああいう振る舞いの人物であるが戦争に対しての恐怖感とか、その後の怒りは最後の最後まで消えなかったもののように読めましたかねぇ。樹木希林さんの古い対談本の中でも野坂さんが戦争の話を始めてしまうのは、どこか許せてしまうてな事を指摘した一方で、当代人気作家であった北杜夫らがテレビで談笑をしていた事に何かイライラとしたものを感じたと言っていたのも、コレでしょう。いつの間にか戦争に対しての反省というのも希薄化し、それに伴う責任の追及などもなし崩しになってしまったところがあるという風に考えていた世代というのもあったのでしょうからね。

時代は変わってしまうのだけれども、戦後日本はそんなにダメダメだったのかなって、ちょっと思ってしまったかな。ダメになったのは90年代以降のような気がする事が多い。本当は犯罪ともリンクしていて「グリコ森永事件」なんて未解決事件を回想したときにも、それを想起させられる事があるのかな。本当は矛盾だらけなんだけども、矛盾を矛盾ではないと言い張って変な方向へ突っ走ってしまっているところがあるような。


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対コロナ対策では鮮やかな対応を見せて注目を集めた台湾の蔡政権でしたが、その後、WHO年次総会では台湾の出席を求める声が挙がっていたが、中国・習近平政権が台湾の出席に反対し、実現しなかった。以降、何やら水面下では中国・習近平政権との間とで不穏な雰囲気になっているという。以下、週刊文春6月4日号に沿って――。

テドロスWHO事務局長は中国・習近平政権のバックアップによって事務局長に就任したという。そのテドロス事務局長は4月8日の会見で

「台湾から人種差別攻撃されている」

と発言。そしてSNSでは「台湾人を代表して謝罪します」という言葉が拡散されたという。

しかし、これ、フェイクニュースだという。人種差別を謝罪するという「台湾人の謝罪」にしても台湾ではなく、中国が発信源だという。

物凄い複雑な情報工作になっているようなんですね。意図が読みにくいというか判然としないところがある。更に北京当局はどういう意図なのか、台湾・蔡政権を貶める情報を流しているらしく、

「台湾が大量の死者を隠蔽」

とか

「蔡英文総統もコロナに感染」

といったデマを流しているという。記事はジャーナリストの野島剛氏、元NHK記者の立岩陽一郎氏、李登輝元相当の秘書をしていた早川友久氏らが揃ってコメントを寄せており、ファクトは疑う余地は低そう。

しかし、こういう情報戦争が日常的になってしまっている現状というのは非常に厄介な状態ですね。どこもかしこもフェイクニュースまみれになりつつあるのかも知れない。

その上で、中国の野望を訝る声も掲載されている。

「中国の李克強首相は今回の全人代で、政府活動報告から平和的再統一や九二年合意という文言を削除し、軍事予算の前年比六・六%増を打ち出しました。今後は台湾の安全保障に決定的な意味を持つアメリカへの挑発の意味も込めてより一層エスカレートするでしょう」(アジア政治外交史が専門の川島真・東京大学教授)

本年8月には中国人民解放軍による南シナ海で、現在は台湾が実効支配している東沙諸島奪取を想定した上陸訓練が予定されているのだそうな。なんだか、このまま、ずるずると…。


CNN「トゥナイト」を昼休みに少し視聴しましたが、CNNの記者らの言葉の中にはトランプ大統領が出したコメントへの失望が見て取れました。テロとして捉え、軍事力の投入によって抑えようとしている事に対しての失望というニュアンスでした。ニューヨークは明晩からは夜8時から外出禁止になるのだそうな。抗議は正当に行われているが、その中に暴徒化する勢力があり、ニューヨークでも略奪が相次いだらしい。
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竹宮恵子著『まんが日本の古典〜吾妻鏡』(中央公論社)の上・中・下巻を読み終えたのですが、源頼朝までは落馬したのを機に死亡、その後の鎌倉二代将軍の源頼家、三代将軍の源実朝って、あんまり詳しくは知りませんでしたが、ひでぇもんだなぁ…と。現代語訳で記されている「吾妻鏡」も数冊は持っているのですが、さすがにコレクションし切れないので「まんが」で済ませました。値段も一冊、590円だし。

手短に説明すると、頼朝なき後、頼家が将軍になったが、北条氏によって権力は形骸化。北条時政によって伊豆修善寺に幽閉され、最終的には殺害されたという具合に、通常は記されている。しかし、よくよく吾妻鏡(あずまかがみ)に沿ってみると、蹴鞠に熱中し、近臣への尋常ならざる身びいき、更には重臣・安達景盛の妾を強引に奪うなどの乱行が記されている。(勿論、「吾妻鏡」は北条氏に有利に記されている可能性もある訳ですが…)

そして典型的な武蔵武者とされる比企能員(ひきよしかず)の娘・若狭局(わかさのつぼね)との間に長男(一幡)を授かる。そのことを警戒して北条氏は、日本国総守護職と関東28ヶ国総地頭職を実弟の実朝(当時は千幡)に継承させ、更に北条時政の娘である北条政子に関西38ヶ国総地頭職を継承させる北条家の拡大政策を打つ。これに比企能員が反発する訳ですね。源頼朝を鎌倉殿にして武家政治の土台を築いた旧臣ですが、北条の専横が始まった、将軍家を軽んじている、と。比企が反旗を翻すが、北条氏は既に政治の実権を掌握しているので、これは「比企の乱」として受け止められ、名門・比企氏は滅ぼされる。そうされも頼家は何も出来ない。最終的には伊豆修善寺に幽閉され、殺害されている。

北条政子の子である源実朝は暗殺された事はよく記憶していたのですが、人となりについては殆んど知りませんでした。兄が比企の乱によって失脚した後、12歳で将軍職へ。蹴鞠や和歌といった文化面へ傾斜し、特に和歌に関しては京都の藤原定家に習い、万葉調の名歌を残し、実朝の詠んだ和歌で編纂された歌集(家集)まで残した。吾妻鏡では実朝は後鳥羽上皇(京都)に取り込まれてしまい、武家の心を忘れてしまった将軍のようにも描いてあるという事か。

或る意味では権力闘争とは無縁で品行方正タイプであったらしい実朝も権力争いに巻き込まれてゆく。先ずは、北条時政と、その妻の「牧の方」が平賀朝雅(源頼朝の猶子)を次期将軍職に就けようと蠢動する。しかし、これは北条政子と北条義時が実朝側につき、その実朝暗殺計画は失敗する。この騒動によって北条義時が執権に就任。しかし、次には実朝が後鳥羽上皇に取り込まれてゆき、鎌倉幕府は鎌倉幕府の権力を守るという都合が出てきて、実朝暗殺へと傾斜してゆく。最終的には雪の日に源氏本宗家にとっては重要な意味を持つ鶴岡八幡宮へと参詣、その参詣のタイミングで二代将軍・源頼家の子の公暁(くぎょう)によって暗殺される。

憐れ実朝は、公暁に首を刎ねられる。公暁は実朝の生首を持って、三浦義村(頼朝が鎌倉殿になるのを支えた重臣にして相模武士の三浦氏)の元へ走ったが、その公暁は三浦義村の命を受けた者によって誅殺される。そして吾妻鏡には不気味な事に、何故、公暁が実朝暗殺から数日も経たず間に誅殺されたのか、誰が命令したのかについては、まったく記述がないのだという。

実際のヒットマンが直ぐに口封じとして消されているあたり、実はケネディ暗殺事件に似ている。実朝の場合は、出来上がった鎌倉幕府という権力機構、その幕府内の実権を握った北条氏と、源頼朝の時代からの功績大きい武蔵武士や相模武士を粛正し、体制固めをしていく中で、暗殺されている。頼朝が京都(上皇)に対して冷やかであったのに対し、実朝は京都(上皇)に取り込まれた事が鎌倉殿にして武家の棟梁に相応しくないと判断され、消されたという事か。世の中、足の引っ張り合いしかありませんな。

やはり、源頼朝の時代に活躍した熊谷直実は、鎌倉幕府が政治機構のような組織になってゆく過程で嫌気が差して出家してしまっていますが、実は正解だったのかも知れない。武蔵武士に限れば、畠山重忠、比企能員、熊谷直実は鎌倉武士としては有力者中の有力者でしたが、どのようにやってもヘゲモニー争いの中で見事に潰され、その謀略合戦の勝者が覇権を握る。源頼朝、頼家、実朝にしても旧臣にしても、この謀略合戦の敗者は絶滅してしまうんですね。まぁ、木曽義仲や源義経もそうなのだけれども、これが権力というものの実相でしょうねぇ。





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低俗な「恋愛リアリティー番組」と呼ばれてきたテレビ番組で自殺者が出たことに端を発し、テレビ界と政界とから一斉に「匿名」に対しての規制が盛り上がっている。冷静な論者であれば「匿名による誹謗中傷は問題である」という要旨から逸脱していないが、政治家や芸能人コメンテーターあたりだと、兎にも角にも「狷震将瓩いけないのである、何か発言するのであれば実名で発言すべし」という論調に一気に傾斜している。本人たちは、手応えを感じているらしく、論調を強めている。

しかし、「言論の荒野」という概念を念頭に置いて、物事を論じるに当たって最も大切なものは何かというと、それは真実を語る事に尽きる。

いつ、誰が、どこで、どのような表現を使用したのかといった事柄は最重要ではない。「いつ」、「どこで」、「誰が」といった諸条件は、事実を斟酌する為の認識コードに過ぎず、言論本体ではない。勿論、いつ、どこで、誰が、どのように発言したのかまでが明らかであれば、それは補足材料にはなるが、それらの認識コードを持っておらずとも、真は真である。

カンタンな例から入れば「1+1=2」である。「1+1」の解は何かといった場合、それは「2」と言いさえすれば、ホームレスのおじさんが言おうが、隣の2歳の赤ん坊が言おうが「2」と言いさえすれば正解だと認めねばならない。「家庭教師の先生が2が正解ですと言ったから」とか「テキストに書いてあったから2が正解」になっている訳ではない。いわば十進法を前提にして絶対的真理という次元があって、その法に基づいて「1+1=2」である訳ですね。

また、どこの誰が言ったのか定かではないが、耳を傾けねばならな言葉というものも実際にある。老子あたりになると、実在にクエスチョンマークがつく訳ですが、ここばかりが強調されて説明されてしまっているのも事実であり、本当に重要なのは老子を著したという老聃とか李耳の実在が曖昧であろうが、そこで説かれた言説こそが、老子の絶対的主体にして絶対的本質である。仏教であれば、その教えこそに本質的な価値があり、別に説いたのがゴータマだったから尊い教えである訳ではない。つまり、本当は言説の価値なんてものは、誰が言ったからという副次的な要素でその価値が決定するのではなく、匿名であろうが何であろうが「その言説そのもの」が全てであろうと思う。

高名な学者が声を大にして訴える正しいと思われる言説よりも、乞食が漏らすホンネの中にこそ、物事の真理がある――と、そういう事は当然に起こり得ると思う。校長先生の言う事には疑いもなく従うが、清掃のおばさんの言う事は端から小バカにするような子を育てるというのでは誤まりであろうと思う。要は単なる権威主義者、日和見主義者だ。きっと「意味もなく偉いと言われている人」を「偉い人」と認識する大人へと成長してしまう。

これはカントの仮言命法、定言命法の話でも検証可能でしょう。「道端にごみを捨てるべきではない」という見識が純粋に正しいのであれば、対象相手は選ぶことなく、そう言える筈だ。相手が総理大臣であろうが、マフィアの親分であろうが「道端にごみを捨てるべきではない」と言えそうだ。しかし、誰が発言者であるという認識コードに頼ってしまうと、そうではなくなる。見るからに反撃してこないであろう弱そうな者を物色し、その上でヘンテコなマナーを押し付けたりしてしまうものだ。「電車内でシャカシャカを鳴らすのは迷惑だ。許せない」のような物言いがある。その物言いを相手を選ぶことなく、偉い人とか、コワモテのヤクザ相手にも同じように言えるのであれば、その言説は絶対的に正しい。しかし、実際には、そうならない。人間は萎縮する生き物であり、人を見る生き物なのだ。本当は、そのような背伸びをしたマナー論は相手を見て発せられている。弱そうな者に対して強く出ているだけ。注意しても反撃には遭わないと思っているから、そのように「許せない」と突っかかっているケースが多い。これをクリアしない限り、その言説は絶対正義ではないのだ。単に相手に対して威張りたいだけ、マウントしたいだけの押し売りな言説であり、仮に相手が偉い人だったり、コワモテのマフィアであったりすると、途端に萎縮する道徳観・倫理観なのだ。そんな生半可な言説を操る者が、デカい顔をして正義漢ヅラをしているのが実際であったりする。純粋に善悪を説くのであれば、相手が誰であろうが正しいモラルは正しいモラルですと貫徹できる筈で、相手を見て態度を変える等というのは、本当は小賢しい言説の第一歩でもある。

誰しもが学校のホームルームの風景を想起する事は難しくないと思う。そこで堂々と挙手をし、堂々と発言をしている者だけが真実の言葉を発しているだろうか? 違いますね。往々にして人間というのは狡猾な生き物であり、そのように挙手をして発言する場合には、いい発言をしようと背伸びをするのが実際の人間の行動でしょう。

挙手をして発言する者は、既に動機を持っているから、むしろ真実を語る必要性はなく、己を好く見せる為に振る舞うだろうし、酷い場合には讒訴・讒言もする。

「A君は、B君からいじめられていました! A君が自殺したのはB君の責任です!」

と、堂々と語ったのはC君である。しかし、その後に匿名で告発が起こる。

「ホームルームの席でC君は、A君を自殺に追い込んだのはB君で、B君はいつもA君をいじめていたと発言していましたが、本当にA君をいじめていたのはC君です。C君は裏では威張っているので、みんな、C君の仕返しが怖くて本当の事を言えないのです」

その匿名で届いたメモには、匿名である事が理由で、真実を疑う理由になるだろうか? むしろ、匿名であるからこそ、余計な人間関係を顧慮することなく、真実を告発している可能性が高いとは思わないだろうか? 

匿名で発せられる言説には説得力がない等と軽々に切り捨てている当たり、如何にも、そうした匿名排除論者には哲学的思考が欠落しているなって思う。本当は、匿名で発せられる中傷に腹を立てているのであるが、本人にしても頭はクリアではないので

「匿名がいかんのじゃ! 匿名は卑怯なんじゃ! 匿名で書き込めてしまう現行のインターネット環境に問題があるんじゃ! みんな俺たちワイドショウのコメンテーターみたいに顔を出して発言すべきなんじゃ!」

と、イキっているというのが真理であろうなって思う。(その実、深部ではエリート官僚やエセ保守系論者の掌の上で転がされている。)

まぁ、陰湿ないじめなども、そのように徹底して匿名の言辞を軽視し、「実名をさらせや、顔を見せろ、コラっ!」という具合に、或る種の威圧によって、敵対する言論を萎縮させる効果を無意識に狙っている訳ですね。卑怯か卑怯じゃないかというのであれば、ありとあらゆる告発やリークは悪になってしまう。性犯罪の被害者も衝立越しの証言をしたら卑怯なのか、テレビに顔を晒さなきゃ卑怯者呼ばわりするのかって話でもある。顔や名前を出せない言説は禁止すべきだという主張は、まるで真理の告発などはないという態度だ。しかし、巨悪の多くは、無名者による告発、義憤に駆られた匿名での告発によって端緒が切って落とされるのが道理というものだ。

彼等にとっての言説や言論の美徳は「正々堂々」だから、そのような態度になるのでしょうけど、これは「言説そのもの・本質そのもの」を最優先にしていない事をも、同時に露見している。正々堂々としてさえいれば、真理の追究という本義中の本義は、二の次と考えている態度でもある。

本来であれば「言説に対しては言説」で対応するのが筋でしょう。それを自分の都合のいいようにはぐらかしている。謙虚に述べれば、相手が誰の言説であろうと真摯に反問する価値がある。謙虚さのない誹謗や中傷には取り合っても仕方がありませんが、そうなのに「匿名は卑怯なので規制すべし」という言辞に擦り替えてしまっている。或る意味では、そういう行為こそが言説に言説で応じていないという意味では卑怯な行為かも知れないのに。

そればかりか、むしろ、匿名、無名で「言論の荒野」に出るという事は、カンタンな反面、多くは挫折する。斯くいう私もツイッターは利用していませんが、理由は簡単で、無名の人がツイッターを始めたところで影響力なんて持てる訳もなく、惨めな思いをするだけだろうと思うからに他ならない。政治家や芸能人の場合は大分、事情が違う筈なんですね。大した言説を発していようがいまいが、ただただ有名であるというだけで、相応の影響力を持ててしまう。だから、諸刃の剣で「誹謗」も「中傷」も「批判」にも晒されてしまう訳ですが、それは自明といえば自明、自ずから明らかでもある。無名の者はツイッターに限らずSNS等を利用する中で、人間なのだから大きかれ小さかれ承認要求を持っている筈ですが、大半の者、9割ぐらいの人は承認要求に満たされる事もなく、空振りしているのがシビアな事実だと思う。

メディアといえば、一人の一般人もSNSによってメディアの発信側になれたとは言っているが、無名の一般人が日々発している情報が大きな影響力を持つ事は滅多にないというか、限りなく滅多にない。しかし、テレビというのはマスメディア、それも電波によって垂れ流す事が可能なマスメディアなのだ。「視たくないなら視るな」にも一理はあると思いますが、その性質が「垂れ流しマスメディア」である事を、ツイッターと同列にされて語っている者などは、自分を棚に上げすぎだろうと思う。テレビという媒体の場合は、視たくなくとも視てしまう可能性がある訳ですね。意志はなくとも家族が視聴していれば嫌でも耳目に入る。また、個人として視ない事を頑なに貫徹していても周囲で視聴している者があれば俗悪番組に影響を受ける者たちも防げず、また、垂れ流し型マスメディアであるが故に影響力が大きく、それが俗悪番組を放送していれば、思いの外、俗悪な風潮を世間に植え付ける。

イケてるとかイケてないとか、ダサいとかダサくないという価値観は当代の流行に大きく起因していて、第一義的には流行に敏感な事が「イケている」であり「ダサくない」である。しかし、その流行の発信源の連中は、得てして俗悪なものだったりする。

そこらの会話を耳にしてみれば、テレビの中のお笑い芸人のノリやネタを真似している者が如何に多いか分かるでしょう。一億総ツッコミ民化しているというのはホントであろうと思う。当代流行のネタを取り入れて会話しているという事だろうけど、そうした若い人の移り気なノリというのは、5年とか10年もすれば恥ずかしく鼻白む過去の消したい記憶となって、20年も30年も経過すれば、調子こいて、つまらないノリを他人に押し付けていた過去の自分に気付き、自分を抹殺してしまいたくなるレベルで嫌悪する事になる気もしますかねぇ。

素人のクセして

「君、イジられてんのに、そのリアクション、違うやん」

とか言っちゃっている関東地方の人を直視すれば、顔から火が出るほど恥ずかしいノリの筈で、或る意味では憐れかも知れず。

で、そうした軽薄な不特定多数の視聴者やSNSユーザーからチヤホヤされてるのが、当代の人気者の人たちって事だと思いますけどねぇ。
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アメリカ中西部ミネソタ州ミネアポリス市で4人組の警察官が偽札に係る容疑などで黒人男性・ジョージ・フロイドさんを組み伏せた後、フロイドさんが「息ができない」等と訴えていたが、その頸部に9分間前後も膝を落として続け、後に死亡。この白人警官が無抵抗状態の黒人を死亡させたという騒動が発生、動画が広がった事を受けて抗議デモが発生、一部が暴徒化する騒ぎになっているという。この行為を行なった警察官のデレク・チョービン容疑者は事件後に免職、既に元警察官になっているが、異例のスピードで起訴となり、デレク・チョービン元警察官には第三級殺人罪(殺意の意図なく著しい危険な行為によって死に至らしめた殺人)によって、既に起訴されているという。(第三級殺人から第二級殺人に変更、これによって殺意の有無が確認されたという。2020年6月5日追記)

NHKのニュースでは「近6年間で約1900件ほど、白人警官が黒人の取締りに際して死亡事故が起こっていた」と報じていますね…。散発的に報じられていたけど、数字にしてみても確かに問題はありそう。(後になって「6年間で1900件は私の聞き間違いで、190件だったのかな?」と思っていたのですが、CNN[アーリースタート」という朝一番のニュース枠では「6年間で数千件」なんて言ってました。白人警官と黒人との間でトラブルが多発していたのは確かっぽいですね。)

今朝ほど「CNNニュースルーム」なる同時通訳付きの生中継を視聴したところでは、抗議デモの様子が各地からレポートされているばかりで、あまり事件の概要そのものの説明などはありませんでしたかね。。。とは言いながら、画面下のテロップには「CHAOS AND CRISIS IN AMERICA」と表示されており、思わぬ方向から生じた大混乱と危機として取り上げているのは確認できそう。とはいえ、既に夜間外出禁止令も既に出ており、生中継では特に激しい衝突などが映る事はなかった。しかし、どうも抗議デモはホワイトハウス前でも発生しているらしく、既にジョージア州アトランタではCNNテレビの本社ビルが暴徒化した人々によって襲撃されたともいい、全米各地は警戒態勢になっていたよう。

CNNニュースルームでは、抗議デモが発生している各地から中継レポートを放送していたのですが、概ね、既に落ち着いている様子のよう。ビンの投擲に対して警官隊がゴム弾で応戦するなどの小競り合いは記者らのレポートでは、「警察官の中にも今回の騒動では抗議デモが起こるの致し方がない」といった動画に対して、呆れているかのような態度も見えていると報じている。(激しく警官隊と抗議デモ隊とが火花を散らしているというレポートではなく、暴徒化する事を懸念して警戒にあたっているもので、抗議デモ隊を敵視しているのではないという警察官の態度についても、レポーターの言葉から読み取れる。)

SNS時代の抗議デモの速さってのは痛感させられますかねぇ。また、同時多発的に起こっていることからすると、特定の指導者が存在しているという性質でもないで、特定の誰かが交渉の窓口に立って事態を調整するというのも効かなそう。キング牧師ならキング牧師で、特定のリーダーがあれば抗議デモにも統制が起こり、交渉の席も現れるのでしょうけど、そういうものは無いのかも。


抗議デモのようなものは瞬く間に全米各地に拡散していくのだなという一つ。抗議デモそのものは言論の自由の観点から叩き潰すというのもマズい訳ですね。しかも、今回のようなケースは動画も出回っており、「行き過ぎだ」と感じる感覚は肌の色に関係なく、多くの者で一致しているようにも見える。しかし、深部では「無抵抗の人物を9分間近くも首を膝で押さえつけていた」という行為の中には、差別感情のようなものを疑われてしまうし、疑わざるを得ないような騒動も散発的に起こっている。

直ぐに抗議デモが起こる事は厄介といえば厄介なのかも知れませんが、裏返せば言論の自由という意味では健全といえば健全なのかも知れない。香港の情勢を考慮すれば、そうした抗議を意図した集会そのものを許さないという言論統制の強化、そちらの方向性であると強く感じ取れる訳でもあって。

翻って日本の場合は、ごくごく平凡な一般人というのは強い不満を感じても、実際に抗議集会や街頭デモを行なう切欠、そういうツテというのも失ってしまっていますね。従来の反省からすれば、暴力はダメだが、言論によって批判するのはよしとしてきた。日本は民主主義システムがあるのだから、主張があればテロなどではなく、言論で勝負すべきだ、と。宮崎学さんや重信房子受刑囚も自分たちは間違っていたとして、似たような事を述べている。

しかし、実際には二大政党制だなんだと制度をいじくられてしまい、実質的には政党助成金をもらっている既存政党でもない限り、国を変えることなんて不可能という、窒息的な選挙制度に変えられてしまった訳ですね。期せずして権力側のやりたい放題状態が出来上がってしまった。


低俗なテレビ番組の「テラスハウス」で自殺者が出たらしい事を巡って、何故か言論統制を強化するというおかしな方向へ転がっている。絶望的なまでに品性を欠くテレビ番組を放送し、炎上をさせる事で視聴率を稼いでいた自分たちの非を棚に上げて、誹謗中傷をするユーザーが悪いだの、匿名が許されているシステムに問題があるだの、箸にも棒にも引っ掛からないお笑い芸人たちと、それと同程度の政治家らの意見がゴリ押しされ、政府も、そちらへ指針を切っている。

彼等の絶望的なまでの品性下劣を棚に上げてしまっていますね。テラハの関係者は、SNSユーザーらを煽って煽って、煽ってナンボ、炎上商法だって「悪名は無名に勝る」という哲学によって純然と金儲けに邁進していたクセに、その自分たちの欺瞞や腐敗を全く顧慮する気がない。「殺したのは我々じゃない、我々に扇動されちゃって、実際に誹謗中傷していたツイッター民だ!」で押し通す気のようだ。傍から見れば、主犯はテレビ番組制作サイドなのに。

最初から

「この恋愛リアリティー番組は純然たるフィクションです。狡猾なギョーカイ人が、有名になりたいという山っ気のある若者たちを見世物にして、お金儲けをするという主旨で製作された俗悪番組です。内容はショウでしかありません。虚実の区別がつかない者は、視聴しない事を強く推奨します。当番組のスポンサーも、日本人の劣化、日本の精神文化の破壊に一役買ってやろうと目論んでいるクソ企業です。」

と、番組放送中、途切れることなく、テロップで表示してさえおけば自殺事件なんて起こっておらず、今後の恋愛リアリティー番組への対処としても、全てまとめて、まるっと解決すると思うけどなぁ。

言論とは、そーゆーもんだと思うよ。直ぐに法律をいじくりたがる。しかも必ず規制の方向にして罰則をつけるべきというのが、当代の腐敗の上級国民がひり出す論理ですが、そもそも、あんたたちの絶望的な品性下劣が諸悪の根源だと言ってやらないと分からないのだと思う。

(台本は無かったかも知れないが、演出はあった。また、扇動行為も意図的に行なっていたのだから誹謗中傷を誘発していた親玉は番組関係者でしょ? そうした番組制作者らの炎上を期待する演出、その思惑に沿って、誹謗中傷が起こっていたのであり、被害者ヅラされては堪らない。)
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今頃になって、米国ミネアポリスで発生した白人警官による行き過ぎた行為に端を発したデモが暴動になっている事を知りました。散発的に、こうした騒動が起こっていましたが、色々と大変そうだと感じました。膝頭で抑えつけている動画は生々しく、諸々の政情不安の中、こういう騒動が発生するのかも知れないななんて思う。

習近平政権による香港国家安全法にしても、その先を想像すれば抗議活動は実力行使で抑え込めるようになり、情報統制も既に掌握しているのだから、愈々、そうなってしまったようにも見える。

と、そういう問題にも触れたかったのですが、足元の日本もとんでもない異常事態になっているなと思う。こうした混乱は、同時多発的に発生してしまうものなんだなと痛感する。安倍政権は何か指針を喪失しているのか、バラマキに制御が効かなくなっているというのが一つあるのですが、それだけではなく、この何が何だか分からない混乱の状況下で、年金改革法も成立してしまっている。週刊ポストあたりが報じている通り、この年金改革は数年もすれば大失敗となって国民生活に跳ね返ってくると思う。余りにも複雑なので手短に述べるのは困難なものの、「働き方改革」とも足並みは揃えているのですが、平たく言えば、ポピュリズムを利用しての選民型の社会主義へ舵を切ったとしか思えない。ごくごく平均的な大衆層には

「パート従業員も厚生年金に加入できれば、老後も安泰で(^_^)v」

と、映ってしまう可能性があるので非常にタチが悪い。まじめに社会保障の事を考えているとは考えにくい。御存知の通り、厚生年金と健康保険は雇用主が折半で支払う事になっている訳で、パートタイマー自身も天引きされる額が大きくなりますが、それでも半額は使用者が折半して納付しているのであり、パートタイマーに依存しているサービス業は直撃を受ける。コロナで直撃を受けた分野こそが、それだったりもする訳で、一体全体、まともに物事を把握できていないとしか思えず…。

コロナに係る分野で、続々と異次元のバラマキに邁進する一方で、厚生年金の対象者を増やそうとしており、且つ、年金の支給年齢の引き上げを明らかに視野に入れている。これに疑問を感じていない識者は、今後、二度と財政タカ派としての言辞は認めたくない。著しい不均衡に疑問を呈さないのが、現在の日本なのかなって思うと、がっかりするというか、がっかりを通り越したかな。上級国民による上級国民の為の政治へ舵を切ったとしか思えない。

米国や香港にも匹敵する大きな布石が打たれてしまったと思う。安倍政権に代わる受け皿が存在していないとはいえ、最早、レフリーストップかドクターストップでもかけないといけないような状況のように感じる。一個人としての安倍晋三、一政治家としての安倍晋三がどうのこうのという次元をとっくに超えて、最早、まともに機能していないように見える。

一つだけしか触れられませんが、朝日新聞5月30付から。

全住民に一律10万円を給付するという特別定額給付金、或いは持続化給付金などの、給付金の業務、その民間委託が、もう、早々におかしなことになっている。これらの給付に係る業務は煩雑なので民間企業に委託している。その中でも経産省は、一般社団法人サービスデザイン推進協議会に769億円で丸投げをし、その一般社団法人サービスデザイン推進協議会の構成員は14名だというが、同協議会とは朝日新聞7面に拠れば、なんのことはない、電通、パソナ、トランスコスモスなどがかかわってつくった犇┻腸餃瓩任△襪箸いΑそして経産省は、同協議会に768億円で業務を委託し、同協議会から電通へと748億円で給付金業務が流れ、差し引き、20億円が一般社団法人サービスデザイン推進協議会に入っている。(一部の業務はサービスデザイン推進協議会が引き受けたと思われるが、額面からすれば、その大半の業務と大半のカネは共に電通に流れている。)

そして同協議会の設立にも関与していたと思われる電通が、この難しい業務を引き受けた。そんな難儀な業務を請け負って電通は偉いなぁ…と思う人は居ないでしょう。電通がいちいちコールセンター業務などを立ち上げて対処する筈もなく、結局は電通が元請けとなって、下請けに業務を投げているのは自明ではないの? 当然、ここでも電通はがっちりと利益を取れるって事じゃないの? 下請けに幾らで出しているんだろ…。そこは判然としないらいしけど、協議会のカラクリからすれば、当然に怪しい。

電通が更に業務の一部を他社に委託した可能性があるとして取材を受けた電通は「個別事案に関しては回答を控えさせていただます」としているのだという。経産省もサービスデザイン協議会も金額などについては公表していないのだそうな。

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朝日新聞29面から


政治は、大盤振る舞いをしているが、これは週刊文春がアベノマスクの裏側を報じた事とも似た構図であり、まるで「乱心」でも起こしているかのような、状況に思える。元手は税金であるが、このように使われてしまっているって事であって。コロナの厚労省絡みの専門家会議の議事録も残していない事で問題になっていますが、ホントは全方位的に「詰んでいる状態」にも思える。

「ハンコ文化の見直しを」とか「再来年度からの9月入学制移行」とか悠長な話題をテレビは取り上げたがっていますが、現在、本当に起こっている事は、IT企業への丸投げだし、実際に特別定額給付金の話にしたって紙申請ではなく、電子申請の方で二重登録が相次ぎ、挙げ句、二重に支払っていたりしますな。で、マスクの時と同様、国民からの不満の声が挙がると「請負業者が悪い。(政治家の責任ではない)」と持っていくのかも知れない。しかし、一連のデタラメな意思決定の方にこそ、混乱の元凶に見えるかな。

相変わらず「議事録はない」とか「詳細については語れない」とか「検事長の処分は法務省の意向で決められた」等、きちんと説明できない事柄のオンパレードになっている。

しんぶん赤旗は本丸は「桜を見る会」と見出しにしてある。検事総長問題なんてのは「賭けマージャン」の方へとワイドショウの関心は流れていますが、どう考えても、それで済むような感じではなさそう。一方で、河井案里議員の案件とてジワジワと…。
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井筒和幸監督の「パッチギ!」(2004年作品)を今更ながらに視聴。塩谷瞬、高岡蒼祐、沢尻エリカ、真木よう子、ちすん、小出恵介といった若い出演陣が瑞々しく活躍しており、その辺りについては見所もあったのですが、「ガキ帝国」あたりと比較してどうだったのだろうという気もしてしまったのかな。どちらも井筒作品であり、関西系の悪ガキを題材している事に差異はないが、殊に「パッチギ!」では在日の朝鮮高校グループとの懸け橋にならんとしており、フォーククルセダーズの「イムジン河」を巡る戦後日本歌謡史の空白事情を穴埋めするつくりになっていました。

オダギリジョー演じる、ヒッピーなお兄さん、「アッと驚く、為五郎」なファッションも披露し、且つ、「イムジン河」の弾き語りみたいな事もやっていましたが、既にオダギリジョーさんは俳優としては一定の土台を固めていたかのような、中々の存在感でした。

しばしば、沢尻エリカさんを語るにあたって、この「パッチギ!」が持ち出されていた気がしますが、個人的な感想としては別に目を奪った目鼻立ちのくっきりとした若手出演者があり、よくよく確認してみたら真木よう子さんでした。塩谷瞬さんや高岡蒼佑さんはたりは、正直、映画もドラマも視聴しなかったこともあり、名前と顔が一致しなかった。塩谷さんは本作では堂々たる主演俳優でしたが「誰だろう?」のまま視終えてしまった。。。




水上勉の原作を伊藤俊也監督が映像化し、小柳ルミ子が大胆な濡れ場を演じた「白蛇抄」(1983年作品)を視聴。事前のリサーチでは評価は小柳ルミ子のみでしたが、まぁ、文芸映画であるという事を承知すれば、それなりの作品であった気もする。

出演陣は、小柳ルミ子、杉本哲太、夏八木勲(夏木勲)、仙道敦子ほか。てっきり、雨月物語だか今昔ものがたりだけの蛇が取り付く怪談話かと思い込んでいたのですが、全然、違う内容でした。以下、ネタバレ含みます。

赤ん坊を抱いたまま、滝壺に身投げをし、その後は近隣の寺の住職の妾になって生きている女というのが小柳ルミ子演じるウタという女。住職はねたきり老人であり、これを若山富三郎が小汚く熱演。小柳演じるウタは、ねたきり住職の性処理係のような生活をしている。住職の息子を杉本哲太が演じており、杉本演じる住職の息子はウタに惚れている。ウタの姪にあたる仙道敦子演じる、かなりおぼこい娘は、杉本哲太演じる住職の息子に恋心を抱いている。更に、ややこしい事にウタの身投げ騒動があった際、ウタだけが救出され、石膏で固められていた赤ん坊は滝壺に沈んだまま。それを知った夏八木演じる村井刑事は、ウタに肉体関係を迫る。つまり、「あんた、ホントはあの時に生まれたばかりと一緒に心中したんだ。ホントは赤ん坊を殺している。黙っててやるからオレの女になれ」と迫る。

ヤクルトジョアでスタイルに定評のあった小柳さんの目映いヌードにばかりに話題が傾きがちですが、全編に渡って結構、どろどろな愛憎劇でありました。ド田舎の、因習に囚われている時代の、男たちの、美しい女の裸へと群れる感じ。

仙道敦子さんは12歳前後であったのだろうと推測しますが、明らかに見た目も幼く、性的魅力が低い。後に女優としても大成されましたが、この映画の中では、とくに目立つ美少女という訳でもない。小柳演じるウタに心奪われる杉本哲太演じる住職の息子に「確かに私は叔母さんみたいにきれいじゃないけど、若いのは私の方よ」と言ってスカートを脱ぎ捨てて、杉本を誘うべく床に寝そべるが、無情にも杉本演じる住職の息子は放置してウタの元へ走って行く。妖女の叔母に、その若さで対抗しようとする中学生のおぼこい少女であるが、完全に無視されてしまう。(昨今、ロリコン化というか若さ信仰みたいなものがあって、兎にも角にも若さを性対象にする風潮がすっかり定着していますが、本作で仙道さんと小柳さんを見比べてしまうと、現在がロリコンが常態化した事に気付けるかも知れない。)

滝の底には、白い布でぐるぐる巻きにした赤子の石膏詰めが沈めてある。その白い布がほどけて水中でまるで巨大な白蛇のように、のたくっている。

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