2018年07月21日

「ブラック・レイン」の感想

日本映画専門チャンネルにて「ブラック・レイン」を視聴。ずーっと前に地上波で放送された際に視た記憶があったのですが、視始めてしまったら止まらず、最後まで視聴。1989年製作でしたか。きっと地上波放送で視たのは1990か1991年頃かな。その時は、さほど面白かったという印象を持って居なかったのですが、改めて視聴みると、そこそこ見せ場は多い映画だったのだなと印象を改めました。記憶も全然なかったですし。

松田優作の遺作であるワケですが、ホント、これは率直に惜しい作品だったのだなぁ…という印象が強いですかねぇ。松田優作演じる「サトウ」なる若手ヤクザの不気味さは、作品の一つの見せ場でさえある。本来はヤンキー刑事のマイケル・ダグラスと高倉健演じるカタブツな日本人とが徐々に邂逅してゆくプロセスを愉しめるようなつくりになっているのですが、松田優作演じるサトウの凶暴ぶりが序盤から炸裂、中盤ではアンディ・ガルシア演じる刑事を襲撃するシーンは、再三再四、この「ブラック・レイン」を紹介するシーンで流されていた記憶がありますが、確かに非常に印象的なシーンでした。チンピラ上がりの新興ヤクザであるが、凶暴さは図抜けている。

高倉健の扱いも、決して悪くない。しかし、既に落ち着いていて中高年になっている高倉健であり、そちらの高倉健の味わいである。アンディ・ガルシアにネクタイを引っ張られるようにして、キャバレーの舞台に引き上げられる高倉健の図。マイケル・ダグラスと並んでいる高倉健の図。洋画でみる有名俳優と邦画のスター俳優が一緒に並んでいるという不思議な図ですが、実際に並べてしまうと、そんなに違和感もないものなのだな、と。

その他にも若山富三郎、神山繁、内田裕也、ガッツ石松、小野みゆき、島木譲二あたりを発見。

或る程度、視る側にも下地があるから、マイケル・ダグラスと高倉健がやり合っているだけでも、ちょっとテンションが上がる。お互いに反目し合いながらも、徐々に邂逅してゆく感じも悪くない。確か高倉健主演でヤクザを題材にした映画でも似たような演出だった記憶がありますが、なんていうんですかね、NY市警からやってきた刑事に対しても、日本式を見失わないで対峙している高倉健の役どころは今にして思うと貴重な気もしました。

現在、似たような設定の映画をつくるとなったら、アメリカ人に媚びまくりの日本人刑事になってしまうんじゃないのかなって勝手に想像してしまいました。ありとあらゆる事に対して、苦言を呈することもなく、従順な観光ガイドになってしまうのではないか。設定からしてね。日本というのは組織人の国、チームワークで物事を考えているのだという矜持を、アメリカ人にぶつけるような世の中ではなくなってしまったなって感じたり。

マイケル・ダグラスと高倉健とのカラミでは、高倉健が二度、三度と、忠告をする。その忠告は的を射た忠告ではあるが、堅苦しさのある組織の中に生きる日本人的な忠告である。それに対して、マイケル・ダグラス演じるニューヨークの刑事は、麻薬密売人からカネを受け取ってしまう職業倫理の持ち主である。

高倉健が詰問する。

「君たちのグループは麻薬組織からカネを貰っていたそうじゃないか。実際に君もカネをもらっていたのか?」

それに戸惑いながらも悪びれることなくマイケル・ダグラスが答える。

「ああ、もらっていたさ。カネが必要だったんだ…。離婚して、養育費の支払いにも追われてて…。みんな、やっていたさ。刑事としての給料だけじゃ苦しくてね…」

麻薬組織から賄賂を受け取っていたのが事実と知り、一瞬だけ落胆する高倉健。しかし、直ぐに表情を整えて、諭しにかかる。

「それでも、警察官として良くない事だ」

まるで、高倉健の為につくったかのようなシーンに思えました。ヤンキー気質のマイケル・ダグラスに対して、どこまでもカタブツ意識を失わない高倉健、そのコントラスト。

そしてヤクザ事情としては、松田優作演じる「サトウ」はチンピラ上がりであるが、既にヤクザ組織の大親分として君臨している若山富三郎演じる「スガイ」とも渡り合う勢いである。して、この映画のタイトル「ブラック・レイン」は若山富三郎演じるヤクザの大親分によって、その意味を説明される。

「戦争中、アンタらによって大阪は空襲にさらされた。みんな焼き払われた。そして空襲の後には黒い雨が降ってな。そして戦争が終わった。戦争が終わってみたら、日本人はみんな変わってしまっていた――」

という手合いの事を語る。「自分さえ良ければ、それでいい」という合理的エゴイズムが戦後の日本を席巻するようになり、「サトウ」のような凶暴な人物を生み出した――と。

つまり、「黒い雨が日本人を変えてしまった」――と。「黒い雨」とは一つの象徴であり比喩であり、おそらくはアプレゲール、戦前と戦後では物の価値観が変わりますが、その象徴として「ブラック・レイン」が使用されている事に気付かされる。それを語るのは、ヤクザの大親分が嘆くセリフの一節なのだ。

いつの頃よりか日本映画からは毒気がなくなり、シブ味や重厚感などは無視されがちですが、確かに高倉健や松田優作なんて俳優は、そこに収まっているだけでも存在感があったのだなと痛感させられました。




2018年07月20日

エアコンなしでは生きられない

ああ、連日の猛暑で発狂しそう。。。寝室にも居間にもエアコンがないので扇風機を回しての就寝なんですが、一昨日なんて23時でも温度計が36度だったしなぁ…。まぁ、仕事場にはエアコンがついているから最悪、そちらで寝れば済むんですけどね。しかし、既に日本では、もしくは埼玉県では

「エアコンなしで生きてゆくのは不可能だ」

と認めざるを得ませんかねぇ。

7〜8年前まで御近所に80代後半の老夫婦があって、夏でも扇風機しか使用せずに生活していて「冷房なしで、よく具合悪くならないなぁ…」と関心していたものですが、おそらく仮に存命であったなら、さすがに音を上げてエアコン導入に踏み切っただろうなって思う。我慢できるレベルではない。また、近所の60代前半の男性がカウボーイハットのようなものを被ってスタン・ハンセンみたいないで立ちで台車を押しているので、何だろうって思ったら、2リットルのペットボトルの大量買いをしたものを運んでいるところでした。文字通りの滝のような汗。滝のような汗を流してでも、冷たいものを買い出しに行かずにはいられない暑さなのだ。

「我慢できるでしょ?」とか「これぐらい我慢できる筈だ」等とは、さすがに発言しにくい。やはり、猛暑日、猛暑日、猛暑日が平気で連続し、夜間もコンクリート化、アスファルト化によって熱がこもってしまっているイヤらしい暑さなのだ。松田優作&熊谷真美というキャストで放送された1983年製作のテレビドラマ「熱帯夜」の再放送を視聴した際に気付いてしまったんですが、かつて25度以上の夜を【熱帯夜】と呼んでいて、その程度の暑さなのに「寝苦しい」と言っていたんですね。現在ともなれば夜の気温が25度なんて羨ましいレベルですよね。25度なんて扇風機なしで余裕で寝られるし、熟睡できる快眠な環境だよなって思う。

しかし、テレビが発している次元で「学校にエアコンをつけるべき」に白旗を上げて投降するのも何だかイヤですね。つい先日、テレ玉で所沢市長が出ている番組がありましたが、学校エアコン問題というのは一筋縄ではいかず、設置しようとすれば全校&全教室に設置する必要性が生じてしまい、設置費も膨大なら、電気代ほか保守費用としての維持費もバカにならず、そこに頭がいっていれば、悩ましい問題なのだ。「今の時代にエアコン導入に反対している人が居るなんて信じられない」というテレビの中の住人の、その経済感覚とは違うのが実際の現場なのでしょう。

しかし、その「反対する人が居るなんて信じらない」という反応というのが如何にもオモテナシをされる事に慣れてしまったオモテナサレ民の発想で、ちょっと引っ掛かるんですね。そりゃ、誰だって消費者の立場、或いは学生の立場からすれば

「何故、今の時代にエアコンを設置してねーんだよ、バッカじゃねーの!」

とは当然、言うでしょ。率先して言いたいワな。

しかし、自治とか行政参加意識を加味しての、当事者意識としてどうかとなると、当然、導入する経費や、その後も維持してゆく事で恒常的にかかる経費を意識せざるを得なくなるんですな。テレビ局のように平均年収が1200万円超なんていうセレブリティーな人たちじゃないワケで。「こどもたちが可哀想と本気で嘆いたり怒っているのであれば百万でも一千万でも寄付してくれればいいのにな、チッ!」っていう心性は実は私ぐらいの田舎者だと理解できてしまうところがある。ホントに階層が違ってしまているからねぇ。

貧すれば鈍するじゃなくて、豊かになった者が都合よく過去を忘却して、鈍(どん)している。もしくは貧してしまったからこそ収支に怯えざるを得ないという次元もあるのであって鈍している。それこそベーシックインカム法施行なら大賛成してあげられるけど、成立したのは国営カジノ法案ですやね。それこそ「国営カジノ法案に賛成してるなんて信じられなぁぁい」という気分だってある。生活状況にかんがみると利益を上げるハードルが高くなっている環境下で経済活動をし、そこから税金を納めているという意識を持っていると、軽々に「反対する人が存在するなんて信じられなぁぁい」という言い回しには、ちょっと違和感を感じたりするするのが現実であって。

ホントは多くの社会人は、自分たちが受けて来た仕打ちを、そのまま後発の世代に押し付けているワケではないと思うんですね。ホントは現在よりも酷い抑圧的な社会の中で生きてきたが、少なくとも幾分かはマイルド化させているのが事実であろうと思う。但し、暑さに対しては論外。現在の暑さは、過去に耐えきった者はいないという種類の殺人的な暑さであり、そうであるから何かしらの決断を下してもいいという思考プロセスを辿る。だから、「反対する人が居るなんて信じられない」といった言説に対して、若干の違和感を感じるのでしょう。

ホントは、もっともっと無茶苦茶な精神論が支配していた事を忘れて欲しくないんですね。

「心頭滅却すれば火もまた涼しという言葉を知っているか? 暑いと思うから暑いのだ。精神がなっちょらん!」

「先輩っ、新入部員の何某がトイレで隠れて水を飲んでましたっ! ペナルティを与えましょうっ!」

「何っ、水を飲んでいただと? 水を飲んだらバテるっていってるのに何故、そんなことが分からんのかっ! キサマ、うさぎ跳びでグラウンド一周してこいっ!」

「――オレ達はな、オマエの為を思って水飲みを禁止しているというのに…」(←大ウソ)

「日射病だと? 昔でいうところの霍乱か。根性ねぇな」

「暑さでキモチワルイから木陰で休ませてくださいだと? ぶったるんでるからだろ? そんな風にチンタラチンタラ、練習やってっから、気分が悪くなるんじゃねぇのか?」

「水が欲しい? けしからん、泥水をすすって草をかみという唄を知らんのか? それだけで10日も我慢したという歌があったんだぞ! 馬だって泥水と草でなんとかなっておるというのに!」(←かみなり連隊長)

とか現在の常識とは真逆の理屈で、精神的虐待を恒常的にやっていた筈なんですけどね。しかも、それら精神論に従がっていた人たちが、大多数だったのが現実であり、真実なんですね。そんなのが大多数だったのに、現在ともなると、これが物凄いレベルで手のひら返しをしているように見えるんですね。

とんねるず石橋さんと古舘伊知郎さんとが対談している番組を視聴した記憶があって、やはり、その話をされていました。無茶苦茶な精神論を上級生から受けていたのに、自分たちが上級生になった頃から下級生に対しての威張り散らしが制限されるようになったが、内心、「オレたちが下級生の頃にはもっと酷かったのにという思いがあるので、やりきれないものがある」というニュアンスでしたかが、コレですね。この感覚は、大きかれ小さかれ、ホントは多くの者が抱えていると思う。それらをパッと一瞬で忘れるべし、頭を切り替えるべしというのは、頭では理解できても心の奥底ではくすぶり続けるというのが現実でもあるのでしょう。(或る意味では、この仕打ちを受けて育った者は、すべからくポンコツであるという視点も有り得る。私も含めて勿論、ポンコツで、しかも、このポンコツな世代の人たちが8割や9割の可能性があるの意です。それらの過去を忘却して「信じられなぁぁい」等と他人のフリをしてしまっている事に対して、色々と複雑な感慨を呼び起こすもので。)

何が言いたいのかというと、暗に他者の意見を大袈裟に却下したりする者に限って、その実、手のひら返しも凄いという事。それに対しての違和感ですかねぇ。また、「ロボット三等兵」に登場したカミナリ連隊の連隊長や「東大一直線」に登場した血見太鬼ノ介のような抑圧的精神論は、常に支配者側の方から登場する何かであるという事にも留意すべきなのであって。

既に浮遊霊だらけ?

昨日、展開させた渡邊博史著『生ける屍の結末』(創出版)の補足ですが、あの仮説の信憑性を考慮すると、実は既に現代人の多くは浮遊霊なのではないかってなってしまう。実際、ストレスを感じることなく生活できている人なんて稀でしょうし、そのストレスを健全な形で昇華・消化できているのかと問われると、誰しもが自信を喪失してしまうものなのではないのか――と。

無意識のうちに弱者を叩く他罰的社会となり、何かしらの消費行動に夢中となり、実際に平成に生きている現代人の8〜9割、或いはそれ以上の割合で現代人は、そのように生活している。

これは中々に衝撃的な話であるかも知れませんよね。親から体罰を受けた経験がある者、教師から体罰を受けた経験がある者、そういう者は年齢を遡れば、そんなに珍しくもなくなってしまうし、現在の中高年世代の中には一億総不良化時代と呼ばれた時代に青年期を過ごした者だって少なくない。だから、誰しもが実はトラウマを抱えている。通常、その程度の「心の傷」については殊更に強調して【トラウマ】等とは言わないし、実は本人の自覚からしてもトラウマ体験ではない。しかし、その基準は、その者もしくは、その世代の持つ主観によって形成されているものでしかない。仮に、これを現在語られているところの基準に修正してしまった場合、平成に生きる者の8〜9割が一定の具合でポンコツであるとして、それについて「生育環境が影響している」に反論できなくなってしまうんですね。

「いいえ、私はポンコツなんかじゃありません!」

と思うかも知れない。しかし、それは自覚とか自負、或いは社会的地位を評価基準にした場合の「ポンコツではない」という主張であり、「では、ホントにあなたはあなたの生育環境は満たされていたと思いますか?」と質問された場合に、「はい。私は何不自由なく育ちました」と返答できる中高年がどれだけ居るかって話になってしまう。

ホントは右も左もポンコツだらけなのではないか? ポンコツな社会、ポンコツな教師たちがポンコツではない教育が可能だっただろうか? つまり、

「トラウマなんて誰だってあるじゃん」

という感覚は、既に欠陥品による人間観である可能性があるのだ。勿論、世俗の観点からすればトラウマだと自覚されていないだからトラウマでもないし、そのトラウマによってその人がポンコツであるという事を証明しようはないのだけれども、爐修硫椎柔がある瓩箸いΔ里結構な衝撃だなって思う。

「オレは精神異常者じゃないぞ!」

と叫んでいる者が居たとして、その人が客観的に精神異常者なのか違うのかは見抜きようがない。「オレはポンコツじゃない」と思っていたとして、その人が客観的にポンコツではない根拠を見い出すのは難しい。ここには相対主義の問題などもかかわっているから、誰も絶対的な事は言い難い部分なのだ。

うーむ。発達障害であるとか、アダルトチルドレンであるとか、あのあたりの症例などって多くの者が「あれ、オレも当て嵌まっちゃうじゃねーか。下らん! まったくもってくだらん!」という反応を、内心の片隅ではしているのだと思うんですね。しかし、ここで改めて、自分はマトモなのかというと微妙といえば微妙な気がしないでもない。それこそ、多くの者は「人間、辛抱だ」というテレビCMがあったように辛抱する事を美徳とし、我慢する人が称賛されるという価値観の中で育った日本人が多いのは現実なんですよね。

ホンネを言えば、授業中に挙手して発言するというタイプの模範的な優等生を心の中では軽蔑していた者だって少なくないと思う。「そんなに先公に媚び売ってんじゃねーよ」ぐらいに。で、80年代後半頃のアイコンであるというキョンキョンも「渚のハイカラ人魚」の中で「♪男の子って少し悪い方がいいの」って歌っていた通りで、尾崎豊風に言えば「♪行儀よく真面目なんてクソくらえと思った」という時代があったのだ。旧態依然とした我慢することが美徳であるという旧式の美徳を破壊しに行った80年代後半の何かであったとは思うものの、それが何かを成し遂げて成功の果実みたいなものをもたらせたのかというと、そうでもなかったのだろうなって思う。

辛抱強い日本人、我慢する日本人、協調性で戦う日本人、既に、その辺りからして間違っていたのですと言い出してしまうと、もう、日本人論なんてどうでもいいやってなってきません? 西洋文明基準で語られてしまったら、そりゃ取柄なんてないでしょ? 実際、日本語を話し、日本で生活してきたんだから。それが否定されてしまうというのが、なんとも自己同一性がないって事なんでしょうねぇ。

しかも現実問題として日本の場合ってのは、そういう精神論でやってきたところがある。戦前戦中は勿論の事、戦後でさえ、そこそこ強烈な精神論を掲げていたのは事実なのだ。その社会は「恥の文化」に示されたとおりで、恥と感じる感覚があるから、些細な公共道徳は高かったのでしょう。また、これは現在でも重要な指針であろう「他人に迷惑をかけない範囲での自由を認めよう=他人には迷惑をかけるべきではない」という価値観の中で、70〜80年代、或いは90年代もそうだったのだ。

それが突如として変貌してしまったのは「トラウマ」等の実証のしようもない精神的苦痛を声高に訴える環境となり、そういう社会に移行してからなんですね。過剰な精神論による支配で抑圧的な事から解放された事は歓迎すべきなんですが、度々、問題になるような爐覆鵑燭薀魯薀好瓮鵐鉢瓩陵屈なんてのは「傷つきました」とか「迷惑です」と自己申告さえすれば、それが正義になってしまうかのような、非常に奇妙な理屈で、しかも、その勢いが止まないんですね。こうなってくると、最早、我慢だの忍耐なんていうかつての美徳は関係なく、むしろ、巧妙に言質を採って相手を攻撃して、権利を勝ち取った側が正義になるという訴訟社会型の価値観になってしまっていますやね。つまり、バカみたいな精神論的抑圧から解放されたと思ったら、ほぼ同時に言論マフィアのような自己申告、自己宣言による攻撃型、一部は先鋭化して対象者への排除をも厭わぬ攻撃的な言論が平気で飛び交うようになってしまったという事であろうと思う。

しかしね、この【トラウマ】論は、やはり、過大だと思う。ホントは、誰も彼もが大なり小なり心の闇を抱えて生きていると考えた方が、説得力がある。「心の傷、心の闇を抱えている者は不健全ある」、「不健全な生育環境にあった者は潜在的にポンコツでしかない」というのは、「心に闇がない」ことが健全であると考えてしまっている時点で怪しい。体罰を当たり前にもらう時代に育ちながら、それでいて、それを体罰は必要最低限度にとどめるべきという態度が多数派であるという現実は理解されているのだろうか。ポンコツ呼ばわりしてるけど、ホントは他者の痛みを知るには、心の傷も、痛みも、闇も持っていないといけないんじゃないの? 余計な苦労はさせたくないけど、苦労知らずのバカになって欲しくはないって事じゃないのかな。

その問題を乗り越えるにあたって、「多かれ少なかれ、人は心の闇を抱えている生きているものである」という仮定してみてはどうか。つまり、完全なる健常者なんてものは存在しないし、完全なる異常者なんてものも存在しない。全員が全員、その中間に置かれた存在でしかない。育ちのいい者もあれば育ちの悪い者もある。それだけの話ではないのか。「心に闇を抱えている事」、それを否定的にしか語れない見地が、この健常か異常かという指標をつくりだしてしまっているような気もするんですけどねぇ。

しかし、若年世代はこういうのに飛びつく可能性があるのかもなぁ。お笑いコンビ・オリエンタルラジオのネタで「パーフェクト・ヒューマン」というダンスパフォーマンスがありましたよね。ああいうものの中に、カッコ良さを見い出そうとしているのかも知れない。ネタとしては感心しましたが、あの歌詞が述べているところの「パーフェクトなヒューマン」が気になる。【グレイト】とか【立派】とか【偉大】とか【リスペクト】とか、もの凄く抽象的な尺度で、人間の価値をグレイトかグレイトじゃないかという風に、感じ取っている可能性がある。そのまた逆に皮肉っている可能性もあるんですが、どことなく嫌な予感がしているのは、一つの指標であるとかレッテルによって高低が図れるものだという考え方が、広がってしまっているのは確かだろうなって思う。健常か異常かに似ている。つまり、多義的とか多用性とか、そちらではないベクトルで物事を捉えるようになってきているな、と。

ussyassya at 00:11|この記事のURLComments(6)雑記 

2018年07月18日

情報渦の中で取り敢えず中心を置く

情報渦時代なので、ホントは情報の取捨選択が難しくなっており、その意味では多種多様な意見に触れるという事が、物事を客観視する事、それに近づこうとする態度だよなって考えているんですね。なので、いわゆるマスゴミ論は一貫して採っていないし、インターネット上で見掛ける機会が増えた情報強者&情報弱者論にも違和感を持っている。

スマホを利用している者は、スマホを利用しない者を情報弱者と決めつけ、ツイッターならツイッター、LINEならLINE、インスタグラムならインスタグラム、その他のSNS、或いはインターネット全般、それらあらゆる部分で、その利用者が自分たちの優越性を語るワケですよね。「えー、いまどきツイッターもしていないなんて!」と本気で自らの優越性を説いている姿を見掛けると、ちょっと複雑な気分になる。実際に情報デバイスの利用によって強者と弱者があるにはあるのだけれども、結局は読み手によるリテラシーがあるし、情報にも犲銑瓩箸いΔ里実際にはあるワケですよね。

で、マスゴミ論の中には、過剰にインターネット空間を評価してしまっているものがあって、インターネットがあるのだから新聞やテレビは時代遅れ、既に不要である、オワコンであるぐらいの勢いで語られている事がある。しかし、そのレベルで情報の取捨選択を出来ている者なんてのは、千人に一人とか万人に一人とか、兎に角、そういうレベルの人じゃないと不可能であろうなって思う。何故なら情報渦時代だから。偏ることなく、情報を得て、自分なりに理解してゆくとして、殆んど宇宙にも等しいインターネット空間から、客観的材料となり得る必要な情報だけを取捨選択するのは至難の業だろうなって思う。そこは、殆んど宇宙空間のような広がりがある世界でもあるから。

インターネット空間の情報渦というのは、それを理解できていないと、その者は偏った情報ばかりにアクセスし、その偏った情報の中で自らの倏知瓩魴狙してしまう可能性が高いワケです。いわゆるネトウヨと呼ばれる層は、おそらくはネトウヨ的な情報ばかりをインターネットで追ってしまい、それが、その人の狠劉瓩箸覆蝓知の体系として定着してしまうワケですよね。しかし、それをやってしまうと、或る時期までの自虐史観一辺倒だった時代のそれと同じ誤謬に嵌まって自己都合で物事を理解しがちになってしまう。

例えば南京事件、南京大虐殺が無かったならば何かと都合がよいので、おそらくは無自覚なまま、そちらの情報へのアクセスばかりに偏ってしまうという事が起こるのでしょう。なので「数字が明らかに過大である」という秦郁彦氏あたりの歴史修正主義をかるがると飛び越えて、「南京大虐殺はそもそも無かった」と言い出すことになる。虐殺の定義を争点とする論争に持ち込めば持ち込めなくもないワケですね。しかし、そうなってしまうのは、そう信じることは自己都合として心地よく、且つ、その論陣の中で勇ましい論陣を張れば張るほど評価されるというプレミアムが付くので、そちらに靡き易い事情がある。なので「すべては便衣兵による謀略であり、旧日本軍は嵌められたのが真実である。反日マスコミは真実を報道せよ」といった具合の、その型の歴史認識が出来上がる。

しかも、そこに【フェイクニュース】というキーワードが重なる。正しい情報のようにみせて、その実、ダマされてしまう可能性もあるのだ。日本国内でも平成のベートーベンが登場、どう括るべきか悩むところですが、一定の人たちは、「世界に誇るべき盲目の天才作曲家が平成の、このニッポンに存在する!」と、かなり大袈裟に騒いでしまい、その後に例の替え玉の事情が発覚したのでした。また、STAP騒動にしても途中からはシャレにならないレベルの迷走がありましたよね。半ば、これはこういうことであったのだろうという、ほぼほぼ断定に近い推測が登場した段階になっても、尚、執拗に「彼女が嘘をついているとは思えない。オレは彼女を信じる」という人たちも少なくなかったワケですよね。リテラシー? 認知バイアスに振り回されて信じたいものを信じてしまっているだけというのがホントでは? オウム真理教問題にしても【カルト】の問題とし、実際のところは「カルト≒危険集団」と括って語られているのが実際であろうと思う。オウムの教説のどこがどう問題だったのかを話してみろと言われたら、みな、戸惑うでしょ? 一定レベルでは確かに仏教的な教義でもあるのだから。

それらを考慮すると、情報渦宇宙の中にあっても、ひたすらに相対化された偏在の地点から物事を眺めていても埒は明かない。一定の客観を模索する必要性に迫られてしまう。その目星をつけないことには偏在の中に埋没してしまうと考えられるワケですよね。なんだったら異なる意見に接し、それを吟味し、おお、やはり、これはこうであろうなという具合に自分の中で確認作業をした方が賢明でしょう。新聞でもテレビでも似たことが言える。「この人は、何を言おうとしているのか?」を揚げ足を取るではなく、素直に読み取れば、その主張しようとしている事柄は読み取れるかも知れないし、その上で賛同もあれば違和感を抱くこともあるという事ではないのか。

渡邊博史著『生ける屍の結末』(創出版)は、いわば犯罪者が書いた書籍である。しかし、後半まで読み進めてゆくと、色々な謎が解けてくる。犯罪者が書いた文章は自己弁護に陥りがちであろうと先入観を持つわけですが、そうでもない。自己評価が極めて低い人物である一方で、鋭い頭脳の持ち主でもあり、斬新な社会分析を披露しており、それに驚かされてしまう。たとえば、「世の中は他罰的にになった」という視点があると思うのですが、その理由を著者たる「生ける屍」氏は説明できてしまっている可能性がある。

【浮遊霊】という独特な言葉を使用して、おそらくは孤立化して社会の中で漂流している現代人を分析している。既に多くの現代人は、その浮遊霊であり、その浮遊霊の型として、オタク型、ネトウヨ型、そして自殺志願者型の三つの類型があると分析しているのだ。

オタクとは、客観的には搾取されているが主観的には幸福な人間であるという。オタクな世界に埋没しているという意味で、それは幸福であろうという。

ネトウヨとは、客観的には搾取されており、不満も持っているが、その不満をシステム以外のものにぶつけている人たちであるという。

自殺志願者も、客観的には搾取されており不満を持ってはいるが、努力教の信者であるが故に努力が足りないと自分を責める人間であり、この努力教の信者は潜在的に多い――と指摘しているのだ。

また、オタクの類型には、狭義のオタク、つまり、アニメオタクやゲームオタクに限定することなく、いわゆる「パンとサーカス」に熱中する人間も含めるとしている。ミーハー趣味な人、或いはパーティーぴーぽーのような者でさえも構造的には「社交的なオタク」とも言えるという事かな。

して、これらの浮遊霊は、システムによって供給されたものであるとしている。(以下、着色文字は引用です。)

システムが巧妙なのは、このサーカスの木戸銭すらオタクから徴収していることです。オタクは完全にシステムの養分です。

ネトウヨは不満をシステム指定のゴミ捨て場に捨て居るタイプです。ゴミ捨て場は「反日国家」や「売国奴」です。


オタクもネトウヨも、その根底には努力教の信者であるが、自殺志願者になる努力教信者の場合は不満を自分に向けている事であるという。オタク化してストレスを昇華する術もなく、ネトウヨ化してストレス発散をする術もない者が、自殺志願者化するという。システムは、大量の負け組を生み出しているが、努力教信者の中には、負け組になったことで、その境遇に不満があっても、その不満を自責に向けるという。

「努力教」は全ての現象を個人の努力量の多寡のみに帰結させて世界を理解する教えです。ですから負け組になってしまって、その境遇に不満があっても「自分自身の努力が足りなかったから」と原因を理解します。そして自分をひたすら責め続けます。そのような人がどうしても耐えられなくなった時には社会から退場する手段として自殺を選択します。

これは、この著者が、自分自身を「埒外の民」という視座に置いていて、その視座から分析して語っている部分なのですが、確かに鋭い指摘が含まれていそうだなという手ごたえを感じなくもないんですよねぇ。

で、それら自殺志願者の中から、いわゆる「無敵の人」が登場する事になる。既に彼等の心性は完全なる敗北者の心性であり、「死刑にしてくれ」と云えてしまうレベルの心性の人なのだ。その次元になると憎悪の対象を絞る必要性はない。つまり「あいつは許せない!」といった思考回路さえ持っていないのが、いわゆる猝掬┐凌有瓩箸い事になるのでしょう。

浮遊霊であった人が突如として、魂が入ってしまい、現世からの退場を願って、無敵の人の境地に達する。怖いものなど何もないので、無差別事件のような凶行を起こすというワケか。

ああ、まさしく、祟り神の世界なのだなぁ…。




私なりに少し用語を整理すると【オタク】とは「与えられた選択肢の中から選択肢を選び、それを満喫する事で満足する者」かな。【ネトウヨ】は別に右翼思想に固執することもないのかも知れませんが要は「体制批判、体制システム批判に真正面から向かうことなく、体制下に身を置き体制批判者を攻撃する事でウップンを晴らしている者」になるのでしょう。そのようにシステムによって供給された敗北者としてのストレスがあり、オタクは選択肢の中で不満を忘れる事でストレスを昇華し、ネトウヨは劣位者に不満をぶつけることでストレスを昇華している。どちらにもなれず、不満を自責に向かわせてしまう者が【自殺志願者】というタイプになるという。

この自殺志願者というのは「ニヒリズム的な帰結」とすべきなのかな。「世の中が間違っとるんじゃ!」という社会憎悪に向かえば分かり易い形での反社なテロリストになるし、その度胸がない場合には「これは社会がおかしくないか?」と声を上げる隠棲者として生きる事もできる。しかし、そうならずに「自己の努力が足りないせいだ」に帰結してしまうと、システムによって供給されたストレスを消化できずに自殺志願者となる。

更に、自殺志願者タイプの中から「死刑でいいです」という思考型を持つ猝掬┐凌有瓩稀に登場する。この無敵の人は、情熱を燃やして世の中を変えてやるというベクトルではない事で、「この社会からボクは退場すべきなのだ」と考えるタイプの人が、いわゆる猝掬┐凌有瓩砲覆襪箸い事かも知れない。

2018年07月17日

次にくる世界は〜分断される民衆と超権力

インターネット上で何件か気になる記事がありました。NHK−BSが放送していたらしい「欲望の資本主義」がチラホラとあり、NHK−BS放送を視聴できない環境なので、それら視聴録に惹かれたのでしたが、凡そは、現行のマネー資本主義の不都合な事実を描いたものであったよう。察するに、それらは西部邁、佐伯啓思らを引用して展開していたものとダブるような印象でしょうか。

また、スティグリッツの発言とされていたかな、「インターネットがもたらせたもの」として、それを物流革命といった具合に指摘していたという。これは言い直すと、インターネットの登場は情報革命の本丸であり、世界が変わると語られてきたが、実際に変革が起こったのは物流革命と呼ぶべきものに過ぎなかったという見解でしょうか。これを、平たく言えば実店舗を有する販売形態がネット通販にシェアを大幅に奪われたという現象に顕著なのかな。そして実際に起こったのは貧富の拡大で、グーグルやアマゾン、或いはフェイスブックなどの覇権的企業が登場し、実際に世界的にも富の独占が進行した――と。

ああ、そういう視点は知りませんでしたが、言われてみると、インターネットの登場、その技術革新を評して、そう展開できるというのは初耳でしたが…。

うーん。例えばファストファッションで言えば、ユニクロとしまむらの快進撃の20年があったワケですよね。しかし、今後、どうなるのかというと、やはり、そういう事が起こり得るという事か。いやいや実店舗でショッピングをするというのは、或る種の娯楽でもあるから無くならない? いやいや、これは微妙かも知れませんやね。怖ろしいことに、書店で買いたい書籍を物色して、立ち読みしておきながら実際の購入ではアマゾンを利用するという購入方法を取る消費者も実在するからなぁ…。やはり、ネット通販というのは或る種の脅威であって、それを推進せんが為に中国あたりでは電子決済システムを先行的に導入しているとしか思えないんですよね…。しかし、これをやってしまうと、どんどん富は富める者のところへと集まり出してしまう可能性があるって事なのかな。


ごくごく他意のない次元の話として、20年前には、しばしば狎源裟瓩砲弔い凸笋錣譴討い唇貉期があったと思う。つまり、「その仕事は生産性があるのかね?」といった具合に。しかし、そのぅ、これ、例えば「介護ビジネス」というものが登場して、地方の寒村であるとか、或いは郊外では、雇用の受け皿として定着している。しかし、これ、他意はないものとして「その仕事に生産性はあるのかね?」と問われた場合、どう考えるんだろうなっていう問題があると思う。これは平成12年に介護保険法が施行され、原則として65歳以上で介護が必要な人には1割負担で介護サービスが受けられますよという、そういう社会保障制度の上に成立している何かなのだ。これをビジネススキームと見るのは邪道ではあるのですが、実際、それなんですね。政治がつくってしまった金銭循環システムであり、仮に保険料負担や国庫からの資金提供がなくなってしまった場合、それは自由主義的な市場原理として回るスキームではないんですよね。

ここで【社会主義】という言葉を使用するのが一般的なのだと思いますが、実は違和感がある。【社会保障】の起源は1935年のアメリカの社会保障法であり、実は自由主義(リベラル)の側から出て来た概念なのだ。私が目にしている大杉栄の時代の社会主義には真髄として「働かざるもの食うべからず」が掲げられているし、或いは毛沢東にしても「白い猫だろうが黒い猫だろうが働く猫はいい猫だ」といった具合の社会主義精神であったのだ。巷間、社会保障や福祉をサヨク思想と云っているけど、実際にはリベラルがリベラルを肯定する為に生み出してしまった何かでしょう。

また、【社会保険】という制度の登場は、1886年に成立した「疫病保険法」なる医療保険制度が起源で、それはドイツで成立したものであるという。こちらには幾分か社会主義の理念が刻まれていると考える事も出来ますが、何分にも厄介なのは、それらが社会主義イデオロギーであるが故に公的保険として強制的に為されてしまっている事であろうと思う。これが単純な医療保険に限らず、現在ともなるとると、その所得を保障するという種類の社会保険制度まで拡大してしまっているんですよね。しかも強制性を帯びて、ですよ。

民間の損害保険会社の場合は契約するもしないも意志決定があるし、その保障内容が見合うものなのか否かは、各自が検討し各自が契約を決める。しかし、今日的な日本の社会保険、社会保障は公的保険として行われてしまっているんですよね。税金からも拠出しているけど、税金とは別個に社会保険料も取られている。社会保険料で財源を確保するのが社会保険制度の原理なのだけれども、老齢年金と同じで高齢者の医療費や、介護に係る介護費用というものを、各種保険料では賄えていないし、今後も賄い切れる筈がないであろう厳然たる重たい事実が転がっている。

「欲望の資本主義」の中でも資本主義が発達してゆく中で社会主義的になるというシュンペーターらの指摘に触れたようですが、まだ、社会主義思想が固まり切っていなかった段階のそれと照応すると、イビツな形になっている事に気付かされる。生活保護に顕著ですが、生活保護を受けられる者の場合は医療費も免除となり、おそらくは老齢年金に係る納付も免除せざるを得ない。その一方で、貧しい者に対しては高騰する税負担と社会保険料負担を求め、しかも滞納があれば利息も徴収するし、悪質なケースがあれば刑罰さえ用意されているワケですからねぇ。

生活保護バッシングをしているんじゃありませんよ。その差、その差を容認している奇形的な社会保障制度を問題だと言いたいワケです。貧乏人は犯罪者よりも悪として扱われている気がする。犯罪者には手厚く更生プログラムなんてものを施す一方で、貧困者や低所得者に対しては容赦しない。変な話、余計な税金や保険料の支払いがなければぎりぎりで生きているかも知れないのに、罰則つきて徴収するようになっている。これなどは、きちんと負担させてしてしまうが故に生活に回せる資金が残らないという新しい貧困になっている可能性だって疑うべきだと思う。また、生活保護というのは猝椶料阿砲△詆郎ぜ圈現に貧困に窮している者に対しては扶助すべし瓩箸いΦ濾呂陵念、その救貧の原理から形成されていて、これは一定以上、人間中心主義に適っていると思うし、直接的で原点としての扶助の精神で、本来であればおおいに肯定すべき理屈なんですね。しかし、これを犧栃配論瓩箸猜配論瓩箸いΧ餽腓冒箸瀘てていく中で、手前味噌な正義がつくられてしまう。

察するにアナーキズムとマルクス主義が分裂する以前の社会主義思想と大雑把に括っていた時代には、相応に自由主義を実現し、その次に平等を掲げていた事に気付かされる。自由と平等、そこで平等を最初に掲げるサヨク思想は、それを選択したサヨク思想であるのに対して、アナーキズムは自由を掲げて、自由の中に平等の実現の余地があるとしていたかな。プルードンあたりの理屈だと。しかし、現行のリベラル(自由主義)陣営が掲げている福祉や社会保障は強権的配分論者であり、その体制を維持する為の方便として福祉や社会保障を人質にとってしまっているように見えなくもない。

例えば、慈善団体があるとする。その慈善団体は寄付を募り、それを貧困に喘ぐ海外の子供たちを助ける為と謳い募金を集める。しかし、その慈善団体は、その集めた募金の中から自分たちの人件費を含めた経費を差し引いてしまう。年収1千万円の慈善団体の職員が年収3百万円にも満たない者から募金を集め、その善意として集まった募金から自分たちの生活費を差し引いて、貧困に喘ぐ海外の子供たちの援助に充てている。これは、どうなんだろう。経費として差し引く分は、極めて低くあるべきではないのか、それは当然、指摘されて然るべき疑問だと思うんですよね。しかし、格差社会にしてしまった以上、募金などに現れる善意もしくは扶助の精神は、非常にタイトなものにならざるを得ない。準貧困者が生活保護受給者に対して、嫉妬してしまうのは、実は制度的な必然に思えるんですね。で、そうしておきながら、「生活保護バッシングをするなどというのはけしからん!」というのが当代リベラルの特徴なのだ。つまり、そのように分断を喚起し、誘導しておきながら「民度の低い連中によるルサンチマンだ」のような事をリベラル陣営が云っているだけに思える。そこまで高尚な善を説くのであれば、そもそも集めた募金から自分たちの人件費をも含めた経費を差っ引くことを恥じたり、辞めるか、取り分を減額してはどうか? なんというのかな、既に構造的、システム的としてイビツさ、手前味噌な正義を認めるべき段階に入ってしまっているのではないのかなって思う。

上記は、うっすらユニセフ批判ですが、世界遺産の認定をしているICOMOS(イコモス)や、オリンピック運営のIOCも似た構図を持っていますよね。富士山が世界遺産に認定され、熊野古道が世界遺産に認定され、それによって経済効果が見込めるので目出度いという。しかし、ホントに美しい風土を残そうとするのであれば、観光地化して、経済効果を見込むという行為はおかしくないだろか? 単純に、その自然の景観や風土、自然環境を愛し、それを保存しようとするのであればリゾート開発であるとか、観光地化は逆効果なのではないか。多くの外国人旅行者を呼び込めばトイレの問題もゴミの問題も必然的に起こるし、外来種の生物やら種子やらを持ち込み易くしてしまっている行為にも思える。思えば、近30年ぐらいでブルーギルだのブラックバスだのが増えすぎたとして駆除していたりするものの、そういう事態を惹起させたものは何であったかと思う。現在ともなると用水路にいる鯉にしても外来魚であるという認識らしいものの、ホントは、まだ、里山や田園が残っていた30年前の環境であれば、メダカはそこら中に居たし、埼玉の片田舎なんてタナゴは農業用水路で簡単に採れたのだ。実際、世界遺産に係る話は誰も批判をしないものの、それでいて文化遺産ではなく自然環境に係る事柄、そちらは自然環境や風土というものを商品化しているという事ではないのか。

IOCに関しても同じで、五輪開催地を決定する権限やら、開催・運営する権限を根源にして、強大な利権構造をつくれてしまっている。賄賂が横行していても、オリンピックを見たい人たちは黙認だし、誘致合戦には賄賂は付き物だとして、賄賂の存在が確認できても公権力が意図的に、これを無罪放免に処すような社会になっている。その根性は田舎の土建屋と、招致委員会の紳士風の人物も中身は一緒ですやね。「理」に鈍感である一方で「利」には敏感。司法にしても権威者の味方をするばかりで、法の精神を捨ててしまっているように見える。

池袋がチャイナタウン化したといい、埼玉県蕨市がワラビスタンになり、川口市、これは西川口限定なのかも知れませんが既にチャイナタウン化が進行していて、飲食店に入ると日本語しか読めない者がキョトンとしてしまう街並みになったという。時代の趨勢が、そのように傾斜したのであれば仕方のないところもあるのですが、ちょっと引っ掛かるのは、それらはホントに民意と合致する民主的手続きを踏んで行われているのかどうか、ちょっと考えてしまう事がある。無理矢理、「正しい」とされている国際世論的グローバリズムに盲従させられての結果にも思えてしまうんですよね。

欲望の資本主義原理が経済格差を拡大させ、尚も経済合理性を至高の価値観として、日々、経済合理性の追求を普遍善として取り扱っているワケですが、これらの事情がアメリカに於けるドナルド・トランプの台頭を招いたのは猜断瓩塙佑┐蕕譴襯錺韻任垢、その猜断瓩鮠靴い燭里蓮△修譴蕕瞭帆嬰正義が根底にあったからではないだろか。

世界情勢は分岐点に差し掛かりつつあるようで、テレビの解説などを視聴して、そう思う。米中貿易戦争は、半ば荒唐無稽な展開である。BSフジの「プライムニュース」を視聴していたら、木村太郎氏は次世代を見越せば中国に擦り寄ってゆくしかないという意見を述べ、櫻井よし子氏は今後も引き続き米国に寄り添っていくしかないという。日本の場合、既に国際情勢を鑑みて日和見するしか具体的な視座がない事を暗示しているようにも感じさせられましたかね。具体的に採るべき選択肢を探るとそうなってしまう。一方で、そもそもからして、この国際秩序は限界なのではないかと指摘することも出来てしまうと思う。

池上彰さんが番組名は忘れましたが、香港の民主化運動家、つまり「香港のジャンヌ・ダルク」と紹介されたアグネス・チョウさんにインタビューを敢行していました。香港の民主化問題の場合、敵は強大な中国共産党政権もしくは習近平政権であり、「強大過ぎて、怖くないですか?」と池上さんが質問していましたが、その通りなんですね。政治思想としては香港にしても民主的な自治が為されることが好ましいと多くの者が考えている。しかし、情勢は、そうなりそうもない。強い者が当たり前に支配体制を固めてゆくというモードに入ってしまっている。武力行使を要しての戦争らしい戦争は始まっていないものの、既に貿易戦争は起こっている。おそらく今後の展望というのは、強者が強者である事を当たり前とし、その強さを背景にして、自分たちに有利な正義を押し付けてゆくことになってゆくんじゃないのかなって思う。

追記:そうそう。アグネス・チョウさんの演説シーンも少しだけテレ東で流していたのですが、正攻法だなという印象を受けました。彼女の存在は「香港のジャンヌ・ダルク」という異名の通り、或る意味では香港に於ける猝閏膠親阿離▲ぅ灰鶚瓩砲覆辰討い襦L閏膠親阿箸いΔ自由主義運動というか、その存在が象徴になっているの意です。そんな彼女が、どのようなパフォーマンスをしているのは気になるところでしたが、扇動的でもなく、パフォーマンス優位でもなく、正攻法に「(活動への賛同を)お願いします!」というスタイルでした。日本に於けるSEALsも若者による新スタイルの抗議活動パフォーマンスという部分では似ているんですが、やはり、スタイルに差異があるように感じました。扇動もしくはパフォーマンスの温度の差異ですかね。「アベ政治を許さない」的なスローガンは、かなり扇動的要素が強いものでしたが、香港に於けるアグネス・チョウさんらが展開した雨傘運動では「協力をお願いします!」という正攻法であり、確かに好感を抱けるものであったのだ。

ussyassya at 11:39|この記事のURLComments(2)雑記 

2018年07月16日

心頭滅却しても暑いものは暑い

西日本で広範囲にわたって起こった水害、その復興の様子を映し出す映像で、その厳しい暑さというのが目につきますよね。明らかに強烈な陽射しであり、気温も35度近いという。そんな中での復旧作業というのは途轍もなくハードであろうなと感じている。実は私の場合は7月に入ってから帯状疱疹が出てしまっており、おそらくは6月下旬から続いていた猛暑と関係しているという自覚がある。暑いので睡眠不足になりがちで、身体的に抵抗力が落ちているときに帯状疱疹が出てきてしまうという。そんな状態なので、何かを運ぶ等の作業が非常にきつく感じるし、また、起き上がるなら起き上がるという動作が相応に思い切りが必要となる。30代半ばぐらいまでは、「なんとか気合で!」という感覚で乗り切ることが出来たものが乗り切れなくなっている。無理をしてしまうと後で体調を崩してしまうのだ。

また、暑さは、尋常じゃありませんやね。汗が噴き出すような暑さで、アイスクリームで買って来ようかと思い、徒歩で6〜7分のところにあるコンビニでアイスを買って戻って来るまでには滝のような汗になってしまう。シャワーを浴びないと、汗かぶれで、あちらこちらに湿疹ができてしまい、また、それを掻きくわしたりして、愈々、暑さの中で眠れないという悪循環を招く。

あの復旧作業をしている人たちに自分を投影してしまうと、とてもとても体力的に無理だろうなと感じる。暑さの中、何かを片付けることの大変さは身に沁みついているつもりで、つい数日前も12キロぐらいあるレーザープリンターを抱えて階段を上がったのですが、ホントに途中で泣きたい気持ちになりますやね。基本的には運べない筈はない。しかし、段ボールの大きさに階段の狭さと勾配具合、更には異常な暑さが加わると、結構ハードなのだ。重量的には何とかなる筈だが、途中で休みたくとも休めず、力を入れれば全身が紅潮して熱くなってしまい、汗が噴き出してくる。なんとか運び切るものの、体力的にはクタクタになってしまうのだ。

炎天下で水道の蛇口を交換する。確かに作業そのものは、どうってことはないのだ。しかし、直射日光があたる戸外で、しゃがみ込んで草だのダンゴムシをかき分けて、なかなか回らないネジを回そうと格闘していると、僅か2〜3分でもかなり消耗してしまう。下着までびしょびしょ。汗ばんだ二の腕にあたり雑草が邪魔だなって思っていると、その接触していた部分が妙に痒くなってしまったりする。作業系の仕事をしている職人が汗の匂いを漂わせている事がありますが苦労が分かりますやね。空調の効いた空間、また、汗をかくことを前提にした服装で行なう適度な運動と、蒸し暑く狭苦しいところで万全の態勢ではないままに行なう作業とでは疲労感の質が違うのだ。

特に、暑さって危険な気がします。猛烈な暑さだし、この暑さというのは、ここまでやったら冷房の効いた部屋でアイスでも食べようという、そうしたセコいモチベーションで乗り切っているところがあると思うんですよね。部活動なんても、そうじゃありませんでした? 練習後に食べるガリガリ君や冷え冷えの炭酸飲料に感動するワケで。仮に、そういうのがないとなると、口の中はねばねばしたままだし、汗にしても流せる環境であれば苦になりませんが、汗を流せない環境だとすると、かなり精神的にきつそうだよな、と。

もし仮に、自分があの場にあったなら、復旧は暑さが少し落ち着くまで、どこかに退避したいって切実に思ってしまう可能性がありそうだなぁ。例えば預金通帳であるとか重要な書類等を持ち出したいけど、ダメになってしまった家具や家電用品の始末は急ぐ必要性はないんじゃないのって考えちゃう。自力で片付けたいという意志はあるものの、特段、急ぐ必要性がないのであれば、この暑さの中、一部、水道なども使用できない中での後片付け作業ってのは避けたいと考える。なんだか消耗が激しそうだし、喪失感にしても精神状態は正常じゃないだろうし、また、そう思っている中での復旧作業というのは徒労感も大きい気がするし。

実際、実家が小さなボヤを出した事があって、当時、私は勤め先で「何? 火事だって!」と電話を受けて急いで帰った事があるんですが、ここから先は生々しい内情と思ってください。火事にあった家の者は精神的にも悲嘆に暮れているものであり、それに間違いはないんですが、では、そのままに、沈痛な痛みを抱えた精神状態でずっとあるべきなのかというと、それは違うと思うんですね。ドラマや漫画などの描き方こそがリアリティがないのであって、実際には悲嘆してばかりもいられない。親戚が集まっておにぎりをつくって復旧作業を手伝ってくれたり、或いは当時は出火見舞いとして日本酒が届いたりしたのですが、日が暮れて夜になっても陰鬱かというと、そうではありませんでした。「ボヤでよかったじゃないの」という風に、不幸中の幸いの方にスポットを当てるし、勿論、沈痛なことだけを話しているワケではない。笑い声を立てたりしたら、さすがに不謹慎と見られますが、実際、そういう反応になったりするもんなんですよね。

巷間では「ネガティブな発言をしてはならない」のようなバイアスがかかっており、それと似た原理で「被災地は復旧を急がねばならない」という使命感バイアスがかかっていると思う。しかし、折からの異常気象も念頭におくべきで、体力的に無理をして体調を崩しては意味がないし、「最終的な責任は自分にある」と強く思っているからこそ、無理をして結果としてダウンしてしまうような最悪な状況をこそ、ホントは怖れている人も居るんじゃないんだろか。迷惑をかけることを回避したいという心性もありそうだし。

ussyassya at 11:47|この記事のURLComments(2)雑記 

2018年07月14日

勝利至上主義と部活動

テレ玉で、高校野球の埼玉県大会予選で、杉戸対東京農大三を視聴。猛暑の中、杉戸高校の背番号1番の投手が150球を投じたあたりで、マウンド上で指を攣(つ)ったらしく、グラブを外して攣りをなんとかしようという仕草を始めた。すると、敵対チームである東農大三高がタイムをかけて、東農大三校のユニフォームを着た2名が、杉戸高の投手に近づいて行って水筒の水を与えるというシーンがありました。暑さの中、脱水気味になると攣り易くなるようで。杉戸高の投手が頭を下げながら水筒を受け取って水分補給をすると、東農大三高のユニフォームの一人が、団扇で仰いでやっているというシーンがありました。

(高校野球のタイムのルールってどうなってるんでしたっけ。杉戸高がタイムを使用してしまっていたから東農大三高側が自チームのタイムを杉戸高の投手の為に使用したという事だったのかな。)

ああ、高校野球というものの、原点を垣間見た気がしましたかね。ホントはサッカーW杯で露骨な時間稼ぎの問題が生じた際、「勝利至上主義とスポーツマンシップ」の問題を少しばかり考えさせられたばかりでしたが、思うに、我々が好ましいと考えているスポーツマンシップというのは、勝利至上主義に陥り過ぎない事ではないのかなって思う。

勝利に徹するべきという論者が在っても別に構わないワケですが、実は勝利至上主義の徹底という考え方が、時として、スポーツマンシップなり、競技者の道徳なり、或いはヒューマニズムを破壊してしまうケースが稀にある。

先のサッカーW杯に於いて「こどもたちに夢を与える為にサッカーをやっています」というテレビCMの後に、問題視された西野ジャパンの狆々長めのパス回し瓩鯡楫發靴燭里琶雑な気分になった。それは極めて素朴な感想、感慨であったし、私以外の反応も似たようなものだっただろうと思う。それら反応をニワカというのであればニワカで上等だ。確かにルール上は問題がないのだからOKでもある。しかし、勝利至上主義に徹する考え方の人たちが、ことごとく批判に対して感情的批判で応じ、排除するようにして「西野采配は間違っていない」という結論づけに持っていったプロセスについては違和感をおぼえていました。「あのパス回しはダメでしょ」という批判、そう批判する事も許さんのか――と。

私の場合、僅か数分前には「こどもたちに夢を与える」とテレビ画面上で謳っていた以上、あの長いパス回しは、どこか虚しくも感じたものでした。歯の浮くようなきれいな事を並べてくれてはいたが、「勝つ為には正しい采配だったのである。何の問題もない。批判している人たちはニワカである」という風に、あの問題を収束させていくのでは、あまりにもバランスが悪いと感じたの意です。

また、W杯サッカーとは関係なく、同日の毎日新聞が日大アメフト問題を語るにあたって狆〕至上主義瓩鮗茲蠑紊欧討い慎憶がある。つまり、行き過ぎた勝利至上主義の問題は、ここのところ、ちらほらと散見していたのだと思う。

さて、高校野球中継が終わったら、埼玉ローカルニュースの時間となりました。そこで、埼玉県では部活動に対しての方針が定められたという。月曜から金曜までの平日に一日の休日を、また、土日のいずれかを休日に。また、平日の部活動時間は2時間を目安とし、土日等休日の部活動時間は3時間を目安にするという方針を決めたが、一方で、「それでは練習時間が足りない」という異論も上がっているという。

確かに、こういう問題は、いわゆる強豪校からすると余計な足枷なんでしょうねぇ。土日があれば、どちらかは部活動はなく、しかも一日3時間程度を厳守すべしと言い出してしまったら、強豪校の練習メニューは全然こなせなくなってしまうのでしょう。しかし、一方で日本の平均的な中学生が部活動に費やしている時間は多すぎだろうなって考えている人が多いのも現実でしょう。ひょっとしたら、あの辺りの根性論から広く一般に、日本の残業文化体質が培われてしまっている可能性だってある。将来的にアスリートとして大成する子は確率的には一握りだし、それらは圧倒的なスポーツエリートである事を考慮すると、フツウの中高生たちには当て嵌まっていない可能性がある。過度な勝利至上主義の問題も、ここに関係している気がしますかねぇ。基本的に部活動に学生生活の全てを捧げるべきかというと、やはり、これは窮屈であろうなって思う。うまく利用すれば充実した学生生活となり、かけがいのない仲間意識の中で友情を築けるし、人間的成長を期待できるというのも事実なのでしょう。とはいえ、大多数の中高生からして部活動というのは、どこか束縛的なものになってしまっている事も薄々は感じ取れてしまうものであったりもするワケで。

そんな中で「のびのびと」という観点は案外、重要なのではないかって考えますかねぇ。弛緩している者は弛緩しきっているのが現代であろうと思うけれども、部活動をしているタイプの者は弛緩する事が許されないという環境に置かれてしまいがちだから、本来的な牾擇靴爿瓩箸いΥ囘世卜つ、のびのびとスポーツを楽しむのが本来的なものではなかったか。

降旗康夫監督作品「わが青春のイレブン」なる映画を、この間、ケーブルテレビで視聴しました。主人公は永島敏行で、ヒロインに斉藤とも子。(作品中、川崎麻世の歌唱シーンがあって、その背後には田原俊彦と思しき少年が映っていて驚きました。クレジットには無かった気もするんですが、おそらく)

家城巳代治監督が残した脚本を、高倉健を擁して数々の名作を残した降旗康夫監督が採った青春サッカー映画であり、かなり異色の映画でした。

永島敏行演じる主人公の友人は共にサッカー部に属している。その友人は、斉藤とも子演じる一学年下の女子生徒に淡い恋心を抱いており、ラブレターを書き上げたものの渡せないで居る。それを知った主人公が「何を躊躇しているんだよっ☆」という軽いノリで、その友人を抑えつけて、勝手に郵便ポストに投函してしまう。

そうして出されたラブレターであったが、ヒロインは困惑している。嬉しくもあったが、郵便配達されてくる手紙は両親にも知られる事となるので、その友人に「もうラブレターは二度と書かないでください」と電話がある。しかし、「一度、デートしようじゃないか」と誘うと、そのデートには応じてくれる。

友人がデートに漕ぎつけたことで、主人公も喜ぶ。悪ふざけでラブレターを投函してしまった手前、デートが実現する事で責任を回避できた気になる。

かくして、その友人は部活動をさぼって、ヒロインとデートを実現する。そのデートを別の部員に目撃されてしまう。そして、それを目撃した部員は「何々が部活動をさぼって女とデートをしていた」と部活動の顧問や上級生らに告げ口してしまう。

その告げ口が原因となり、主人公の友人は爐靴瓦瓩寮礼を浴びる。映画なので分かり難い部分もあるのですが、それは特訓の体裁をとったシゴキであり、部員全員が取り囲んで見守る中で、その特訓が行なわれる。友人は途中で転倒し、脇腹を抑えるが、自ら「大丈夫です! 続けて下さい!」といい、そのままシゴキが続いたが倒れてしまい、そのまま、死亡してしまう――。つまり、「わが青春のイレブン」というタイトルでありながら、シゴキ死亡事故の映画なのだ。

永島敏行演じる主人公は友人の死を境にして、サッカー部と対立する。

「伝統の名の下に課されたしごき死亡事故であり、ホントは、あんなシゴキをすべきではなかったし、最低でも途中で止めるべきだった」

「何を言ってるんだ。あいつは自分の意志で狢臂翩廚任后続けて下さい瓩辰童世辰燭鵑世勝あれは事故に過ぎない。あの特訓だって我がサッカー部の伝統で何の問題もないっ!」

「違いますっ、あんな状況では狢臂翩廚任后続けて下さい甍奮阿聾世┐覆辰燭里事実じゃないですかっ!」

と主張。サッカー部員たちとも折り合いが悪くなり、非行少年グループと夜の街を徘徊するようになる。

とあるアルコールを提供する飲食店で、「自分たちと同じ年齢なのに歌手をしている」という青年のステージをみる。そこで歌手役をしているのが川崎麻世であり、なにやら「トゥエンティ・ワン」と連呼しながら歌と踊りを披露している。

永島敏行演じる主人公ら不良生徒3名は、夜の街で暴力事件を起こし、処分を言い渡される為に校長室で待たされている。しかし、その3名は校長室から脱出し、中庭から校舎内で授業を受けているであろう全校生徒たちに肉声で呼び掛ける。

「みんな、顔を出してくれよ! 俺たちは奴隷じゃねーぞ! そうだろ?」

どこか古い時代の設定というか、セリフなので、現在ともなると、このシーンに違和感もあるかも知れませんが、おそらくは作品的にはクライマックスのシーンだったっぽい。生徒たちは授業中であるが教室からベランダに出て、不良三人組を見ている。しらけ気味に見下している者も少なくないが、半数ぐらいの生徒は永島敏行らのアジテーションに沸いている。

いやいや、これ、よく考えてみると、ワイドショウが騒いでいた日大アメフト問題あたりは、この内容と実は深く関係しているような印象も受けました。「奴隷的か奴隷的ではないか?」という意味では、総じて体育会系の組織は奴隷的になりがちなのだ。

ussyassya at 01:30|この記事のURLComments(7)雑記 

2018年07月12日

合理化が起こっても労働時間は減らない

クロポトキンの『麺麭(パン)の略取』でも、確か「将来的には労働者の労働時間は4時間ぐらいにまで減少するのではないか?」という一節があったのだったかな。

技術革新、これはクロポトキンの時代だとオートメーション化の一語だったのだと思いますが、すなわち、オートメーション化によって効率化が実現される。手作業で農業などを営んでいた時代よりも遥かに効率性が実現される。荒地も開発されるので交通の不便も解消され、それらは素直に文明の恩恵として捉えていいのだろうという考え方をしている。その後に、生産手段を持つ資本家階級と、生産手段を持たないので、労働をして労働の対価を報酬にして生活する労働者階級の説明なども触れながら、はて、この文明は、誰のもの、誰の功績と考えるべきか?

資本家や政治家といった権力者が文明の所有者であり、その功績者であろうか? 或いはホントは労働者たち、或いは労働者に限らず、本来、それらは共有財産のようなものと考えるべきではないのか? しかし、資本主義の考え方だと、それらの功績には末端の労働者が挙げられる事は少なく、政治家などの固有名詞が功績者となり、資本家が所有権のようなものを主張する事が許容されている。

さて、そのようにして効率化が実現され、利便性を獲得したのに、何故、労働者、これは堅苦しいのかな、何かに雇われて報酬を得ている人たち(被用者)は、長時間労働を現在も強いられてしまっているのか? 20世紀初頭頃の話だとして、将来的には労働時間なんてものは4時間ぐらいまでに減少するものだと考えられていたのに、自由主義体制下の資本主義では、次から次へと企業と企業とが覇権を競い合うので、一定以上の効率化を実現しても、安堵の瞬間は到来しないという事になってしまったって事なんでしょうねぇ。少なくとも労働者ほか働く人々の労働時間が8時間労働なら8時間労働という枠に収まっても良さそうなものですが、そうならない。次から次へと、仕事が増えてしまっている。或いは、増やされてしまっているような気分になる。

これらを考慮したとき、相対的に幸福が実現したと言えるのかどうか。文明の恩恵に非資本家階級の人々は、あやかれたと考えるべきか否か。

「おりょりょ、なんだかんだいって、労働時間って伸びちゃってるじゃーん(怒)!」

という不満を持つのが素直な人間なのではないだろか。

で、改めて、このクロポトキンの考え方、つまり、「文明とは人類の共有財産と考えるべきではないのか?」という部分は、今の時代でも同じなんじゃないのかなって考える。幸徳秋水翻訳ではあるものの、さすがに古い文体なので、適度に書き換えながら引用すると、以下のような感じ。

幾百万の人類は、今日我々自ら誇れるこの文明を作らんが為に労苦した。世界に散在している他の幾百万も、これを維持せんと労苦している。もし彼等が存在しなかったならば、未だ、この世は荒廃の世界だっただろう。

一つの思想でも、一つの発明でも、過去と現在とから生まれた共有物ではないものは存在しない。貧苦の中に死んでいった幾千の発明家の協力があり、幾千の文士、詩人、学者も知識をつけ、科学的思想の気風を作らんが為に労働した、我々が有する驚異すべき文明の進歩は、これらが在った事によって初めて現れたのである。幾千の哲学家、詩人、科学者彼等自身も又、幾百年の労働によって扶助されてきたのである。

されど、人間が生産の為に、且つ、その生産力を増加する為に必要となる一切の事物は、いつの間にか少数者の掌中に帰することとなった。

鉄道がある。もし欧州にあれだけの人口や、その貿易、その売買がなかったならば、鉄道は単に古い鉄棒を置いたものに過ぎない無用の長物である。しかし、この鉄道も少数なる株主の所有に属する。株主らは当たり前の権利として、それを認識している。しかし、その鉄道の工事、トンネル工事中に頻々(ひんぴん)と斃(たお)れ死したる多数の工夫があり、その工夫の子がボロを纏い飢え、株主の門前に群れ集まってパンを乞うことがあれば、その子らは銃剣によって追い散らされる。追い散らすことが正当化されるのは、『投資者の利益』が保護されているから、そういう制度だからである。

その一方でレース編み製造機を製造した発明家やその子孫が、こんにちレース工場に現れて、その機械の発明が自分にあるとして権益を主張したなら、彼等は直ちに「この場から立ち去れ、この機械はオマエの所有物ではない」と叱りつけられるに違いない。(何々に係る権利の取り決めは、そのような曖昧なものでもある。)

労働者の子は、生を享けて、この世に生まれる。しかし、ただちに耕すべき田畑を持っていないし、運転すべき機械も持っていない。生産手段を持っていないのだ。その為、彼等ははかなく不確かな賃金の為に労働力を売らねばならぬ。その彼の父親も祖父も、そのように労働力を提供する見返りに報酬を得て生活してきたと考えられる。しかし、彼等は貧乏なのである。

労働者は自由契約の名の下に、猶、封建的義務を承諾せねばらない。万物ことごとく私有財産となった。だから生産手段を持たぬ彼らは封建的義務であっても承諾せねばならぬ。しからずんば餓死せねばらならぬ。



こういったスケールで考えた場合、現代というのはどうなんでしょ。確かに物質的豊かさを実現したという意味では、不幸は払拭され、幸福が実現されたという一面を認識することができる。しかし、一方では「何も変わってないなぁ」と感じさせる事柄もありますやね。物質的な豊かさが実現されたものの、猶、資本主義的原理が提供するところの優劣があり、生産手段を有さぬものは労働を提供して賃金を得ているが労働環境が楽になって、その恩恵を受けているとは素直に言えない状況になってしまっている。

手書き伝票を起こして、帳簿をつけていた時代と比べれば、なるほど電子化によって作業の簡素化の恩恵がある。しかし、そうなったらそうなったで、「電子化が実現したんだから、今後は正確に帳簿をつけて遅滞なく提出するように」となって、こまごまとした作業を課され、処理すべき仕事量は増やされてしまうものなんじゃないんスかね。つまり、「合理化がなった」というのに「労働時間がへらない」という現象を実際に確認できてしまうのだ。むしろ、電子化が成ったのだからとアレコレとと難癖をつけられて、仕事量を増やされてしまうという状況を生み出しているんじゃないスかね。ここのところ、何々というデータの偽装などが続いていますが、従来は任意であった部分の仕事を義務化されてしまい、そのようにして仕事量そのものを増やされてしまっているという側面もありそうなんですよねぇ。

法人税申告って、弥生会計のようなもので電子帳簿を記載していても、決済の都度、15万円ぐらいの手数料を払わないと出来ないのだそうな。知人の元会計士さんに尋ねても、「うちもまた、ソフトを借りて経営しているから月8万ぐらい経費を払っているんですよ」という。合理化がなったというけれど、結局、末端は搾り取られているだけですやね。

因みに、先に国会で「廃棄しました」と一年以上も答弁していた前国税庁長官氏は、財務省側の処分によって退職金が約6千万円のところ、約500〜1000万円程度に減給処分となったという報道がありましたが、週刊新潮が報じたところによれば氏がこれまでに財務官僚として獲得した賃金は約6億円としていたから、前国税庁長官は退職金と併せると約6億5千万円ぐらいの生涯賃金だったというワケか。

そもそも、人々は、どれぐらい働きたいものなんスかね。生活資金に余裕があったなら好んで残業をするだろうか? 職場の仲間を慮って、あるいは率先して会社の業績を考慮して残業することは有り得たとしても、そんなに残業なんてものをしたくないのがホンネでしょう。しかし、そう出来ないという事、それが叶わないという事は、やはり、技術革新やら合理化の恩恵は末端には届いてなって事なんじゃないのかな。

学生時代の中間試験や期末試験って、周囲にガリ勉さんが居ると、

「ちっ。みんな、そんなに勉強すんなよ。オレの順位が相対的に落ちちゃうだろ! あー、ガリベン禁止にしてくれ!」

って考えた事って、ありません? そうする事で全体のレベルが上がるのだけれども、そのことが各自の利益に反映されないのであれば、虚しいものだよなって思う。競争させられているだけの駒に過ぎず、それはプレーヤーではないのだ。それらの序列によって優劣が形成され、精鋭が生み出される。そこで生まれたエリートと呼ばれる人たちが頂点に立つのかというと、これもまた、少し紆余曲折があって、そうしたエリートたちも時の権力者やカネに使役されているようなことになってる。

ヒエラルキーの頂点に君臨しているものはカネもしくは資本家って事だからねぇ。

やはり、どこかで自らを利する為の戦い、自らの幸福を実現する為に発想し行動するという事も必要なんだろうねぇ。

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2018年07月10日

シンガリもれっきとした役割

昨日であったと思いますが、「日本の経済成長は終わっている」という見解が国際的な機関から発せられたという報道を目にしました。今後は諸外国の投資家らの間でも「日本の経済成長は終わっている」という認識が広がってゆく事になりそうだ――と。しかし、そういう部分に「なんで?」と複雑な事を感じています。国際的諮問機関から指摘されないと当の日本が、そのことに気付かないというのが、非常に不満なんですね。未だに日本人は日本の事なのに国際的諮問機関からの指摘を受けないと認識できないってのはマズいだろ、と。

人口ボーナスと人口オーナスの話が出てきたら、それで自己分析できたであろうに、諸外国のように出生率を上げて労働人口を増やすという政策を採ってきてしまい、半ば後戻りできない状態になってしまっている。成長する事が大前提になっているから、散財三昧になってしまっている。散財三昧になっているのは、これまた諸外国に歩調を合わせるかのようにして福祉や社会保障の理念に傾注してしまったからであり、それで財政を悪化させて、財政を悪化させてから「国際的諮問機関から増税すべきと指摘されている」として、また、増税に前向きになっている。この自分の意志の無さというのがねぇ。未だに戦後レジウム、敗戦国史観に日本人の思考体系そのものが、どっぷりと浸かってしまっている。

日本の場合は諸外国には例を見ないレベルで、超高齢化社会&少子化社会に突入した。これは既に突入してしまっているという認識こそが正しい。しかも、それは半ば抗いようがないのが厳然たる事実なのだ。これまでのプロセスとして労働移民にしても制限してきたから労働人口が減少するのは半ば覚悟の上であった筈なのですが、どこか感情的に、或いは圧倒的な時代錯誤の感覚の両者でもって「出生率を上げるべき」という声が世論では支配的となっている。その中には、産めば人口が増えて労働人口も支えられるという風に考えている者も政治家を含めて結構、あって、「ああ、この人たちは労働人口の減少を産まない人たちが悪い。産めよ殖やせよの精神が足りんのだ」という解釈なのだというのがみえみえであったりする。しかし、ホントはそういう次元ではありませんやね。人口減少は避けられない道であり、抗ったところで影響力はたかが知れている。それが理解できていない人たちが、この国のかじ取りをしているのだなと気付かされる。

今後、労働人口が減少し、当面は高齢者が増えてゆくという情勢の中で、どう対応すべきかと発想すれば余計な支出は控え、節約指向になって当たり前のようにも思えますが、そういう風にとは捉えず、未だにイケイケどんどんが主流で、余計な借金を膨らませながら今日的状況があるというのが、大局観であると考えますかねぇ。

つまり、世界に先駆けて、何とか、その困難を乗り切る術を探し出すという態度だって有り得たのでしょうに、独自路線に踏み切ることなく、あれこれと国際なんたら機関の指標に合わせるような舵取りをしてきてしまったという事であると思う。チグハグだなと感じている。

もう、これは10年前ぐらいには意識されていた筈で、だから中高年の中には「我々の世代ぐらいまではなんとか逃げ切れるかもな」という考えを、その者が冷静であればあるほど、胸の底にしまっていると思う。

太平洋戦争の犠牲者、死者ですが、その犠牲者の多くは敗色濃厚となった戦争終盤に7割だか8割以上だかを生んでしまっているんじゃなかったでしたっけ。何故、そうなったのかというと、ホントは意志決定が脆弱だったからですやね。誰も敗戦を切り出せなかった。なので、一発逆転を狙うことになってしまった。しかし、それらは苦境の中で行なわれるギャンブルであり、中にはデタラメだなと断じるべきの決断も幾つも見つけることが出来てしまう。異常心理の中、ムリ目の精神論に頼り出し、白兵突撃、神風特別攻撃、切り込み、本土決戦、すべての日本人、民族全体を巻き込んでの一億玉砕などと虚勢を張って犠牲を大きくしてしまっているのが歴史の現実なのだ。確かに、その時点で「無条件降伏」というものを受け入れる事に抵抗があったのは斟酌できますが、「一億玉砕である! 竹槍で戦え!」としていた、その狂気や指揮命令系統の人たちの欺瞞というのは冷静に直視しないといけませんやね。ホントは狂気の沙汰ですが、その狂気の沙汰が世論を支配していたのだ。

勇ましい発言が正義のように感じるものかも知れませんが、勇ましい発言こそが、被害を深刻化させ甚大化させてしまったりするのも現実だと考えるべきで。

撤退戦とか、シンガリを預かる武将などの心理を思う。成長、成長、拡大、拡大というイケイケどんどんな価値観があるから、「ここでは撤退せよ」と「ここは彼にシンガリを頼もう」という消極性を評価したがらない。評価しないというか、できないというか、そういう事ではないのかなって思う。何かを打ち立てたという功績は目に見えやすいのですが、苦境に陥っている事を自覚し、ソフトランディングしてみせる事の功績は目に見えにくい。つまり、成長、成長、拡大、拡大、国際世論に合わるのが時代の風潮であるという考え方から、「いいや、我々は彼等とは違う地平に立たされているのだから、採るべき指針は彼等とは異なる」と主張できるだけの確固たる自己がない、時代の空気に逆らってでも自己の置かれた状況に対応する指針を打ち出すだけの気骨がないという事なのではないのか。

そんなに遠くもない数年後には、いわゆる団塊世代が後期高齢者となって、単に高齢者医療費の増大だけではなく、介護費用の問題もピークに達するという。成長戦略を夢見たまま、それに突入する事が既定路線なのかと思うと、とてもとても希望なんてものは見い出せそうもない。ホントは、世界に例をみないスピードで、この超高齢化問題を迎えることが分かっていたのだから、国際世論などに迎合している暇はなく、独自に分析して独自に解決策を見い出していくべきではなかったのかなって思う。

既に国民年金の老齢年金だけでは老後を暮らす事は不可能な水準になっていると考えるのが妥当で、その中で、厚生年金の者だけが老後でも生活水準を維持できるのではないかといった具合の犖通し瓩砲覆辰討い襪里現実ですやね。殊に、基礎年金に位置付けられている国民年金に関しては強制加入の土台部分に位置付けられているにもかかわらず、納付率は60%台だという現実がある。平成26年度の納付率は63.1%でしかない。しかも未納者のうちの約5割が「保険料が高くて経済的に納付が困難」と回答し、世帯の総所得が1000万円以上であっても「保険料が高い」と回答しているのが現実なのだ。

しかし、ここで公共料金を取る側と取られる側の差異がある。ここに来てNHKも司法判決を論拠にして、そこそこ高額の受信料を強制徴収せんと様子をうかがっている。東京五輪の為に整備しようとしていた新国立競技場に係る予算では2兆だの3兆だのという景気のいい大盤振る舞いな話が飛び交っていたんでしたっけ? このバランス感覚というのが致命的だなという気がする。

何故、日本で生活していながら、これらの事情に疎いのかというと考えている側は厚生年金の被保険者であったり、都市部の人たちなんですね。現場、現場といっても、ここでは都市ではない地方を指していますが、地方の実情をとんと知らないワケだ。都市部だけ、自分の身辺と、国際なんたら機関から提示される数字だけを見て、此処、ひのもとの政策を決定してきてしまっているって事なんでしょう。しかし、よくよく調べてみると、預貯金ゼロ世帯の増加などと照らし合わせれば、これは純然たる貧困でしょうねぇ。預貯金ゼロで生活して個人消費なんてできるワケがない。将来的な資金もないままに浪費するのも無責任な行ないってことだし、カネがないまま結婚したり、貧乏なままに子供を産んでしまう人たちに対しても「え? 養えるか?」と反応してしまうのが実直な人間観というヤツですよ。で、これらの現実にしても分断されているから分かり難いだけでしょう。景況感や成長率のようなものは疑わしい数字が並べられているが、実際問題として債務だけは分かり易い形で膨れ上がっている。

社会保障は有難いものであり、現在ともなれば命綱であるワケですが、収支が崩壊しているし、崩壊するのは目に見えている。平成24年時点で社会保障給付費の内訳は年金給付で53兆9861億円、医療費で34兆6230億円、その他が19兆9476億円。これらの数字は、当面、下がる気配はないどころか、うなぎ登りを描いてゆくわけで。

ussyassya at 12:15|この記事のURLComments(8)雑記 

2018年07月09日

「おまえの家」の居心地の悪さ

桜田淳子が中島みゆきの全曲カヴァーをした13枚目のアルバム「二十歳なれば」を聴いていて色々と唸らされてしまったのですが、そこで改めて「おまえの家」という楽曲の持つ味わいについて気付かされました。おそらくブログにも記した記憶があって、中島みゆきのアルバム「愛してくれと云ってくれ」でも同曲を耳にしており、それが、中島みゆき的な味わいの世界である事は知っているつもりだったのですが、気のせいか桜田淳子ヴァージョンの方が、しみじみとした情感が伝わってきたかも。


雨も上がったことだし おまえの家でも

ふっと たずねてみたくなった


というのが歌い出し。それで曲名は「おまえの家」である。

そして、歌詞とメロディーは、気まぐれで訪ねた、爐まえの家瓩陵融劼鬚燭世燭晴里辰討い襦

けれど おまえの家は なんだかどこかが

しばらく見ない間に 変わったみたい


その爐まえの家瓩慮軸惴に立ってみると、以前には趣味ではなかった筈のレコードの音が漏れている。玄関先で顔を合わせ、しばらく沙汰のない事を軽く責めようとするが、「お前の方こそ」と言われそうなので、その言葉をのみ込み、なんだかそらぞらしいままに、おまえの家に、上がり込む。

爐まえ瓩男性なのか女性なのか、この両者の関係が友人同士なのか恋人同士なのかも実は判然としない。まぁ、察するに恋人同士、いや、一緒に音楽活動をしながら幽かに恋愛感情を抱いていたが双方ともに巧く気持ちを伝えられぬまま、一時期を過ごした擦れ違いの男女の図か。つまり、「雨もあがったことだし、訪ねてみるか…」と欲した方が男性で、不意に訪問を受けた側が女性とみるのがフツウの解釈だろか。いやいや、訪ねようと欲した側が女性で、訪ねられた側が男性か? まぁ、一応は男同士、女同士としても、その関係性は成立するかも知れませんけどね。

とにかく、【おまえ】と【あたし】という呼称しかでてこないので、色々と考えさせれてしまう歌詞なのだ。

爐まえ瓩枠鰻燭変わっている。新しい髪型はそれはそれで似合っているが、前の方がよかったんじゃないか等と思うが、余計な事を言うものではないなとして口をつぐむ。以前には、黒猫ではない猫を部屋に招き入れていたが、今、部屋にいる猫は黒猫である。以前には、ロクに磨いていなかったギターが、今はぴかぴかに磨いてタンスに立てかけてある。おまえの家で、おまえの変化を、どうしようもなく感じ取ってしまうのだ。

爐っと恋人でもできたのであろうな

つまり、気まぐれに訪ねてみたところ、その家、その人の様子がすっかり変わってしまっていて、そこで非常に、ギクシャクとした、それでいて、そのギクシャクした変貌の核心については問いたださないという機微の世界になっている。

ガスコンロの青い火を見ている。爐まえ瓩呂湯を沸かして、お茶をいれてくれようとしている。

「何を飲みたい?」とぽつんと尋ねられ、「喫茶店に来ている気はないよ」と返事するが、なんだか絶望的に噛み合っていない。もう、決定的に両者の距離感が以前とは違ってしまっている。そのぎこちなく、居心地の悪い部屋の空気――。

この気まずい空気を一発で変えてやろうと目論んで、故意に明るく話し掛けると、爐△い牒瓩量椶僅かに潤むのを確認してしまう。もう、どうやっても、この気まずさは取り繕えそうもない。

居心地の悪さを感じ取った語り手は、「今度、また、改めて来るよ。この後、仕事だから、これで失礼するよ」と視線も合わせぬままに切り出して、早めにオイトマ(お暇)する事とする。そう言うと、爐まえ瓩蓮屬い弔任睛茲討れよ」と昔ながらに応じる。戸外へ出ると、凍てつく風が吹いており、コートの襟を立てて、そこから仕事場へ向かうこととする。

気まぐれに訪ねてみた、あいつの家であったが、あいつは変わってしまっていた。昔のままで居てくれていると思っていたが、そういうワケにもいかなかった。あいつにもあいつの都合があるものだと思い知らされてしまった。そんな複雑な疎外感を抱えて、寒風の中、仕事場へ向かう。仕事後に、ギターで明るい曲を、メイジャーコードの曲を弾き語ってみるかと思うが、ムリしてメイジャーな楽曲を弾いてみたところで、きっと、しめっぽい音しか出ないだろうなと考えて、その雨上がりの日に気まぐれを起こした主人公の身の上に起きた一連が終わる――。


思うように会話が続かず、ガスコンロの青い火を見ているという描写は効きますねぇ。確かに、間が持たぬ時間というのは、人は、じっと火を見ていたり、煙があれば煙の行方を目で追うなどして、その気まずい時間をやりすごそうとする。

また、会話が続かない事の原因も薄々は分かっており、何かしら行き違いが生じてしまっているのだ。以前のように接したいが、色々と変化に気づいてしまっているので、そうもいかない。また、その変化を指摘し、その核心を突く事にも臆病になってしまう。

心が離れてしまった。

距離が広がってしまった。

率直に変化の理由を問い質し、その変化の理由を聞かされたところで、きっとショックを受けてしまう。「自分だけが昔のままで、取り残されてしまっている」という現実が冷たい。しかし、現実逃避するでもなく、全てを察する。いさぎよくあらんと、後腐れないようにと、とにかく、体裁を保たんと強がるが、内心では、激しく動揺している。

これだけの情感を一曲に詰め込めるものなんだなって感心してしまう。複雑な心情を歌詞にせんとしても、これら重層的な複雑さ、そして機微が表現されているってのは凄いなぁ。


好意というものがあったして、その好意には殆んど無制限のレベルがある。強烈な好意もあれば、そこそこの好意もあり、また、フツウの好意もあり、好きでも嫌いでもないというレベルもあり、あんまり好かないというレベルもあり、どうしようもなく嫌いであるというレベルもある。好意のようなものは、振り子の原理、可愛さ余って憎さ百倍という風に表出するもので、つまり、大好きであったが裏切られた場合には大嫌いになる。思えば、人付き合いであるとか、人間関係の多くは、好きでも嫌いでもないという線から少しだけ好意的か、少しだけ嫌いかが殆んどなのでしょう。大親友であるとか、恋人同士であるとか、そういう関係性の場合、稀にケンカ別れを起こすのが人間でもある。

大半は、好きでも嫌いでもないという基準線の周辺である。異性間である場合には、そこに淡い恋慕の情なども加わる。取り分け、入れあげているワケではないが、ひょっとしたら自分はあいつの事を好きなのかも知れないぐらいの自覚、その温度の熱情というのも考えられる。

桜田淳子さんは途中からアイドル歌手を超越していたかもな。花の中三トリオのように括られるのでアイドルという括りにしてしまいがちなんですが、そこから飛び出る。山口百恵さんにしても「いい日、旅立ち」や「秋桜」、「曼珠沙華」、「さよならの向こう側」等に顕著ですが、凄い名曲を残し出す。それが桜田淳子さんの場合も、これはアイドルの歌じゃないやなっていう曲が途中から続いている。中島みゆき作品としての「化粧」、「しあわせ芝居」、「追いかけてヨコハマ」であったり、あるいは歌手・桜田淳子としての大成を意識させられる「窓」なんてのもかなりの名曲で、思いの外、スケールが大きく、しかもちゃんと情感を伝える歌手になっていた事に今更ながら気付かされる。初々しい歌声の「黄色いリボン」や「私の青い鳥」あたりと比較すれば歴然、アイドル歌手から本格派の歌手に脱皮していた事に気付かされる。それは中島みゆき作品のカヴァーでこそ顕著であり、色々と唸らされましたかね。。。「朝焼け」とか「おもいで河」とかもいいし、「時代」も見事で聞き惚れましたし。