どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

惹句 DE JACK〜名言&迷言

幸福とは、なすべきことがあり、     
    愛する人がいて、希望を抱けることだ。

イマニュエル・カント

難問中の難問と思われる2題を――。

先ずは、4日付の読売新聞の人生案内、「性癖知られ彼女に振られた」から。
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歪んだ性癖を抱えたまま、それを隠して彼女と交際していたが、その歪んだ性癖が露見してしまい、「気持ち悪いから別れて」と言われた20代男性の相談――。

有り得るんだろうなぁ…と。『百年の孤独』なる小説を読んでいる途中ですが、そういう逸話が挿入されている。また、ひょっとしたら性癖というのは、相談者が述べているとおり、変える方法がない問題のような気がする。それを周囲や相手に告知すべきか否か、或いは、自分だけの秘密として一生、その秘密を抱えて生きようか、孤独な一生はどうであろうか等々と考えるのも、分かるような気がする。

『百年の孤独』には様々な逸話が盛り込まれていましたが、確か、自分は一生、秘密を抱えたまま、閉じ籠って孤独な生涯を生きようと考える人たちが登場している。しかも嫉妬している相手を苦しめる為であったり、意中の人物に振られてしまった事を悔いて、閉じ籠もる事を夢想している。「閉じ籠もること」とは、きっと「引き籠もり」と同義なのでしょう。中には、周囲の人々から生きている事をすっかりと忘れられたまま、最低限の者とのみ接触し、生き延びていたという人物なんてのも描かれている。

孤独が怖いのであれば、回答の弁ように隠し事をしない事になりますが、ひょっとしたら隠さずには居られない性癖であり、打ち明けたが最後、確実に「気持ち悪いから別れて」という反応になってしまう性癖という事も有り得るのではないだろうか。


そして6月26日付の人生案内「なぜ自死はいけないのか」が以下でした。
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これは、回答者の出久根達郎氏の回答に共感しました。昨今、兎角、世の中、薄っぺらで、物事を単純二元化してばかりいる。判断基準は善と悪、正と誤であるかのような見解ばっかり…。そんな中、真摯に回答しているなぁ…と感じました。また、質問者の質問の主旨も、まさしくそれであり、「なぜ、自死はいけないことなのかを教えていただきたいのです。」である。こういう悩みがあるのに、「自殺って事は自分を殺す事だから殺人なんですよ。駄目に決まっているじゃない」的な薄っぺらな言説が蔓延し、それが幅を利かせている薄っぺらな現状・現実を残念に思う。

そんな中、この出久根氏は「死は、理屈ではないのですね。」や「他人が判断することではないと思います。」と応じている。この真摯な態度こそが救いかなって思う。自分が存在しているという事、その自分とは自分に帰属していると私は考える。自分以外の誰かにとやかく言われる筋合いではない事は自明だ。そして、そのような自負によって生きているのだし、生きてきたのであり、現に存在しているのだ。くだらない理屈に付き合わされてたまるかというのがホンネだ。

出久根氏の回答では「竿竹売りのアナウンスによって気持ちが逸れた」という例と、「死にたいと思っている人に存分に語らせよ」と述べている。この二つの提示も見事だなと思う。竿竹売りのアナウンスに限らず、おそらく、人は逃げ場のない問題に追い詰められてしまうと、思い詰めてしまうものなのだ。何かの拍子に、気が逸れて、拍子抜けする事で我に返り、別に死ぬ事もないかと思い直す余裕が生まれるのかも知れない。後者の「存分に語らせよ」も、思い詰めている状態から抜け出す方法であり、自分の中に抱え込み過ぎてしまうのが思い詰めてしまう人の思考回路でしょう。しかし、ヒトの情報の取り扱いにはインプットもあればアウトプットもある。発散する事、吐き出す事、アウトプットする事が有用だ。誰かに話を聞いてもらう等して、一気に心の内が晴れるという事が実際にある。周囲は、寛容の精神でもって、そういう悩みに付き合ってやれるだけの余裕のある人間関係の場に身を置けると、そういう苦しみから救われるのではないだろか。

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ガルシア・マルケス著/鼓直訳『百年の孤独』(新潮社)を読んでいる途中なのですが、どことなく作品の持っている妙味を掴めてきたような気になっている。

細かな逸話は読んでいる傍から忘れてしまいそうなのですが、人が不安や心配を抱く事の描写は巧みだなと思う。

例えば、ある人物は10歳の少女に一目惚れをしてしまい、求婚する。求婚したはいいが、求婚された側の家には、その10歳の少女の上には6人の娘がいて、何故、よりによって寝小便だって時々してしまうような末娘を?…と悔しがる。日本神話にもコノハナサクヤ姫とイワナガ姫の逸話がありましたが、どこでも似たような事が起こるという事か。その男は初潮前の10歳少女を娶って育てるところから面倒をみるともらいうけるが、その幼妻は初夜を迎える前に死んでしまう。

一人の品のいいイタリア人の少年は、物語の中心となるブエンティア家の娘アマランタのお気に入りである。ブエンティア家では、他所から引き取った不眠症の娘、レベーカを我が子として育てているが、そのイタリア人少年はレベーカを気に入って毎日のようにプレゼントを届けにやってくる。アマランタは、その事によって激しくレベーカを呪うようになり、自分が生きている限りは二人の結婚を認めないとレベーカに宣告する。そんな冷酷な事をするが、その実、このアマランタは精神的に病んでおり、何か満たされない事があると、土を食べてしまう癖がある。一度、治ったが、そのイタリア人少年とレベーカの騒動が起こると再燃し、壁をほじくって石灰を食べ、ナメクジやカタツムリも口に放り込んでしまう。

そのアマランタは、兄の親友である将軍から求婚されるが、これを断固拒絶する。むしろ、意地悪なぐらいに拒絶する。これは何でしょうね、家の為とか兄の為とか国の為という具合に片付けたくないアマランタ的な思考か。しかし、このアマランタは甥っ子の養育を請け負い、その甥っ子と危ない関係になる。アマランタはレベーカを自殺に追い込んでしまった何かが祟ったのか、ずっと生娘のままであるが、或る時期だけ夜中に忍び込んでくる甥っ子との夜毎のペッティングに耽るという関係を続ける。母親代わりになって育てた甥っ子は可愛く、しかし、近親婚はマズい、このままの関係を続けていると、いつか身ごもってしまい、イグアナやアルマジロの赤ん坊を産んでしまうかも知れないと恐れる。

ブエンティア家からは、革命軍の指導者になる大佐も登場する。しかし、時間の進行と共に革命の本質が露見する。マルクス主義ではなく、自由主義を標榜しての革命である。時間が進行すると、かつての仲間を処刑すべきかどうか、革命に奔走しているので色々と見失うが、やがては情熱を喪失する。戦争や内戦といった騒ぎの中で、何をどうしたいのか分からなくなってくるのだ。そして、なるほど、この『百年の孤独』の妙味かも知れませんが、戦争中には、次から次へと、辻褄の合わない情報が入って来るという説明が幾度も幾度も出てくる。つまり、ホントに何が起こっているのかは、誰にも分からぬままに戦局や政局が動いてしまっているのだ。なので、この大佐は革命のシンボル的な存在にまでなった人物であったが情熱を失ってしまう。戦争は人々を奔走するだけのものであるという諦念に行き着く。

この革命の流れ、戦局に左右される、てんやわんや感は魯迅の『阿Q正伝』にも少し似た雰囲気があったかな。革命運動のようなものは途中から何がなんだか分からなくなる。天と地が、上と下が引っくり返る。

ブエンティア家の家系に起こる膨大な物語によって物語が編まれているが、何やら無常を思わせる。恋は燃え上がるが過ぎ去ってしまえば単なる過去となり、それは不安・心配も同じで過ぎてしまえば過去になる。凄まじいまでに翻弄されている人生だらけであり、思えば、誰の人生だって、そんなものかも知れない。波乱万丈、山あり谷ありの人生、成功を夢見て何某かの栄光の人生を夢見るが何代も何代もブエンティア家の一族の人々は、変な情熱に憑りつかれて行動し、数奇な人生を歩むが、誰も彼もなんとなく似ている。

結構、自殺したり、銃殺されたり、死についても描かれている。死の間際に、その者がどのような境地で人生を閉じるのか、そんな思いに駆られる。やはり、記憶の多くは、その時々に夢中になった何かであり、実はそんなに継続的でもない。東洋思想の「荘子」で語ってしまうと、つまり、逍遥、なんだか単に人生とは時間の中で揺蕩(たゆた)っているだけで、その時間の中で、あれこれと悩んだり、熱中したりしている、それだけのような気がしてくる。そう簡単に人というものは次世代の事なんて考えられないし、傍目にも短慮な人たちが次世代の事を考えているだなんて、到底、考えられないなと気付くかも知れない。

あの人は成功者であるからとか、あの人は何々を成し遂げたからとか、そういう事さえもどうでもいいような気にもなってくる。何か大義を為すとか目的を達成するといった考え方は、ホントは生きる者が魘されてしまう悪夢であり、熱病のようなものかも知れないなと思う。生きるの営みが人生であるとして、人々は満たされぬと苦しみもがき、そして憎んだり、静かに嫉妬したりしながら生きているが、平静や平穏といったもの、心配事がない事に対しての幸福については疎いのかも知れない。まだ読み終えていないのですが、そんな事を感じているかな。

ああ、既に【ノストラダムス】という単語が3〜4回、【日本】は6〜7回も出て来きている。物語の舞台は南米コロンビア。1967年の作品なので、当時の日本は外国からみるとミステリアスな魅力があったのかもなぁ。


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芸術ってのは分かりませんねぇ、というのが、今しがた日本映画専門チャンネルで放送されていた映画「戦場のメリークリスマス」の視聴を終えた直後の感想。二回と半分ぐらいの視聴になりましたが、この「戦メリ」については未だによく分からん。女性が一人も出演していない事からすると、そのイロの部分については、デヴィッド・ボウイと坂本龍一とで、イロについては充分であろうという意図が見えなくもないのですが、そこまで色気を感じたかと言われると、そういった感じでもない。しかも、粗筋らしい粗筋も分かり難い。

視聴を重ねる中で、気付いた事は、デヴィッド・ボウイ演じるセリアズが人生を回想して「裏切りだらけだ」と語り、そこから弟に対しての裏切りの十字架を背負っているというあたりが、実は、戦場のメリークリスマスを語るにあたってのキーポイントであったのだろうなと思う。

セリアズには弟がいた。その弟は、ボーイソプラノ風に歌を唄うのが得意な少年であった。しかし、何かが弟には足りなかった。悪ガキ連中が弟を待ち伏せしているので、セリアズは弟に逃げるように指示をして、自分が単独で悪ガキ連中の相手をするというシーンがある。弟は無事に逃げ遂せて、教会の神父を呼んで舞い戻って来る。「こらーっ! 何してるんだっ!」その神父の登場によって、セリアズは窮地を脱出した。しかし、セリアズは弟に不満であった。「逃げろと言ったのに、何故、助けを呼んで舞い戻って来たのか?」と。

やがて、上級の学校に弟も進学することになる。その学校には恒例の通過儀礼があり、新入学生については全校生徒で吊るし上げにする慣行がある。セリアズは同級生たちから「お前の弟もいるんだろう? 通過儀礼から弟を除外しておくか?」と尋ねられるが、セリアズは「いや、特に…」と返答してしまう。つまり、弟を突き放したのだ。その際、セリアズは、そのように弟を助けなかった理由について「自分の一族に対しては完璧なものを要求してしまいたくなる気持ちがあった。(弟には、何かが足りなかった)」という主旨の言葉で回想している。

池を取り囲むようにして多くの生徒たちが集まっている。そこへ担ぎ込まれてくる弟の姿を、セリアズは別の校舎の窓から見ている。新入生歓迎の慣行、通過儀礼の始まりだった。弟を取り囲んでいる学生たちは合唱している。「♪社会の役に立たない者は要らない。社会の役に立たない者は要らない」といった具合の歌詞である。大きな池の隣にある舞台上で、セリアズの弟が学生たちからの洗礼を受けている。

「お前の特技はなんだ? 社会の役に立たない者は要らない訳だが?」

「………」

「お前は歌が上手いらしいじゃないか? 歌を唄え」

セリアズの弟は、声変りをしておらず、きれいなボーイソプラノの美声で、牧歌的な歌を唄ってみせる。その歌声が学生たちに評価されているのか評価されいないのか判然としない。しかし、学生たちは、セリアズの弟の服を脱がせ、裸にして、池の中に放り込む。手荒い洗礼の儀式であり、通過儀礼と思われる。しかし、その騒動以降、弟は歌を唄うことを辞めてしまった。セリアズは、それ騒動を後悔している。助けてやる事が出来たのに、助けてやらなかった、と。

それから15年か20年が経過している。セリアズと弟との関係は疎遠になっている。セリアズは弁護士になって弟は家を継いで農園の経営をしている。弟の結婚式に出席したが、そこには目に見えない壁があった。セリアズは、何かを後悔し、求めるように兵士に志願した。そしてジャワ宣戦のゲリラ部隊としてアジアへやってきて、そこで日本軍の捕虜になっている。

捕虜収容所内でのセリアズは問題行動の多い捕虜であった。悪魔的な美貌によって、坂本龍一演じるヨノイ大尉を魅了しているが、言動は捕虜であるにもかかわらず、何かと反抗的である。「行を行なうから48時間は何を食してもならぬ!」と収容所の長でもあるヨノイが命令を出すが、セリアズは花を摘んできて、その花を食している。セリアズを直接的に罰する事に躊躇いを持っているヨノイは、捕虜たちの監督責任不行届きの名の下の、俘虜長の首を刎ねようとする。俘虜長は跪き、強制的に首を差し出され、ヨノイ監視の下で断頭による処刑が行なわれようとしている。その刹那、ふらふらとセリアズが歩み出て来て、ヨノイに接近し、頬と頬とを接触させるような仕草をし、キスの音を立てる。ヨノイは卒倒してしまう。(このデヴィッド・ボウイと坂本龍一との接吻シーンを、美と美との接触と認識できれば、意味は理解できるのかも知れないが、正直、ハードルの高い映像でもある。)

何故、この「戦場のメリークリスマス」が分かり難いのか。やはり、セリアズの繊細さ、その存在を理解するのは、観覧・視聴する側に、かなり高いハードルが要求されてしまうからであろう、という感慨に到りました。理解できたとしても、それに共鳴したり、共感したりするのは、更なるステップアップが必要になるかも知れない。しかし、少なくとも、セリアズという人物は、非常に繊細な人物であり、その人生を回想して「自分の人生には裏切りしかない」と語る人物であり、最早、自分が生きている事にも意味を見い出せないタイプの人物である。そういう人物であるから、収容所内でも自由な振る舞いに固執している。俘虜と収容所の監督官の関係を越えて、敵と味方という関係を越えて、人と人とがいがみ合う事を拒絶している。その一連の自由放埓な行動のクライマックスこそが、ヨノイ大尉の元へとフラフラと歩み出る、あのシーンであったのだろうな、とね。

また、この「戦メリ」の冒頭シーンは、マチズモ的な組織にありがちな「カマ野郎」問答がある。ビートたけし演じるハラ軍曹は「イギリス人は全員、カマなのかって訊いてんだよ?」といった具合の台詞がある。トム・コンティ演じるローレンスは「捕虜になってしまうとうんぬんかんぬん」と理知的に説明するが、ハラ軍曹には伝わらない。ハラ軍曹は「お前らは兵士じゃない。俘虜だ。ニッポン人は俘虜になんてならないんだぞ。敵の俘虜になるぐらいなら死ぬからな」と応じている。

広く深く読んでいけば、「戦争が人と人とをいがみ合わせている・無理解が人をいがみ合わせている」という問題をも複線的に描いている。しかし、観覧・視聴したとして、それらを一気に感じ取るのは容易ではない。




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30日付の読売新聞27面は文化面であり、月イチの「思潮」と銘打って論壇誌で展開されている思潮を開設している。

取り上げられているのは、当ブログでも再三、引用したラリー・ダイアモンド氏でした。

これ以上被害が出ないために、ウクライナ側に停戦を求める言説もあるが、政治学者のラリー・ダイアモンド氏は「敗戦と民主主義の後退を阻め」(『Voice』)で「世界の民主主義を後退させないためには、ウクライナがこの戦争で勝つことが非常に重要」と述べ、戦争を終わらせたいがために、ロシアに勝利を与えることを厳しく批判する。ダイアモンド氏は「全体主義による圧政や暴政を受け続けながらでも、戦争状態ではない意味での『平和』を享受したいと望むのでしょうか? 平和はもちろんのこと、人権や民主主義といった価値のために戦う覚悟をみせなければ、やはり最終的に独裁者に勝利を許してしまうのです」と主張する。

この意見に賛同する人が多いのも分かりますが、現状を直視した方がいいというのが私の意見かな。ダイアモンド氏の意見は尤もらしく聞こえる言説であるが、実際に戦争の出口が見えず、日々、犠牲者が増えているという現実から視線と関心とを逸らしてしまう美辞麗句でもある。「圧政下の平和を望むのか?」と言われれば、「そんなものを望んじゃいない!勝利あるのみだ!」と叫びたくなるのがマチズモというものだが、これはよく吟味すべきだ。ウクライナが勝利するという採算があるのであれば、その思考は有効でしょう。しかし、現状としてウクライナが勝利するという目途は見えていない。それこそ、テレビ朝日や週刊文春あたりでも、SVR将軍なるツイッターアカウントによるロシア政権内部のリーク情報をソースとして、6月いっぱいでプーチンが大統領を辞任すると報じていたが、とうとうタイムリミットの6月末日を迎えている。同発言は5月末から出回っていたが、徐々にトーンダウンし、プーチン辞任説などまるでなかったかのような事になっている。

或る種のプロパガンダが国際情勢を包み込んでしまっており、テレビ朝日「大下容子ワイドスクランブル」あたりでも、一昨日は如何にロシア包囲網が巧くいかなくなっているか、アフリカ諸国などでは思いの外、西洋文明への反発が強い事を取り上げていた。そして昨日はバランスを取るかのように中国の野望を取り上げてみせたが、中露外しという戦略を西側陣営が取ろうとしている事は、既にバレバレでもある。冷静に状況を眺めると、西側諸国が今後も国際秩序のイニシアチブを従来通りに握っていられるという保障はなく、思いの外、西側諸国の論調に巻き込まれ過ぎている。

26日付の読売新聞7面(国際面)にはワールドビューと題して、読売新聞アメリカ総局長の中島健太郎氏の署名入り記事がありましたが、バイデン大統領は7月にサウジアラビア訪問を発表、無事に石油増産に漕ぎつけた。しかし、バイデン大統領は2020年の大統領選のテレビ討論会に於いて、実はサウジアラビアのムハンマド皇太子がカショギ氏の暗殺事件の首謀者であった事を踏まえて、

「代償を払わせる。パーリアにしてやる」

と述べていたという、過去の舌禍事件に触れている。この【パーリア】とは、元々はインドの被差別民を差す言葉であり、国際関係で好ましくない行動で疎外されている国の事を言うのだそうな。つまり、バイデン大統領は、サウジアラビアを除け者にしてやると発言していたの意だ。ジョー・バイデンとは著書を読めば分かりますが、思いの外、原理主義的な頑固さを有しており、そうであるが故に同時に失言も多い人物なのだ。今回、石油価格の高騰を受けてアメリカ国内で批判が高まった結果、それまで「パーリアにしてやる」と言っていたサウジアラビアへ訪問し、何某かの手土産を持ってサウジアラビアの皇太子を説得したと考えられる。

実は、やっている事は政治であり、政治的取引である。また、何故、ラテンアメリカやアフリカ、アジアで、思いの外、NATO及び西側陣営が支持されていないのかを冷静に見る目が必要だ。一昨日の「ワイドスクランブル」の特集が指摘していた通りで、西側諸国、特にアメリカって事になるのかな、アメリカが自由と民主主義を守る為とか、国際秩序を安定させる為として行なってきた過去の犹抉膈瓩紡个靴討糧身が思いの外、強いのだ。過去には専制君主を支持してきたし、反政府組織を支持してきたし、その挙げ句にウサマ・ビンラディンのような人物を登場させたりもしてきた歴史が問われているところがある。

確かにロシアが勝利するというシナリオは悪夢のようですが、新聞広告で知りましたが、おそらくユヴァル・ハラリ氏は、そちらを予想しているっぽい。いやいや、侮れない。冷静に考えて、どのような展開になればウクライナの勝利として戦争が終結に到るのか、そのシナリオを具体的に考えにくいというのも、どうしようもなく現実だと思う。

中国が世界の安全保障を変えるという事を意識して、グローバル安全保障イニシアチブなるものを発表したという。勿論、額面通りに受け取る訳にはいかない。しかし、国際政治のイニシアチブに何かしらの変化が起こる可能性がある事に、気が付いているからこそ、打ち出したものなのでしょう。西側諸国は自分たちのイニシアチブを喪失する事を怖れて躍起になっているものの、国際政治とは特定の軍事強国が常に強い政治的主導権(イニシアチブ)を持っている形よりも、より多極的なものになっていくと考える筋道は、ホントは避けられない流れのような気もする。

どうなれば理想なのかなって思うのは、やはり、これ、「郷に入っては郷に従がえ」ですかね。それがコスモポリタンに近い。小中学生の頃に夢中になって読んだ漫画『銀河鉄道999』では、その星その星には、当たり前に、その星の法律や慣習があって、旅行者である鉄郎とメーテルは、それらの御約束を守って、その駅その駅で下車して、その星を体験していた。郷に入っては郷に従えこそ、普遍的なルールであるべきではないんだろか? 他方、グローバリズムというのは世界を包んでしまおうとする世界一元化計画だから、どうやっても反発を招くのであって。

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気のせいか、本年は例の都道府県魅力度ランキングが不発に終わった気がする。そもそも、何故に、あんなものに何年も何年も振り回されるような世の中になってしまったのか不思議な気もしていた。(経産省の関係者でも、例のランキング作成会社に居たのだろうか?)それと、もう一つ、食べログの問題というのもこの数週間以内にあったと思う。他人が飲食店を評した点数、しかも点数は食べログ側の公開する事のできないアルゴリズムによって算出し、且つ、店側からは会費も徴収していたという評価システムと広告との融合なのでしょうけど、皆が皆、そういうランキングをアテにするようになると、どのみち、なんだか不可解なビジネスモデルだよなって感じる。

食べログ問題については、「羽鳥慎一モーニングショー」で話題として取り扱っていた際、長嶋一茂さんは「他人の評価はアテにしない」といい、玉川徹さんも同じく「他人の評価はアテにしない」と答えていたのを記憶している。確かに、きっと点数化する事で利用者に分かり易く利用すべき飲食店の情報を提供しているのだろうけど、そもそもビジネス、利益を追求するのがカンパニーであり、カンパニーは例外なく利益を追求しているものだ。そして、そのカンパニーによって運営されているランキングだし、そもそも広告と密接に関係しているビジネスモデルのように見える。

諸々のランキングというのは、一定以上、恣意的に決定する何かであり、仮に主観的評価の総和であったとしても、それが、その人の好みにベストマッチするとは限らない。行列をつくる人は、常に行列をつくる人であり、行列があれば取り敢えず並んでみるというタイプの人だってある。混雑する時間帯を好み、渋滞しているルートを好む。みんなと同じ行動をする事で、何か安心できる心理でもあるのだろうか?

踊る事は問題がないのだけれども、或る種の商業的マーケティングによって踊らされている可能性なんてものも考えてみる必要性があるような気がする。別に世間的に高ランキングのものを食べなくとも、自分自身がおいしいと思うものこそが「おいしい」という事ではないのかな。他人の評価なんてアテにならないし、ランキングというのは総じて精緻にランキング化されたものではないというのが常だろうしねぇ。

例えば昔からある書籍のベストセラーランキングでは、売れている書籍が、イコールで優れている書籍、読む価値のある書籍であるとは限らないのは一目瞭然でもある。単に部数として売れてる書籍のランキングに過ぎず、中身や内容を評価したものではありませんね。


山田太一著『月日の残像』(新潮文庫)の中に、『食べることの羞恥』というエッセイがあって、色々と考えさせられました。

先ずは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の逸話が紹介されている。教師をしていた小泉八雲は、生徒たちを招いた折、客には菓子をふるまうのが日本の習慣があるので、それに習い、少しだけ上等な茶菓子を取り寄せて振る舞っていたのだそうな。学生たちは、それが大好物であった。しかし、学生たちの中で、一人だけ、小豆沢(あずきざわ)なる学生だけは、一向に菓子に手をつけなかった。怪訝に思っていると、その小豆沢なる学生が言った。「僕は兄弟で一番年下ですから、やがて自活して行かねばなりません。これから先色々な困難に出遭います。今から美食の癖がついては、後々苦労することになります」と。小泉八雲は「まるで若年寄りのような男ではないか」と苦笑気味であったが、その文章としては小泉八雲は、そんな小豆沢という学生の言動に好意を抱いていたからこそ、そんな事を日記に記したのだろうと山田太一は考察している。

確かに、殊勝な理由すぎて、若い時から年寄りみたいな事を言うと感じるでしょう。しかし、怪しからん話なのかというと、そうではない。やはり、殊勝な心掛けだと捉えざるを得ない。その小豆沢なる学生の言動からは、日本人の奥床しさが表出した一場面のように思う。

むしろ、若年にして美味いものの味を知ってしまう事は、後戻りできなくなる可能性がある。そんな事は、ホントは私ぐらいの年齢でも、少しは残滓が残っていたと思う。子供に高級食材なんて食べさせる必要性はないという考え方が一般的であったと思う。味をしめてしまえば、毎度毎度、それを欲するような不経済な者になりかねない。しかも、そこに大人げなく、オトナの悔しさを滲ませてみせるのが、通の在り方ではないのか?

「イクラ? 価格に比して得られる満足度は高くもないのでは? コップの中に粒を入れてみ? 浮かんだら、それ人工のイクラなんだってさ」とか「海のダイヤモンド、カズノコなんて笑っちゃうよね、あの味に大枚を叩いている連中の気が知れない。シナチクに鰹節をまぶして小皿に乗せて出してやればいいのに。違いに気付くと思う?」とか、大人げなく負け惜しみ半分に高級食材や高級料理を貶しに行くのが庶民派の正義ではなかったのか?

思えば、ごはんに鰹節をかけたり、ごはんの中にバターを入れて醤油を垂らして食べたり、実際のところ、そんなものでも満足できてしまうのが日本人ではないだろうか? 納豆にごはんとインスタントみそ汁。塩分が高いのを覚悟して荒巻鮭の切り身を食べた事はあるだろうか? 「しょっぱい。しょっぱすぎる。塩の塊を食べているようだ。しかし、きっと、ごはんは二杯ぐらいおいしく食えてしまうであろう」となる。寿命も縮める事が出来るかも知れず、ひょっとしたら一石二鳥かも知れない。しかし、旨いのは確かなのだ。世にいうグルメだなんだという概念は、商業的マーケティングに乗せられた人たちの言辞だったりするのだ。

彼等のボキャブラリーを見よ。肉汁(にくじる)とか肉汁(にくじゅう)と必ず言う。或いは「ジューシー」と表現する。しかし、生産側は、そのような反応になる事を知っているので、鶏脂を注射器でハンバーガーに注入して、ハンバーガーを齧ったら鶏脂が肉汁としてあふれ出るようにしているのだ。空間を表現して「抜け感がいいね」と流行のワードを語り、音楽評になると「この疾走感がたまらないのです」と流行のワードを放り込んでいるだけのようにも見える。てっきり、この「疾走感」なるワードは当代隆盛のコンピューターで作った音楽のあのリズムの事なのだろうと思っていたら、70年代風のロックの楽曲にも使用されていて驚いた。訳知り顔。猫も杓子もだ。

少し『食べることの羞恥』から引用します。

そして「うまいもの」にくわしく熱心な人が敬意を表され、敏感な味覚が権威になったり、大食いを競うテレビがあったりで、ハーン先生の菓子ぐらいならよけて通れるが、時代をあげての洪水では、私如きでさえ、いくらかの美食とは無縁ではいられなくなってしまった。

すると、ある知人が「渥美清さんが、こんなことをいっていたそうですよ」と雑談の中でいった。「うまいもんがあると聞くと、捜してでも食いに行くなんて、なんか、品がないよなあ」と。

さすが渥美清さんだと思った。これは、食べることの羞恥を知っている人の言だと思った。美食から身を引いている人の言だとも。

私の反応がいいので、知人も盛り上がった。「鼠みたいに鼻をクンクンさせて、みつけると舌鼓を打って食うなんて、ほんと臆面ない」「まずけりゃなんだっていうんですか」「たかだか六十年前、俺たちは飢えていたんです」「いつまたそういう時代が来るかも分からない」「舌なんか洗練させてどうするんです」「なんでも食える力をつけよ」「あるものを愛せ、ですよ」「欺されてバカ高いワイン抜いてクンクンするな」


ああ、確かに日本人の感覚かなって思う。いやいや、私が少し古くさいところがあるのも認めなければならないのだけれども、日本人論の小泉八雲と、如何にも日本的な松竹、その松竹映画の看板スターの渥美清、そして綴っているのも松竹映画で助監督をして後に脚本家として成功した山田太一であり、少なくとも昭和40年代や50年代の日本人の価値観は、そちらであったと思う。

そして、やはり、山田太一も、野坂昭如と似たような戦後体験に触れている。つい、この前まで敵として憎んでいたジープに乗った占領軍から流れててきたハーシーの大判のチョコレートをもらった経験を綴っている。

やがてアメリカ軍の菓子だとハーシーの大版のチョコレートを手渡された時の火傷でもするような感じ、少し前まで敵だった奴らの菓子を喜んでいいのかという戸惑い、我慢できずに食べてしまった時の汚れてしまったような気持ちを思い出す。

戦中派の人の場合は、これが原体験としてあったから尚更に強烈だったのでしょう。少し前まで敵だった奴らの菓子を喜んでいいのかどうか…という戸惑い。

まぁ、堅苦しい事を言うつもりはないのだけれども、節約する事の美徳とか、ホントは粗末な食事と呼ばれるようなものでも、美味しいと感じさせてくるものは沢山あるのに、飾り立てられた広告の中にしか価値観を見つけられない飽食状態が商業主義によって実現されているという事だと思う。行列なんてつくらずとも、吉野家の牛丼とか、セブンイレブンで売っている冷やし中華あたりでも、ホントは充分に美味しいと感じさせてくれるものですしねぇ。いやいや、それだって贅沢かも知れない。永谷園のさけ茶漬けだって実際に食べてしまうと「こんなに旨いのか、一日一食は、さけ茶漬けでいいじゃないの?」って感じたりもする。
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舌に関しては、贅沢な舌よりも贅沢ではない舌の方が経済的であるに違いない。
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ブログに書く事が見つからない。単なる暑さの所為なのか、それとも目にする情報のどれもこれもに落胆しか見つからないからなのか…。

そんな事を思いながら就寝するも結局は眠れない。蒸し暑いし、連日の猛暑なのでへばっているのだ。トイレに立ってみると、深夜2時過ぎですが、そこでカエルの鳴き声を耳にすることになる。徐々に宅地化が進行しているので、どこからカエルの合唱が聴こえてくるのか不思議な気もする。考えらえるのは僅かに残っている下水路と未舗装状態の駐車場あたりという事になる。カエルの合唱というのは、特にクルマが通ったりした訳でもないのに、突如としてピタリと止んだりする。カエルにはカエルの事情があるだろうなぁ…などと考える事になる。

少し前からラテン系というのは陽気であり、その陽気である事の理由の一つとして、官能的であるという事柄が関係していると考えている。陽光を浴びることは、既に感覚機能を快なのだろうから官能的とも言えるし、通常、我々が抱いている【官能】とは、しばしば性的な事柄と関係しているが、性の事柄とは、まさしく交感神経とか副交感神経とか、そうしたものの遠因にもなっているであろう官能性とも関係している。つまり、何が言いたいのかというと、性に奔放である事、性に肯定的である事が本来的な人間的な姿であり、その部分でラテン系の文化というのは、実は健全だよなと感じたのだ。

翻って現在の日本というのは首をかしげたくなるような性描写社会になっていると思う。萌え文化なるものがサブカルチャーという意味で、一部の愛好家たちによって持て囃されているというのであれば、特に何の感慨もないのだけれども、瞬く間に社会を席巻してしまったのが実相であったと思う。現在ともなると町おこしをするにも萌え要素のあるアニメーションがどうのこうのとなっており、また、性的表現がどうのこうのと問題視され、それがハラスメントになる等と糾弾されている。しかし、そもそもという事からすれば、人間とは官能的な生き物であり、誰も彼もが性事情を抱えている生き物でもある。それは恐ろしい程に雑多で、色々と眉をしかめたり、攻撃したりしているものの、それでいて、推奨されるべき健全なる性のセオリーみたいなものだって成立するのかどうか分かりゃしない。まぁ、日本の場合、相当に捩じれた回路の性事情になっているのだろうなと思う。何故にアニメ―ションや、二次元キャラなのか? 表象に欲情しているという事になるのだろうけど、色々と限界に近いところまで来ている気がする。

色気のあるものに色気を感じる、それは健全な事でしょう。しかし、世の中は複雑に捩じれくれており、性的な眼差しで見られる事はイヤだという。だったら、性的な眼差しで見られないよう工夫をすればいいように思うが、一向にそうなる気配はない。おそらく、実際には性的な眼差しで見られる事を本能的に渇望しており、そうであるからデコレーションするのだ。デコレーションとは、化粧であったり、服装であったり、要は自分の身体を飾り立てる事を意味している。平たく言えば、オシャレをする事であり、それらは他者から、どのように見られたいかという心理と関係している。

そして、このように述べても幾らでも反論を掲げることができる。口頭で「そうではありません!」と言いさえすればいい。しかし、違うんだなぁ。殆んど、そこら辺りについては人類学の系譜などでは語られ尽くしている。動物の生態がそうなのであり、また、ヒトも似たような生態を有している。ヒトは本質的にスケベな生き物なのだ。

野坂昭如の「エロ事師たち」は今村昌平によって映像化されたが、タイトルの副題には「人類学入門〜エロ事師たち」となった。映画を撮り続けた今村昌平は自らを語って「スケベなんでしょうねぇ」と語っているし、今村昌平がカンヌを獲った「楢山節考」も自然界に存するセックスと村社会の性事情を濃密に描いた為、吉本隆明からは「これはポルノ映画じゃないか!」と酷評されたそうですが、総じてポルノまがいのものが高評価を得たりもする。きっと、万国に共通して評価を得るものの一大体系とはエロスで、それは本能的なものなのでしょう。


ひょっとしたらと思い立ってG・ガルシア・マルケス著『百年の孤独』(新潮社)を読み始めたところで、まだ、50頁ぐらいしか読んでいない。しかし、予感は当たった。まぁ、官能的だ。やはり、ラテンだ。錬金術に没頭する主人公が登場し、ジプシーが登場する。また、近親交配を続けていると、ひょっとしたらイグアナの赤ちゃんが生まれてしまうのではないか等と不安を抱き、また、我が子の裸を目撃してしまい、その目撃してしまったデカチンに対して、一瞬の不安を感じる。思えば、そんな事をしてきたのが人類かも知れない。

錬金術なんてナンセンスだと考える。しかし、現代人が心血を注いで注視している経済ニュースそのものが錬金術だし、金融工学、経済学だって錬金術の亜流かも知れない。財、財、財、富、富、富と、まぁ、そんなことばっかりをやっている。政治を語るにしても、或る時期から平和や国際協調よりも経済政策について語るのが主眼となった。経済政策が巧くいきそうもないとなると中央銀行や経済学者の出番となって、これまた巧妙に何が何だか分からない錬金術の魔法を駆使して人々を惑わしている。百年後や二百年後になれば、きっと、百前前や二百年前を回想しながら、「この当時の人たちは、なんで必死になって錬金術に心血を注いでいたんだい?」と語られているのかも知れないな、等と思う。

国家が幻想の産物であるという説があるらしい。いやいや、財や富だって。或る人からドラマ「ハゲタカ」の再放送を視ていると告げられる。これまた、古いドラマだよなと思いながらも、あの辺りからマネー狂奔は描かれていたのにな、と思い返す羽目になる。あのドラマのエンディングシーンで用いられる映像は今でも印象的で、札束が空から降って来るのだが、それを人々の手が掴みとろうとすすると、紙幣は、ふっと透明になってしまうという映像であった。確かに現代人の一生とは、そんなものかも知れない。まるで、悪い魔術師にそそのかされているかのようなものかも知れない。しかし、狂奔の渦中にある彼等は断じて自らの認識を疑わない。価値の裏付けになっているものは何であろうかとか、そういう事柄については考えないように進化してきているのだ。

アルフォンソ・リンギスのどの著書であったか、人類に於ける歌のはじまりは、きっと鳥の鳴き声や虫の鳴き声を真似て唄ったものだろう。それが何を意味しているのかというと、恋の歌を唄ったのが人類に於ける歌のはじまりでる――といった記述があった。鳥の声には仲間とのコミュニケーションもあるようですが、ウグイスがホーホケキョと鳴くのは恋の歌でしょう。虫の声の多くも恋の歌だし、カエルの合唱ともなると恋の歌の合唱という事になる。

黒澤明監督の映画「生きる」の中で、志村喬演じる主人公が自らの死を悟って、ブランコに揺られながら口ずさむ歌は「ゴンドラの唄」でしたが、その歌詞は


いーのち、みじーかーあーあーしー

恋せよ、おとめー

であった。人生の総決算をしたとき、人はそのように感じる事になる。色々な欲求を抑圧して、世間体や常識、法律だとか、更にはコンプライサンスなんていう謂れのない幻想にあれこれと惑わされながら、せせこましく隷従的な人生を歩み、常に、「こうあるべきだ」と自分を律して生きているのが現代人でしょう。死の間際になって、やっと、そんな事に気付くが、そもそも、という事かも知れない。

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テレビのニュース等でも取り上げられていますが、米最高裁が人工妊娠中絶の権利を否定した事で動揺が広がっているという。報じられてはいるけど、日本の情報番組の感覚だと問題には深入りしていない感じですかね。つまり、「アメリカで、こんな事が起こっていますよ」という具合にトピックス(話題)の一つとしての報道。

確かに、この中絶の賛否問題そのものは、掘り下げたところで、何か興味深いものに行きあたるものでもないのかも知れない。当ブログでは、ヤノマミ族を執拗に取り上げてきたし、マイケル・サンデル教授が生命倫理に取り組んだ書籍にも触れてきた経緯もある通りで、「中絶を禁止する」という決定、その発想にも違和感しかない。説明上、中絶を認めないという主張には、そういう生命倫理なのだと新聞でも解説されていますが、どうも〈生命倫理〉というよりも〈宗教的教説〉といったニュアンスなのでしょう。実際に、南部の州や保守層と呼ばれる層に於いて「中絶は許されない」と考えている人が多いという。

そして、この人工妊娠中絶を巡っては、米国では伝統的に民主党と共和党との対立軸になっているという。平たくいえば、「産むかどうかは女性の選択に委ねられる」という主張を【プロ・チョイス】と呼んでいるらしい。【プロ・チョイス】は「選択を支持する」の意。対して、反対派は【プロ・ライフ】と呼ばれるらしく、意味は「生命を重視せよ」の意だという。しかし、言葉の使い方によって印象が良くなるか悪くなるかの問題にも思える。実際には「賛成派と反対派」という呼称も事情を正確には反映していないように思える。

中絶賛成派とは、産む当事者である女性の選択に中絶するか否かの判断を委ねるべきだという意見なのだから、意味を絞って表現すれば中絶容認派という事でしょう。中絶反対派は確かに宗教観や生命倫理と密接にくっついているので伝統的価値観や慣習との関係しているのかも知れない。しかし、人工妊娠中絶を禁止するという事は法的に「規制する」という事であり、当たり前ですが、法的に禁ずるの意であり、狭量なのは明白だと思う。いわば、中絶禁止派のニュアンスに近い。何が言いたいのかというと、賛成か反対かという二項対立ではなく、「容認か禁止か」という二項対立だよなって思う。

どうして、こうもアメリカには古い問題が起こってしまうんだろうと、正直、そう思う。しかし、読売新聞が引用しているニューヨーク・タイムズの見解を孫引用すると、どうも全米で少なくとも21の州が、中絶を禁止するかもしくは厳しく制限することになる見込みだという。勿論、この判決が出たのはトランプ政権時に最高裁人事が大きく関係している。しかし、この事は、最高裁の判決とて、実は最初の時点から、保守派の人物を判事とするかリベラル派の人物を判事とするかによって、簡単に操作できてしまうという事実については、証明したかも知れない。最高裁判事の比率が保守化した為に起こった問題とも言える。

しかも、米国の最高裁判事の任期は終身制なのだという。つまり、しばらくはアメリカの分断と動揺は継続する事が、ここからも予想できてしまう。

26日付の読売新聞では、この問題が1面と3面と7面で取り上げられていました。興味深かったのは国際面(7面)でした。次の表を眺めてみる。
img058
うーん、私が思うにロシア、ロシアだと中絶は合法で、しかも健康保険の適用対象らしい。で、この表で考えてみても、米国が中絶を禁止するというのは、中々に衝撃的である事に気付かされる。自由と民主主義を守らねばならないという価値観外交を打ち出しているが、最高裁判決で中絶を合法としてきた事を引っくり返した訳でしょう? 確かに自由主義的な価値観の卓袱台返しという意味ではインパクトは大きいかも知れない。

3面(総合面)から少し引用します。

〜前略〜今回の判決が同性婚など他の争点にも影響を及ぼすとの懸念もある。実際、保守派の一人、クラレンス・トーマス判事は判決の中で、同政権を合憲と認めた最高裁の判断について再考する必要性を示唆した。〜後略〜

一連から、今後も米国社会の分断には、一層の拍車がかかる事が予想されるという視点で論じられている。

私もそう思う。

また、同時にNHK特集が放った「ヤノマミ」と「イゾラド」の凄味を今一度、再確認できた気になっている。先ず、「ヤノマミ」の方で、衝撃的な精霊送りという習俗が映像化されていたという事。それと「イゾラド」の方では、文明に接することなく、生き続けてきた先住民と、実際の住民たちとの間に発生する殺し合い、トラブルが描かれている。それは或る意味では生々しいモノノケとタタラとの対立にも似ている。

モノノケの民によってタララの民が殺害される。するとタタラの民は銃などを持ち出してモノノケへ復讐しようと言い出す。そこへ、シドニー・ポスエロという人物が復讐に燃えるタタラの民たちを鎮めようとして宥めるというシーンがある。

「復讐してはならない。我々文明人は、何倍も何十倍も彼等を虐殺してきたのだから」

と。

しかし、肉親を殺されたタタラの民の怒りが収まる訳もない。哀しみも言えない。当たり前だ。愛する家族を殺されたのだ。それを晴らすには復讐しかない。しかし、それでもポスエロという人物は立ちはだかってみせる。最早、自分の役割は、それであると決心しているかのような態度だ。アマゾンに於ける原住民保護、その番人になっているが、確かにそのモノノケとタタラとの対立は、一方的な虐殺になりかねないという問題を孕んでいる。おそらく、そのような先住民(原住民)虐殺の歴史は、大航海時代以降、何度も何度も無数に繰り返されてきた歴史だと考えられるのだ。征服の歴史や病原菌を持ち込んで大量絶滅させている事を思えば、かなり文明人は先に文明化したが故に彼等を都合よく扱ってきた悪質な連中だとも言える。

激しく鋭い対立という問題の究極には、強い方が譲歩するか、賢い方が妥協してやるか、或いは先進的と自負する側がそうでない側に負けてやるか、それぐらしか共生の道はないのかも知れない。なので、そのシドニー・ポスエロなる人物に驚きを感じたのでした。

翻って、おそらく現行の文明人は、この問題を乗り越えられないような気がする。互いに譲歩せず、対立を激化させ、結局は衝突に持ち込んでしまうのだろうなって思う。

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国際情勢として西側陣営、もっと絞ってしまうとアングロサクソンによるイニシアティヴ、つまり英米による主導権が揺らいでいるのではないかと感じている。それはオブラートに包まれており、大雑把には戦勝国による主導権だったのだけれども、中露を敵視した事によって、より英米両国による政治的主導権の問題である事が鮮明になってきたと思う。

【欧州】と括ったり、【先進諸国】と括ったり、或いは【西側陣営】及び【自由主義諸国】のように括ったりしてきた。そうする事で、フランスやドイツ、日本やイタリアあたりをも巻き込めるようになっているのですが、世界大戦の頃から一貫しているのはアングロサクソンによる国際政治の主導権の話であり、つまり、英米の主導権なのだ。米英の順番で表記しても間違いではないが、歴史を踏まえると英米の順番が打倒かな。

第二次大戦末期のヤルタ会談の際に行なわれていたヤルタ秘密協定は、第二次大戦後の世界をどうすべきかを各国のリーダーたちが話し合いを決めたものであった。決して陰謀論ではない。NHK「映像の世紀」を筆頭にして、多くの近現代史検証の場で語られてきたし、新右翼もしくは極左は、そういう問題を取り上げて来た。あんまり、問題を取り上げないのは、自由で開かれている筈の民間の新聞社やテレビ局の方だったかも知れない。しかし、この世界を決定づけた秘密協定は、第二次対戦前、実際には第一次世界大戦時にも用いられている。その代表例がサイクス=ピコ協定などでしょう。こちらはオスマン帝国の領土分割について英仏露が締結していた秘密協定であるが、実はパレスチナ問題を惹き起こした元凶でもある。

フランスは自由主義陣営であるが、民族的アイデンティティーとしてはどうなんでしょう、事典でラテン系を引いた場合、フランスも表記されていたりする。しかし、この話は後に米国が英国に巻き込まれて行くようになると、この英米両国、アングロサクソンによる国際政治イニシアティヴは明確になっていく。それは「世界を政治的に支配する」という構想であり、旧植民地主義からの巧妙な転身であった。政治的に支配するという事は、即ち主導権を掌握するの意であり、そこで主導権を掌握してしまうこそが【政治】そのものの中心的役割でもある。【政治】とは総じて主導権の奪い合いになる。派閥を形成しての派閥争い、或いは分派して争い合うセクト争いに終始しがちの欠陥だらけの意思決定システムでもある。

また、上記の秘密協定に於いては、サイクス=ピコ協定にあっては帝政ロシア時代のロシアが、ヤルタ秘密協定にあっては、ロシアの後進であったソビエトが参加しながらも結局は英米と分裂しているという経緯を持っている。その辺りの事情を理解していながら沈黙をして天秤にかけているのが世界大戦で二度とも敗戦国になったドイツが先ず一つ。それとイギリスとは盟友関係にありながら反目する事によって歴史的なアイデンティティーを形成してきたフランスが一つといった感じであろうな思う。

日本? 日本は残念ながら蚊帳の外ですね。日独伊の同盟があった時代は、世界の趨勢を握る脅威として存在感もあったのかも知れませんが、日本人はイニシアティヴに疎い。戦後になると、色々な教育がなされてきましたが、かつての「文部省推薦」、政権に都合のいい情報によって政治が語られてきたので、中々、国際的イニシアティヴの問題に疎い。半独立国家という状態であるが、その事を認めるのは情緒的不安定を伴なうものだから独立国家であるという認識を自ら否定することはなく、それを好都合に、実質的な衛星国である事に安穏と胡坐をかいてしまっている。何故、先に亡くなった「石原慎太郎」という人物について一目おくべきだったのかといえば、その辺りの事情を右派の立場から公然と語ってしまう人物であったからに他ならない。

似たような主張をする右派的言説の体系は相変わらず盛んですが、それら右派は親米である事を第一義的な条件として成立している右派であり、親米が第一条件となる。つまり、結局のところ、独立心旺盛な日本には日本の文化があるじゃないかと主張できる右派ではない。アメリカとパートナーシップで向き合っているのではなく、アメリカさんにゴマを摺り摺りし、そんな事をしておきながら一方では国内勢力の日本人相手にマウントをとりに来る人たちであり、諸々、厄介な人たちでもあると思う。50代や60代の人たちでも、そういう人は少なくない。また、そうする事がベストなのだ、ベターなのだという見解にしても、実際に有り得るのがリアリズムだから、暗に否定する事も難しい。しかし、日本人が日本人として考える国益や、或いは世界を認識する認識方法、或いは国際強調の意識等を妨げているという意味では、ホントは厄介な人たちでもあると思う。

また、米国も元々はモンロー主義を採っており、「世界の戦争には関与しないでおこう」という政治スタンスであった。しかし、二つの世界大戦の前夜から、世界を経営するかのような発想に転じた。言葉を遠慮しているが、それは「世界の警察」の名の下に政治的覇権主義に傾斜した事を意味している。世界各地が戦乱に陥る中で、アングロサクソン族という民族的アイデンティティーによる紐帯があり、或る人は米国は英国に引き摺り込まれたと表現し、また或る人は資本主義の宿命であったという風に表現する。斯くして、世界の趨勢は英米主導権の国際秩序となった。

反旗を翻す動きの一つは、おそらく世界同時革命論というソビエトが持ち出した共産主義運動で、もう一つが、ナチズムを含むファシズム運動であったと思う。ファシズムとは、国民を束ねるという全体主義を表わしているのが原義だという。なので、仮に大日本帝国について、それを天皇制ファシズムと呼ぶような事は不可能ではない。先日、ゼレンスキー大統領のツイッターだか何だかが「日本はファシズム国家ではなかった」という講義を受けて謝罪したようですが、微妙と言えば微妙な問題だ。そこに固執しているあたり、少しおかしいのかも知れない。それらファシズム的思潮は何故、全体主義に傾斜したのかと言えば、それは列強に対抗する為であった。ナチズムになればより鮮明で「生存圏の獲得」という理念が提唱され、それらが既得権と衝突した。一方の共産主義の中核はマルクス主義という思想であるが、やはり、その経緯を眺めれば最初は帝政打倒からスタートし、一定以上の拡大を遂げ、国際政治に於ける政治的イニシアティヴを奪いにいく継続的な思潮になったものであったと思う。こちらも全体主義を武器にした。

当時の世相にも顕われている。世界的な人気者であったチャーリー・チャップリンが危険人物視された。レッドパージの波だ。レッドパージとは、赤狩りの意味であり、現行の自由主義諸国では過剰反応をして共産主義や社会主義を弾圧した。しかし、実際の思潮からするとフランス大革命があり、その大義は自由・平等・博愛であり、それは純粋といば純粋な自由主義思想であった。政治としてのイニシアティヴ争いの中で、資本主義原理に重きを置く富裕層は資本主義を歓迎するに決まっており、その富裕層に殉じた層がブルジョア層であり、富裕層とブルジョア層とによる自由主義思想になった。その制度の中では貧困層も中流層になれる、労働者階級から市民階級になる事だって不可能ではないという希望もあった。

また、そのフランス大革命前後にはイギリスやフランスでも社会主義思想が論じられていた。そのままでは富裕層と、富裕層に気に入られている学者らが、言説をリードしていくだろうから、どういう方向性になるのか予想ができてしまうところがあったのだ。ざっくりとした社会主義思想が生まれ、また、自由主義の中からアナキズム体系が生まれ、左派を形成した。そして、おそらくはドイツやロシアで、社会主義思想の大枠を破ってマルクス主義(共産主義)が台頭し、それが当時の世界中のインテリ層に刺激を与えた。確かに「権力とは何であろうか」や「理想の政治形態はどのようなものであろうか?」という根源的な問いを抱えた思想的潮流であった。警察は市民デモを鎮圧し、蜂起が起これば、軍隊が出動して、それを反乱を鎮圧した。その政治的対立の勝敗、その趨勢を雌雄したのは、ひょっとしたら警察力や軍事力といった武力であったかも知れない。

この警察力や軍事力の事を、政治学では暴力装置と呼ぶ。別に、それは失礼な呼称でもないが、数年前、ある政治家が自衛隊を暴力装置と呼んだ事が問題視され、「自衛隊に失礼じゃないか! 謝罪すべきだ!」という糾弾が衆愚社会で起こってしまい、その発言者は謝罪した。一周も二周も、二重三重に言論の周回遅れができてしまっているのが実相であるが、それでも市民意識の強い彼等は頑なに主張する。「私たちはバカでありません! 市民をバカにするな!」、と。そして、そのような言説がマス・センチメントの美称たる世論では常に多数派を形成してしまうのが現実でもある。この現象を衆愚だと言っている。

衆愚を衆愚と認めねばならない。しかし、このことはバカにされているようで不快に感じるかも知れませんが、これは事実でしょう。仮定の話ですが、ある面白い事を中学や高校のクラスメイトの数人が発見して遊んでいるとしますね。すると、面白い事をしているらしいと嗅ぎつけてクラスメイトの別のグループがやってくる。もしかしたらクラス全体や学年全体も「どれどれ、面白い事をやっているらしいぜ」と集まって来くるのかも知れない。しかし、数が増えると、大概は、そもそも面白味の妙味も理解できない者が登場する。しかも、その面白さの本質に関わっている部分のルールまでもを変更してしまい、挙げ句には「なんだ、ちっとも面白くもねぇじゃん!」と捨て台詞を吐いて去っていく――そういう法則。実はショウペンハウアーが『幸福について』の中で言及してみせている。こういう現象が、どうしようもなく衆愚なのだ。

仲間内で勝手に面白いと楽しんで遊んでいるんだから、そこに集まってこなくてもいいのに、わざわざ集まってくる。挙げ句、この方が面白いだろう等と口を出して、そもそもの面白さと関係があったルール上のバランスをいじくりまわし、その挙げ句、「つまんね」と捨て台詞を吐いて去っていく。これほど、衆愚を上手に表現した言葉もそうはないと思う。実際、総じて、そういうものでしょう? あれこれとケチをつけて、どんどん物事を腐らせていく。自分が害悪を受けていないのであれば放っておけばいいものを、首をグイグイ突っ込んできて、あれこれと注文をつけ、センスの欠片もない意見を強硬に主張して、そもそもの妙味、面白味を削ぎ落していく。大きな母数を参加させるとなると、どうしようもなく中身は劣化してしまうのだ。

そして、そんな状態が長く続き、既に定着してしまっているのが現状だ。既にプロフェッショナルな政治家たちも大した政治的な知識を有しておらず、テレビの中のコメンテーターだって場合によっては怪しい。過去に「民主主義であればヒトラーは登場しなかった」と発言した国会議員をテレビの中に目撃した事がある。それは真逆ですね。民主主義がヒトラーを登場させてしまったという重大な事を、既に忘れてしまっている人たちが少なくないのだ。この衆愚の問題というのは、或る意味では宿命でもあるのだけど、既に現行の民主主義は大衆迎合の中に埋もれてしまっており、また、今日も報道番番組の街頭インタビューの中で「クーポン券をくれれば投票に行く」という主旨の若者の声を聞かされる羽目になる。「そんな不純な動機で投じられる一票なら、投票しないでいいですよ」とは、口が裂けても言ってはいけない。まともな意見もあって「中学や高校で政治に参加する事の大切さを教えるべき」と回答した若者も居たんだけどね。


もしかしたら、自由&民主主義は主導権を失うことになるのかも知れない。そうなると決まった訳でもないが、どうも国際情勢からすると、その欧州とか西側陣営といったアイデンティティーによって結束して、中露を念頭に置いてのイデオロギーによる政治的対立を作り出してみたが、どうも旗色が悪いように見える。この事は冷静に考えれば理解できると思う。ここのところ、選挙でもリベラル勢力が敗北しているのだ。おそらくは移民問題への反対、グローバリズムへの反対、拡大を続ける格差問題への不満が大きい。別に国家主義者や民族主義者が台頭しているだけではなく、実は極左と呼ばれるような左派も台頭している。数年前にはウォール街選挙運動だってあったし、ラリー・ダイアモンド著『侵食される民主主義』(頸草社)でも、2015年頃から既に社会主義を掲げているバーニー・サンダースが米国内で支持を広げていた事にも触れられている。(おそらく著者はヒラリー・クリントンを支持していたと思われる。)これらを総合的に語れば、どういう事かというと「リベラル勢力は嫌われている」というのが厳然たる事実だと思う。

もっともらしい弁説をふるっても過半数なんて採れない。米民主党だって確かに一度は「ドナルド・トランプ」に敗れたのだ。その事を一つをとっても、重く受け止めれば、民主主義は実質的には芯の部分から溶解してしまっているという事かも知れない。「あれはフェイクニュースによって負けたのだ」、「ロシアによる介入があったから負けたのだ」、「トランプに投票したのは都市部ではなく、地方の連中だ」と主張しても、おそらくは虚しいだけでしょう。負ける筈のないものが負けたのであり、そもそもクズをクズ扱いし、一部の都市型セレブにのみ肩入れしてきた政策への不満が渦巻いている事は否定しようがない。積極的差別解消主義だって支持されているとは言い難いと思う。その証拠に米国内に於ける人種間対立や差別問題はどんどんエスカレートしている。「エスカレートの一途だ」と表現すべきかな。ハラスメントだの、ポリコレだの、現実的な対応をするのが不可能な次元の要求も出て来てしまっている。私が思うにハラスメントやポリコレの問題はエスカレートしか知らず、最早、社会や人間関係に混乱をもたらせ続けているとさえ思う。

現行のリベラル勢力の主導権に変わる何か、或いはアングロサクソン・イニシアティヴに変わる何か、そういうものが必要になってきてしまったのではないだろうか? 直ぐに思い浮かぶのは中国かも知れませんが、現行の習近平政権を眺めている限り、権威主義的専制国家であり、且つ覇権主義を崩しておらず、実質的には批判を許さない秘密警察国家のような側面もあるので受け容れ難いのが実相でしょう。冷戦構造のような対立構図が形成されるのかも知れませんが、ラテンアメリカやアフリカの動向を考慮すると、不興を買ってしまっている西側陣営が有利に展開できるかどうかは微妙でしょう。西側陣営が不興を買ってしまっているので、中国やロシアの影響力が拡大していく可能性だって低くない。それぐらい状況は悪いと思う。

元ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカが国連の演説で拍手喝采を浴びたのは、檀上で語った次のような言葉であった。

「私に質問させて下さい。私たちは発展する為に生まれて来たのですか? それとも幸せになる為に生まれて来たのですか?」

実は核心を突いていたのだろうなって思う。「経済発展や経済成長をする為に、我々は生まれて来たのだろうか?」という問いだったのだ。勿論、発展や成長する事が望ましいのは言うまでもないが、そもそも産業社会は歪んでいて実は人々に幸福に資していないのではないか? 一定の貧困を解消して、また、利便性を手に入れた事は確かだと認めるべきですが、人々の生活のスピードに産業社会が要求するスピードは噛み合っていない。また、産業社会は消費者至上資本主義として巷間に各種の依存症を作り出しているし、政治にしたって実際には膨大な企業献金などによってロビー政治が行なわれているのだ。

クーデターも嫌だ、ストライキも嫌だというのであれば、選挙の投票で与党に歴史的な大惨敗を味合わせてやればいい。前回の衆院選でも自民党の大物議員であった甘利明氏の落選がセンセーショナルになりましたが、あれ、マスメディアは報じなかったものの、実際には郷原信郎氏らが落選キャンペーンを展開した事や、カジノ誘致を「横浜のドン」が反対を表明した事などが大きく影響したものでホントは野党勢力の力ではありませんね。なんだったら落選キャンペーンを、やってしまえばいいのかも知れない。

ホントは、トマ・ピケティの『21世紀の資本』が示した際に、これは資本主義はこのままでは済まないだろうという見解になっていたのだ。しかし、トランプ現象などの混迷によって下火となり、今度は民主主義対権威主義という対立構図で、政治を語らせようとしている。そのように誘導しているの意です。しかし、そうではないかも知れない。もっともっと根本的な問題であり、単に政治イデオロギーの分岐点に差し掛かっているのではなく、今回の全世界的な混迷とは、文明の分岐点に差し掛かっているという認識の方が正しいような気がする。

ホセ・ムヒカ氏は、何故、あんなにバランスが取れているのだろうと、映画を日本映画専門チャンネルで視聴後に考える羽目になった。もしかしたら、あれはラテン民族的な明るさが関係しているのだろうか、と疑う羽目になった。

思うに、発展や成長を希求するよりも、共に歩む社会である事が先ずは優先されるのではないか? それは社会主義的な言い回しになってしまいますが、まぁ、それに近くなる。度々、当ブログでは使用していますが鶴見俊輔が対談の中で言い放った「協和的であること、それ以外に人間に何を望むものがありますか?」でも確認できる価値観であると思う。民間人同士、その多くは中流階級以下になる訳ですが、彼等が激しく火花を散らし合うようにして競い合い、技術革新を遂げても、その恩恵を手にするのは実は資本家とか富裕層と呼ばれる層である事に気が付くべきだ。(実は、鶴見俊輔とホセ・ムヒカには共通点があり、共にベトナム戦争時に脱走した兵士の支援活動をしていたらしい。その行動は戦争の本質をよく捉えている気もする。)

「20世紀の奇跡」と呼ばれるキューバ革命があった。キューバ革命の主たる勢力はスペイン語を話す人たちであり、カリビアンの気候の中の陽気なラティーノなノリの人たちであった。キューバ革命というのは、確かに奇跡みたいなものだったのかも知れない。80数名が船に乗り込んでキューバに上陸し、そのまま、バティスタ政権を倒して、革命政府を打ち建て、しかも次から次へとCIAが暗殺やキューバ侵攻計画を立てたにもかかわらず、フィデル・カストロ政権は倒れなかったのだ。

邦題『チェ・ゲバラ&カストロ』(原題は「CASTRO&CHE」だと思う。冒頭で、そういうタイトルが出ている。アメリカ作品/2002年)なる映画を視聴。冒頭で、この映画はフィクションであるが極力、事実に沿って映像化したという但し書きが出る映画でした。ゲバラの出番は僅かで、実際にはフィデル・カストロ物語のようなバランスの作品でした。また、作風はエンタメ色が抑えられており、ラストシーンは、シブい事に、カストロ政権は革命運動中には「民主主義を実現する」と言っていたがカストロ政権下では民主的な選挙は行なわれることなく、ボートによってマイアミを目指して脱出する人たちが出たという説明で「ジ・エンド」になった。つまり、必ずしもキューバやフィデル・カストロを、何かカリスマとして過剰に礼讃しているという作風でもなかったと言えると思う。或る意味では美談を排除して、フィデル・カストロ及びキューバ革命を描いた映像作品でした。

バティスタを追い出して、新政権を発足させるにあたって、フィデル・カストロの演説シーンがある。この演説シーンについては、私は元の映像も視聴した経験がある。詰めかけた群衆が、口々に「フィデル! フィデル!」と大歓声をした演説だ。身ぶり手ぶりが激しい事はアドルフ・ヒトラーの演説にも似ているが、やはり、ここでも独特なラテンのノリがあって、兎に角、なんだか熱狂的なのだ。そこで『チェ・ゲバラ&カストロ』で演説シーンの吹替で視聴していたのですが、次のような内容であったかな。

「これは赤い革命ではない! これはグリーン・オリーブ革命だ! いわばキューバ人道革命だ! キューバ史上初めて私たち自身の政府を持ったのだ!」

キューバ革命とは実は共産主義革命ではなかった事が分かる。むしろ、政治的なリアリズムの中でカストロはアメリカに対抗する為にソビエトに接近した。よりマルクス主義をきちんと勉強していたのはチェ・ゲバラの方であったと思われる。しかし、そのゲバラはソビエト批判をしてしまう。これは「ソビエトも帝国主義のような事をしている」と国連演説の中でやってしまった一節の事ですが、それをやっている。おそらく、本気だったのでしょう。ゲバラに二度ほど会った事があるというホセ・ムヒカが言うところのドン・キホーテの精神。おそらくゲバラは生粋の理想主義者だったのかも知れない。そして、そのソビエト批判がキッカケとなってゲバラは去った。ソビエトに接近しようしていたカストロ政権であったが、ゲバラはソビエト批判をしてしまったのでキューバ革命政府から距離を置くという選択した。

(ゲバラはアフリカのコンゴと、南米のボリビアでの革命活動に身を投じた。コンゴでの革命闘争は失敗に終わり、次はボリビアに舞台を移したが、ボリビアで捕まって処刑された。ゲバラを演じた俳優は息を飲むような二枚目の俳優が演じてしましたが、殊に遺体のシーンに関して言えば、実際の映像のゲバラの遺体の方が二枚目だったと思う。目をカッと開いたまま、死んでいる。ゲバラの最後の言葉は「妻には、再婚するように伝えてくれ」だったという。あれこそが革命戦士の死に様というものかもね。)

またまた、この日本であっても北一輝が23歳時に著したのは『国体論及び純正社会主義』という論文であった。発禁。通常、北一輝は右翼思想に分類され、また、実際に右翼のバイブルで理論的指導者であった訳ですが、内容的には国家社会主義を掲げており、それも「純正」と冠した社会主義的な内容であった。また、日本では右翼も左翼も女性解放運動も参加した会合は「老荘会」であった。つまり、老荘思想をベースにして右から左まで党派を超えての民衆運動を画策したものであった。勿論、その辺りというのは共生原理によって編まれている。老子ともなるとアナキズムの始祖でもある。更に仏教にしても大乗仏教がありますが、それは「自分だけが解脱するのではなく、衆生ともども解脱する、極楽浄土へ行く」という思想であった。

おそらく、現在では多くの国でも「社民」と呼ばれる社会民主主義も低迷していますが、過剰な資本主義の修正を目指すなら、そういう方向性になるのかも知れない。或いは、アナーキズムという事になりますが、これはノーム・チョムスキーは80年代後半か90年代初期にはリバタリアン社会主義を掲げていた。チョムスキーの主張は映画『マニファクチャリング・コンセント』を視聴した際の記憶頼りになってしまいますが、おおよそは「リバタリアニズムというと福祉を否定するように受け止められるが、それは誤まりだ。社会主義だ。自由を軸にして社会主義をやるには、今よりもより一層高いモラルを人類は獲得する必要性がある」という具合だったかな。法規制ではなく、モラルによって成立させるべき社会主義の意だ。

発展や成長という目標を少し緩めて、共に生きていくという共生原理を重視するという方向性へ舵を切る必要性に迫られているのではないのかなって思う。


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Eテレ「こころの時代」では、歎異抄を読むシリーズでしたが、やはり、善と悪の話は少し考えてしまったかなぁ…。例の悪人正機説のところで「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の解説は、ひょっとしたらカルマを漢字表記して【業】とした場合の、それと、どうしても相性が悪いような印象を受けました。

善悪とは何かといえば、道徳か法律が基準になるが、道徳とて状況によりけりだという。誰を殺す気もなかったが百人殺したり千人殺してしまったりする場合がある。それは意志は関係なく、その者の宿業なのだという。ああ、そういえば、梅原猛の書籍でも似たような解説だったよなぁ…なんて事を想い起こす。

しかし、私が考えているのは、もっと日本人的な考え方かな。道徳的な善悪が根幹にある。明確に善業と悪業とがあって、天網恢恢であり、死んだら閻魔様に裁かれる。実際のところ、閻魔大王が実在しているとは思わないけれど、そうであってくれないと困るという奇妙な考え方をしているのだ。

しかし、決して私が特異な訳でもないと思う。芥川龍之介の「杜子春」あたりにもよく表現されていた死生観だと思うし、武田鉄矢さんが自分で企画・主演したドラマだったのか、坂本龍馬を演じているドラマのクライマックスでも、このエンマ様の話を想起させる台詞があった。そして何よりも梁石日(やん・そぎる)さんの

「閻魔様の前で『金なんていらない!』と言ってみたい」

には激しく同調する。そもそも、その文章を知ったのは故・宮崎学さんの著書で知ったのだけれども、物凄く共感できてしまうのだ。おそらく、生きている、生活している中で、不本意だなと気付いていながらも抑圧しながら生きているので、実際に死んだら、閻魔大王の前で申し開きをしたい、そんなことを、おそらく中学生の頃から考えてきたのだと思う。それは、偶々、閻魔大王、エンマ様が相手なのだけれども、別に、それに固執するまでもなく、老荘思想の老子が天網恢恢、疎にして漏らさずであり、実は天道思想でもある。「お天道様は何でも御見通しなんだぜ」という具合の漠然としたものを信じてはいないが心の拠り所にしている。また、それは【真】を最重視する老荘思想の荘子に通じている。

なので、この世の中には善も悪もないでのあると言われてしまうと、ついていけない。勿論、念仏さえ唱えていれば極楽浄土へ行けるという教説には無理があるように感じてしまう。

【業】とは【カルマ】であり、平たく言えば「行為」という事になる。そして因果応報と繋がっている。その業は、その業によって報いを受けるべきだと考える。そうあって欲しいし、そうあるべきだというスタンスで、そのように思う。世の中、上手くいかず、悪知恵を働かせて嘘をついた者が正直者を陥れる事が出来てしまったりするのが現実ですが、それは現実が真理に対応していないからであり、つまり、「真理に対応している因果律ではない」と考える事ができる。やはり、最も強いのは確実に嘘をつかないという真実への執着ではないのかなって思う。そう信じる。

総じて人生とは自業自得であり、現実は報われないものだから「骨折り損のくたびれもうけ」なんて事の繰り返しだ。しかし、その現実に耐えていられるのは「お天道様は真実を知っている筈だぜ」のような強がりであったり、「これでも私が責任を負わされるのであれば、相手がエンマ様であっても断固、抗議してやろう」という頼りなくもヤケクソ気味の自負心でしかない。そんなものが最後の拠り所なのだ。しかし、決して脆弱ではない。「オレが嘘を言っているだと? 冗談じゃない。これで嘘つきだと認定されるのであれば、世の中が間違っている! オレは閻魔様にだって直談判してやる!」という気概は、他に喩えようがないぐらい強固な信念であるのは確かだと思う。

親鸞は唯円にいった。「千人殺してこい」と。そう言われた唯円は「殺せません」と答えた。すると親鸞は「殺せないじゃろう。それが御主の宿業というものだ」と持っていく。いやいや、そういう問答には付き合いたくない。そんな事は分からないじゃないかと考える。「殺せない」のではなく「飽くまで、意志によって千人殺しを実行しようとは思わないだけ」という事のような気がする。

これは倫理学などでも応用できそうだと考える。「君は目の前の女性を強姦をできるのに、何故、強姦しないのかね?」で反問が可能だと考える。単純に可能か不可能かという問題ではない。人間の行動原理はもっと複雑だ。ひょっとしたら出来てしまうかも知れないが、そもそも、そんな事をしたくはないから、きっとしないだろうという話だ。そのような問答で物事を考えている訳ではないだろうって考える。

翻って、自分の行動を制御するには戒めが必要であり、その戒めにカルマの法則は重要だよなって思う。実際にはエンマ様はいないかも知れないけど、それらを考える事によって自分を律する事が可能になるのは事実だと思う。法律があって違法行為だから悪事を働かないのではなく、自らが信じ自らによって設定している道徳律に従がって自らの行動指針としている。

ヒトは誰でも悪人であるという。それは正しい。別に善人とは悪人ではない者という程度の意味合いで、善男善女のように言葉を使用しているだけで、誰も、そこに善人が存在していると考えている訳ではないでしょう。善人とて時として悪人になる。しかし、それを認めてしまうと、付和雷同を許することになってしまう。自らを律する必要性を解くには、付和雷同は慎むべしと捉えたいので、やはり悪人正機説は本気では受け入れがたいかな。

また、「生まれながらの悪人はいない」のような言説も根強いものの、そこに原罪という観点を用いれば、それもあやふやになる。少なくとも、生まれたてで何の行為もしていないものには行為の善悪などつけようもない。また、こういう話をするのであれば、実践的なもの、現実に即していなければ価値はなく、手のつけようもない次元の正真正銘のワルが存在している事を認めねばならない現実に即していながら、性善説を展開させるのは厳しい。多くの者は何某かの理由があって悪業を行なっているのでしょうけど、それでも、その悪業によって実際に被害を被る者があり、実際に迷惑を被る者があるのも事実でしょうからね。ああ、いちいち、罰しようとか、そういう風に考えている訳ではなくて、自業自得、因果応報として、その業の報いを受けよというのが、最も、美しい法則性だと思う。

念頭にカントなども思い浮かべていたのだけれども、そちらを考えても私の場合、悪人正機説は、そんなに素晴らしい教説だとは思わない方ですかね。死んでからの救済よりも、今この瞬間に於ける振る舞いが重要であり、それらは蓄積だ。人間関係も信用の構築も、それらの蓄積と関係している、そう考えているのかな。

先の「強姦できるのに何故、強姦しないのかね?」のような話の場合、そもそも人は本能の赴くままに生きている獣ではなく、相応に理性が利く生きものである。カントを流用すれば、そもそも対人関係というのは、相手を前にした時点で粗相のないように振る舞うという命法に従がっている。基本的に相手を襲いませんね。むしろ、そういう態度をとらないよう命法によって縛られていると考えた方が実相に近いと思う。

そうそう。カルチャー・クラブの楽曲「カーマは気まぐれ」とは、「Karman Chameleon」ですね。つまり、「カルマ・カメレオン」という歌であった。

サビに続く箇所の歌詞は


Everyday is like survival


でしたが、この箇所、「毎日がサバイバルのようだ」の意だったんですね。

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冒頭からアルフォンソ・リンギス著/小林徹訳『変形する身体』(水声社)より、引用します。

十八世紀にスウェーデンを治めていたアドルフ・フレデリック王は、七人の情婦を抱えていた。そのうちの二人は一つ目で、二人は一本脚で、一人は腕なしであった。(『変形する身体』143頁)

世の中には、色々な性愛のカタチがあると考えられていて、その内の一つに四肢欠損愛好者なるものがあると考えられているのだそうな。何がどうなって、そのような性愛のカタチになるのか不可解といえば不可解ですが、思えば、多くの者も思い当たる節があるかも知れない。例えば、腕を骨折しギプスで固定された腕を首から吊り下げている小中学校時代の同級生、或いは足を骨折して松葉杖で歩いている同級生に対して「おや? なんだか彼はカッコいいじゃないか。しかもモテている」といった具合の不思議な感覚を抱いた事はないだろうか? もしくはコスプレの世界ともなるとケガを負った包帯を巻いたヒーローやヒロインの姿に惹き付けられたり、更には眼帯なんてアイテムにも「なんだかセクシーだな」と感じてしまう感覚はないだろうか? 

で、その問題について、リンギスは、これまでに耳目にした事がないような説明で仮説を立てている。使用しているのはフロイトやバタイユであり、そのフロイトやバタイユのエロス論を明解に説明しているように思える。しばしば、投げ出して来たのだけれども、リンギスの説明だと「なるほど」という気になる。

また、少しだけ引用します。

一八八二年以来精神医学は、四肢切断愛好をスティグマ/適格型の性倒錯的固着と同定してきた。このタイプの固着においては、肢端切断者であるということに応じて、あるいはそれを条件として、性愛的興奮とオルガスムの促進・達成が引き起こされる。(同140頁)

【スティグマ】という単語が登場して、「あ」と思う。スティグマとは【聖痕】という意味の他にも、社会の多数派が自分たちとは異なる特徴を持つ者に押し付ける〈否定的な評価〉の事であった。否定的に評価している筈が、実は欲情するポイントにもなっているという、なんとも不思議な話であり、まさしく性倒錯の話である。(【倒錯】とはトランスの意でもある。)

先ず、少しだけ整理します。冒頭で掲げたスウェーデンの統治者が7人の情婦を抱えていたケースが完全に合致すると言い切れるのどうかは余地を残しますが、精神医学では性倒錯の問題を抱えている。

〇融莊臑三好(アクロトモフィリア)
これは文字通り、四肢欠損を愛好するという意味となる。この四肢欠損愛好は、四肢が切断されたパートナーを持ったり、或いは実際には切断されていないパートナーと関係を有しているが、そのパートナーの四肢が切断されてしまう事を想像をして、性的興奮し、オルガスムの促進・達成をするという。

∪攴愛好(アメロテイシス)
これは先天的あるいは切断手術の結果として肢端が欠損した切除部分を性的に好むことを言う。思わず、我々はパートナーが有している傷口や手術痕にも性愛的な魅力を感じて愛撫したり、無意識に舐めてみたりしますが、あの延長線上か。総じて四肢欠損愛好は、この切除愛好を伴なっているという。

障害愛好(アバジオフィリア)
パートナーが手足に障害を持つ者であったり、パートナーの手足が不自由であったりする事に応じて、或いは、それを条件として、性的興奮とオルガスムの促進・達成が引き起こされる。

ここまでは、肢端を愛好する側の立場から〇融莊臑三好と∪攴愛好、障害愛好を説明してきましたが、次は、それに応じる側の立場のケースになる。

ぜ己障害愛好(アウトアバジオフィリア)
これがスティグマ型の性的倒錯である。

セ融萓效念好(アポテムノフィリア)
このぜ己障害愛好に類するものとして四肢切断愛好があり、この四肢切断愛好者になると、自らが仕組んで四肢等の切断を実行するか、或いは何らかの方法で病院で切除してもらうことに固着するという。倒錯に度合いがあるなら、かなり倒錯の度合いが高いものという事になる。

四肢切断愛好者は、推計でも全世界で200名程度というから極めて稀なケースですが、それでも明確な事例があるのだそうな。

医療系雑誌に取り上げられたケースとして、ある女性は両足を膝から下を切断しなくなり、ドライアイスを脚に乗せて、壊疽を起こさせようとしていたという。また、不可解な事に、その愛好者のサークルが過去に存在し、そのサークル内で有名だった人物は前後不覚になるまで酒を飲み、線路に横たわった。結果、その人物は肢端切断者になっていた。更には、アメリカの70代後半の男性はメキシコ国境を渡った場所で1万ドルもの代金を払って闇手術として脚を切断する手術を受けていたが、2日後に壊疽によって死亡したという。

この四肢切断愛好者は、自ら自分の四肢を切断したいと欲している奇妙な性癖の人たちという事になる。しかし、当事者らは「障害を持たない身体に閉じ込められた障害者であることに苦しんでいるのだ」という具合に主張するのだという。或る種の〈倒錯〉が関係しているのだろうな、という事は強烈に感じ取れますよね。

少し混乱する可能性があるので、今一度、交通整理すると、四肢切断愛好者が自らの四肢を切断しようとしたり、そのように装うという事。このイ了融萓效念好者に対応しているのは,了融莊臑三好者になる。否、厳密にはイ砲蓮↓,鉢△鉢とが対になる。


そして、リンギスは、上記を「話し言葉」で更に細かく説明しようと試みている。

四肢切断愛好者の中には、a肢端切断者になりきる者と、b肢端切断者を真似る者とに分けられる。

そして、そんな四肢切断愛好者に欲情する四肢欠損愛好者の方については、z肢端切断者にハマる者に分類している。

a…なりきる者

b…真似る者

z…ハマる者

ハマる側のz四肢欠損愛好者については統計があるそうで、統計としては約13%だという。で、「真似る」という愛好者があり、最も扱いが困難なのが「なりきる」の愛好者でしょう。それが世界でも約200名程存在していると見積もられているらしい。世界人口は現在は78億ぐらい? だとすれば78億分の200程度か。


ここまで読んでも、きっと関心や興味が制御不能だろうし、ここまで展開させてきた意図についても不明だ、と途方に暮れたり、怪訝な感情が湧きたっていると思う。しかし、それらのザラザラ感は、フロイトとバタイユの引用によって、少し分かり易くなる。

フロイトは、オルガスムと子作りの間に連続性を設定した。男性/女性にとってオルガスムは、何らかの身体的液体を放出することにおける快楽であり、「享受」である。女性にとってこの快楽の先にあるのは、幼児を押し出し、自分の身体の一部であった胎盤を断ち切るという快楽であり、「享受」である。帝王切開によって分娩された赤ん坊が急速に分泌したエンドルフィンは、純粋な四肢切断愛好の快楽と混ざり合っている。(同148頁)

ここで感心したのは〈身体的液体の放出〉という表現でした。それについてもリンギスは説明しており、ヒトとは皮膚の下をイメージすれば、とんでもない異臭を放つ化学物質と肉の塊、それと骨である。皮膚の下は、そのようなものなのに、我々は性的な事柄になると、どうしようもなく本能として欲情している。あの人はキュートだとか可愛いとか美しいとかね。また、性行為にしても行為を客観視すると血液で膨張したペニスを血液が充血しているであろうヴァギナへと挿入し、ヴァギナの中では収縮と緊張が繰り返される。(おそらく液体がグルグルと循環してる。)そしてオルガスムとは陰茎が射精する事、液体を放出することで終わる。その射精後の陰茎は萎んでいき、やがては垂れ下がる。絶倫の人は兎も角として原則的にはね。そして、この箇所で重要な事は〈身体的液体の放出〉にある。精液が射出される。その一連の終わり方を《遮断》という言葉で表している。それまで理解不能なエネルギーによって営まれていた性行為は、オルガスム、精液の射出を以って遮断される。一連の行為は液体が移動すると遮られるのだ。

それは身体的液体の放出だ。これだと余りにもペニスの側の論理のみになってしまうが、ヴァギナの側にも実際には身体的液体の流れが活発化しているであろう事は、緊張と収縮という表現から言えるし、それを一先ずは「享受」とし、やがては快楽物質と共の赤ん坊を体外へと放出している――と。それら一連は、過剰なエネルギーの液体状の流れである――と。

引用します。

バタイユはこう書いている。人間は、他の動物に比べると、より多くつばを吐くし、咳もするし、欠伸もするし、げっぷもするし、鼻もかむし、くしゃみもするし、泣き叫んだりもする。(同168頁)

確かにヒトは他の動物に比べると色々と液体を飛ばしている動物らしい。「笑い」も快楽であるが、笑いも何かを吐き出している、液体を体内から体外へと吐き出している。この液体を体内から体外へと吐き出す事が、どうもバタイユは快楽と繋がっていると考えていたらしい。

また、それら液体の移動、つまり、射出とは、身体的機能面から語ると、痙攣であったりする。オルガスムとは痙攣であり、笑いも痙攣である。痙攣して液体の射出を惹き起こしているものは何かと言えば、緊張からの解放である。緊張によって収縮や膨張といった状況がペニスやヴァギナに起こっているが、オルガスムに達すると、緊張状態から解放されるのだ。それが我々にとっての究極的な快楽の瞬間なのだ。

(主観的には「緊張から解放される」事であるが、それは客観的に述べれば「一連のが遮断された」になる。)

続けて引用します。

私たちは人間というサルであり、体毛の大部分を失っているが、かつてはそれが私たちの身体を覆い、日の光や寒さから守っていた。私たちは、それを、他の動物たちの獣皮や、植物繊維でできた衣服に置き換えたのだ。互いに性的な興奮を与えようとするとき、私たちはまず色気に満ちた身なりや、宝石や、香水によってわざわざ自分の身体を覆う。興奮が頂点に達するのは、衣服を脱ぎ落とすときである。ジョルジュ・バタイユはそうしたことの中に、侵犯への誘いや誘惑を見出したのだった。侵犯という考え方は、人間と動物、聖と俗といった対立関係に基づいて作りだされたものであり、それゆえ自民族中心主義的な先入観を抱え込んでいる。脱衣によって引き起こされる興奮は、むしろ四肢切断的な興奮なのではないだろうか。
(同149頁)

演じている何か、意識的なのか無意識的なのかさえも判然としない倒錯的な何か。それが文明人の性意識の正体であり、これは厳然と衝き動かされている何かであることを論じており、まさしく《性衝動》の本質を論じていると思う。

四肢欠損愛好や四肢切断愛好を論じる必要性はあったのかと思うかも知れない。しかし、それは完全なる伏線であった。足りないものを満たそうとする、そういう原理が作用しているだろうと、リンギスは論じているのだ。これはイザナギとイザナミとの間で交わされたという交合前の会話

「吾が身は成り成りて、成り合はざるところ 一処あり」

「我が身は成り成りて成り余まれるところ 一処あり。かれこの吾が身の成り余れる処を以て、汝が身の成り合はぬ処に刺し塞ぎて、国生み成さむとおもほすが如何に?」


そのまんまですね。おそらく、世界中に似たような神話を見い出せるでしょう。これは、間違いなく、足りない部分を満たそうとする何か、欠損を補おうとしている何かを意味している。これを外科的には【補綴】(ほてつ)と呼び、また文章を補い改める事も同じく補綴という。

冒頭のスウェーデンのアドルフ・フレデリックが、かような情婦を抱えていたのかの問いにも近づけたでしょう。一見すると、身体的な欠損を持っている女性ばかり愛していた、それは、とんでもない悪趣味な性癖にも思えてしまう。しかし、どうも補綴(ほてつ)の原理、欠損していると感じるものを自分が埋め合わせてあげようとする行動原理が、どうも性衝動や情動と関係している節がある。

イザナギとイザナミの会話は有名といえば有名ですが、《刺し、塞ぎて》と、つまり、そこに陰裂、これは女穴とすべきかな、まぁ、そこに、この矛を刺して塞いであげましょうの意なのだ。現代語の話し言葉で述べるなら「欠損しているから埋め合わせようとする何か」でしょう。その傷口や手術痕にキスをしたり、舌を這わせてしまうような行動も、そうしたものと繋がっている可能性がある。

先に「切除愛好」についても説明もしましたが、まさしく、切除愛好者は、そこに有るべき腕や脚が無いと感じる、その切除の断面、その断面という箇所に固着して性的興奮を催し、オルガスムの促進・達成にも影響しているという話なのだ。

結局のところ、オスとしてメス、愛する者と愛される者との間の相互に補い合う関係性にある。そのように神話で説かれてきたという事であり、且つ、フロイトやバタイユを用いた性愛論でも、同じ結論になるって事だ。

平たく言えば、ほぼほぼ自然に、官能的にヒトは性衝動と付き合い、性の営みをしてきたというのが人類の歴史でしょう。で、それら無数の性衝動の中には、或る種、性的倒錯も実際に混じっている。

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