2017年06月26日

森友・加計学園問題〜逃げ得は許さん編

文藝春秋7月号に前川喜平氏が登場している。既に、その後も記者会見などをしているので、きちんと事態を追っていれば分かる話ですが、ここのところ、世俗世間の関心は、ナントカちゃんがAKB総選挙で結婚宣言をしただとか、キチガイ代議士の暴行騒動であるとか、或いは歌舞伎界の訃報でざわざわとしてしまっているので、何だか森友・加計学園問題を筆頭に、カジノ法案であるとかテロ等準備法案であるとか、更には改憲論争もずるずるに――。こんなドタバタ劇を庇えるかって話だ。

まぁ、国会を延長することもなく、それでも審議時間が少なくなってしまったのは野党やマスコミの所為であるという言辞が通ってしまうのは、さすがに問題でしょう。守旧派の人間の矜持として「逃げ得を許さん!」はエートスからの本意であって、このまま逃げ得を許してしまうのは不道徳でしょうにねぇ。

バレバレの嘘を見逃してやるべきだという寛大な態度では、それこそ欺瞞でしょうからね。

先ず、前川喜平氏の言い分『わが告発は役人の矜持だ』の論旨に沿って。ややこしくなる事は必至なので、シンプルに。

昨年8月下旬に、三期前の先輩にあたる木曽功氏が事務次官室に訪ねてきた。この木曽功氏は現在は加計学園系列の千葉科学大学の学長に就任(昨年4月に就任)しているが、昨年8月の時点では内閣官房参与という肩書きを有していた。

その8月下旬、当時は文科省事務次官であった前川氏は、木曽氏から

「国家戦略特区制度を利用して、愛媛の今治に獣医学部を新設する話、早くすすめてくれ」

と要請をされたという。更に付け加えて、

「文部科学省は国家戦略特区諮問会議が決定したことに従えばよい」

と言われたという。

9月上旬になると和泉洋人総理補佐官から前川氏に呼び出しがかかったので官邸で面談をしたという。その席で和泉補佐官から前川氏に対して、

「国家戦略特区での獣医学部設置の話だが、文部科学省の対応を早く進めて欲しい」

「これは、総理が自分の口から言えないから、私が代わって言うんだ」


と言われたという。また、この「私が代わって言うんだ」という箇所については、「はっきりとそうおっしゃったのです」と念を押している。

木曽功内閣官房参与から昨年8月下旬に、そして和泉洋人総理補佐官から約10日程度後の九月上旬に同じことを言われた前川氏(勿論、当時は事務次官)は、「承りました」と応じたという。

その後に前川氏は文科省に戻って、担当者らに説明を求め、担当者らが説明をし、そこで、はじめて、その獣医学部新設の問題というものを把握したという。

2007年から設置申請がされていたが一度も申請が通っていない事。2015年に国家戦略特区制度を利用して流れを変えようという動きがあることにも気付いたという。

問題は複雑であった。前川氏よれば獣医学部新設の申請が進まないのは、獣医学部新設にあたっての四条件、以下、面倒なので犹余魴鎰瓩斑擦しますが、それがあった為であるという。そもそも獣医学部新設を進めるには、農水省や厚労省のから狄靴燭砲海譴阿蕕ぁ追加の獣医師の要請が必要です瓩箸いθ獣任示されない事には、文科省は動きようがなかったという。

その四条件については、既にテレビなどでも複雑に入り組んだ格好で報じられていますが、

仝什澆猟鶲銅臑里砲茲覺存の獣医師要請ではない構想が具現化し、

▲薀ぅ侫汽ぅ┘鵐垢覆匹僚丹綮佞新たに対応すべき分野における具体的需要が明らかとなり、

4存の大学・学部では対応が困難な場合には

ざ畴の獣医師需要動向も考慮しつつ、全国的見地から本年度内に検討をおこなう


というものであった。

その四条件は、一部では「石破四条件」とも呼ばれるという。何故なら当時の石破茂氏は内閣府匿名担当大臣として国家戦略特区を担当していた。この当時の文科大臣は下村博文氏であったが、実際のところは石破茂氏が特命担当大臣を去るまでは、獣医学部新設の案件は動いていなかったとしている。

石破大臣が大臣職を去ったのが昨年8月の内閣改造であり、その後、間もなくというタイミングの昨年8月下旬に木曽功内閣参与が文科省に働きかけをし、立て続けに9月上旬に和泉洋人総理補佐官から働きかけがあった事になる。

(確かに石破氏と安倍官邸との主導権争いの案件にもなっている。)

文科省としては、農水省なり厚労省から「新たに獣医学部の設置が必要である」という言質をもらわないと進めようがないという状況であったが、農水省も厚労省も、その案件に関わろうとしなかったと述べている。

9月中旬、和泉補佐官と獣医学部新設について話す機会があったが、四条件を満たす見込みが立っていなかったことから、「引き続き検討中です」という具合の返答をしたという。「それ以上のことはいいませんでした」と。

すると内閣府からの圧力が強まり始めたのだという。「総理のご意向」や「官邸の最高レベルが言っている」といった文言を含む内部文書は、昨年9月から十月末までの間に出回ったものであるという。

で、これが先日、NHKの「クローズアップ現代+」でも取り上げられた「新たに出てきた文書」の話と繋がる。

9月28日のこと、「平成三十年四月開学を大前提に、逆算して最短のスケジュールを作成し、共有していただきたい」という、実は締切期限を設定した話が内閣府から伝わったという。

それらは、文科省の部下さちが内容を即座にメモして、上司への説明用にA4用紙一枚分に要点をまとめたものであり、なんら捏造したものではないという。

その後も文科省が大学設置の許認可権を持っている事から、内閣府からの圧力は日増しに高まっていった。

実際には松野文科大臣は「教員確保や施設設備などが間に合わないのではないか。一年延期して三十一年四月を目指すべきではないか」と言っていたという。また、松野大臣は「麻生太郎副総理や森英介議員が獣医学部新設に強く反対している。自民党の中で、例えば文部科学・農水・内閣府などの合同部会やPTで検討をした方が良いのではないか」との懸念を持っていたという。


昨年10月23日に衆議院福岡六区補欠選挙が行われた。その補選は、獣医学設置推進派の官邸VS麻生太郎&日本獣医師会との代理戦争であった。官邸は鳩山邦男次男の鳩山二郎候補を擁立したのに対して、麻生&獣医師会は蔵内謙候補を擁立した。この蔵内候補は自民党福岡県連会長であると同時に日本獣医師会会長であり、麻生太郎副総理に盟友でもあった。選挙に勝利したのは鳩山二郎候補であり、つまり、官邸が勝利した。実は、この獣医学部設置の案件(=加計学園問題)は政治的な案件であり、文科省がどうにかできる問題ではなく、その選挙結果を待たない事には動けそうもない案件であったというのが前川喜平氏の弁である。

投票日が10月23日。11月9日には国家戦略特区諮問会議で獣医学部の設置が認められているように、慌ただしいものであった、と。


次に、出会い系バー問題について。こちらは引用します。

昨年秋のことでした。仕事の話ではなかったので日付の記録を残してないのですが、突然、杉田和博官房副長官(編集部注・警察庁出身で、警備・公安畑を長く歩み小泉政権では内閣危機管理監も務めた。第二次安倍政権発足時に内閣官房副長官に就任)から呼び出されました。官邸の杉田さんの部屋に行くと、

「君が歌舞伎町の店に出入りしているという話があるが、本当か?」

と聞かれました。私はその店には常に一人で行っていましたし、誰かに話した覚えもないので、驚きました。すべてご存知の様子で、

「あのような店に文科次官である君が出入りしているのは、どうなんだ」

と言われ、確かに誤解を招くかもしれないと思い、

「申し訳ありません。以後気をつけます」

とお伝えしました。今でもなぜ私の行動をご存じだったのか、不思議です。杉田さんからは、辞任後の二月頃にも一度お電話をいただきました。

「あの件を雑誌が書こうとしているよ。気をつけたまえ」

というお話でした。でも実際に雑誌の人が自宅に来たり、電話をかけてきたりすることは一度もありませんでした。


――と、前川喜平氏の「わが告発は役人の矜持だ」からの引用はここまで。

雑誌が書こうとしている? これは結果としては嘘となったワケですね。実際に「出会い系バー通い」を報じたのは読売新聞であったのが事実だから。読売新聞は「独自の取材に基づいて記事にした」としており、タイミングは偶然にも重なってしまっただけであったと否定している。しかし、もう、ホントは官邸筋から何かしらのリークを受けて「へい、お安い御用で!」と請け負ったのはバレバレで、前川喜平氏も先の会見で、そんな裏側があったのではないかと考えている旨、発言をしていた通り。しかもナベツネ氏は報道後に知った週刊文春に話しており、例の社会面をつくったのは読売新聞社の山口社長である可能性が高まっている。



前川氏自身は、そこまでしか言及していないのですが、森功氏の『加計が食い込んだ下村元文科相夫妻』という、おっかないルポも掲載されている。実は、そこで官邸筋から「獣医学部の新設は民主党の鳩山由紀夫政権でも推し進められていた」という煙幕が張られたが、それでも残る不可解な疑惑について、深く掘り下げてある。

2005年に周辺の12市町村が合併して、新生・今治市となった。このときの今治市長は越智忍氏であった。越智氏に拠れば、愛媛県議を通じて牴山の加計学園が獣医学部ピンポイントで申し入れてきた。特区でやれないか瓩函

2006年9月から2007年9月までの期間は、実は第一次安倍政権であった。その頃に構造改革特区制度を使用しての獣医学部設置の提案が持ち上がった。

(前川喜平氏の説明と併せても、岩盤ドリル規制の話は一定範囲内では正当性のある主張であるが、実は、加計学園問題は、そんな話が出るよりも遥か前からスタートしていた事になる。)

2007年2月、日本獣医師会顧問の北村直人氏は、加計孝太郎氏と密かに牴颪辰伸瓩箸いΑ2晋痢¬談になったのかというと、「日本獣医師会顧問の北村氏にも会って話を聞いてもらった」という具合に加計学園側に有利な規制事実にされてしまうと思ったからであるという。その為に北村氏は獣医師会本部で会うことを避けて、赤坂の料亭「佐藤」で会ったという。その場で、加計氏に親しい政治家は誰なのかと尋ねたら「安倍さんです」と返答されたので驚いたという。この頃、第一次安倍政権だったから、つまり、現役の総理大臣と親しいというので、北村直人氏はびっくりしたので記憶に残っているという。

しかし、北村氏は、「いくらバックが総理でも、獣医の現状やこの先の状況を踏まえると、獣医学部新設は考えられない」と考えた。2004年には東京農大や帝京科学大学など獣医学科の新設を訴える大学は沢山あり、それらも構造改革特区申請を検討しているという状況であったから、爐いら現役の総理がバックについていても、できっこない瓩塙佑┐討い燭箸いΑ

2007年9月末、第一次安倍政権が倒れ、その後は福田康夫政権が政権を継承した。

その2007年11月から2014年11月までの期間、今治市が構造改革特区制度の下で獣医学部の新設を15回も申請したが、すべて門前払いになったというのは、報道されてきた通りである。

菅義偉官房長官は「初めて特区申請したのが福田政権時代なので加計学園の獣医学部計画は(第一次)安倍政権時代のものではない」と釈明しているが、実際に始動が始まったのは北川直人氏の証言からすると、実は第一次安倍政権時代だった事になる。

つまり、この加計学園の案件は、福田康夫政権時も特区申請して門前払いされ、その次の麻生太郎政権時にも門前払いをされ、その後の民主党政権時代にも門前払いをされ、そして第二次安倍政権がスタートをし、下村博文氏が文部科学大臣であった頃に認可が与えられている。

実は一部週刊誌が報じていたように、下村博文氏の夫人である下村今日子氏は安倍総理夫人である安倍昭恵氏と共に加計孝太郎氏とも親交が深く、2007年、第一次安倍政権時代に一緒に渡米したと報道されていた通りの話につながっている。因みに、この2007年当時の段階では下村博文氏は官房副長官であった。

この2007年の渡米では、昭恵さんはブッシュ夫妻との公式食事会に、今日子さんを同席させるようリクエストもしていたという。しかし、ホワイトハウス側は渋っており、結局は官房副長官夫人の今日子さんは食事会には参加できなかったという。

「また今日子さんは、大使公邸レセプションのあと、『(昭恵と)に二人でディスコに行きたい』と言い出したけど、近くに首相夫人が行けるようなディスコがないと止められ、やむなく二人でホテルのバーに繰り出した。そこで飲んだくれ、翌日の飛行機に乗り遅れるというハプニングまでありました」

この下村今日子氏は、広島加計学園の教育審議委員にも就いているという。

2014年3月頃、加計孝太郎氏と下村博文文科大臣とが、前出の赤坂の料亭「佐藤」で密会をした。その席には、加計氏、下村氏ともに2名の秘書を引き連れての密会であった。そこで下村博文氏は床柱を背に正座して、加計氏に

「おろしました」

という意味深な一言を発したという。その後、日本料理が運び込まれ、20分ほどすると、双方の秘書は席を外したという。双方の秘書が席を外していた時間は不明であるが、後にコンパニオンが入るまでの時間、加計氏と下村氏との間で一対一の密談が行なわれていたという事のように読めますかね。

「おろしました」が何を意味している言葉なのか判然とないものの、常識的には「文科大臣の私が文科省の担当部署に指示を下ろしました」という意味であると解釈することに飛躍は無さそうですかね。

しかし、その後も犹余魴鎰瓩ネックとなって思うようには進めることが出来なかった、という経緯を辿る。これは前川喜平氏の証言と完全に一致している。

少しだけ引用します。

国家戦略会議の議長を務める首相は、鳥インフルエンザなど感染症対策の高度な獣医要請は必要だろうなどと耳触りのいい話をする。そんななか、現実には明確な根拠も示さず、加計学園を要する今治市の計画が四条件をクリアーしたとする内閣府に、文科省はさしたる抵抗もせず、丸め込まれてしまった。

森功氏の見立てでは、文科省は丸め込まれたと表現している、何故なら、それは東農大はじめ、4条件は加計学園のライバルを排除する為の、下村博文の意向が介入していたからという見立てになるんでしょかね。

実は、この四条件、ライフサイエンス分野の対応はハードルが高く、その為に、元々、獣医学部の新設を申請していた東京農大、帝京科学大学、新潟市を辞退させる目的の四条件であったのだ。晴れて、加計学園だけが4条件をクリアできるという風にして、話を進めるつもりであったが、そこにライフサイエンス分野を得意にしている京都産業大学の横槍が入ってしまった。故に、京産大も獣医学部新設を申請をした。内閣府は泡を食い、ああなった――と。(もう、これは文書に何者かが条件を絞って京産大を脱落させた文書はテレビなどで報じられた通り。萩生田さんは否定しているが、文科省メモにはああ記されていたワケだ。しかも萩生田さんは偶然にも加計学園が経営する千葉科学大学の臨時講師か何かであったという偶然つきだ。)

最後に引用します。

国家戦略特区諮問会議長の首相は、岩盤規制をぶち破ったと胸を張る。しかし、その実、腹心の友を特別扱いしただけではないか、という疑念が晴れない。そして存在する行政文書までなかったことにしてしまった――。

〜略〜

政治主導という美名の下、強固な友だちサークルの絆が巨大な権力を握り、官僚を振るえあがらせ、これまで築いてきた日本の行政システムを蹂躙している。


だってさ。

文字数的に疲れてきたのでアレですが、これらに対して、菅官房長官の取った対応は、どういうものであったか? ひたすらに隠蔽に躍起となり、前川喜平氏に対しては官房長官という地位にもかかわらず公然と人格攻撃を仕掛けて社会的抹殺をはかってみせてくれたワケですが、これが罷り通るのは変ですよ。権力の濫用だ。また、告発した官僚について「守秘義務違反」をチラつかせ、尚も恫喝を続けたなんていう態度は最低としか評しようがない。これほど驕慢な政権運営は思い当たらないと思う。証言つぶしの為の暗躍ぶりは、まるで半グレ集団だ。

また、「国会を延長しなかった」という自公政権の態度を許しているのは異常であると思う。あの幕引きは、政権に都合の悪い事を追究されるのが嫌だから国会を延長しなかったという見立てが極めて妥当であり、そう考えると、政治主導という美名の下、日本の行政システムを蹂躙し、国民を、有権者を愚弄してしまった何かなのでしょう。

2017年06月25日

時間軸はタテである。

うーん。飽くまで私見ですが、インターネット上で目立ち始めた老害論というものは、どこか危険性を孕んでいると嗅ぎとっている。

そう。時間軸というのは縦軸であり、歴史というのはその縦軸で編まれているのだ。歴史とは一つの文脈であり、それは縦軸なんですね。それを寸断する都合のいいキーワードが【老害】であり、老害論を執拗に執拗に繰り返している論者を見ると嫌悪感が沸き立ってしまう。

なんて都合のいい奴なんだよ、ってね。しかも防波堤を設計しており、冷戦構造の終結などからの文脈から質そうとしている論陣を、爛ビの生えた論陣である瓩肇ッコつけて、無謀にも一刀両断にしている。こんなチンピラみたいな人物が若年層の一部から担がれているのかと思うとホントに幻滅してしまうんですよねぇ。基本的に若者の味方であるとか、子供の味方であるような態度をとっている者は怪しむべきだ。連中に歴史的文脈を軽視する性向がある以上、絶対に裏切ると思う。

傲慢にして驕慢、謙虚さの欠片も見い出せない。

例えば「小林よしのり」という論客がある。発言の一つを捉えて、コケにするのも簡単なのかも知れない。しかし、或る意味では安定感がある。何故なら狡猾な人間ではない事は確かであろうと嗅ぎとれるから。おそらく、愚直な人であり、その愚直である事が美質や美学と関係しているのだ。エートスというのは、そういうものであり、嘘をついて良心の呵責をおぼえない人間は何度でも何でも意図的に嘘をつき、その嘘によって利を得るという体験を積んでしまっているんですね。だから、嘘も方便とばかりに、幾らでも嘘をつく。嘘を守る為であれば、嘘の上に嘘を塗り固める。もう、そういう人格として完成されてしまっているだろうから、嘘つきは治らず、しかも相手を騙して得る優越感という蜜の味を体得してしまっているから、それは治らないのだ。

小林よしのりさんの漫画家デビュー作である「東大一直線」は読みかえしてみると、そういうものが確かに詰まっていたなと気付かされる。

「ピッチャー、ビビってる、ビビってるゥ〜」

という具合に野次を飛ばす同級生の姿を目撃した東大通は、

「いつからキサマは、そんな根性の悪い奴になったんじゃあ!」

的に噛み付く。すると「野球では野次はOKなのである」と教えられる。すると東大通は、へっへっへとばかりに悪知恵を巡らせて、顔がどうのこうのとか、そういうボロクソに野次りはじめて、少年ピッチャーを泣かせてしまう。

「ピッチャー、ビビってる、へいへい!」

という具合に少年野球でも、その手の野次が肯定されているワケですが、確かになんだか正々堂々としていないよなって感じる者は多いと思うんですね。戦術だからいいのだ、ルールとして間違いではないからいいのだとオトナは説明する。しかし、問題はそこか? 東大通は自分の親友がそういう意地汚い根性であった事に最初、怒っているのであって。

ホントは、そういう部分に矛盾を感じ取る感性がないといけなかったんですよね。ですが、現在ともなると、教条主義というか権威主義というか、どちらも上からのお達しであるワケですが、そのお達しに反していない限りは正義であるという風に認識されてしまう。そこにホントに、その者が胸の内に持っている良心(エートス)が作用していないのだ。(自己の思惟スタイルが形成されていない。自己が無い。そんな自己のない者に「君の意見は?」と尋ねても、意見らしい意見は出て繰る筈がない。その者は確固たる自己というものを有していないのだから。)

キリスト教文化圏は、カトリックなんでしょうけれど、基本的に約束事は神を介して行われるので、約束を破る事は神に対しての裏切りである。日本人はどうか? 「オテントサマが見ていなさるぜ」という価値観を有していれば別ですが、そうではない場合、約束は相手と自分との約束事であり、なんだったら約束を破った挙げ句に事実を捏造してしまえばいい、心なんて痛めるかバカめ、と開き直れてしまう。自制心が効かない人間であれば効かない人間であるほど、この契約の証人としての神を有するか否かは重要な問題になるんでしょうに、現在の日本では実際には無神論者が幅を利かせ、好き放題に詭弁を繰り出し、正論、正論、証拠、証拠、論破、論破、印象操作、印象操作という具合に喚き散らしてしまっているのが現状ではないか。そこに心の葛藤もない。

前川喜平氏の問題なんてものも読売的言説が産経新聞とネット上で勢力を拡大してしまっているけど前川氏が指摘した「シロをクロにしてしまう」事のコワさに疎いんですよねぇ。現時点では、前川氏も読売の記事掲載は官邸との関与を疑っているし、つまり、一国の官房長官周辺が元事務次官を社会的に抹殺する為に警察権力を動かし、出会い系バー通いを懇意にしている読売新聞にリークして、あの掲載させ、揉み消そうとしていた事が強く推測される事態になっている。北京政府とか北朝鮮政府と似たような方向になってしまっているという危機感がない。自称保守や自称右翼、或いはリベラル系の論陣が「政治は大変だから許される」、「許容されるべきだ」で済ましてしまっている。

欺かれているという意識を持っていない。外交でダブルスタンダードは結構ですが、国民を騙す事を許容してしまうのはおかしいんじゃないの? 厭きっちゃったって、そうしたらウソつきがほくそ笑む社会ですワな。朝日やサヨク憎しで物事を思考してしまっていて、いいように読売新聞や自公政権に飼い馴らされ過ぎじゃないの? あっち側も朝日やサヨクどころではない権力層であろうに。応援うんぬうんではなく、真偽に係る虚偽が見え隠れした問題である以上、適度なペナルティが下されてしかるべき問題だと思うけど、飽きてしまったんじゃ、しょうがない。ブルゾンちえみだの、アキラ100%だの、PPAPだの、ああした一過性の流行りものがないと耐えられなくなってきたという事なんじゃないの? ついつい、チョコレートとかスイーツとかカフェィン飲料に手が伸びてしまう、という、そのフワフワ感が心地いいんでしょうから。


それと驚かされるのは、淡泊な意見が既に次世代の主導権を握りそうだなという部分ですかねぇ。森友学園・加計学園問題、或いは築地・豊洲移転問題などについての反応で、もう飽きてしまったからどうでもいいという意見が公然と支持を獲得していると思う。「飽きちゃったから、もう、どうでもいい」という主張が幅を利かせている事の衝撃って、地味に大きいと思うんですね。それは確かに確認できる。しかし、同時に、それは民主主義の崩壊みたいなものにも思える。フワフワとした意見が世論を支配している。

結果としては国会の早期打ち切りを決断した自公政権の判断は正解だったという事になってしまうのかも知れませんが、「なんじゃ、そりゃ」、と。そもそも歯車を噛み合わせる事の否定か。インターネット上では「朝日が」、「サヨクが」という言辞がホントに陳列しているのを確認できていますが、発端こそ朝日新聞でしたが、かなり早期から加計学園問題に触れていたのは週刊誌の分類でいえば厭味なほどに守旧派であろう週刊新潮の方であり、更に菅官房長官の狡猾さを暴いてみせたのは当事者主義を掲げる週刊文春であったのに。おそらくは、現行、政治思想も言論も非常に曖昧になているから記号論として「サヨク=反日」、「朝日=反日」という風に作用していて、しかもホントに、それが世俗的価値観に大きく影響するようになり始めてしまっている。火付け役の一人でもあった読売新聞については、テレビや新聞といったマスコミは完全にスルー状態ですしねぇ。まぁ、苦情が二千件、各地で解約騒ぎが起こっているというのは小さなニュースでもあるから黙殺も可能ですが。あ。ここ、少し違うんだな。私が目にしただけでも盲目的用語の論陣が既に展開しており、「政治とは権力闘争の世界であるからマスコミ操作は政治家の能力に含まれるのであーるっ!」という主張も通ってしまっていると思う。そんなの、いつの時代にでも繰り出せた筈であり、タイミングからすれば「安倍ちゃんを守るんだ!」とか「自公政権以外を支持している者は反日か低能だ!」ぐらいの勢いが隠れていると思う。

正直、もう終わりだろ…。終わってるとゆーか…。

少し視線を上に映すと、宮崎哲弥さんあたりが「経世在民」と言い出している。ん、今のタイミングで? まぁ、イギリスの選挙でも表向きには「有権者はバカじゃなかった。有権者は経済に敏感である。若い人はバカじゃない」という具合に語られていると思う。結局は、グローバル対反グローバルの対立構図を認識できていないか、もしくは宮崎哲弥さんのように選択として今後も経済成長してゆくべきであるという持論と、現状の政情とを照らし合わせ、そのように言っているのであろうと思う。

先ほどもNHKの日曜討論を数分間だけ視聴しましたが、「人手不足が起こっている」という具合に話し合っており、途中から「正社員の給与を上げない事には…」、「雇用の弾力性が…」等の文言が出された後に、ようやく「今年の新入社員が65歳で定年退職を迎えるのは2060年ですよ。福利制度を維持できると思いますか。40年後にどうなっているかなんて分からない」という言葉が出ていましたが…。いや、私が思うに10年後や20年後でも、かなり怪しいと思う。少なくとも目先にある「今、人手不足が起こっているから」は、物凄く微細な議論の材料なんですよね。確かに株価なんてのもアメリカの雇用統計が発表され、それが大きく株価が動いたりしますが、それは目先のトピックスに対しての目先の反応であり、何故、今、起こっている人手不足を殊更に大きなニュースと受け止めて、「このように雇用改革を進めるべきである」という議論の材料にしているのかが分からない。

ひとの一生を何だと思っているんだろう。彼等の言動一つ、提言一つが、ホントに次世代の者の人生を左右してしまう可能性が高いのに、相変わらず、上から目線で物事を思考している。財政学者や社会学者は、多くの恨み節を踏みつぶしながら政策議論を進めてくれている。

しかし、これは大丈夫なのかな。まぁ、読まなかったのですが、先月号の文藝春秋には細川護熙さんが登場して果敢にも「江戸時代の日本に戻れ」と寄稿していたらしいと知る。「バカな!」と反応するのが正しい反応なのですが、論旨は「質と実とを重んじる日本に戻ってはどうか?」というもの、「今後を見据えて中ぐらいの日本、中日本を目指し、その中で日本人は日本人なりの豊かさ、幸福を実現すべきでは?」というものであったという。宮崎哲弥さんの対論というワケではないのですが、おそらく「経世在民でいいのだ」と言っている事からすると、それに続く論陣は、今後も今迄通りに経済競争を拡大させて生き残ればいいのだとなってしまうと思うんですね。

察するに内田樹さんの『日本辺境論』に似ていたんだろうね。このまま、経済大国としての地位や順位を守ろうとするよりも、「日本は辺境だと自覚し、その中で生き残る道を模索した方がいいのでは?」という程度の内容でしたが、それに似ている。また、マイケル・サンデルはリベラリストであるが、その論旨は「社会全体が市場原理に飲み込まれてしまった」であった。善悪の判断さえも経済的な有利不利で思考することになれば、当然、それが次世代の価値基準として、今以上に強く支配してゆくのでしょう。つまり、強さや勝利することが至上価値であり、共生原理は後回しにされ、おそらくは蔑ろにされる。

まぁ、老害、老害と排斥することも容認されているのだから、2040年、いや2030年頃には、もう、かなり新しい価値観の日本人が日本の世論をリードしているという未来になっているのかも知れないなぁ。強い者には弱く、弱い者には強いという世俗的価値観は強化されていると思う。厭きっぽさや流され易いは現在よりも加速していると思う。文脈なんて「そんなのカンケーねー」という事だ。カジノ法案も喜んで受け入れるべきだという。何故なら「安倍ちゃんが推進しているから」。「田母神さん神ッス」、「あれは冤罪ッス」となり、次の政権は「オレ達のアソウ」で乗り切るつもりッス的な展開になるんじゃないの? 割とマジで。

生き残る為に自覚を持ち、あるいは無自覚なままに、それを次世代の日本人が選択したとも考えられるワケですが、多分、無自覚なままに選択したと思う。「飽きちゃった」という具合の発言が一定程度の支配力を有するように、自分たちの将来や、自分が帰属している社会についての執着が淡泊というか希薄化しているというか、そういう事であろうと思う。細川護熙さんのように江戸時代に戻れという表現は如何にも古くさいのかも知れませんが、アメリカで発生したトランプ現象やらサンダース現象、もしくはブレグジットなんてのは、ホントは持続すること、維持することの可能性が低下してきたからこそ、人々の不満が爆発した事例であり、将来に対しての対処法として「今後も大金と大きな労力とを投資して一番を目指して戦い続ける社会」と、それに見切りをつけて「この調子でグローバル経済戦争を続けても勝ち残れる可能性も、また全体に寄与する幸福も得られないから、指針として持続可能性を追求する」という選択で、もう、無自覚なままに次世代は前者を採っちゃったと思う。

気のせいかなぁ。日本に限っては、世界的潮流と逆方向になっている気がする。若者の保守化についてあれこれと言われていますが、あれ、まっとうな政治思想で自公を支持しているのではなく、考えることさえも飽きてしまい、物凄い緩いケンカ両成敗論で、「与党も野党もバカ。すべてのマスコミはバカ」と結論して、無自覚な保守化なんじゃないんスかね。ぺこ&りゅうちぇるを起用しての、ネットCMで「投票に行きましょう!」がありましたが、あのレベル、あの、おそろしいまでの若者への迎合。あれをやったのは「自称・理解のあるオトナたち」と「自称・若者の味方のお兄さんたち」がやっちゃったんだよ。彼等を信用するのは楽ちんなんだけれども、本質を見極める頭があれば、あれが如何に出鱈目であったかは理解できる筈だ。あれは橋本治さんが指摘したところの「ナハハ笑いをする消費者」を受け容れますよ、応援しますよと声を上げた方が勝利する。ひたすらに堕落させることで資本主義が回ってゆく。そこに、イデオロギーらしいイデオロギーはない。

「私たちは白痴じゃありません!」と批判に反発して擦り寄って来るオトナに甘えるのか、それとも同じように「私たちは白痴じゃありません!」といって時代に反抗してみせるかは、次世代の人の問題だ。しかし、どうも問題意識そのものが希薄になっているような気がする。

今、二十歳の青年は自分が中高年になったときに、今というタイミング、時代を後悔することになるような気もしますけどねぇ。持続可能性に目を向けず、この僅か数ヵ月とか1年の間の雇用統計をみて「弾力性」とか言い出され、しかも非正規の人については「まぁ、残念でしたな」という具合にはぐらかして、今後も正社員を照準に沿えた社会にするという具合の建前として論陣は張られてしまうと思うよ。少数派の意見は容赦なく斬り捨てる事が正しいのであるという政治哲学が支持されてしまっているという事だから。

次世代の人たちは「雰囲気に流されてしまったろうな」と私には見えるけど。ホント、20年後とか40年後なんて予測できると思っちゃ大間違いなのは確かであろうにね。時間をヨコ軸で捉えたくなる感覚も、また、甘い言葉に靡いてしまうものがヒトというものだろうけどね。しかし、タテ軸で指摘されたくないから老害だと排除し、耳にやさしい言辞ばかり、そんな気分ばかりで物事を判断した報いは、当然、因果応報となって降り掛かるって事だと思うけどねぇ。

ウルトラセブンってオトナ向けだなぁ。

ファミリー劇場でウルトラセブンが放送されていて、第38話と第39話の「セブン暗殺計画」を視聴していて思ったのですが、やはり、ウルトラセブンを越えるのは容易じゃないよなって感じる事となりました。この「セブン暗殺計画」については小学生の頃に何度も何度も視聴しており、しかも恐らくは夏休み終盤に視聴していた記憶がありますが、あの映像というのがね。

ウルトラセブンが十字架に架けられている。処刑台です。ガッツ星人は、

「明朝、日の出と同時にウルトラセブンを処刑する」

と通告してくる。夕陽の空に、十字架に張り付けられたウルトラセブンという映像が非常に印象的です。後編になると、空に浮かぶ十字架の像は虚像であり、十字架に張り付けられたウルトラセブンは断崖に埋もれているワケですが…。

有名なメトロン星人とモロボシダンとが、やはり、西日が強烈に差し込んでいる部屋で胡坐をかいて対峙しているという映像があり、あれは実相寺昭雄監督の映像として語り草になっているようですが、この「セブン暗殺計画」に於ける狃住架に架けられたウルトラセブン瓩箸いΔ里眞罅垢覆鵑任垢茲佑А

また、ギエロン星獣が登場する第26話「超兵器R1号」のシナリオは、映画「博士の異常な愛情」を彷彿とさせるオトナなシナリオであり、サーッと体温が冷めるような粗筋なんですよね。これは、牴坦下埓瓩鮖匐仝け番組に反映させているという意味で、凄いシナリオだな、と。地球人が惑星を破壊できるミサイルを開発しているように、相手も…という怖さ。

加えて、第43話「第四惑星の悪夢」なんてのは星新一のショートショートみたいなことをやっている。実相寺監督で。もう、後発が超えられないようなものが出来てしまっているなぁ。ストーリーは到ってシンプルなんですが、こちらは地球にそっくりな第四惑星は既にロボットに征服されているという設定。ウルトラセブンの活躍によってロボットが支配する第四惑星からモロボシ隊員とソガ隊員は脱出に成功。両隊員は地球に帰還する。

ウルトラ警備隊の基地内でモロボシ隊員とソガ隊員とが事情を説明すると、

「夢でも見てたんじゃないのかァ?」

と冷やかされ、

「決して夢ではなかった」

と反論する。すると、キリヤマ隊長が

「今度、我がウルトラ警備隊にもコンピューターが導入されることになった。これで我々の任務も少しは軽減されることになる」

機械に依存しすぎて地球も第四惑星に乗っ取られるようなことにならなければいいが、モロボシとソガの両隊員は思い、目配せをする感じであるが、キリヤマ隊長以下、ウルトラ警備隊の面々はロボットに乗っ取られる未来を笑い飛ばす。

「アハハハ」と笑い声が響いて「完」となるのが、いつものパターンなので、ここで、オシマイかと思ったら、もうワンシーンがありました。

高速道路の上に架かった陸橋の上で、ソガ隊員とモロボシ隊員が人類が地上を好きなように開発してしまっている風景を肩を並べるようにして眺めている。その下を行きかうクルマ。二人の視線の先には切り拓かれた丘があり、その向こうには山々の遠景が広がっているというカットでオシマイ。

オトナ向けじゃーん。子供の頃、こんなの視た記憶がないよ。

2017年06月23日

中村元の仏教用語の解説

「アートマン」という言葉を上手に説明するのは難しく、ブラフマンに対してのアートマンという意味であれば、おそらくは【自己】とか【我】という具合に捉える。対になっているブラフマンに「宇宙原理」という言葉を当て嵌めると、大雑把にはアートマンとブラフマンの関係性、「梵我一如」の解釈に適応する。漢字の場合は、基本的にはアートマンが【我】であり、宇宙原理が【梵】ですが、それは一つの如し。

この【アートマン】を中村元は言葉としてどう語るのかは興味があったのですが、そこはセオリー通りでした。原義は「息」とか「呼気」であり、それが「自己」の意味となり、「我」となった、と。ただ、捉えようがないのは、英語の【atomosphere】、カタカナだと「アトモスフィア」であり、その語源もアートマンであるという。アトモスフィアの意味とは猜薫狼き瓩任△襪茲Δ剖気といったニュアンスがあるという。

もう一つ厄介な用語として【dharma】(ダルマ)がある。これを漢訳した場合は【法】になってしまうので実は思いの外、混乱し易い。ダルマの意味は「法全般」に係っているので、いわゆる狭義で法律を指しての法ではないんですよね。しかし日本語の場合は「法の支配」なんて言いながら狭義な意味の法律を指して法という言葉を使用してしまうので、必ず、その問題に引っ掛かる事になる。なので、カタカナで【ダルマ】とすればいいかとなりますが、こちらも「高崎駅のダルマ弁当」の意味の、あのダルマさんで使用することが多いので、実はピンとこない。

中村元は、この「ダルマ」を「ドァルマ」という感じで発音していましたが、そう文字で表記したところで意味が分からなくなってしまいそう。つまり、ダルマとは「保たれるべき法則性」という広い意味であり、そこには法律も当て嵌まりますが、どうじに倫理的規範も含まれるし、宗教的な義務も含まれる。

小さな共同体があって、そこに掟、因習が存在した場合、おそらくは、その掟や因習もダルマに該当するという考え方も出来てしまうかも知れない。それを永遠であると信じてさえいれば。また、掟というのも更に善の価値を含めれば、美徳や正義といったものも、保たれるべき決まり事だという事になる。これも永遠であると信じていれば、そうなってしまう。

となると実は【ブラフマン】にしても「宇宙の最高原理」を表しているという意味からすれば、一つのダルマである。

そして中村元は、ここに一つの説明を加える。ダルマとは永遠の法則性を意味しており、漢字表記では【法】であるが我々が言うところの【道】の概念に近いという。歴史は、いや、時間軸は基本的には永遠であり、永遠に守られるであろう法則性がダルマ。ダルマとは「法」であり、「道」であると説明していました。かなり広義な意味であるのがダルマの本義であるが、これが漢字表記で【法】としてしまった場合、そこでは話し手や聞き手によっては曖昧さが避けられそうもないんですよね。

日本語の【道】も同じですかね。「道そのもの」、道路の意味で使用されるケースが多い。しかし、それは筋立てた抽象的概念が道路に転用されたものであり、永続的に続く何かを指している。


「空気を読め」と現代人も使用している。これは「雰囲気を読め」という意味ですよね。しかし、それは「私の意を読んでくれ」とか、「君以外の者の意を読んでくれ」という意味で発言されている。おい、ちょっと待て。アートマンの原義は確かに呼気であり、空気を指しているが、それは呼吸をしている自己を指しているのだ。思惟している主宰者こそが我であり、自己であるのだ。何故、自己を押し殺し雰囲気に合わせねばらないのか。

そう発展する事になると思う。

所詮、雰囲気などというものは、その状況下で生起した場の空気に過ぎない。それに合わせてしまったら、自己が無い事になる。「自己なんて無いのだ。無我という言葉を知らないのか?」というツッコミは誤まりであるという。これも漢字表記が関係していており、元々は「非我」と漢訳されていたものがいつの間にか「無我」になってしまったものだという。して、この【非我】の意味にしても、消去法でアートマンとは何であるかと探求し、削ぎ落とし、そこで真の自己を発見することを意味しており、「我が無い」という意味ではないという。その場にいる全員が全員、この空気を読め、無我であるとやりだしてしまったら、騙され放題、支配され放題になるのは自明ですやね。むしろ、真のアートマンを追究し、その境地、それに近いものから紡ぎ出す魂の言の葉なのであれば、その場の空気なんてものを読む必要性はないって事なのでしょう。そうしないと、自己なんてものは成立しやしない。

2017年06月22日

キチガイ代議士

埼玉4区選出の自民党女性代議士が自らの政策秘書に暴言を吐きながら暴行をしたとされる騒動、これ、音声が出てしまっているので、その臨場感が伝わってきますやね。

いわゆる「キチガイ」って呼んできたヤツだ。優秀な頭脳の持ち主だという事ですが、あそこまで情緒が著しく不安定で感情のコントロールが出来ないというのは、人格として問題があると思う。で、或る時期から勝手に自粛するようになったワケですが。

「痒くて痒くてたまらない。このままではキチガイになりそうだ」

とかいう場合の、それですが、やはり、常識的には他者に接するにあたって、ありゃ、酷い。人の上に立つ政治家なんですと言われても、ホントは当選されては困るんですよねぇ。あの様子では人格障害と言いたいところだけれども、勝手に病名をつけるワケにもいかないから巷間では、ああいう人を一般にキチガイと呼んできたのだと思う。

自粛は大袈裟であり、「精神病院」を指して「キチガイ云々」と称したら配慮面で問題がありますが、狂人や狂気、乱心、乱心者を指してのキチガイまでもを自粛ワードにしているのは変ですよね。辞書にだって掲載されている単語なのであって。

で、あの感じというのは、見掛けてしまう事がある「キレる老人」に似ていますかねぇ。もう、キレまくっているから、取り付くしまがない。ずーっと、あんな調子でキレ続けることが出来るなんて特異能力者なのだと思う。情緒的な安定を欠落させ、感情をコントロールする事ができない。

で、そこまで言うのはあんまりだと考えるかも知れない。しかし、違うんですよねぇ。誤解や齟齬ではないのだ。これは明らかに、本人の資質とか驕慢に原因があり、それで暴行されたり、暴言を吐かれる真の被害者が存在しているという事例なのだ。常軌を逸したキチガイ状態の凶暴なを相手にして、そのまま無抵抗で罵られ、殴られる事というのは、相当な恐怖体験であると思う。この精神的負荷たるや、甚大でしょう。

「後で覚えてろよ」と冷静に考え、覚悟を決めて、その状況に耐えられればいいのだけれども、実は不満ですかねぇ。冷静さを失っている者に対して世の中は寛大すぎると思う。常軌を逸した者の暴言に耐えるのが、どれだけの精神的な負荷であるか、という部分ですかねぇ。反論も反撃もせずにキチガイモードに耐えるという事は、命を消耗させ、自己嫌悪と向き合わされ、自らの良心に対しての虐殺に耐えているようなものだ。

このキチガイ代議士の場合、全力で絶叫している部分にも驚かされますが、それ以外の発言内容の中に

(元政策秘書の20代の娘を想定して)娘が顔がグシャグシャになって 頭がグシャグシャ 

脳みそ飛び出て 車に轢き殺されても


という類いの挑発文句を替え歌にして発しているのが確認できますが、これ、もう最上級の脅し文句、挑発行為ですよね。家族が傷つく事をイメージさせる手口は暴力団やマフィアの手口。サイコパスじゃないと出来ない行為じゃないの? 

これにも耐えるのってバカバカしくないスか? 相手はキチガイなんだから、いっそキチガイらしく扱ってやれって思ってしまうのが、ヒトの本音じゃないんスかね?

町田新婚妻絞殺事件という事件があり、新婚の夫が妻を絞殺してしまった事件に過去に触れた事がありました。その際、新婚夫を逆上させた新婚妻の言葉があった。

「あんたと別れる。あんたのものは全部壊してやる。(夫の元彼女の苗字)はぶっ殺してやる。いろいろな男にマワさせて、二度と戻らないぐらい顔をぐちゃぐちゃにして、素っ裸にして会社の前に捨てといてやる」

その言葉で新婚夫は新婚妻を殺すことに踏み切っている。殺人は殺人だし、病気は病気なのですが、確かに、それを言われたらフツウ、逆上するでしょう。しかも元彼女は実は何ら関係がない。関係がないのに、それが理解できず、凶暴さばかりを先走らせて、「いろいろな男にマワさせて、二度と戻らないぐらい顔をぐちゃぐちゃにして、素っ裸にして捨ててやる」と言われれば、「あ。これは本物の狂気だ。私がここで殺しておかねば大変なことになる」と感じてしまうと思う。人格が破壊され、凶暴化している者の中に人格を見てとろうだなんて、どだい不可能なのだ。元カノにまで危害が及んだらシャレにならないし、たとえ狂人であっても、こんな猛獣のような思考回路の人間を赦すワケにはいかないと考える。まともな責任感があれば、あるほど、その必要性を感じてしまうんだと思う。

なのに、如何なるキチガイモードな罵詈雑言を浴びせられても、拳を握りしめて耐えて耐えて耐えねばならないというのは、かなり世の中が歪んでいるという事ではないのか。問答無用で反撃に転じる事が禁止されているってのは、変じゃないの? そんなストレスに耐えて、やられた者が重いストレスを蓄積させるなんてバカバカしい。

相手はキチガイモードになっているのだから何をしでかすのか分からないワケで、相手がキチガイモードの人である場合、容赦なく自衛措置を取る事が許されるべきだと思う。酒乱の人というのがあり、金属バットを振り回したり、刃物を振り回しても、「まぁまぁ、酒に酔っての事ですから大目に見てあげましょう」で済ませてしまいがちであった昔がある。しかし、アレ、多分、本人は低次では理解できて暴れていますよね。つまり、今、ここで暴れても大丈夫だという意識があり、その低次な意識下で暴れてくれている。しかし、その場に暴力団員のようなコワモテがやってくると、おそらく、そんな酒乱がピッタリと収まってくれるであろう、その不思議がある。おそらくは、本人の気の弛みとか、驕慢と深く関係しているのがホントでしょうしね。ナメてんだよ、心の底では。

今回も「パワハラ」という具合に過小報道されていますが、ホントは堂々たる傷害罪とか暴行罪だろうし、余罪もあるんじゃないのかって感じだしねぇ。