2019年11月21日

満蒙開拓団の戦後

ETV特集「彼らは再び村を追われた〜知られざる満蒙開拓団の戦後史」を視聴。かの満蒙開拓団となった人々の戦後を追ったドキュメント番組でしたが、地味な内容ながら重たい内容であったような印象でしょうか。

戦前に国策に拠って満蒙開拓団に参加し、終戦後に大混乱の中で帰国したが、その人たちには既に済むべき故郷はない。日本国内にも開拓の余地を残している場所はあったが、戦後の大混乱で満蒙開拓団の人たちに充てる開拓地は残っていたという。当時の政府は国策として「戦後開拓事業」として未開拓地区への入植を推奨したが、それらの多くは農耕に適さない場所であったというもの。当時の農林省に残っているデータでも、pHなどの関係で稲や麦はつくれる見込みはなかったが、開拓事業が行われた。つまり、ホントにエリートであれば、そんなところを開拓しても米や麦はできませんよと知っていながら入植されていた部分もあったと思われる。おそらく「職がない」という状況を解消する為の策であったと思われる訳ですが、国や県によって斧を支給され、開拓民は森林を伐採して農地にしてみたが、実は米や麦の栽培は無理で、イモ類がやっとという土地へ、満蒙開拓団からの引き揚げ者を斡旋していったという、薄暗い昭和戦後史を明らかにしたものでした。

しかし、これが戦後史すなわち現代なのでしょうねぇ…。この戦後開拓事業が展開された土地は、日本各地にあり、中には明らかな高冷地や傾斜地が含まれていたという。約21万人が、この戦後開拓事業で開拓地に入ったが実に半分以上が離農、定着したのは9万人であったという。また、どこのエリアであったか、「戦後30年間は電気も水道も通らなかった」といい、つまり、1960年代初冬までは現在の福島県あたりでも電気なし水道なし道路なしといった場所があったのだそうな。そして、それら開拓団の入った痩せた土地は、再び国策によって翻弄されたという。紹介されていたのは、現在の茨城県つくば市、新東京国際空港こと千葉県成田市、そして福島県の浜通り地方…等々でした。筑波山の麓にある「つくば市」は学園都市として整備された。成田空港は成田闘争もあったので鮮明ですが、あそこは元々は戦後開拓事業によって入植した人たちが開拓した土地であるという。そして、福島県浜通り地方ってのは、まぁ、言ってしまえば原発政策ですな。国策事業によって開拓民に開拓させたが痩せた土地であるから、その後、国策によって合理的な土地利用が為されたという事であったかも知れない。

中には、三度の国策が自分の人生そのものに大きく影を落としたと回想する老人らの証言もありました。満蒙開拓団へ参加し、帰国後は戦後開拓事業で福島県浜通り地方へ、そして原発によって賑わいをみたがフクイチ事故――その方は酪農をしていたが保有していた全ての牛は殺処分を要請され、牛の慰霊碑を建てていたりする。或る老人は「社会の歪みというのは結局、全部、弱い者のところへまわって来るんです」とテレビカメラの前で呟く。

或る意味では、国策なるものが一個人の人生を、そうしたものにしている可能性があるという暗部を抉っていたのかな。現在も、

「マイナンバーカードが普及しないのは国民どもが生意気だからである。どれ、奴らの資産やカネの流れを完全掌握してやろう。予算を取り仕切っている我々が税金の内から景気刺激策の名の下に、2600億円ほどバラまいてやろう。生意気な愚民どもを、ごっそりと釣り上げてやろうじゃないか。金輪際、我々に歯向かう事なんて出来なくなるが、気づきまい。わっはっはっ」

「新聞の小さな記事を丁寧を読んでみろ、今後は社会保障の適用範囲も拡大し、立入調査をする権限も拡大するし、NHKの受信料も、もっともっと上げて搾り取ってやればいいのさ。繁栄の為なら犠牲も厭わずって奴等自身が言っているんだ、構うもんか。奴等は上級国民様のヨウブンみたいなものなんだよ、神代の昔っからね」

って、方向性になっちゃってますな。

ussyassya at 11:37|この記事のURLComments(0)雑記 

2019年11月20日

一即一切について

Eテレ「心の時代」には、「クマさん」の愛称で親しまれ、かつては「笑っていいとも増刊号」に出演していた篠原勝之さんがゲストでありました。この中で、印象的なシーンがありました。蓮の葉の上に水滴を垂らし、その蓮の葉の上で水滴を転がし、クマさんが

「これが華厳経の一即一切・一切即一というやつだな。これが宇宙だってんだ」

と、にこにこしながら語っている。何やら山奥にアトリエを構えてゲージツ活動をしているといい、自作の小さな池には、東大寺で仕事をした際に分けてもらったという白い蓮が浮かんでおり、その池の泥をすくって、別に陶芸をする訳ではないが茶碗を焼こうとしているという話の中で、飛び出した言葉でした。

やはり、映像というのは説得力を持っているかも知れない。さりげなく、そうしてみせただけだったのですが、蓮の葉の上を転がってゆく水滴は、形も不安定にして陽光を反射している。そして、そこで説明されている事は、一微塵の中に宇宙が在り、一瞬の中に永遠が含まれているという教説なのだ。

思い出して、中村元著『現代語訳大乗仏典5〜「華厳経」「楞伽経」』を開いてみると、次のように記されている。

無限に微小なるもののうちに無限に大きなものが存在している、そうして一切の事物は相互に連関しあって成立している、と説くのが『華厳経』の究極の趣旨だといわれています。この趣旨をいろいろの表現や語句を用いて説明しているのです。

新聞広告を見る限りでは、昨今は親鸞や歎異抄が商業的にプッシュされているような気がしますが、言われてみれば、仏教もしくは大乗仏教の大きな大きなテーマ、核心そのものであったような気がする。中村元の解説を摘まみ食いしてしまえば、この「華厳経」によって、世界の相互連関を示しており、これが盧遮那仏(毘盧遮那仏)の話でもあり、光輝くもの、万遍なく世界を照らすもの、その世界観を示したものである。

「一瞬の中に永遠が含まれている」というのは、「オウム真理教」という名称の【オウム】が、それを意味していた。「オウム」という音、その音の響きの中に物事の起点から終点までの一切が含まれているというような意味であった。(かの麻原彰晃は、中村元のテキストを読んでいたとされ、確かに仏教やヨガなどから、あのカルト教団をつくり上げていた。)

この「一瞬の中に永遠が含まれている」という見立てが、中々に興味深い訳ですよね。時間と空間というが、実は空間が無ければ時間も存在しないという。なので、教理としての「一即一切・一切即一」というのは、超超巨視的な視座で宇宙を見立てている事になる。大大大大の50乗ぐらいのスケールの大巨人の鼻水から宇宙が生成されていたとしても、その中の宇宙の中の小さな星の小さな島の小さな町で生まれ生活している者に理解できる訳がない。また、そのレベルの巨視的な視点からすれば我々が認識するところの1年であるとか千年なんてのも、一瞬の内の一瞬だという事になる。なにしろ、起点から終点までが巨視的に視れば一瞬になってしまうのだ。

改めて、中村元の著書に目を通してみると、仏教の初期段階からあった世界観であり、この華厳経そのものはインドでつくられたと思われ、それが中央アジアを通って中国へ伝わり、漢訳されたものが朝鮮半島を経由して日本列島に渡ったものと考えられるという。これが東大寺の毘盧遮那仏であり、ヴァイローチャナである。

ところが、大乗仏教として説かれたという後半になると、龍樹(ナーガ―ルジュナ)が登場する。この龍樹は、西暦150〜250年ぐらいの人物であり、やはり、中村元は龍樹を「中国神仙思想をベースにした一派」として別の著書『龍樹』で触れている。つまり、古代インドが発祥とはいうものの、華南地方の神仙思想が2世紀か3世紀の頃には影響を与え、その完成度を高めているのだ。これによって中観派が確立されますが、何故、そうなったのかというと、この中観派によって「世界は相互依存によって存在している」と説かれるようになり、大乗仏教の礎になっているという。

長いという観念は、短いという観念に依存して成立し、また短いという観念は、長いという観念に依存して成立する。作用は作者によって成立し、また作者は作用になって成立している。悪の否定によって善が成立し、善の否定によって悪が成立している。以上のようなことを、ナーガールジュナは『中論』のなかで説いたのである。

つまり、原始仏教の持っていた法界縁起説といったものの基本的観念が、この中観派の哲学において理論化され、明確化されたと解説している。

これは驚くべき発見かも知れないなと思う。既に、壮大な話なのですが、「長いという観念は短いという観念に依存して成立している」といった、この言い回し、相対主義の証明をしたのは、まさしく「荘子」の世界なんですね。荘子を著した荘周自身がオリジナルかどうかも定かではありませんが、荘周や龍樹の生存年間以前に華南に、その哲学が登場していたって事だよなぁ…と。

まぁ、左翼思想の中にも「大きい石がなけりゃ、小さい石もないんじゃ!」という理屈は登場しますが、その相対主義を説く理屈が太古のアジア、おそらく華南地方に登場し、巡り巡って聖武天皇の時代に日本に洗練された形で入ってきている。道教として読み解けば、ホントは「天照大御神」も毘盧遮那仏と同じものを指している。

「和を以て尊し」とか「あまねく光で照らしましょう」が元々は日本国の根本理念であり、哲理としても誇るべきものであったように思いますが、現在ともなると…。



「心の時代」という固い番組でしたが、若かりし日のクマさんは絵本作家になろうとして、自作の絵本を十冊ほど風呂敷に包んで新宿界隈を歩いて飛び込みのセールスをしていたという。絵本を手にしておきながら、中には「つまらない」等と酷評する者もあったので、しばしば喧嘩になったが、

「今にして思えばよ、ホントは、あの頃のオレは絵本を持ったゴロマキだったんだな。着流し姿で坊主頭でよぅ、絵本を抱えて現れて、絵本を買えって言われてもな」

と相変わらずの調子で、笑いをとっていましたな。

ussyassya at 02:48|この記事のURLComments(0)世迷い言 

2019年11月19日

見えざる神の手ならぬ、ヒトの手

桑田佳祐さんの「明日へのマーチ」という楽曲に《♪明日への、フレー、フレー》という歌詞があって、何故だかその箇所を《♪明日への、レッセフェール》と聴き間違えてしまう。

レッセフェール? 

いやなんだっけかな、レッセフェールって…。なんだか物凄く重要なカタカナ語だったような気がする…。少なくとも、この語感を知っているからこそ、聴き間違えているのだ。


ブリタニカ国際大百科で、【レッセフェール】を引くと、それは日本語では【自由放任主義】であり、フランス語だと【laissez-faire】だという。

解説…自由に個人の利益を追求させ、競争させることが社会全体の利益の増進に役立つという主張。A.スミスは『国富論』において、フェアプレイの原則に基づく自由競争こそ、見えざる手による社会の繁栄をもたらすとし、一切の保護制度を廃止すべきであると主張した。このような主張は独占的商業資本が王権と結びついてとった貿易の独占とそれによる金銀の蓄積を主目的とした重商主義に対抗するものであったが、同時に国際的な自由貿易を求める運動にも結びついていった。

ああ、そうだっけ…確かに重要なカタカナ語であったなぁ…。と、思い起こすと同時に、現状のヤバさを思う。それぞれの国は、国家資本主義か帝国主義かという方向へハンドルを切っており、市場原理に到っては「見えざる神の手」というよりも「見えざるヒトの手」によって動かされている。それは人為的に行われている事なのだけれども、あたかも「神の手」のように見える。少なくとも、アダム・スミスの頃は、国家による制約などとは無関係に各個人が経済活動をしている中で、国の富は最大化されると考えていたワケですね。

しかし、現状ともなるとどうか? 微妙に合っているが微妙に違っている。基本的な部分は大きく違ってしまっており、国際政治の舞台でパワーポリティクスが幅を利かせている現在の状況は、フェアプレイの自由競争とは認めがたく、むしろ、国益の最大化を各国が画策するあまり、利益がバッティングし、それぞれの国が、どうも帝国主義的な道へ向かってしまっている訳ですね。国家資本主義なのか国家社会主義なのか、その呼称にも迷うところがありますが、例えばレーニンの場合、「資本主義が独占資本の段階に入った時にその最高形態としての帝国主義に転化する」と規定していたという。それに似た状況になっている事は間違いない。米国も中国も。


さて、11月10日の読売新聞12面(「言論」面)にはブレンダン・シムズ英ケンブリッジ大教授が登場し、「現代に潜むヒトラーの影」なる記事が掲載された。シムズ教授は歴史学の教授で、今秋、歴史書としての『ヒトラー』を米英で発刊し、話題になっている歴史家であるという。

ヒトラーの定説は覆されている。従来の定説ではヒトラーが最も脅威と感じていたものはソ連及び共産主義であったかのように展開されているが、このシムズ教授は従来の定説を否定し、ヒトラーが最も怖れていたものは、米英両国であり、国際金融資本であったとする。その米英両国及び国際金融資本に対抗する為に、全体主義を採ったのがナチスであるというのが、凡そ、シムズ教授の見解として語られている。

従来の定説を覆した事になるのかどうか微妙ですが、きっと歴史学のアカデミックな部分では、そういう解釈であったのかも知れない。しかし、このシムズ教授は、ヒトラーを再評価してみせたのだ。

ナポレオンを別にして、ヒトラーは近代以降、最も際立った為政者と言えます。加えて、ナチスは行進、音楽、映画などに意匠も凝らした。テレビ、映画向きの題材です。

と再評価してみせたという。

また、別の読売新聞の記事では、従来はヒトラーやナチスに対しては「語る事も問題視される何か」という具合の、悪魔的な解釈しかしていなかった事にも言及されていたかな。ベルリンの壁崩壊30周年記念の頃の記事ですけど。

で、シムズ教授のナチスの話も、我々からすると、そんなに斬新な話でもないかも知れない。米英両国と国際金融資本を怖れたから、全体主義で対抗しようとしたのだし、国際金融資本と対決する中で反ユダヤ思想に傾斜していったと、ただただ、淡々と歴史を見つることができる。米英に対抗する中で「生存圏」という構想が生まれ、実際に連合国と枢軸国との対立構図は「持つもの」と「持たざるもの」との対立構図であった事を承認している。そのまんまですな。善とか悪とか、そういう余計な観念を歴史に持ち込んでしまうから、おかしな事になるのであり、真実の中には善も悪も共存している。

そして、シムズ教授はグローバル資本主義への批判が高まり、先鋭化した部分では反ユダヤ主義がポピュリストの言説として台頭していると語っている。それを以て「ヒトラーの影」と表現し、シムズ教授の立場からすると、「私たちは不断にヒトラーを打ち負かす必要があるのです」とし、更には、次のように主張している。

ドイツは経済大国ですが、軍事小国です。89年の東西冷戦崩壊後、軍事力を更に落としている。軍事的な役割を担うことに極めて臆病です。ここにもヒトラーの影が差しています。ためらう気持ちは理解できますが、欧州の安全保障上、ドイツの振る舞いは問題です。

とあるから、シムズ教授の見解としては、「ヒトラーを復活させない為に、ドイツは軍事力を増強すべきだ」的な方向性を向いている。ん。しかし、そのように舵を切ると、国際情勢ってのは…。



ヤフーとLINEとが合併に向けての合意に達した事を正式発表。「なんじゃ、これは!」と思わせる大型な合併案件でしたが、Amazon社に対抗しうる何かが模索されての、ここのところのソフトバンク・グループの動きに気付かされる。黙っていれば、Amazonにシェアを奪われてしまう。他方、実は中国ではアリババ・グループが、Amazonの猛威を一先ず斥けたとされている。

アリババ・グループに拠れば、同社の戦略は従来の先進国が40〜50年間かかかった部分を10年間で成し遂げたという。特に、流通というものの形態、その発展プロセスを大幅に省略して、現在のアリババ・グループがあるという。米国や日本には百貨店、スーパーストア、コンビニなどの豊富な販路が既に出来上がっていたが、中国には、強靭な流通界の王者はなく、確かに、一気呵成に、それらのプロセスを吹っ飛ばして、現在のITによる経済王国をつくりあげており、何故か完全監視社会への杞憂も希薄なままに、そのビジネスを確立してしまったワケですね。現在もクラウドや決済に係る技術が争われている。

そして孫正義さんは、アリババ・グループの約30%ほどの株式を持っていたとされるが、昨年、一部の売却し、現在は、約27%ほどの株式を保有しているという。孫さんは何をしようとしているのかというと、ここに来て、スピードを急いでいるように見える。最近だけでもZOZOを買収し、LINEをも取り込み、それに先駆けて行われているペイペイのバラマキも重くのしかかっているが、それでもシェアを抑えてしまいたいと躍起になっている訳ですね。ソフトバンクグループ全体だと、どうも稼ぎ頭になっているのはケータイ事業としてのソフトバンクであり、それ以外は稼いでいるという感じでもない。

次なるAIを擁した新しいITが人々を幸福にする時代が始まるのだというけれど、どうも観測できる事柄は覇権を争っているという事ばかりだったりする。シェアを奪わねば明日はない的な状況にソフトバンクグループあたりでさえ、追い込まれている。個人に何ができようかってレベル。勿論、この巨大企業合併による世界再編の流れ、それには甚大な被害が付き纏うと予測されると、アリババ・グループの元戦略担当の人が、どこかの記事で語っていたかな…。まぁ、そうとしか考えようがない。誰が幸せになるのやら…。

個人的にはZホールディングス株で6千円ほど利益確定するも、その後、買い直し。買い直した結局はマイナス6千円へ。チャラだからいいけど、世界は大変な激動期に入っていそうだなぁ…。

ussyassya at 11:50|この記事のURLComments(0)辛口評論 

2019年11月18日

映画「実録・連合赤軍〜あさま山荘への道程」の感想

若松孝二監督作品の「実録・連合赤軍〜あさま山荘への道程」を視聴。190分の長尺なので予め、時間を調整しての視聴となりました。長尺である事を考慮すると飽きずに視聴できたのですが、内容が内容なのでテンションが低いままに視聴させられる破目になる作品だなぁ…というのが、率直の感想でしょうか。

「あさま山荘事件」だけであれば、或る種の籠城事件ノンフィクションとして視聴できるのだと思いますが、この作品、一部フィクションもあるが基本的には実録映画なので、ひたすらに暗く、且つ、赤軍リンチ事件の箇所は、ちょっと救いようがないんですよね。言ってしまえば、胸糞悪いとか、けったくそ悪いとか、人間のグロテスクさが全開で、それを映像化しようとした作品である。視聴前から、或る程度の内容は知っていたワケですが、松永太&緒方某の北九州事件や、角田美代子による尼崎事件、綾瀬コンクリ事件と並んで、非常にグロテスクな密室による集団殺人事件である。洗脳の手法は、おそらくは北九州事件と尼崎事件とに通じている。

次から次へと自己批判をさせて追い込んでゆく森恒夫の「総括理論」の醜悪さ、それを成立させてしまっている永田洋子の醜悪さは、ハンパではない。狂気であると評する事も許しがたく、オトシマエをつけるなら、自己批判の末に悶死する以外の清算方法は認められず、獄中死や獄中自殺などでは、如何にもリンチ殺人をした罪について、生ぬるい。彼らは、「生ぬるいっ! 総括せよっ!」と難癖をつけて同志を次から次へと、12名も殺害しており、そんな彼らは自分に対して驚くほど生ぬるい総括しかしていないじゃないかという感慨を残してしまうので、怖ろしく後味が悪い。

この重た過ぎる作品で、坂井真紀は「遠藤美枝子」を演じている。この遠藤は、赤軍派の創立メンバーにして、事件前にレバノンへと脱出した重信房子(テルアビブ事件後に日本赤軍を起ち上げる)とも近い存在であったとされる。しかし、リンチ事件で、最も凄惨なリンチに遭ったのも、この遠藤美枝子(当時25歳)であったとされる。これを坂井真紀が演じているのですが、視ていても心が痛いだけでしかない。

「化粧をしているっ! 革命戦士の自覚が足りないっ! 総括せよっ!」

という具合に難癖をつけられ、その後も

「何故、着替えているのだっ! この期に及んで女を捨てていないっ!」

とし、自分で自分の顔を殴るように命じられたのが、この遠藤美枝子の死に方であり、それを坂井真紀で再現している。映画でも描かれていましたが、実際には30分程度も、この自分で自分の顔を殴るという自己批判リンチが続き、その後、永田洋子が鏡を遠藤美枝子の前へ差し出し、その醜く腫れ上がり、流血した顔を遠藤自身に見せるシーンは実話との事ですが、ノンフィクションであるだけに四谷怪談を越えてしまっている。とても「坂井真紀」が演じているようには見えないが、目の丸さが辛うじて坂井真紀である。

映画では、そのまま、縛り付けられてトイレにも行かせてもらえぬまま、死んだとして描かれている。しかし、実話と照らし合わせると、この遠藤は嫉妬されていた可能性が高く、自分で自分の顔を殴った後に丸坊主にされ、性的暴行も受けたとされている。

映画中でも、この自分で自分の顔を殴るシーンがありましたが、森恒夫や永田洋子らが放つ言葉が、絶望的にエゲツナイ。

「その魅力的な唇を殴れっ!」

「その鼻を折ってしまえっ!」

「男に流し目できないように目の辺りを殴れっ!」

と、歪んだサディズムを貪っているのは明白であるが、その集団内では「自覚が足りないっ! そんな事で総括になるかっ! 生ぬるいっ! 甘すぎるっ!」とし、一方で「我こそが崇高な革命の為の指導者なのである」という傲慢な意識しかないという人間のグロテスクさが全開となる。裁判官役としてリンチを示唆したのが森恒夫であり、検察官役として同志らに難癖をつけていたのが永田洋子。もう、どうしようもなく醜悪なのだ。(遠藤美枝子の化粧や着替えた事に女を捨てていない、山田考が任務で町へ降りて空き時間に銭湯に入ると、自分だけ銭湯に入った行為を意識が足りないと難癖をつけ、自己批判・総括を要求し殺害したが、実は、この森と永田は肉体関係を有する男女関係にあった。ひでぇな、ホントに。)

美形かどうかは兎も角として、愛らしさを感じさせる坂井真紀演じる遠藤美枝子がボロボロになって死んでゆく姿は、やはり、痛々しく、視聴していても、テンション的にきつい。

190分作品なので、必ずしもリンチ事件が主眼として描かれている訳でもないのですが、この連合赤軍の一連というのは、非人間的、つまり、人間的感情や情動を否定し、ロボット的な革命兵士になることを森恒夫と永田洋子が求めてしまっており、それに引き摺られるようにして地獄絵図のリンチ事件が起こっている。

この事件は、学生運動も下火となる中、「共産主義者同盟赤軍派」(赤軍派)と「日本共産党革命左派京浜安保共闘(革命左派)とが革命戦争を起こすとして合併し、連合赤軍が登場した。映画では詳細に描かれており、この合併によるセクト争いもあったのか革命左派出身者が赤軍派出身者に難癖をつけているシーンが多いようにも感じる。遠藤美枝子は重信房子に送金している筈だとして、遠藤にカネの在り処について、口を割らせようとしているシーンがある。

そのリンチ事件の後だから、あの「あさま山荘」に立てこもった残党は、激しく抵抗したという筋書きが分かる。状況判断が出来ていれば、あの籠城戦には大きな意味はなかったが、引き下がれなくなってしまっていた。強行突破も不可能、リーダーである筈の森恒夫と永田洋子は既に逮捕。武力革命などは夢のまた夢であろう現実的な状況でありながら、頑なに投降しなかったのは、既に同志12名をリンチで殺していたから…というのが「あさま山荘事件」の実相だったような見立てが出来るようになっている。同志を次から次へと殺しておきながら「革命」であるとか、「革命兵士として」と言われても、おそらく多くの者は腑に落ちないであろうと思う。

この世代の人がつくった邦画の中に「昔はよかった/昔は燃えていた」という懐古趣味的なものを見い出してしまう事がママあると思う。萩原健一&桃井かおり主演であった「青春の蹉跌」あたりは「蹉跌」だったの思いますが、平成の美少女が70年代にタイムスリップして学生運動の闘士との間に淡い恋を募らせるといった具合の、邦画というのは、そこそこあるような気がする。作り手の側の青春を懐古しているという感覚なのでしょうけど、正直、あんまりいい印象はないんですね。「青春の蹉跌」などにも描かれている通り、ホントは思想がどうのこうのと語る事さえも、何か「青春ごっこ」になってしまっているように写ってしまう。

少なくとも現実を見失っているし、同志を次から次へとリンチ殺害しているというのは常軌を逸しているが、誰も森と永田に逆らえないという非人間的ジレンマが凄い。

この映画でも「あさま山荘」に籠城した唯一の未成年メンバーであった加藤倫教役の俳優が、いよいよ警察側による鉄球作戦を控えた山荘内で、泣きながら

「勇気がなかったんだっ! 僕も、坂口さんも、みんな、みんな勇気がなかったんだっ!」

と声を上げて泣きじゃくる。作品としてはラスト5分ぐらいであったと思いますが、ようやく重苦しく気持ち悪いだけの映画に、少しだけ光明が差し込む。



2019年11月17日

「赤城と日光の戦い」から

往年の「まんが日本昔ばなし」で放送されたという「赤城と日光の戦い」という話を視聴してみる。おそらく、この戦場ヶ原に係る話も遠足だか林間学校だかの際に、バスガイドさんから読み聞かせされているのだとは思うのですが、記憶がない。厄介な事に、平将門を討った藤原秀郷(俵藤太)の大ムカデ退治伝説とごっちゃになってしまっているのだ。

インターネットを検索してみると、確かに、この話は、大蛇の化身である日光の神と、大百足に庇護されている赤城の神との争い、つまり、「神々の戦い」である。場所も分かりやすく、これは「戦場ヶ原」という地名は現在でも、相応に知られている。日本に、こうした分かりやすい神々の戦いの記憶らしいものが残っているのは、結構、貴重なのではないだろか。おそらくは、日光・男体山に拠点を持つ神と、赤城山に拠点を持つ神とが実際に激しい戦争をした事を、言い伝えているのだろうと推測できる。

男体山は栃木県であり、赤城山は群馬県である。これは現代人の認識ですが、古代になるといずれも、毛の国であり、上毛・上野が群馬であり、下毛・下野が栃木である。現在の「鬼怒川」(きぬがわ)は毛野川(けのがわ)と表記されている場合もあり、この両毛を越えて北上してしまうと奥州と一括りにされてしまう時代が、そこそこ長かったワケですね。

「日本昔ばなし」では、水を欲した赤城の神が日光・中禅寺湖、これは男体山の麓にある観光名所ですが、その中禅寺湖の水を奪おうとした事から始まっている。赤城の神は仁王に命じて中禅寺湖へ水を盗みに行かせる。すると、それを日光の仁王が発見、ここで赤城の仁王と日光の仁王との争いとなった。両仁王の格闘の中、赤城の仁王は手の平で二掬い分の水を中禅寺湖から奪う事に成功。

日光の神は、仁王に援軍を送る。これは白蛇の大軍である。白蛇の大軍が中禅寺湖湖畔に集まると、今度は赤城の神も援軍を送る。赤城からやってきた軍勢は百足の大軍である。この蛇と百足の戦い、制したのは百足軍、つまり、赤城の側であった。(中禅寺湖は赤城の領地になった。)

日光の神は、奥州に棲む猿麻呂に助けを求めに行く。猿麻呂が狩りをしていると、そこへ一匹の白鹿が現れる。猿麻呂という人は白鹿を追い掛ける。すると白鹿は岩の上に立ち、その正体を現す。白鹿は日光の神の化身であった。日光の神は、その猿麻呂に加勢を要請する。日光の神は猿麻呂と親戚関係にあるという。

猿麻呂が戦場に出向いてみると、そこで行われていたのは、白蛇軍と百足軍との大合戦であった。やがて、白蛇軍の中なら一匹の大蛇が現われ、百足軍の中から大百足が現れる。それぞれ、日光の神と赤城の神の化身である。大蛇の首に大百足が巻き付き、大蛇を締め上げたので、猿麻呂は矢を放った。猿麻呂の放った矢は大百足の左目に命中する。急所を射抜かれた大百足(赤城の神)は退散する。

この「昔ばなし」、ホントは検証の余地を大いに残していますやね…。赤城山とは、国定忠治の赤城山であり、徳川埋蔵金伝説のある、あの赤城山である。他方の日光ともなると、徳川家康を祀る日光東照宮もありますが、遡れば日光連山は何故か古代より修験道の聖地である。言ってしまえば、「日光の神」とは二荒山神社であり、即ち男体山信仰の何かであろうから、いつの時代の伝承なのか分からないものの、二荒山と赤城山の勢力とが大きな対立、戦争を行なった記憶であろうと容易に推測できてしまう。

で、この話に登場している「蛇」と「百足」の戦いという構図が気にならないと言えば嘘になる訳ですね。百足に守られていたのが赤城山であり、蛇に守られていたのが日光連山である。この蛇と百足が戦うという意味合い、古代道教で解ける可能性がある。蛇の天敵に据えられているのが百足らしいのだ。

道教の原初的教典にあたる「抱朴子」では、蛇除けの呪術として「竹の管を以て活きた蜈蚣(むかで)を盛り、腰にぶら下げて山に入ると蛇が寄り付かない」という意味合いの事が記されているという。具体的に何を意味しているのかというと、「竹の管で多数の百足のイミテーションをつくり、それを腰からぶら下げて山へ入れば蛇除けになりますよ」という話になるという。

そして、ここから少々、現実的な話に戻りますが、上古時代の群馬は渡来人の痕跡を多く残している場所である。そして群馬県高崎市倉賀野からは柄頭に環を施してある環頭大刀(かんとうたち)、その柄頭(つかがしら)が出土している。総じて、こうした環頭大刀は高麗剣(こまつるぎ)と呼ばれていたりする。その環頭大刀の環には竜や鳳凰といった動物を象った装飾が施されている場合があるという。そして、興味深いことに高崎市近郊では刀剣の装飾に蜈蚣(むかで)を用いているものが存在するという。(この部分、倉賀野から出土した柄頭に蜈蚣の装飾があるの意と紛らわしい。)

となると、この大蛇と大百足が戦ったという逸話は、本格的に検討可能な神と神との戦いを暗示しているのではないか――と、嫌でも考えたくなるワケですね。蛇をトーテムとする日光の神と、百足を神とする赤城の神の熾烈な戦い。

思いの外、これはあっけなく理解できてしまうかも知れない。熊倉浩靖編著『群馬県謎解き散歩』(新人物文庫)、福田三男編著『栃木県謎解き散歩』(新人物文庫)を開いてみるも、この戦場ヶ原で日光連山と赤城山の戦いの記述はない。しかし、群馬県というのは言わずと知れた東国碑の話にしても妙に古くから史跡が残っている場所であり、神流川、鏑川、烏川、どれも古代は「カラ川」と発音していたらしいという考察も述べられており、朝鮮半島を経由した渡来系の人々の痕跡を多く残している地域なのだ。

また、群馬県伊勢崎市の三軒屋遺跡では八角形甲倉が発見され、この「甲倉」とは「校倉」の事であり、つまり、【あぜくら】であるという。この三軒屋遺跡は、平安時代中期の郡衙であり、これは今風に翻訳してしまうと県庁に該当するような、役所を意味する。つまり、地方の役所跡の遺跡から八角形の校倉が発見されたという事になる。全国に例はない。

更に北群馬郡吉岡町の三津屋古墳からは、八角墳が出土している。北群馬郡と言われてもピンと来ませんが、地理的には榛名山東南麓だという。この一帯は、古くから桃井郷と呼ばれていたという。その地名を名乗っていた桃井氏は太平記などでも痕跡を終える鎌倉時代や室町時代に活躍していた事ができる武士団でもあり、鎌倉幕府崩壊、南北朝時代と室町時代期の関東大乱時代には、しばしば有力者として桃井氏の名前を確認することができる。この八角形をした古墳がある三津屋遺跡は七世紀半ばと推定されているという。

この【八角形】とは、言ってしまえば道教の基礎理論では世界図である。八紘一宇なんての神道の出典として理解されていると思いますが、最初の最初に四方八方という具合に表現し、それを世界と見立てたのは古代中国の思想である。【宇宙】という言葉は非常に便利ですが、この出典も「荘子」なのかな。東西南北に更に中間をとって、八方、八角形とすることで、それを宇宙全体の図と見立てていた叡智が、八角形という図形の中に秘術的に隠されている。

(先日の即位の義に係るテレビ中継の中で、紫宸殿の中で高御座の上に立つ天皇陛下を多くの日本国民は目撃したハズなのですが、その高御座は八角形だったんでしたっけ。あの話です。)

また、それは山東地方や江南地方に起こった、黄河中心の華北文明とは少し趣を異にする文明であった。また、これは高句麗の古都にあたる平壌の清岩里(せいがんり)廃寺にある八角堂の影響を考えねばならないワケですね。発祥が山東・江南のものが、何故、高麗ルートで日本へ、それも東国にして内陸でも群馬県に流入していたのか? これも大体、説明ができてしまう。鮮卑族の拓跋部が打ち立てた北魏王朝、東晋王朝と日本列島とを繫ぐ役割を果たしていたのが朝鮮半島であり、環頭大刀の話を蒸し返すまでもなく、そういう勢力が7世紀頃には既に東国に達していたという事でしょう。

よくよく「日本昔ばなし」を検証すると、日光二荒山の神も白い鹿に化けたという。「鹿」をトーテムとするのは、やはり、北方系ですね。「蛇」は南方系の稲作文化圏を表現する際に多用されたのが、この「蛇」でもある。大蛇と大百足の戦いは、古層の大蛇と、当時にして新興層であった大百足との大合戦を伝えているのではないか。

赤城山の中腹に赤城神社があるといい、その祭神は確かに蜈蚣(むかで)であるという。

福永光司著『道教と古代日本』(人文書院)によれば、そもそも【赤城】とは4世紀に東晋の孫綽が「文通」に記した名称でもあるという。この場合、赤城(せきじょう)山になる。

「天台山に遊ぶ賦」と題し、

「この山こそ霊仙の窟宅(いわやにすむ)所…赤城は靄のごとく起ちて、みち標をなす。…羽人に丹(あか)き丘にしたがい、不死の福庭を訪ねう」

といった歌があるという。【丹】は直接的には錬金と関係していて水銀を表わしているが、それは鍛治技術とも関係している。そして、その色は古代思想では【あか】である。

「靄」とか「霞」、あるいは「雲」、これ、冷静に考えると「晴天」とか「快晴」といったハレのイメージと異なるから、ともすれば、悪役のイメージ、ネガティブなイメージでとらえてしまうかも知れない。しかし、仙人をイメージして欲しいんですね。霞を食らい靄のかかった山の奥に生息している仙術使いであり、そこは理想郷である。よくよく考えてみれば、日本神話は「八雲たつ…」から始まっている。

追記:ムカデをトーテムとする新興勢力を赤城山としましたが、このムカデは蛇を退治する事を「抱朴子」等に記されており、また、具体的にはスサノオの神がムカデであったと古事記に記されている。なので、組み立てるならば、出雲勢力と、それ以前の男体山信仰の勢力との戦争の記憶か…。

2019年11月15日

「共犯者」・「坂道のアポロン」・「瀬降り物語」

日本映画専門チャンネルにて、きうちかずひろ監督作品「共犯者」を視聴。主演は、竹中直人&小泉今日子でしたが、非常に面白かったという感想でもないのですが、相応に面白かったという感想でしょうか。一つ、気付いてしまった事は、おそらく30代であったのかな、この時期の小泉今日子のナチュラルな感じは惹きつけられました。雰囲気的には、長澤まさみ風の、飾り立てない中の美貌というか…。

クズ亭主から暴力を受けているところから始まり、ブラジリアン・マフィアのカルロス加藤(竹中直人)に助けられた偶然の成り行きを契機にして暴力団VSマフィアの抗争、更には、内田裕也演じるとんでもない殺し屋が登場、壮絶な殺し合いとなる。数日前まで暴力亭主から逃げられぬ蕎麦屋の店員であった小泉今日子演じる「サトコ」が殺し合いに巻き込まれて、自らの手で自動小銃をぶっ放すまで――。こう述べると「セーラー服と機関銃」を想像してしまいそうですが、実際、それを念頭にして視聴していました。

バイオレンスもの、また、ブラジリアン・マフィアに竹中直人というあたりは、好演をされていても、あんまりピンと来ない。終盤になって、暴力団が内田裕也演じる金髪老人な殺し屋を呼び出してからが、実は急に面白くなった気がする。演技がどうのこうのではなくて、やはり、あの個性を、そのまんま、危険な殺し屋として登場させているのが吉かな。「十階のモスキート」や「水のないプール」あたりもよりも「内田裕也」の商品価値が出ているような感じ。何をしゃべるにも「ファッキン」と入れる、そのファナティックな雰囲気に味がある。

きうち監督作品は渡瀬恒彦を主演とした「鉄と血」も過去に視聴していますが、「共犯者」の方がおススメ度は高いのかな。




「坂道のアポロン」は、これはどう評すべきか。これも非常に面白かったワケではないが、飽きずに視聴できたという感じ。主演の中川大志(?)が絵画のモデルとしてアポロンの扮装をしていたあたりは、「おお、それでタイトルが坂道のアポロンだったのかっ!」と感心してしまった。なるほど、ギリシャ神話風の扮装が似合っており、しかも、ロックであり、バンカラである。

小松菜奈演じるレコード店の娘、その優等生的な少女リツコの目線によって物語が描かれてゆく。ジャズ好きの東京から来た転校生のカオル(知念侑李)はピアノ、捨て子であった生い立ちからケンカばかり繰り返している千太郎(中川大志)がドラムを叩き、文化祭の演奏会まで…という思いの外、古風な作品でした。どこか安保闘争の時代の物語だったっぽい。

年月が経過し、昔の仲間はどうしているか…で、物語が終わる。ジャズを愛し、ピアノを弾いていて彼は医師になっていた。音信不通になってしまったアポロンを訪ねてみると…というストーリー。きっと、一定の年齢になってから青春時代を美化しながら回想できる趣向の作品だったのかな。




「瀬降り物語」は中島貞夫監督作品。1985年作品だったのか…。これも正直、退屈さを感じてしまいながらの視聴となりましたが、それでも見所は多かったかも知れない。この「瀬降り」とは天幕のことで、平たくいえば、サンカと呼ばれていた山の民を題材にした異色作。萩原健一、藤田弓子、内藤剛、早乙女愛、殿山泰司、永島瑛子、そして新人か河野美知子らが出演。

どこかしら今村昌平監督の「楢山節考」を彷彿させる映画で、おそらく、その頃、原始回帰のようなムーブメントがあったのでしょう。生々しく人間の営みを描こうとしている。協力・三角寛となっていましたが、この「瀬降り」たちは、太陽を「アヌさま」と呼んで神に見立てて崇敬し、スサノオの時代からの掟に従って生活しているという。掟に背いた者には厳罰が課される。藤田弓子が裸体を晒しながら性交、出産、赤ん坊殺しをドロドロしく演じているあたり、ホントは価値があるが、それは現代人が持っているエロ感覚とは明らかに異なる「地母神」の世界かも知れない。

「ミス映画村」と記されている若い女優さん(おそらく河野美知子)演じるヒデの濡れ場は、明らかに表情や体が瑞々しい。また、永島瑛子の濡れ場は典型的な美しい女の媚態のエロ描写である。つまり、地母神的な濡れ場、美女の濡れ場、青い性の濡れ場が並べられている。

ショーケン演じるヤゾーは、瀬降りの棟梁のような存在である。長老たちは、総動員法にのっとって山の生活を捨てて、戸籍を持つ日本人になるべきではないのかと言い出すが、ヤゾーは「山の生活を捨てられん」とポツリと反対している。物語的には、ややありましたが、最終的には山の中へ消えて行った幻の漂流民たち…という感じ。

佳作は佳作だし、藤田弓子の熱演は比類ないものでしょうけどね。

ヒデは、里で、東京帰りのジローという青年からハーモニカを与えられ、それをキッカケにしてジローと恋仲になる。恋仲といっても納屋で半ば強引に貞操を奪われるものですが、やがてヒデの方からジローに「嫁にしてけろ」と迫られる羽目になる。ジローは都会風を吹かせる人物である。その文明を武器にして山の民の娘を持て遊んだかのように見受けられるシーンがあるが、もしかしたら文明の持っている性に迫っているかも知れない。どこか不可触民と人との乖離が悲劇を招く。しかし、最終的にはジローは自分からヒデを追い掛けて、瀬降りたちが棲んでいる山の中へ入ってゆくことになる。



2019年11月14日

続「グローバリズムは崩壊している」

トランプ米大統領に関しての弾劾をめぐる公聴会が始まるという昨晩のテレ東「ワールド・ビジネス・サテライト」でも、その支持率と不支持率とが拮抗している事を解説、また、米民主党が公聴会に臨む姿勢を語る中で「大統領選を視野に入れて」という文言がありましたが、おそらくは、そのまんまであろうと受け止めました。既に、政治ショウの要素になっており、当の米民主党側が目的にしているものが来年の米大統領選なのだとしたら、そう簡単にトランプの牙城は崩せないのではないかという印象を強く受けました。

11月1日付の読売新聞6面(国際面)では、米カリフォルニア大バークレー校のアーリー・ラッセル・ホックシールド名誉教授(社会学)が、米大統領選を巡ってのインタビューに応じた記事が掲載されていました。そこからも現在起こっている分断の深刻さが読み取れる。どうなるのか等と答えられる筈もなく、ただただ、分断が深まっている事、その分断が深まってゆく危機の中に我々は居るというのが、結文である。

そのホックシールド教授のインタビューの中で、目に留まるのは「白人労働者の自尊心を傷つけている」という部分が読み取れる事でしょうか。トランプ支持層について語っている部分を引用します。

彼らは地方に住んでいるが、他者にどのように思われるかに敏感だ。「レッドネック」(肉体労働者で首が赤く日焼け白人)とバカにされるのが耐えられないと思っている。

トランプ氏は、彼らに言った。「あなたたちをバカにする東海岸や西海岸のジャーナリストや大学教授、作家たちを攻撃してやる」と。トランプ氏は、彼らの「恥」の意識に触れ、それを取り除いてみせると訴えている。

労働者層の生活は経済的にも社会的にも苦しくなっており、親の世代のように暮らせないことを「恥」と感じている。トランプ氏はそれに対し、「違う。我々は誇りを持てる」と感情的に訴えた。トランプ現象は単に雇用や賃金などの経済的な問題だけではなく、社会的地位の問題でもある。


また、ここでは【Rust Belt】という単語の解説がありましたが、「錆びた帯」の意味であり、アメリカ東部から中西部の、衰退した工業地帯地域を指しているという。

既に、語り尽くされてきたものでもありますが、トランプ支持層は決して小さくなく、西海岸、東海岸といった経済的に潤っている州では前回の大統領選でもヒラリーが制したが、その支持基盤は大して変わっていないという。つまり、トランプ現象を惹き起こしたのは経済格差であり、しかも、それは自尊心を大きく傷つけてきた従来の政策に対しての、感情的な怨嗟も含まれている。こうなると、引っくり返すのは容易ではない。例え、弾劾にかかる公聴会でトランプ大統領に不利な流れが出ても、おそらくはトランプ支持層は頑健で簡単には崩れないであろうことが予見できてしまう。

この語り口は、昨日、取り上げたイアン・ブレマー氏の分析とも重複しているように思える。また、ブレマー氏の分析では、このトランプ現象や分断の本質は簡単には解決策はなく、仮にドナルド・トランプという人物が倒れるような事態になったとしても、基本的な分断の流れは収まらないと分析している。つまり、「トランプを倒せば何とかなる」と米民主党は躍起になっている可能性があるが、それは錯覚かも知れない。基本的には「誤っている部分」を是正しない限り、根底にある分断は解消されないワケですね。しかも、現実的には調整は困難であろうことも、薄々は分かってしまう。


内心、こういう部分に「勝つか負けるか」とか「殺すか殺されるか」とか「征服されるか征服するか」という絶対的対決構図でしか物事を思考できないアングロサクソン型の思想の脆さを見い出せるのではないのか。選挙に勝って権力さえ握ってしまえば何とかなるという、その勝者の論理が根底にあり、しかも、それはどこかアングロサクソンの哲学だよなって思う。選挙制度一つにしても、見事に反映されており、二大政党制とはアングロサクソン文化そのものである。また、米国大統領選にかかるコスタリカ方式とか選挙人総取り方式というのも、特殊な考え方だといえば特殊な考え方でもある。

有権者を「リベラル」と「保守」という具合に分類しているが、これに対しても別の見解を目にしたかな。ホントは「保守派」と「穏健派」と「リベラル派」といった具合に三分類にすると、どれも三派とも22%前後になるという。「共和党支持者」とか「民主党支持者」という具合に分類し、それに名称を与えてしまった瞬間から、その観念上のアイデンティティー(帰属性)が出来上がり、人々は、そのアイデンティティーに縛られて物事を考える事になるのでしょう。で、それが分断や差別と密接にかかわっているような気がしないでもない。実際、「レッドネック」とかっていうスラングが飛び交っている訳でしょう? そりゃ、ホントは凄い差別で、許しがたい傲慢だと思いますけどね。

2019年11月13日

「グローバリズムは崩壊している」

11月3日付の読売新聞7面となる言論面には、国際政治学者のイアン・ブレマー氏が登場、そこには

「グローバリズムは破綻しているのです」

という辛辣な文言がある。

先ず、イアン・ブレマー氏なのですが、24歳で旧ソ連研究によって米スタンフォード大の博士号を取得、その後、25歳にしてフーバー研究所のナショナル・フェローに史上最年少で就任。しかし、フーバー研究所を2年で退職し、地政学的リスク分析のコンサルタント会社を起業し、現在も国際情勢分析を助言する事を生業としている。2009年に『「Gゼロ」後の世界』なる著書を発刊、内容は「G7」や「G2」という場合の「G」を指しており、地球規模のリーダー不在の時代を10年前に指摘していた事から改めて注目を集めているという。【Gゼロ】という言葉の生みの親も、このブレマー氏であるという。

また、生い立ちも紹介されていますが米マサチューセッツ州のチェルシーという田舎町の生まれで、4歳時に父親を失い、母親は高校を出ておらず、公共住宅で育ったという。或る意味では生粋の利発さのみでアメリカン・ドリームに近いものを掴んだ人物の一人であり、15歳にしてスタンフォード大学へ入学し、そのまま、史上最年少の25歳でフーバー研究所に引っ張られた人物でもあり、現在も戦争や政情不安といった地政学的リスクの分析、それに係る助言を売り物にして商売をしている人物でもある。

では、このブレマー氏は、どんな見解なのかというと、

「トランプ氏を支持している人々を非難することはできない」

と認めている。先に紹介した自身の母親も生きていたならトランプに投票しただろうし、弟もトランプに投票していると明かしている。つまり、現在の状況は、起こるべくして起こっている事だという事でしょう。

また、このブレマー氏は、「未来は予測できないので、現在を緻密に分析する事が必要だ」という立場から国際情勢(地政学)分析をしている。

では、現在、起こっている事とは何か、その世界的な地政学リスク分析会社の社長にして国際政治学者でもあるイワン・ブレ―マ―氏は、次のように展開している。

世の中が不公平だと信じるのには、4つの理由がある――と。

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世界経済は好調ですが、一般の人々はそこから利益を得ていません。私も富を持つ側になりましたが、トップ1%の富裕層が富を分け合い、残りの人たちを見捨ててきたと認めざるを得ません。トランプ大統領を誕生させたのは、普通の人々の生活に目を向けてこなかった富裕層の責任なのです。

反移民感情
ミドルクラスの労働者層が政府は自分たちへの手当てを十分にしていないと感じれば、新たな人々の流入を歓迎しないでしょう。

戦争
貧しい人々が戦争に行き、国に戻っても尊敬されていません。

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人々は分極化するような偏向したニュース(「フェイクニュース」とも呼ばれます)に接しています。

グローバリズムの破綻に対処するには、上記4点の問題を解消していくことが必要だという。

また、《世界経済は停滞局面に移りつつあります》という発言もされている。


既に現在はGゼロ、地球規模の指導力が失われた世界であるという。指導者が居ない、その規範がないから、秩序は乱れ、紛争の危機が高まるのだという。そして、この状態とは「経済的リセッション」の局面ではなく、「地政学的リセッション」の局面に入っていると発言している。つまり、恒久平和の理念が後退してゆく局面であるの意でしょうか。

しかも、ブレマー氏の分析は厳しい。この地政学的リセッションの局面は滅多に訪れず、前回、訪れたのは第二次世界大戦時であるという。つまり、75年に1度起こる確率程度の地政学的リセッション状態に入る、もしくは入っているというのだ。しかも、この状態は継続し、今後10年間は要注意だという。

私は今後十年、地政学的な危険がもっと高まると強く懸念しています

更に、ブレマー氏は、この地政学的リセッションについては、4つの転機を経て、こうなったと解説してくれている。

1991年のソ連崩壊後の西側による東側に対しての復興計画の不実施

2001年の同時多発テロ、その後、過剰に反応してイラク戦争へ突入した事

2008年の世界金融危機(サブプライムローン問題に端を発してリーマンショックへと波及)

ぅ肇薀鵐彗臈領の誕生で「利益が全て」の価値観となり、既成の価値観は無価値化した事

だという。

このブレマー氏なのですが、その華麗な経歴の中で僅か2年でフーバー研究所を辞めたりしているが、そこには「戦争を回避すべき」という考え方が根底にあるように読める箇所があります。

地政学的リスクのコンサルティング会社を設立して20年がたちました。現実世界の渦中にいて、そこで前向きな変化を起こしたいと思っています。大げさに聞こえるかも知れませんが、戦争のような事態の回避に役立ちたいのです。未来を予測することはできないけれども、現在起きていることの要因を分析することはできます。現在を理解できれば、この先に何が起こりうるのか、もっと分かるようになります

2019年11月12日

新しい帝国主義の流れ

スペインでは極右政党が台頭し、また、少し遡るとカナダでもポピュリスト政党が台頭したといい、香港デモも出口が見えなくなってきている。

香港デモに関しては死者が出て、また、実弾発砲があったと報じられている。数日前の読売新聞にはデモ隊として活動している方の話が掲載されていましたが、要は「引くに引けない状態になっている」というのが要旨でした。これは観念的な話ではなく、「もし仮に、ここで政府と和解してもデモ活動によって逮捕歴もある私は再逮捕され、重罪に問われてしまうから引くに引けない」の意味でした。

もう、混乱もかなりの事態になってきていると思う。

10日付の読売新聞では、ベルリンの壁崩壊から30周年という事で、紙面はそれに割かれていましたが、憂慮するような話しかないんですよね。「ネオナチの台頭」という風に言えば、それに反応できてしまうのが昨今ですが、ドイツの穏健派にしてもホンネでは「あまりにも外国人が多過ぎる」という感想のようだし、ヒトラー研究家のケンブリッジ大教授にしてもヒトラーを否定する文脈の中で「EUは武装化して均衡を保ってゆくしか選択肢がない」という指摘である。既にメルケル独首相は任期までで引退を表明しており、後継候補も決まってはいるがドイツ国内の支持率は高くないという。次に控えているのは「ドイツの選択肢」などの右派政党となる。

これは抗いようがない大きな潮流であるのが見えてきてしまったような気分になる。それこそ、カナダのトルドー首相あたりのテレビ的なイメージは悪くないのかも知れませんが、人々の不満は抑えきれていないよう。カナダって、あんまり政治が混迷しているイメージがなかったのですが、ここのところ新聞の国際面だと、そんな事が記されているから、きっと、どこもかしこも、世界中で政治が不安定になっているって事なんでしょうねぇ。

翻って日本の場合は「他に選択肢がない」という理由で、安倍政権が支持されている可能性と理解する必要性がある。自由主義&民主主義は、限界に到達しているのかも知れない。週刊新潮の片山杜秀さんの連載「夏裘冬扇」(かきゅうとうせん)が、安倍政権の長期化を語って「理論の政治は現実の政治の前に敗北する」という話を書いている。

第二次桂太郎政権と、第二次安倍政権を比較しているものであり、実は内閣最長記録を持っているのは第二次桂太郎政権であり、まもなく第二次安倍政権が、その記録を塗り替える。

その第2次桂太郎政権が何をしたのかという「日本大博覧会」なる万博を東京で開催しようとした事だという。

ここで何が起こったのかというと、官僚と財界と軍による桂内閣への熱烈支援であったという。これによって第二次桂内閣は「官邸主導≒国会の弱体化」という政治環境を偶発的につくりだし、故に長期政権になったという見解を示している。議会という批判する能力を喪失した状態の中で、官邸主導が実現したという事のよう。有権者個人や個人の意志、団体の意思は、この力学の前に敗北を余儀なくされる。

桂内閣は日本大博覧会の5年延期を宣言した。それに対して東京府会と市会は猛然と起こった。事前説明もなく勝手に変更するなどとは独断専行もいいところだ、立憲主義の破壊だ、と。それに対して、桂内閣は「だったら何度でも衆院解散してやる」と息巻いた。これによって国会という装置は批判力を失い、国会そのものも信用を失った。結局は独断専行を止めることはできない。(勿論、これ、先の東京五輪のマラソン変更の話に掛かっている訳です。)

さて、その後、この幻の日本大博覧会はどうなったのか?

日本大博は中止となり、その開催予定地が現在の明治神宮や神宮外苑に化けたのだという。そして、この第二次桂内閣が行なった最大のトピックスは韓国併合であったという。

2019年11月11日

陰生花な夢

どこでどのように入手したものなのか、また、それが覚醒剤と呼ばれるものなのか大麻と呼ばれるものなのかも、よく分からないが、それが入った小袋を持っている。警察24時的なテレビ番組から得た知識からすると「パケ」なんて呼んでいるのかな。

場所は狭くはない路地裏通りであり、その路地をでると大通りに繋がっている。知っている場所ではない。しかし、どこか懐かしさを感じさせる昭和な雰囲気の街並みである。

パケを隠し持っている私は、どこか心の中で「へへん、(こんなものを手に入れるのは)簡単じゃないか…」という気持ちになっているが、それは同時に「絶対に怪しまれてはならない。捕まってはならない。捕まった場合は一巻の終わり、今生に於ける身の破滅だ」というリスクと背中合わせである。

夢の中では、そのフレーズを思いつきませんでしたが、日陰の人生を歩む者の心情、社会から脱落・剥落して生きている陰獣、陰生花のようにして生きているというイメージ、設定である。

裏路地を歩きながら、自分は挙動不審ではないだろうか、服装などは周囲に溶け込めているだろうか、そんな心境で歩いている。その裏路地で、おそろしく時代遅れな駄菓子屋とも洋品店とも、あるいは土産物店でもあるような、その店へ吸い寄せられる。そこは木造の建造物であり、柱の色が黒く古そうであり、また、薄暗い店内であるが面積はそこそこ広い。

路地裏の、その古びた店の軒先に、30cm×50cmといった手頃なサイズの帆布バッグを見つける。手持無沙汰で歩いている自分に対して「私は知らない町を手ぶらで歩いているなんておかしいじゃないか」と感じていたので、そのバッグは非常に魅力的な商品として映った。ふらりと近寄って、その帆布バッグを手にして中を確認する。ちょっと気の利いたつくりになっており、バッグの内側に隠しポケットがついている。見た目は無難、価格的には五百円であり、安物過ぎず、高価過ぎとも感じず、まさしく、欲していたものであるかのように感じた。

《こんな寂びれた通りのこんな薄暗い店で、今の私のニーズにピッタシなバッグを発見できるなんて。まだ、私にはツキがあるじゃないか!》

と、気分を高揚させる。

その店で帆布バッグを購入、そのバッグの内側の隠しポケットにパケを入れる。もう、これで安心だ、このまま、この街を脱出できるだろうと楽観的な気分になる。

路地から大通りへと出る。その通りには人がいっぱいいる。しかし、私は特に怪しまれる要素はないだろうという気分で、その通りに出て、歩き始める。

迷惑な事に通りを遮るような人だかりが出来ている。何か商店街の抽選会的なものでも行われているらしく、高齢者らが立ち止まって道路を塞いでいる。そして、その混雑に紛れて若い警察官を視認する。その制服警官は笑顔で、その催し物が行われている方向を見ており、私には気付いていない。

《へへん。ヘマなんてするもんか…》

私は、そういう心情で雑踏に紛れ込む。しかし、警察官が迫り、2〜3メートル先で擦れ違う際、動揺してしまい、不自然に手にしていたバッグを右手から左手に持ち変えてしまう。バッグには柄がプリントされている側と、何もプリントされていない側があるが、内側の隠しポケットを意識するが余り、バッグを右手から左手に持ち替えるにあたって、バッグを回転させることなく、プリントのある側を右側へ向けたまま、右手から左手へと移してしまったのだ。

――と、ここで目が醒めました。最悪の寝起きでしたかね。口の中はカラカラ、こたつで雑魚寝してしまったらしく胃の調子も悪い。

警察官に声を掛けられて目が醒めたのでもなく、視線が合って目が醒めたのでもない。己が演じた失態、その失態に気付いて目が醒めたという感じ。「こんな事でヘマをするなんて、なんてオレはダメなヤツなんだ!」という落胆と、「こんなところに落とし穴があったなんて、なんてオレはついていないんだ!」という恨み節。

夢の自己分析ですが、基本的な設定は、田代まさしさんが覚醒剤所持によって五度目の逮捕となったという芸能ニュースでしょうねぇ。その逮捕の端緒となったのは塩釜市だといい、きっと、その塩釜市のイメージというものを、私がつくり出して、その舞台になっていたのかな。明らかに知らない町並みでしたから。

帆布バッグは、これは日常と関係している。手頃な帆布バッグってないかなぁ…と探すことが、ままある。意外と重宝するのはポケット付きのつくりのバッグで、それだとキーケースやらケータイやら小銭入れを入れておけるので便利だなぁ、日常使いはそれで充分じゃないかなんて考えているのですが、それがそのまんま、夢の中に持ち込まれたかのような印象。

薄暗い駄菓子屋とも洋品店ともつかぬ店というのは、旅番組などでも老舗の土産物店として紹介されるあの感じ。かき氷とか出していたりする感じの店。ただ、どこか私自身が小学生の頃に数回行ったことのある駄菓子屋の風景も混じっていたような気がする。天井が低く、柱という柱は黒く、店内はかなり暗い。

最後に警察官でしょうね。おそらくは悪感情を持つべき警察官像ではなかったと思う。若く、色白であり、柔和な笑顔を湛えながら巡回しているだけである。そんな警察官と擦れ違うにあたって動揺をしてしまう我が身の持っている「陰」にギクリとする。

その背景にも説明は可能かも知れない。行列であるとか群衆といったもの、そうしたものを善としたがる側の人々が称えられるワケですが、それに対しての違和感みたいなものがあるような気がする。時勢に器用に乗る諸々の群衆に溶け込めない、或いは、そうした群衆に自分が巧く溶け込めているだろうかという不安心理とかね。

更に言えば、昨年まではハロウィーンとやらに大がかりに警察が投入され、そのDJポリスが褒め称えられていたワケですよね。おそらく、数年前から違和感を感じており、それについてもブログに残してあると思う。公的権力の側が私のような層を置き去りにして、大衆迎合ってのをしてくれているよなぁ、というもの。これは、どこぞの県知事がAKBの「恋チュン」を踊った事とか、それらへの批判と同根だし、どこぞの映画祭や展示会に市が協賛していて表現の自由がどうだとか、ゆるキャラだとか、基本的にはどれも同根かな。公権力が実労部隊の人々を置き去りにして、人気取りをする事への不満。擦り寄り。いやらしいプロモーション、宣伝戦略に公金を投入されてしまっている事の違和感なのかな。これみよがしに、いい人ぶる姿を他人に披歴することが出来るタイプの人に対しての強い違和感。

たとえば、私はネコは昔から好きですが、だからといって、これみよがしにネコを愛している姿を誰かに見せようとは全く考えない。しかし、昨今の風潮というのは、コレですね。これみよがしな人たちが、案の定、色々としでかしてくれている。しかし、表層的には彼等は無垢な善人であるかのように認識される。ホントは自己の装飾なんだと思う。自分をよく見せる為の装飾であり、いわばセルフデコレーション。自分を引き立てる為の道具として、「これみよがし」なアピールが日々、為されているけど、それらは自己演出であって、表層的な善人の仮面の強制だよなぁ…。

ussyassya at 03:00|この記事のURLComments(0)夢の記録