2016年09月29日

『言ってはいけない』について

本年、新書では『言ってはいけない』が既に20万部を超えるヒットになっているという。しかしながら、前掲著の書評は大手新聞社は完全に見送っており、それが週刊新潮の記事になっていました。あれだけ丁寧な説明している内容でも、書評にするのは問題があるという風に大手新聞は考えたという裏側に触れている。因みに、『言ってはいけない』は文藝春秋10月号でも取り上げられており、注目に値する著書であった事は疑いようがないような気もしますかねぇ。何故、大手新聞社が、それを敬遠するのかというと、極めて根本的なイデオロギー部分と無関係ではないという事なのでしょう。

橘玲著『言ってはいけない』(新潮新書)に目を通したとき、その全てに賛同したというワケではありませんでした。このブログでも触れた通り、【知能】というものの定義を掘り下げたのは、実は批判的な意味合いも含めて展開させたものでした。知能というものを定義するのは難しく、或る者は「新しい状況に対応する能力をさす」という風に説明するし、また或る者は、8種類や9種類に具体的に分類してみせた。知識の豊富さは、実は知能とはあんまり関係がない。その上で「知能指数」というものを考えると、到底、それは万能な指標ではない。単純に数値化するには知能の定義というのが複雑すぎるんですね。数値化しようとすると、一つの軸で並べられるような基準を設定しなければならず、現行の知能指数は、大雑把には論理的思考能力と言語に係る能力とに集約したものを知能指数としている。大雑把には、そうした能力が貧困問題に関係していて、更には、この社会や文明そのものがそれらの能力の高低を基準にして設定されているという話なんですよね。

『言ってはいけない』では、その多面性についての言及は僅か数行しかなかったと思う。これは、どう説明する必要があるのかというと、ニュージーランドのアボリジニは、その生活に適した能力を有していれば、それが全てであるという事例で説明する必要がある。文明という尺度でアボリジニを図ろうとするから、アボリジニを未開人と解釈し、勿論、原始的な生活をしていればしているほど、アボリジニの言語能力が低いとか数学能力が低いなどと言えてしまう。しかし、ここに、その文明由来の尺度で測っている事がナンセンスの始まりなんですね。何故なら、答えは単純明快、アボリジニの人たちは自分たちの生活に適した環境に順応して存在しているというのが物事の全てなんです。どこそこのインディオなんてのもそうだし、どこそこの少数民族なんてのも似ている。

ひょっとしたら、この話は万能であるかも知れず、そもそも鮮魚店のオッサンや作業場のオッサンたちにはナントカ関数とは必要ではないから、当然、そんな領域の能力を研鑽して伸ばす必要性がないという厳然たる事実がある。裏がえして、どこぞの学者さんの研究室にマグロを持ち込んで、「さぁ、このマグロを上手に解体して、巧い鮨を握ってみせてくんな!」と押しかけてみれば、おそらく、とんでもなく低い数値で評価することになるという、その原理なんですよね。

「このヘタクソめ。そんな事も出来ねぇのか、お前はっ! ヘマばかりしやがって。お前なんて人間を、辞めちまえよっ!」

という具合に罵倒されるというのは、中々に不愉快であろうと理解できるでしょう。

「あんたの尺度を押し付けるなっ!」

と言い返したくなるのがホンネでしょう。

で、アボリジニは島での生活に適して生活しているのであり、仮に我々が彼らの集約に行って共同生活をはじめたなら、かなりのレベルの落ちこぼれとして迎えられることになる。「そんな事も知らないのか」と「そんな事もできないのか」の連続になることが予想される。

で、その多面性を理解していないからこそ、「黒人の知能指数が低いなんていうデータは、差別主義者だ!」と反応することになってしまう。しかし、よくよく冷静に細分化してしめば、ホントは、その者が有してる個性や、その背景の話でしかない。ホントは、誰が誰に対して価値の優劣なんてものを持ち出せるものかという領域が確かに存在してしまうんですよね。SMAPの「世界に一つだけの花」の歌詞にあるような、「僕ら人間は、どうしてこうも比べたがる。一番になりたがる」という錯覚がある。

『言ってはいけない』の著書の中で、あまり詳しく触れておらず、3行程度の文章で猝圭皚瓩箸靴栃夘佞韻蕕譴討靴泙辰討い襦(知能や個性といったものが現実問題として比較不可能であるという事柄には、あまり言及していないの意です。)

もう一つ、『言ってはいけない』の中で、著者は【リベラル】を批判対称に上げており、しかも、それに関連づけて「アイム・シャルリー」というフランス銃撃テロの後の抗議活動に対して、異論を唱えた人々を攻撃されている。つまり、橘玲さんは、シャルリー・エブド社の風刺画は表現の自由として認められて然るべきだ論者なんですね。しかも、その風刺画がはしたないと批判する人々を【リベラル】だと分類している。このブログ的には、大問題であるワケです。実際に私が引用したのは週刊新潮であり、週刊新潮のヤン・デン・マン氏があたりがリベラルだという事になってしまう。

また、「アイム・ノット・アベ」というパフォーマンスをやった古賀茂明さんは、その分類法に従がえばリベラルではないという事になってしまうが、どう考えても古賀茂明さんのような主張こそが爛螢戰薀覘瓩隆冉阿帽臙廚靴討い襪隼廚Α正直、【リベラル】がシャルリー・エブドの品のない風刺画に抗議していたという感覚が無い。NHKあたりの番組の事をさして、あれをリベラルと呼んでいるのだろうか、とか、中々に難問でした。私からすると、世の中の迎合的な人々こそを、【リベラル】と呼ぶに相応しく、その層は、いつだって日和見しかしていない。

また、そもそも、この問題についてはフランス人でもあるエマニュエル・トッド氏が読売新聞に寄せた説明を引用した通りで、別にリベラルでもなんでもない。今のフランスは頭に血が上っていて何を言っても非愛国者にされてしまう――と述べていた通りでもある。

ホントは、それは『言ってはいけない』のあとがきに記されていた箇所なのですが、非常に疑問でした。そもそも、この人は分類を間違えていやしないのか――と。

文藝春秋10月号で、話題の『言ってはいけない』の著者として橘玲氏が登場し、そのリベラル、とシャルリー・エブド騒動について詳しく述べられていました。かなり具体的に記されていた。つまり、橘氏の言わんとしている【リベラル】とは、「ネオリベ型福祉国家」を指しており、つまりは「ネオリベ+福祉政策」であるという具合の説明をされている。

文藝春秋10月号の「言ってはいけない格差の真実」から引用。

このように書くと「弱肉強食」のアメリカ型資本主義(ネオリベ)だと思うだろうが、これはスウェーデンなど北欧の福祉国家の働き方でもある。「世界でもっとも幸福な国」の常連であるこれらの国は、あらゆる差別をなくそうとする「リベラル」な社会であると同時に、すべての労働者が個人の能力を最大限活かすべきだという「ネオリベ」の国でもあるのだ。(これを総称して「ネオリベ型福祉国家」と呼ばれている)。

性別、国籍、人種、宗教、年齢などで労働者の待遇を差別してはならないとしたら、あとは「能力」で評価する意外にない。これを「非人間的」と否定しまうと、もはや評価の基準はなくなってしまうから〜後略〜


なるほどと感心する反面、それで【リベラル】という言葉を使用されてしまったら、混乱するよなぁ…という感慨も受けましたかね。要は、日本のリベラルは似非リベラルであるという主張であり、橘氏が『言ってはいけない』で語っているリベラルとは似非リベラルを指しているのだ。だったら「似非リベラル」と表記しないと。で、橘氏の言うところの狄伸瓩離螢戰薀襪箸蓮△匹Δ睨眠し燭離螢戰薀襪鮖悗靴討い覯椎柔が高い。(うーん、そうなのであれば最初から、「北欧型福祉国家」とか「社民」とか、他に妥当な説明が出来たような気がしたのがホンネですけどね。)

この場合、橘玲氏は【リベラル】という括りの中から、似非リベラルを批判していたという文脈に修正して、ようやく理解できましたが…。

通常、「リベラル」と言ったら、せいぜい、ニューヨーク・タイムス的な言説を「リベラル」と呼んでいるケースが多く、そうした解説も目にしてきたと思うし、既に、アメリカ型資本主義をネオリベに位置付けているのであれば、それは程度を語る場合の振幅が大き過ぎて、理解に苦慮するのは当たり前だよなって感じました。一方で、日本に於けるリベラルを似非リベラルと呼べてしまうのも、これも匙加減一つですかねぇ。彼等がリベラルを自称している事も見越せる。

で、不満も抱きました。結構、決定的な不満でもあるのかも知れませんが、グローバリズムへの言及が皆無に等しい。グローバリズム世界が実現する事を既に前提として語られているのだと思う。それに対して、私のような立ち位置の場合は、現在進行形で、世界が対立しているのは「グローバリズムVS反グローバリズム」であろうなと考えているからねぇ。また、それは人間中心主義という態度でもあるから、おそらくは、唯物的システム論というか、ニヒリズム的なリベラリストの橘氏が認識する用語とは、驚くべきレベルで反りが合わないと気付かされましたかね。ホントは進化論の解釈でも敢えて淘汰論といっても人為主義と自然主義とがあるという具合の解釈を付して『言ってはいけない』を取り上げた事とも関係している。

物事・事象を分析したときに、その切り口としては大別して唯物的に語るか、唯心的に語るかという両極がある。科学的な態度とは前者であろうとなる。しかし、その唯物的機械論というのが、延々と間違いを繰り返しているよなって考えているんですね。唯心論に比べれば唯物論には誤りが少ない。しかし、唯物論に偏ってしまうと現実問題として心を有しているヒト、人々は、混乱して当たり前ではないのか? そもそもからして人は心を有している存在であり、機械論で終始することが許されるロボットではないんですよね…。で、心を有したヒトがある。そのヒトたちが共同体を形成し、社会を形成しているのだから、当然、社会そのものが無機的な機械論によって創り上げられていい訳がない。だから敢えて史的唯物論という言葉が観念的な次元ではありますが使用されたのでは?

非常に厄介で、辞書を引かないと読み進めることも厄介だった左翼史批判に首を突っ込んだ際に気付きましたが、おそらく左翼の失敗とも、関係がある。それは「唯物論」と「史的唯物論」との差異ではないのか。左翼全般にしても、その区別が分からなくなってしまった事で失敗したという批判を、二つほど目にしました。単純化して説明してしまうのは、わざわざ揚げ足を献上するようなものなので憚られますが、その差異というのは、ホントは考えが及ぶものではないのか。認識論をクリアすれば、それこそ差異に気付けるかも知れない。歴史的文脈があれば、それを無視して単なる単純化した唯物的機械論で社会設定をしてしまおうと考えてしまった態度こそが、失敗の根源にあったのではないのか、と。人間が中心に在るという立場から離れて、無機的に制度設計をしたところで、失敗するに決まっている。

で、北欧型リベラルなるものについてですが、ホントは二重、三重に矛盾を内包していると思う。過度な人権意識が高らかに掲げられてしまっており、日本の似非リベラルも、そういうときだけ北欧を摘まみ食いしてきていますよね。しかも、それらは自分で自分たちの首を絞めかねないグローバリズム由来の矛盾の枠内の話でしかない。

これからはセルロース・ナノ・ファイバーの時代になるとか、炭素繊維によって世界が一変するだとか、ドローンによって産業革命が起こるとか、3Dプリンターによって世界が劇的に変わるだとか、もう、そういう時代へ突入している。では、「3Dプリンター」に投資して一儲けしてやろうかって考えたところで、既に世界はグローバル化してしまっており、検討すれば検討するほど、イスラエルの某社と、もう一つのアメリカの某社が有力であるという事が分かってしまう。カネが国境を越えて飛び回る。そういう時代。そういうグローバル資本主義なんですね。

どこかの企業が功績を挙げて一時的にシェアを確立したとしても、安泰の期間は短い。労働者をどうのこうのという考え方が通用しなくなってきている。グローバルなのだから、思いのよらぬ海外の大手企業に技術革新を起こされ、シェアを奪われてしまう。かなり、経済活動はサバイバルになってきており、棲み分けるとか、共生するという次元の世界観から逸脱しはじめているんですよね。片や、資産家たちは国境を越えて相続税がない国に資産フライトをすることが出来てしまう。

実際に、ウィキリークス騒動が発生し、スノーデン騒動が発生し、更にはパナマ文書が流出し、その後にもバハマ文書なるものが流出したという。多くは奇妙なカネの流れが暴かれたというものであり、しかも、そこには既存の政府機関や財閥も関係している。ホントは、既存の枠組みそのものは不都合な事実だらけなのだ。

橘玲氏は、この後、世界は望む、望まぬに関わらず、世界は「ネオリベ+福祉」の方向へ進んでいくと主張されている。それが諦念によって語られているのか、それとも確乎たる信念によるものなのかは何とも言えませんが…。


で、改めて、シャルリー・エブドの一件に戻る。結構、これは重要で、おそらく橘氏は、「アイム・シャルリー」といううプラカードを下げてデモを起こす事を肯定している。それを批判する者を、批判されている。

しかし、ホントに問題はないだろうか? 表現の自由であれば何でも許される? それがリベラルだろうか? 断固、テロリストと対決すべきだという考え方ですね。しかし、現実問題としてフランスがテロのターゲットとなり、テロがその後も起こっている事実をどう総括できるのか? フランスの世俗主義はイスラム系の移民を受け入れておきながら、フランス共和国の世俗に馴化せよという自由主義なんですね。その後もイスラム系の服装を規制しているなんて続報もある。だったら、そもそもからしてイスラム系住民を受け容れるべきではなかったとも、考えられないだろうか? どうせ低賃金労働者として都合がいいからそうしたのではないのか? 低賃金労働者を外部から招聘して自国を豊かにするという構図は戦前の帝国主義に似ていないか? それがグローバル資本主義の正体ではないのか? そもそもからして一元的に異なる文化の人たちを管理できるというグローバリズムというものを盲信していやしないだろうか?

ですかね。

3Dプリンターの話が分かりにくかったかも知れないので、今一度、説明すると、要は技術革新によって次から次へと国際規格になるような製品が登場する。それは自由競争の中で登場する技術体系だから悪者ではないのですが、そういう世界が実現すると、雇用情勢は流動的なものになるのは目に見えているんですよね。大半の者は雇用主の下で給料をもらうサラリーマンであるワケですが、その人たちに対しても安定した生活を享受させることはできないシステムだと考えられる。一つのレースで一等賞になれる競走馬は一頭だけだという原理がある。その世界図には共生するという発想がないんです。グローバルに展開する、食うか食われるかの世界。勝ったつもりになっていても、外界から思いも依らぬ圧倒的な技術革新を持つ異文明が到来して、それが、一人勝ちをしてして征服してしまうのが西洋文明が抱えている本質でもある。食うか食われるかで発想する世界。もしかしたら「グローバル」という響きがカタカナだから、カッコいい響きを持っているのかも知れませんが、それは一元管理世界下の資本主義世界を意味していそうだと強く疑えるし、実は「帝国主義」とは「膨張する資本主義」を意味しているのであって。

2016年09月28日

官邸が「お言葉」問題で宮内庁長官を交代させた?

つい先日、「2016年の皇室問題」として、天皇の「お言葉」がテレビ中継されるまでの経緯や、天皇問題に触れたばかりでしたが、ついに宮内庁長官が奇妙な任期で交替させられるという事態へ。

官邸と宮内庁との緊張状態にも触れたばかりですが、まさしく、それですかねぇ。かつて、「小沢一郎」は天皇に対して習近平(当時の国家副主席)との会談を強引に捩じ込んだ。当時の羽毛田長官が民主党政権の強引な手法に対して苦言を呈したところ、当時の民主党幹事長であった「小沢一郎」は、

「一役人が内閣の方針にどうこう言うなら、辞表を出してから言うべきだ」

と、羽毛田長官を批判した。当時のテレビで流れた映像もなんとなく記憶していますかねぇ。「小沢一郎」は猛烈な勢いでマスコミをも叱り飛ばしたんでしたよね。一ヶ月ルールを破っての皇室の利用は許されないのではないかという追求に対して、

「君は日本国憲法を読んだ事があるかね? だから読んだことがあるかないかって聞いているの?」という諭すような口調で始まり、最終的には反省するを拒絶し、「金科玉条で絶対に駄目だなんて事があるかっ!」と怒鳴り散らした。

で、その後、羽毛田長官から風岡長官に変わった。風岡長官になってからも、実は安倍政権の官邸と緊張があったという。東京オリンピックの招致に高円宮妃久子さまを官邸が引っ張り出した。これに対して、風間長官が「苦渋の決断/両陛下もご案じになっていると拝察している」と発言したが、これを菅官房長官が

「非常に違和感がある」

という言葉で牽制した。しかし、その舞台裏は明白なのだ。実際に両陛下は皇族を政治利用されてしまったことを「ご案じになられ」、その様子を直接的に知っている宮内庁長官が「両陛下もご案じになっていると拝察している」という風に表現したに過ぎないのが実相であろうと考えられる。(他の皇室に詳しいジャーナリストらの言動とも一致しているので。)

で、今回の風岡宮内庁長官の交代は、「天皇の御言葉表明を阻止すべきだったのに阻止しなかった事」を理由にしての交代劇だと考えられるワケですよね。そうなると、官邸の意向、官邸と宮内庁との対立が、くっきりと浮かび上がってくる。

ホントは安倍政権の持っている性格には、尊皇思想がどうのこうのではないのも、明白に露見してしまったような気がしますかねぇ。日本会議とかカンケーないよなぁ。「尊崇の念がどうのこうの?」という問題ですらない。殊に菅官房長官についてですが、過去には「沖縄にディズニーランドを誘致してウンヌン」と言い出したり、先の都知事選でも積極的に増田候補の応援に入るなどしていたのであって、実際には「小沢一郎」と同じ種類の政治家なんだろうにねぇ。

論者によっては、菅官房長官を剛腕の政治家として高く評価する者もある。どういうワケがマキャベリズム信仰が政治評論家たちの間では高く、思想はどうでもいいから取りまとめる剛腕こそが「いい政治家だ」という文脈になっている。しかし、よくよく考えてみると、「沖縄にディズニーランドを政府が仲介して誘致する」なんてことは、大衆迎合も甚だしく、本来は、噴飯ものであったと感じましたかね。全力で軽蔑したいというか。日本が劣化したという考え方があり、菅官房長官のようなナメた考え方こそが、日本人の自負心を蝕んだのではないかと考えているから。ディズニーランドができるのなら投票しちゃうと、基地問題にもダンマリしますって、そーゆー国しちゃうのって最も抵抗が強いのであって。

天皇観については、「そもそも象徴天皇なんてものはムリなのである!」という意見も目にしているので、全方位に向けての天皇観を語ることが難しいワケですが、明確に一つ言えることがあって、それは天皇機関説の問答と似ていて、別に政権を運営している人々は、「尊崇の念」などというもので動いているワケではないという厳然たる事実でしょう。利用するのに便利だから利用しているだけという側面があるらしく...

いや、一つ、いい問題軸も浮上したような気もします。天皇の御意向であるから尊重されて然るべきだ、政治決定の方が天皇の御意向の方が尊重されるのは当然だという天皇観があり、それと対立する形で、天皇の御意向は政治とは切り離されるべきだという意見とがあると思うんですよね。

で、その天皇観を左右するものとして「報道」が大きく関与している。元々からして象徴天皇や人間天皇という概念そのものに曖昧さがあり、且つ、どれが正解なのかという正答がない問題でもある。生粋の尊皇思想の者もあれば、空気を読んだ上で、それに準じている層も多いし、更には、機関説や機関説に準じるものを踏襲してシステムとして天皇や皇室を理解している者もあれば、もう、完全に天皇制や皇族というシステムは不要なのであろうと考えている者もある。テレビや新聞の報じる天皇像や皇室像が、大きく左右してしまうのは予想がつくところでもあると思うんですよね。

小林よしのり登場以降の世代、その世代の方の中には疑問を持たれてしまうケースがあるかも知れない。しかし、実際に、最近も鈴木邦夫氏の話が文藝春秋あたりで掲載されていたと思いますが、氏が学生運動として右翼を主張していた時代、世の中の99.9%は右翼思想を拒絶しており、実際にビラを配れば左翼学生に取り囲まれ、平手打ちを浴びて横倒しにされたと回想されていました。その時代の現職政治家で右翼となると衛藤征士郎衆議院議員ぐらいであったという。衛藤氏が大分大学で実際に右翼活動をしていた――と。そうした生粋な右翼思想を抱いて政治家として歩まれてきた衛藤氏は生前退位に反対である上に女性宮家の創設にも反対。対して、小林よしのり氏は天皇の御意向が尊重されるべきである、反対している人々に対しては不敬である、不忠であるという具合に発信してしまっている。

なんとなく保守化したとか、なんとなく右傾化したという具合に総括できるのが近15〜20年ぐらいの歴史だと考えるべきだと思うので、「テレビ局や新聞社のアンケート調査に拠れば…」のような調査結果が示す数字というものを、どう捉えるべきかも、ホントは難しい気がしますかねぇ。ああした、デジタル信号式で賛成ですか反対ですかと問うて、その結果で優劣を示し、それが民意であるという皇室観に流されてしまうのであれば、おそらくは収拾不能となり、その存在意義そのものが問われてしまう時代が、そう遠くない時代に到来してしまうと思う。多分に犇気瓩決定をしてしまうことになりかねず。

推測するに、実際に多いのはリベラルに括られる人々である事はホントは今も昔も関係がない。ただ、この層になると「サヨクはけしからん」という言説や、その歴史的経緯に順じての右傾化、保守化だったとも考えられるワケで、その層に於ける天皇観や皇室観はまさしく暗中模索されてきた、定義のしようもないものであろうというのが現実のような気がするしねぇ。

とはいえ、今上陛下の「お言葉」というものを掘り下げていったときに、「人間天皇」というも在り方の限界というものに、目敏く気付かれてしまったのではないかという印象も受けました。既にテレビなどでも報じられた通りであり、現時点で認知症の症状はないと医師らが説明しているが陛下御自身が自らの、その先を案じられての生前退位論であるという。

「死ぬまでは現役だ」という考え方があり、それらは精神的な支えとして機能してきた部分も実際に各自の心の中に存在するとは思う。天皇制の話ではなく、広く一般人の生き方としての、それです。現在、この「自分で自分のリタイヤを決断できるか?」は大問題であると思う。孤独死がコワいという高齢者の問題が社会問題化していますが、その問題も技術革新によって認知症が発症しても生命活動を維持することそのものは可能になってしまったという時代の問題なんですよね。ここに来て、急激に、延命治療は受けたくないという類いの意見が急増している。

また、経済政策に於いても「経済成長を無限に続けるしかないのだ」という主張が未だに主流なのですが、それでいて、「おいおい、あんた、ホンキで、永久に成長することや永久に拡大していくことなんて事が可能だと思っているの?」と問い掛けてしまうと、ドキリとするのが真実であろうと思う。ホントは極めて根源的な部分で物事の本質というのを見誤っている可能性が高く、にも関わらず、それを捨て切れないというのが世論の大勢なのではないか。「産めよ、殖やせよ、地を従がえよ」と唱えていさえすればいい時代というものを、先進国諸国は、とっくに通過してしまっていると考えるべきではないのか。

或る程度のところまで到達してしまったとき、もう自らを利す為の方便を主張をする事にウンザリとし、半分は投げ槍に、半分は冷静に、「次世代のことは次世代に任せて、あらゆる責任から解放されたい、それこそがヒトの道ではないのか?」と考えたりするのが現代人の思潮のような気もしますし。


「石原慎太郎」というアイコンは右系の論客として認識されていると思う。プライムニュースなる番組で、

「私は陛下よりも一つ年上だが、それでも頑張っている。本当に陛下には、もうちょっと頑張っていただきたい」

「摂政という形など、歴史の事例がたくさんある。陛下に日本の象徴として、天皇でいていただきたい」

と語ったという。しかし、過去には

「天皇が国家の象徴などという言い分は、もう半世紀もすれば、彼が現人神だという言い分と同じ程度、笑止千万で理の通らぬたわごとだということになる、というよりも問題にもされなくなる、と僕は信じる」

とも語っているという。不敬か不敬ではないか、また、発言者は右なのか右ではないのかも、ホントはどこまで行っても曖昧なんですよね。「イシハラシンタロウ」という人物は、そもそもからしてそーゆー人だと言えば、それまでだという話でもあって。

心底から「天皇は敬愛すべき対象である」とする保守主義者からすれば、石原慎太郎は裏切り者なのですが、そもそもからして、右翼や保守思想の理論体系の中には、天皇や皇室というものを、そのように扱ってきたのも歴史的な事実なんですよね。

で、このことに対して、空気を読んでしまっている昨今のリベラルや左翼は疎い。オモテとウラの使い分けが為されており、誰も彼もが観念的右翼主義者ではない。大仰な敬語や尊敬語を使用する者に限って、「尊皇の士」という像を演じているが、そこには自己を利したいだけだという裏事情が絡んでいる。その事実に疎い。

象徴天皇という概念を構築してゆくのは確かに難しい。個人的には、それに最も近い形は無為無私の天皇像に期待を抱きましたが、世論全体がそうなることは現実的には起こり得ない問題だとも考えているから。

2016年09月27日

桶川ストーカー事件の脅し文句

キモチワルイ。その上に卑劣、人間のクズだろうなって感じる事柄というのは、この世には現存しますやね。以下、清水潔著『桶川ストーカー事件』(新潮文庫)に記されている、その神経を逆撫でするようなクズ中のクズの所業を列挙していきます。

1999年3月20日頃、池袋にあった小松和人のマンションへ着いていった被害者は、その室内にビデオカメラが仕掛けられている事に気付き、「なんでカメラがあるの?」と問い質した。すると、小松和人は「うるせー、オラオラ、俺のことなめとんのか」と逆上した。

詩織さんが、その真正なストーカーに対峙した瞬間は、そのような感じか。で、以降、この小松和人というストーカーの言動が、非常にキモチワルイんです。精神不安定だからって許される問題じゃないよなぁ。

「お前は俺に逆らうのか。なら、今までプレゼントした洋服代として百万円払え。払えないならソープに行って働いてカネを作れ。今からお前の親のところへ行くぞ、俺との付き合いのことを全部バラすぞ」

「俺と別れる? それはお前が決めることじゃない! 俺はイイ男だろ? 金もたくさん持ってるんだ。贅沢出来るんだぞ。結婚すればお前は俺の金を自由に使えるんだ。いったい何の問題があるんだ。この世の中はなぁ、金さえあればなんだって出来るんだぞ」

(詩織が愛犬を散歩させていたタイミングで電話があり、「今、犬の散歩をしている」と答えて)
「ふざけんな、俺を放っておいて犬と遊んでんのか、お前の犬も殺してやるぞ」


4月21日、マンションの部屋で詩織さんを正座させた上で、

「お前の携帯電話を折れ、自分で折るんだ」

「お前は俺とだけ付き合うんだよ。その誠意をきちんと見せろ」


詩織さんは二つ折りタイプの携帯電話を使用していたが、これによって親しい友人や知り合いの番号メモリーを失ってしまったという。折らせた小松和人はというと、キモチワルイことに詩織さんの携帯電話のメモリーを全て事前に抜き取っており、男性と思しき相手には片っ端から電話をしては、「あなたは詩織さんの彼氏ですよね?」と探りを入れたり、「詩織に近づくな、俺の女に手を出すんなら、お前を告訴するぞ」等と恐喝まがいの脅しをしていたという。

「お前のおやじの会社◇◇だろ。大企業じゃん。だけどさぁ、今四十代、五十代はリストラの嵐だろ。おやじがリストラあったらお前の弟達、まともに学校行けなくなっちゃうよ。俺にはそんなこと簡単にできちゃうんだよ」
(小松和人は詩織さんの家族の情報を興信所にカネを払って調べ上げていた。)

(バリカンを買って来ては)
「これから儀式をやる。お前を丸刈りにする」

「お前を精神的に追い詰めて、天罰を下して、地獄に落としてやる」

「前に同棲した女はさぁ、自殺未遂したんだよね。ちょっとお仕置きしたら、頭がおかしくなっちゃったんだ」


1999年6月14日、詩織さんは別れる決心を硬く硬くつけて、池袋駅構内にある小さな喫茶店で、どうしても別れたいと強く切り出した。それ以前にも何度も別れを切り出していたが、常軌を逸しているキチガイ染みた小松和人に怯えていたので、硬く硬く決心する必要があり、この日、それを切り出した。

「俺を裏切るやつは絶対に許さない。お前の親父に全部ばらしてやる」

と言い出し、その場で携帯電話を手にして、何やら、稚拙な演劇を打った。弁護士に電話を繋いだといい、その電話に詩織さんに出るように命じた。弁護士らしき電話の向こうの相手は

「あなたはひどい女ですね。今からお宅に伺いたいと思います」

(本当に弁護士なのかと詩織さんに問い質されると)

「私は違うんですけどね。今から、あなたの家に行きますから」

急いで詩織さんは自宅へ帰ってみたところ、幸い、何の変化もなかった。詩織さんが安堵していると、詩織さんの家の玄関チャイムが鳴り、続けて、ドスの利いた男達の怒鳴り声がした。

「詩織さんいますかぁ。上がらせてもらいまーす」

このとき、被害者宅には詩織さんと、詩織さんの母親しか居らず、小松和人と見知らぬ男二人が勝手に上がり込んだという。そこへ詩織さんの父親が帰宅する。

すると、小松和人の上司だという名乗る男(小松和人の実兄)が

「小松が会社の金を五百万円ほど横領したんです。問いただしたところ、お宅の娘さんにそそのかされたと。私たちは娘さんを詐欺で訴えます。どうですか誠意を見せてもらえませんか」

と、言い出したので、詩織さんの父親が

「話があるなら警察へ行こう」

と要求を突っ撥ねたところ、その上司を名乗った男は、

「このままじゃすまないぞ。お前の会社に内容証明の手紙を送ってやる。覚えておけ」
(実際に、詩織さんの父親の会社に中傷文が後日、届いた。)

この際、機転を利かせて被害者の父親は、それらの一連のやり取りをテープレコーダーに録音していた。また、粘着質の小松和人が実際に実家にまで乗り込んで来た事、最早、家族にもストーカーされている事実を隠し通す事が不可能になった為に、事前に詩織さんが、いつか告発する日が来ることを考えていた小松和人との会話を録音した音声テープもあった。それらのテープを持って、上尾警察署に持ち込んで、早期に警察につきまとい被害で困っている事、命が危険にさらされている事を説明した。つまり、警察に助けを求めていたのだ。

若い警察官は「これは恐喝だよ、恐喝」と言ってくれたが、年配の刑事が出て来て、「ダメダメ、これは事件にならないよ」と取り合わなかったという。その上、その年配の刑事は

「そんなにプレゼントをもらってから別れたいと言えば、フツウ怒るよ男は。だって、あなたもいい思いしたんじゃないの? こういうのはね、男と女の問題だから警察は立ち入れないんだよね」

という主旨の言葉を放った。

持参したテープの中には、小松和人が大声でわめいたり、怒鳴ったり、時には大笑いしている異常な音声が記録されていたという。

「ふざけんな、絶対別れない。お前に天罰が下るんだ」

「お前の家を一家崩壊まで追い込んでやる。家族を地獄に落としてやる」

「お前のおやじはリストラだ。お前はフーゾクで働くんだ」

「いいか、覚えとけよ!」


詩織さんは、ごくごく一部の知人には、つきまとわれて困っている事を相談していた。その知人の話に拠ると、小松和人は詩織さんに、

「外国人かなんかを雇ってレイプさせて写真を採り、その写真を近所にばら撒く」

「ビデオで撮影してばら撒く」


などという具合の脅しもしていたという。

また、一方で、詩織さんに対しての復讐構想を小松和人は別の女性に語っていた。そちらの女性の証言では、次のような内容であった。

「普通に生活できないようにしてやる。風俗で働かなきゃならないようにしてやるんだ。俺の部下達に輪姦させてやる。身体を傷つけて、心もめちゃくちゃにしてやるんだ」

「知ってる? 人を殺すって簡単なんだよ。人に頼めば数万円でもできるんだ。詩織も、人に頼んで殺してやる。親もやってやる。親にも責任があるんだ。仕事をできないようにするか、さもなければぶっ殺すかだ。やる時は、自分が信用している仲間が動くんだよ。俺にはそんな仲間や部下がたくさんいるんだ」


胸糞悪いストーカーの脅し文句を列挙しましたが、なんだか気付かされ事もあるんですよねぇ。洗脳する手法というのが存在していて、それはオウム真理教ほかカルト宗教などの事例とも重なる上に、北九州一家殺人事件の松永太や尼崎事件の角田美代子とも共通して、脅す相手を徹底的に恐怖の底に陥れて精神的に追い詰めていく手法、平たく言ってしまうと、洗脳手法が似ているなぁ…とね。

先ず、周囲の人間関係を遮断して孤立させる。桶川ストーカー事件の場合、携帯電話を折らせている。これ、冷静に考えると非常にキモチワルイ話であり、詩織さんに付き纏いしていた小松和人は身長が180cm超の二十代男性なんですよね。それが20歳そこらの女子大生を正座させ、怒鳴り散らし、嫉妬に狂っている。浮気を疑い、彼女の関心を独り占めせんとして、その携帯電話を彼女自身に圧し折らせている。精神異常ですが、それ以上に、どうしようもなく、その構図がキモチワルイ。ちょっと想像してみただけでも、非常に腹立たしさ覚える行為でしょう。

また、こうした事例に対して、法的にどうのこうのではなく、許し難い悪行だと感じる感覚があるような気もしている。実は、清水潔さんや一橋文哉さんらノンフィクション作家の文章の中に、そうした「怒り」を読み取れてしまうことがあるんですよね。「どうして、こういう事が許される社会になってしまったのか!」という怒りが文章の中に隠されていると言いますか。「正義はない」というが、これらの所業を見て見ぬふりをしたり、法的根拠でどうのこうのというのは、間違っていないのかという、そういう人間由来の怒りが文章の中に不思議と浮かび上がってきてしまっているというか。

で、外部環境と寸断して対象を孤立化させる。これ、刑務所やビジネス研修などでも行われているかもね。そういえば書店に行ったら「ペテロの葬列」という書籍が平積みにされていましたが、あれ、テレビドラマで視聴しましたが、具体的には企業研修などでも実際に行なわれている洗脳プログラム、それが犯行に関わっているというストーリーでした。圧倒的な低視聴率だったようですが。なんていうのかな、既にマインドコントロールの手法が、暗部ではホントに確立されてしまっているというか。

で、松永太や角田美代子と共通しているのは、ホントに組織化しており、圧倒的な暴力で他者を支配できてしまう、その脅しの手法などが似ている。暴力装置として機能するヤクザの存在などをチラつかせている。また、この小松和人の例では、「カネを払って、そいつらに輪姦させて、その模様を撮影して、それを社会にばら撒いてやる。お前んちの近所に大量のビラ刷りにして貼ってやる」という社会的抹殺を示唆して、追い込んでいくんですね。しかも、この事件の場合は、ホントに中傷ビラが大量に刷られて、近所にビラが貼られ、挙げ句の果てに殺害にまで及んだ。

本人は直接的には殺害に手を下していない。小松和人にカネで雇われた連中が、調子に乗って、一人の女子大生を精神的に追い詰めることに加担し、最終的には殺害まで行なった――という事件なんですよね。

キモチワルイ。先ず、カネで雇われて、ホイホイと一人の女子大生、その一家を痛めつける工作に加担した連中の、その根性がキモチワルイ。

そして、小松和人なる人物のキモチワルサは、衝撃的なまでの自己尊大というか自己肥大化でしょう。「裏切られた事が許せない」という。何故なら、自分はカネ持ちであり、そのカネを武器に、どんなことでもデキる偉大な男であるという自己尊大。情緒不安定や精神的にアレだとか庇うことも可能なのかも知れませんが、実際に脅された側や、絡まれた側、危害を加えられた側にしてみれば、そんな泣きオドシはして欲しくないワケですよね。ホントは、卑怯者にも程があるだろってレベルの卑怯者だから。家族にバラすと脅し、それに効果があると気付くと家へ押しかけ、詩織さんの父親の会社にも何やら幼稚な告発文を郵送していたりもしている。詩織さんに対しても、儀式といって丸坊主にしようとしたり、携帯電話を折らせたり、いちいち、怯えている相手に対して脅しをかけ、洗脳しようという卑劣さが滲み出ている。

当事者を対象にした脅しだけではなく、「家族を殺す」とか、「犬を殺す」とか「家族ごと路頭に迷わせてやる」とか、そういう脅し文句が多いんですが、こういうのも近年の特徴ですかねぇ。そう脅す事が、詩織さんを精神的に追い込めることを熟知しての、そういう脅し文句だから。

まったく同情の余地を感じないタイプのストーカーなんですよねぇ。小松和人自身も苦しんで自らも自殺未遂を繰り返し、最終的に自殺を遂げたと言われても、それは同じ。

社会全体として不健全で、これを許容してしまっている現状がキモチワルイ。カネをもらってイヤガラセに加担し、挙げ句に殺害に及んだ連中全員の処遇としては、もう、いっその事、全員、そこに正座させてブルドーザーのキャタピラでペッチャンコに轢き殺す事ができたら、実際問題、どれだけスッキリするものかってところまで、考えてしまいますかねぇ。


追記です。

町田新婚妻絞殺事件にも似ている。以下、「新潮45」編集部編『悪魔が殺せとささやいた』(新潮文庫)にあった事件の概要です。

平成19年、34歳の健康食品会社に勤務していた男性は28歳の女性と結婚した。新妻となった、その女は、重篤なDV(ドメスティック・バイオレンス)持ちであった。その女性はパニック障害の治療を受けており、時として我を見失ったかのように物を投げつけたり、カーテンをハサミで切り裂いたり、電話線や電気コードをも切断してしまう事があり、約半年間の同棲期間で男性は、その癖を知っていたが、いずれは善い方向へ向かうと思い、入籍したという。

夫の友人がイタズラでワイセツ画像をケータイに送信したことが発端で、それを見た新妻は「昔の彼女の方が良かったんでしょ!」という具合の常軌を逸したモードに突入。しまってあったアルバムから夫の前の彼女を引っ張り出し、更には、その写真を元にして偽装電話などを会社に掛けて、「夫の元彼女」の名前や住所、電話番号を調べ上げた。後に元彼女が折り返しで電話を掛け直してくるワケですが、「家に乗り込んでやる」、「恥ずかしい写真をばら撒いてやる」等と一方的に罵倒。傍らの夫は制止しようとしたが力一杯に顔面を殴打され、その尋常ならざる狂気に体を震わせたという。

電話を切った後に新妻は

「あんたと別れる。あんたのものは全部壊してやる。(夫の元彼女の苗字)はぶっ殺してやる。いろいろな男にマワさせて、二度と戻らないぐらい顔をぐちゃぐちゃにして、素っ裸にして会社の前に捨てといてやる」

と言い放ち、台所の食卓を引っくり返し、椅子の背もたれを掴んでは投げ、食器、包丁の入った水切りを床に叩き付けたという。まさしく、狂気の現場。

新婚夫は、それまで新妻に手を出したことはなかったが、そのときに何かが弾けたという。夫は妻を力任せに投げ飛ばした。妻は仰向けで床に叩き付けられたが、夫は、すかさず妻に乗りかかり、そのまま絞殺した。入籍してから三ヶ月目に起こった悲劇であった――と。

この話、ポイントが猴る瓩隼廚Δ鵑任垢茲諭その夫にして、DV妻から激情した言葉を投げつけられていて、それに或る程度は耐えられる次元があったが、しかし、その許容可能な次元を越えてしまった。耐えられないポイントというのが猴った瓩箸いΠ嫐9腓い任后新妻絞殺に及んだ夫の中で何かが狠討韻伸瓩箸いΑ4ら親しい間柄であったとしても、超えてはいけないポイントがあり、そのポイント超えたから、弾けたのだと思う。

余りにも口汚い罵詈雑言を並べられてしまうと、「もう理性的に対応するのは不可能だ」という次元に達するのではないかと思うんですよね。相手が仮に何かしら精神に闇を抱えているにしても、このテの内容、つまり、誰かに委託して第三者に対して危害を加え、その上、その者に恥辱を味わわせてやるという類いの下劣きわまる内容、そういった挑発を浴びせかけれたとして、ヒトはホントに冷静で居られるものかどうか。

2016年09月26日

「岸辺のアルバム」の感想と輪郭

1977年に制作された山田太一脚本のドラマ「岸辺のアルバム」の視聴を終えたばかりなのですが、見事すぎるほどに人間模様が凝縮されているよなって思う。これほど見事なテレビドラマというものを視聴した記憶はないかも。物凄く凝縮してあって、「幸福とは?」、「人生とは?」、「家族とは?」、「世間とは?」、「不貞とは」、「仕事とは?」といった具合の諸問題をヒューマンタッチで描いている。

以下、ネタバレばんばん行きます。

実は、週刊現代誌が往年の名ドラマを解説する特集記事を昨年だか一昨年に目にしており、大筋は視聴前に目を通していたのですが、とてもとても濃密な粗筋を語れるものではない。「岸辺のアルバム」のクライマックスは第14話と第15話の、まさしく、多摩川の堤防が決壊してしまい、濁流に家屋が飲み込まれててしまうという、あのニュース映像とドラマとが絡み合うシーンでした。(実際に1974年に発生した多摩川氾濫のニュースと、創作劇とが交錯するメディアミックス戦術というかフィクションとニュースがミックスした仕上がりになっている。)

避難命令が下り、ドラマの主人公である田島家の人々も避難している。避難所に避難しながらも本堤防は決壊しないだろうという楽観もあったが、徐々に事態は悲観的な方向へ向かう。「このままでは我が家が濁流に飲み込まれてしまう」という状況になったとき、八千草薫演じる「田島家のおかあさん」である則子は家族写真を張り付けたアルバムを家の中に置いて来てしまった事を後悔する。傍らにいた杉浦直樹演じる夫の謙作も即座に反応し、濁流に飲み込まれんとしている中、田島家の人々は「家族のアルバム」を取りに向かう。

機動隊の人たちが既に立ち入り禁止にしているが、「どうしてもアルバムを取りに行きたいんだ!」と訴えると、情に絆された機動隊の人たちも「一分だけですよ」と特別に立ち入りを黙認してくれる。

電灯も点かぬ薄暗いままの我が家。玄関先にまで家族4人で押しかけてみるが既に家屋はグラグラと揺らぎ始めている。土台を流され始めてしまっているのだ。国広富之演じる浪人一年目の長男・繁が二階へアルバムを取りに行く事を決意し、階段を駆け上がる。

階下から、声が上がる。

杉浦直樹:「シゲルーっ! 全部じゃなくていいんだっ! 何冊かだけでもいいっ!」

八千草薫:「シゲルちゃん、ムリしないで」

中田喜子:「もう家がグラつき出してるわっ」

てな感じだったかな。

で、無事に国広富之が何冊かアルバムを抱えて降りてくる。これで長年住んだ我が家ともお別れになるワケですが、田島家の人々は間もなく流されてしまうであろう家屋、その部屋に、その壁と廊下に、階段の手すりに、キッチンと居間に対して各自が「さようならー」なんて口々に呟きはじめ、その後に後ろ髪を引かれるようにして退散する。

そして、あの実写映像で、1974年の多摩川氾濫が字幕によって語られる。最終的に19戸が流されてしまったが、自衛隊が残っている堤防を爆破して水流を変えた――と。

結構、緊迫感がありました。実際の映像を視聴したのとしないとでは大違いかも。(杉浦直樹演じる田島家の主人は非常に冷静な父親であったが家が流されてしまう可能性があるとなると、大いに取り乱す。「この家が流されてしまったらオレには何も残らない。オレは今まで一体何の為に働いてきたというのだ」と。)

つまり、説明してしまうと、そういう危険を冒してまでも手元に残したいものは「家族のアルバムであった」というのが、この「岸辺のアルバム」のクライマックスなんですね。しかし、どうでしょう、このストーリー。東日本大震災後に発生した東北地方の津波被害、その復旧作業の過程で、実際に、実際に汚泥に塗れた家族写真であるとか、アルバムであるとか、そうした写真類の取り扱いを巡る一連がありましたよね。まさしく、あの状況を、1970年代後半に描き出していたんですね。

他人は簡単に「思い出なんてものには価値は無いじゃないですか」と言ったりする。しかし、実際に究極的な状況ではヒトはそんな行動をする生きものであるという事を見事に描写している。金目のものは大切だが、金目のものを失うのであれば、家族のアルバムのような、そうした狒曚そ亅瓩里茲Δ別飢礎佑覆發里大切なものになるという現実を、1979年のテレビドラマの時点で、抉り出していたのだ――。

で、非常によくできているドラマで、その完成度の高さは、その家屋が流されてしまうというクライマックス部分に限らない。いちいち、凄いのだ。

◆田島謙作
杉浦直樹が演じるのが田島謙作。商社の部長職にあり、世間一般からすれば少しだけ高給取りである。しかし、家庭をかえりみる機会は少ない。70年代に於ける「父親像」を代表しているのかどうかというと少し微妙で、ほんの少しだけハイソサエティな人物ですかね。杉浦演じる謙作という役柄で主眼が置かれているのは、仕事一筋で家庭を顧みないタイプの父親像だと言えそう。


◆田島則子
八千草薫が演じているのは、その妻の田島則子。こちらは39歳という設定の主婦。特に生活に大きな不満を感じているものでもないが、小さな不満を抱えている。竹脇無我が演じるキタガワというハンサム過ぎる紳士から怪しげな電話を受けてしまう。

キタガワは「話し相手になってください」という具合にアプローチしてくる。当初は、その迷惑電話に対して怒り、怒鳴って切るなどしていたが、やがて自分の知らないクラシック音楽や陶器の話について色々と教えてくれるキタガワとの雑談に関心を寄せるようになる。

並行して学生時代の友人がすい臓癌で入院、お見舞いを重ねる中で、お互いの人生を語り合う中で、猊盖き瓩クローズアップされる。その病床の友人は、八千草演じる則子に対して「浮気をするべきよ。人生楽しまなきゃ」という。そんな風に話している間に則子の中に「私だって」という冒険心が沸き上がる。電話での雑談に付き合うだけでは物足りなくなり、キタガワと喫茶店で直に会うようになる。ゴルフ練習場やダンスクラブなどで不思議な不倫デートを重ねる内に、同伴喫茶、連れ込みホテルへ行くようになる。

すい臓癌の友人は病没してしまう。その友人は自分の人生を自分の人生にする為に男子大学生にカネを払っての男女関係を持っていた事を死の直前に打ち明けられる。その友人は目に涙を浮かべながら、自嘲気味に語る。

「オトコを買うなんて馬鹿げていると思うかも知れないけど、そんな事でさえも私にとっては物凄い勇気のいることだったの。あのオトコに抱かれた瞬間は体の中がカーッと熱くなって…。だから後悔なんてものもしてないわ。私の人生に、あいつとの浮気がなかったなら、きっと、もっと悲惨な人生だったと思うの」

則子は「大学生の男をカネで買っていた」という友人に眉をひそめたくなる気持ちを抱く一方で、その友人にもシンパシーを感じ取っている。家族の為に自分を犠牲にして、人生を謳歌できていない事に気付く。その考え方は竹脇無我演じるキタガワと同じ考え方である。


◆田島律子
田島家の長女。上智大学英文科に在籍する20歳の女子大生役で、演じているのは中田喜子である。上昇思考が高く、自己尊大な性格で、父親も母親も、また弟をも見下しているかのような態度を取っている。家庭的であることや、家族というものに対して距離を置いている。大学のサークル内でも一目置かれている存在であったがセレブな帰国子女の仏文科の女学生から見初められ、急接近する事で意外な扉を開いてしまう。レズビアン体験に、マリファナ体験。更に、そのセレブ女学生(山口いづみ)が紹介したアメリカ人青年と付き合い出して、遂には処女を捧げるまでに到る。そうして世界を広げていく一方で、家族、仕事の為に人生を捧げている父親を見下し、家庭的である事を美徳とする母親を見下し、勉強も出来ない弟に対しても見下している。そんな律子には、レイプや中絶といった更なる泥臭い波瀾が待ち受けている。


◆田島繁
田島家の長男であり、受験生。母親思いの18歳という役どころは国広富之である。風吹ジュン演じるモスバーガーの店員、通称牋ソキ瓩傍い貌られてしまい、その哀愁からチョッカイを出されているが受験という目標や、親友への対面もあって、そのアイシュウからの積極的なアプローチに対してもツレナイ態度をとってしまう、お子ちゃまキャラとして描かれるのが前半である。アイシュウは町で繁を見掛ける度に馴れ馴れしい態度をとる。アイシュウは繁を誘惑すべく、

「あたしの匂いとあたしの感触を覚えて」

と繁の手を握ったりする。繁も心の奥底では満更ではないのだが、体裁を取り繕ってしまう。

繁は母親の浮気に気付いてしまう。レコードを買ってきたり、陶芸の本を読んでいることに対して「母さんにも、そんな一面があったんだ」と当初は、好意的に受け止めていたが、母親の変貌の陰には浮気が関係していると知ることになる。繁はとうとう、浮気の現場を抑えるべく、八千草演じる則子がめかし込んで出掛けるのを尾行する。すると、則子は、連れ込みホテルの中へ姿を消す。


◆哀愁(アイシュウ)
風吹ジュンが演じるモスバーガーの女店員。本名もあるが「あたし、アイシュウって言うのよ。ほら、哀愁のある顔をしているでしょう?」とオドケて受験生である繁に対して、誘惑的な態度を取る。ドラマが進展してゆくと、哀愁が繁に接近したウラには単純な恋愛感情ではなく、意外な「妬み」が隠されている事が判明する。この人懐っこそうに懐に入って来る哀愁、それを演じる風吹ジュンは、時代が早過ぎたかも。「不美人で、あまり育ちがよくない」という設定でしたが人肌の体温を感じさせる色気のある役どころでもあって。

脇役は、八千草薫のハンサムな不倫相手「キタガワ」役は竹脇無我。国広富之の親友・オキタ役は元ずうとるびの新井康弘。国広富之の高校の担任教師にして37歳独身、孤独な影を引き摺る近所のアパートに住んでいる教師役に津川雅彦。そして、主題歌とBGMは、ナンタラって有名な曲で、やはり、印象に残ります。



物語の輪郭に触れます。田島家は母・則子の浮気騒動に加えて問題が山積する。「家族がどうなってもいいのかよっ!」と感情を爆発させているのは、国広富之演じる18歳の受験生である。人一倍、家族像を重視しているのは、実は、この繁であるように見える。

頑固な父・謙作は、家庭では仕事の話を一切しない。しかし、仕事上のトラブルが頻発し、自ずと家族に対する態度も、封建的な父権を翳したものになってゆく。謙作は一商社マンでありながらがも、銃身の製造を取引先の繊維工場に作らせることに罪の意識を抱いており、部長職にある自分の一存で銃身製造受注案件を握り潰してしまう。しかし、戦後世代の切れ者エリートである中田(村野武範)から突き上げを食らってしまう。法律的にも問題がないこと、また、ライバル商社も兵器の案件を取り扱っていることを理由に、謙作の態度を「時代遅れだ」と批判する。当初、謙作は、「時代遅れでもいいんだっ! 戦後世代の奴には分からんのだっ!」と衝突していたが、後に会社の上層部に話が上がり、中田に敗北を喫してしまい、飲んだくれる。

更に、会社がヤバい筋から脅迫されているという事態が発生する。会社を守る為の密命が発生し、謙作は汚れ役を果たす事になる。商社マンとしての誇りを捨てて、そのヤバい筋を黙らせる為に東南アジアから貧しい女性たち正規雇用で雇ったように見せかけて入国させ、実際には水商売のホステスとして斡旋するという闇任務にも手を染めることになる。プライドをかなぐり捨てて、会社の為に尽くそうとするが、それら密命は、やがて長男の繁にバレてしまう。長男・繁や長女・律子から罵声を浴びせられる。

「お父さんは仕事とカネだけなのよっ! 人間としての誇りなんてない人間なのよっ! お母さんの浮気の一件だって真正面から向き合わずに逃げ回ってばかりじゃないっ!」

「いっつも父さんはカネの話ばっかりだっ! 東南アジアから女性を密輸していて何が仕事だよっ! そんなに偉いのかよっ! そんなオトナにはなりたくないねえっ!」 

といった具合に痛烈に突き上げられる。

杉浦演じる謙作は顔色を変えて、目ん玉を剥いて

「誰がお前たちを食べさせてやっていると思っているんだっ!」

と怒鳴って暴れて応戦するが、どこか寒々しさが残ってしまう。「仕事人間である事が絶対に正しい」という信念で生きてきたが、どうしようもなく、家庭は崩壊してしまっているのだ。

その濃密な家族崩壊劇の挙げ句、突如として襲いかかってくる多摩川の氾濫、堤防の決壊――。

我が家が流されてしまう。

もう絶望じゃないか。

ああ、あれだ。あれ、あれ。あれを運び出すのを忘れていた。家族の想い出を形にしたアルバムを取りに行かなくては――。

そういうクライマックスなんですね。

とはいえ、そのクライマックスに到るまでの過程には、家族がバラバラである事を、これでもか、これでもかと描いている。信用していた妻は浮気(不倫)していたというし、長女は可愛げのない大学生になった挙げ句、妊娠中絶していたという。長男は受験に失敗するし反抗的な態度ばかりで、殴って怒鳴ってみたものの、終盤には長男を殴りに行ったが殴り返されてしまう。或る意味では家族が幻想である事を描き切った上で、最後の最後、全てを失ってしまう状況で辿り着くもの、本当に大切なものとは「想い出」(の写真)なのだという筆致である。



国広富之さんは抜擢だったのでしょうか、序盤から終盤まで終始、やや堅さのあるセリフが気になったのですが、それでいて体当たりの演技をされていました。13話か14話かで、荒れまくって、北島三郎の「函館の女(ひと)」を大声で歌いながら帰宅するというシーンでは、むしろ、声の張り具合が迫真で、視聴しながら「ああ、やはり、この田島繁の役柄は国広さんで間違いではなかったのだな」と確信させられましたかね。劇中では「子供だ」とか「幼い」と、いわゆるお子ちゃま評というか、マザコン評されたままドラマが進展してくる「繁」なのですが、猛然と「父親越え」に突入してゆく。「そうやって、また殴るのかよっ!」と口だけで父・謙作に反抗してきたが、ドラマが終盤に指し掛かると父親の弱味もバッチリと握るようになっており、取っ組み合いとなり、殴り返すことになる。

八千草薫が演じる則子と竹脇無我が演じるキタガワとの不倫の進捗具合のようなものは細かく描写されており、飽きさせない。「連れ込みホテル」に「同伴喫茶」、そういった風俗をも切り取っているので、確かに大人向けドラマなのですが、いわゆる「よろめきメロドラマ」ではない。それは契約事というか約束事でもあり、

「どちらか一方が関係を解消しようとなったら、潔く関係を解消しましょう。そもそも家庭を壊そうだなんて思っていないんです」

と、事前に明確な取り決めをしている。当事者間の約束の上で成立する不倫関係なのだ。それらは秘め事であり、基本的には当人の良心が咎めるか咎めないかという問題として落とし込まれている。女子大生になっている長女の律子は

「お母さんだって家庭に縛られてばかりじゃないの。バッカみたいに。息抜きが必要なのよ。だから、繁、浮気しているなんて、お父さんに言っちゃ駄目よ。」

という具合の意見する。対して弟の繁は

「そんな事は分かってるけど、お母さんが他所の男とこそこそ出掛けているなんて気持ち悪いじゃないか」

と、率直な感想を口にするが、律子は一瞥するようにして

「だから、繁は、まだコドモだって言うのよ」

と、小ばかにする。しかし、ドラマ全体を通じて、最も「家族」というものの理想を追求し続けているのは、弟の繁の方であったりする。

その姉弟関係には少し変化が起こる。

ドラマが進展する中でレイプ騒動が発生すると、姉は悔しさのあまり弟に

「(そいつを)殺してくれる?」

と、自らがその受けた屈辱を打ち明ける。ホントに殺害するという話にはならないが、観念的にはそれに近いテンションで姉が受けた復讐を晴らしに行く弟の構図が描き出される。

姉・律子をレイプした外国人と対峙する弟・繁という構図。

「ぶん殴って来てやる!」

「あいつ、米軍でボクシングをやっていたって。きっと繁、返り討ちに遭うだけだわ」

「じゃ、金属バットを持って行くよ」

「本気なの?」

「本気じゃないさ。金属バットなんて持ったまま地下鉄に乗ったら捕まっちまうじゃないか。姉さん、オレはそいつに、爛レはオマエを軽蔑している瓩辰童世辰討笋襪鵑澄1儻譴任覆鵑討いΔ鵑世ぁ」

「I dispise you ! よ」

繁は元米兵という設定のレイプ魔にコテンパンに殴られながらも、「私はあなたを軽蔑する!」(I dispise you !)という英語を何度も何度も、そのアメリカ人に言い放つ。更には日本語で「あんたたちは差別主義者なんだっ!」とまで食い下がってみせる。確かに、それをやってのけたのれば、中々、繁は立派な大人なのではないかと、姉の弟への見方が変わるのだ。

ホームドラマでありながら不倫ドラマ、恋愛ドラマの要素があり、挙げ句にはテレビでは触れにくいレイプにもタッチしている。社会風刺であり、人間という群像を切り取っていて、それでいて人間を掘り下げている。

最終回を視終えた瞬間に、「シマッタ、最終回を視終えてしまったっ!」という気分になりました。ドラクエあたりを終わらせてしまった時に感じる、あの感覚でした。「愉しみを一つ終らせてしまったが、どうすればいいんだろう?」という、あの脱力感。

2016年09月25日

「無期懲役は何年でシャバへ戻るのか?」

素朴な疑問として、「無期懲役」という刑に服した者は何年ぐらいで娑婆へ戻って来るのかという疑問があったと思う。記憶としては「無期懲役っていったって15〜16年もすれば娑婆に出てしまっている」というような説明を何度も耳目にしてきたのであって。

日本には無い制度である【終身刑】が死ぬまで刑務所の中であるのに対して、【無期懲役】の場合は「懲役の期間が明確に定まっていない」のニュアンスであるとか、結局は、15年程度で出所しているというような説明が為されてきたいたと思う。

基本的には高校時代等にあった「上記の者を三日間の停学処分とする」と「上記の者を無期停学処分とする」との差異に似ている。有期刑に対しての無期刑であり、その意味に於いて無期懲役。その知識があったので、学生の頃から無期懲役の【無期】が有期の対義語になっている事は理解できていたかな。わざわざ、これを説明しているのは別に自慢ではなくて、現実問題として「無期懲役と終身刑って、どこが違うの? 同じでしょ?」という感じの世間話になってしまう事が多いからですかね。【無期】という言葉を「期限が無い懲役刑と=死ぬまで懲役刑」という風に捉えてしまう事は、一般的なシーンでは決して少なくなかった時代があったと思う。

「終身刑」と「無期懲役」との違いについては、大前提といえば大前提。で、その上で、実際問題としての日本に於ける無期懲役刑は、どれぐらいの期間の懲役刑と解釈すべきかという問題になってくる。かなりの、長期間にわたって「無期懲役とは実質的には15年程度の懲役刑である」という風に各種の専門家が説明してきたのは間違いがない事柄でもある。その説明を見聞きしたのは、おそらく、一度や二度じゃありませんやね。

で、最近、その謎が解けました。新潮45の9月号に名古屋アベック殺人事件で無期懲役となっている元少年に関しての記事の中で、その箇所が説明されていたから。

「実質的に無期懲役といっても15年程度でシャバに戻れる」といった言説は、「根も葉もないデマカセ」であったワケではないという。少しだけ詳しく触れると、「シャバに戻れる」とは仮出所や仮釈放を意味している。その上で、刑法28条には、以下のように定められているという。

「懲役又は禁固に処せられた者に改悛の状があるときは、有期刑についてはその刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」

つまり、無期懲役囚であっても10年が経過して反省が認められた場合には、行政官庁の判断によって仮釈放することができるといった具合の意味合いですかね。いや、「仮釈放、仮出場及び仮退院並びに保護観察等に関する規則」が別途に定められているといい、刑法上では、「10年を経過すると自動的に仮釈放の有資格者になる」という。

そうした基準に照らし合わせて、実質的には15年前後で無期懲役囚もシャバに出られてしまい、また、ホントに15年前後でシャバに出ることができたという意味であるという。

1990年代後半まで、実際に無期懲役囚の平均収容期間は20年程度で短かったという。この場合の猜振儉瓩琉靴い砲話躇佞必要で、中には終身刑と同じように獄死するまで出所も仮出所も認められなかったという者も存在する中での平均値であり、裏返せば、無期懲役囚でありながら模範囚であれば確かに10年を目処に自動的に仮出所の有資格者となり、おそらくは15年前後で仮出所を果たすケースもあったという事が関係しているのだそうな。つまり、根も葉もないデマカセであったワケではなく、「実質的には」という前提の上での「15年程度の懲役」という言い回しも間違いではなかったワケです。

ああ、そうだ。高校生の頃、非行が学校側にバレて無期停学処分になるクラスメイトが登場する。とはいえ、実際には狒蠑讚瓩存在していましたかねぇ。相場は「二週間」と決まっていた。それは生徒にしても教師にしても共通の認識であり、A君が退学処分に次いで重い処分とされていた無期停学になっているが「まぁ、2週間後には復学する」というのが相場でしたかね。ところが、一度だけ、無期停学となったまま、3週間目を迎えたクラスメイトがあり、「どういうことだ!」とクラスで騒ぎになり、副担任の若い教師にみんなで詰め寄ってみたところ、「Aのケースは無期停学だったが、停学が解除できないらしい。退学処分へと変更になるらしい」と説明してくれた記憶がある。狒蠑讚瓩あっても、それは絶対ではないんですよね。

話を元に戻しますが、実質的には無期懲役囚は15年ぐらいでシャバへ戻る(仮出所する)という説明は、過去のものになってしまったという。1990年代後半頃までは、無期懲役囚の平均収容期間が20年程度であったワケですが、その後、平均収容期間は伸びており、2014年度の法務省の統計からすると平均収容期間は31年4ヶ月と長期化しているのだという。

ついで数字を記しておくと、2014年現在、全国には1842名の無期懲役囚があり、その内の27名は40年以上49年未満の服役になっており、更に12名が50年以上の服役期間になっているという。つまり、無期懲役という判決を受けて、そのまま50年以上の懲役刑に服している者もあるというのが現実のよう。

(うーん。余談ですが、やっぱり考えてしまいますね。そういう場合、死刑の方が、むしろ人道的に感じてしまう。だって20歳で服役して70歳超でしょ? ずっと死ぬまで懲役という方が苛酷な刑で、非人道的な気がしないでもない。病気や障害といった保護対象の何かと認定される場合と、されぬまま死ぬまで懲役というのでは、その差が気になってしまうし。みんながみんな、オレ病気です、障害なんです、懲役は勘弁してって言い出すに決まっているだろうし。禁固刑は労働はないが懲役は労役つきなのであって。死刑囚になると労役は課されず、死刑執行を待つまでは禁固だって話だし。)

で、無期懲役囚の平均収容期間が伸びていることは、2004年の刑法改正と関係しているのだそうな。2004年に有期刑の上限が20年から30年に引き上げられたという。つまり、重い刑から順番に並べると死刑、無期懲役、その次が懲役30年のような順番になる。懲役30年という有期刑が法的に定められているのに、無期懲役の実質的な収容期間が30年以下になってしまうと、その文脈の秩序というか、整合性が取れなくなってしまうので、自ずと、無期懲役囚に対しての仮出所が認められるまでの期間が長期化している――と。

まぁ、結論からすると、現在ともなると無期懲役の判決を受けた者は30年以上はシャバの空気は吸えないという、厳罰化に舵が切られているという事のよう。

因みに、名古屋アベック殺人事件の主犯を演じ、無期懲役となった人物は、現在、上位10%に定められる模範囚であり、刑務所内で優遇措置を受けているという。(服役態度について1類〜5類までに分類し、上位10%の1類に分類されている模範囚には、その服役態度に応じての優遇措置があるの意。)

ussyassya at 15:03|この記事のURLComments(2)TrackBack(0)雑記