2018年09月23日

「てろてろ」に震えるの事

10ヶ月前から数冊ほど購入したまま、読めていない書籍ががっつりと溜まってしまっていて、ここ数週間で少しづつ消化している。期待していた本であったが、いざ読み始めてみると期待ハズレであったりするものですが、ロクに期待していなかったのにページをめくるのが楽しみだという具合に読み進められたのが『野坂昭如リターンズ1』(国書刊行会)でした。10ヶ月前に少しだけ読み進めていたのですが、手応えを感じなかったんですが、じっくり腰を落ち着けて読んでみたところ、これ、非常に面白い。

『野坂昭如リターンズ1』には『真夜中のマリア』と『てろてろ』の二編が収録されており、合わせると五百ページ近くにもなる分厚い本なんですが、「ああ、これ以上、夢中になって読む小説は、死ぬまで出会わないだろうなぁ…」と感じながら、ページを進めることになりました。『真夜中のマリア』も充分に楽しめたのですが、実は、どうしても気になっていたのが『てろてろ』の方で、私の体験としては、興奮で目が冴えてしまうような作品だったし、私的な思い入れも含めると、物語の終盤に訪れる女テロリストの孤軍奮闘シーンなんてのは、ホントに指先に震えが走るような、そんな感じで読みました。

殆んど、フィクション、小説は読まないケチな人間なんですが、これは、私からすると比類ない傑作ですかねぇ…。とはいえ、私の評はズレているか、癖があると思う。心の底から興奮したなという感慨を残しているのは星新一の『声の網』、筒井康隆の『七瀬ふたたび』ぐらい。前者は小学6年生の時、後者は高校一年生の時で、以降、心の底からワクワクしながら読み進めた小説はない人間なんですね。

なので、心のどこかで「もう、ああした興奮を越える小説に目を通すことはないだろう」と感じていた。しかし、それを『てろてろ』に塗り替えられてしまった。ホントは度肝を抜かれてしまった。最初の30〜40ページぐらいまでは『真夜中のマリア』と同じで、性癖について語るエログロナンセンスな小説なんですが、読み進めてゆくと、あれれれれとなる。

主人公たちはテロリストである。ところが政治犯らしい政治犯ではない。「何故、人を殺してはいけないのか?」というタブーに挑み、そこへ没入してゆく不思議なストーリーなのだ。しかも徹底的に思弁的である。そして、思弁的なままに殺人行為に手を染めてゆき、その心理描写が精緻なのだ。きっと殺人犯は、こういう心象風景を背負って、その場所に立っているという臨場感が生々しく、「これを読んでいる自分は正常なのか?」と不安に陥ってくる。

夢の類型に自分が追われている夢、或いは自分が犯罪を犯す夢というのがあり、私もそのテの夢をみて、うなされるタイプの人間なのですが、ああした夢の中で脳内で起こる葛藤そのまんま。誰を殺害するという目的もないまま、夜の通りで獲物を物色、見知らぬ会社員が歩いてきたので、その者を刺殺するとして、どういう心理が沸き起こるか――。これを精緻に辿るのは非常にオソロシイ。ヤクザ映画やらハードボイルド映画でも、このコワさは表現できていないと思う。描いた作品があったとしても、せいぜい通り一遍の、誰だって思いつきそうな浅い心の葛藤だし、刺殺しようとして刺殺できなかったり、自棄糞になって刺殺に成功したりと、せいぜい、そういう次元なんですよね。

しかし、野坂昭如が描いたそれは異なりました。葛藤はあるが迷いを振り払う為に厳しく己の退路を断ち、殺人を完遂するしかない心境にまで自らを到達させる。しかも、思いの外、あっけなく人を殺せてしまうという描き方をしている。

想像すると、怖いんだな、これが…。深く考えたことはなかったけど、そうかも知れない。学生の頃、休み時間にサッカーの真似事をしていて、ちょっとした接触だけなのにクラスメイトが起き上がれなくなってしまい、呻かれてしまい、蒼くなった経験がある。おいおい、嘘だろ、この程度の接触で大袈裟な…って。でも、ホントに、そんなものなんですよね。

通り魔とは、こういう心理なのか――と疑似体験させられてしまうヤバさ。通り魔の例で、こう述べましたが、このテの殺人に到る描写のバリエーションに富んでいて、色々とヤバい。感想を述べようにも問題が多すぎる。

作品中に描かれているテロは、無差別テロ時代の到来を予期していたかのような、そういう要素を含んでいる。作品そのものは1971年に平凡パンチに連載されていたもので、当時は全共闘の時代、或いは日航機よど号事件の時代だから政治犯による政治テロの時代なのですが、この「てろてろ」の中に生きているテロリストは、分断された社会の中に生きている者たちである。彼等は連携しているが、それぞれ殺人は個人単位で行なっており、しかも、よど号グループのように目的らしい目的も持っていない。それでいて都市型テロの時代を描いているのだ。

このことはオウム真理教による坂本弁護士事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件、更には対テロ戦争、人質処刑、或いは連続幼女殺人事件、やまゆり園事件なんていう物騒な事件が当たり前のように起こっている今、目を通してしまうと、背筋が冷たくなるような、それなのだ。

更に、この作品は登場人物によるタブーに対しての思弁的にアプローチしてゆく。「何故、人を殺してはいけないのか?」という問題、「人質を殺してはいけないのか?」、「処女を殺してはいけないのか?」、「子供を殺してはいけないのか?」、「母子心中は殺人なのか?」、「遺体を処理するにはどうすべきか?」、「人肉を食してはいけないのか?」、「生きる屍と化している者を生かす為に皆が負担をする事は正しいのか?」、「人工胎盤が生み出す遺伝子操作人間、その人工的に培養した人間を牛や豚のように食用肉にすることに何の問題があるのか?」等々、実は既に平成に生きる我々は現実に起こった事件の内容と、そこそこ照らし合わせながら読むことが可能になってしまっているのだ。

一部、ホントに生命倫理にも触れられており、人工胎盤が生み出す遺伝子操作人間、その人工的に培養した人間を牛や豚のように屠殺して食用肉にする未来図を登場人物に思弁させていますが、確かに我々は、この問題に答えを持っているのかどうか非常に怪しいんですね。色々とタブーをタブーにしているから、何か我々は物事を深く追求しないようになっているのかも知れない。アメリカではこうだからこうであるとか、国際ナントカ学会の見解ではこうであるからこうなのだとか、そういう次元でしか物事の正否を考えなくなってしまっている。しかも、その正否の基準というか認定は、全て国際規格に丸投げにして、自分たちは何も考えない、自力で何も回答を導き出してもいないのだ。

正も否もなく、また、社会的な大義も要らぬ――その境地に到った者が「てろてろ」の登場人物である。ひょっとしたら昨今、先進国で頻発するようになった無差別テロ、特にホームグロウンテロですが、そういうテロリストとダブらせたくなってしまう。

傍観してしまうと、あれら都市型の無差別テロリストたちに対して「殺してしまうべきだ」として眺めている。そこには多くの場合、懲罰的感情を乗せた上で「あんな犯人、撃ち殺してしまえばいいのだ!」と考えている。しかし、あのテのテロリストの心情というのは元より自死を覚悟している連中なんですね。実は噛み合っていない。懲罰なんて関係ない。いやいや正義さえも関係ない。人混みに手製爆弾を放り込むとか、無差別で機関銃を派手にぶっ放すという類いのテロとは、そーゆー事かと合点する事になる。社会を変革させる為に無差別テロを起こしているのではなく、ただただ、目的らしい目的もなく、破壊し、殺し、自分も死ぬ為にあれらの破滅的行為を起こしている。これが理解できそうで理解できない。(が、この「てろてろ」だと、半世紀前なのに、既に描けている。)

突き詰めてしまうと、破壊・破滅するしか再生の道はなく、目先で物事を思考すれば再生は無理なのだから出来る事は破壊・破滅しかないという、その結論に到ってしまうのは実は或る意味では必然であった――と。

実際に「てろてろ」の中には、「仮に3人の内の1人の確率で生きる屍に値する者が生まれてくる未来があったとして、残りの2名は身を削ってその1人を支えるべきだという選択をするか?」という問題が提示されている。これは仮定として33%の弱者を66%の者が支えるという社会でいいのかという問いになっているワケですが、この応用問題は既に日本は蝕まれていますやね。しかも、誰も何も言えないし、考える事をも禁止されている。いや、率先して考えたくないのだ。こう思考している者も歳をとってゆくのであり、あわよくば次世代に頼りたい。しかし、ホントは、敬老精神のようなものは幸福の先食いを正当化しているのであり、高齢者になっておらずとも、この問題に気づいた者は「あわよくばなんとか…」と物事を考えている。

小難しい内容かというと全く違い、極めて通俗的であり、娯楽作品である。猟奇的であることも確かですが、極めて人間中心主義的である。

誘拐した子供を殺害するつもりはなかったが、気が変わって殺してしまい、警察が公開捜査に踏み切るのは時間の問題であるという状況に置かれたとして、その犯人は如何なる事を考えるだろうか? 自己正当化に躍起になるのも一部ですが、案外、殺してしまった実感が乏しく思いの外、贖罪意識や良心の呵責はなく、夢と現実の中間ぐらいの意識となり、現実を現実と認識しながらも夢うつつとなり、合理的に物事を処理せんと覚醒している頭で考える。考えた挙げ句、どう足掻いても逃げ切れることは不可能だという合理的な判断に到り、そう結論したなら、どう思考してどう行動するか?

我々は狂気を狂気として片付ける。つまり、精神異常者を精神異常者として認識する。しかし、そのように処理する事で、微に入り細に入り、その問題を考える事から忌避している。

野坂は「てろてろ」の中で、登場人物に女性は兎も角として、社会と個人との紐帯が希薄な男性は自ら破滅を選択するという選択を獲らせている。俗に「破滅型」と呼ばれる人が居ますが、それが強烈な本能として作動してしまう。

先の誘拐殺人犯が破滅を悟った場合ですが、おそらくは、最期に一花咲かせることを目論み、己の存在を誇示しようとする。どうせ逃げる事は不可能。ここで顕示欲が頭をもたげる。世間を騒然とさせる事件を起こそうと賭けに出る。(取り敢えず、男性の場合は、ですけどね。)

物事は機械が機械として動くように出来ていない。物事は、機械ではないのだ。そこには人間が介在している。人間がどのように動くかが鍵となる。では、人間を動かしているものは何かというと、大きくは欲である。しかし、もう一つ動機付けの材料になり得るのは恨みなのだ。恨みというと、急に観念的な事柄に認識しがちですが、人間関係の因果律を考えれば実は自明でもある。恨みを晴らすという風に作用するのは堂々たる因果律なのだ。「恨みを忘れるべきだ」という類いの言説は、誰かの言い出した都合のいい言説に過ぎず、やられた者がやった者を恨むのは必然であり、受けた行為に対して復讐が可能なのであれば復讐に挑むのも必然である。それこそが人を動機付ける。おかしなことを言っていると思うかも知れませんが、これこそがヒューマニズムだと思う。背伸びしたモラルではなく、現実に即して思考する人間中心主義的な視点。

登場人物の中には一人だけ、おかしな性癖を持つ美女が混じっている。虐殺死体の写真をズリネタにオナニーをしてしまう猟奇的な性癖な持ち主で、これがヒロインである。恋愛模様は描かれていないが欲情すれば仲間の誰彼かまわず性交する。なになにがどうのこうのという事情は関係ない、即物的な性欲に支配されてしまっている美女である。殺しで濡れる。死体で濡れる。残酷な殺し方で濡れるという異常な性癖で、これは異常としか説明のしようがない。メンヘラ、サイコパス、それらとも少し違うのでしょうけどね。

このヒロインと主人公の男の二人組はダイナマイトと猟銃で武装し、国会議事堂を眺望できる首都東京のシンボル的存在である某高層ビルの屋上&最上階レストランを占拠、人質取らずに立て籠もる。弱い弱い人間二人が武装してみたところで、国家が威信をかけてテロ鎮圧に乗り出してくれば耐えられる筈がない。ヘリコプターからの催涙弾、狙撃、急襲着陸、階下からの機動隊の強行突入。3日間も持ち堪えれば充分でテロリストらの死は当たり前だとして、どこまで人間は立ち向かえるのか――。このシーンは興奮で震えました。壮絶な破局はゴジラ的。して、その迫力は「ターミネーター3」のような迫力を感じました。あのワクワクしてしまう破壊っぷりって何なんだろ。

いやいや、文章で迫力のある描写って表現できるんだなぁ…と、感心しちゃう。よくよく考えてみると、エンターテイメント小説だった!

やはり、人間ってのは本能として破壊願望を持っていて、シンボルなんて言われていわれて鎮座しているモノをメッタメタに破壊してしまうのって、きっと快感なんでしょうねぇ。



2018年09月21日

安倍一強現象の考察

自民党総裁選は安倍晋三首相が圧倒的大差で石破茂元幹事長の挑戦を退け、憲政史上最長となる総理大臣の芽も出て来たという。TBSとフジテレビを視聴した限り、「思いの外、石破茂が善戦し、安倍政権に暗雲が立ち込めた総裁選であった」という風に報じているのですが、大差は大差だし、圧倒的大差で決着したというのは厳然たる事実でしょう。あの票差、各得票率を以って、「石破陣営が善戦した」と判断するかどうかは、その論者の観点に拠るものであって、今回の総裁選は完全な一騎打ちであり、ホントは勝利するか敗北するかしかない総裁選であったと思う。なので、善戦などという言葉は虚しいだけで、「あれは堂々たる惨敗だった」と語るべきだと思う。

勿論、現在の安倍政権よりも中央集権を崩すという主張は石破陣営にあったし、実は、改憲論そのものにしても石破陣営の方が改憲論の大義に適っていたと考えられるべきですが、それを押し返せてしまうだけの官邸中心主義、一つの権威に皆が群がろうとする力学が、あの議員票に於ける大差に繋がっていたと見ますかねぇ。

仮に、改憲待望論があったとして、それは日本人の手に国家主権を取り戻すべしという大義であり、その中核となっているのが防衛力保持・安全保障の問題で、ホントは深化したレベルで物事を考えれば安倍晋三案よりも石破茂案の方が、より大義に近いものであったが、安倍シンパはそういう問題は余り深く考えることもなく、ごくごく単純に強そうな方、言う事を聞かないとおっかなさそうな方の尻馬に乗ったという事だけかも知れない。これが、この日本という国の現状って事ではないだろか。

保守? 右翼? いやいや、安倍政権はリベラルかネオリベだ。安倍シンパに到っては、よく自分たちの同志が「杉田水脈」、「小川栄太郎」、「藤岡信勝」といった御仁である事に気付くべきだ。確か私の記憶では、鴻池事務所に籠池さんが執拗に森友学園問題で陳情を行なっていたという一連がありましたが、その仲介した人物として「小川栄太郎」という名前が記してあった記憶がある。現在ともなると籠池さんは安倍政権と敵対関係という事になっているが、元々は、それら右派と呼ばれてきた狂信的な支持層によって形成された勢力でもある。



とはいえ、現在ともなると立憲民主党という政党名の党首が「私は保守である」と主張する時代だから、これらレッテル貼りは無意味化している。元々からして「保守⇔革新」の関係、保守に対しては革新が対義になっている。

さて、この問題、週刊文春9月27日号の「宮崎哲弥の時々砲弾」でも取り上げられておりました。遠藤晶久氏なる方による政治意識リサーチによると、現在の大学生は、次のように認識しているという。

日本維新の会は「革新」

日本共産党は「保守寄り」

といった、大胆な転倒が顕われているという。

日本共産党が保守寄りって認識には驚かされますが、仮に19歳や20歳であったなら、有り得るかも知れないなと考え直す事もできるでしょう。確かに40年か50年ぐらいは古くさい主張をしている可能性がある。実際にはこれは「護憲」に集約できる主張と思いますが、既に大学生ぐらいの年齢になると護憲を主張しているという事は、保守的な態度として認識されるのでしょう。社会を本気で改革する気も無いみたいだしね。

一方で、ハネッカエリ的な要素、即ち反動保守のイメージのある日本維新の会に対しては迷わず牾弯鍬瓩版Ъ韻靴討い襪箸いΑ世の中を変えようとしている新興勢力なので、革新勢力の一翼と認識されているという事のよう。

しかも、驚くなかれ、この傾向は20代だけにあらず、20〜40代に広く起こっている現象であるという。(リサーチ方法は、被験者が政党名を見て分類するにあたり、パソコン画面上の保守〜革新のどこに視線を向けたかで調査したものであるという。)

そして自由民主党ですが、そのリサーチによれば、元々「自由民主党」という政党については「保守」と認識されていたが「最近は真ん中に寄っている」という。

そのリサーチにも面白味を感じますが、そのリサーチは「保守と革新」という尺度でリサーチしているという事ですやね。その尺度も伝統的な尺度なのだけれども、既にメディア上で叩いているサヨク、そのサヨクが意味しているものは、且つての左翼思想を指しているのではなく、その7〜8割方は、いわゆるリベラル思想を指している事が多い。左翼と対置されるのは右翼であるが、ここが捩じれていて、サヨクを攻撃しているのだからオレたちこそが真の保守陣営、純粋な保守、或いは正統な保守思想陣営であるという解釈になってしまっているのでしょう。

しかし、この問題、そもそもは朝日新聞紙上に於ける

「なぜ若年層は安倍晋三政権や自由民主党を支持するのか?」

という連載の中から、発生した問題であるという。

この問題に関しては佐藤優氏と宮崎学氏との対談本などを用いて、このブログでも薄っぺらいレベルで触れた記憶がある。確かに若年層に於ける自由民主党の支持が広がっているのだ。その異変に困惑しているのは佐藤優氏も宮崎学氏も同じだったよう。そして両氏の対談でも単純に若年世代の間に牾萠呂修里發劉瓩失われているのではないか等々の話になっていたと思う。夢も希望も反抗心もなく、安定した会社、或いは公務員になる事を願い、また、そういう彼氏を捕まえて安定した生活をせねばと考えている少女たちの心理等にも言及されていたのだったかな。

で、この朝日新聞が取り上げたというリサーチでは、よりシビアな現実が透けて見えてくる。20代や30代の世代は新卒採用としての就業率に恵まれた世代であり、その層が就職氷河期世代へのカウンターとして保守化しているという形跡を浮かび上がらせている。何やら分断の結果らしいものも読み取れてしまいそう。

「就職氷河期にまともに就職できなかった人は、現在30代半ば〜40代後半になっている。こうした人々の再就職市場が極めて限られていて、まともに就職できていない人が約150万人もいるということを、本年4月の経済週刊誌が特集していた。その記事によると、この人々がそのまま老後を迎えて生活保護に頼らざるを得なくなると、それによる生活保護費の増加は約30兆円にもなるという」

上記の着色文字部分は、日本経済新聞9月8日付朝刊を、宮崎さんのコラムが引用したもの。ここでは、その引用なので孫引き、曾孫引きになるのかも知れませんが、どうも日本社会は、そういう世代間の分断を今後も展開しそうなのだ。

総括すると、基本的には若年世代の政治意識とは当たり前ですが低く、「何故、保守化が起こったのか?」という問題については、単に若年世代は就職氷河期世代に比較して恵まれた就業環境にあった事で、それなりに満足しているという事のようなのだ。しかし、そうなるとさすがに就職氷河期世代がホントに不憫にも思えてきますやね。だって、こういう場合、「恵まれないって言っているけど、実際にフラフラして人生を歩んでいた本人が悪いワケじゃないですか」という解釈に絶対になってしまうものだと思う。

(ご近所に、その世代の方が最近まで居たのですが、或る時期に介護の職場に転職されていました。これ、実は選択肢として、その手の就職先しか残っていないの意なんですよね。希望した職種に就いたという感じではない…。「夜勤が大変で」ってコボして、それから半年もせずに引っ越していきましたが、その人生を左右されちゃってるのは明らかだったかな。「明日は我が身か…」と打ち震えるような社会情勢だ。)

とはいえ、案外、その就職氷河期世代がネトウヨ陣営に取り込まれてしまっているのではないかという風にも考えられますかねぇ。なんだネトウヨ的な勢力と一緒になってリベラル叩きや、サヨク叩きをやっているように見えるのだけれども、あれは就職氷河期世代よりも上なのか?!

で、リベラルを自称する宮崎哲也さんは「失われた二十年を作ったのは保守である」という主張をされていますが…。


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ussyassya at 11:30|この記事のURLComments(2)辛口評論 

2018年09月20日

突き抜ける境地

野坂昭如の『真夜中のマリア』を読み終えたのですが、これは、どう評したらいいのか戸惑わされましたかね…。色々と、ぶっ飛んでいると感じたのが率直な感想で、且つ、それは筒井康隆と比較するような、圧倒的な、ぶっ飛び方だなと感じたのでした。

で、町田康さんによるあとがき的な文章に目を通して納得しました。「ぶっ飛んでいる」という表現と「筒井康隆」の名称が掲げられており、おおよそ、私が感じたことと似た事が綴られていました。町田康さんは自身が中学生の時に友人から「真夜中のマリア」を借り、借りて読んだ後に購入して繰り返し読んだとも綴っている。この「幻の名作」と銘打たれている、ぶっ飛んだ小説を?!

たぶん、私も中学、高校の頃には猥談好きな少年で、それなりに「あいつの話は面白い」という具合に友人らから言われていた側なんですが、この『真夜中のマリア』という小説は猥談も究めれば芸術になれたのかもなと思い知らされる怪作でしたかね…。また、野坂昭如の文章というのは独特のテンポがあり、私には艶笑落語と呼ばれる分野のそれに近いものとも感じました。性談義に於ける「嘘か誠か?」という事柄を、ぶっ飛んだ感性によって小説化している。

「ぶっ飛んでいる」という語句を選ばざるを得ないのは理由があって、これは前衛的な何かであろうかと考えると違うんですね。既成の枠を破壊してしまうという意味ではアバンギャルドとも評せそうなのですが、それは斬新さを売り物にしているのではなく、ホントは多くの者が漠然と内包している性の究極を思考した世界なのだ。

ふざけ倒し方にも半端なく、野坂昭如という作家は三島由紀夫に認められた事を契機にステップアップがあり、あちらこちらで三島由紀夫に対してのリスペクトらしきものを読み取ることが出来るのですが、この野坂昭如という人物は特殊で平気でパロディーにしてしまうのだ。この「真夜中のマリア」の中では、三島由紀夫を好き過ぎて三島由紀夫に成り切っている男色家と、横尾忠則に憧れて横尾忠則に成り切っている男色家とによる、男色ショウが描かれている。なんじゃ、コレは…。読んでいても鳥肌が立ちますな。しかし、その妄想が作り出す描写は、そこそこ心理描写は精緻であり、そこそこグロテスクであり、ひょっとしたら美しいのかも知れない。そーゆー描き方をしてしまっているのだ。

三島似の男色家と横尾似の男色家とが閉店後の銭湯で、くんずほぐれつ性交に及び、

「おう、おう、おうっ」

という雄叫びを上げている姿って、これ、想像して、どんな感想を持ちますゥ? 凄すぎ! ぶっ飛び過ぎだって! 読んでいても、「ん? これはオットセイ的な声ってこと?」と補足しながら読むことになるんですが、エログロナンセンスの真髄とは、コレであったかと気付かされる。

男色本なのかといえば、さにあらず。レズビアンについても描いているし、処女崇拝についても描いているし、マスターベーション、近親相姦、輪姦・乱交、ドラッグセックス、高齢者の性と、もう、スカトロを除いて触れていないものがないじゃないかっていう、そういう内容なのだ。しかも、それぞれ、そこそこのシチュエーションや心理描写もあるんですが、そこまで深く妄想し、一応の形にまでしていることが、ぶっ飛んでいる。シロシロにしてもクロクロにしても、それがどういう心境の中で起こるのかというのは、猥談好きな連中、好色な人物とて具体的に考えるかといえば考えない事柄なんですよね。「セックスとはオナニーに始まりオナニーに終わる」を真面目に思考したことがあるのかといえば実はない。現在も、正しい性行為とはシロクロの間で行なわれる狎源裟瓩里△訐舷9坩戮任呂覆い里という女性政治家の発言が巷を賑わせているのであって。

異性愛の性交経験者が、初めて同性愛の性交に及ぶ際の心理なんて考えた事有りますゥ? どういう心理状態が想定されるのか? 或いは処女崇拝があるが故に非処女が処女を装う事と、童貞が非童貞を装うよりも難度は低いと思われる事とか、ユーモラスに取り上げつつ、ホントに究極まで行き着かせている。つまり、腹上死としての死、恍惚の中、死にゆく事の充足感。

快楽の究極とは?

性の究極的境地とは? 

一本の線、一本の陰裂から全てが生まれて来たと思ってウツになってしまう話から、最終的には、その一つの陰裂から子宮内へと回帰し、他人に手放しで依存できる子宮内、そこで安息を得んと死んでゆくという描写。なんだかフロイトやラカンと比較しても興味深い話が詰め込まれている。つまり、野坂昭如は、この作品の中で欲望の究極を子宮回帰と導き、何故、そうなるのかといえば、すべて安心して完全に身を委ねられる胎児の状態に回帰する事、一度、生を授かってしまった者の場合は、すなわち「死」を意味している――という見解を示している。

2018年09月19日

有名人の訃報

樹木希林さんの訃報がテレビで取り上げられていて、色々な事を思う。訃報を知る前夜、おそらく「まむしと青大将」なる菅原文太主演作品のレンタルDVDを視聴していて、そこにワンポイントで登場いたのが「悠木千帆」時代の樹木希林さんでありました。テレビドラマ「寺内貫太郎一家」で、入れ歯でうがいをし、西城秀樹さんから、

「きったねぇなぁ、婆ちゃん!」

と叱られるがめげず、あれは別のドラマであったかジュリー(沢田研二)のポスターを前で、

「ジュリー―――――」

と地団太を踏むようにして全身で興奮する、あの「おばあちゃん」と全く同じ衣装で出演、ヤクザの息子に足を洗わせる為に徳島から大阪にやってきたという老婆の役。

期待を裏切ることなく、ヤクザの事務所内だというのに暴れたりする喜劇的描写のワンシーン。菅原文太演じる主人公は、その悠木千帆演じる「おっかあ」に胸を打たれ、強引に、その息子にヤクザを辞めて郷里に帰るように促すことになる。

画面で確認してしまったのは、この「悠木千帆」時代、どれぐらい老けていたのだったかという部分でした。扮装や演じているキャラクターこそ、老婆であったが、頬っぺたのあたりはふくよかというべきか、張りのようなものがあり、よくよく観察してしまうとホンモノの老婆ではないのは一目瞭然。

確かに、当時から異彩を放つ女優さんでしたやね。ヤクザ映画の中に、ワンポイントで出演していたっぽい。いや、堂々とテロップには「悠木千帆」と大書きされていたことからすると、「時の人」という扱いでの主演だったのでしょう。

その後、あっさりと、その芸名をテレビ番組中のオーディション番組内でオークションとして出品してしまい、自らは樹木希林という新しい名前を名乗った。これは週刊文春だったと思いますが、自らが参加していた「希心会」なる宗教団体から犂瓩諒源を使用したものだって記してあったかな。

最期の仕事となったのは、「ザ・ノンフィクション」で内田裕也さんを取り上げたドキュメンタリー番組のナレーションであったというんですが、それ、偶然、視聴していました。内田裕也さんが若い頃に出演していたというライブハウスというのかな、ライブの舞台に上がっていたというそこを訪ねたり、幼少時に住んでいた屋敷を訪ねてみたり、そんな内容。

さて、樹木希林さんと内田裕也さんとの関係というのは、何やら分かり難いところがある。これ、さっきパラパラと荒木一郎著『まわり舞台をみていた』(文遊社)のページをパラパラとめくってみたのですが、当該箇所は見つからずながら、確か若き日の樹木さんはロカビリー歌手の熱狂的ファンであり、そのファンの人たちが溜まり場となっているバーだか喫茶店に入り浸っていた人物であったウンヌンの記述があったような気がする。樹木希林という芸名として人気を定着させ、近年ではすっかり「落ち着いた人」というイメージが定着しているように感じるのですが、そういう一面に触れられていて興味深く活字を追ったような記憶がある。実は、かなり樹木さんの方が積極的に裕也さんの方を追い掛けたんだろうなという印象を受けました。

おそろしいレベルで「一個のニンゲンは多面的である」という事を体現していた人物であったなと思う。

訃報によって、その人の人生などを回想したりする機会となるワケですが、樹木希林さんの場合は特に多種多様な引き出しの持ち主だった印象がありますかねぇ。ただ、なんというのかな、「一個のニンゲンが多面的である」というのは樹木希林さんにのみ該当するのではなく、ホントは凡百な人たちにも程度こそあれ、多面的であるという部分は例外なく当て嵌まるのになっていう感慨もある。

ussyassya at 12:03|この記事のURLComments(3)雑記 

2018年09月18日

エロとグロ

スカーレット・ヨハンソン主演の2013年製作「アンダー・ザ・スキン〜種の捕食」では、スカーレット・ヨハンソン演じる美女が次から次へと独身男どもに声を掛けている。白い大型のクルマに乗って、車窓から目ぼしい男を見つけると、「どこそこへ行きたいのだけれど、道を教えてくれる?」という感じで声を掛ける。主に労働者風の風采の男に声を掛けている。男たちの多くは親切に道を教えようとする。多くは独身男であり、その逆ナンに当惑しながらも警戒心を緩め、クルマに乗り込んでしまう。

淡々と、そういう逆ナンパの映像が繰り返される。

非常に淡々と進展する映画なので、ストーリーを組み立てるハードルも高いのですが、要は、タイトルの通り、スカーレット・ヨハンソン演じる謎の美女は、男たちを捕食している何か、おそらくはエイリアンである。(確かにスカーレット・ヨハンソンは全裸に近い姿で登場しているが、いわゆる実用系のエロチックなハダカではないので悪しからず。私も期待したのに裏切られた!)

男どもを捕食する中、一人の小男に声を掛ける。

「これからスーパーマーケットへ行くところなんだ」

「こんな時間に?」

「ああ」

「大変ね。よかったらクルマに乗っけてってあげるわ」

「ありがとう」

小男は助手席に乗り込む。そして顔を覆い隠すようにしていた帽子だかマフラーを外す。小男の顔には大きな腫瘍がある。なにやら映画「エレファントマン」の主人公ジョン・メリックを想起させるような顔貌の持ち主、つまり、多くの者の基準からすると、それはグロテスクな顔貌の持ち主である。

「こんな時間にスーパーへ買い物?」

「ああ。昼間に行くとカラカう奴がいっぱいいるからね」

「そうなの?」

「あいつらはバカさ」

「年齢は幾つなの?」

「26歳」

「友人は?」

「居ないよ」

「彼女は?」

「居ないよ」

「そう…」

美女は小男の手のひらに自分の手のひらを重ねて、「きれいな手ね」とか「とても、やわらかい」等と小男を誉めそやし、次には自分の首元を小男に見せて、その手を誘導して触らせる。

「女性の体に触るのは久しぶり?」

「いや、生まれてから一度も…」

スカーレット・ヨハンソン演じる美女は、その醜悪な小男をも捕食してしまおうとするが、土壇場で小男に逃げられてしまう――。いや、敢えて逃がしたという事だったのかな…。

一体全体、この映画は何を描こうとしているのかと考えさせられることになりました。主人公の美女は無表情で淡々とマンハントを繰り返しているだけなのだ。その一連の中に、この小男の話が紛れ込まされている。

やはり、美醜のコントラスト、そうした配置が製作者サイドの意図としてあるのだろうと考えながら視聴しました。説明らしい説明がないので、何とも難解です。私は、その小男のシーン、ひやひやしながら視聴していました。病気か奇形かであり、その容姿の小男に「その顔、どうしたの?」とか「とても魅力的よ」のように言い出してしまうのではないかとヒヤヒヤしたんですね。魅力的だとかステキだといえば嘘の慰めとなる。また、「その顔はどうしたの?」と問えば無粋、無神経、野暮になる。しかし、スカーレット・ヨハンソン演じる女は、その無粋は犯さない。敏感に小男の劣等感を読み取っているように視ました。そうする事で、その小男も少しは救われる。

粗筋を探れば、エイリアンが種を捕食する為に美女に扮して美女に吸い寄せられる男どもを冥界送りにしてしまうという怪談である。美しい者に惹かれるという法則を逆手にとった捕食者の物語――。

突出した美女、或いは美男であったとする。きっと、この映画の主人公のように次から次へと引っ掛ける事ができるという立場が有り得るのかも知れない。圧倒的に突出した美は、相手を自在に操れてしまう。この映画のシチュエーションのように、美女がクルマの窓から歩行中の男に声を掛ければ、大概の男は親切にするものでしょう。また、「クルマで送るけど?」と告げられれば、まさか殺されるとは思わないから警戒心を緩め、その親切に甘えようとするでしょう。作品中も、積極的に美貌の女・スカーレット・ヨハンソンに対してセクシャルに迫った男は居らず、誰も彼も気後れしているが、そこで美女に服を脱がれてしまい、肌を晒されてしまうことで、男たちは美女の毒牙に自らかかってゆく。自ら服を脱ぎ、その毒牙に自ら飛び込んでゆく。ちょろいもんだね。


大竹しのぶ&豊川悦司が主演した「後妻業の女」にも似た構図を見い出せそう。粗筋は結婚相談所を舞台にし、再婚願望のある高齢男性を大竹しのぶが絡めとり、まんまと財産を奪ってしまうという詐欺を6件も7件も繰り返しているというストーリーである。被害者らは妻を亡くした高齢男性であったり、離婚して後半生の伴侶を探しているという境遇の高齢男性であるが、大竹しのぶ演じる女は、そんな高齢男性の心理を知り尽くしており、介護婦兼任の後妻に成りすます。津川雅彦演じる老人を念頭に、

大竹「あいつったら勃たないクセにアソコを見せろっていうから、一回、一万円で見せてやっていたのよ」

豊川「そんなん、ボッタクリやでぇ」

等というセンセーショナルなセリフのやり取りもあったのかな。作風はコメディタッチなので、必ずしもどろどろとしませんが、ベースとして選ばれている問題は、性的強者と性的弱者との格差問題であったと思う。

勿論、この後妻業の話は、木嶋佳苗の事件であるとか上田美由紀の事件であるとか、或いは筧千佐子の事件であるとか、おそらくは実社会にはかなりの数が転がっているであろう、事件として描かれている。近年、増えたようにも感じるが、それは「後妻業」という言葉が認知されたからあれもこれもとカウントされている事件であり、寂しい高齢男性に色香を使って取り入り、まんまと財産を奪ってしまうという行為は、犯罪と認定されずとも、かなり昔からある一連であることが作品の中でも、弁護士によって解説されている。実際に配偶者になっていている場合、殺人などに及ばない限り、実は法的にも詐欺罪を適用せず、裁きようがないのだ。しかも、当の本人が望んで彼女たちに接近しているのだ。


野坂昭如の小説「真夜中にマリア」はエログロを究めたような作風である。そこでは崇高なものなどはなく、ありとあらゆる手法で性行為を茶化しにかかる。セックス(作品中では大江健三郎を模してセクス)の為にどれだけ無駄なエネルギーが使用されているのか、究極のセックスとは男色ではないのか、或いはオナニーではないのか等、もう、凄まじい想像力が駆使されている。その茶化しが男性の性衝動に対して自虐的なベクトルで論じられているだけであれば、まだ有りがちな作品なのですが出産も茶化すし、女性器の陰裂をも茶化す。茶化し倒す。突き抜ける低俗さに滅入る向きもあるのですが、思わず吹き出してしまったりもするのが、現実であり、実は登場人物らの行動は荒唐無稽なようでいて、美醜、あるいはセックスの為に荒唐無稽な事をしている現代人の昏倒を嘲り笑っているようにも読める。

性的魅力に吸い寄せられてしまうのは何故かと言えば、それは性欲と関係していて、だから価値があるのは確かなんでしょうけどね。しかし、そんなものにさえ、現実社会では格差が設定されていて、その格差を大きなものにしようとしていますやね。

スカーレット・ヨハンソン演じる美貌の捕食者は、その皮の下、皮膚の下にはグロテスクな何かである。つまり、捕食者の塊であった。しかし、その捕食者にして、醜悪な顔貌の小男の境遇に憐憫か、或いは世の不幸を感じ取ったという事だったのかな。難しい映画でやんした。




2018年09月17日

運命と人命

洋画専門チャンネル・ザ・シネマにて「ターミネーター3」、「ターミネーター4」、「ターミネーター・ジェネシス」を視聴してしまう。個人的な見解では「ターミネーター3」は稀有な傑作、「ターミネーター4」は駄作、で、「ターミネーター・ジェネシス」は傑作という感慨でした。先週、第一作目の「ターミネーター」を視聴していた事もあって、基本シナリオが少しだけ頭に入っていたかな。


映画「ターミネーター」の世界とは、機械による人類への核攻撃が発生し、30億人が死滅する。それを生き残った人々は「審判の日」と呼んだ。その後も機械による人類への攻撃が続けられたが、生き残りの人類の中から機械に抵抗する者が登場、その抵抗者は救世主となるべく抵抗軍を組織し、機械への反乱を続けている。その救世主の名がジョン・コナーである。そして、機械軍がジョン・コナーに手を焼き、ジョン・コナーを産む事になる母・サラ・コナーを暗殺する為に1984年のロサンジェルスに「T-800型」のターミネーターを派遣していた。

サラ・コナーをターミネーターから守る為に、未来から1984年にやってきた人物をカイル・リーフ。このカイル・リーフは未来世界に於ける抵抗軍の兵士であり、ジョン・コナーの部下である。このカイル・リーフがサラ・コナーに複雑な事情を説明する。サラ・コナーが産む子がジョン・コナーであり、そのジョン・コナーは未来の抵抗軍の指揮者となっている。では、ジョン・コナーの父親は誰なのかというと、物語が進行する中で、未来から1984年にやって来た筈のカイル・リーフであるというパラドックスがある。

「ターミネーター・ジェネシス」では、そのパラドックスに真正面から挑んでおり、11歳ぐらいの少年でしかないカイル・リーフと、未来からやってきたカイル・リーフとが同時に存在させている。未来からやってきた男であるカイル・リーフと、サラ・コナーの間に情愛が芽生え、性交が行なわれ、カイルは死んでしまうが、カイルの残した一粒種がサラ・コナーが産み落とすジョン・コナーである。第一作目のサラ・コナーはカイル・リーフとの間に愛情が芽生え、そのベッドシーンまでもがあった事に改めて気付かされましたが、そういうシナリオだったんですね。で、第4作目となる「ジェネシス」になると、そこを遊んでいる。サラ・コナーとカイル・リーフとの相性はイマイチである。

やはり、牘震伸瓩箸いγ姥譴映画の要所、要所に出てきますね…。基本的に映画「ターミネーター」の世界では「運命は変えることができる」が結論になるものの、それでいて、サラ・コナーに対しては「君が生き延びねば未来が大変な異なる」という圧力がかかるので、サラ・コナーは運命に縛られながら生きている。

人類の未来の為なら自らの運命を捧げることが可能なのか?

人類の未来の為なら自らの命を犠牲に払うことも厭わないのか?

人類の未来の為なら少しばかり不都合な人たちの人命を犠牲にする事に躊躇はないのか?

そんな事までもを考えさせるような、つくりになっている。老いぼれたアーノルド・シュワルツェネッガーが、老いぼれた姿のままで、「古いがポンコツではない!」と自身を説明する老いたターミネーターがジェネシスでは活躍しますが、「ああ、やはり、この映画はシュワルツェネッガーじゃないと成立しない映画なのだな」と気付かされると同時に、感心もしました。


先ほど、テレビで視聴していた宇多田ヒカルの新曲の歌い出しは「運命」であった。また、昨夜、テレビ東京で放送されていた池上彰さんの番組ではポル・ポトが取り上げられいましたが、それは昇進的共産主義の残した粛正の痕跡を取り上げていた。ブログで一昨日前まで取り上げていたロシア革命のその後も、ポル・ポトの話とは似ている。理想の国を実現せんと強制移住させ、そして反乱分子を粛清したり、不要と判断した者を大量虐殺する。何故、そういう事を起こるのかというと、結局はターミネーターに描かれたストーリーと同じで、その者の考えるところの正義(合理的である事)、知能の高い者が知能の低い者を支配する事が許されているという正義感に基づいて、その一連が編まれている事に気付く。

「これがアイツら、敗北者の運命なのさ」

という考え方を徹底すれば、おそらくは大量虐殺のようなことでも正当化できてしまう。オレが殺したのではない、あいつは敗者として死ぬ運命にあったのだ的な。しかし、これは人為的な価値観を過剰に反映させての運命論なんでしょうねぇ。

放っておいても死ぬのだろうから、何も殺す必要性はないだろうという類いの無為自然の境地からの言葉ではない。ホントは自らを利す為の選択なのに、そこを覆い隠す為に運命という言葉を使用している。

運命ってのは、その人がその人の人生を語って「私の運命」というのであれば、違和感がないのですが、他人の運命を語るというのは、結構、違和感があるものかもね。



ussyassya at 22:44|この記事のURLComments(0)世迷い言 

2018年09月16日

ロシア革命という神話〜18

◆十月革命前の混乱

コルニーロフの一件が終わった後、コルニーロフを支持していたカデットの信用は失墜する。元々、カデットは市民階級の自由主義者を支持基盤としていたが、事態が目まぐるしく展開する過程でカデットは反革命(反動保守)のポジションを採り、コルニーロフの独裁体制を支援していた事になるので必然といえば必然であったよう。また、カデットの場合は都市部の市民階級と農村部の地主に支えられていた事からすると、カデットの支持層の既得権に忠実ではあった事になる。

コルニーロフ支持に回っていたカデットを、引き続き政権に残すべきか否かという問題が起こる。エスエルとメンシェビキからは猛反対を受けるが、ケレンスキーは臨時政府を立て直す為の第三次ケレンスキー内閣の組閣でもカデットから3名もの大臣を選出した。カデットを外してしまうとケレンスキー内閣そのものが維持できない状態であったという。ボルシェビキは内閣には参加しない方針で、ソビエト(評議会)を掌握していた。

そして、コロニーロフ反乱で明らかになってしまった事実は、ソビエト(評議会)というものの存在感と、その組織力の実効性であった。コルニーロフの反乱を阻止した最大の立役者はソビエトが設置した人民闘争会議であり、つまり、ソビエトの指揮の下、実際に労働者も兵士も動かせるという現実であった。ケレンスキーの第三次内閣が倒れたときは、ボルシェビキが強い影響力を誇っているソビエト(評議会)が権力を掌握する事になるという構図が生まれる。


「ソビエトに全権を」と「プロレタリアート革命」が、目の前に迫っていた。

七月危機の際、エスエルの指導者チェルノフがクロンシタットの水兵らを落ち着かせんと演説していた際、

「権力を握れよ、この野郎! 権力は、あんたの目の前に差し出されているんだぞ!」

という野次が飛んだが、その状況がボルシェビキに生じることになった。

レーニンは機を逃すことなく、武装蜂起に向けての準備を支持し、トロツキーもレーニンの意を酌んど虎視眈々と、その時を待つことになった。

武装蜂起を決意したレーニンであったが、今度はボルシェビキ内では意見が割れることになった。カーメネフとジノヴィエフが反対の姿勢を表明し、カーメネフに到ってはボリシェビキとは少し路線が異なる作家ゴーリキーが主宰する新聞紙面でボルシェビキの武装蜂起問題について寄稿。明確にボリシェビキが武装蜂起をする事を記していないものの、内容はそれを示唆しており、カーメネフとジノヴィエフは「武装蜂起に賛成しない」という内容であった。自ずと、それはボリシェビキの内部では武装蜂起のタイミングが図られている事を、公言してしまうような内容でもあった。レーニンは激怒したが、カーメネフとジノヴィエフは、オールド・ボルシェビキであり、古くから革命運動をしてきた同志であったが、最後の一歩で対立する事となった。

レーニンは「カーメネフとジノヴィエフを党から除名せよ」という要求を出した。それを知ったスターリンはレーニンへの抗議として編集委員を辞任すると宣言。ボリシェビキ中央委員会は、カーメネフとジノヴィエフの除名要求を受け入れず、且つ、スターリンの編集委員辞任も受け入れないという裁定とした。

軍事革命委員会はトロツキーの指揮の下にある着々と武装蜂起の時を待った。



◆十月革命

10月19日、ペトロパヴロフスク要塞では、ボルシェビキの蜂起を警戒して、デモ反対の決議が可決された。戦略上、このペトロパブロフスク要塞は蜂起には欠かす事のできない拠点であり、軍事革命委員会には暗雲が立ち込めた。

10月22日、この日は日曜日で「ペトログラード・ソビエトの日」であった。この日はモスクワがナポレオン・ボナパルドの支配から解放された105周年記念日であり、各地で社会主義者たちがイベントを開催していた。ボルシェビキの面々もトロツキー、ラスコーリニコフ、コロンタイらが群衆の前で扇動的な演説をした。トロツキーの演説は、その場を恍惚に似た雰囲気をつくり出し、歓声と拍手が沸き上がったという。

10月23日、ペトログラードの守備に当たっている革命守備隊は軍事革命委員会に統合するという宣言が公示される。軍事革命委員会はトロツキーが掌握している事から事実上、軍事革命委員会がペトログラードに於ける兵士を動かせる事を意味していた。

また、この日、蜂起する方針に反対しているペトロパヴロフスク要塞で公開討論会が企画された。ペトロパヴロフスク要塞内では右派エスエルやメンシェビキの指針が影響力を持っていたが、そこへ軍事革命委員会=ボルシェビキが乗り込み、兵士たちに公開する形式の議論を何時間も続けたという。その席に、大歓声の中、トロツキーが演壇に登って演説し、兵士らを熱狂させたという。午後8時過ぎから票決となり、兵士らの大多数が軍事革命委員会への支持を表明。こうしてペトロパヴロフスク要塞はトロツキーの軍事革命委員会の手中に落ちた。このペトロパヴロフスク要塞の大砲は、タヴリーダ宮の方角に向けられた。

この23日の夜、ケレンスキーの臨時政府は、軍事革命委員会に、統合の宣言を撤回するよう働きかけを始める。更に、撤回に応じない場合は政府が撤回する旨、通牒した。

日付が変わって24日の午前2時半、反革命軍がタヴリーダ宮の守備に集まってきた。士官候補生たち。女性兵士によって形成されている「死の大隊」、パヴロフスクの騎馬砲兵中退、古参兵によって組織されているライフル連隊、当時は機動力が期待されていたという自転車連隊、寄せ集めのコサックたち。それとユンカー学校生の分遣隊が2,3隊。

ケレンスキーの臨時政府は集まって来た兵力を再配分し、前線の部隊をも呼び寄せて蜂起に備えるという体制を整えた。

どちらが先に手を出すのかという均衡状態は24日夜明け前に破られた。先に動いたのはケレンスキーであり、ボルシェビキ系列の新聞を印刷している印刷所を民警・士官候補生らを送り込んで封鎖。更に新聞数千部を破棄の上、設備を破壊した。

24日午後、ケレンスキーは宮殿へと続いている幾つかの橋を跳ね上げた。宮殿に入るルートを制限したもので、この対処によって宮殿に入るには臨時政府軍が待ち構えている宮殿橋一つとなった。

午後4時頃、臨時政府軍陣営であった自転車連隊が、持ち場を放棄した。また、臨時政府への忠節のある士官候補生らの砲兵隊は怒れる大群衆と対峙、そのまま屈した。

女性兵士によって編成されている死の大隊も、持ち場へついてみると、ペトロパヴロフスク要塞の機関銃の射程に捉えられていることに気付き、足を止めた。

しかし、宮殿橋では依然として士官候補生と、死の大隊が踏みとどまって警固を保った。


トロツキーは積極的な攻撃はせずに、防衛戦で政府を陥落させようとしていた。しかし、レーニンは時間をかける戦術よりも、積極的な武力行使を断行すべしと焦れていた。

焦れたレーニンはフィンランドのヴィボルグ地区に潜伏していたが、顔に包帯を巻きつけるという雑な変装をしてペトログラードへ向かった。フィンランド人女性のエイノ・ラーヤと共に路面電車に揺られ、フィンランド駅近くでは臨時政府側の騎馬兵に出くわしたが気付かれることはなかった。この頃までには既にレーニンは世界で最も有名な革命家になっていたが、その姿はケガをして包帯を巻いている酔っ払いとしか映らなかった。深夜零時近くにレーニンとラーヤの二人はスモーリヌイ女学院に辿り着いた。スモーリヌイ女学院にやってきたレーニンは、「早く権力を奪取すべきだ」と二時間近く、しゃべり続けたという。

25日、午前3時。思うように守備が出来ていない事に気付いたケレンスキーは自ら参謀本部に駆け込んだ。

25日、午前3時半。巨大な船影がネヴァ川に現れた。装甲巡洋艦アヴローラ(オーロラ号)であった。巨大な砲塔を有する巨艦アヴローラの探照灯が暗闇の中、タヴリーダ宮へと進んでいた。アヴローラは急進派の水兵たちが操縦していたが、その姿は圧巻であった。アヴローラに気付いた士官候補生たちは度肝を抜かれ、持ち場を放棄して逃げ出した。

25日午前9時、トロツキーは封鎖された印刷所を開放する事は攻撃には当たらず、防衛と判断し、兵隊を派遣。封鎖されていた印刷所は流血沙汰もなく解放された。

クロンシタットの荒くれ者の水兵らによる小艦隊が到着。ヘルシンキからは駆逐艦5隻、巡視艇1艇が到着。

25日午前11時頃、ケレンスキーはアメリカ大使館に助けを求めていたらしく、アメリカ大使館に外交官用のナンバープレートをつけた自動車を手配するように懇願、この25日午前11時頃、ケレンスキーは宮殿からの脱出に成功する。

25日午後2時35分頃、トロツキーがペトログラード・ソビエトの緊急会議の席で、

「軍事革命委員会に変わって私は臨時政府がもはや存在しないことを宣言する」

と発表する。

ケレンスキーが逃亡した後も臨時政府は継続しており、急遽、カデットのキシキンに独裁的指導権を与えた。これが午後4時。

しかし、その後も軍事革命委員会による攻囲が続き、士官候補生やコサックの離脱が続いた。

25日午後9時40分、ついに装甲巡洋艦アヴローラが発砲の時が訪れた。一発目は空砲であったが、その空砲が魔都ペトログラードの大地を震わせた。見物人たちが尻餅をつくような大轟音だったという。

その後、数発の実包も装甲巡洋艦アヴローラは宮殿に打ち込んだ。アヴローラの艦砲の精度は低く、宮殿を破壊するレベルではなかったが、臨時政府軍と軍事革命委員会との対決、その雌雄が決する象徴となった。

26日午前2時頃、軍事革命委員会軍が大挙して宮殿に侵入。ここまでの間、マルトフらによって臨時政府の大臣らを逮捕すべきではないという主張が為されたが、宮殿侵入はレーニン、トロツキーの強い意志によるものであったという。

臨時政府は即座に投降を決意した。僅か10時間ばかり独裁権を握ったキシキンは、外套を置き、テーブルの前に座って、敵軍のやってくるのを静かに待つという決断を下した。

雪崩れ込んできた赤衛隊は、既にケレンスキーが逃亡していた事を知って、激昂した。

26日午前2時10分、臨時政府の大臣らは軍事革命委員会によって逮捕されて、このロシア革命は幕を閉じた。

ケレンスキーは最初はフランスに亡命。その後、1940年にアメリカへと拠点を移し、1970年に89歳でニューヨークで没した。


参考文献:チャイナ・ミエビル著・松岡正剛訳『オクトーバー』(筑摩書房)、池田嘉郎著『ロシア革命』(岩波新書)、ジャイルズ・ミルトン著・築地誠子訳『レーニン対イギリス秘密情報部』(原書房)、『FOR BEGINERS レーニン』(現代書館)、『FOR BEGINERS トロツキー』(現代書館)ほか。

2018年09月15日

ロシア革命という神話〜17

◆ケレンスキー対コルニーロフ編

7月にロシアの対ドイツ戦を展開していた西部戦線は総崩れとなったが、そこで前線を堅持していたのがコルニーロフ第八軍司令官であった。コルニーロフは逃亡する兵士には政府の許諾を受けることもなく銃火を浴びせ、戦線を堅持していた。逃亡兵を銃撃した事を意味しているが、これは事後、臨時政府にも認められ、ケレンスキー首相によってコルニーロフは西南方面軍最高司令官を任命された。このコルニーロフをケレンスキーに売り込んだのは、「ロープシン」のペンネームで作家活動をしていたエスエル戦闘団の元テロリストであるボリス・サヴィンコフであった。

七月危機の後、ケレンスキーは軍部と対立し、次にはコルニーロフを最高司令官に昇格させようとするが、ここでコルニーロフとケレンスキーとの間にも軋轢が発生した。コルニーロフは、最高司令官を受ける見返りとして、作戦司令および指揮官人事権を専権とする事を要求。更には前線部隊だけではなく後方部隊にあっても軍紀を立て直す為、兵士による反逆行為、戦闘拒否、脱走に対しては銃殺刑を認めるように要求した。(元々、あったが廃止されていた。)

斯くして、臨時政府はケレンスキーを首相に、軍事についてはコルニーロフ最高司令官という体制とし、連立体制で臨時政府を維持した。しかし、コルニーロフは後方の支援部隊を立て直す為に、鉄道や工場にも綱紀粛正の必要性を問い出して、臨時政府を悩ませた。兵站が伸び切ってしまっていることが問題であったのは確かであったが、既にロシア国内では鉄道や工場の労働者らには民主主義や社会主義といった民衆運動が浸透しており、刺激してしまう可能性があった。

市民階級からなるカデット(立憲民主党)はコルニーロフを頼りにしており、コルニーロフを独裁者ならぬ「独裁官」として容認する態度をとった。しかし、ソビエト(評議会)では死刑廃止がエスエル党らの支持によって可決しており、臨時政府は板挟みとなる。

更に、このケレンスキーとコルニーロフとの関係はギクシャクとする。仲介を挟んで連絡を取り合っているものの、コルニーロフはペトログラードに戒厳令を布き、すべての権力を最高司令官たる自分に集中させることを要求する。ケレンスキーはコルニーロフの野心に辟易とし、コルニーロフの最高司令官職を解く、つまり、解任の命令を出した。しかし、軍部はコルニーロフを支持していたし、カデットもコルニーロフを支持していた。ケレンスキーはというと「ロシアを立て直す救世主」と目され、絶大な人気を誇っていたが、この頃までには人気は凋落しており、辛うじてソビエト(評議会)がケレンスキーを支えているという状態であった。

また、七月危機の後、臨時政府はカーメネフ、コロンタイらのボルシェビキ指導者を逮捕したものの、そうするとボルシェビキ支持者らによってデモを起こされてしまうのが実情であった。レーニンはというと七月危機の際に「ドイツのスパイ説」が流布した事もあり、変装してフィンランドへと逃れていた。しかし、ボルシェビキやアナーキストが再びデモや本格的な蜂起をしないとも限らない。それを見越してコルニーロフはペトログラードに戒厳令をと要求している。しかし、そのコルニーロフにしても騎兵隊をペトログラードに入れるように要求している等、ケレンスキー臨時政府首相の立場からすると、疑心暗鬼にならざるを得ないような状況でもあり、ケレンスキーは、コルニーロフに対して強い警戒心を抱かざるを得なかった。

また、この頃、ソビエト(評議会)も拠点をスモーリヌイ地区になるスモーリヌイ女学院へと移した。元々は教会であったが貴族の子女の教育施設として使用されていた建物であった。


ケレンスキーとコルニーロフとの関係は、事実関係がどうなのかも分からない状態ながらコルニーロフが全権を要求した事は事実であったらしく、疑心暗鬼であったケレンスキーは途中でコルニーロフの野心を確信して戦闘開始を宣言。一方のコルニーロフは臨時政府に対しての宣戦を布告するという事態へと発展する。ケレンスキーは事前にサヴィンコフにクーデターに対しての軍事的準備を命令しており、一方のコルニーロフは第三師団に対して首都ペトログラードの占領を命じていた。

8月27日、ソビエト執行委員会ではケレンスキーは問題があるが守らねばならない存在であるという意見が優勢であった。最終的にソビエト執行委員会はケレンスキー支持を打ち出すことになる。ソビエト(評議会)の動向は大きかった。

また、ソビエトでは労働者たちを一夜にして労働者民警に武装させてしまう手法を採られた。これは金属工などの職人らに民警(民間警察)を執り行なわせていたが、その4万人を武装させて軍隊に仕立ててしまうものであった。赤衛隊。そこで組織された軍隊の参加者の中には作業服のものもあったし、冠婚葬祭用の一張羅の背広を着て来るような者もあったが、彼等にライフル銃を持たせ簡単な軍事訓練を施し、配備した。

ペトログラード市内では、士官候補生らの大半はコルニーロフ支援であったという。コサック兵団は中立という態度を打ち出し、ケレンスキー軍ともコルニーロフ軍とも戦わないという方針を掲げていたという。

8月28日、コルニーロフ軍の第一ドン・コサック連隊はルーガに到達、守備隊を降伏させる。ソビエト(評議会)はパニックとなった。また、コルニーロフ、ケレンスキーの両方に批判的であったボルシェビキにも動揺が広がる。コルニーロフ軍による反動クーデターを認めてしまえば、革命は押し返されることになってしまうので、ケレンスキー臨時政府を支援せざるを得なかったが、内情としては日和見していたのが真実であるという。

斯くして、内乱状態となったが、そこで威力を機能したのはソビエト(評議会)であった。臨時政府も、或いはボルシェビキを含めて各政党も無力であったが、ソビエト傘下の全ロシア労兵ソビエト中央執行委員会とペトログラード・ソビエトとが首都防衛を目的にして「人民闘争委員会」という器を設置すると、そこにエスエル、メンシェビキ、日和見していたボルシェビキも結集した。労働者や一兵卒の兵士を束ねているソビエト(評議会)という機構は、実際に実効力を有する機構であったことの証明になるかも知れない。

武装した労働者たちが道路をバリケードをつくって封鎖した。街に通じる道路に溝を掘り、有刺鉄線を張り巡らせた。また、革命思想の労働者の多いペトログラードのヴィボルグ地区では、従おうとしない数人の将校が殺害される事件が発生し、ヘルシンキ(ヘルシングフォルス)では軍艦の乗組員がコルニーロフ側の態度をとった将校に対して処刑を可決する裁判などをした。

コルニーロフ軍は各地で動き出していたが、評議会ソビエトの指揮系統によって鉄道労働者らが線路を破壊したり、障害物を置くなどの妨害工作をした為、鉄道を利用して兵士らを輸送しようとしてちあコルニーロフ軍は、各地で足止めに遭い、分断された。コルニーロフ軍のウスリースキー・コサック騎士兵団は足止めを食らい、コルニーロフ軍の精鋭からなる野蛮師団はペトログラードまで60キロという地点で、やはり、足止めを食らった。

8月29日、ペトログラード・ソビエトの2万強の兵士がルーガに押し寄せ、前日、降伏させられた第一ドン・コサック連隊を逆に包囲。この第一ドン・コサック連隊にはコルニーロフの片腕のクレイモフが居たが、ケレンスキーはクレイモフに「あなたの軍団はもう必要ない」と打電。列車に閉じ込められている形の第一ドン・コサック連隊の兵士に対して、守備隊は列車を取り囲むようにしてぐるぐると周回しながら街頭演説をし、兵士の士気を削ぎにかかった。クレイモフに対しては、コルニーロフから、首都ペトログラードまで突破するように命令されていたが、二万強のルーガの守備隊を突破できる筈もなかった。

8月30日、コルニーロフ軍の精鋭部隊として編制され、ヴィリツアで足止めされていた野蛮師団がソビエトに屈して、赤旗を掲げる。ヤムブルクで足止めを食らっていたウスリースキー・コサック騎兵師団も臨時政府に従がうことを受諾。デニーキン将軍は部下によって幽閉される。

決戦の場となったルーガでも、ソビエト兵に包囲され続けたドン・コサック連隊内で、「クレイモフを逮捕する」等の不穏な呟きが洩れ始める。

この30日の午後、ケレンスキーはクレイモフの身の安全を保障した上で、ペトログラードに招くという手法を採った。承諾したクレイモフは、この31日の夜、ペトログラード入りを果たし、翌31日の朝からケレンスキーとクレイモフとの会談が持たれた。ケレンスキーが何か厳しい要求を突き付けたが、クレイモフは、その要求を拒否したものと予測されているという。クレイモフは、次にも会見の席を設けるという事に同意し、友人のアパートへと引き取る事とし、その友人のアパートの一室で自らの心臓を拳銃で撃ち抜き、自殺を遂げた。

コルニーロフ軍、完全壊滅――。

9月2日、コルニーロフ将軍、逮捕される。


コルニーロフ・ラーブル(1870〜1918)

2018年09月14日

暴排条例の問題

週刊新潮9月20日号では特集記事という扱いで、『「暴力団」の「銀行口座」強制解約は正義か』という記事が掲載されている。或る意味では時代に逆行しているとも受け止められかねない内容でもあるのですが、或る意味では非常に新潮誌の特色が現われているような印象もあります。

9月4日、読売新聞朝刊では「暴力団口座 59行が解約1300件 排除条項遡り適用」、「暴力団資金 締め出し 銀行口座 合意なくても解約」等の記事が掲載されたという。それは暴力団関係者が新規で銀行口座を開設できないというのではなく、既存の口座も解約が進められている事を意味しているという。これ、法令などを目に通すと「遡って適用」なんてのは法治主義者の得意ワザ。しかし、これが曲者で「過去に遡って現法を適用する」という文脈が如何に矛盾であるのかは、パール判事の件などからも想像がつくところですやね。現在の法律によって過去をも裁くという意味合いも含まれている。

暴力団事情に詳しい作家の溝口敦氏に拠れば、この暴排条例によって、上納金の送金が出来なくなってしまった為に現金書留によって上納金を納めている組長なんてのも登場しているという。また、かつては権力機構と仲良しこよしであった筈の暴力団なのですが、現在ともなる権力機構は暴力団壊滅に舵を切っており、暴排条例では世論の後押しを受けて徹底した暴力団排除を正義としているが、この銀行口座の解約については、ヤクザ本人の銀行口座だけではなく、組員の妻や子供の銀行口座まで解約させてしまっている事を、元山口組の顧問弁護士をし、映画化された「悲しきヒットマン」の原作者でもある作家の山之内幸雄氏が指摘している。

どうにも現在、暴力団員は上京してホテルに泊まろうにもホテルに泊まることはできず、且つ、不動産契約や携帯電話の契約までもを暴排条例で禁止してしまっているのが現実であるという。しかも、その契約NGは暴力団を辞めた後も5年間は諸々の契約ができないので、暴力団の将来を見限って抜けたとしても生きて行けない状態であるという。

それを受けて溝口敦氏が、次のようなコメントが掲載されている。

「暴力団を抜けても、5年は暴排条例に縛られるので、辞めてもまともな仕事に就くことが難しく、更生の妨げになっている。本来、暴排条例は暴力団の活動を制限することが目的のはずです。暴排条例のせいで、辞めた後に生きていくことが難しくなっており、矛盾していると言わざるを得ません」

――と。更に後段では「暴排条例や条項は生活権を含む暴力団員の基本的人権を侵害して」とまで指摘している。

この結果、以前から指摘されていた通り、半グレと呼ばれる勢力による組織犯罪が近年、増加しているのだという。暴力団が衰退すれば犯罪は地下マフィア化してゆくであろうという、それですね。実際に、ここ数年、組織犯罪の犯罪件数中では、暴力団が得意にしていた恐喝が減少しているのに対して、オレオレ詐欺などの詐欺が増えている事を指摘している。

この問題は、日本人であれば多くの者が考えた箏のある問題ではないかと思う。先ず、入口として、何故、日本には公然と看板を掲げ、金バッヂを胸元に光らせている暴力団が堂々と存在しているのかという問題がある。それは反社会的勢力としての暴力団なのであるから、それが存在している事からして間違っている、と。

そこから思考回線からすれば、現行の暴排条例に賛同する心性というのは「存在からして反社なのだから断乎、殲滅すべきである」という文脈になる。しかし、日本という国に現存している暴力団・ヤクザの起源などについては、中々、考える機会が少ない。それこそ、昭和30年代後半から50年頃まではヤクザ映画という分野が堂々と娯楽作品として人気を博していたという現実があるのだ。中々、掘り下げる機会が少ないテーマですが、おそらくは犂虧鬮瓩慮桐でしょうねぇ。これは西洋のマフィアと同じであり、顔役が顔役として機能する。何か不祥事があった際には「ワシの顔を立ててくれまへんか?」という、それによって事態を鎮静化する効果がある。

また、権力機構と仲良しこよしであったというのは、実は暴力装置としての機能を日本は近年まで必要としていたからでしょう。資本家や権力機構からすると、その非合法な暴力装置たる暴力団の存在は、不都合な事実、不祥事を解決するのに重宝していたのだ。労働争議などがあれば、暴力団にカネを払って労働争議を武力でもって抑え込んできたし、炭鉱労働者や港湾の荷受け業務、或いは土建業に従事する肉体労働者の管理には、暴力装置としての実効能力を有するそれが重宝されてきたという厳然たる事実を見い出せてしまう。芸能・興行も同じですね。言ってしまえば、大してモラルの高い国民性というものでもなかったのかも知れない。

で、週刊新潮らしい記事だなと感じたのは、現行の主流な世論とは「存在が悪なのだから殲滅して然るべきである。暴力団を排除する為であれば基本的人権や生存権を無視する事も許される」という、都合のいい文脈の解釈に書き換えられている事でしょうか。法哲学に沿った法治主義なのではなく、その都度、或る種のプロパガンダによって正義をつくり出し、その法治主義の美名の下に恣意的な法解釈が許されてしまっている法治国家という事なんでしょうかねぇ。

暴力団が無くなったとしても組織犯罪そのものを撲滅・殲滅することは不可能であり、今後は組織犯罪は諸外国のようにアンダーグラウンド化していく事が予想されるが、そうなると統制のとれない半グレ集団たちによる薬物売買が諸外国並みの水準になることが予想される――と。

「反社、許すまじ!」という二元論的思考によって、反社に対しては如何なる手段も許されて然るべきであるという世論になっている。なので暴排条例に係る人権問題は恣意的に見過ごされているが、その先に訪れるのは「治安のいい日本」、「治安のいい社会」とは実は考えにくい?!


しかし、確かに、暴力団組員が一般人になったとして、ケータイの契約も不動産契約も民間保険会社との契約もNG、更には本人・家族の銀行口座までもを解約させているという状態で、どうやって元暴力団員が生活してゆくことができるのか、気になるといえば気になる。サラリーマンにはなれないだろうから、うどん店などを開業するというものの、うどん店の経営をするにも各種の契約は必須でしょうからねぇ。

因みに、ボクシング連盟はカリスマ山根氏が辞めて新会長体制へ移行。しかし、新会長は2015年に強要・恐喝等の容疑で逮捕され、懲役1年6ヶ月執行猶予3年の前科があることを自ら告白。透明性は確保されたのかも知れませんが、これがその組織の実情ってことなんだろうね。

2018年09月13日

孤独と暴力と白痴化

チャンネルNECOにて「その夜の侍」を視聴していて気付いてしまったんですが、もう、これは作り手も演じ手も、あの感じを分かっているという事だよなと合点する事となりました。

簡単な粗筋は、妻を轢き逃げされた男が5年後の妻の命日に、その轢き逃げ犯を殺害に行くと脅迫状を送り付けており、果たして復讐殺人に及ぶのか及ばないのかを描いた作品。復讐を誓う主役に堺雅人、轢き逃げ犯に山田孝之、その相棒に綾野剛という布陣。他に安藤サクラ、新井浩文、田口トモロヲ、谷村美月。如何にも今の日本映画を代表しているようなキャスティングでしたが、改めてチェックしてみると2012年の作品でした。

冒頭から、実は山口光市母子殺人事件がモチーフなのだろうなと考えながら視聴したものの、轢き逃げ事件になると少しニュアンスが食い違う。とはいえ、人を殺しておいて反省もしない犯人を赦すことができないという、その構図は、どこかしら光市殺人事件を想起せずには要られませんでした。よくよく考えてみると、犯罪被害者の遺族が抱える心の傷というのは大きい事が予想できる。ただただ時間が経過して憎悪などの感情が薄れてゆけばいいのですが、遺族である場合、その事件によって人生が変わってしまうワケですね。そんな事件、事故さえなかれば別の人生になったであろうに、その事件・事故に遭って家族や愛する者を奪われてしまったという場合、人生そのものが狂ってしまう。光市母子殺人事件の場合は、率直に、妻と子を殺害された夫が犯人に対して「この手で殺してやりたい」と感情を吐露した事があって、それは非常に印象的な出来事であったと思う。

堺雅人演じる主人公の場合は、最初からやや内向的な人物として描かれているから、事件後に特に性格的な変化があったようには見えない。そこは目立たない。ただただ、轢き逃げ犯に「あなたを殺して自分も死にます」という手紙を、一日も欠かすことなく、郵送で送りつけていると説明される。最早、復讐殺人をする為に生きているという状態である。

山田孝之演じる轢き逃げ犯、その周辺の描写に実は小さな驚きました。セリフそのものが空疎で幼稚であり、どこか白痴的なんですね。。。。で、これ、実生活の中でも、そういう人と対峙したり、傍観したりした経験がある。非常につまらない事に「ぎゃはははは」と大声を立てて笑い、勘違いしたままに相手に怒りを叩きつけたりするという、そういう人。まるで彼は人種が違うのではないかと感じてしまうほど、物事の考え方、捉え方が異なる。そして、どうも気分に左右されるセリフだから白痴的なんですね。殺すか殺さないかという会話の最中に「あー、もう飽きた」とか「あー、もう疲れた」等、そういう気分に左右される暴君。ちょっと頭のイカレてる暴君を山田孝之が演じている。これは「闇金ウシジマくん」の山田孝之とは異なる暴君の図なのだ。

道路で通行止めの案内をしている警備員は小柄な女性(谷村美月)である。当初、山田孝之演じるヤンキーは、通行止めに対して、「なんで通行止めなんだよ!」のようにクレームをつけている。そんなの応じようはない。その内、その女警備員の財布が落ちている事に気付くと、その財布を拾いあげる。

「おー、ラッキー。このカネでサウナの後、魚民に行ってちょっとはゼイタクが出来るぜ!」

というノリである。対して、女警備員は

「それは私の財布です」

のようにビビりながら主張するが、ヤンキーは

「お前の財布だって証拠はあんのかよ?」

のように詰問する。更には、

「結構、持ってるじゃん」

のように財布の中身の話となる。すると女警備員は

「今日は国道沿いにある家具屋さんへ行ってソファーを買う予定だから、偶々、多めに入っているんです。その家具屋さんに可愛い黄色いソファーがあって、今日、このバイトが終わったら…」

のように、明らかに蛇足と思われる事を喋り出す。どこかしら頭が弱い人たち同士の会話のように聞こえる演出になっているのだ。しかも、

「あー、セックスしてぇ。オレ、あっちの便所で待っているから、ついて来いよ。これが、どういう意味か、分かってるよな。ちゃんと財布、返してやっから。」

と言われると、その女警備員は自らヤンキーの後をついていってしまう。財布なんて諦めて逃亡しようと思えば逃亡できるのに、ノコノコとついていってしまう女。また、逃亡して警察に通報される可能性があるのに、そういう状況を考えず、自分の脅迫は絶対に通用すると信じている、その底辺な人たちの不思議なコミュニケーション回路が描かれているのだ。

殺す、殺さないと山林でリンチをし、生き埋めにすべく、穴を掘っている。しかし、そんな最中にも、山田孝之演じる轢き逃げ犯ヤンキーは

「あー、なんだかウンコしたくなっちった」

といって、どこかへ行ってしまい、戻って来たと思ったら、

「あー、なんだか今日は、もう疲れたワ。後は任せるワ」

といって帰ってしまう。その杜撰で雑で、投げやりな感じ。

そして、復讐殺人決行の日までが描かれていたのですが、そこで生活スタイルが既に破綻している現代人にクローズアップしたかのようなつくりになっていました。毎日のように朝食はなし、昼食はセブンイレブンのサンドイッチと蕎麦、夕食は牛丼の松屋か居酒屋の魚民。その繰り返しで生活しているのが轢き逃げ犯の正体である。一方の、復讐殺人を決行する側も似たような食生活であり、スーパーで買ったプリンの大量食いばかりをしている。

殺人決行の前夜、主人公はホテトル嬢を買う。しかし、一向に起つ気配はない。安藤サクラ演じるホテトル嬢は、淡々とカラオケに興じている。主人公は人間的な会話を求めて、

「どんなテレビをみたとか、どんな食べ物が好きだとか、他愛ない日常会話をしてくれ」

と懇願するが、全く会話は噛み合わない。ここでの安藤サクラの演技もすさまじく、目が小さい人である。何を訴えかけても反応が薄い。会話は一向に弾む様子はなく、またホテトル嬢は一人でカラオケを入力し、一人で歌い出す。堺雅人演じる主人公は半泣きで問い掛ける。

「君は、なんで、こういう仕事をしているの?」

すると、首をかしげたくなるレベルで一人カラオケに興じている小さな目のホテトル嬢が返す。

「暇だから。他にやることがないから」

ああ、これを描きたかったのか…と、気付かれる羽目になりました。このブログでも現在の消費社会について「廃人製造社会」と捉える書籍を取り上げた事ありましたが、アレですね。スイーツなどがブームとなって都市部で流行を追う人たちは、スイーツを追い掛けている。しかし、実際には砂糖を丸かじりしているようなもので、結局は糖分をとる事で快楽を得ているだけで、実は麻薬中毒に似たオピオイド依存になっているという主旨であった。欲望を満たし、また欲望をエスカレートさせ、ただ、快楽の為の消費をして生きている。それだけ。そして社会全体も消費を拡大させる事を正しい事だと信じているから、快楽消費を推奨している。場合によっては公的資金を投入して、わざわざ依存型快楽消費社会の促進に手を貸している。そういう社会で生きている者の中には、無感動、無反応な者も多く、

「好きな食べ物は何なの? 好きな音楽は?」

といった他愛ない雑談、そうした会話が成立しない。彼等の目はリスかネズミか何か小動物の目のように黒目で占められているばかりで、キョトンとしている。