どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

惹句 DE JACK〜名言&迷言

第三次世界大戦にどんな武器が使われるかはわからない。
だが第四次世界大戦は、棒と石で戦うことになるだろう。

アルベルト・アインシュタイン

現在進行形で日本列島はクマの出没に悩まされている。クマが出没するので人に危害があってはならないとしてクマの駆除が行われている。当然といえば当然なのですが、駆除に対して市役所などにクレームの電話などが入り、市職員が忙殺されているといった話も数週間前まで報じられていた。おそらくクレームの中にも幅があり、「殺すのは可哀想だ。他に方法があるのではないか?」といった趣旨の抗議から、「なんでクマを殺すんだ。どうしてもクマを駆除するのであれば、素手でクマを駆除すべきだ」といった具合の抗議までもがあったという。

「アタマのおかしい人たちがクレームを入れているようだ」という具合に片付けるのは簡単なのですが、何故に、こういう現象が起こっているのかと考えるのも一興だ。やはり、どこかしらクマに対して我々は同情を寄せやすい原因でもあるのだろうか? 確かにクマが街中に出没するようになった問題の底には、人と自然との共生が破綻したという問題が転がっている。元々は原野であったような場所を文明を獲得したニンゲンが勝手に都市化してしまったというのも真実なので、ニンゲンの側に疾しさを感じる部分があるのかも知れない。その問題は「もののけ姫」的な表現を使えば、タタラとモノノケとの対立でもある。

既に「熊送り(イオマンテ)」に触れましたが、どうも本当に人類はクマを友人のように捉えて、共生してきた節がある。というのはスイスのアルプス山脈の一角にあるドラッヘンロッホの洞窟からはネアンデルタール人が祀ったと思われる、いくつものクマの頭蓋骨と大腿骨とが組み合わされた不思議なものが発見されたという。その遺物は頭蓋骨の口の中に大腿骨を差し込み、きちんと後ろになる骨のくぼみに嵌め込んだ形になり、それが並べられていたというのだ。その事から、ひょっとしたらイオマンテの風習を現世人類が継承しているが、そのクマを祀る儀式のようなものはネアンデルタール人にもあったのではないかと提唱している人物もあるという。

その昔、カール・セーガンは、我々が恐怖を感じるのは猛獣に追い駆けられたりして逃げた過去の記憶が現代人の脳にも影響しているので、我々は何かに追い駆けられるという怖い夢を見るのだという具合に説明した事があり、凡そは、そういった説明でも辻褄は合う訳です。進化の過程の中には、そんなものがあると考えられる。

「クマと素手で戦え」というのは勿論、暴論だ。勝てっこない。クマの一撃で顔面粉砕骨折したという人のレントゲン写真などもテレビニュースで紹介していた。しかし、そういう事を考える者がいるというのも事実だ。実は、その感覚の方が不思議ではないだろうか? クマは兎も角として、カンガルーぐらいなら素手で戦えよって思ってしまったりする。そういう感覚を実際に我々は有しているという事だ。

その話も出てくる。北方諸民族の狩人が熊を襲う場合、ねぐらで眠ったままのクマを殺す事はタブーで、クマを覚醒させてから攻撃を仕掛けるようなヒトとクマとの間の奇妙な密約みたいなものを発見できるという。これは、どういう心性なのか? 引用します。

あくまでも対等に向かいあって、納得してもらったうえで、動物が運命を受け入れてくれるように、説得を続けるのです。なんという心細やかな、卑怯なところの微塵もない、決闘の作法だったことでしょう。

このことは、武器の使用にとりわけはっきりあらわれています。なによりも熊のような動物に立ち向かうには、なんら心にやましいところのない武器をもって戦わねばなりません。新式の武器は、どれも疑惑の目で見られていました。鉄砲の使用は、ことに熊に関しては近代になってからも禁止している狩人たちが、数多くいました。伝統的な弓や矢を用いることが奨励されていましたし、なかには鉄の鏃(やじり)さえ禁じて、新石器時代のような石の鏃を用いなければいけないとしていた人々もいました。
(『カイエ・ソバージュ〈完全版〉』236頁)

この箇所も『ナパニュマ』に活写されていたヤノマミの戦士の像や、アルフォンソ・リンギスの著書『暴力と輝き』の内容と照応できなくもないように感じる。勿論、この感覚はナカザワも論じていますが武士道や騎士道にも踏襲されている感覚であり、対等な立場で殺し合いを演じる事に戦士は何がしかの〈輝き〉という一語に集約される「誇り」や「栄誉」で表現される何かを持っている。何故かフェアである事にやたらと固執したりする奇妙な回路を現に我々は持っているという事かも知れない。

凶暴なクマを相手に、狩るか狩られるかという危険な戦いをする。有効な武器があれば、その武器を使用したくなるのが人情というものだし、実際に私であれば確実に有効な武器を使用すべきだと考えると思う。しかし、そうする事に一抹の疚(やま)しさのようなものを感じる感覚があるのは何故だろうか?

(その昔、千葉県の鹿野山に寺で飼育していた虎が脱走してしまったという騒動があった。その際、アントニオ猪木とも後に対戦したウイリー・ウィリアムスという空手家が、その虎を素手で狩るべく鹿野山へ入った。当時、報知新聞の記事を目にして「な、な、なんだって!」と衝撃を受けた。今にして思えば、いわゆるメディア・ミックス戦術という名の在る種のプロモーションであった事にも気付く。しかし、当時は衝撃として受け止めたかな。その後に漫画『四角いジャングル』の単行本でも、その騒動が描かれた箇所を目にしたし、映像ソフト化された映画「四角いジャングル」でも確信はないけど、触れられていた気がする。)

「冬眠中のクマを攻撃するのは卑怯だ。覚醒させてから攻撃すべきだ」のような奇妙な意識を我々が持っているのは何故か?

このテの議論をナンセンスだと一蹴する者も少なくないだろうし、一蹴してしまったら一蹴してしまったで、その者は何ら一蹴した事に後ろめたさを持たないものかも知れない。しかし、そうではありませんやね。『カイエ・ソバージュ』では的確に、その部分を説明をしている。スペインの闘牛は、何故に、人々をあんなに熱狂させるのか――と、闘牛と結び付けて原理を解説している。実は、ただただ、猛獣と殺し合いを演じ、結果として勝利する事を目的にしているだけではない。その猛獣とヒトとの戦いは、いわば〈決闘〉なのであり、フェアでなければならない。それは神聖なる命と命との対決であり、そこにはフェアネスであらねばならない。そういう思考回路があるという事かも知れない。

そりゃ、そうでしょう。仮に闘牛場の闘牛を相手に勝ちたいからと言って、ロケットランチャー弾の乱れ打ちをし、それで圧勝したところで、そんなものは単なる動物虐待でしかない。襲い掛かってくる闘牛を相手にでも、ヤるかヤられるかのスリリングな対決があってこそ、そこに〈輝き〉が発生するのだ。

神の前の平等――。神概念といっても、その神の正体とは〈自然そのもの〉だ。狩るも狩られるも、自然界の掟であり、その命のやりとりの中に戦士たちは、力の均衡の中での公正な勝負を見出していたという事のよう。つまり、圧倒的な武力、勝利するのが当たり前であるという非対称な戦いについては「卑怯な行為だ」と感じていたという事になる。だから「冬眠中のクマを攻撃するのは卑怯だ」のような回路になるという訳です。

一度には論じ切れないので、非対称については別の機会に譲りますが、現在進行形で起こっている某所の軍事作戦も、その実力からすると実際には非対称な戦闘だという事になる。そこには、輝きを意味するアルフォンソ・リンギスが言うところの【splendor】が無い。

ナカザワは、そこでマルチン・ハイデガーを引用しながらテクノロジー論を展開させている。

テクノロジーの語源は、ギリシャ語の「テクネ―」ということばでしたが、このことばは「ポイエーシス」ということばと対比される意味を持っていました。「ポイエーシス」は自然に花が咲き出すように、自然が自分の中に隠している豊かなものを、外に持ち出してくることを言います。そういう「豊かなもの」に出会った人間は、それをまるで自然からの贈り物のように、少しも無理をすることなく手に入れることができます。

「テクネ―」の方は、それと違って、自然の中に隠されている豊かなものを、「挑発」によって立ち上がらせた上で、外に引っ張り出してこようとする行為を言います。

〜略〜

「ポイエーシス」は自発的で贈与的ですが、「テクネ―」は挑発的で、相手に義務を課すという意味では交換的です。

ハイデッガーは、近代に入ると技術が一気に「テクネ―」としての性格を強めて、自然をコミュニケーションの相手ではなく、「開発」のための対象物と見るようになってしまったことに、強い危機感を表明したのでした。科学的理解や産業開発のための対象物であるかぎり、自然は口を閉ざしたまま、人間に向かって自分を開いてくれません。
『カイエ・ソバージュ〈完全版〉』256頁

この引用箇所は、現在の世界にも大きく関係している。


さて、北方諸民族の狩人たちはクマを狩っていた。それはクマを殺して食べていたと同義である。殺すか殺されるかという殺し合いをしていたのだ。しかし、そこには世界観があった。北方諸民族の場合は夏の間は狩りはするが、冬には狩りをしてはならないという禁忌を持っていたという。何故なら、冬は自然霊たちが狩りをする順番だから――という世界観であったという。この部分は世界観と呼んでいますが同時に死生観であり、神概念でもある。

イオマンテについては「熊神送り」とも呼ぶので、クマを神のように考えていた節も窺える。しかし、それも誤解の元であり、神そのものの正体は〈大自然そのもの〉とか「霊の世界」のようなものになる。丁寧に育てた子熊、場合によってはわざわざ母乳を与えて育てたりするようですが、それほど可愛がって育てたクマを、そのイオマンテの日には殺してしまう。しかし、その儀礼は「私たちはクマにこんなにも尽くしています」という事の証明であり、その殺したクマの霊が霊界へ行ってクマたちに「人間たちは、こんなにも私に尽くしてくれた」と話してくれることを期待して、そのような儀式をしているのだという。そこまで尽くしたのだから、また、クマは自然界からの恵みとして、また、狩人たちの前に姿を現わしてくれるという風に組み立てられるのだという。循環型の世界観。そして毛皮も骨も丁寧に扱うのは、その為だという。

クマを神として崇めているというよりも、クマもヒトもどちらの存在も自然界に生きる者同士であるという認識と解すべきであり、ヒトとクマとの間には友愛の情のようなものがあったのだろうと展開させている。そのように連想されるのは、北方諸民族の中の或る種族の伝承では、クマを狩った時、つまり、クマを殺した時の事ですが、クマは死滅したのではなく、クマは毛皮と肉を脱いで、ヒトと同じような姿になり、霊界へ去っていったと解釈していたらしい。
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イオマンテとはイヨマンテであり、「熊祭」や「熊神送り」を意味している。ブリタニカ国際大百科事典から【熊祭】を引くと、以下のように記されている。

熊を殺して行う宗教儀礼。北方諸民族の間で広く行われる。日本では本州中部以北の山村のまたぎの間でも行われるが、アイヌ民族が冬期1〜2月に行なってきた行事が名高い。アイヌ語ではイヨマンテ(熊送り)もしくはカムイヨマンテ(熊神送り)という。広義には山で捕獲した親熊の略式な祭りも含むが、普通は家々で飼育した子熊を殺し、その霊を水源の霊山にあるという「神の国」の父母のもとに送り返す祭りをいう。神の国から人間のもとへ肉や毛皮をもって客神として訪れる子熊神を一冬や二冬養育し、歓待したあと、幣(ぬさ)、しとぎ餅、干しざけなどをみやげとし、送詞を述べて送り返すのが祭りの本義である。

古関裕而が作曲した事でも知られる「イヨマンテの夜」は数年前のNHKの朝ドラが取り上げた事もあり、一時期よりも認知度は上がっているように感じている。歌では「かがり火」と唄われているが実際のイヨマンテは夜間には行われない等の各種の批判も目にしたりしますが、伊藤久男の「イヨマンテの夜」は確かに度肝を抜かれるド迫力を持っている。近年では、細川たかし、秋川雅史も唄っていますが、これもいずれ劣らず、聴きごたえがある。

しかし、習俗としてのイヨマンテ(イオマンテ)は、既に引用したブリタニカ国際大百科事典でも説明されている通り、実はアイヌ民族のみならず、日本の本州中部以北では行われていたらしい事が分かる。そればかりか「北方諸民族の間で広く行われる」と記されている通り、アイヌ人と日本人だけではなく、北方諸民族の間に共通しているのが熊神送りである。この事は、我々がNHKスペシャルが放送した「ヤノマミ」の映像で目撃した「精霊送り」とも性格が似ている事に気付かされる。ヤノマミ族の精霊送りは、産んだ赤ん坊をヤノマミ(ニンゲン)として育てるのか、それとも精霊の元へ送り返してしまうのかという判断をする習俗であった。男たちは締め出された空間で、女たちだけが集まり、その赤ん坊を精霊送りするかどうかを決定するという生々しい習俗であった。最終的な判断をするのは産み落とした母親であり、その母親が寝かせてある赤ん坊を踏みつける仕種をすると、その子は精霊送りとなる。赤ん坊はジャングルの中のシロアリの蟻塚に置かれ、赤ん坊が食い尽くされた頃になると蟻塚を燃やす。そして赤ん坊は精霊の元へ帰ったと認識する、という風習であった。

イオマンテの場合は、わざわざ子熊を1〜2年ほど育ててから、その熊神送りの日に熊を殺して、懇ろに熊送りするという。この辺りの感覚というのが現代人には残酷な風習としてしか感じる事が出来ない訳です。しかし、その部分にこそ、この習俗・風習の本質があるという。中沢新一著『カイエ・ソバージュ』の第二章「熊から王へ」で詳しく説明されていた。

カナダのユーコン川の近くに住むアタパスカン族に伝わっていた「熊と結婚した女の話」に分類される神話・民話が取り上げられている。「熊と結婚した女の話」は北西海岸インディアンからベーリング海峡を越えてチュクチ族やコリャーク族などにも広範囲で語られている民話であるという。人類がアメリカ大陸へ渡ったのは、おおまかには三波、三つの波があったと考えられるそうで、最も古い波が古モンゴロイドだそうで、その古モンゴロイドと推定される人たちの間に分布しているのが「熊と結婚した女の話」という事になる。

まだまだ、最新情報の話を付け加えると、縄文人のDNAはアイヌ人の7割ほど確認でき、また、琉球人の3割ほどに確認できたが本州人には殆んど確認できなかったという研究が現時点での最先端の見解となる。縄文人のDNAは海外にも見つかっていないとの事なので、やはり、想像以上に日本列島に住んでいた縄文人は古くから日本列島に住んでいたと考えられ、やはり、縄文人そのものは古モンゴロイドに分類される何かであった可能性が高い。そう考えるべきかな。

このアタパスカン族に伝わる「熊と結婚した女の話」は、以下のような話である。

昔、ある夏のこと、一人の少女がベリーを摘みに森に出掛けた。最初は家族と一緒であったが途中で家族とははぐれてしまった。まさしく、童謡の「森のくまさん」なのだ。

少女はベリー摘みに夢中になってはぐれてしまった。籠に入りきらないほどのベリーを摘んだので籠からベリーがこぼれ落ちた。少女がベリーを拾っていると、そのとき、少女の前に一人の美形の男がが現われた。その男は「後で家まで送ってあげるから、もっと良いベリーのある場所へ行こう」と誘った。少女は男に言われるまま、ついていき、ベリーを一緒に採った。その後、男はホリネズミを調理したものを少女に差し出して、一緒に夕食をとった。「家に帰るのは明日でいいだろう」という風に時間は流れた。少女は、その男と何日も何日も同じような事をしながら生活した。ベリーを採って、ホリネズミを調理したものを食べるという生活を続けた。

少女は何となく男の正体に気付いた。男の正体はニンゲンではなくグリズリー熊であった。夏が終わって十月になると、巣穴に入った。巣穴には食料をたくさん持ち込んでいた。一月頃に一度、食事をしたが後は寝て過ごした。二月になった頃、少女は自分が赤ちゃんを抱いている事に気付いた。女の子と男の子だった。熊は二月に出産する。

ハンサムな男に見えていた熊は、夜になると歌を唄った。熊はシャーマンのようになっていき、そして言った。

「お前は私の妻だ。私はこれから出掛けて来よう。お前の兄弟たちが雪が消える前に近くにやってこようとしているのがわかる。悪いことはしたくない。しかし、私は、これから彼等と戦いに行こうとしている」

少女の兄弟たちは、相変わらず夏の日にベリー摘みをしたまま、行方不明になった少女を探していた。雪の降っている間は捜索が出来なかったが、雪が減ってきたのを合図に少女の家族たちが捜索を始めていた。そして、その兄弟たちは、熊と少女が暮らしている巣穴の近くに接近していた。だから熊は、少女の兄弟たちとの戦いに挑もうとしていると正直に打ち明けた。

その言葉を聞いた少女が言った。

「戦うのは辞めて下さい。彼等は私の兄弟なんです。彼等を殺さないで下さい。彼等を殺さないであなたが殺されて下さい」

熊は答えた。

「わかった。出来る事なら私も戦いたくない」

しかし、翌朝、犬の鳴き声がした。少女の兄弟たちが近くに迫っていたのだ。

熊「いよいよやって来たようだな…」

少女「お願い。戦わないで。私の兄弟があなたを狩るのなら、そうさせてあげて下さい」

熊「お前はもう二度と私に会うことはないだろう」

そう言い残して熊は出て行った。大きな物音がしたので少女が巣穴から出てみると、兄弟たちが既に熊を殺した後だった。そして間もなく、兄弟は少女を発見した。そして少女は熊を殺してしまった兄弟に言った。

「あなたたちは自分の義理の兄弟を殺したのよ!」

少女と少女が熊との間に産んだ子供は村に帰ったが、離れに小屋をつくって住んだ。兄弟たちは熊との間に子供を産んだ少女に熊の毛皮を被せるなどして、よくからかった。そうしたからかいに少女は怒りを露わにした。

そして少女が村に戻ってから一年ほどした頃、少女自身がグリズリー熊になってしまった。グリズリー熊に変身してしまった少女は、兄弟たちを殺し、母親までもを殺した後に、二匹の子熊を連れて熊になった少女は何処かへ姿を消した。こんな事があったのでグリズリー熊は、半分は人間なのである。おしまい――。


物凄い不思議な感覚になる話だと感じなかっただろうか? 現代人が想うにストーリーは支離滅裂である。しかし、なんとも不気味な感覚が残る話なのだ。この箇所を中沢新一が解説している。

これは近代の人間がいちばん怖れている思考法かも知れません。「人間である」ということに至上の価値観を置いている私たちの社会では、人間が熊に変容したり、熊が半分は人間であるという考え方は、とうてい受け入れがたいものに視えるでしょう。そんな考えを認めれば、人間であることの同一性(アイデンティティ)が崩壊してしまいますからね。そういう同一性崩壊への恐怖をよく物語っているでしょう。

ところが、人間が熊に変容し、熊の中に「半分人間」を見出す、このような思考法こそ、旧石器時代以来の現生人類に特有のものであり、人類をあらゆる生物種の中で「人間」たらしめている、もっとも「人間的」な思考法なのだということを、忘れてはなりません。
(『カイエ・ソバージュ〈完全版〉』219頁)

この引用文の後、少しだけ複雑な話になっていきます。シニフィエとシニフィアン。どちらも比喩表現ですが「暗喩法」と「換喩法」。我々は言語を使用している訳ですが、今日的な言語は説明的言語になっており、比喩のような表現を苦手にしている。しかし、実際に我々が自由に発しているコトバとは、何かの説明ではなく、実際には比喩表現が多い訳です。

シニフィアン⇒音のイメージ、聴覚映像

シニフィエ⇒内容としての意味

シーニュ⇒シニフィアン+シニフィエ

説明は難しいのですが、我々は言語としてはそれらを組み合わせて使用している。

換喩法とは、「金バッジ」と表現して「国会議員」を表現したり、「永田町」と表現して「政治家」を表現する方法。金バッジから国会議員を連想できるし、永田町からも政治家の連想は可能なので、そういう修辞法を採っている。

暗喩法とは「あいつは鬼だ」のような修辞法。「彼は鬼のようだ」といった具合に「ような・ようだ」で表現するのは明喩であり、暗喩ではない。暗喩の場合は「ような・ようだ」を省略し、「あいつは鬼だ」と言い切ってしまう方法。

例⇒グレズリー熊は半分人間だ。


ナカザワは、現生人類はニューロン組織の発達によって象徴を利用する思考法を手に入れた。そして、その思考法はネアンデルタール人にはなかっただろうと展開させている。象徴思考、何か抽象的な観念を思い浮かべて、例えば動物の気持ちになって考えてみるという手法を取るには、ニューロン組織の発達と、それを存分に利用する流動的知性が必要だという。そして、このテの神話・民話は平気で熊に変身したり、虎に変身してしまう話が多いが、その事は流動的知性が用いられており、現生人類の証にもなっているという。熊や虎は所詮はケダモノに過ぎないが、ヒトだけは特別に優れた存在なのであるという風に何となく考えているのが現代人である訳ですが石器時代ともなると、そういう思考法をしていなかったのだろう――と。
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どうせ失敗するだろうから辞めておこうと思ったのですが、思うところがあって挑戦する事としました。中沢新一による『カイエ・ソバージュ』とはフランス語であるが翻訳すると「野性のノート」とか「野性のメモ」といった意味になる。実際には西暦2000年から2003年にかけて行なった講義録を「カイエ・ソバージュ」と銘打って体系化し、出版したもの。シリーズは5篇に別れているが、裏返すと5篇を以って「カイエソバージュ」となる。

クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』に強くインパクトを受けたものである事を明示した上で論じられているが、読み進めていくと、そのレヴィ=ストロースの弟子筋であったが事故で早世してしまったピエール・クラストルの名前も挙げられており、「まだ、この世界に国家というものが出現しなかった頃には…」という語り口に繋がっているものと思われる。

「表象」といった記号論で神話を解読しており、そこからユングの深層心理学の元型のような試みもして神話学を展開している。豊富な事例を挙げており、その事例こそが妙味なので事例に触れ切れない以上は、このカイエ・ソバージュを論じても無意味になってしまう可能性が高いのですが、ひょっとしたら…と感じる偶然も重なったので、挑戦してみる事としました。


或る種、我々は共通してイメージというものを持っている。有名なのは地母神であり、これはグレートマザーの事。どういう訳か万国共通といった具合で、「産む」という行為から「生産の神様」として崇められていた事が知られている。これは日本の神道は思い外、優れた題材で産土(うぶすな)ですが、「土」が何かを産出するというシニフィエ(意味的イメージ)の説明になっている。地母神と先に触れましたが、ギリシャ神話あたりでも土を意味する「大地の神」はガイアであり、性別は女性であり、つまり、地母神である事が分かる。エジプト神話でさえ、最も広く信仰されているのはイシス(女神)であり、日本神話も表面的にはアマテラス(女神)である。何かを産出するのは、母性であり、大地、土であるという訳です。これについては殆んど疑う余地はない。

次いで「老賢者」というのも有名で、老賢者とは勿論、老人を指している訳ですが、それも凡そは万国に共通している。これは諸々の神話・民話・童話などにも共通している。老人が尊敬される対象ではないという話は存在せず、老人には経験知があるものと考えられてきたのが人類史そのものでもある。アマゾン河流域に展開しているヤノマミ族の集落でも長老は重視されるし、現在のアフリカのガーナあたりの習俗でも長老が重視されて村落が形成されている事からすると、実際には古今東西で共通でしょう。

で、カイエ・ソバージュが手掛けているのは神話学である。日本の童話として親しまれている「かぐや姫」とは平安時代の『竹取物語』であり、或る種、伝奇である。文字が普及した事によって、中国では唐代の頃には伝奇が編纂された。これは現在で言うところの都市伝説とかフォークロアの類いの民間伝承であったが、遣唐使として唐に渡った日本人や朝鮮人は唐の土産物として書店に向かい、伝奇本に群がってたという。その甲斐もあってか日本は古代から怪談と同居する文化となったと考えられる訳です。伝奇を好んだという怪談好きの伝統は近代の日本文学にも影響しており、小泉八雲の『怪談』があり、柳田國男の『遠野物語』があり、漫画でいいのであれば『ゲゲゲの鬼太郎』まで繋がっている。

「竹取物語」というのは、よくよく考えるとSFではないかという指摘がある。何しろ、かぐや姫は最後には月に行ってしまうというストーリーなのだ。しかし、この竹取物語を神話学で分析すると、「結婚しない娘」という説話の型があり、その型に当て嵌まっているという。実は世界各地の神話などに「結婚しない娘」というキャラクターが描かれているという。多くの場合、この「結婚しない娘」は類い稀な美貌の持ち主として描かれており、男たちから求愛されるが最終的には異界に嫁ぐ事になるという。竹取物語の場合は、大胆にも月に去って行ってしまったという結末であったが、多くの場合は「深窓の令嬢」とでも呼ぶべき何かとして描かれるという。つまり、「引き籠もってしまっていて結婚しない娘」こそが、それらに共通している題材だという訳です。

かぐや姫の場合、最初から竹の中に隠されていた引き籠もっていた娘であり、或る意味では「箱入り娘」でもある。その子は瞬く間にも美しく成長し、貴族方から求愛を受ける。求愛を受けても、かぐや姫は結婚したくない娘なので求愛する男どもに無理難題を出して応じない。そして最後には月へと去ってしまう。海外の神話・民話に登場する「結婚しない娘」は最終的には虎の嫁になったり、熊の嫁になったりするという。つまり、異界へ行くという風に、その物語は構成される事になるのだという。

偶然があって、挑戦する事にしたと述べましたが、Eテレ「こころの時代」では、阿弥陀仏信仰が取り上げられていた。法然と親鸞という事になりますが、その大胆さは「念仏さえ唱えていれば極楽浄土へ行ける」というものであった。極楽浄土へ行くのに苦行なんてものは必要なく、善人も悪人も関係ない。「本願」とはそれであると結論させたものであった。そして番組の終盤で、埼玉県蓮田市にあるという建てられている石碑が紹介されていた。石碑には「南無阿弥陀仏」の六文字が彫られているが、同番組では親鸞だか法然だかの字を模して彫ったものだという風に紹介していた。

蓮田市で一面が田んぼだらけという場所にクルマで間違えて侵入してしまった事が数年前にあり、なんとなく、あの辺かなと思い、検索をしてみたら、偶然にぶち当たったのでした。

その石板(石碑ではなく、板碑とか石版などと紹介されている)の正体を知ることになりました。石板は寅子石とか虎御石のように表記して「とらこいし」と読むもので、鎌倉時代に建てられた供養塔なのだという。

その寅子石の謂れは次のようなものであった。或る時、身寄りのない美しい娘があった。その娘は、その地の長者に引き取られ、「寅子」と命名して育てた。寅子は見目麗しく成長したので村の男たちが次から次へとこぞって求婚の申し出をしてきたという。しかし、その寅子は誰か一人の相手を選ぶという事が出来ず、つまり、誰の求婚を承諾するにしても誰かを傷つけてしまう事になる事を思い悩み、挙げ句、自殺してしまったという。その寅子を偲ぶ目的で建てられたのが寅子石だそうな。また、寅子には遺言を残しており、内腿の肉を膾(なます)にして求婚した男たちに猜薪瓩僕燭┐襪茲Δ飽筝世靴討い燭里如△修里茲Δ砲靴燭箸いΑ

「選ぶことが出来ないので自殺をして、自らの身体を平等に分配させた」というクダリの辺りには、浄土真宗的な何かが反映させられている気もしますが、おそらく逸話の全体を表象として抽出すれば、これは「結婚したくない娘」の類型に当て嵌まり、設定そのものは竹取物語の設定を踏襲していると気付く事となりました。また、「異界へ行く」という場合の異界には、勿論、死後の世界も含まれるのでしょうから、自殺してしまったという物語の結末にしても実は「結婚したくない娘」の型に当て嵌まっている。
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テレ朝「ワイドスクランブル」を視聴していたら、JFK暗殺から60年が経過したという話題を取り上げていました。しかし、なんていうんでしょう、その空気としてのオズワルドの単独犯行説、つまり、そこに陰謀はなかったが、次から次へと陰謀説が唱えられてしまうという具合にコメントが重ねられていっていた。途中で、「暗殺される動機がない」なんていうコメントさえあった。ピッグス湾に係る一連などには一切触れていなかったことからすると、真剣にコメントして、ああなったのでしょうけど、思うに、あんな見識であれば、いくらでもダマせてしまうよなと感じてしまった。オズワルドがCIAに接触していた人物である事まで判明していても、いいえ、ウォーレン委員会が裁定したとおり、オズワルドによる単独犯行説なのですというのでは、話にならない。あんな感じであれば、きっと袴田さんについてもクロだと考えているのかも知れない。

そしてJFKについての話にもなりましたが、これもねぇ。一般論としてはJFKは理想に燃える素晴らしい政治家であったが、残念ながら凶弾に倒れたとなる。勿論、それは表層的なものだ。JFKにしたって聖人ではない。しかし、そこで、一般論というのは単純二元化してしまうのだ。しかし、その問答が続くうちに、「JFKは理想家であったが故にリアリストではなく、実際のところは大した政治家ではなかった」という風に集約していった。どうも今どきの見識だと、リアリストを優れた政治家と評し、理想家を優れていない政治家だと評している様子が窺えてしまった。

一般論として政治家はリアリストである事が好ましいというのは分かりますが、米国大統領のケース、それこそ、時代を左右しかねないリーダーに求められるのはリアリストかどうかではないような気がする。戦国時代の群雄割拠している時代の戦国大名なのであれば、求められる資質としてリアリストである事が第一条件として求められるのは分かりますが、第二次大戦後の米国大統領のケースは色々と違う。それこそ、VTR出演していたオリバー・ストーンが展開していたように、東西冷戦をどのように持っていけるのか、世界をどちらに持っていけるのかという問題を握っていたのがJFKであったのだ。時代の分岐点であり、その時代の趨勢を左右できる稀有なプレーヤーに求められる資質だ。

今年だけでも、ヒストリーチャンネルの「バイオグラフィー」で、JFK本人と、JFKジュニアについてのドキュメンタリーを視た。その他にもJFKが濃厚に関係している「13デイズ」、「パークランド〜ケネディ暗殺、真実の4日間」、JFK暗殺後に制作を引き継ぐ事になったリンドン・ジョンソンを描いた「LBD〜ケネディの意志を継いだ男」も視ましたが、昨今はJFKについての実情らしきものも描かれている。大金持ちのボンボンでプレイボーイで、親の代からハリウッド女優と浮名を流しているセレブだ。あの「国が何かをしてくれるよりも、国の為に何ができるかを考えて欲しい」という演説の名フレーズにしたって、書いたのはスピーチライターだ。但し、JFKはスピーチライターに、リンカーンの演説のようなものをリクエストしていたというから、そんなもんだ。

自分たちが引き続き、豪勢な生活を続ける為には戦争もやむなしと考えるのであれば、それは、そう表明すればいい。本当はリベラル思想の破綻を暗示していると思う。戦場で殺し合いが行われている中、ブラックフライデー商戦で手に入れて頬張る高級菓子は美味しいか? という問題になってくる。戦争中なんだが、君たちは週末に出掛けるショッピングセンターの事で頭がいっぱいだと白状しているようなものだ。

イラク戦争の裏側を描いた『記者たち』という映画は、主要メディアが政権に日和った報道をする中、孤立しながらも真実を報道していたナイトリッダ―社の記者たちの話を描いたものであった。ドキュメンタリー作品ではないので、再現VTR調だったので、その苦悩が良く描けている。NYタイムズやワシントンポスト、CNNといあった辺りが、ペンタゴン(米国防総省)による情報操作でブッシュ政権によるイラク侵攻を援護射撃していた中で、ナイトリッダ―社にはペンタゴン内部で謀議が行われているという証言を掴んだ。記事にするには、裏を取らねばならないという中で、裏を取って報じ続けた。その中では「真実かどうかは問題じゃない。売れる記事じゃないと意味がないんだ」という指摘と戦いながらも、戦った記者たちの記録になっている。愛国的ではない報道だとして嫌がらせを受け、家庭にある電話機だってひょっとしたら何某かの組織に盗聴されているかも知れないという異常な精神状態にまで追い込まれたがナイトリッダ―社の記者たちは真実に基づく報道を継続した。(エドワード・スノーデンの告発によればNSAは米国の法律に違反する盗聴も行なっていたと主張していた。)途中から、NYタイムズかナイトリッダ―かの、どちらかが誤報を打っているという状況になったが、結果から言えばNYタイムズは後に謝罪を掲載する羽目になったという一連だ。

結果から言えば、マスメディアは戦争を後押ししてしまっていた事になる。戦前の日本のマスコミと同じ役割を果たしていたという事でもあり、いつだってマスメディアというのは、そのようなお調子者たちの装置になってしまうのでしょう。因みに『記者たち』のエンディングではイラク戦争の場合はイラクの死傷者は「100万人」にも上ったという数字が提示され、最後の最後に焦点となった問題、イラクで発見された大量破壊兵器の数は「0」であったと表示されて、静かに映画が終わるというシブい映画であった。ホントは現在の情報環境も似たところがあるのかも知れませんやね。確かに「真実かどうかは問題じゃない。売れる記事じゃないと意味がないんだ」という市場原理がジャーナリズムを浸食し、既に呑み込んでしまっている。

そこらあたりまでの苦悶と諦念の中で、それでもリアリズムとして思考しなければならないという次元と、そうではない次元の人たちが語るリアリズムとでは実は雲泥の差だ。
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【カイエ・ソバージュ】とは、「野性のノート」とか「野性のメモ」といった意味合いで、クロード・レヴィ=ストロースが提示した「野生の思考」を受けて中沢新一が『カイエ・ソバージュ』と命名して一連の体系にしたものという事になる。

しかし、この説明をしようと思うと困難に直面する事になる。世界中に散らばっている神話や古い伝承の構造を分析して、語られていない部分の深層まで迫って、それらの伝承が何を暗示しているのかを考察するという話になってしまう。徹底しない限りは、そんな事はこじつけられてしまうものだ。しかし、徹底的に掘り下げる事で、そこから浮かび何かがある。そして当惑する事になるのは、想像以上に中沢新一が深堀りしている、その度合いは「深い」と思われる事だ。

神話として語られている物語の中には、3万年前頃の中石器時代に生きていた人類の哲学が反映されているという。そんな古層を掘り起こす事が可能なのかと思うが、確かに表象、レヴィ=ストロースを踏襲すると「浮遊するシニフィアン」という事になるらしいのですが、何故か世界各地で似たような古伝承があるという事に気付かされる。

殊に注目すべきは、ケルト民族が痕跡を残しているイギリスのウェールズ地方とフランスのブルゴーニュ地方と、アジアのものと瓜二つの伝承があったと指摘している。奇をてらって、そうなるのではなく、これは常々、感じる事でもあったりする。ケルト神話やギリシャ神話に似た神話が何故、日本神話にもあるのか? 偶然の一致としては出来過ぎだと感がえねば不自然になってしまう。どうも世界中が多神教であった時代の記憶が神話や古伝承の中に閉じ込められていると考えざるを得ないのだ。

中沢新一は一箇所にあった伝承が伝わったのでもなく、また、偶然に似た世界観になったのでもなく、3万年前という次元で時間を遡ると、ホモサピエンスには境界らしい境界はなく、多神教というベースの中で、どこも似たよった思想からスタートしたとする。裏返すと、これが劇的に変わってしまうのは中央集権体制の登場であるとか、一神教の登場が関係している。それ以前の世界は地域に関係なく、精霊が存在すると考えられていた世界であっただろうとなる。西洋的、ケルト的に言えば妖精となるが、日本的に言えば、妖怪であったり、モノノケという事になる。

ユーラシアの東の端と西の端に同じ神話伝承が伝えられています。それぞれの地域で独立に発生した神話がまったく同じ形態を生み出したと考えられないこともありませんが、それにしてはあまりによく似すぎています。伝播ということでこの現象を説明しつくしたい誘惑にもかられますが、同じ神話や伝承がアメリカ大陸の先住民たちにも伝えられていることを考えると、それも弱い仮説です。もっとも可能性のあるのは、神話の思考が整いはじめたと考えられる中石器時代(後期旧石器時代から新石器時代への過渡期)に、ユーラシア大陸のきわめて広い範囲に散らばっていた人々のあいだに共有されていた思考法の断片や破片が、長い時間をかけてさまざまな地域で変化発展をとげながらも、共通の核のようなものを、不変のまま保持してきたことではないでしょうか。(『カイエ・ソバージュ(完全版)』(講談社選書)50頁)

論考を紹介すると余りにも膨大になってしまうのですが、この仮説によって3万年ほど遡ると、〈きわめて広い範囲に散らばっていた人々のあいだに共有されていた思考法の断片・破片〉というものが存在したという事になる。ここで少し考えたのが、ヒトは「言語のタマゴのようなものを持っている」というノーム・チョムスキーが言うところの「普遍文法」にも関係しているのかも知れない。この普遍文法にしても、普遍的な文法のようなものを我々は持っているが、その普遍文法は〈変形〉するのだという主旨の説明であるらしい。
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19日付の読売新聞の文化面(25面)にある恒例の書評欄では、阿部恭子著『高学歴難民』(講談社現代新書)と姫野桂著『ルポ 高学歴発達生涯』(ちくま新書)の二冊をまとめて、東京女子大学長の森本あんり氏が評していた。その書評に沿って展開させますが、先ずは書き出しから――。

世の中は「夢を諦めるな」「挑戦し続けよ」というメッセージであふれている。だが、大学の教員ならたぶん誰もが知っている。研究職を目指す学生の中には、別の道に進んだ方がいいと思われる人がいることを。でも、指導教員としてそれを口に出すことは難しい。伝え方によっては、ハラスメントと受け取られかねない。だから自分の見立ては間違っていることを願いつつ、つい進学を奨励してしまうのである。

引用した部分の真意とやらを、私は十全には理解し切れない気もしますが、もしかしたら残酷な現実に言及しているのかも知れない。書評しているタイトルからも分かる通り、基本的には高学歴なのに苦悩しているタイプの人たちがテーマとなる二冊の書評なのだ。オモシロい事にも触れてあり、陰口として揶揄する「MBA」という言葉があるという。MBAとは「みじめ・ぶざま・あわれ」の頭文字なのだという。まぁ、色々とイヤらしいニュアンスも付き纏っていますが、それはさておき、核心部分の引用へ。

共通して目立つのは「高学歴プライド」である。自分のではなく親のプライド(転じて僻み)に苛まれる人もある。裏を返せば、学歴以外に誇れるものが何もないことの証だろう。自分はたまたま運が悪いだけで、本当はとても有能なのだ、という甘い現実認識も透けて見える。

残酷な話ですが、一方で、この話はマイケル・サンデルが展開させている能力至上主義批判に通じている。また、石井光太著『教育虐待』(ハヤカワ新書)にも通じている。以前から水面下では囁かれていたテーマであるが、書籍などが取り上げるようになったのは最近だという意味では、比較的新しいテーマとも言える。また、その書評に惹かれたのは、「共通して目立つのは〈高学歴プライド〉である。自分のではなく親のプライドに苛まれる人もある」の箇所で、プライドの箇所にカッコで「転じて僻み」とある。この箇所は非常に重要だよなと思う。現行、テレビの中に登場する論者の多くは既に能力至上主義者のみであり、且つ、政策論争ともなると金銭的な分配こそを正義だと信じている人たちだらけだ。しかし、実相は異なる。人は単なる杓子定規で計測できる物質として存在しているのではなく、感情も霊性も有している〈人〉として存在しているのであり、そこにはプライドもあれば、その表裏一体の感情としての「僻み」も「妬み」も有している人格的な存在なのだ。惨めだなと感じる感覚も、ブザマだなと感じる感覚も、上から目線でオレの事を憐みやがってコノヤローのように感じる感覚も有しているのだ。そして、まんまと、優越者は劣位者に対して、それらの言葉を使用して揶揄しているのだ。

対象を揶揄する人たちが居て、そのような事が起こるのは、マウントに近いのかも知れない。文明人は自分たちを野蛮人よりも残酷ではないと思っているが、中沢新一の『カイエ・ソバージュ』によれば、実際には同じだろうと論じている。ただただ文明に浴しているから文明人であるに過ぎず、それら文明人と野蛮人・未開人との精神構造は同じだと指摘している。ホントは人類史規模で何かしら精神的な卓越を経て文明が起こった訳ではない。確かにイゾラドと呼ばれる南米の未開人の少年たちにラジオやサッカーボールを与えると、現代人と同じように踊ったり、ボールを蹴って遊んだり、熱狂する。文明の利器に接しているから優越感を勝手に抱いているだけという訳です。

再び、書評の話に戻ると、結局のところ、高学歴であっても発達障害などで対人関係でつまずく例も多く、且つ、なまじ高学歴であると学歴コンプレックスを持っている者から攻撃の標的にされやすいという訳です。これは、でも世襲、二世や三世への批判にも共通しているかな。リベラル論陣は、世襲が大嫌いなので、二世や三世の攻撃には容赦がない。必要以上に攻撃をしている。そんな彼等は決まって高学歴の人たちであり、実際には学歴社会の恩恵を受けている人たちであったりする。つまり、「世襲は許すべきではない」という言辞の裏側には「学歴やスコアなどで測れる能力至上主義を採用すべきだ」というホンネが隠れている。

しかし、実際に突出した才能の持ち主だよなと感じる人たちの中には、それなりに二世や三世も多いような気がしないでもない。宇多田ヒカルさんであるとか、大横綱になった元貴乃花であるとか、寺尾聰さんであるとか、堺正章さんであるとか、加山雄三さんであるとか、寺島しのぶさんであるとか、佐藤浩市さんであるとか、中井貴一さん、杏さん、安藤サクラさん、故人だけど田村正和さんであるとか何かしら才能の片鱗みたいなものを感じなくもない。中には明らかに才能みたいなものを認めざるを得ない方も多く、七光りが作用してのフロックでは説明がつかない気もする。ああ、メジャーリーガーのカル・リプケン・ジュニアであるとか、ケン・グリフィー・ジュニアなんてものも、いわゆるジュニアという事にでしょ。DNAと生育環境は、適性そのものにもダイレクトに関係しているんじゃないのって疑いたくもなる。

何かしらの適性が遺伝子レベルで継承されているように感じることも実際には少なくない。そう簡単に田中角栄やプーチン、或いはハイセイコーのように枠外から檜舞台へと這い上がれるものではないのだ。いやいや、そんなに大袈裟な例を挙げるまでもなく、経済階層一つ、その階層を一ランク上げるだけでも容易ではないのが現実なのだ。

そういった中で、一先ず、学業成績の優劣からなる能力主義を是とし、それによって形成される社会秩序を是とし、それこそが合理的で公平な社会なのであるとしている。しかし、案外、共同幻想みたいなところがある。学業成績や学歴に固執しすぎているというのが、実相ではないのかというのが、マイケル・サンデルが展開させた、能力至上主義批判の核であった。しかし、このことは残念ながら充分に周知されているとか理解されているとは言えない。何故なら、考える人それぞれが自分自身の尺度で物事を測ることになり、現に能力至上主義体系の中の優位者は、それを認識する事は難しいから。『ケーキを切れない少年たち』の話をされても、当惑するだけになってしまうのが実情だ。

また、学歴信仰に付随して、その者の能力をテストの点数によってジャッジする事は実際には一定の目安にしかならないが、その割には過剰なまでに、そのシステムが盲目的に信仰されているというのが現行社会の実相である事も見えてくる。どんなに努力しても報われない事もあるというのが真理だと考えられるが、巷間を覆い尽くしている価値観は成功者を羨望するものなので、ヒーローたちの「夢を諦めるな」が強調されることになる。

但し、先の書評にあった「親のプライド(転じて僻み)に苛まれる人もある」の問題が残っている。これなどはホントは正視すべき問題のように思う。昭和を色濃く残している山田太一ドラマなどを論じているので、気づく機会も多いのですが、かつては「過保護が過ぎませんか?」のような過保護批判の意見は強かったのだ。それが或る時期から過保護批判は封印されてしまった。この辺りの事情については内田良(うちだ・まこと)氏らの書籍を読めば、分かり易く記されていますが、そういう視聴者や読者の神経を逆撫でしてしまう可能性がある意見は、メディアによってシャットアウトされたり、クレームによって炎上してしまうという情報環境になっている。

ブリタニカ国際大百科から「過保護」を意味する【保護過剰】の項目を引くと、次のように記されている。

過保護ともいう。子供の生活習慣の行為を必要以上に手伝ったり、要求をそのまま通したりして、親が自分の手元から子供を放さないで、むやみに保護しすぎる態度をいう。その結果、子供は欲求不満に耐える力が弱くなり、自立心に乏しく依存心が強くなる。家庭外に出ると自信を喪失し、引込み思案となり、友人との関係も円滑にいかない。一方、家庭内ではわがままを発揮し、わずかな要求が阻止されても泣いたり暴力をふるったりする。学校では集団に適応できず、問題行動を示しやすい。社会性を欠く成人になりがちとなる。保護過剰は、ひとりっ子や年寄りっ子、あるいは病弱な子供の保護者などに多くみられる。

とある。あれこれと考えられる筈なのですが、現在の日本では恣意的に世論がつくられているので、ホントの事を言ってしまってはいけないという奇妙な風潮になってしまっている。
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「ふぞろいの林檎たち」の未発表シナリオに目を通したこともあり、結局のところ、多くの者の人生は時代に翻弄され、組織や社会に振り回されてしまうものだよなぁ…と、つとに感じる。「ふぞろいの林檎たち」は、あんまりいい大学だと評されていない大学生たちにスポットを当てたドラマであった。勿論、フィクションである訳ですが、山田太一は書籍だけではなく、実際にモデルになった人物と接触していた事もエッセイ集の中では明かしている。第1シリーズでは大学3年生であった、ふぞろいメンバーであったが第2シリーズでは社会人になっていた。

第2シリーズの初回では、企業研修で軍隊式のシゴキに遭った西寺ミノル(柳沢慎吾)が金網フェンスにしがみつきながら、「やってらんねぇよ」と泣き言を吐いているシーンが冒頭に挿入されている。おそらく、そのモデルになっていた男性は、その後、精神を病んでしまい、精神病院に入院してしまったと知り、山田太一がお見舞いにいったという逸話に触れられていた。実際には映像化されなかった40代の「ふぞろいメンバー」を考えるに、どこもかしこも人生は順風満帆に行っていない人が多いらしいという事に改めて気付かされた。


年寄りの井戸端会議みたいなものに付き合ってしまった。まったくもって退屈であった。結局のところ、御近所のウワサ話になっている。しかし、その中には、私の中学時代の同級生の話題も含まれいた。「あそこの家の子は今は刑務所の中」なんて言っている。しかし、おそらく、その指摘はデタラメではない可能性がある。つまり、無責任な風聞ではないかも知れない。何故なら私も30年以上も昔に、その子について、高校中退後に暴力団の構成員になったらしいと聴いていた。小学生の頃に清掃中にふざけっこをして遊んでいた子だ。しかし、高校生になった頃から本格的に非行に走って、しかも、その走り方も尋常でなく、さっさと紋々(刺青)を入れて暴力団の構成員になったという噂は地元では有名であった。まぁ、そういう者も数ある同窓生の中には出てくるのだ。

年寄りのウサワ話は長い。「あそこの家の次男坊は重い病気になって、歩くのもやっとみたいよ」のように延々と続く。しかし、思えば、確かにそうなのだ。某さんの家では、引きこもりになってしまった長男が自宅に火をつけて焼いてしまった事があった。更に某さんの家では、二十歳そこそこの娘さんが焼身自殺をしてしまい、火事見舞いと葬儀に足を運んだ事があった。いやいや、そういえば近所の開業医、評判のよかった方でしたが、何か悩みがあったのか首吊り自殺をしてしまった事があった。思えば、近隣だけでも結構な事件は起こっているものだよなぁ…と思い出したりした。

年寄りの井戸端会議ときたら…なんて思っていたら、あらぬ方面の方から、自分の娘についての話を打ち明けられてしまった。中学2年時から不登校になっているという。不登校というと、ひきこもりをイメージするが、少し印象が違うのだ。友人は多いようだし、運動は得意。しかし、何故か学校へ行かなくなって、しばらくするとリストカットをするようになり、挙げ句、大麻の使用までして警察から連絡がきてしまうレベルであるという。打ち明けれてビックリした。4〜5ヶ月前に、その娘さんを見掛けていたのですが、まったく、そんな裏の顔があるような印象を受けなかったのだ。服装はどことなく露出の高い感じで、手首にはひらひらとした装飾品を付けていて、ちょっと生意気な感じなのかなと思ったら、白い歯を覗かせてニコニコしていて、「ああ、さすが、あの人の娘さんだね。あの人はオシャレだから、きっと娘さんもイケてる系なんだな。かわいらしい子だ」と感じたばかりであった。おそらく、私の時代の同級生の女子で、あんな雰囲気を持っていたらモテモテだと思う。あんな感じの女子中学生であれば、原宿に遊びに行っているなんて事も、なんとなく頷ける。しかし、実際はリスカの常習犯で大麻にも何度か手を出していると打ち明けられ、「ホントに今の世の中ってのは分からんもんだなぁ」と痛感してしまった。こちとら、fusianasanだぞ、と。

リスカにドラッグ? 何か決定的に人格形成に係る部分で、現代社会の方に間違いがあるような気がしないでもない。私がおかしいと感じているのは世論とかオピニオンと呼ばれるものになるのかな。何か決定的に間違っているよなって感じている。

ホントに今のようなオピニオンでいいのかなって思う。何がって、イノセントの論理。自分で自分に責任を負わないでもいいみたいな風潮ってのが気になる。悪いのは、自分以外の誰かの所為であると持って行ってしまうアレ。そう主張すると、周囲の大人たちも「そうだ、そうだ」と別の何かに対しての責任追及に躍起になる。「それは本当は他罰だよな」と感じているんですね。世の中には悪い奴がいっぱいいるよ。悪い奴なんて、どこにでもいるだろうよ。だからこそ、自分の身の振り方には各自が責任を負わないといけないんじゃないの、と。

構造的な話をすれば、社会的抑圧が強いから、そうなってしまっているのだろうけど、社会的抑圧を強めている人たちには、その自覚がない。他者を糾弾する事にエネルギーを使うばかりで、「そもそも、そんな脆弱な自己では抗えないではないぞ」という問題とは向き合ってくれないのだ。その代わりに法規制の必要性を訴えて、どんどん相互監視が進行し、疑心暗鬼まみれの窮屈な抑圧的な社会にしていってしまっている。


少し思うところもあって、中沢新一著『カイエ・ソバージュ(完全版)』(講談社選書)に目を通している。やっぱり、そのまんまかもね。レヴィ=ストロースにマルセル・モーセにピエール・クラストル、それにカール・マルクス、ジグムンド・フロイト、ジャック・ラカン、そして南方熊楠らの引用が見える。そして現行の科学主義の次に人類が向かうべきものは何かと中沢新一は語っている。基盤にしているのはモーセの贈与論であり、この辺りになってくると柄谷行人の指摘にも似ているように思えてくる。

結構、驚きもある。「科学は限界に行き当たる」と言及している。まぁ、予言みたいに感じなくもない精度で論じられており、「熱力学と分子生物学の統合が不十分である」なんて論じているんですが、この指摘はポール・ハルバーン著『シンクロニシティ』(あさ出版)にも連想させる記述があった。『シンクロニシティ』は人類の科学史を網羅的に語った上で「物理学を軸にして考えて来た既存の科学は既に通用しなくなってきていること」を論じた書籍でしたが、そこに登場した話と似ている。科学、科学と言っていますが、それは不完全な唯物論的な科学を指しており、まさしく、現代の資本主義の構造とも密接に関係している。

社会という名の「システムそのもの」が根本的にイカレてるのに、それを認めることなく、改変を糊塗し続けて、訳の分からない現在がある。既に社会とか政治といったものは公共性が怪しくなってなってしまっており、人々が協調して支えるべき〈何か〉ではなくなってきてしまっている。

ポーランド出身の社会理論家・ジークムント・バウマンは『リキッド・モダニティ』なる著書の中で「流動化(液状化)」という現象と関連づけて現代社会を論じているという。或る時期までは、一つの伝統が解体されても、それに置き換わる新しい伝統が生まれた。しかし、現代社会では、その法則性が崩れており、何か伝統を解体したり、壊してしまうと、その代わりになる何かは生まれず、水のように流れていってしまうのだという。その話で、私が思い浮かべたのは、昨今、世間を賑わせている「ジャニーズ事務所」と「宝塚歌劇団」でした。そこに問題がある事は確かだ。悪しき伝統は改めるべきだ。しかし、あれらを今風のキャンセルカルチャーのノリで解体まで追い込んでしまった場合、その代わりになる新しい何かってのは、実は生まれて来ないんじゃないのかな、とね。翻ってスクラップ&ビルドなんてカタカナ語を掲げて調子に乗って、あれこれと伝統を壊しまくっているけど、その実、もう、次なるビルドは起こらなくなってしまっている、と。文化や伝統は液状化してなくなってしまうという話だから。確かに伝統として継承されていた職人技であるとか、場合によってはテクノロジーだった喪失してしまうという話があった。コンコルドは今は飛ばせなくなってしまったって話があった。あれなんてロスト・テクノロジーって事になる。

先に読売新聞の「変容する米国」というシリーズ連載に触れました。黒人奴隷は歴史的に大変な損害を被ったので、その奴隷の子孫の者に対しては、一人当たり最大で120万法別鵤渦8千万円)の賠償金を払うという州法が可決してしまったという。しかも、その州知事は元々は民主党の大統領候補と目されていた人物らしく、まぁ、絶望的なレベルで既存のリベラル体系は破綻してしまっていると認めざる得ないと思う。
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近年では中央銀行の独立という建前は崩壊し、実際には政治家が政治的判断によってコントールする事が許容されるようになってしまっている。実際のところ、殆んどの者はマネー(貨幣)を追い掛けるという生活を常とし、その人生の中で悲喜劇を演じながら、その生涯を終える。富豪や権力者は例外なく金持ちであり、カネに物を言わせて苦痛も苦役もない人生を歩めるが、そんな人生を歩む事ができるのは、ごくごく限られた人たちである。おそらく、人々はマネーに支配されている。

国内総生産(GDP)という指標に重きが置かれており、それが各国の経済力、そして国力を測る指針であると盲目的に信じられている。10月22日に放送された「NHKスペシャル」では、中国経済の動向を調査報道によって解析するという主旨の番組でしたが、或る意味では怖ろしい分析に到った。目に見えている以上に中国経済は傷んでおり、各種の指標からなる成長率も正式に発表されている数字よりも大分、低いのが実相ではないのか――という分析であった。

「国家とは何か?」や「何故、税金を納める事が正しい行動だと考えているのか?」という問題もありますが、その問題の入口には、いわゆる貨幣論が立ち塞がっている。今日では「貨幣がない方がいい社会である」とは誰も考えないでしょう。しかし、何故、この貨幣の価値が成立しているのかという問題は大きな問題だ。紙幣ともなれば、実体としては単なる紙切れでもある。何故、それがマネーとして成立しているのかというと、或る種の信認によって価値が成立している。誰かが「これは単なる紙切れだ!」と言い出して、多くの者が同調してしまった場合には、その紙幣はホントに交換価値を喪失してしまう。

過去に例があるのだ。『21世紀の貨幣論』を読み返していて思い出しましたが、アルゼンチンではそれが起こった。そして先ほどまで視聴していたNHKスペシャル「混迷の世紀」で取り上げていましたが、現在のアルゼンチンはインフレ率が140%だそうで再びデフォルト危機に瀕しているという。(昨年末であったか今春、もしくは今夏であったか、TBSの特別番組で、かつて先進国とカウントされていた国としてアルゼンチンを取り上げ、日本もアルゼンチンのようになってしまう可能性があるのではないかというVTRを視た記憶がある。まぁ、確かに大盤振る舞いにブレーキがかからないあたり、なんだか不安ですな。)

「混迷の世紀」では、現在でもスリランカやガーナが債務不履行(デフォルト)状態にあるとし、それ以外にも実に34ヶ国ほどがデフォルト危機に瀕していると説明していた。現にデフォルトしたスリランカではIMF(国際通貨基金)の指導によって付加価値税が15%に引き上げられ、スリランカの貧困層の人たちは「政府はIMFの言いなりだ」という主旨のデモ活動をしているという。デフォルトになるとIMFが調停に入り、財政を健全化させる事になる。しかし、実質的にはスリランカの政治家が主張していましたが、「新たな植民地主義」にもなりかねない。返済の目途も立たないのに借入れを膨らませてきたスリランカ政府に問題があるのは歴然であるが、それは同時にスリランカに対して出資して開発してきた側の責任も考える必要があるようなケースにも思えた。ルールや金貸しの手口を理解していない側に問題がある反面、インフラ整備を欲しているスリランカ政府に対して、先進国諸国は分不相応なインフラを提供してきたというのも隠せない事実ではないのかな、と感じた。結局、振り回され、最もダメージを受けるのは貧困層という構図になっている。

ホストに数千万円のカネを貢いでしまっている少女があったとして、マスメディアはどのように報じているか? 高利貸しからカネを借りて借金漬けになった者が、例えば売春を強要されるなんて時代があったが、これらはマネーによって相手を支配する手法であるという意味では、どれもこれも共通している。借金をしてしまうと、その返済義務が生じるので、実質的には従属的な立場にされてしまうというマネーの法則の〈ウラ側の顔〉がそこにある。

秋嶋亮著『無思考国家』(白馬社)では、日本だって借金を膨らませばデフォルトする可能性があり、その仕組みを説明してみせていた。

IMFから借金すれば、「IMFの融資条項」(コンディショナリティ)により、アフリカなどの債務国と同じように主権を奪われるでしょう。「融資条項」(コンディショナリティ)とはクリントン政権が策定した、金融を手段とする対外戦略です。要はターゲット国を借金漬けにして、返済条件として植民地条項を飲ませるわけです。そうなると、さらなる重税が課せられ、社会保障や教育の予算が全面的に削減されます。(秋嶋亮著『無思考国家』144頁)

確かに実質的にはIMFの「言いなり」にならざるを得ないという事かも知れない。秋嶋亮氏が指摘していた通り、そこでデフォルトした政府は、徴税に係る主たる権利をIMFに譲ることになるという説明は、少なくともスリランカのケースでは、成立していると言えてしまうと思う。マネーというのは、結局のところ、貸している側が借りている側に対して、ああしなさい、こうしなさいと命じる事ができてしまうという事でもある。

これはどうかねぇ。貸す側にも問題があるような気もするよ。


ホントは『21世紀の貨幣論』を引っ張り出しているので、何故、マネーがマネーとして成立しているのか、そして、それは信用によって成立しているが、その信用は何に依拠しているのか等にも触れられている。思いの外、不明瞭な何かによって貨幣の価値は成立している事に気付かされる。

マネーを発行できるかどうかは、安定と自由を実現するという魔法の約束をできる能力があるかどうかで決まる。主権者がそれをできるのは、権力を持っているからだ。

それが大前提ですが、昨今、世界中の先進国で起こっているのは、為政者たちが選挙戦に勝ちたいが為のバラマキを行ない、どこの国も財政を悪化させているという問題がある。

中央銀行を最後の貸し手とするドクトリンは、国を最後の損失負担者とするドクトリンへと姿を変えていた。国庫から広く信用支援を行うというこのイノベーションは、政治的な損益計算の次元を劇的に変えた。

中央銀行が流動性支援をする場合には、理論上では、だれも損をしない。そして、金融システムがうまく機能するという恩恵が広く行き渡る。ところが、政府が信用支援をするとなれば、納税者は大きな犠牲を強いられる。そうなると問題は、当然、誰が得をするかだ。答えの一つは、銀行自身である。
(『21世紀の貨幣論』358頁)

リーマンショック時には、国は支援を拒否したので、原則通りに債券を保有していた者たちが損失を被った。しかし、連鎖倒産を防ぐ必要性があるとする政治的見解によって、政府は銀行を救済するようになった。この箇所、誤解のないように引用すると、「政府が銀行を救済したとき、銀行の大勢の従業員は、少なくとも当面の間は雇用が継続され、ボーナスを手にした。この問題は大きな政策論争を呼んだが、実際には、これは納税者の寛大な措置がもたらした恩恵の一部でしかない」とある。中小企業であれば小切手などの不渡りを二回出すと自動的に銀行から締め出され、即、倒産となり、その企業の従業員は翌日から路頭に迷う。しかし、例外的な恩恵を政治的判断で受けられる…の意である。

しかし、『21世紀の貨幣論』では、問題点を抉っている。実は互恵関係は現代では崩れており、そうした支援は双方向性の互恵関係ではなく、納税者による一方的な贈与として処理する事になる…という意味合いの事を記している。銀行システムに資金を供与する者と、その銀行システムに問題が発生した時に救済する者とは一致していれば互恵関係であるが、現在ではそれが崩壊している。つまり、問題が発生して救済する場合には、何故か直接的には関与していなかった納税者が連帯責任として救済を請け負わされてしまう制度になっているという。お人好しな方は気にも留めないのかも知れませんが、そういう事ですワなぁ。

受益者と負担者との関係が崩れている。成功した時、もしくは破綻していない状況の時に、その投資で得た利益は一部の富裕層にのみ還元される。それが本来のリスクの考え方であった。しかし、どうもリーマンショック以降、世界は「リスクについては社会で引き受ける」といいだしたので、破綻しない間に上がる利益は投資した者に還元されるが、破綻した場合には社会全体とか国全体でリスクを引き受けるという不均衡な仕組みに書き換えられてしまっているという。平たく言えば、貧乏な者ほど割に合わないルールにされているという事でもある。しかも、これにはグローバリゼーションやサプライチェーンも深く関係している。(金融システムは意図的に複雑化させられており、誰の利害なのかが分かりにくいようになっている。実は意図的に複雑化させたものだという。)

三國志風に言えば、こうかな。その「連環の計」で用いる鎖は多ければ多いほどいい。鎖で船と船とを連環してしまったのは一部の人たちであるが、火矢で攻撃を受けて失火してしまった場合、その一隻だけの沈没では済まず、すべてが沈没してしまう危機があるので、その船を守る為には、すべての船の乗船者全員が負担を負うべきなのだ、と展開させやすくなっている。

世界経済? 一見すると順調であるように見えるし、そう語られているけど、内情はかなりマズいことになってきていると考えるべきでは?
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昨今の分断現象について、ごくごく一部の過激な人たちが分断を惹き起こしているという言説は、あんまり感心しませんねぇ。SNSと言っても、実際には旧ツイッターが主戦場であり、もう、かなり前から目茶苦茶になっているというのがホントだし、そうでありながら現職の国会議員なども旧ツイッターを使っているのだから、「実際に炎上を起こしているのは0.5%以下の人たちであり…」という風にまとめる方というのは、なんとなく自分の心理を安心させたい思惑が干渉していまっているのだと思う。まぁ、実際に書店へ足を運んで、その棚を見ても、「え? この書籍が売れ筋なのか?」のような感想は既に10年ぐらい前から起こっている。

「ホントはみんなが穏健なリベラルなのである」と展開させているが、じゃ、実際に施行されてきた政策を直視してみろよとも思うし、現に生活している中で遭遇する強硬なまでに自分本位の自己主張をする人たちを見かけるのも、昔からといえば昔からなのだけれども、分かり易いタイプのおかしな人がおかしな言動をとっているのではなく、世間全般がおかしなリベラルに染まってしまったというのが実際じゃないのかなって思う。

山田太一脚本ドラマ「男たちの旅路」の記念すべき第一話「非常階段」では、自殺をしようとしている女(桃井かおり)があり、それを警備会社の司令補である吉岡(鶴田浩二)が自殺を食い止めるが、次の瞬間には、その女を「甘ったれるな」という主旨で殴るという展開だ。戦中派の意見と、戦後派の意見の対立、つまり、ジェネレーションギャップを描いたドラマとして語れているが、この「男たちの旅路」シリーズでは、多くのケースでは鶴田浩二演じる吉岡への共感が多かった事が分かる。当時のNHKにも、とんでもない量の手紙が届くほど、反響があったという。「甘ったれるな」と言いたいが、言えない視聴者も少なくなく、鶴田浩二が演じた「吉岡」という役柄は基本的には分からず屋の戦中派といて受け止められたのではなく、「本来はそうあるべきだ。今の若い人たちはワガママが過ぎる」という風に描かれ、また、受けとめられ、当時は好評を得ていたという事でもある。でも、これ平成や令和だと大変な事になる。予想するに、きっとクレームが殺到して、炎上案件になってしまう訳でしょう? 

「男たちの旅路」では、養老院の高齢者たちが「私たちは年金で生活している身なので政治的な発言はしにくいが、それでもこれこれこうなのだ」と権利を主張し、警備会社が対応する規模の、小さな反乱が起こる話もあった。このテのテーマだと空気を読んでしまえば「高齢者は可哀想だ」と反応しがちであるが、ここでも吉岡は高齢者たちにも毅然とした態度を取る。情動では応じない。結局、視聴者が問題を直視し、考えればいいだけの話でもある。

その吉岡(鶴田浩二)に、いつもやり込められていたのが、水谷豊が演じた「陽平」であった。吉岡と陽平との間では、いつもジェネレーションギャップの火花が散るようなつくりになっていた。ボツになってしまった「オートバイ」というエピソードのシナリオを昨日、読み終えたところですが、すごいシナリオだなと感じた。

夜毎、マンションに面した道路に爆音を立てるオートバイの集団暴走がある。その暴走行為を辞めさせてくれとマンションの管理組合から吉岡たちの警備会社に依頼がくる。吉岡は、どんな理由があろうが悪いものは悪いのであり、暴走集団に対しては断固、力で捩じ伏せるべきだと主張する。そんな事をしたら報復行為が起こるかも知れない、やったらやり返すという連鎖を、どう収束させるかが問題なのだと陽平は主張する。吉岡は、向こうが復讐にくるのであれば、更に、それを上回る力で叩きのめすべきなのだと主張する。そんな中、陽平は単独行動を取って、暴走行為をしている青年の素性を洗い出す。調べてみれば、彼等は昼間は真面目な勤労青年であるが、バイクに乗れば暴走族から襲撃されるので、マンションの周囲を暴走する事で憂さ晴らしをしているらしい事を知る。それを知った陽平は「力に対して力で抑えつけるばかりではなく、話し合いも必要だ」と主張し始める。しかし、陽平の独り善がりで終わる。岸本加代子演じる「信子」も「悪は悪なのだから徹底的にやっつけるべきだ」と主張する。最終的には警察も動き、暴走行為をしていた青年は全員が検挙され、全員がオートバイを売り払ってドラマが終わる。

これは難解な脚本だなと感じた。「力に対しては力で抑えつけるしかない」や「相手の暴力が大きくなったら、それを上回る暴力で対抗するしかない」という論陣が勝利してしまったかのような、そういう着地をしている。しかし、ドラマのエンディングでは、そこにはピカピカに光っていたオートバイがあったのに、そのオートバイが無くなっているという映像、つまり、売り払われた事を暗示する映像を流してエンディング、と記されていた。

(また、論戦の中には「悪は叩くしかない。社会から悪は退場してもらうより他にないのだ」と主張する吉岡に対して、陽平が「例えば退職一つを例にして、自己都合による退職と、会社側によってクビにされたのと、悪さをして強制的に解雇された退職とでは、それぞれニュアンスは違うでしょ? 事情を聴かない事には問題を円満に解決できませんよ」と食い下がるシーンもあった。)

目を通しながら「これは陽平の方に分があったんじゃないの?」という感慨を私も持った。そして、その部分は解説を読んで理解できた。そのボツになった「オートバイ」では、初めて陽平が吉岡との論戦で有利を勝ち取るというニュアンスの脚本だったらしい。しかし、時代の気まぐれであった。その「オートバイ」がボツになってしまったのは、水谷豊が日本テレビ系列で「熱中時代」の主演の仕事が入ってしまったので、撮影ができず、ボツになったという。「熱中時代」は異例の高視聴率をマークした伝説的な番組となった。

水谷豊には瑕疵はなく、当初は「男たちの旅路」も三話までしか予定していなかった為に水谷豊のスケジュールを抑えておらず、しかも水谷豊は、あの「熱中時代」の主役に抜擢されていた。それでも水谷豊は「熱中時代」の撮影と並行して「男たちの旅路」の別の話の一話分の撮影には応じたが、「オートバイ」の撮影スケジュールは捻出できず、あえなくボツにしたシナリオだという。

「日本人は総じて穏便なリベラルになった」というけど、現実を直視すれば無関心が多数派というのがホントでしょう。リベラル的な価値観というのは「言葉狩り」、「言論マフィア」、そして「ポリコレ」がゴリ押しされる中で出来上がった風潮に過ぎず、そこには信念のようなものは介在していないというのが実相ではないのかなって思う。主体性なき、パーソナリティーとも関係していて、それらの事情に触れないというのは、色々と総括の仕方に問題があるようにも感じますかねぇ。
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『山田太一未発表シナリオ集』(国書刊行会)で、結局、ドラマ化はならず、幻の企画になってしまった「ふぞろいの林檎たち后廚離轡淵螢を読み終えてしまった。目を通して直ぐに気付いたのですが、脳内で映像作品化されてしまう魔法みたいなものを味わった。まぁ、「ふぞろいの林檎たち」の場合はシリーズ化されていた事もあり、且つ、出演されていた俳優さんの印象もしっかりと焼き付いていたので、そうなったのだろうとは思いますが、なんだか魔法を味わってしまったような気分になりました。ドラマの脚本って、こんな風に書かれていたのかと愕然とした。いやいや、大昔に『シナリオ入門』というムック本ぐらいは目を問うした事があって、あの有名脚本家のシナリオは、こんな体裁なんだなとか、その程度の知識はあったのですが、山田太一のシナリオってのは、景色にしても、ちょっとした仕種にしても、脳内再生しやすいと感じた。

触れるべき箇所は何か所かあるのですが、それを言い出すとキリがなくなりそうだ。目を通していて「はははっ」と漫画でも読んでいるかのように軽く吹き出しそうになったシーンが二か所ぐらいあったのかな。しかし、本筋は40代になっている「ふぞろいメンバー」の近況と、それぞれに降りかかってくる試練が記されており、「うわぁ…そりゃ、しんどい状況だね」という面持ちで読む事になる。しんどい内容だから気が重くなるのかというと、ならない。むしろ、こういうシナリオ構成になって居るという事は、よく観察していたのだなと思う。

読み始めてビックリしたのは、その巧さでした。中井貴一演じる仲手川良雄がスーツを着用して電車に揺られている。ネクタイの近くに小さなシミでもあるらしく、そのシミをほじくっている。電車を降りた仲手川はシティホテルに入っていく。手塚理美演じるヨーコ(水野陽子)はタクシーの中で、時計を気にしながら化粧直しをしている。そして、ヨーコは中高年向けの婚活パーティー会場らしきものの受付を済ませる。ヨーコはパーティーの開始時刻に遅刻している。係員に「まだ、始まったばかりです」と説明を受けて、名札を受け取り、名札をつけてパーティー会場の扉を開ける。すると、そこで自己PRのスピーチをしているのは、大学時代に親しくしていたグループの一人である仲手川である。仲手川は昔と変わらず、生真面目さが裏側に出て緊張してヘンテコなスピーチをしている。そのマイクを握ってヘタクソなスピーチをしている仲手川とヨーコの目線が合う。こんな年齢にもなって、そうしたパーティーに出席している事を知られてしまいたくないという気持ちのあるヨーコは、そそくさと会場を出ていく。仲手川がヨーコを追い掛けてくる。

これだけでも見事な始まり方だなと感じた。しかも、いちいちキャラの描写が見事なのだ。その婚活パーティーを抜け出す事になるに当たって、仲手川とヨーコは「私たち、実は大学時代の友人で…」と係員に説明し、退出する意図がある事を説明する。係員が「今、退出されても料金は全額戻りませんけど」と説明すると、仲手川が「まだ、何も食べてないし、飲んでもいないのに? 何割かは戻らないんですか?」と係員に質問している。その脇で〈そんなバカな事を訊かないでよ! 恥ずかしいったらありゃしない〉と感じながらもヨーコは「フツウ、こういうケースは全額返ってこないものでしょ」と体裁を繕う。何気ないやりとり、些細なやりとりでもあるのですが、きっとヨーコの心情はこうであろうなとか、仲手川らしい反応だよな、等と考えながら読み進める事になる。しかも、基本的には、それらの心理描写が自然な流れに感じるのだ。

あれもこれもと欲張って触れる事は不可能ながら、なんだかんだいって、柳沢慎吾演じるミノル(西寺実」の逸話もオモシロかった。ミノルの場合は、あのキャラクターなのでモテることもなく、すねてしまうタイプのキャラクターである。大学時代、中島唱子演じる綾子とデートする都度、綾子からお小遣いをもらっていたのが交際初期であった。ミノルは半ば「あんなデブでブスな女と付き合ってやってんだから、小遣いぐらい受け取ってもおかしくない」と考えていた。また、綾子の方は当初は仲手川の実直さに惹かれていたが、少しは気遣いをしてくれるミノルへ惹かれるようになり、ミノルがデートしてくれるのであれば、お小遣いを渡す事にも抵抗感がなく、また、次もデートして欲しいので「私の家は金持ちなので、お小遣いの事は気にしないでいいの」と言ってしまっていた。しかし、綾子の実家は金持ちでもなんでもなく、いつもミノルに渡していた小遣い銭は綾子がたこ焼きを焼くバイトをして稼いだカネである事が発覚、ミノルは綾子から逃げられなくなってゆく。そして、結局、このミノルと綾子とは結婚し、子供も生まれ、夫婦でラーメン店を経営している。時代の流れもあり、ラーメン店はフランチャイズ・チェーンになってしまっており、ヘルシーラーメンなるもので商売をしている。

40代になっているという設定で、ミノルには浮気騒動が浮上している。ふらりとラーメン店に顔を出した岩田(時任三郎)に綾子が相談を寄せる。「どうも怪しい」という。岩田は信じられない。あのミノルが浮気をするなんて信じられないと率直に告げる。すると、綾子が「岩田さん、私との付き合いも長いですよね? 男同士で庇うとかしないで、ホンネで相談に乗って下さい」と念押しされてしまう。斯くして、岩田はミノルが浮気していないかどうかを確認する為に、休憩時間のミノルを尾行する羽目になる。

ラーメン店なので、午後2時半から午後4時まではミノルは休憩時間を取っている。その90分間に近所へパチンコを打ちに行っているのだという。綾子は岩田に内情を伝える。近所にはパチンコ店が4件あるという。ミノルの言葉を信じれば、どこかのパチンコ店に居る筈だ、となる。岩田はパチンコ店を歩き回る。一軒目、ミノルの姿なし。二軒目もミノルの姿なし。三軒目もミノルの姿なし。そして四軒目のパチンコ店に入ると、パチンコ台の前にいるミノルの姿を発見する。なーんだ、ミノルが浮気だなんて、綾子の勘違いじゃないかという安堵がある。

しかし、そこからが本編であった。パチンコ台の前にいるミノルを発見した岩田は声を掛け、事情を説明する。「ミノル、お前が浮気なんてする訳ないよなぁ。(綾子に)頼まれて尾行してたんだぞ。なんだよ、心配かけやがって。ホントにパチンコしてんじゃねーか」と語りかける。すると、ミノルの反応は意外な反応である。ミノルは「実は、浮気ではないけど、若い女と会っている」と岩田に打ち明ける。

ここからの岩田とミノルの会話が、可笑しくて吹き出してしまった。ミノルが言うには、捻挫して歩けず、困っている若い女性に声を掛けたのが事の始まりであったという。女は化粧品の訪問販売をするセールスレディとやらで、足を痛めていた自覚はあったが大丈夫だと思い、外出したところ、痛みが出てしまったという。ミノルは医院の場所を教えて立ち去ろうとしたが、その女は足を引きずるようにして歩いていたのでミノルは肩を貸したのだという。で、結局、その医院の玄関先までミノルは肩を貸したのだったが、なんだか女は好感を持ってくれたらしく、電話番号を交換して一週間に二回程度の頻度で、小さな喫茶店で落ち合うというデートを続けているのだという。

この箇所、柳沢慎吾&時任三郎コンビで再生できてしまった。

ミノル「駅の脇を歩いていると、立っている女がすいませんて言うんだ」

岩田「その人か?」

ミノル「足が痛くて歩けないって言うんだ」

岩田「なんだ、それ」

ミノル「なんだって、そのまんまよ。足が痛くて歩けなかったんだ」

岩田「どうして?」

ミノル「朝、どこかで足をひねったんだと。大丈夫だと思って歩いてたら、痛くなって腫れてきたんだって」

岩田「捻挫か」

ミノル「この辺に医者はないかって」

岩田「なんか、くせえな」

ミノル「なにが?」

岩田「芝居っぽくないか」

ミノル「芝居で足が腫れるかよ」

岩田「さわったのか?」

ミノル「さわんねぇけど、見たよ。ちゃんと、腫れてたよ」

岩田「いい女か?」

ミノル「そんなこと言ってられないだろう」

岩田「本当か?」

ミノル「肩貸して医者いったよ」

岩田「医者まで連れてったのか」

ミノル「行きがかりで仕様がねぇだろう。――ところが込んでるんだよ。仕様がねぇから待ってたよ」

岩田「なんでお前が待つんだ。連れていけばそれでいいだろう」

ミノル「だから――」

岩田「だから、なんだ?」

ミノル「ほっとけないような気持になったの!」

岩田「そんな――」

ミノル「そんなっていうけどな。肩貸してゆっくり十五分ぐらいかけて、はなれたビルの二階まで歩いたんだ」

岩田「あんまり、ないことだよなあ」

ミノル「すいませんすいませんて言うからよ、いいんだいいんだ、今日は暇だからって」

岩田「そう言ったのか?」

ミノル「忙しいなんて言えないだろ、困ってる人間に」

岩田「若い女と、そういうこと、段々なくなるからなあ」

ミノル「段々どころか、こっちは、まったくだよ」

岩田「それで?」

ミノル「持ったカバン持ってやるとよ」

岩田「うん」

ミノル「ずしりと重いんだよ」

岩田「怪しいな」

ミノル「怪しくないって。化粧品の訪問販売だって」

岩田「へえ」

ミノル「化粧品のセールスが、男の俺ひっかけたって仕様がないだろ」

岩田「まあ、それは、言葉通りなら、そうだろうけど」

ミノル「これは純粋な話なんだ。嘘や裏はなんにもないんだ」

岩田「それで?」

ミノル「歩きながらと、待ってる間に、俺は」

岩田「うん?」

ミノル「簡単にいえば、恋に落ちた」

岩田「早すぎないか?」

ミノル「早すぎねえよ。そういうもんだろ。めぐり合いってもんは」

岩田「おい、お前、妻子がいるんだぞ。店も暇なんだぞ」

ミノル「わかってるって――」

岩田「おいおいおいおい(大丈夫なのかよという心情から)」

ミノル「この辺のセールスに回る時には、俺の二時半から四時までの休憩に合わせてくれるんだ」

岩田「もう、デキてるのか」

ミノル「お前、すぐそういうこと言うけど、一時間ちょっとで、真昼間、そこまで行きようがないだろ?」

岩田「両方その気なら急げばいけるだろ」

ミノル「一度そうなりゃあそうだろうけど、会うなりそんなことキリ出せないし、そのうち時間が来ちまうんだ」

岩田「今度会ったときはすぐとか言えよ」

ミノル「お前は、恋愛したことがないのか?」

岩田「なんだ、それ」

ミノル「会ってるだけで、いいんだ」

岩田「本当か?」

ミノル「向こうもそう言ってる。俺と会うと、すごくほっとするって。だから、やりくっても会いたくなるって」

岩田「まずいな、それは――」

ミノル「うん」

岩田「まずいよ、それは」

ミノル「うん――」


いわゆる「男どものバカ話」で、その岩田とミノルとが会話をしているのはパチンコ店の前の通りから喫茶店の店内である。話し込んでいるのだ。会話の途中、何故か聞き手である筈の岩田が「両方その気なら真昼間の一時間ぐらいでも(最後まで)行けるだろう」と言っている箇所で思わず吹き出してしまった。

(いやいや、これは見事なソレであり、シリーズ1か2では、岩田(時任三郎)はヨーコ(手塚理美)を車に乗せてドライブに繰り出したが、途中でラブホテルに入ろうとして田舎の道を通るも脱輪してしまい、畑にクルマを突っ込ませたという失敗エピソードが蘇ったりする。まぁ、ホントはそんなもんよ的な。)

まさかまさかの展開でしたが、このミノルに訪れた恋バナは玉砕する。しかし、そこも味わい深い。綾子に頼まれた岩田がミノルを説得する。そして「会うのは、後一回だけにする」という約束をミノルから取り付ける。岩田は綾子(中島唱子)にも正直に事情を説明している。綾子からすれば、岩田とミノルとの友情は頑健であり「男同士だからって庇い合ってない?」とも疑っている。しかし、岩田は綾子に「後一回だけってミノルのヤツも言ってるから、ここは気付かなかったフリをしてやっては?」と持ち掛ける。

しかし、ミノルの心はまだ揺れている。きっと自分の人生にとって最後の恋なんだぞ、等と蒸し返し始める。

ミノルが自分から別れを切り出すまでには岩田との口論も起こる。

岩田「面白いからつき合ってるのか?」

ミノル「そうさ。面白いからつき合ってんだ。他にオレに、何があるんだ? 文句ばっかり言ってる女房と、言う事きかねぇガキ二人と、カツカツでやってるラーメン屋と、他になにがあるんだ!」

岩田「なにか、他に、さがせよ」

ミノル「なにをだ? ゴルフか? 釣りか? 温泉か? そんなことする暇もカネもどこにあるんだ。スナックへも行けやしねえ。十一時に店閉めたらへとへとよ。焼酎一杯のんだらばったりよ。それが一生に一度クジに当たったみたいに、あの女性と口をきくようになったんだ。そう言葉通りにいくかよ」

岩田「続けてりゃあバレるぞ。それでもいいならいい。その女と一緒になればいい」

ミノル「――」

岩田「それも生き方だ」


その岩田の突き放すような言葉によってミノルは別れを切り出す事を決意し、結局、泣きながらラーメンをつくる羽目になる。失恋によって涙目でラーメンをつくるミノル、その姿を横目に見ながらテキパキと店を切り盛りしている綾子という構図に戻って、そのミノルのエピソードは完結する。


結構な字数を割いてしまったので、最後の大団円について――。岩田が勤めていた会社が倒産してしまい、岩田は放心状態になってしまっている。他方、ヨーコが特別扱いをするように可愛がっていたホスピスの少女が亡くなってしまい、ヨーコも酷く落ち込んでいた事から、本田夫妻(国広富之&高橋ひとみ)が、そろそろ、みんなで集まって岩田とヨーコを励ます会をやろうじゃないかと持ち掛ける。実際のところ、この本田夫妻も低調気味である。本田修二(国広富之)は東大卒で早期にコンピュータープログラミングを武器にして一時的には経済的成功を収めていたが、現在では妻の夏恵(高橋ひとみ)が取って来た仕事のプログラミングをして生計を立てているという状況になっている。

そして「ふぞろいメンバー」が結集するのは、東京・本郷にあるという設定で、仲手川良雄の実家でもある仲屋酒店である。既に仲手川は家を出ており、兄の耕一(小林薫)は病死してしまっているので、義姉の幸子(根岸季衣)が酒屋を営んでおり、仲手川良雄(中井貴一)は週末に少しだけ手伝いに帰ってきている。仲手川からすると、義姉のところには姪の紀子(15歳)もいる。

仲手川は相も変わらず、室田日出男演じる上司にシゴかれた晴海運送サービスへの勤務を続けている。さすがに職位的には課長になっているが、やっている仕事はクレーム対応であったりして、厳しい人生を送っている。

現在では義姉が経営している仲屋酒店の居間に、「ふろぞいメンバー」たちが集まってくる。シリーズ1の最終回の再現が行われているのだ。

わいわいがやがやと仲手川家の居間で飲み会が始まる。各自がばらばらに瓶ビールを注ぎ合っている。なにしろ、ここは酒店なのだから、どんなに飲んでも酒が切れることはないぞ等と盛り上がっている。

岩田「ヨーコ、鬱だって?」

ヨーコ「少しね」

ハルエ「私はうんと鬱、希望なんてなんにもないんだもの」

ミノル「嬉しそうに言うよなあ」

夏恵「私も鬱」

綾子「私も」

岩田「どうなるんだ、この集会は――」


このシーンは、伝説的とも言えるシリーズ1の最終回のそれであるのは歴然だ。柳沢慎吾と中島唱子の鼻水を流しながらのすすり泣きに、思わず、視る側の涙腺も緩んだあのシーンを彷彿とさせるシーンになっている。

ここでミノルが調子に乗って「ほんじゃまぁ、ご指名で一席、挨拶を」と言いながら立ち上がる。岩田が「言ってねぇよ」とツッコミを入れる。綾子が「はしゃがないの!」とミノルをたしなめる。するとミノルが「いいだろ、はしゃいだって」と綾子に言い返す。すると、ヨーコが「いい」とミノルをアシストし、続けてハルエも「いい」とアシストする。すると仲手川が「スピーチ!」と囃し立てるように声を飛ばして拍手をすると、夏恵もミノルのスピーチを促す拍手をする。斯くして、ミノルの挨拶もどきが始まる。

ミノル「まったくよう。みんなで集まって鬱だ鬱だと女どもは抜かして、男どもも、はきはきしたこともなくて、みんな四十の坂を越えまして、それでもそれぞれ毎日、することはしなきゃならない、カネの心配もしなきゃならない、子供もほっとくわけにはいかない、カラダもねえ、そろそろ気をつけなきゃならない。ほんとに、これが生きるってことか、これで、あとは齢をとる一方か、と思うと…」

岩田「どうした?」

ミノル「ほんとよねぇ。そう、あんまりそれぞれいい事はなくても、こういう友達がいるっていうのは、いいよねえ。その一点で、俺はラッキー、幸せだと思ってます! 乾杯!」


このミノルの挨拶によって一行は口々に「乾杯」といい、宴が始まる。

しかし、更なる爆弾が炸裂する。「ふぞろいの林檎たち」を総括するかのような爆弾かも知れない。仲手川良雄(中井貴一)が、「みんなの前で話したいことがあったんだ」と言い出す。一堂が注目する中で、仲手川は義姉の幸子(根岸季衣)の方を目で指しながら

仲手川「この姉と、再婚したいと思ってる」

と切り出す。幸子は激しく動揺している。周囲のメンバーも幸子の表情を読み取って、微妙な空気になってしまっている。幸子は何度か義弟を制そうとするが、弁舌は止まらない。幸子は、当惑して台所の方へ逃げて行ってしまう。

岩田「もう、いいだろう。お姉さん、追い詰めちゃいけない」

仲手川「そうだな」

少し間を置いて幸子が台所から戻ってくる。幸子は義弟を見て「ううん、ううん」と目で合図を送る。次にみんなの方を向いて「ごめんなさい」と言うと、幸子は義弟の胸に身を寄せ、義弟は受け止める――。これが実質的なラストシーン。おそらく「ふぞろいの林檎たち」を総括する意味合いを持ったラストシーンになっている。

ずーっと目を通しながら、確かに途中に伏線となるような描写もあったものの、「そのエンディングだけは無さそうだな」と感じていたが、驚いた事に、裏切りの裏切り、そのフィナーレであった。

関連リンク:「ふぞろいの林檎たち」について〜その3
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