2019年04月25日

この社会は持たないんじゃないのか…

銀行の窓口に用事があって、20〜15分ぐらい居たのかな。その間、ある事に気づいてしまった。高齢の男性客が待ち時間、すぐにカウンターの案内係に質問をしてしまい、まるで案内係さんは養老院のそのであるような状態になってしまっているという現実を目撃してしまった。

銀行に拠って対応は違うのだと思いますが、その銀行では例の番号札を採る前に案内係に要件を尋ねられるようなシステムになっている。私の知る限りだと、多くの銀行は黙ってツカツカと歩いていって番号札を採って、その番号を呼ばれて窓口へ出向く。しかし、それだと記入する書類を、それで渡されても時間の無駄。なので、受付時に要件にあった書類を提示し、且つ、記入方を口頭で教えてくれるのが、その銀行の案内係のシステムなのだ。案内係って言っちゃってるけど、正式名称かどうかは保証しませんけどね。

で、高齢男性が、背後から、その案内係さんに声を掛けるんですが、これが高齢男性の悪癖丸出しで、呼び掛けるときは「ねえさん」とくる。

「ねえさん、あと何分ぐらい待てばいいの?」

「ねえさん、俺は耳が遠くて呼ばれても聞こえないかも知れない」

てな具合。その都度、40代か50代であろう女性の案内係さんは親切な対応をしている。すごいことだ。しかし、反面、こんな調子だと、くたびれるんだろうなぁって傍目に感じました。銀行の業務って、単にATMの操作だけで済む人も多いんでしょうけど、中には複雑な要件で来店している客もあって、接客をこなすにしても大変なのが分かる。銀行にしても将来的には人手を省いて無人化に舵を切っていくのかも知れませんが、実際問題、窓口じゃないと済ませない用事というのもあるにはあるのだ。

ネットバンクの時代になって通帳もなし、実際にATMだけで生活しているというライフスタイルの人も登場しているんでしょうけどね。で、そちらの方が、きっと銀行としての収益率はいいんだろうなって思う。店舗を構え、そこに人員を割いているというスタイルの方はただでさえコストがかかっているところ、ひょっとして超高齢化が更に進行すると、養老院状態になるんじゃないだろかなんて、ふと思ってしまいましたかね。まぁ、サービス業全般に言えることでしょうけどね。

私自身もセルフレジなるものを二度ほど、経験しました。ほほぅ。なるほど。便利っていえば便利だ。しかし、やはり、迷ってしまう。ホームセンターで、ねこ草を買うに当たってセルフレジへ行ってしまうと、ねこ草に合うサイズのレジ袋が用意されていない事に気付く。大きなレジ袋は不要というか、ねこ草の場合は大きなレジ袋に入れたら引っくり返ってしまい、泥を袋の中にぶちまけてしまうのも自明なのだ。とゆー訳で、有人レジの方へ並ぶ。きめ細かな対応をしてくれるのは有人レジの方だよなぁ…と。ただ、経済動向とか社会の方向性としては、きっとセルフレジが拡大していくのかも知れない。で、面倒くさい客とか、手間のかかる客だけが有人レジへ集まる。しかし、そうなればそうなったで、悪循環が起こるんだろうなぁ。手間のかかる仕事だけ、やたらと取り扱い業務を増やしてしまったコンビニで済ませ、ガツンとした買い物は合理化がなった量販店で済ませるという消費行動をとるという方向性へ向かう気がする。機械化やAI化を遂げた側は楽な客だけを集め、より収益化が見込める。

キャッシュレス決済キャンペーンはホントは常軌を逸している。赤字覚悟でポイント還元をやっているという事が、もう、その将来を暗示しているんですね。クレジットカードやポイントカードというのはそうもので、バブル期には意味もなくクレジットカードを何枚も何枚もつくらされた記憶がある。私は当時から用心深かったので、そんなに枚数は重ねませんでしたが、友人の中にはステイタスだとそそのかされた者もあった。キャッシングなんて銀行に預金があるか現金を持っていればする必要がないのに、「キャッシングできる」という機能がある事を知り、且つ、当時は消費者金融のテレビコマーシャルが全盛だったので、抵抗なくキャッシングをしてしまう。で、散財となる。キャッシングにしても、ホントにコントロールできる者が利用するのであれば問題はないが、総じて、そこに抵抗感を感じない者の金銭感覚は緩い。時代に迎合的であり、商業ベースのそれにのせられているという自覚もないと思う。今、言えば「バカだった」と考えるかも知れませんが、広告というのは巧妙であり、そういう意識を持たせないようになっている。いやらしいことには「今の時代、キャッシングもしないなんてオックレてるゥ」という軽薄なノリが、実際に、その時代の空気を支配してしまうものなんですね。


これで未来はどうなるんだろ…。結局は、デジタル化社会への転身が進めば、どんどん対人窓口は減少する。しかし、ホントは或る時期から電話が繋がりにくくなって要件に沿って1時間とか2時間も待たされるようになった事と照らし合わせると、対人でのサービス窓口には困った人を殺到させ、困っている人の不便は解消されず、また、その対人サービス窓口を持っている企業だけが収益と無縁なところで忙殺される。そして、それらの日常の中の非日常の困窮時の対応を置き去りにして、目先のデジタル化がサクサクと社会に普及する。そういう利便性の中で生活する事がなるが、その利便性の裏側には富の一極集中を促進させ、一たび、対人の窓口を設けてしまうと、困窮者らの対応に採算度外視で応じる事を要求され、翻弄される未来が待っている気もする。きめ細かなサービスなんてのは合理性で言ってしまえば、ムダなのだ。信用なんて不要。カネを使いそうなヤツに売るだけ売って対応窓口は「非常に混雑しております」と言って待たしておけば、それが最も効率的だ。

資本主義の本質が顕われているのは不動産の契約時の、あの「更新料」とか「事務手数料」だよなって思う。更新するのであればカネが必要です、そして契約書を取り出して確認して修正したから手数料ですってなる。ホントに何か金銭を移動させるだけのサービスが提供されているワケではないんですね。単なる強者と弱者の差異だと思う。生産手段を有さない者から生産手段を有している者(資本家)へ金銭が移動する仕組みになっている――それだけ。

ネット通販が普及すれば、店舗を有する実店舗の形態は収益を奪われ、やがて地域から撤退してゆき、その後に残るのは助成金を投入されている公共性の高い仕事だけで、市場、市場と言うけれど、発注する側と受注する側とのバランスは崩れ、ロクに利益も出ないような仕事に中小零細が食らいついて、なんとか社会が回ってゆくってイメージなんじゃないだろか。

町中の看板を見るべし。その看板は、高齢福祉施設か歯科医、動物病院である確率が7割ぐらいになっている。動物病院は例外として、他の二つは保健制度によって公的な金銭が入れられているから成り立っている性格であり、市場原理が自力で自由主義経済を為している状態とは既に言えなくなっていますやね。私学の筈の早稲田大学に年間90億円を超える助成金が出ているってのも最近、気付きましたが、もう、そういう公金が投入されているところしか生き残れない経済環境になってしまっていると思う。ホントは自由市場とか健全な市場原理なんてものが機能しているって印象が薄いんですよねぇ。民が民を相手にして自由に経済活動をしているのではなく、その中間にグローバル資本主義やら政治が介入してしまっている。自由に形成されている経済ではなく、予め企図された計画経済社会だよなって思う。自分のカネ、自分たちのカネで回している経済ではなく、グローバル資本主義の下、国の都合で、都合よく回されている経済環境の側面が大きくなっている。

10年、いや15年も経過したときには、産業の空洞化というものに直面し、ただただ、日本国内に残っているのは大手企業のサービスに依存して生活をしているだけの、単なる消費する動物、電子決済して消費するサルになっているって気がする。

ussyassya at 00:32|この記事のURLComments(0)雑記 

2019年04月23日

キャッシュレス決済促進キャンペーンの罠

夕方の日テレのニュースショウ番組内で話題の電子マネーの使用方法が解説され、その数時間後のテレ朝のバラエティ番組内でも、タレントが実際に「PayPay」と「LINE Pay」のアプリをダウンロードして使用するところまでを見せる内容で、驚きました。正直、テレビは電子マネーキャンペーンに前のめりになっている。口を揃えて、便利、便利といい、ジャニーズ事務所のタレントに

「知らない人にも教えてあげたい」

なんて言わせている。

この問題もウンザリですが、ここにきて、ひょっとしたら政・官・財の思惑が一致してしまった事で、電子マネーのゴリ押し、キャッシュレス礼賛の音頭が鳴り止まなくなってしまったなぁ…と感じていたりする。よぉぉぉく、物事を冷静に眺めると、もう容赦なくカネゴンたちが「お得、お得」、「便利、便利」を合言葉にして政官財マによるキャンペーンが展開されているんじゃないのかなって思う。そもそも消費税還元策としてのポイント還元あたりになると、もう、殆んど国家というよりも半グレ集団みたいな発想だしねぇ…。(経産省と財務省は電子マネーが普及して欲しいという思惑で一致している。)

そんな中、やはり、週刊新潮さんは一味違うアプローチで、キャッシュレス狂騒曲に異議を唱えていました。以下、週刊新潮4月25日号の特集『「キャッシュレス」のバスには乗らない!』に沿って。

因みに、この「バスに乗り遅れるな!」という掛け声は、1940年の日独伊三国同盟への参加を煽った掛け声だそうな。「バスに乗り遅れるな!」という掛け声に煽り、煽られ、対米開戦への道を歩んだが、同じ過ちを犯すなの意で、使用されている。

表向き、このキャッシュレス推進策をとっているのは経産省であるという。消費税還元策としてキャッシュレス決済の場合は2〜5%のポイントで還元するという世紀の愚策を掲げているのも経産省であるという。

「誤解していけないのは、キャッシュレス決済は顧客のためのものではなく、ビッグデータの収集や人件費の節約など、あくまでもお店や、サービスを提供する側のためのものだ、ということです」

と言うのは、消費経済ジャーナリストの松崎のり子さん。

〜中略〜

実際、みずほフィナンシャルグループは、日本では現在、現金を取り扱うためのコストが年間8兆円にもおよび、キャッシュレス化でそれを半減できると試算するが、べつに消費者の利便性が増すという話ではない。松崎さんが再び言うには、

「日本は爛ャッシュレス後進国瓩世肇優ティブに表現されますが、だから日本が遅れているとは思いません。現金を使う人が多いのは、裏返せば、現金を持ち歩いても襲われる心配が少ない治安のよさ、レジで瞬時に計算ができる能力の高さを示しています」


最早、このテの議論は過ぎた感もありますが、未だ宣伝媒体のプロモーションは、これみよがしに利便性を強調したり、現金決済に対してのネガキャンを展開していますかね。。。

そして、20代記者に実際に現在、猛プッシュされているスマホによるキャッシュレス決済、つまり、QRコード決済の体験レポートをさせている。

.撻ぅ撻い砲弔い

「スマホにアプリをダウンロードすると、電話番号とパスワードの入力を求められます。入力すると4桁の数字が記されたショートメールが届いたので、アプリに戻ってこれを入力。ひとまずペイペイのアカウント作成が完了し、初回特典として500円がプレゼントされました。コンビニでアプリの犹拱ГΝ瓮椒織鵑魏,掘表示されたバーコードをレジで読み取ってもらえたら、すぐにパンと飲み物が買えました」

記者もここまではご満悦だったのだが、すでに残額はわずか。そこで、

「爛船磧璽賢瓩箸いΕ椒織鵑魏,垢函↓犇箙垳座の追加が必要瓩箸良充─ヤフーウォレットやヤフーカードが使えるそうですが、持っていないので、犇箙垳座を追加する瓩鯀ぶと、Yahoo!JAPAN IDの入力画面になりました。やっとのことで、過去に作っていたIDを思い出して打ち込み、口座情報の入力に辿り着きましたが、まず年齢、性別、住所、職業、利用目的を書かされてやっと銀行のページに。入力した口座情報を確認して手続きが完了しました」

すでにかなりうんざりしながらも記者は

「飲食店に行き、ペイペイで支払おうとすると犹長發足りないですね瓩噺世錣譟▲▲廛蠅硫萍未鮓ると、爛船磧璽犬垢襪他の支払い方法にするか瓩箸いι充┐。数十円足りないだけで1000円チャージすることに抵抗感があり、結局、クレジットカードで支払いました。ペイペイにクレジットカード番号を登録してカード代わりに使えるそうですが、だったら、最初からカードでよかったなぁ」


LINEペイ

「LINEに機能を一つ追加するイメージで素早く登録できましたが、6桁のパスワード設定が必要で、忘れそうで不安に。この時点でATMからチャージして使えますが、利用限度額を引き上げ、友人に送金したりできるようにするためには、銀行口座の猖榲佻伸瓩必要でした。〜略〜クレジットカードからチャージができません。銀行口座からスマホにチャージするのに抵抗があったので、コンビニのATMからチャージしましたが、わざわざコンビニに出かけて現金をチャージするなんて本末転倒。だったら最初から現金でいいじゃないですか」


3敕轡撻

「アプリをダウンロードしたら楽天IDを入力。楽天IDを事前に持っていることが必須です。次にクレジットカード情報を入力すれば、概ね設定は完了で、あとはほかと同様、アプリを立ち上げてQRコードを表示し、読み取ってもらいます〜略〜」

「買い物をするごとに1%の楽天ポイントが貯まっても、有効期限は最後に使った日から1年。登録カードを楽天カードにすると還元率が上がりますが、クレジットカードの数を増やすには抵抗があります」


となる。前出の松崎のり子さんは、既に一ヵ月間ほどキャッシュレス決済の生活をしたといい、そのコメントが以下になる。

「ペイペイは、端末に携帯をかざすだけで決済できる時と、手動で携帯に金額を入力し、店員さんに確認してもらう場合とがありますが、後者では入力ミスをしないかとヒヤヒヤです」

この客が自分のスマホに金額を打ち込み、店員に確認してもらう中で支払うというシーンは、テレ朝のバラエティ番組内でも、うなぎ店の決済シーンで映されていましたが、確かに数字の打ち間違いって起こらないのかなって感じました。手打ちレジの場合、一定の確率でミスが発生する。しかし、手動であるが故に打ち直しができる。スマホ決済でどうなのかな。

更に続く。

「一ヵ月で5万5千円ほどキャッシュレス決済し、返ってきたポイントは781円分。〜略〜そのうえ、多くのキャッシュレス決済は、何を購入したかの明細が出ないので、家計簿で管理するためにはレシートをもらう必要があり、そrをしまうために財布を出す、という不思議な行動が必要になるんです」

そして、テレビ露出も多い経済ジャーナリストの萩原博子さんは

「ペイペイは一度チャージしたお金を銀行口座に戻せず、LINEペイは手数料が216円かかります。また放置すると、ペイペイは最後の利用から2年、LINEペイも5年でチャージしたお金が消滅します」

といい、更に部分的切り取りとして「こうした還元キャンペーンが今後も行われる保証はありません」と釘を刺している。


或る時期から沸き起こったIT系のビジネスは、結構、露骨ですやね。年会費や利用料のようなものを容赦なく一方的に値上げしてくる事を知っている。amazonプライムビデオだかもスコンと値上げがあっただかどうだかって聞いたけど、私の契約しているケーブルテレビなんてのも、向こうの都合でプログラムを変更されてしまい、継続するには価格の高いコースしか選択できず、しぶしぶ更新したのでした。ああ、ヤフオクも10年選手だけどジワジワと値上げされてしまい、結果、ヤフオク自体が一時の「出せば何でも値段がついちゃう」という状態からは程遠くなり、一時期は「値切り交渉」なんていうアイコンまでつけられてしまった時期もあったっけ。

おそらく、キャッシュレス決済、ビッグデータに群がっている企業の狙いとは、確実にコレであり、一定以上のシェア拡大が成った暁には、値上げを断行してくると予想できる。勿論、還元キャンペーンなんてのは、疑似餌、エサですな。渡辺美智雄に倣えば、毛ばりにかかる魚みたいなもんだという話でしかない。


さて、過去にも西部邁の造語である「テクノマネー・マニアックス」をさんざん取り上げた通りで、どう考えても、現在、政府が強硬に推し進めている「ゆくぞ!日本全国どこまでもキャッシュレス〜GO! CASHLESS 2020」というキャンペーンは亡国のキャンペーンであると思う。これを主導しているのは、奥底では財界であるが財界から評価されたい経産省がゴリ押しキャンペーンをしているのが実相のように思う。また、厄介なことに電子化は国税庁や財務省にしても悲願であり、監視強化と共に、とりっぱぐれなし世界を実現する絶好のチャンスにもなってしまっている。現在は、大盤振る舞いのポイント還元などが行なわれていますが、あんなものは続きやしない。

しかし、こうまでも経済、経済といっていい、カネ、カネ、カネで政治が動いてしまっている状態というのは、確かに、まるで憑物にも憑かれてしまったかのような感慨もありますかねぇ。「マニアックス」という命名には確か「取り憑かれているようだ」的なニュアンスが込められていた記憶がある。要は、カネが儲かる、経済が活況になるのであれば、公金も惜しげもなく投入するでという事になっているって事ですからねぇ。カネの亡者みたいなもんかも知れない。

アメリカの行動経済学者だというダン・アリエリー氏は著書の中で、キャッシュレス化とモラル低下の関係を述べているという。キャッシュレス文化が進むと道徳が劣化するというのだ。現金というのは実物だからごまかしが効かないところがあるが、これが電子データや数値になると、嘘やごまかしが増えるらしいんですね。新潮の引用だけでは分かり難い部分もあるのですが、おそらく実物としての現金や財布を盗むよりも、電子データ化によりダマして盗み取るという事の方が、罪悪感を感じないであろうという仮説に基づいているのかな。キャッシュレス決済という消費行動そのものしても、経済観念や金銭感覚をガバガバにする事は既に指摘されてきた通りでしょう。

既に、或る種のポイント還元キャンペーンのようなものがホンネを隠して利便性だけを強調し、キャッシュ派に対しては殊更な「時代遅れ」とネガキャンを張っていたりする時点で、もう或る種、公衆道徳の劣化とか、民度の低下を招いている気がする。

政官財マは公然と搾取する側の論理を隠さなくなってきているんでしょうねぇ。B層さえだまくらかせれば、このまま階層の固定化に成功し自分たちは安泰だ。それと厚生年金や社会保障制度の改正の動きと合わせると、更に格差を拡大させたいという野望を隠さなくなってきている。高収入高齢者に対しての、年金給付を制限する措置というがあるのですが、その制限規制について「労働意欲の低下につながる」とし、高収入の高齢者受給者に対して、その高額の給付であろう年金額を差し引いたり、相殺せずに給付する制度への法改正が検討されているという。カネ持ちはよりカネ持ちに、貧乏人はより貧乏に、法律で誘導しているんだと思いますけどねぇ。選民思想ですな。

2019年04月21日

統一地方選が終わって

統一地方選が終わって、現在、開票即票を待っているところ…。あと数時間もすれば、結果がシロクロと出てしまう。

私の場合は、小さな町に住んでいるので各候補者と顔を合わせる事も珍しくなく、選挙を前にした候補者の横顔も眺めている。そそっかしいところがあるが反面、情熱をちゃんと持っている候補。老獪と評されているが、或る意味では現状の政治の本質を突いている候補。主張は極めて平均的であるが性格的に清廉であり、信用ができるタイプの候補。既にベテランであり、評判もよろしく当選を確実視されている候補、ずーっと立候補する事を隠していたが急に「立候補します」と挨拶にきた若く見える候補などなど。まぁ、基本的には全員、及第点以上だろうと思う。これを甘い評価と思うなかれ、これが実際に15年前、20年前になると、選挙後に逮捕されて新聞のローカル版にも実名が掲載され、後に顔を合わせると「留置場に泊まって来たよ」なんて武勇伝になってしまう候補があったんですね。カネを撒いたり、怪文書が飛び交ったり。

しかし、今回、なんだか選挙自体が盛り上がらなかったんじゃないのかなって気がしている。一人の候補が口にするに、

「国政の話題にはみんな関心があるのに、地元の問題に関心がない人が多過ぎですよ。若い人とか投票所に行ってくれているのかどうか…」

となる。実際、これが政党政治、テレビ政治の弊害なのでしょう。「どこそこの地区から誰々が立候補するってよ」という、そのローカルな、お祭りイベント性がなくなってしまったんですね。

誰々の事務所には、お年寄りたちが沢山あつまっているという。その通りだと思う。特に年配の男性は、何故か選挙が好きなのだ。いやいや、考えようによっては、担いだ神輿で、他所の地区と喧嘩神輿をするような奇妙なノリで、盛り上がれるのだと思う。泥臭く、田舎風だ。しかし、割り切ってしまえば、それが「マツリゴト」の本意に近いのかも知れませんやね。

60代とか70代の老獪な老人の本性を見よ。ペコペコしていると思ったら大間違いで、背後から刺す気満々じゃないかってタイプの人まで、おっかないジイサマたちの本性が垣間見れる。経歴からすると優等生な人が若年候補者に対して「コイツみたいな奴だけには負けたくないんです」と感情的に吐露する。或る意味では生々しい人間模様が出るのだ。

或いは、政党が政党なので、この人が他人の悪口を言っているのは聞いたことがなかったが、選挙の対立候補の話になると毒づき出す。ああ、人間の本能だよなって思う。また、酔っ払いに絡まれても議員だから言い訳することもできず、苦笑いしたりしている横顔であるとか、クレームに平謝りした後にホンネを吐露する横顔とか、実は、どれもこれも豊かな個性で成り立っているなと気付かされる。

市議、町議、村議なんて、そこら辺のおっさんやおばはんじゃないかって感覚があると思う。その通りなんですね、そのヘンのオッサンとかオバハンだ。しかし、そういうフツウに生活している人が、いざ、市政、町政、村政をするにあたって、どういう考えをしているのかは興味深い。そのまんま、テレビ的な言説の劣化コピーを復唱するのか、或いは、そうではないのか。私は後者に生々しさを感じました。そこにホンネがある訳ですからね。


追記:結果オーライとなりました。どんどん地域が地域として機能しなくなっていくであろう傾向は、今後も変わりませんが、地方の首長選や一般議員選から関心が薄れてゆくと、地方が没落するスピードが早まるのは確かなんじゃないのかな。

で、顔見知りの候補者がボーダーラインという事で注目していたのですが、その当落を分ける一線というものに思いが到ることとなりました。

先ず、支持母体の有無が大きい。政党に所属して政党から擁立されている候補者は、おそらく計算通りのラインをクリアするし、その他のPTA関連団体や自治会・行政区などの支援を受けている場合も固定票を見込める。これら支持母体の存在は、或る種の固定票に似たものでもあり、察するに必ず選挙に足を運ぶタイプの人たちでもあるのでしょう。多くの票を集めているのは、そういうタイプの候補者なのかな。

思いの外、票を獲得しない候補というのも何となく分かってしまった気がする。本人に自覚があるかどうか微妙ながら独り善がり、つまり、独善的なタイプの候補者は、思いの外、票が集まらない。当然、支持母体がない事と関係しているし、その主張にしてもプロモーションにしても、どこか独善的な部分が露見していまっている。おそらく、優秀な経歴や華麗な経歴の持ち主であり、立候補するぐらいなのだから情熱も理念もあるのでしょうけど、反面でプライドが高さなどが見えてしまっている可能性がある。ポスターや選管の発行しているチラシのプロフィールだけでは分からないのだけれども、実は隠然とした差がある。何故なら、先日触れたニシベの著書も指摘していましたが、ホントは、このテの選挙とは人気投票の側面がある。特定の支持母体がない場合、無党派層の票を争うことになりますが、完全にイメージのみで票の多寡が決まっているように見えましたかね。

ussyassya at 23:12|この記事のURLComments(16)雑記 

2019年04月19日

「正しい死」と「自己啓発受容」

或る時期から、社会に右傾化・保守化が起こったと思う。元々は中道左が主流であったところ、気が付いてみたら、より保守的傾向が強まり、更に近5年ぐらいになると高校生や大学生の政党支持としての保守化傾向というものを認識している。

これは単純な話ではないと思う。私が眺めてきた感覚に頼らざるを得ない部分もありますが、或る時、深夜のテレビ番組、フジテレビだった記憶がありますが「小林よしのり」が東大生らに支持されているという具合の放送を視て、それを自覚したのでした。確かにSPAという雑誌に「ゴーマニズム宣言」が掲載していた頃、私からすると小学校の頃に読んでいた「東大一直線」の著者が、そういう方向の漫画を描いていた事にオドロキもあった。センセーショナルな漫画だなという自覚はありましたが、まさか一時的なものであったとはいえ、思想的なメインストリームになるとは正直、考えもしていなかったんですね。

しかし、そういう現象は確かにあったと思う。田原総一朗さんは「今後は小林よしのりさんみたいな右派がどんどん登場するんじゃないの」的な発言を目にした記憶があるし、三浦展(みうら・あつし)さんの対談本の中には「小林よしのりさんの著書は分野で言えば思想書でしょ?」という趣旨の発言を目にした記憶もあるし、最近、購入した水木しげるの漫画の中でも水木しげる自身が、書店に『戦争論』を買いに行き、目を通し、複雑な感慨と胸騒ぎをおぼえたという実体験を描いたであろう短篇漫画にも触れた。「言論の人」と認識されるようになった「小林よしのり」という記号、象徴で、世の中の軸が右へと傾いた事は、否定することなく認識できると思う。また、この辺りの事は、ホントは確認するまでもなく、そうであり、では、小林よしのりさんを救世主と奉じるようにして右傾化が形成されているのかというと、それも違う。一時的には「よしりん信者」のような層も形成されていた可能性もあるのですが、さほど大きな影響力を持っていた感じはない。どちらかといえば転換期、転機に、言論活動をしていたのが「小林よしのり」というワードであったような気もする。裏返すと、多くの者は、複雑な事に小林よしのりさんを教祖にしているでもなく、右傾化或いは保守化が起こっているとしか思えないんですね。

で、17日付の読売新聞の27面、これは文化面ですが、そこで紹介されている小さな記事に視線を落として、色々と考える機会を得ました。記事は、井上義和・帝京大准教授(歴史社会学)を紹介するもので、その井上氏の主張が「特攻隊員に対する自己啓発的受容」という内容らしく、これ、パッと見は分かり難いんですが、よくよく目を通してみると、色々と符合するのではないかという気がしている。

さて、特攻作戦について、どういう感慨を抱くだろうか?

ここが、もしかしたら重要なのかも知れないので、以下を読み進める前に、立ち止まって、どういう感慨を持っているから想起してみるのが好ましいと思う。「美しい」と感じるだろうか? 「本来の日本はこうあるべき」と感じるだろうか? それとも「誰だよ、そんな命令を下したのは?」という風に考えるだろうか?

井上氏は、2000年以降、特攻隊員の遺書に触れた企業経営者やスポーツ選手らが、彼等に感謝を示し、それに続けて「私は生き方や仕事のやり方を一変させた」という具合の語り口が急増したという。少々、この部分は複雑だ。新聞記事も分かり易く書いてあるとは思えない。つまり、井上氏は、そういう言説が急増している事に気付いたの意だ。より、前後の文脈を汲み取って、説明し直すと、2000年以降、企業の経営者やスポーツ選手らが、特攻隊員の非業の死を語り、また、それに思いを馳せて、それに続けて「私は生き方を変えた」とか「仕事のやり方を変えた」のような言説を繰り出すようになり、それが急増したという認識から成り立っている。

更に補足が必要かも知れない。これが何を意味しているのかというと、2000年以降に登場した或る種の精神論であり、「活入れ」であり、その切欠として特攻に係る非業の物語が用いられ出した事を指摘しているのだ。誤解、先走りしないように一言を附しておきますが、そういう人があっても構わない訳です。「特攻による戦死者は美しい。自分も憧れる。だから私も、そのような生き方をする」という風に受け止める者も一定数はいるかも知れない。しかし、これが、厭らしい事に、成功者であろう企業の経営者や、勝ち組のアスリートらが言い出した事で、「死ぬ気でやればなんとかなる」という犲己啓発瓩暴颪換えられて、社会に流布された可能性があると分析しているのだ。

ここで、私が認識するところの、「小林よしのり」というキーワードの登場によって世の中に右傾化が起こったという曖昧な認識、それを補えるものだなと、閃くことになりました。或る時期、おそらくは、同じ年代なのだと思うんですが、びっくりするような自己啓発ブームがあったと記憶している。こんなに自己啓発本の広告が新聞広告になっているのは異常じゃないのかなっていう感覚ですね。ホントは宗教なども似ていてるし、スポーツ選手の事を、やたらと「アスリート」とカタカナで呼び出して悪口を言わなくなったのも、その頃であったんじゃないかな…。「アスリート」や「アーチスト」は崇め奉る存在になった。そして兎に角、やっためたらと自己啓発を掲げる言説が幅を利かせ、有難がる風潮みたいなものが出来上がり、物凄いスピードで社会が締め付けれていき、タイトになっていったような感慨がある。

「未成年でも大学生の飲酒や喫煙は容認する」というのが常識だったのに、或る時期から厳格な線引きをし出した。自転車の二人乗りについても同じですかね。大昔から二人乗りは違法であったが、ゆずの「夏色」の歌詞にも唄われているように、ざっくりと云えば「まぁ、あんまり堅いことは言ってやるなよ」という、どこか寛大・寛容な言説が主流だったと思う。これらは法治主義が世の中を縛り出した現象ですが、社会全体から寛容さが消え、タイトになったが故に語れる話であると思う。で、おそくらは、年代や世代は、それと似ていて、実は保守的言説としての自己啓発論が爆発的に拡大した時期があった可能性があるな、と。

おそらく基本的には世間知らずである若年世代というのは、反抗的なものであると言えるのだと思う。基本的にね。しかし、もしかしたらジェネレーションギャップの陰に隠れて、精神的な変革が起こっており、長い物には巻かれるべきといった、そういう精神論的な守旧派が増えたのかなという気がしないでもない。これは「ネトウヨ」の定義が難しいのにも共通していて、「何故、あそこまで排撃しないと気が済まないのか?」とか「何故、徹底的に自己責任論を展開しようとするのか?」にも繋がっていると思う。一つには、精神的に余裕がないのだと思うし、一つには、精神的に余裕のない社会に変質したのでしょう。40代後半もしくは50代の論者からは、度々、「尾崎豊」も社会学の問題で引っ張り出されますが、基本的に若年世代に成ればなるほど、反抗や非行、逸脱に対して、余裕を持っておらず、排除・排撃の対応をしていると思う。言論ベースでも同じ。ギャップ論の肯定、或いは拒絶反応によって、徹底的に拒否してしまえる時代だから尚更だ。

♪この支配からの、卒業

と唄ってみせた尾崎豊の尖った感性は、おそらくは大真面目に評価されてもいい感性であったと思う。その歌詞の前後を追えば「自由とは何か?」という問いにもなっており、ああしたものを評価できなくなっているというのは、感性に型を嵌めてしまっているからですやね。つい先日も、西部邁の著書で明治時代の人、福澤諭吉や中江兆民、西周(にし・あまね)に触れて、そもそも自分勝手と自由を別けて理解していて、不自由の中に自由を発見するものであろうという話に触れたばかりでもある。

現在進行形でピエール瀧さんに係る署名運動が起こっているようですが、或る時期から他罰感情が異常に膨れ上がってしまい、ドラマの内容からCMソングの歌詞についてまで、世論が掲げるところのモラルという箍(たが)とか型(かた)を掛けてしまった。その作品と、その作者の犯した罪とは別個の問題でいいんじゃないのという考え方は許してくれない。中世ぐらいの勢いでもって、「そんな犯罪者が出演している映画や、犯罪者がつくった楽曲は邪教なのです!」と反応しているんじゃないのかなって思う。実際、不倫する芸能人を本気で断罪し、一方で他意もなく発せられた「頑張れ」という声に対しても「頑張れって言うなっ! オレがどんなに苦しいのかオマエに分かってたまるかよっ!」とヒステリックに返す事を正当化してきているんですね。

で、これらの事を踏まえると、2000年頃から自己啓発的受容が広まったという風に分析をしている井上氏の見識とも合致しているかも知れない。また、この井上氏の場合は、この2000年頃に登場した特攻隊員に対しての、或る種の畏敬の念、感謝などが、美化や美学になってしまったのではないかという切り口をされている。ここは誤解が生じ易い部分なので、記事をまとめた読売新聞文化部の小林佑基氏の文章を引用してみる。

従来なら「戦争は悪い」「特攻作戦は間違いだった」という知識と、「特攻隊員は顕彰するものではない」という感情はセットで、隊員への顕彰や彼らへの感謝は、美化・不謹慎とされてきた。だが、自己啓発的受容の言説は、戦争や特攻作戦そのものは批判しているものがほとんど。

これは鋭い考察だなって思う。その昔、野村秋介が映画館に電話を掛けまくって上映の目途がついたという川谷拓三主演の映画「北緯15℃のデュオ」は神風特攻隊のはじまりを俳優の川谷拓三が旅行して歩くというだけのシブい映画であった。内容からすると特に極右思想というものでもない。むしろ、怒りや悲しみは別のところへ向けられている。散っていった特攻隊員の足跡を追うように旅をする。すると何某かの形容しがたい感慨に到ると、それは怒りに変わって、「一体、どこの誰が、そんな無茶な命令を出したのだ!」とか「誰がそんな作戦を考え出したんだ!」という怒りに変わるんですね。確かに、特攻隊の話というのは、冷静に事の成り行きを眺めると、そうなる。これは鈴木邦男さんの著書でも同じ傾向を読み取った記憶がある。少なくとも民族派、新右翼と呼ばれた系統では、軍事的合理性から逸脱して人命を軽んじた事に怒っているのが真理なのだ。

裏返すと、日本会議をはじめ、靖国神社の遊就館などは、何やら戦争美化ともとれるような右翼思想として奇異に映ることがある。基本的な態度としては、戦争を美化すべきではないのですが、いわゆる過熱化しがちなネトウヨ的な言説というのは、そこら辺で大きな隔たり、乖離があるように見える。

ここに曖昧さがあるのは確かでしょう。そりゃ、戦死者を犬死扱いをするものではないが、特攻の問題は「御国の為に玉砕せよ」であり、実際には死刑宣告のようなものなんですね。戦況を加味したとしても、ひょっとしたら軍事的合理性に反していた命令であったかも知れない。しかし、玉砕した英霊には同情を禁じ得ないし、また、神聖視するが余り、深部まで踏み込むことなく、その悲劇性に美学を感じ取り、そこに過剰なシンパシーを抱き、更に2000年代以降の日本で、それが自己啓発にしているのだとしたら――。

心の底では滅私奉公をバカにしながら、それでいて自己啓発的受容が起こっている事というのは、確かに不可解であると思う。過労死する者の悪口を云う訳にはいかないが、それでいて過労死する迄、いやいや心神耗弱して、その判断能力を喪失するまで働いてしまう事の精神病理に踏み込まない日本の現代人は異常なのではないだろか。バイトリーダーとか名ばかり管理職とか、或いはアルバイトにフランチャイズチェーン店をワンオペさせていた等というのは、ホントは、著しいまでの洗脳的な自己啓発受容が関係していたのではないかなって気がしないでもない。


さて、河合敦著『世界一受けたい日本史の授業』(二見書房)では、神風特攻隊について掘り下げた解説が記してある。同著に沿って以下へ。

先ず、通説では「特攻隊の生みの親」は大西滝治郎中将という事になっているという。

大西滝治郎中将は1944年10月中旬、フィリピンのマニラ司令部に海軍第一航空艦隊司令長官として赴任したが、このタイミングは、ミッドウェー海戦に敗れて劣勢となり、この大西赴任の数日前に台湾沖航空戦で日本海軍は400機近い飛行機を喪失しており、大西赴任時には使用可能な飛行機は100機程度。更に、その内、戦闘機は僅か30余機であったという。絶対防衛圏としていたサイパン島も奪われ、既にアメリカ軍はレイテ島に集結していたという絶望的な状況であった。そんな状況であったが大本営の方針は「全力でアメリカ軍のフィリピン上陸を阻止せよ」という方針であった。そこで、日本海軍の主力である連合艦隊がレイテ湾に突入、大西の率いる第一航空艦隊は連合艦隊を敵機の攻撃から守る役目を負う事となった。持ち駒からすると、到底不可能なので、大西中将は敵空母の飛行甲板を使用不能にする為の、体当たり攻撃を実施したというのが経緯なのだ。

これを考慮すると、大本営の無理な要求が、それを実行させてしまったような感慨も湧いてくる。

確かに実際に神風アタックの命令を下したのは大西中将であるが、必ずしも積極的にそうしたのではなく、大西中将にしても、特攻には反対していた事が分かっているという。戦況、状況として追い込まれ、その命令を下したという。

では、大本営だけが狂っていたのかという問題が残る。すると、これにも少し事情がある。大西滝治郎中将の背中を押してしまった出来事として、第26航空戦隊司令官であった有馬正文少将の死が関係しているという。この有馬少将は、1944年10月15日、部下たちの前で特攻の必要性を説き、「誰かリーダーになる者はいるか」と尋ねたが、部下たちは首を垂れて沈黙した。部下の下にも部下があり、一たび、その決断をしてしまうと部下を殺す事になってしまう話なのだ。しかし、この有馬少将は「誰も居ないなら私がやる!」と発言し、同年10月15日午後、高井貞夫大尉から飛行服を借りて一式陸攻に乗り込み、単身、敵艦への体当たり攻撃を敢行したのだ。

同20日、大本営は事実を国民に公表する方針を採り、同日付の東京朝日新聞は「空母へ先登の体当り、壮烈、航空戦隊司令官有馬正文少将」という大見出しが踊ったという。また、その報道は、国民の感動を誘ったという。そして、同21日に神風特別攻撃隊が編成され、その敷島隊が出撃するも悪天候によって一度、引き返し、同25日、敷島隊が改めて出撃して戦果を挙げ、神風特攻第一号となった。つまり、もう戦況にも厳しいところにきて大西中将のケースは有馬少将の特攻と、それを称える大本営によって先鞭もつけられてしまい、状況としても引くに引けない状況に追い込まれていた可能性が高いのだという。この大西中将は敗戦後に遺書を残して切腹して果てた――。

しかし、厳密には、この戦果を挙げた25日の敷島隊が神風特攻の第一号ではないという。何故なら21日に編成された神風特別攻撃隊が編成され、その大和隊の隊長であった久能好孚(くのう・よしただ)中尉が戦果は挙げられなかったものと推測されるが、おそらくは特攻したと強く推測する材料があり、実質的な特攻第一号であるという。更に、23日に発足した菊水隊2機が敵空母に損傷を与える特攻を行なっていたが、その戦果を報告する電報の差で、神風特攻第一号は華々しい戦果を挙げた敷島隊のものとなったという。

そして皮肉にも、この敷島隊の挙げた戦果が大きかった事によって、陸海軍によって特攻、つまり玉砕戦術は拡大してゆく事となり、1945年4月から始まる沖縄戦では統計はまちまちまながら、約4000名もの兵士が特攻によって命を失ったという。(特攻の命中率は10%と推定されている。)

確かに、こうした歴史の総括、敗戦の総括は為されているのか、その問題がある。或いは、また、こうした話が、いつの間にやら現代人の自己啓発の受容と関係しているのだとしたら、中々に、厄介な事態なのかも知れない。

井上義和准教授は「特定の勢力を批判することなく、議論を広げていくべき」と念を押していますが、現行の右傾化なり保守化なり、コスパ優先思考なんてのは、人間観や死生観を置き去りにして、どこへ行くつもりなんだろう。

2019年04月17日

八咫鏡のミステリー

フジテレビが『ノストラダムスの大予言』ブームの立役者であった五島勉、御年89歳を電話出演させて謝罪させたというけど、無粋な事をしてしまうものだなぁ。ホントは「ノストラダムスの大予言」という本が基本的に内容として予言や占星術を取り扱った面白い本であった事を忘れ、ただただ、「当たらなかった責任をどうとってくれるんですかっ!」と迫ってしまうと、そこらのクレーマー氏の心性とあんまり変わりはないと思う。きっと、占い師の占いが当たらないからといって腹を立てる。御神籤で凶を引いてしまい、心がメゲてしまったので受験に失敗しまったが、一体、この責任をどう取ってくれるんですかって言う訳にはいかないんでしょうにね。五島勉氏は当時からフリーライターとかルポライターと名乗っていたし、経歴としては矢追純一、中岡俊哉、五島勉らは日本テレビ系の「木曜スペシャル」のスタッフだったって話だしなぁ。

そこまでして責任を他人に押し付けたいってのはねぇ。ダマされた、ダマされたというけど、そんなに憤激する程に騙されたのであれば、さすがに、そのダマされた側の者の資質にも問題があるのでは?

――という話を枕にして、八咫鏡のミステリーについてを再現ドラマ調で。

茨城県北茨城市の竹内家は代々、皇祖皇太神宮(すみおや・すみら・おたましい・たまや)天津教(あまつ教)の管長の職を世襲してきた家系であるといい、その第66代管長を竹内巨麿で、第67代管長が竹内義宮という人物であった。同教の初代管長は竹内宿禰(たけのうちのすくね)であり、その66代目の孫が竹内巨麿に該当すると自称していた。

その天津教の竹内巨麿は昭和10年(1935年)、不敬罪で起訴され、その際に証拠品として没収されたものが「竹内文書」(たけのうちもんじょ)と呼ばれる神代文字で書かれていたとされる文書群であった。最終的に竹内巨麿は無罪判決を受けたが偽書「竹内文書」は竹内家に返還されず、そのまま、戦争に突入し、アメリカ軍の空襲によって、その大半は焼失してしまったとされる。

当時、異端の宗教に対しては不敬罪などが適用され、この天津教に限らず、同じ昭和10年に大本教の教祖・出口王仁三郎が投獄されてる第二次大本事件が発生している。また、更に話を拡大すれば、二・二六事件が発生するのは昭和11年(1936年)の事であり、また、その二・二六事件で民間人でありながら銃殺刑に処された北一輝も「タカマガハラ」なるものを崇めていたというから、その頃の日本は、急激な変化の中で、奇妙な神懸かりによって当時の神道的価値観や天皇観・皇室観に異を唱える「異端」が流行していたと推測できる。(日本中が精神的に強度の抑圧状態となり、集団ヒステリー的な、どうにかなっていたのではないか。)

「竹内文書」の信憑性そのものは論ずるまでもなく偽書であると強く推測できる。しかし、その裁判の途中、竹内巨麿の弁護を担当していた鵜沢聡明弁護士(後に東京裁判の被告側弁護団長になる)が、伊勢神宮に出張の調査に出向いた際、奇妙な噂を耳にしたという。具体的に、この鵜沢聡明弁護士がどういう風聞を耳にしたのかは定かではないが、それは日ユ同祖論(日猶同祖論)を裏付けるような風聞であったという。

そんな風説が巷間で囁かれていたのは、青森県八戸地方にあった戸来村(へらい・むら)の盆踊りではヘブライ語の、ユダヤの進軍歌と解せる一節があると指摘した川守田英二説などが下地としてあったと考えられるのだという。

ほぼ時を同じくして、やはり戦時下に宗教弾圧を受けていたという一部のキリスト協会でも不可思議な噂が沸き起こっていた。

日本ホーリネス教会は、その創立者を中田重治という。その中田夫人は聖書学院なる施設を営んでいたが、そこへ青山学院大学の左近義慈博士(後に国際基督教大学教授)が訪ねてきて、驚くべき相談を中田夫人に打ち明けた。

そして、その中田夫人が、夫・中田重治の弟子筋となる「きよめ教会」牧師の生田目俊造に、その話を切り出したのが、以下のような内容であり、ミステリーの発端であった。中田夫人は、最初に、

「これから話すことは絶対、口外無用」

と念を押し、それに続けて、

「青山学院の左近教授が訪ねてきて、驚くべき話を打ち明けられてしまった/左近教授が言うには、やんごとなき所に、古より神体と仰がれ給う鏡、その鏡の裏面には何か刻まされており、当初は模様と思われていたが、調べてみたところ、古代ヘブライ語である可能性が浮上し、その為、ヘブライ語の権威である左近教授に、その写しを示されたらしい…」

というのが凡その内容で、それを伝え聞いた「きよめ教会」の生田目牧師が感激し、同教会の会報誌『きよめの友』(昭和23年5月号)に「A学院のS教授が…」という具合の手記を残した。生田目牧師には三千年の時空を超えて、日本とエルサレムとが結び付くこと、その神の恩寵に感激したものだという。

そこから「賢所に在り、神体と仰がれている鏡」とは即ち「八咫鏡」を指しており、その背面には、旧約聖書の「出エジプト記」3章14節に記されている、神聖なる神の名が古代ヘブライ語で記されているという奇説が誕生した。

さて、八咫鏡の裏面には、神の名が記されていたという。しかし、その神の名を翻訳すると以下のようなものにあるという。一つには「我は有りて有る者なり」であり、又は「私の名は私である」及び「汝の名は汝である」であり、又は「私は永遠なるものである」に訳される文句でもあるという。

山根キクの『光は東方から』は戦後になって『キリストは日本で死んでいる』に改題されて出版されたが、この山根キクという人物は、そもそもからして「竹内文書」の竹内巨磨に師事していた人物であるという。つまり、この噂の出所は、ごくごく限定的、竹内文書に近い人たちの間で広がった風聞・風説と強く疑える訳ですね。

信憑性は兎も角として、小池一夫原作で池上遼一作画の『赤い鳩』(アピル)の題材にもなったし、面白い題材といえば面白い題材でもある。

拙ブログ:呑むか呑まれるか〜2011-10-20



追記:この記事から間もなく、小池一夫氏の訃報を知ることになりましたが、「赤い鳩」(アピル)は単行本は3〜4巻持っていたと思う。同祖論そのものは信憑性が低いハズながら、それを疑いたくなるような「断片」として日本とユダヤの共通項が挙げられていたのだったかな。これはラビであるトゥケイヤー師も一緒で、ホンネでは信じていないだろうが、確かに共通点があるという不思議を味わえる。

八咫鏡の風聞、このの広がり方というのも、「誰々に拠れば…」という伝わり方なので、実際に誰が当事者なのかが明らかではない中で、拡散していた辺りが、或る種のフォークロアとか流言飛語の特徴でもある。清水幾太郎の『流言蜚語』には、公開処刑された筈のピョートル三世が実は生きているという流言飛語が世の中を動かしたという例が紹介されている。なんと、公開処刑された筈のピョートル三世が各地で反乱を起こすんですね。死んでる筈なのに。しかもロシア国内に7〜8名のピョートル三世の亡霊が率いているという暴動が起こる。計画された謀略として、そう名乗った者もあったのでしょうけど、群衆は率先して、そうした風聞を信じたがるものでもあり、また、処刑した側は、そういう風聞を「バカな!」と思い込みながらも精神的に追い込まれてゆく――と。信じたいものを信じてしまう心理、おそらく、それは精神現象なのでしょう。

2019年04月16日

「東京小説 純愛篇」の感想

執筆時だか発表時には作者が還暦になっていたという『東京小説 純愛篇』に目を通してみて、作風に落ち着きのようなものを感じると同時に、野坂昭如のミソジニー(女嫌い)の一面が巧妙に描かれていたなと感じました。

51歳となる広告代理店勤務の男には妻と娘があり、一軒家を構えた。その男、つまり、夫は新聞配達をする少女の、ひたむきな姿に好意を寄せる。一方で、妻と娘に対しては嫌悪感だけを募らせている日常を描く。ブランドバッグを幾つも持ち、下着も脱ぎ散らかし放題。会社から帰れば、いつもテレビを見ながらポテトチップを食べて、ゲラゲラと笑っている妻と娘、しかし、その割には痩身用品などの収集には余念がない等々、かなり、妻と娘の、節操のなさを列挙する描写が続く。

そんな、いわゆる妻と娘のだらしない姿を列挙し、それと対比させての新聞配達少女に、純愛妄想を抱くという一連の短編小説でした。主人公の男は、雨の中でも自転車を漕ぎ漕ぎ集金にやってくる新聞配達少女に誇大妄想気味な期待を抱き、どんどん吸い寄せられてゆくというのが粗筋。

しかし、なんというべきか、描写が実は静かなる事例の列挙なんですね。内容としてはマンション暮らしの頃は、妻も娘もだらしなくなかったが、一軒家暮らしを始めたら、妻と娘がだらしなくなったという語り口なんですが、列挙の例が生々しい。

台所は食べたら食べたまま。かねて念願だったと、畳の部屋に安絨毯を敷き、これは後にダニの温床とかではがしたが、ベッドを入れた娘は、つまり万年床同然。周辺にジーパンブラウスブラジャーなどが散乱して、いっこうに気にもせず、いれものが新しいだけに目立つ無秩序は病原菌の如く四十坪に蔓延、さらに庭を蚕食(きんしょく)して、ガラクタ収める軽便物置二棟の中身は洗濯屋から戻ったままの洋服靴箱雑誌食器旅行鞄非常用食料パネルヒーターガス焜炉数年前からの中元歳暮、妻自身、「ここへ入れたら二度と探し出すのは無理」という。

物が溢れる現代人の生活ってのは、いつの頃よりか収納がテーマとなり、ゴミ屋敷が社会問題化して、更には「断捨離ブーム」が巻き起こり、世界的にも「スパーキング・ジョイ」でしたか、コンマリなる日本人女性が「心がときめかないものは、捨てるべし」という主張でアメリカで大成功しているという。思えば、物に溢れた大量消費時代のテーマでもある。そして、その中に人間としての劣化を疑うような「だらしない」という表現が顕われる。この小説に限らず、巷間で物を片付けられない人たちに対して、そう表現する時代になって久しい訳ですね。安絨毯、パネルヒーター、靴箱に旅行鞄なんてものは押し入れなり、物置なり、部屋の隅に置いたまま、埃まみれになっているのが、案外、現代人の生活なのかも知れない。

夫のみるところ、罪のほとんどは妻にある。下着類を収める箪笥の抽出し、すべてから中身がはみ出し、これも気楽さのあらわれか、トイレットのドアを使用中もきちんと閉めず、用済みの後は開けっ放し、風呂の蓋も同様。湯槽を洗わず、洗面所には化粧品クリーム歯磨チューブカラーヘアピンドライヤー温泉の素など、その他夫には理解不能の小物が大殺戮の現場の如く横たわり、大半が妻の所有物。

夜ごと、店屋物の食べがらが台所の床に積み上げられていて、一食は必ずとるらしい。「贅沢しているように見えるでしょうけどね、こっちの方が安いのよ、この近く魚屋も八百屋も少なくて品物は悪いし高いし」「そういうのを寡占状態っていうのよねぇ、やっぱし競争し合わないと」娘がしたりげに相槌、「Aにはいいお店がそろっていたものねぇ」この土地を卜し、三十六坪を求めた時、武蔵野の面影が残ると、ことさら息をいっぱい吸ってうっとりしたのはどこの誰なのだ。


と、斯ような展開になるのですが、この夫、面と向かって妻と娘に小言をならべているのではない。そのようにウップンを貯めこんでゆく。また、「夫にも、かく成り果てた一因の自覚はある」とし、それを夫婦間の性生活に向けて思案もする。夜のマンネリズムの打破をしようと思ったが、それはどうにもならない。「寝息が常に酒臭い」といった比較的マイルドな表現で、その性生活事情についての夫の不満が並べられる。

キッチンドランカーとまでは至らないのだろうが、最新システムとやらの、台所に何日分かの皿小鉢茶碗鍋がひっ散らかり、ヒートプレートの周辺は煮汁の跡が層を為し、ポット電気釜いずれも新品が垢にまみれ、ベージュの壁に油染みが浮く。冷蔵庫を開ければ魚の臭いどころか、汚臭がこもっていて、腐るはずのない缶詰佃煮梅干し削り節が押し込まれ冷凍室は何をこぼしたのか五色の氷がうねっている。

そういった描写が淡々と並べられる。娘からは「バーゲンセール招待の葉書を失くしたことを金切り声で責められ」たりする。その前段には脱ぎ散らかされていた娘の絹のスリップを洗濯した事で叱られるクダリが綴られている。これらの例など一部は心当たりはなくとも、一部は心当たりがありそうな、家庭内に於ける夫もしくは父性としての、その目線が、ただただ、並べられる。

その生活の中で、この51歳の男は、新聞配達の少女に純愛の情を抱き、妄想として純愛の情を募らせている。おそらく、少女は娘よりも年下である。この男は思案してゆく中で、その新聞配達の少女を食事に誘い、旅行に誘うが――というのが、内容である。(その51歳の夫と少女との純愛は、諸々の事情によって妻のビンタと「恥知らず」という罵声によって幕切れとなる。内容を読むに、新聞配達の少女もまた、食事や旅行に誘われた事を嬉しく思っていたと書かずに読ませる、仕掛けになっている。)

で、これを「純愛」と題している。また、近年の傾向としてマスメディアは、夫に起因する病気として「夫源病」を報じている。しかし、ホントはそちらだけに注視するのも偏っているかも知れず、また、いがみ合いとか罵り合いの要素にすべき話でもないのかも知れませんやね。

ごくごく当たり前に、社会がそのように変容し、現代人に降り掛かっていると解し、むしろ、笑い飛ばせるように列挙の最後にオチがつけられている。「大殺戮の現場」とか「五色の氷がうねっている」、或いは、妻自身が「(物置に入れたら)二度と探し出すのは無理」と発言している辺りなんてのはユーモア、ホントはオチとしてつけられたものだと思いますが、おそらく、感情優位な現代社会では、いちいち、それが敵対的な文言なのかどうかで情報を処理されてしまう。「キーッ! ムカつく!」で処理されてしまいがちなのだ。


過去に、中年男が若い娘に入れ上げる心理というものに言及した事があると思う。香山リカさんの週刊誌コメントを引用しながら、地位も実績もある或る有名な学者が割烹着のリケジョに肩入れした心理を語った一節として、地位ある男性は若く才能のある女性に肩入れをしたくなる心理があるのではないかという主旨であったと思う。結構、言葉はチョイスされており、その才能の開花に手助けをしたいという心理であろうという余地を残しているものの、察するに映画「マイ・フェアレディ」や「ロリータ」、もしくはリチャード・ギア&ジュリア・ロバーツによってハッピーな恋愛譚として描かれた「プリティ・ウーマン」を語る場合にも見い出せる一つの犒伸瓩任△蹐Δ隼廚Α4に「ロリータ」というタイトルを掲げてしまいましたが、もしかしたら遠因としては、社会のロリコン化とも関係しているのかも知れない。

つまり、表層としては「その成功を手助けしてあげたい」なのですが、それは異性間で起こるケースである事を考慮すると、そこに年齢を超えた恋愛の要素がある。露骨に言ってしまえば、スケベ心が内包されている。しかし、そのスケベ心と、タテマエとしての「その成功を手助けしてやりたい」という心理は、きっと不可分かも知れませんやね。結局は一体化した恋慕なのでしょう。

「プリティ・ウーマン」には、色々な位相があると思う。そもそもフィクションであるが、ああした映画をどう思うかという問題で、これには種々ある。「あんなステキなセレブ紳士に見い出されたら…」という具合に白馬に乗った王子様が迎えに来てくれる幸福譚だと視ることもできるし、裏読みをして「そうは言うけど、アレは典型的に金持ちにしてハンサムな中年紳士と、貧しくても健気に生きていた美女の話だよ。全然、現実的ではないじゃないの」というシラケた視方も可能でしょう。更には、「結局はオッサンは若い娘が好きなだけ。結局は若い肉体が目当てって事、肉欲に駆られた行動ってだけでしょう?」と展開させることもできる。更には性を汚れた何かと位置付けて超潔癖な立場から「オジサンというオジサン、オバサンというオバサンは兎に角、キモチワルイ」のように展開する事も許容されてしまっているのが現在ではないだろか。

いやいや、山田太一はテレビドラマ「この冬の恋」という作品で、要潤演じる若い男を、小金持ちの田中美佐子演じる女がカネで契約して肉体関係を持つという筋書きのドラマにしてみせたことがある。男と女とを入れ替えてみても、ひょっとしたら、生活力を有する者が、生活力の無い者に対して、経済的優位を介して、或る種の愛情や肉欲を買う事ができる、契約する事ができる、また、それを猯愛感情瓩箸狃祕Ν瓩箸睇垈鎚なものとして処理している、それを炙り出せる気がしないでもない。そうまで言い出してしまうと、もう、恋愛感情なんてものは存在していないという諦念に到ってしまうかも知れない。

野坂昭如のミソジニーに戻ると、私が記憶しているところでは『万有淫欲』という作品も似ているなという感慨がある。こちらは手狭なマンション暮らしの世帯が主人公であり、妻と息子に嫌気を差した夫が、最終的には犬に愛情を求め、お金を払って犬との性交をさせてくれる不思議な店にのめり込んでしまうというブラックな作品でしたが、こちらも家庭的な空間の中で起こる不満を淡々と列挙していく手法では似ている。世間体ばかりを気にしている妻に嫌気をさしてしまう夫だったかな。おそらく、そちらも野坂的なミソジニーが表出している。更に、作品群の全体像をも併せて考えれば、野坂の作品には『垂乳根心中』はじめ、言い訳無用なレベルでグロテスクなまでに添い遂げようとする男女の性愛を描いた作品が基本的には多い。

社会的な常識や制度よりも、その当事者間の中に生起する足りないものを相互に補足し合おうとする、その感覚を、純愛としているのかも知れない。翻って、経済的自立が進行した社会となり、その実現が進行すればするほど、この問題がどうなるのか、ホントは容易に察しがつく問題のような気もする。

2019年04月14日

ペーソスの消えた後に

日本映画専門チャンネルにて「桜の森の満開の下」なる映画を視聴。原作は坂下安吾、監督は篠田正浩、キャストは若山富三郎、岩下志麻、伊佐山ひろ子ときて、ふーん、視聴してみるかとなる。山賊を演じる若山富三郎が主人公であり、襲われた都の美女が岩下志麻の演じる女で、この女が山賊をたぶらかす。伊佐山ひろ子は、足を引きずるように歩く女で、元々は山賊の多数ある妻の一人であったが、岩下演じる美女がやって来てからは、世話焼き女に格下げされる形となる。

驚いたのは冒頭でした。現代の、現代のといっても察するに30〜40年前なんでしょうけど、現代人が花見をしているシーンから始まり、「日本人が花見をするようになったのは江戸時代からで、大昔は桜は怖ろしい花だったのである」というナレーションによって、劇の本編が始まったのでした。つまり、桜を怖ろしい花であると位置づけているのだ。

以前にも岡田茉莉子主演のATG映画「エロス+虐殺」を視聴した際にも触れた気がするし、また、どこぞの本でも、或いはテレビで林修さんが言っていた梶井基次郎の言う「桜の花が赤味がかっているのは、桜の下に死体が埋まっているから」という、桜に関しての、不吉な題材が案外、多いのだなと気付かされました。


精神の覚醒は「ものの憐れ」を自覚する事ではないのかと、鈴木大拙を踏襲する系譜があるらしく、それが熊谷直実が詠んだ「敦盛」であろうという解釈がある。つまり、武蔵武者の熊谷直実が我が子と年齢も似ている平敦盛、その首を刎ねようとした其の一瞬に電撃的に「ものの憐れ」を感じ取ったのだ。確か鈴木大拙は念を押していたと思う。日本人の精神の覚醒は、そこからスタートしているのであり、淡々と首を刎ねていたら、日本人に精神の覚醒はなく、また、日本の武者や武士というものの像や形も変わってしまっていた可能性がある。織田信長が「敦盛」を舞ったという逸話から、織田信長を登場させる時代劇では「敦盛」をどこかに挿入するようになって久しい。

中々、それとそれを繋げることが出来なかったのですが、社会からペーソス(物悲しさ)が消え、おそらくは80年代以降、日本の社会からはペーソスが徐々に退潮していったと思う。或る意味では、物質的な豊かさを手に入れた事で、ペーソスを社会全体として克服したとも言えるのでしょう。しかし、ここに気付かなかったのですが、ペーソスを克服してしまった事で90年代以降の日本人は、概ね共感共苦の精神を喪失してしまった――きっと、そういう事であろうなと今頃になって気付きました。

殆んど似た内容を「物質的に豊かになったが精神的に貧困になった」のように論じられ、その事は、勿論、念頭にあったのですが、その核になっているのは、ひょっとしたら物悲しさを感じる感性の劣化や、物悲しさを読み取れるだけの風景や記憶の喪失と関係しているじゃないかと気付く。つまり、「桜の花は綺麗だ」として、その次に「綺麗だけれども…」と思いを巡らせる回路が貧弱になってしまったという事ではないだろか。


映画やテレビドラマにしても、或いは流行歌にしても古い作品と、新しい作品とでは、かなり味付けが違うんですね。それは単純に貧乏くさいかそうではないかという風に感じ取ってしまうものなんですが、では、ホントに琴線に触れるようなものは何であろうかというと、やはり、ペーソスを克服していなかった時代のものであろうと思う。

昨日、30分ぐらいだけ石坂浩二版の映画「犬神家の一族」を視聴しました。全然、内容を記憶していませんでしたが、あそこに登場する佐清(すけきよ)は、戦地から引き揚げてきたが顔に大火傷を負い、あのマスクをつくり、更にマスクの上から頭巾をかぶっていたのでした。遺産相続の話となり、佐清本人なのかどうかを確認する必要があると、一族が言い出す。頭巾を採ると、ゴム製のマスク姿となる。それじゃ本人かどうか確認できないからマスクも取れという。マスクを少しだけ、たくし上げると、原形を止めていない髑髏のようになってしまっているグロテスクな佐清の顔が露わになる。一同は、その顔にギョッとする。傍らにあった佐清の母親は「これが御国の為に尽くして帰って来た佐清に対する仕打ちなのかっ!」と怒声を上げる。

今村昌平監督「黒い雨」は「ピカを見た娘を嫁にもらう訳にはいかねえだ」という内容の映画でしたが容赦なく黒焦げになってカチカチの遺体らしきものが映る。原作は井伏鱒二だ。あんなものなのかなって思うものの、やはり、実際に目撃したカメラマンらによれば、焼夷弾で焼け死んだ子供の遺体なんてのは炭化した塊でありホントに御地蔵に似ているなんていうから、ああした映像化はリアルなものであったのでしょう。そして四谷怪談のように、元キャンディーズのスーちゃんこと田中好子演じる主人公の黒髪がごそっと抜けるシーンなんてのは、ゾクリとする。

それらは戦争の記憶に由来するペーソスであったのでしょうけど、それに何か心を動かされる材料には成り得るんですが、共に苦しむという共苦の感覚は既に戦後世代はない訳ですね。戦中世代とて、幼くして、それを体験していたの意であるから、共感共苦を伴って物事を語れる人は年々減少してゆき、また、それによってペーソスが克服される。

ペーソスというのは何も戦争に由来するものだけでもない。もしかしたら歌なんてのも同じなんじゃないのかなって思う。「ちあきなおみ」という歌手は、実はステージ、リサイタルで楽曲を完全に演じ切っていたのではないかという気がしまして、1974年のリサイタルを録音したCDを購入して聴いてみると、やはり、そういう説に納得する事になる。得意にしていたのは、いまいち報われないでいる水商売女の像であり、色気を出すにはどうしたらいいのかなと悩みながらガハハ笑いしてしまう頭の抜けた女であったり、あばずれ、浮気女、自信がなく臆病な女の像である。「中島みゆき」の1977年のアルバムなんてのも情感が現在の流行歌とは違うなと感じました。

♪繰り返す波の音の中

眠れない夜は 独り怨み事 

独り怨み事 並べる

眠れない夜が 明ける頃は

心もすさんで もう、あの人など

不幸せになれと思う


上記は「朝焼け」の歌詞で、これ、好きな曲なのですが、堂々と「不幸せになれと思う」とネガティブな心情をも歌詞にしている。「もう、あの人など不幸せになれと思う」という歌詞なんですね。別に歌詞の通り呪っているものでもない。心がすさんで、そんな事までを思う心情を唄っているの意だ。それこそ、万葉集ブームなんだろうから、それぐらいは読み取れる筈だ。しかし、これ、メディアは、とぼけているけど、80年代に入った頃には「中島みゆきの歌は暗いじゃん。それを聞いているヤツはネクラじゃん、ダサいじゃん」っていう見識が、ホントはかなり巷間には広まってしまっていたんですよね。

上辺だけの、上っ面の、そーゆー時代になって、おそらく30年以上は経過している筈で――。

共感といっているけど、SNS上の「いいね!」を集めるという話ではありませんよ。ここで述べている話は、共感と共苦の感覚の事であり、「誰だって苦しい」といった苦楽の感覚を共有できた時代には、それが日本人の一体感に寄与していたが、物悲しい風景を、物質的貧困を克服してしまってみたら、てんでばらばら、お客様意識なんてものをこじらせるまでに精神的貧困となり、他者に厳しく自分に甘く、何が問題が発生すると平気で犯人捜しに躍起となり、結局は責任の押し付け合いをするような高ストレス社会をつくり出してしまったんじゃないのかなと。

ussyassya at 01:30|この記事のURLComments(37)雑記 

2019年04月12日

西部邁について

西部邁著『中江兆民〜百年の誤解』(時事通信社)は、中江兆民という人物を語る体裁を採っているものの、読み終えてみると、色々な事が薄っすらと分かるような気分になる。実は、中江兆民にかこつけて、ニシベ自身の集大成めいた事にも言及されていたのかなという気がしている。

掻い摘まもうにも、中々、掻い摘んで説明するのが困難だなと感じる内容でもある。しかし、敢えて、その愚を犯せば、ニシベは全力で民主主義を自分の人生の敵と定めていたというのが、ニシベの核心かも知れない。民主主義を人生の敵であると考えているニシベが、何故、よりによって日本に於ける自由民権運動の父とされる中江兆民を取り上げるのかという疑問が生じる。それで「中江兆民〜百年の誤解」なのだ。また、中江兆民という人物は酔狂な後半生を送っており、それにニシベは自身を重ねているところがあったかも知れない。筆致から想像するに、福澤諭吉と中江兆民を並べ、中江兆民に対しての批判も多めに語りながら、それでいて実は心の底では兆民に対して、シンパシーの方が強いという事が読み取れる。

退屈な書き出しになってしまった気もしますが、核となるのは「民主主義は我が人生の敵だ」というスタンスを崩していないという部分でしょうかねぇ。で、その内容が中江兆民に係っている。トクヴィル(トックヴィル)はアメリカの民主主義の将来が、単なる大衆の気分が左右される民主主義となる事を予見していたように、中江兆民も輿論と世論の差異を理解していたのに、通説や通史では現在を肯定する為に、自由民権運動の父に仕立て上げられてしまっているという論旨、この論旨こそが、前掲著の主たる概要であると、読みました。

で、前掲著ではニシベによる福澤諭吉と中江兆民の犲由瓩坊犬覯鮗瓩記されていたりする。

道徳主義があったとしたら、それはむしろ、「自由にも制限が必要だ」という脈絡においてでありました。ルソーに従って「法治」を大事とする兆民にあって、その法律体系の根幹をなすもの、つまり社会契約の根本をルソーがみなした一般意志、それはどこからやってくると(兆民にあって)考えられていたのでしょうか。

兆民はどうやらそれを「正理」(もしくは至理)と名づけていると思われるのですが、その「正理」は、諭吉のいう「通義」と大同小異なのです。漢学的および西洋哲学的な装いを剥いてやると、兆民のいう「正理」もまた、国民がすべて、少なくとも心の奥底では、ほぼユナニマス(全員一致)にライト(正しい)とみなしている(はずの)正義の感覚のことだとわかります。

諭吉は(名詞の)ライトを(権利ではなく)「権理」と訳しました。つまり「ことわり」(理)を「はかる」(権)ところに生まれてくるヴァリュウ(価値)の意識とそれに応じるノーム(規範)の感覚によって「為すことを許されている」、という意味での「自由」の体系が権理なのです。諭吉の権理と兆民の正理に大きな隔たりはありません。

ついで、西周がリバティを自由を訳したことについても、そこには、「自」分の考えや行いには権理・正理の基準からして十分な理「由」がある、それを要求し許容するのが自由である、という明治人として当然の思考回路があるよに思われます。


思いの外、このニシベの著書に苦戦したのは、こうした文体で記されているからなのですが、裏返すと、そこにはニシベの思いが込められているのかも知れないという読後感もある。読み終えた後に、序文なり、あとがきを読むと、或る種の決意のようなものが読み取れるし、「僅少であろうが、この書籍を手にして読み終えた読者に伝えたいことを記した」旨、述べられているのだ。

さて、引用箇所、少々、難しくも感じるものの、相応にニシベの思想が反映されていると思うに到りました。

諭吉にしても兆民にしても、明治人が念頭に置いていた自由とは、即ち消極的な意味での自由であり、不自由にある状態からの解放される自由を意味している。一切のものに縛られないという無秩序状態を指しての自由ではない。ここは、色々な言葉や文章で語る事が可能なのですが、今日のリベラルと呼ばれている体系の自由主義思想は、ここを逸脱していると考えられる訳ですね。不自由にある状態で初めて自由が認識されるのに、次から次へと好き放題、コンビニエンスを希求する自由に翻意翻訳されてしまっている。

天ぷら店で、天ぷらの衣を剥がそうが剥がしまいが客の勝手じゃろがっ、こっちはカネを払ってるんやぞ――っていう、そちらの方向性へ実は世の中が流れている。日本に限らず、おそらく、すべての先進国に共通して、そうなってしまっている。

で、それらの価値観を決定するのは、諭吉も兆民も道徳的な何かであると理解していた事をニシベは力説している。道徳と言っても、これに相対主義的な価値観になるので、勿論、絶対善や普遍善という過ちは犯していない。その道徳的価値観を決定するのは、伝統や習慣から生じる何かであると言っているに過ぎない。しかし、この一連を、現代人は理解できず、揚げ足取りに終始し、結果として、自由を拡大解釈し、平等をも拡大解釈してしまっている。また、ニシベに於いては、福澤諭吉も中江兆民も、堂々たる保守思想であると深部では分析している。

私も先日、新元号の解釈として【令】を語るにあたり、その字義を掘り下げましたが、ニシベも同じような事をしている。それは【輿】についてで、確かに「輿論」と「世論」は、ホントはニュアンスが違うんですね。ニシベに拠れば〈輿〉とは車台の上の漢字の旁になっているから無意識に、諭吉や兆民が言っていた通義や正理といった言葉も理解できていたのではないかとしている。どういう事なのかというと、輿論(よろん)の〈輿〉とは車台に乗って運ばれてきたものであり、自ずと車台そのものを否定する事は不可能である。しかし、「輿論」の略語として登場した「世論」になると、もう、その場合の【世】を使用する【世論】とは「今の世間に流行する論」という意味でしかない。流行ですよ、流行。敢えてカタカナを使用すればトレンドですよ、トレンド。気分ですよ、気分。そういうトレンドに振り回されて、政治決定とか意志決定をしてしまっているのが現状なのだ。

流行っているから飛びつき、流行っているから従う。なんですか、これは!

実際に、世論調査が実施され、その世論が選挙結果に影響を与えると考えられている。まぁ、現在ともなると、選挙制度もヘンテコな事になってしまっているので、「そもそも、ちゃんと民主主義が機能していると言えるのか?」という部分まで行ってしまっていますが、ニシベの場合は、そもそもからして民主主義なんてのは、多数者による専制であり、こんなものは敵だ、とラジカルに、精神的荒野を生きた評論家なのだ。

ニシベの政治思想と、私のものとも少しは差異があるので、煩雑になってしまいますが、おそらく、ニシベの汎用性という意味では、ここら辺りが核心であろうな、と読みました。

正義とは何か、正しいとは何かと、その価値を決定するものとは、伝統に裏付けられた道徳であると帰結せざを得ない。私自身も、いつも功利主義という言葉にウンザリとさせられるのですが、その意味も分かった気がする。

(諭吉が【功利】にこだわり、兆民が【道徳】にこだわったと通説では語られるが、それも軽率であるという文脈に続けて、)

功利といい権「利」といい、法律の体系のなかで計算されるにすぎません。ジェレミー・ベンサムのように功利計算にもとづいて法律体系を作る、などと諭吉は考えておりませんでした。法律体系が、根本において、通義(という道徳)にもとづいていることを諭吉は承知しておりました。

とも記されている。

この箇所などは、実は凄いのではないだろか。現状、自称リベラルにしても自称保守にしても、功利主義を肯定しようとするんですね。マイケル・サンデルなどもそうなのですが、サンデルの話で特筆すべきは、実は「正しいとされている功利主義」を我々日本人はそこそこの確率で、ホントは正しいと考えていない気がする。このまま、トロッコが暴走してしまうと6人を殺すことになるが、今、線路を操作してしまえば2人を殺す事になる、計算すれば4人の人命を助けたことになるのだから、そういう計算をする事が正義であるというサンデルの説明に対して、苦々しさを覚えてしまう。兵法であれば少数者を切り捨ててでも勝利しにいくという判断が有り得ますが、俎上にしているのは思想であり、理想社会の像だ。多数派を優遇する事になんて、なんの正理もない。暴走トロッコが、そのまま走って、そこを歩いていた6人を轢き殺すのであれば、それが天運というものではないのか。

そりゃ、そっちを歩いていた6人が轢かれる運命にあったのに、わざわざ自分が介入し、轢かれない運命にあった2人を殺す事は、たかだか人間の分際で出過ぎた真似であるなと、実は、そう考えている可能性が高い。実際に私はそう考えますかねぇ。大都市にミサイルが飛んでくるところを、大都市では人口が密集していて被害が甚大になるから、被害を最小限に止める為には他所の地方都市へ弾道を逸らそうというアイデアには賛成できない。そりゃ、どこか運命だと思って諦めてくれって内心では思ってしまう。天は、そういう偶然についても無為自然であり、それこそが自然の摂理であり、転じて神意というものだ。常に多数派が守られるべき等というのは、或る種、自由主義思想下の功利主義信仰が陥った傲りなんじゃないのかなって怨めしく思う。

この話は、ニシベは言及していませんが、価値がどこから生じてくるのかという話でハッキリとしている。価値は伝統や習慣、あるいは思想から生じて来る。わざわざ、多数派の幸福を実現する為に、とくに罪もない少数派を効率計算の上に抹殺する権利などは、無い。それは自然ではない。人為的な解釈で、勝手な計算をして、その計算によって、天運であったところを、人為的計算にすり替えてしまっているのだ。

で、この話は「天賦」にも応用される。天から与えられた人権なるものが有るだなんて思ってくれるな、となる訳ですね。ホントに物事を深掘りしてゆくと、ニシベも言及していますが、自然法などに依拠せざるを得ないのだ。誰々という学者がそう提唱し、その説が国際なんたら学会でも承認されているのが当節だから、時流として日本もそれに倣うべきだという論陣は、西洋文明と心中する運命にある。国際常識だの、潮流だの、それらは流行、トレンドに過ぎない。更に、多数決で物事を決定するとなる「2+1=5」という計算式でさえ、多数決の結果によっては、それを正答としなければらない事を意味しているワケですやね。

また、議会制民主主義では、何故、少数意見が尊重されるべきなのかという話にも言及があったと思う。それも輿論と世論の話は繋がっている。巷間では、少数意見を尊重する事、少数派の保護を或る種の犲綣垉澪儉瓩世抜違いしているという指摘がある。ニシベは、それは勘違いであると断言する。この議会制民主主義とは、ハッキリと言ってしまえば気分による多数決に陥る可能性が高い制度であり、多数派は過ちを犯すにもかかわらず、その多数派が犯す誤謬を糺すことは出来ないから、多数派の誤謬を正すという姿勢が、少数派の保護、少数意見の尊重の本義であるとしている。

現在、統一地方選の最中ですが、ホントは、これらを弁えて、当面や将来を決めて行かねばならないんですよね。しかし、投票率は高くもないという。既に二大政党制なんてものに選挙制度を変えられてしまっており、少数意見の尊重なんて起こらない。実際、国民主権というけれど、自分に意志決定権があるのかというと到底、そう思えないし、有権者、有権者というけれど、そこに意思決定権は愚か、二大政党制にしてしまったから実質的な選択肢さえもないのが実情ですやね。

ussyassya at 11:54|この記事のURLComments(6)辛口評論 

2019年04月11日

「映画 夜空はいつも最高密度の青色だ」の感想

日本映画専門チャンネルにて視聴。一応、レンタル候補にしていたのですが放送があったのでラッキーな視聴でした。

あんまり粗筋に当たるものはないのかな。しかし、確かに「街の様子」の切取り方に色々と共感しながら視聴することになりました。最果タヒなる人物の詩集を映像化したというもので、やはり少し前に週刊新潮や週刊文春でも取り上げられていたのですが、実際に自分で視聴みて、この作品はディープな作品じゃないのかなって気がしてきた。

粗筋というよりも基本設定としては、石川静河の演じる美香という主人公は東京で看護師として生活しているが色々と、やさぐれている。カネが欲しいからと気まぐれでガールズバーで働いており、その店で、松田龍平演じるトモユキに電話番号を尋ねられ、なんとなくデートをするが、そのトモユキは、あっさりと死んでしまう。そのトモユキは日雇いで生活している青年であり、その弟分が池松壮亮の演じるシンジである。その美香とシンジとが、なんとな〜く東京の空の下で物語を紡いでいく。

映し出されるのは、日雇いたちの現場である。送迎バスに揺られて、次の現場へと連れて行かれ、用箋挟みを持った手配人の手から日当を受け取ってハンコをつく、建設現場の人足をしているのがトモユキやシンジなのだ。そのファッションから、その会話の内容から、いちいち生々しく描かれている。

肉体的にはクタクタであり、将来的な展望もゼロであろう現代の労務者の姿が生々しく描かれているの意であり、田中哲司演じる腰痛を抱えた中年は「いつまでも、こんな仕事をしていられないが、この仕事がなくなったらオレはどうやって生きて行けばいいんだ」と嘆く。が、それぐらい追い込まれている者は前向きに生きる為にコンビニ店員や居酒屋の店員を見ては「かわいかった」等といい、恋をする事で、間接的に現実逃避をはかっている。

池松亮介演じるシンジは、そんな先輩と友好的に付き合っている。しかし、それが滑稽に映らない筈がない。説明はないのですが、いわゆる底辺に生きている若くもないその先輩が、若い女のコに恋をしたところで結果はバカバカしすぎるほど見えている。しかし、それを口にする訳にはいかない。この描写は、『ヒメアノ〜ル』の中でムロツヨシが演じた役どころと同じですが、まぁ、世の中、そういう人が実際に在りますね。田中哲司が、そういう先輩を絶妙に演じている。

トモユキが死んだ事で、トモユキの部屋の片づけをしている。付き合っている限りではクールなトモユキであったが、片づけをしていて積み重ねられたエロDVDを発見する。どれもこれも、いわゆるレズものであり、「そういえばアイツ、レズもの好きだったんだっけなぁ」と感慨に耽りながら、同僚の死を悼む。

看護師である美香は、当たり前のように患者の死を見送る日々である。いつの間にか、やさぐれているという設定で、病院裏でタバコをふかすシーンが二度、三度ある。タバコを水の入ったバケツでジュッと消して、ザルの中に放り込む。白衣こそ着ているが、やっている事は日雇いの連中とダブる。そう視れるようになっている。

美香はシンジに

「パキスタンで大地震が発生して百人が死んだとしても、それで街が自粛すると思う? しないよね。でも、もし、それがロスアンゼルスだったらどう? きっと自粛するよね…。この差って何だと思う? 結局は影響力が大きいか小さいかだと思う。私たちみたいな人間が死んだって影響力なんてないから…」

てな事を口にする。

どれもこれも情景の切り取りであり、断片としての妙なんですが、大きな仕掛けとしてストリート・ミュージシャンが仕掛けられている。

「誰も聴いてくれないのに、あの人は何故、唄っているんだろう」

という言葉を洩らす。実際、そういう景色を多くの者は目撃していて、また、同じ感慨を抱いている。それなりに上手で、それなりにいい曲に聞こえたりもするが、足を止める人は全くいないストリート・ミュージシャンなんてのも珍しくない。

東京には「黒がない」と美香は言う。確かに東京の夜はネオンとは呼ばないのかも知れませんが町中に電灯で照らされているので漆黒がない。夜景にしても漆黒ではなく、夜空を見渡しても青味がかった夜空である。しかし、郷里には漆黒、つまり、「黒」という色が実際に存在していると語る。

街行くカップルたちを眺めながら美香は

「元カレと元カノが性懲りもなく、くっついたり、離れたりしているだけという事じゃなぁい?」

と語る。シンジは、その美香の横顔を見ている。

また、別のシーンで美香が言う。

「動物園のライオンってぐるぐると檻の中を回るでしょ? あれ、そうやっていないと精神がおかしくなってしまうからぐるぐると回るんだって。世の中の人も、みんな、精神がおかしくならないように、恋してるって事にしているだけじゃないの?」

と、その乾き切った東京の、現代人の虚飾をも切り取ってしまう。それらは別に皮肉として発せられているのではない。ホントに、そのように目に映るという切り取り方をしている。だから、登場人物たちは、全員が全員、どこか浮いている人たちでもあり、且つ、よくよく考えてみると、たくさんいるかも知れないなという人たちでもある。(勿論、田中哲司演じる腰痛持ちの中年日雇いが、やたらとコンビニ店員や居酒屋の店員に、熱を上げる序盤も、これに含まれている。前向きじゃないと存在していられないから、自分を欺くようにして、無理矢理に若いコに好意を寄せたりする。傍からすると、滑稽にも映るが、おそらくは制止できない。)

作風が作風なので、興奮もしないし、分かり易い感動もないのですが、祭りの後の寂しさに似た感慨といか、バックヤード側とか楽屋裏といった裏側、裏側にあるくたびれた空気が妙に生々しく伝わって来る。向こうの世界は、盛り上がっているみたいですけど、どうする的な。

「祭りの後」と評してしまうと或る種の達成感の後の心地よい疲労と紛らわしいから違うかな。高樹澪の「ダンスはうまく踊れない」って歌がありましたが、あれに似ているかな。「♪ダンスはうまく踊れない あまり夢中になれなくて」という歌詞でしたが、そう、世の中は夢中になっているのに自分は「夢中になれない」という感じ。疎外感、冷めた感覚であり、「何故、世の中はこうも自分と違うのか」という孤立感と諦念、その視線からみる街の情景の切り取りの妙。



2019年04月10日

平成大合併は失敗だった?!

9日付の読売新聞一面は政府が音頭をとって狙い通りに特例債を発行して推し進めた「平成の大合併」の検証がなされたという記事でしたが、どうも失敗だったらしい。勿論、読売新聞には一言も「失敗」という文言は使用されていないのですが、政府の目論見では市町合併が進む事で年間約1兆8千億円の経費削減が可能になると推計されていたものの、実際には推計の2割にあたる約3千8百億円の経費削減にしかなっていない事が読売新聞社の調査で判明した――という記事なのだ。

これを理解するには「平成の大合併」を回想するところからになる。総務省は「市町村の合併に関する研究会」なるものを発足させ、その研究会が色々と試算をして「合併推進、その十年後には年間約1兆8千億円の経費削減が見込める」という結論を導き、政策として行われたのが「平成の大合併」であった。どのように市町村を合併させたのかというと、「合併特例債」というエサを撒いた。この合併特例債のカラクリは、合併した市町村が公共施設を建設する場合には、その7割を国の予算で賄えるというもので、その合併特例債を目当てに地方自治体が猜神の大合併瓩鮃圓覆辰燭箸いΔ發里任△辰拭

平成の大合併は、2005年をピークにして、計649件にも上り、その結果、市町村数は1999年に3232市町村だったものが、2019年現在になると1718市町村へと、凡そ、半減した計算になるという。

と、ここまでの回想で、何を思うでしょう? そもそも、その合併特例債というエサ、小賢しいエコノミストたちが好き好んで使用するインセンティヴってヤツですが、つまり、インセンティヴをつけて地方自治体の合併を促がしたのが、この平成の大合併の正体であった事になる。「素晴らしいアイデアだ、成功しない筈がないじゃないか」と思うだろうか? それとも、「そもそも、なんてバカな事を政府はやったんだ!」と思うだろうか?

検証はシビアです。多くの地方自治体は、目の前に吊り下げられた合併特例債というエサに食いついた。「この好機を逃すな」となったのだ。しかし、結果から言えば、想像ができる通りで、訳の分からない公共施設を造ってしまったというケースが紹介されている。

山形県鶴岡市の場合は文化会館の建設を目論んだという。予算45億円の事業費で著名な建築家に設計を依頼したところ、難易度の高いデザインが出来上がってしまい、資材と人件費の高騰にも見舞われ、入札不調の連発。当初、見込んでいた事業費は当初の2倍以上に膨らんでしまったという。将来的に発生する修繕費の問題が起こり、設計を途中で変更するなど対応し、その施設は2017年8月になんとか完成。しかし、完成した施設は雨漏りがし、大ホールに雨音が響いてしまう状態だという。最終的に鶴岡市には約23億円の財政負担が残ったと記されているから、総額は約76億6千万円で、特例債というカタチで国が背負った負債は約53億6千万円であっただろうと計算できる。これが優秀な政府のホントの実力でしょうな。

青森県五所川原市では、合併特例債のつく合併ブームに乗って2005年に旧市浦村が飛び地になる事が分かっていたが、それを覚悟の上で合併を敢行したという。その頃から、住民の意識の都会化が起こったという証言を紹介している。引用します。

情報化の進展や交通網の整備で、住民の意識が「都会化」していくと感じていた。「『何でも自治体がやるのが当然』という感じになり、自助が減っていった……」

合併は、こうした不安を解消する策だと考えた。


住民意識に都会化が起こり、自助の精神が退潮し、「何でも自治体がやってくれて当たり前」という意識に変わった事を旧村の職員が証言している。これ、おそらく妥当な指摘なのだと思います。どこぞの市役所には「すぐやる課」なる課が設置され、住民サービスを市が提供しているのをテレビなどが肯定的に放送してきた訳で。で、この五所川原市の場合は、合併によって行政サービスの合理化が図られ、人口減少スピードも緩やかになるという目論見があったが、現在、検証してみると、人口減少スピードは速まってしまっているという。市の連絡バスの本数は一日に2往復、冬になると1往復である上、合併効果で見込んでいた企業の誘致なども実現しておらず、生活に困難な場所になってしまったというニュアンスが読み取れる。「合併は理屈抜きで失敗だった。かといって合併してなくても、成功していたかは厳しい」。


静岡県浜松市の場合は2005年に11市町村を編入するという合併を行なった。合併時に市職員は6419人の正規職員(教職員を除く)であったが今年4月で5246人と約18%減少した。しかし、その分、非正規職員が1792人あり、この人数は2005年の約2.2倍であるという。今や市役所の窓口業務のほとんどが非正規職員だと報じている。


さて、当初、予定されていた経費削減1兆8千億円の予定であったものが、その僅か2割程度の約3千8百億円の経費削減しか実施できていない最たる理由は、民間委託費の大幅増にあるという。これが何を意味しているのかというと、つまり、正規職員を減らして非正規を増やした事で人件費の削減の合併効果は認められるが、施設管理などの民間委託費が大幅に増えているのが実情らしい。いわゆる現業部門の民間委託であり、市庁舎はじめ公共施設の清掃を民間企業に委託するなどしているという事である。

これ、ホントに経費削減って言えると思います? 単に正規を減らして非正規にしてコストカット。ゴミ収集や施設管理などの現業部門は、面倒臭いから民間企業に丸投げして委託しているって事ですな。民間委託は合併前の1.5倍の増えているという。

うむむむ。ホントは何か削減が進んだのかどうかさえも怪しい。おそらく、低賃金で体よく働かされている人たちが増えただけで、その分としての約3千8百億円の削減なんじゃないだろか。いやいや、忘れてはいけない。合併特例債は政府の持ち出しだ。それを合わせて、損益を計算すべきじゃないのかねぇ。

しかし、どうスかね、これ。読売新聞にしても平成の総決算をしたいんでしょうけど、平成という時代の総決算をすると、さんざんなものであった事が、今更ながらに目の前に突き付けられているような気分になってくる。

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上図からすると2003年度と2017年度での比較も出来ますが、市町村数を半減させた割には経費の大枠は、あんまり変わっていない事に気付かされる。巨視的に語ってしまえば、建設費と人件費が圧縮されただけに見える。しかも、その圧縮分の3800億円の内訳にしても非正規や民間委託を増やしただけじゃんかって気がしないでもない。