2019年10月24日

絶望的乖離の話

昨今、メディアで「暴走老人」というフレーズを耳目にすると、どこかゲンナリとした気分になる。比較的早い時期に【暴走老人】というワードに気付いていたつもりなんですが、昨今の取り上げ方というのは、もう色々な思惑に塗れてしまっており、しかも分断にエネルギーを割く方向性のものばかりなんですよね…。

週刊新潮誌の特集で男女逆差別問題が取り上げられた事があって、世の男性が内心では不快に感じている事についても書かれていて、その第一位が「女性専用車両」についてでした。まぁ、これは何となく分かる。おっとっと、この車両、乗っちゃいけないのか…という経験は、年に5〜6回しか電車に乗らない生活をしている私にしても経験しているから。そして第二位が、これは意外でもあったのですが、痴漢撲滅ポスターの掲示でした。これは意外だなと感じました。何故なら、私自身が最も不快な気分になるのは、それだから。飽くまで犯罪防止を呼び掛けるポスターなのだから文句を言う訳にもいかない。しかし、痴漢行為なんて一度もした事のない立場からすると、ただただ、痴漢と間違われてたまるかという思いと、萎縮を強いられるだけの有難くもないポスターなんですね。勘繰られるだけでもヒトは不快を感じ取ってしまう生き物であって。

で、よりによって大宮駅が痴漢防止ポスターのメッカらしいと知る。女子高生らに痴漢撲滅ポスターを描かせ、それを駅構内に昔から展示していたのですが、それを始めたのが大宮駅らしく、現在ともなると恒例になっているらしい。埼京線が痴漢が多発する路線だという事で、そうなったのだろうとは思うものの、正直、痴漢をしない者からすると、嫌な気持ちになるのは確かですかねぇ。しかも、そのことを口に出せば、途端に「あなたは痴漢を擁護するんですか?」みたいな単純二元論を仕掛けられてしまうのだから、中々、厄介でもある。そうじゃなくて、つまりは、万引きなんてする気はさらさらく、絶対にしないであろうに、それでも万引き犯であるかのような目で見られるってのは不快でしょう?



大学生の頃、痴漢に間違われたというのとは違うのですが、物凄く不愉快な体験をした事がありました。小さな書店の狭い通路、そこでしゃがみ込んでしまっている気難しそうな若い女性がいて、その通路を通るに当たって、小声で「すみません」という具合に声を掛けて通ろうとしたのですが、中々、気付いてくれない。夢中になっちゃってる。書店内の事なので声の音量を上げるのも、ためらわれる状況だったのですが、それでも私としては相手の耳に聞こえるだろうというぐらいの音量で確かに話し掛けた。ここまでに10秒、もしかしたら15秒ぐらい費やしていたかな。それでも反応がないので、仕方なく、その通路にしゃがみこんでしまっている若い女性の脇を擦り抜けるように身を横にして、その通路を通ったのでした。すると、次の瞬間、凄まじい金切り声で罵倒される事と相成りました。

「何よ、黙ってっ!」

という大きな怒声が、その書店の中に響きわたったのでした。

私からすると一体全体、何がどう問題なのか、その状況を把握することさえ難しい状況でしたが、どうも察するに私が肩から下げていたバッグが彼女の髪の毛を「ふぁさっ」という具合に当たったらしい。しかも、こちらの認識からすれば、事前に後ろを通らせて欲しいので「すみません」と声を掛け、しかも数秒は、その彼女が邪魔だったから立ち止まっていたのだ。《困ったな、この女の人は…》という認識で、私なりに狭い通路、そこでしゃがみ込んでしまっている彼女を避けるように体を横にした。また、バッグがドスンとかコツンとか当たったというのであれば、また少し状況は別になるのかも知れませんが、どう考えても、そのような手応えはく、書店内でしゃがみ込んでしまっていた彼女の髪、その頭頂部付近か耳の付近の髪を「ふぁさっ」と掠めるようにして当たっただけなのだ。何故、このような侮辱を受けねばならないのか――という思いで一杯でした。

わなわなと震えが来ました。反論したい。しかし、反論しはじめてしまったら冷静でいられる筈もありませんワな。ホントは言いたい事は山のようにある。きっと3〜4分の事だったと思いますが、その小さな書店の中で、葛藤しました。これは言葉には表せないのかな。湧き上がる怒り、その怒りの感情を抑制する事の難しさ、正当性を主張はしたいが、あんな態度を取れるような女にまともなコミュニケーションが通じるワケもないだろうという諦念とのジレンマ、店内の客や店員は、今の声を聞いて、もしかしたら私が一方的に何か非礼を働いているのだと思っているのかも知れないなという恐怖、いやいや、ホントに、わなわなと体が震えるような、そういう嫌な嫌な経験でした。

これは今、回想しても同じですかねぇ。きっと、当事者ではなければ、その屈辱は理解できないでしょう。だから、下手な相手に相談すると、

「そうだったのであれば、君は自分の正当性を、しっかりと主張すればよかったじゃない。声を掛けたのですが、退いてくれなかったのでって、言えばよかったじゃない」

みたいな、箸にも棒にも引っ掛からないアドバイスをするかも知れない。全然違う。そういうアドバイスをする者は正真正銘の無能者だと思う。感情的になっている相手に対して、その誤解を解こうとする努力が、どれだけ不毛であるかを知らない証拠だ。その経験の乏しさ、考察力の低さを示しているよなって思う。筒井康隆さんの『アホの壁』あたりにも、このテの話は出てきますが、感情的になっている相手ほど質の悪いものはなく、どのように振る舞っても埒は開かない。怒るだけムダで、本気で考えたり、本気で感情を爆発させたり、その感情を抑えるだけでもエネルギーのムダで終わる。

ホントに絶望的乖離というものが在るんですね。「話せば分かる筈だ」などという意見もありますが、それは少なくとも相手次第だ。聞く耳を持たぬ者に対しては何を言ってもムダ。仁や誠、心を尽くして、きちんと説明しても、曲解する気しかない者は絶対に曲解する。或いは曲解されてしまう。残念ながら、これが真理ですね。

逆説的に、仮に、少しでも思慮深さとか良識があれば、そもそも「何よ、黙ってっ!」等と、反射的に自分を被害者として認識、そのままストレートに威嚇するような態度はとれないものなのだ。

立場を置き換えてみても歴然だ。そもそも書店でしゃがみ込むような事はしないし、そこで仮に小声で話し掛けられたとしても、いやいや、その背後に立たれただけでも、「あ。私が通行の邪魔をしちゃってるな」と意識を配るだろうから、気付いて当然なのだ。それが通用しなかったから仕方なく、私は脇を擦り抜けることにしたのだ。仮に、仮に、その脇を擦り抜けた人のバッグが体の一部に当たったとして、それで「ちっ」とか「イタっ」という反応ぐらいはするかも知れませんが、だからといって大声を出して相手を咎めたり、睨みつけるような言動を採りゃしない。

仮に、ぶつかられた事を認識し、ちょっとした痛感を認識したとしても、即座に被害者意識を高ぶらせて、軽々に相手を叱責したり、咎めたりは出来ないものであろうと思う。つまり、それが出来てしまう人、常に自分が正義だと思い込んでいる自意識過剰な人に対しては、何を言ってもムダ、反論すれば反論するだけ感情的になって応戦されてしまい、収拾不能になるのが、この世の常でもある。(こうした口論を続けてもロクなことにはならない。癇癪を起して大声を出すか、手を出さないまでも怒りの行き場がなくなるので物を殴ったりする事になる。挙げ句、悪者に仕立て上げられるのがオチだ。世の中、盲目ですな。)

心の中では「このクソ女めっ!」ぐらいの悪感情を抱きながら、それを表出する事は許されず、忍従を強いられる事になるのだ。こういう感慨は、似たような経験がないと理解できないだろうなって思う。中高校生ぐらいの時に喧嘩になって胸倉の掴み合ったり、ちょっとした小突き合いになっている状態と同じような精神的高揚と、また、直後に起こる敗北感に近い徒労感を否応なしに味わう羽目になる。ニンゲンの一生の内でも中々、これは味わえないような屈辱だったよなって思う。

一応、客観的に考えてみるとして、他者が激昂している場面なども何度か目にしてきましたが、まだ、怒りの沸点は遥かに私よりも低いよなって思う。私のケースは地味ながら、その精神的動揺やら高揚、その時の屈辱感は筆舌に尽くしがたい。何故なら、それは諸々の状況、各人の感情を伴って起こるので、他の誰かに語っても、その感慨を理解してもらえる事は期待しにくくもある。

軽々に怒声を上げる事が出来る人を「怒りの沸点が低い人」という意味で、皮肉として羨ましく思うけど、ホントは、世の中って、そーゆーもんだと思いますよ。いつも譲歩してもらっている人と、いつも譲歩している人がある。役割分担ですな。これがあるから意見を譲歩してもらっている側の人の感覚は麻痺する事が有り得る。譲歩されることが当たり前なのだという感覚に陥りやすいって事なんでしょうけどね。

2019年10月23日

淮南子に読む「世も末」とは?

『淮南子』(えなんじ)とは、紀元前2世紀に編纂された猊寛併典瓩箸い辰仁爐い僚颪如∧垰爾靴燭里淮南(わいなん)王であった劉安(りゅうあん)とされている。現在の江蘇省を淮南(わいなん)と呼び、この前漢時代は皇帝の血を引く者は諸侯となって赴任先の国で王となり、その国を統治していた。(郡国制や郡県制といった時代であり、まだ完全に中央集権体制的な中華思想による冊封体制が確立していなかった。)

この劉安も庶流であるが高祖の孫に該当し、この『淮南子』を編纂したが最後は謀反の罪で自殺に追い込まれたという。この淮南子には春秋戦国時代の諸子百家の思想が反映されており、特に後の道教に集約されてゆく段階で、「先の聖帝に理想を学ぶべし」という黄老思想が強く反映されていたという。この黄老思想といのは老荘思想と内容的にはダブっており、その表記が「黄帝」の【黄】に「老子」の【老】になっているものと推測できそう。つまり、聖王による徳治を理想の政治体制としていた思想であり、或る意味では現在も天皇制を戴いている我々日本人にとっては、非常に馴染み深い思想でもあると思う。

では、紀元前2世紀なんていう時代の『淮南子』はどのような事を述べていたのか? 以下、池田知久編『訳注「淮南子」』(講談社学術文庫)の現代訳を引用しながら――。

(前段で神農の治世では、国境外にまでその名声は響き渡っていたので服従しないものはなかったと、神農の時代の治世を語った後、次のように展開している。)

ところが末世の政治は違う。上は搾取することを好んで際限がなく、下は貪欲に荒んで謙譲を知らず、民は貧困のために争い合い、仕事は労力を費やすばかりで成果が挙がらない。やがてずる賢さが生まれるに伴って、次第に盗賊が出没するようになり、上下が互いに怨み合い、命令も実行されなくなった。執政官から役人たちに至るまで、誰も道に立ち返ろうと努めず、根本に背き末梢にこだわり、恩地を捨て刑罰を増やして、このようなやり方で政治を行おうとしているのだ。『淮南子』巻第九「主術」

これは現代訳なので、そのまま読めるかと思いますが、令和の現在でも結構、当て嵌まりかねない考察がされているのが分かる。これらを嘆き、【末世】という言葉を使用して紀元前2世紀には既に認識していたという事でもある。上は税を上げる事に抵抗が無くなり、その上限を失い、下は貧困の為に競い合い、そこでは貪欲に欲と欲とがぶつかるので謙譲などというものはなくなる。そうなってくると足の引っ張り合いになるので、仕事量ばかりが増えるが成果が出なくなる。やがて、狡賢い知恵が生まれ、盗賊や詐欺行為が跋扈するようになり、上と下とが互いに憎しみ合う。(このクダリなどは正しく現状の「分断」を想起させる。)

もう一つ引用します。

法というものは、天の降したものでなければ、地の生んだものでもなく、人間社会の中で発生しながら、かえって人々が自らを正す手段となるものである。それ故、正しさが己にあるからといって、他人を非難してはならず、正しさが己になければ、他人にそれを要求してはならない。下に対して設けた法は、上においても廃棄せず、民に禁じたこと、君主自身も行うことができない。いわゆる亡国とは、君主がいないのではなく、法のない国のことである。変法(法をしばしば変えること)とは、法がないのではなく、法があっても実行されないため、法がないのと同様になった時に生じる事態である。それ故、君主が法を作る場合、まず自ら模範・モデルとなるべきであって、そうしてこそ命令が天下に行なわれるようになるのだ。『淮南子』巻第九「主術」

この説明は感心する事が多いですかねぇ。この淮南子の時代の後に中央集権体制が強まってゆき、また、儒教が官学として国教的な地位を占めていくという経緯を東洋は辿る。だから礼節を重んじるべしとか、忠義云々という方向性が美徳となり、そのように儒教圏の国々は教化されて歴史を歩むことになる。

しかし、その儒教的な締め付けを批判していたのが老荘思想、特に『老子』であり、この老子は道教になると老上太君として神格化されてゆく。礼節は貴賤を分ける為というけれど、礼節をわきまえる必要性もない者が貴賤の貴のつもりになって、傲岸不遜に陥る事を指摘できるワケですね。

そもそも礼というものは、尊卑・貴賤を区別するための手段であり、義というものは、君臣、父子、夫婦、朋友の間を結合するための方便である。ところが、現代の礼を行うものは、うわべは恭(うやうや)しいが実は相手を傷つけ、義を行う者は、恩恵を施して有徳者を気取っている。そのために君臣は互いに非難し合い、親兄弟は憎み合うのであるから、これは礼儀の根本を見失ったものと言わなければならない。

それ故、成し遂げれば成し遂げるほど咎めを受けることになるのだ。一体、水が沢山集まると、共食いをするような魚が生まれ、土が沢山集まると、互いに食い合う獣が生まれ、礼儀が飾り立てられると、詐欺・邪悪の輩が生まれる。灰を吹きながら目に入らないことを望み、川を渡りながら水に濡れないことを望んでも、それは出来ない相談である。
『淮南子』巻第十一「斉俗」


この前漢時代というのは、先立つ春秋戦国時代の百家争鳴の思想が生きていたので、儒家の思想だけではなく、墨家も道家も存在していたので、結構、手厳しく批判も為されていたよう。しかし、それが災いして、この『淮南子』を編纂した劉安は自殺に追い込まれている。しかし、よくよく考えてみれば、これは東洋文明・東洋思想に在っては非常に貴重な財産であり、実際には儒教も道教も仏教も溶け込み合って東洋思想になっているが、この聖なる帝による徳治を理想とするという部分は、日本の歴史にあっても、或いは天皇制そのものとも関係が深いと認めざるを得ないのがホントであろうと考えられる。

これは現代社会に投影したときに、特に生々しいと思う。礼節を、忠義をわきまえろというが、当の御上やら上司やら先輩が礼節を尽すだけの価値を見い出せない場合はどうするのか…。その硬直した教えの欺瞞を突いている訳ですね。勿論、善は善、悪は悪という次元では構成されておらず、善や悪にしても相対的な立場によって主張が異なる事、つまり相対主義で論じられている。おかしな発言ばかりをしている昨今のテレビの中の専門家よりも、遥かに高い次元の知性で物事を語っているよなって思う。

引用文を一つ戻りますが、法治主義についても同じ事を思う。「悪法もまた法なり」という。そうであれば現在の香港デモに係る問題で、法律的に覆面は禁止されたのだから覆面をすべきではないという結論になる。しかし、違うでしょう? ホントは人為的な法律というのは人為的な法律であり、しかも為政者が自分に都合のよいように法律を定めてしまう悪法というものが現実的に存在している事を示している。法は天が降すものでもなく、地が生んだものでもなく、実は人間(じんかん)の社会が、これは御上が人為的につくるものではなく、世俗社会の価値観から生まれて来るべきである事を説明しているように思う。なので人の知恵がつくった法、それも世俗社会の価値観にそぐわないで導入された法というのは、かなり怪しい価値観なのだ。違法行為をつくれるし、敵対勢力を違法状態にして警察力や軍事力で排除するという狡智にも繋がってしまう。紀元前2世紀に、これを論じている。

現在、日本に限らず、世界中がおかしいらしい。22日付の読売新聞6面(国際面)中国では習近平政権では、とうとう記者に対して思想試験を義務付け、その試験で80点以上の合格ラインに到達していない者には取材活動を禁止するという制度を導入しようとしているという。まぁ、言ってしまえば、完全に教化という名の洗脳であり、或る種の思想狩りを模索しており、「思想の自由」を完全に強姦しに来ているのが分かる。天安門事件なるものは無かった事として、国内を統治している。こんな事が21世紀にあるんだよなぁ…。

「共産党一党独裁の中国の事だから今に始まったことではないだろう」と言いたいところですが、英連邦の一角であるオーストラリアでは現在、報道機関および記者に対して警察が捜索に入るなどし、内部通報者の刑事訴追も相次いで発生しているという。(公共放送ABCのシドニー本部に本年6月、警察の捜索が入り、捜索は記者の自宅にまで及んでいるそうな。)発端は公的機関の内部情報を伝えた報道、それに対しての報復だという。そして、とうとう21日、オーストラリアの主要新聞各紙が黒塗りだらけの新聞を敢行するというデモンストレーションを行ったという。モリソン豪首相は「ジャーナリストであっても法律を無視することはできない」などと述べているという。

「自由」という概念が、ホントに世界同時多発的に危機に瀕しているって、やっぱり、世も末って事じゃないんだろか。報じてはいけない事柄が多い自由主義陣営ってのは、もう、歴史的な役割が終わってるって事なんじゃないの?



ussyassya at 11:56|この記事のURLComments(0)世迷い言 

関西電力マネーの問題

関西電力を巡って原発マネー還流疑惑が生じた。今件では故・森山栄司氏が関電経営陣に高額な贈答品を贈っていた事が発覚した。関電では、マスコミの批判を受けて会長と社長の辞任を発表した。また、事実を究明するとして第三者委員会を設置するというが、未だにテレビや新聞では森山氏に関しての情報タブーをタブーのままにしている。森山氏の孫が東京地検特捜部の検事である事も報じられていない気がする。

既に週刊新潮10月17日号では森山氏が設立し、その筆頭株主であったという会社名も記載されている。現在ともなると福井県警OBの天下り先として欠かせない警備会社があると週刊文春でも報じられていましたが、オービング社(高浜町)という事になるのかな。そして、そのオービック社の関連会社であるアイビックス社(福井市)があって、このオービング社とアイビックス社の会長個人の名義で稲田朋美元防衛相、高木毅元復興相に政治献金があった訳で、やや紛糾があった訳ですね。もしかしたら原発マネーってのは還流してるって事じゃないのか、と。

しかし、予想した通り、マスコミ報道、テレビや新聞の報道が気になる…。こう感じているのは私だけではないらしく、週刊文春10月24日号の「新聞不信」でも取り上げられている。少し摘まみ食い的に引用します。

原発を巡って巨額のおカネが還流していることは、かねて囁かれてきた。今回、元助役周辺の実態が明るみに出たが、「原発マネー」は他にもあるのではないか。毎日新聞はそうした問題意識を窺えるが、他のメディアが酷い。二週間で三回も記者会見を開き、その挙句、トップ二人が辞任に追い込まれた経緯は記者会見当日にテレビやネットで流れるニュースを見ていればわかること。速報性に劣る新聞が大きく紙面を割く必要はない。にもかかわらず朝日や読売が十月十日付朝刊で関電が各方面から猛バッシングを受けてトップのクビが飛んだ経緯を執拗に書いている。

〜中略〜

日頃、原発政策にあれこれ物申している朝日に期待したが、これまた関電叩きに終始していることに唖然とした。日経は「原発マネー」の存在に触れた。さらに関電で不祥事が発覚したことで「再び原発再編に向かう可能性がある」という東京電力幹部のコメントを紹介している。そこは評価したいが、見出しが悪い。「原発問われる説明責任」で、記事の中身を想像できる人はまずいない。


どうも会長と社長が辞任した事で、もう、それに満足してしまっているかのような、そういう報道になってしまっているって事でしょうねぇ。副題は「辞任を喜ぶだけでどうする」とあるし。

思えば、ごくごく単純な疑問であろう「そもそも何故、こんな事になったのか? 森山氏はどのようにして原発のドンになったのか?」という箇所をテレビや新聞は断じて報じず、それでは語りようもない。以下、週刊新潮10月17日号からの引用です。

いまから半世紀ほど前。高浜町役場にある一室で、鋭い怒声が響いていた。

「なんでいまドン!って置いたんだ。俺が部落の人間だからか! 差別だ!」

男の横で立ち尽くす女性職員。机には彼女が運んできたお茶が置かれている。声の主は、若き日の森山氏だ。部落解放同盟福井県連合会高浜支部の中心人物として、高浜町役場に赴いたときの一幕である。

このときの彼は、京都の綾部市役所に職員として勤務するかたわら、解放同盟の運動にも熱心であった。怒声と、のちに、高浜町役場に奉職することになる奇縁との因果関係は不明だが、

「こうした威圧的な振る舞いやその背景こそが、森山さんの、ひいては、関電の問題の本質です」

と、高浜町の関係者。


この同和に係る箇所がテレビと新聞はタブーとしているって事なのでしょうねぇ。しかし、実際には出版社系の雑誌や書籍では取り扱われているし、引用した箇所からも分かるように「問題の本質」とも関係している話なだけにねぇ…。

同和問題に限らず、アメリカでも黒人差別に対しての配慮が逆差別になってしまっているという声が上がって10〜15年ぐらいになるのだと思いますが、まぁ、差別問題に係る逆差別みたいな問題って、常識的にも起こり得る話な訳でしょう?! 仮に相手を威圧する気がない場合であっても、結果として威圧してしまう事だって有り得る。語ることそのものをタブーにしてしまうと何がどうしたのか、さっぱり分からない。森功氏らの著書であるとか、宝島社の文庫本あたりではバブル期前後に暴力団が同和を利用して暗躍していた事柄なども記されており、そこに触れないで、この事件を報じたら、ただただ関西電力だけが諸悪の根源みたいな理解になりかねず、或る程度は構造に触れないと語りようもないケースだと思いますけどねぇ。

週刊新潮誌が報じたように「お茶の置き方」への不満を以って「差別だ!」と言い出されてしまったら、実際問題、良識的な者であれば誰だって当惑する状況に追い込まれる事は容易に想像できますよね。

さすがに問題だろって思うのは、関電のみに責任を押し付けて、会長や社長の辞任に喜んでしまうような報道になっている可能性がある事、それが或る種のガス抜き効果になってしまっている可能性がある事じゃないだろか。

2019年10月21日

終末思想の窓

インターネット上の配信記事で、「その分析は自分に近いなぁ…」と感じたものを稀に発見することがある。言ってしまえば、終末思想であり、世直しの為の滅亡も致し方ないものという受容の態度なんですね。しかし、肝心要の部分の理解が異なる。終末思想というのは本源的な世直しを希求する何かであり、単なる破壊願望ではない。しかし、その配信記事は短絡的な破壊願望に根拠を求め、また、そうした如何にもアブノーマルにしてデンジャラスな危険思想としか捉えていない。何故、そうなるのかというと考察の浅さにあるよなってホンネでは感じている。東洋思想の観点が無いから。諸行無常なのであれば、当然、滅びるべきものは滅びることになり、また、それは同時に人為的に起こされる淘汰とは別で、道理に適った形で破局が訪れる事、それを受容する態度であろうと思う。世直しを希求する思想というのは何ら否定的な話ではない筈で、余りにもグロテスクな世の中になってしまったから修正するしかない、いやいや生半可な修正では効かないので、或る種の破滅的状況を歓迎してしまうという事だろうな、と思う。

野坂昭如著『終末の思想』(NHK出版)に目を通した事がありますが、ホントの事を言えば何ら異端の思想でもない。「破滅や破壊を期待しているだなんて異端だ」という具合に考えてしまう辺りから、ごくごく当たり前であったアジア人的な感覚が喪失しているからだろうなって思う。そもそもからすれば、ここまで「世も末って事ですね」という状況をつくってしまったのは、誰あろう現代人の方なのであり、その醜悪を直視せず、フタをしながら社会システムを存続させるべきだという考え方にしたって、かなりの異端という事になる。ノサカを読んでいる内に気付きましたが、坂口安吾の堕落論の文脈というのも「真っすぐに堕落すべきだ」が本旨であり、堕落しているクセに堕落を認めることなく、真実を嘘で糊塗して覆い隠す程の愚もない訳ですね。

野坂昭如と永六輔、それと小林亜星が「世直しトリオ」という名称で「なんじゃん・わるつ〜昭和わかれ節」なる歌を残している。


さよなら、ひばり(野坂昭如)
さよなら、裕次郎(小林亜星)
さよなら、昭和(永六輔)
天皇陛下(全員)


という具合に唄っている。昭和への惜別の歌であるが既に、そのトリオの名称は「世直しトリオ」であった。(野坂昭如のエッセイ本などに目を通すと、或いはノサカは昭和天皇にどんな感慨を持っていたのか気になりもしましたが、少なくとも、この歌では無邪気に「テンノーヘイカぁ〜」と歌っている。)

現在も存命中で先週号の週刊新潮誌上で「『狼少年ケン』のソノシートを探しています」と告知を出している小林亜星さんは兎も角として、野坂昭如と永六輔については戦後日本への苦言を多く残した人物であり、また、それがどういう方向性のものかというと戦中と戦後の掌返しに対しての鬱積を残している。ともすればノサカは「困った人」として我々に映っただろうし、今風に言えば「こじらせた人」であった可能性も高い。しかし、それが戦後日本のスタート地点であり、戦後を現代と呼ぶのであれば、日本の現代というのは、天地が引っくり返って始まったようなものでもある。

アメリカに救われ、アメリカに憧れ、しかし、そもそもからすれば、アメリカに奪われたものを持っているのが戦中世代であり、随処にその複雑なアメリカ観が読み取れる。いやいや、ホントは国体は護持したというが結局はアメリカに擦り寄ってゆき、掌返しをした戦後日本への恨み節が埋もれている。ホントは、三島由紀夫が起こした割腹事件にしても「戦後日本の在り方というのは、これでいいと思っているのか?」という強烈なメッセージが隠されていた可能性が高い。認めたくはないのでしょうけど、やはり、どこか戦後の日本というのはアメリカの衛星国であり、未だ意思決定さえ覚束ない。大きな大きな敗戦を背負って戦後日本が在り、先進国である事や西側陣営の一員である事を誇らしく感じ、そうしたアイデンティティの上に仮想の強い日本像を抱いている場合もあるものの、もう取り返しはつきそうもない。日本を愛そうにも、先ずはアメリカを愛さねばならない。そうしない事には成り立たないまでになってしまったのだ。

親米保守の大義とは、どういうものであっただろう。焼野原となったところから立ち直って経済復興を成し遂げたまではいいが冷戦体制の終結にバブル崩壊、目が醒めてみたら活路らしい活路もない。三島由紀夫の檄文からすると、日本はアメリカの庇護下で経済的な復興を遂げるだろうが、それでいいのかという内容であった事からすると、三島由紀夫の指摘通りの状況になってしまったような気分になる。経済復興にウツツを抜かしていた間に、戦後の日本の爐いしい甬╂瓩禄わってしまったかのようだ。どこかのポイントで自主憲法の制定などをするというのが親米保守の大義であったような気がするが、現在ともなるとアメリカの衛星国としてのウェイトも高まってしまっており、アメリカの意向が強く影響した形での改憲になる可能性がホントに出て来てしまった。改憲がイマイチ盛り上がらないのは、それでしょう。日米安保が命綱であるが、あれやこれやとホントに必要なのかという議論も緩慢なままにトップセールスをされている。交渉は相応にタフに交渉してくれているものとは思いますが、優越的地位にある国とそうではない国との二国間の交渉なのだから、ホントは交渉で頑張っても高が知れてしまっているところがある。しかも、今日ともなると政治家も批評家も口が重たく、また批判さえも起こらない。批判のしようもないといった方が正確かも知れませんやね。辛うじて懸念や不安として指摘できるという極めて、追い込まれた立場にある。

旧民主党という勢力がありますね。何をやっても支持率は上がらない。また、それを見透かされていて、安倍晋三自民党総裁は各地の演説やテレビ番組で以って、いちいち、

「ころころ名前を変えられるので、間違えてしまいました」

と、立憲民主党や国民民主党を「民主党」と呼び続けている。実は、あれはネタになっていて、どの演説でも故意に言い間違えをし、その上で「ころころと名前を変えているので…」と付け加えるというのは、持ちネタと化している。実際、それが週刊誌に掲載された後に、テレビ東京の選挙特番で安倍総理の「言い間違えパフォーマンス」を視聴しましたが、品があるのかといえば品はありませんやね。但し、こんな風に付け込まれてしまっているのは旧民主党に原因がある。

二大政党制が好ましいからといって二大政党制にシフトし、自民党の対抗勢力として形成された旧民主党が実際にガタガタだから成立してしまっているのであり、有権者からすれば迷惑な悲劇でしかない。ホントは、しんぶん赤旗に自民党の重鎮であった「古賀誠」が登場してしまうぐらい、10年前の自民党と現在の自民党は異なる何かになっている。いわゆる右派が安倍政権を支持しているが、それが純粋に日本の風土や郷土を愛している政策理念なのかというと実は微妙にズレがあって、つまりはアメリカに従順か否かが、この国の政治の舞台でイニシアチブを握れるか否かのカギになってきてしまっていると思う。もう、あんまり選択肢はなさそうに思えますけどね…。

山本太郎氏の「れいわ新選組」の躍進にしても、おそらくは既存の野党では何も変える事は出来ないだろうから、一気に台頭したかのように思える。とはいえ、こちらも赤旗に登場、志位委員長と握手している写真が掲載されていましたが「れいわ」が引き続き、実質的な対抗軸になるのだろうなっていう感慨がありました。有り体な方法では、ここまでグロテスクになってしまった社会システムを変えられそうもないって見えてきてしまったからのような気がする。

ussyassya at 13:22|この記事のURLComments(4)雑記 

2019年10月18日

東須磨小、破廉恥画像の強制送信をさせていた

神戸市立東須磨小学校の事件は暴行事件とか傷害事件なのではないかと先にも感想を述べたのですが、こちらの想像を上回ってくる悪辣三昧状態であった事が分かってきてしまった…。週刊文春10月24日号を参考に要点を整理すると、もう、これ、一般常識は到底、通用しようもない狂気の職員室だったかのような印象になってくる…。


先ず、現状として既に記者会見をした仁王(におう)校長があって、その仁王校長の前校長が、問題の40歳女性教諭を東須磨小学校へ招いたという風に報じられており、未だ名前などは報じられていない前校長にも色々な疑義を感じるところがあるかと思うのですが、やはり、事情を整理すると前校長から、この東須磨小学校の狂気の職員室問題は始まっていたかのような印象になる。

この前校長は東須磨小で二年間の教頭を務めた後、2018年度に東須磨小の校長に昇格。これが前校長であるという。この前校長には、東須磨小の女性教諭と不倫しているのという噂が立ち、その女性教諭をクルマで迎えに行っているところや、その二人が機械室なる教室から出てくるところを見たという複数の目撃談があったという。

通常、校長の人気は三年であるが、何故か、この前校長は一年ほどで異動。学校関係者の証言によれば、市教委によって行われた前校長へのヒアリングでは、この不倫問題についてもヒアリングが行われたものと考えらえるという。


激辛カレーを目や口の周辺に塗りたくられている動画が出回った事で、本騒動が尋常ではない騒動、むしろセンセーショナルな事件性のある事件ではないのかという見方が定着してきましたが、あの動画で激辛カレーを塗りたくられている被害者を仮に「X」先生とする。(実は被害者が複数あり、紛らわしくなる。)

2017年4月、X先生は東須磨小で教師人生のスタートを切った。教師となって初めて赴任したのが、この東須磨小学校であった。と、この年、今件の加害者で唯一の女性として報じられている女性教諭の「C」も東須磨小に赴任してきた。

この2017年4月の時点で、ボーダー柄のシャツを着てX先生のクルマの上に立っている写真が出回っている30代男性が「A」であり、激辛カレー動画の中で羽交い絞めにする役を演じているのが「A」であり、途中で一瞬だけ見切れている人物が「B」であり、カレーを無理矢理に被害者のX先生の口へ運んでいるのが、唯一の女性にして主犯と目されている40代の女性教諭の「C」である。

2017年4月以前から、30代男性だと報じられている「A」と「B」は既に東須磨小に勤めていたという。そこへ「C」が赴任し、また、この際に被害者になった「X」先生も赴任したというのが経緯である。

翌2018年4月、30代後半だという「D」教諭が東須磨小へ赴任。これで加害者の「A」、「B」、「C」、「D」が揃う。このDは東須磨小へ赴任して間もなく、知人に「うちの職員室、メチャクチャやで」と打ち明け、また、赴任してから間もない時期は、X先生にもやさしく接していたが、いつの頃よりかティーチャーカーストが影響してか、Aらと一緒になって「イジメ」に加担するようになったという。

因みに、例の激辛カレー動画を撮影しているのは加害者一味の「D」ではなく、X教諭とは別の被害者である男性教諭であるという。その撮影した男性教諭が無理矢理に激辛カレーを食べさせられ、嘔吐。嘔吐した男性教諭の背中をさすっていたのがX先生であったが、加害者一味は「次はお前の番や」と指名され、あの動画が撮影されたという。つまり、嘔吐した被害教諭が次には、X先生が餌食とされる動画を、加害者一味に命じられて撮影していたのが、あの動画が撮影された実状であるという。静止画として目元や口元にカレーが塗られているのは、別の日の出来事であるという。つまり、東須磨小では、年がら年中、あんな事が起こっていたっぽい。(週刊文春は、被害者たるX先生の代理人弁護士に取材したらしく、ソースは、そこそこ信用できそうだと推測できる。)

X先生に対しての加害行為が突出して多いのはボーダーシャツを着てクルマの上に乗っている写真が出回っている「A」だという。週刊文春では主犯を「A」と報じている。車内にタバコの吸殻が入った水を故意にこぼすなどの行為をしていたのも、このAであり、クルマで送迎させていた、また、クルマの送風口に異物を詰め込む、出入りの際には窓から出ようとしたり、或いはドアを閉める際に足蹴にするようにしてドアを閉めていたのも、このAによる加害行為となる。

このAは妻帯者であるが、酷いあだ名をつけたり、女性教諭に胸のサイズを執拗に聞いたり、何人もの女性教諭に「ムラムラするからエッチしようや」といったセクハラLINEを送っていたという。そのようなイタズラをしておきながら、他の被害男性教諭の仕業であるかのように振る舞っていたのが、このAであるという。

このAについては、週刊文春いわく「虫唾が走る低俗な行為のオンパレードである。」とし、Aの高校時代の同級生にまでインタビューを敢行している。Aは体格が良く、高校時代はサッカー部に所属していたという。中高一貫校へ通っていたらしく、本人は「東大を目指す」と言っていたが、中学入試組の中では、いわゆる「おちこぼれ」であったという。二浪して大坂教育大学へ。同級生は、Aに対して、

「思わず人間性を疑ったのは、偏差値の低い私立大学に推薦入試で合格したクラスメイトが教室に入って来た時、ボソッと『負け組が来たぞ』と呟いたことです」

というコメントを紹介している。



本年9月1日は日曜日であった為、翌2日が二学期の始業式であった。この1日の夜、X先生の実家では、X先生の遺書らしき走り書きが発見された。家族に対しての感謝の言葉があり、それに続けて、「ごめんなさい」と記されていた。日付が変わって9月2日未明、X先生の交際相手からX先生の家族にSOSの電話が入った。X先生は実際に自殺を図った訳ではなかったが意識が朦朧となり、呼吸困難を起こした為であったという。X先生は病院に連れて行かれ、病院で医師から自死行為の危険性があると指摘され、入院。これが本件の被害者とされるX先生が療養に到る経緯であるという。

加害者4名も現在は療養中と報じられているものの、加害者が方便として使用する猯斗榁罩瓩函被害者が使用する猯斗榁罩瓩陵邵垢剖辰される。



そして、この東須磨小の件で未だにマスコミが報じていないのが、性行為強要という破廉恥事案の存在となる。被害者は仮名「Y」という20代の女性教諭と、同じく20代の「Z」という男性教諭となる。

昨年暮れ、教師4名は神戸市無いの有名ラーメン店チェーンにクルマ2台に分乗していたという。X先生が運転するクルマには、Aが乗った。Y先生はZ先生を乗せて一行はラーメン店へ向かっていた。

テレビでも報じられている体重計に乗った写真をLINEで送らされていたのは、X先生とZ先生であり、痩せているX先生は体重を60キロ以上にするように、Z先生の方は体重を75キロ以下にするようにAとBに命じられ、彼等に体重管理されていた。

このラーメン屋へ行った日、そのラーメン店の店内で、AがZ先生に

「そういえばお前、体重なんぼまで落ちてん?」

と尋ねた。その後、Z先生の体重を確認したAは、ニヤつきながら

「おっ、痩せてるやん。ご褒美に約束通り、Yとヤろか」

と言った。ここで発せられた「ヤろか」は性行為を含意しており、元より、そのような約束事も存在していないが、Y先生とZ先生を絶句させたという。

ここまでなら軽いセクハラのようにも感じますが、かなり悪辣、精神的に幼いというか幼稚であると分かってしまうのが、次なる展開であり、絶望的に破廉恥なのだ。

Aは、Y先生とZ先生に対して性行為をするよう、しつこく迫ったという。Y先生もZ先生も、勿論、拒否の意向を示したが、厚顔無恥なAは言い放った。

「じゃあ、この後、Zのチンコ握るぐらいはせぇよな」

更に、Aは真性の下劣な人間の本能なのか、更に畳み掛け、Z先生の陰茎をY先生が握っている証拠画像をLINEで送って来るようにと、念押し始めたのだという。

余りにも下劣なので、下手なからかいのようにも理解してしまいそうですが、そうではない。その後、AはY先生の手に黒いペンで目印となるマークをつけたという。Aいわく、「ネットで拾った画像を送ってこないように」であったらしく、つまり、誤魔化すことなく、Y先生にZ先生の陰茎を握らせ、その写真を送信するよう迫ったのだ。この退路を断って若い教諭らを追い込んでゆく手法の下劣さに、ウンザリとさせられる――。ここまで下劣な人間ってのは、探しても、そうはいませんやね。

ラーメン店を出て、解散間際、AはY先生とZ先生に、更に追い討ちをかけた。

「お前ら、(さっき言ったことを)今日やらんかったら知らんぞ」

と言い、続けて

「(証拠画像は)汚いからオレの携帯には送ってくんなよ。Xの携帯に送れ」

と尊大に尊大を重ね、AはX先生のクルマに乗り込んで自宅まで送迎させた。


――後日、Aは20代の教諭らを引き連れてラーメン店へ出掛けてY先生とZ先生にワイセツ画像を送信させた自らの武勇伝をBに話し、AとBとの二人は笑いのタネにしていた。

「Zが射精した」

と。


人間にもクズと呼ばざるを得ない人たちが混じっていて、今になって反省しているとか、謝罪されても困るというケースが、ままあるよなって思う。こうした人たちというのは、自分たちが本物のクズ、正真正銘のクズである事に気付かないものなんですね。ホントは、こういう過去を持っているという事は、生きて行くことだって恥ずかしいだろってレベルのクズっぷりですな…。家族や親戚にしても同じ一族に、こうした破廉恥な人物が存在するというのは耐え難い苦痛ではないんだろか。いっそ、「どう転んだってダメだろ。立ち直ったり、更生されても迷惑なだけだし、被害者の踏みにじられた経験はチャラにならないし、世間様への申し訳も立たない。自殺する事も真剣に検討した方がいいかも知れんぞ」と助言したくなる。

しかし、よくよく考えてみると、このテの品性下劣な、ハラスメント行為って昨今、爆発的に増えてきてません? 自分が偉くて、相手を従順な下僕とか囚人とかと勘違いする人が増えてきた気がする。よくも、まぁ、大した人間じゃないのに自分に自惚れて、他者を見下し、奴隷のように扱えるものだよなぁ…と。

松永太死刑囚が最初に行なった通電という制裁方法も、布団販売業か何かをやっていた頃にノルマを達成できない部下にペナルティとして始めたのが切欠だったのですが、昨今のクソ過ぎる競争奨励の世相に応じて、そういう「ペナルティ&監視」の肯定が行われており、それが勘違いした人たちによる「支配と服従の関係性」をつくりだしているケースってのが増えた気がする。驕れる何かという部分は、そこそこの有名大学のイベントサークルのそれと同根だと思う。合コンで泥酔した女子大生を部屋へ連れ込んでアダルトビデオと見まがうかのような動画を撮影、陰部にヘアドライヤーを当てたり、カップ麺を垂らすなどしていた名門大学生らが起こした事件がなどにも似ている。上級国民のタマゴたる僕らはノコノコとついてきた女子大生を辱めても許されるだけの価値がある人間だと思っている訳だ。

おそらく優越的地位を仮に与えられているだけなのに、彼等は優越的地位を自己の力と勘違いし、挙げ句、濫用してしまう。品性愚劣な人間には情状酌量というのは難しいし、反省されても更生されても迷惑な気がしますけどね。

モツゴってクチボソじゃないか。

使用する言葉が違うというのはオソロシい事で、「池の水ぜんぶ抜く」などのテレビ番組を視聴していて在来種の代表のように扱われている【モツゴ】が、私の言うところの【クチボソ】と全くの同一である事に驚く。あの魚を【クチボソ】と呼んできた環境にあると、その魚を【モツゴ】と呼ぶなんて、物凄い違和感があるのだ。

「モツゴって、この辺でいうクチボソの事だよね」

と誰かが指摘してくれればいいのだけれど、そういう確認を取らぬまま近5年ぐらいモヤモヤとしていました。しかし、モツゴとは、ハヤ、クチボソ、ヤキ、イシモロコなどの異称があるというから、なーんだ、やっぱり、クチボソの事じゃんとなりました。

不思議なんですが、説明の仕方も違うんですよねぇ。あの魚を説明しようとしたら、何をさて置いても、あの「黒い線」で特徴を説明するものだと思うんですが、あれを「紋」と説明されてしまうので、あれれ、私が知っているクチボソとモツゴとは別の種類の魚なのかなという疑念を、引き摺る事になってしまっていた。。。

方言という事になるのかも知れませんが、まぁ、あの魚を指す呼称は私が生まれ育った環境だと殆んどが「クチボソ」、もしくは「ハヤ」と呼んでいたので、「モツゴ」という響きの違和感は、簡単には払拭できそうもない。というのも、「モツゴ」が標準語で、それ以外の呼称が方言だという風になってしまうと、これも面白くない、どこか不愉快な感慨を残す訳ですね。里の文化、用水路などで遊んで育った側の人間が「クチボソ」と呼んでいたのに、なんで、標準語とやらに屈しなければならないのか、と。

アメリカザリガニの事って、何だか地元の子たちは【まっかちん】って呼んでたけど、あれは何だったんだろう。まさか、マッカーサーのチンコっていう意味の俗語でもあるまいにね。いやいや、分からんぞ。アメリカザリガニは、明らかに日本の農村からすれば異形の何かであり、典型的な外来生物であり、USAを、つまりアメリカを物凄く象徴しているような気がする。もう私が幼稚園児の頃には、そこら辺にアメリカザリガニは沢山したし、子供ながらに「何故、こんなところに、こんな伊勢エビのようなエビがガマの穂の生い茂る湿地や用水路に居るのか?」と感じたものだったしねぇ。

また、ウシガエルってのも外来生物だったのかぁ…。これも物心ついたときには、凡そ、アメリカザリガニとセットで近所に生息していたからなぁ…。バッタ採りなどをしていると、トポンとかチャポンではなく、バシャっという水音を立てて水の中に姿を消す謎の生き物があって、姿は確認できないのだけれども、それをオトナたちは【ショクヨウガエル】と呼んでいた。これは【食用ガエル】の意味でしたが幼少期にそんな事に気付く筈はなく、「ショウリョウ−バッタ」と呼ぶように、また、その蛙も「ショクヨウ−ガエル」という呼称として覚えたのが先だったかな。小学6年生ぐらいの頃までには「ウシガエル=食用ガエル」である事に気付きましたが、それを知るまでに相応の時間を要した記憶がある。確かに、鳴き声は、牛みたいなんだけどね。

「池の水ぜんぶ抜く」が印旛沼などの映像を映し出してくれることがあるのですが、基本的には、あれに近い景色だったかなぁ、埼玉東部ですけど…。いやいや、景色が似ているんですね。広大な水田があって遠景は森とか林で、用水路があって農道があって畦道があって、基本的には何もない。田舎は田舎なんですが、しょぼい田舎なんです。これがガチの山奥の田舎になると用水路は目立たず、ホンモノの川があって山があって、渓流のような川になってくる訳ですね。親戚の叔父なんて、或る時期まで山鳥を鉄砲で撃って、川に入ってヤマメをヤスで突き刺して、それを持ち帰って食卓に出していたんだよなぁ…。

畑に熊が出たってんで、知り合いの鉄砲名人に頼んで熊を射殺、その熊を捌いてもらってご近所に御裾分けしたって言ってたレベルの田舎とは、全然レベルが違うのだ。現在はどうか知りませんが、当時、ミヤマクワガタが取れてしまうような、その田舎にはアメリカザリガニや食用ガエルは住んでいなかった記憶があるなぁ。って事は、ホントは昭和30年代とか40年代で、埼玉くんだりの田舎レベルになるとヘドロの問題とか外来生物の問題が発生していて、既にアメリカナイズされた環境で私は育ったって事なんだろうね。「ちびまる子ちゃん」に描かれている70年代なんて、そんな時代背景だったよなって思う。

あ。一つ思い出したぞ。小学1〜2年生の頃に、アベックの中学生だか高校生だかを追跡して、困らせるという遊びを下校時にした記憶がある。

当時、男児という男児は、アベックを見掛けると、

「Woo,Woo, 女にモテるよ〜っ!」

と独自の節回しで、冷やかすものだったんですね。で、その日の下校時、運悪く、高校生のアベックが我々小学生軍団に見つかってしまった。

男性の方は長髪だったから冷静に考えると高校生だったんだろうね。で、女性の方はイメージとしては長髪で色白で、如何にも高校生のおねいさんって感じ。なんら不良的な要素はなくて、おそらくは真面目な高校生のカップル(当時はアベックと称したのがフツウ)であった。

私は主犯格でもなんでもなかったんですが、もう、一緒に下校している連中が、面白いからアベックからかおうぜというノリになっていて、そのアベックの背後を尾行するようにして、

「Woo,Woo, 女にモテるよ〜っ! 七三分けが決まってるよ〜っ!」

と、口々に囃し立てているという、冷やかしが始まっていたのでした。先にも触れた通り、印旛沼チックな風景の中、高校生のカップルが仲睦まじく歩いているという光景は、景色として浮いてしまっているのであり、地元の小学生からすると恰好の餌食であった訳です。

時折、男子高校生が振り返って、拳を振り上げるというジェスチャーをみせ、我々を追い払おうという素振りをみせる。背は高くなかった記憶がりますが、ニキビ面、学生服の下から赤いTシャツがのぞけていた典型的な男子高校生。その傍らにある女子高校生は色白で、おそらくはきれいな印象であったと思うのですが、苦笑いを浮かべている感じ。小学生ってのは、しつこいから、おそらくは4百メートルぐらいは尾行し、冷やかし続けたと思う。途中に陸橋があって、その陸橋付近にブロック塀で仕切られた曲がり角があって、その曲がり角を曲がったと見せかけて、男子高校生が「こらっ! 着いてくんなっ!」という具合に追い掛けてきたりしたものの、それさえも小学生の我々は面白がったのでした。

しかし、思えば、あのアベック、困っただろうなぁ…。冷やかしてくる小学生相手に本気で怒る訳にもいかないだろうし、そのときの高校生のおにいさんにしたって、「バーロー、これからカノジョを家に連れ込むんだから、ガチで尾行してくるんじゃねえぞ、クソガキども! 真っすぐ家に帰りやがれ!」ぐらいの怒りを感じながらも、それをやってしまうと、大人げない自分をカノジョの前で晒すことになってしまう。本気で追い払いたいが、冷やかしてくる小学生相手に本気で怒る訳にもいかないというジレンマに当惑したんだろうねぇ。

子供ってのは、そういうもので、的確に相手を見抜いていたと思う。「高校生」と一口に言ったって暴走族風の、つまり、シンナーを吸っている感じの凶暴そうな高校生の存在も知っており、それとは違う種類のアベックだったから、からかったというか、冷やかしのターゲットになったんでしょうねぇ。いやいや、当時は学生服姿の男女が肩を並べて歩いているという光景そのものが珍しかったのかもな。

学校帰りに小さな用水路を覗き込んで、アメリカザリガニとか採ったりできた時代だったからね。

ussyassya at 09:47|この記事のURLComments(0)雑記 

2019年10月17日

映画「羊たちの沈黙」についての考察

映画「羊たちの沈黙」の内容って、なんだかんだいって曖昧に理解していたなと気付きました。ジョディ・フォスター演じるクラリス、そのクラリスが劇中でレクター博士に心理分析のような事をされる中で、夜明け前の羊小屋から少女時代のクラリスが逃亡したというやりとりがありましたよね。あの部分、よく分からない…。父親が死んでしまったので牧場を営んでいる親戚の家に預けられたが、その家から2ヶ月で逃亡を図り、結局は保安官に保護されて施設に預けられたという。

そのクラリスの生い立ちに対して、レクター博士は心理分析なのか詰問する。

「そこで性的虐待でも受けたのか?」

「そんな人ではありませんでした」

「では、何故、たった2ヶ月間で、その家から逃亡したのだ?」

と追求を受けている。私は、かれこれ29年前らしいのですが映画館で観た記憶では、てっきりクラリスにも性的虐待を受けた過去があったかのように理解していたんですね。しかし、改めて日本語吹き替え版で視聴してみたところ、私の理解は間違っていた可能性が高そうだなと気付きました。

夜明け前の牧場、二階でクラリスは就寝中であった。階下から子羊が泣いているような声が聞こえたので、階下へ降りて行った。すると、そこで目撃したものは子羊が殺されている状況であった。子羊たちは逃げ出せばいいのに恐怖で硬直しているのか逃げ出そうとしない。立ちすくんでいたのかも知れない。たまらず、クラリスは一頭の子羊を抱きかかえるようにして牧場を脱走した。子羊は重たくそんなに走ることも出来なかったので放した。間もなく、自分は保安官に保護されて親戚の家に戻されたが施設で生活する事になった。

そこまで説明すると、レクター博士は

「その脱走の際に連れ出した一匹の子羊はどうなったのか?」

と詰問した。すると、クラリスは

「殺されたわ」

と答えている。しかし、この子羊を殺す親戚の話というのはイマイチ、よく分からない。要は、ツブしていた、屠畜の現場を目撃してしまったという事なんだろうねぇ。全体的におどろおどろしい作品だったので、性的虐待とか動物虐待とか、ひょっとしたら獣姦趣味のある親戚のオジサンの存在なんてものまで考えてしまいましたが、最も自然なのは屠畜か。確かレクター博士の最初の殺人を描いた映画にも屠畜業の男というのが登場していたし、おそらく原作者は、そういう思考のベースを持っているのだろうなと補える。

それと改めて視聴してみて気になったのは「バッファロー・ビル」という連続殺人鬼についてでした。映画の歴史を変えたとまで称賛された「羊たちの沈黙」でしたが、当時、この連続殺人鬼・バッファロー・ビルについて、「ゲイもしくは女装趣味を犯罪者として印象づけるような描き方をしている」という抗議が相次いだのだそうな。バッファロー・ビルって、そんな正体だったっけかなぁ…とね。

また、種明かしの特典映像を視て気が付きましたが、クラリスが最後に下院議員の娘を助ける為に必死に犯人のアジトへ乗り込み、また、そうしたクラリスの勇敢な行為をレクター博士が「もう、羊の声は聞こえなくなったか?」と尋ねている。そう、クラリスはクラリス自身の為に、過去のトラウマを払拭せんと格闘しているという構成になっている。つまり、羊たちが沈黙していた状況に遭遇した際、クラリスは一匹の子羊を助けようと思って逃亡したが結局は殺してしまったというのがトラウマなんですね。だから、この連続殺人事件では、その見殺し体験を繰り返したくない。トラウマを払拭するには、バッファロー・ビルに捕らわれている下院議員の娘を自力で助け出す意外にない。ここまで深く視聴するのは容易じゃないよなってレベルで、深く作られていたっぽい。

しかし、これ、色々とねぇ。確かに或る種の性倒錯者にして異常者なのだけれども、どこにもゲイという確信できる箇所は見つからない。女装をしているシーンがあるから女装趣味の人物を殺人鬼として描いたとは言えるかも知れないけど、これ、ちゃんと丁寧にストーリーを追ってみると、変身願望から、あの「蛾」が描かれているんですよね。想像以上にフィクションでありながらプロファイリングの設定が出来ていて、今更ながらにゾッとする。

このバッファロー・ビルを演じた俳優のインタビューもDVD付属の特典映像で視聴しましたが、ホントに演じるにあたって特定の性癖を既定していなかったと証言している。むしろ、インタビューの中では「ゲイを極度に嫌っている人間が女装をし、彼等を蔑んでいるイメージで演じた」と証言していたりする。丁寧に視聴しても男色の要素は描かれているという感じでもない。何かしらの精神異常者ではあるのだけれども。

で、レクター博士がクラリスを詰問し、犯人の心理分析をするのですが、これが深いんですよねぇ。

「こういう行動を起こさせる本質は何だ? 何が行動を起こさせるんだ?」

「……」

「切望だ。人間は目の前にありながら手に入らないものを切望するのだ」

というセリフで、一気にクラリスはバッファロー・ビルの正体に近づく。つまり、「人間とは目の前にあるものを欲しがるものだ。それが本質だ」とヒントを与えたのだ。この箇所、多少、解釈の余地があるにはあるのですが、よく出来ている。また、レクター博士はバッファロー・ビルの心理を解説して、「ヤツは幼い頃に受けた虐待、つまり被虐体験によって、現在の加虐者である自分を肯定しているつもりになっているが、ホントはそうじゃない。奴は自らの意志で加虐者である事を肯定している」という具合の指摘がある。しばしば、この「暴力の連鎖」の問題は苦慮させられる問題で、つまり、被害体験がその者を制御の余地なくして加害者にすると説明されてしまうので「暴力の連鎖」はどこか「仕方がないな」と諦めさせるように発せられる事が多いのですが、レクター博士によるバッファロー・ビルの分析は、そうではない。確かに被虐体験を持っているが、その事を自らに対しての正当化の道具にしている精神倒錯者なのだ。

また、レクター博士は次のようにもいう。

「クラリス、この事件は倒錯が問題なのではない、その残虐性が問題なのだ」

と助言している。実は、非常に明快に説明している気もする。しかも、バッファロー・ビルに殺害された遺体の奥から出てきた蛹についても【蝶】や【蛾】についても、それが意味しているものは変身願望だという指摘もしているのだ。少なくとも原作や脚本は、この異常心理を、それなりの精度と整合性で描いているのは確かなんじゃないのかなって感慨を残す。

レクター博士のトータルした洞察力というのも不気味で、匂いから使用している香水を言い当て、その使用頻度まで指摘し、訛りから産まれ育ちを推測し、且つ、挙げ句の果てには「両親は炭鉱労働者か保安官か何かで、子のオマエはその境遇から這い出そうとして…」とまで、クラリスの生い立ちを分析してしまう冷徹な洞察力の怖さが、緊迫感を盛り上げる。目の前で対峙ているレクター博士とは、そういうレベルの超危険人物なのだ。

今、視聴してみると、諸々のハンニバル・レクターの洞察力というのは、よく出来ているなと感心できてしまうところがある。そう簡単に、その一族の者が持っている社会階級は変えられない。また、ヒトを突き動かしているのは、私の場合は「切望」という単語は使用しませんが、欲望が底抜けである事や、それらが性的衝動と密接に係わっている事は認めざるを得ないよなって思う。どこかで90年代以降の現代人を不安に陥れる、分類や分析の持つ恐ろしさを、また、そうした分類や分析が結局は差別感情と無縁ではない事をレクター博士は見通していたのではないかな、という気分になる。






2019年10月16日

映画「涙のあとに微笑みを」視聴録

どこぞのケーブルテレビで、グループサウンズ時代のタイガースだかテンプターズの映画が放送されていて、チャンネルを合わせてみたら「契約が必要です」みたいな事を表示されてしまい、しばらく経過してからレンタルで本作を発見、ショーケンの若い時分ってどんなんだったのかという興味もあって、この度、視聴。

やはり、一番の見どころは「若いショーケン」ですね。細くて華奢そう。ウエストなんて60cm代であろうなという細さ。そんなショーケンが「なになになんだもん」てな具合に、なにやら可愛いこぶっているかのような口調の高校生を演じている。高校の文化祭の出し物で、モノマネ大会があり、劇中でもショーケンは「ショーケン」というニックネームの役ですが、ピンキーの物真似をしており、あの衣裳を着てピンキーとキラーズの「恋の季節」を歌っているというレア映像がありました。

また、鳩を愛するだけの意気地なしキャラであったショーケンが、仲間たちとグループサウンズに目覚めて飛躍するという、ごくごくシンプルなテンプターズのプロモーション映画なのですが、何やら、こうしたプロモーション映画の妙味をみてしまった気分になりました。

劇中でも

「ビートルズやモンキーズに負けるな!」

と声を掛けられるシーンがあったのですが、あのビートルズの映画とか、モンキーズのテレビシリーズとか、まさしく、あのノリの映像作品なんですね。別に大きな物語を期待してはいない。とにかくテンプターズの魅力を描けばいいのだの精神。

劇中でも「エメラルドの伝説」、「涙のあとに微笑みを」、「おかあさん」(♪「オー、ママ、ママー」というアレです。)、「秘密の合言葉」などは演奏シーンが挿入されており、BGMでは「神様お願い」が使用されており、テンプターズが盛りだくさんになっている。GSサウンズというのは、どこのグループも基本的には似たような音に聞こえる中、このテンプターズはショーケンのボーカルの所為もあってか、適度に渋味がある。

こういうプロモーション映画のノリは、古い邦画をあさっていると、クレイジーキャッツやドリフターズなどにも幾らかは反映されていて、クレイジーキャッツの映画の中に、ザ・ピーナッツがザ・ピーナッツとして出演、歌唱していたりする。植木等の人気シリーズなども、よくよく構成を考えてみると例え、そこに青島幸男の名前などがあっても、物語そのものは緩目で、ドタバタの中に当時のエンタメが鏤められている。背広姿の植木等が一人がビルの屋上で、ミュージカル調で踊りながら口パクしていたりしてね。案外、素晴らしく感動する事は望めないが観覧者や視聴者には時間潰し的に楽しめるし、ファンにしてみるとお宝映像だらけという事になるのでしょう。

丸山明宏(美輪明宏)の物真似やら今陽子(ピンキー)の物真似やら時代を感じさせますが、それはそれで、いい時代であったのだろうなと感じさせる。あのショーケンが鳩を愛する気弱な王子様的な高校生で、その母親が新珠美千代、伯母が山岡久乃。兄貴分で既に人気者になっていたと思しきスパイダースの堺正章が冒頭とラストで「神様」役で出演している。この時代、コメディ的な要素がないとスターになれず、それは堺正章にしもてクレイジーキャッツ、ドリフにしても同じですね。ずーっと時代が下って、SMAPのプロモーションとして「ドリフを目指せ」となったのも頷ける。国民的スターとは「愛される資質」と無縁ではなくて、そこで楽しませる事、笑いを取れるか否かという資質は「国民的スター」にとっては大きなテーマであったかも知れない。

時代がかってるけど、当時から日本は、そうであったという空気みたいなものも感じ取れる。「グループサンズだなんて、そんな軟弱な不良行為はいけません」的な周囲の大人たちに対して、かなり不良要素らしいものを抑えてグループサウンズが取り扱われている。

「何ができるかなぁ…」

と悩むショーケンに、テンプターズのメンバーたちが掛ける言葉は

「何ができるかじゃなくて、何をしたいかでいいじゃないの?」

であったりして、実は、時代そのものの「やさしさ」も視てとれましたかね。現在ともなると「13歳からのハローワーク」とか言い出してしまう訳ですが。



2019年10月15日

監視資本主義及びメディアコントロール

小笠原みどり著『スノーデン・ファイル徹底検証』(毎日新聞出版)の内容は、かなり重たい。エドワード・スノーデンに直接会話をしたという著者、その著者が分析した上で「現在、世界で何が起こっているのか?」を書いたという内容なのですが、いちいち深刻な内容でもある。

『仮面の日米同盟』はセンセーショナルな内容であったが世の中の反応はどうであったかというと、センセーショナルな反応はしていなかった。一部の週刊誌や出版社はセンセーショナルな内容と報じたが社会全体の反応は右派にしても左派にしても鈍かった。薄々は感づいていながらも、何故か真剣に捉えようという空気が希薄になってしまうという不可思議がある。それでいて、「そんな話は知っていたさ」のような実に奇妙な態度をとることになってしまっているのが、近5〜10年の傾向のように思う。

何の話かというと、例えば、スノーデンの暴露によって同盟国ドイツのメルケル首相の携帯電話が米国のNSAによって盗聴されていたが、その事を誰も深く論じようとしない。論ずれば直ぐに重大な問題に直面しているからでしょう。勿論、現在構築されている諜報網は日本にも向けられていると仮定すべきなのですが、確か菅官房長官が「仮定の話には答えられない」的なニュアンスで、質問への回答を濁したのが実情だろうと推測しなければならず、かなり複雑にして厄介な事態になっている可能性が高い。

どこから話を進めるべきかも悩ましいところですが、前段にそれを述べてしまったので、そこから入ると、2000年代初頭より、米NSAによる監視情報網が構築され、日本国内の米軍基地にはスパイ活動の拠点となるような各種の装置が仕掛けられており、その監視情報網に対して日本は防衛省が初期段階ではカウンターパートになっていたが、対テロ戦争の頃から米NSAの監視網が一般人にも及ぶようになった為に防衛省は自動的に監視する行為は憲法違反に該当するとして距離を置いた。しかし、その後、2012年頃より、日本国内では内閣官房に帰属する内閣情報調査室が窓口、つまり、NSAのカウンターパートとなり、監視網に参加し、日本の内閣官房が日本国民に対しての監視をも強めている――という重たい事実である。

安倍政権下では内閣官房が諸々の人事権を掌握しているので、様々な忖度が起こったかのように語られている訳ですが、より深遠を覗くと、この内閣情報調査室のトップは北村滋氏であるが、いわゆる公安出身者であり、その事を念頭に置いておく必要性がある。2011年12月から、北村氏がそのポストに収まっているが、いわゆる「詩織さん騒動」にて逮捕状までが山口敬之氏に出ていたが何故か逮捕にストップがかかったという不可解な経緯があった。その際にも騒動の背後で名前が取り沙汰されたのが公安出身にして内閣情報調査室、略して情調トップの北村滋氏であった。

国内的に何が起こっていたのかを、この著者たる小笠原さんがまとめている。(この著者は朝日新聞社会部の記者からカナダのクイーンズ大学大学院で「監視」の権威に学び、博士号を取得。ジャーナリストとして、かのスノーデン氏に取材したという経歴の持ち主である。)

2014年7月、岐阜県警大垣署が市民4名についての個人情報を企業に吹き込んでいたという「シーテック事件」が発生。中部電力の子会社であるシーテック社が、2005年頃から岐阜県大垣市と同県関ケ原町に風力発電の計画が持ち上がり、そこで勉強会が発足することとなったが、大垣署警備課がシーテック社に対して、その勉強会に関与している人物らに対して偏見に満ちた個人情報を吹き込んでいたとされるもの。

大垣署警備課の警部と巡査長は、シーテック社の担当者に勉強会に参加している市民4名の個人情報、例えば、自然破壊反対活動に関与している、希少動物保護運動に関与している、某法律事務所と繋がりがあり、勉強会がエスカレートすれば大々的な市民活動へと展開する事も考えられるので、シーテック社の事業も進まなくなる懸念がある等と吹聴したとされるもの。(「大垣警察市民監視意見訴訟」で検索すると、詳しく分かるかも知れない。本旨ではないので省略しますが。)

2016年7月、参院選選挙を前に野党候補の選挙事務所に出入りする人物を大分県警別府署が不法侵入した上でビデオカメラにて動画で盗撮していたという不可解な事件が発生。これは当時の報道も覚えていますが、謎でしたよね。何故、警察がそんな事をしたのか…と。その建物内にあったのは民進党や社民党の地区選対事務所であり、そこへ出入りする人々の顔をビデオで撮影していたという不可解なものであった。大分県警は「本来は政治活動を制限されている筈の公務員が選挙運動していた」という情報があったので、その捜査の一環として盗撮に及んだと説明した。が、そもそも土地の管理者に許可を得ることもなく別府署員が建造物内に侵入し、盗撮していたのだ。この為、別府署員4名は書類送検され、内2名は懲戒処分にまでなった。考えようによっては警察が盗聴や盗撮といった手法を政治的に動いたかのように疑えてしまう事件であった。(野党が候補を一本化していた参院選であり、何故か、その野党統一候補の選挙事務所を県警が5日間に渡って顔が識別できるレベルでビデオ盗撮していたという薄気味の悪い事件であった。当然、大分県警側の思惑は不明であるが、野党候補支持者の顔写真入れりのリストを作成していた「思想狩り」をも想像させる気味悪さがあったの意です。)

そもそもスノーデン氏がNSAを告発したのも、監視が一般市民のプライベートまでに及ぶ事、その社会の行く末を怖れて告発したものであった。スノーデン氏の告発によれば、現在、起こっていることは大量無差別監視であり、ありとあらゆる情報は総コピーされ総保存されているという。既に広く知られることになりましたがマイクロソフト、ヤフー、グーグル、フェイスブック、スカイプ、アップル、ユーチューブといった米大手インターネット9社は一日に数百万件の顧客情報をNSAに提供しているという。

2015年夏には、NSAが日本の官庁などの電話35回線を盗聴してきた事を「ウィキリークス」が公表したが、政治家もマスメディアも「米国の監視活動は何処まで広がっているか?」という問題には及び腰となったか、もしくは意図的に沈黙し、形式的な抗議しか行っていないとされている。日米同盟というけれど、つまりは支配者階級の為政者と支配者階級の為政者とのによる同盟になってしまっている可能性がある。

さて米国で起こった、この完全監視の話はスノーデン氏が暴露した話に拠れば、次のようになる。或る時期から、米NSAの周辺には個人情報を金銭に変えるIT企業と、NSAを通して対抗勢力に対しての監視力を強めたい勢力とが結び付いて、官民による犂道詈9臑劉瓩形成されたという。そして日本政府も或る時期からNSAから提供される機密情報欲しさに、日本政府に秘密保護法の制定を持ち掛けたという取引があったとしている。その結果として2016年5月、日本では盗聴法(通信傍受法)が改定され、この改定によって警察は通信会社の立会人なくして警察単独で盗聴を可能にしてしまったという。その結果として、内閣調査室や末端の警察までもが個人情報の取扱い方として、違法的取り扱いを合法化してしまったのではないかという警察国家による監視社会の危険性を警告しているという内容でした。

著者が提示しているワードは【監視複合体】ですが、つまり、政府と巨大IT企業とでは国民を個人情報を徹底的に集めて総監視する事で利害関係が一致してしまっており、そこで密約が出来てしまっているから手の打ちようがないという。スノーデン氏の言葉に拠れば、巨大IT企業と国家との間では自然にインセンティブが出来上がってしまっているのだと説明している。民間企業の場合はビッグデータの集積によってマーケティングの成果に直結する。為政者はというと、これも自由主義の理念や民主主義の理念よりも、完全監視社会を構築して自分たちに類の及ばぬ形で、その支配者階級の地位の保全を図れる事は夢の技術である。敵対する政治勢力やジャーナリストらを監視し、場合によっては工作によってツブシてさえいれば、永久に支配者階級の地位を手に入れる事ができてしまう可能性がある。既に、日本でも基幹データと呼ばれる統計データの6割に改竄や捏造を疑えるような不正がある事が指摘されていますが、非常に薄気味の悪い話である。

この話は現在進行形でマイナンバーや電子決済を定着させようとしているのかという問題にも直結してくる訳ですね。言わんとていることは国民総管理であり、国民完全管理を意味している。その者の氏素性から資産から収入状態から出身校から持っている資格、支持政党、そしてありとあらゆる購入履歴までもを監視複合体によって監視される未来へと道を歩んでしまっているという。実際、情報は筒抜けになっており、しかも厄介な事に官僚機構は「個人情報保護」や「外交機密」を大義名分とし、隠蔽体質へ向かっており、一部、警察権力ともなると確かに盗聴や盗撮が可能な状態になってしまっていると指摘する。

こういう話をすると必ず問題になるのが「テロ防止の観点から」や「防諜の必要性から」と語られる訳ですが、ここで問題視されているのは米国が米国民を監視し、且つ、米国が日本を含めて旧西側諸国の国民を監視できてしまっている状態にあるという。国内の政治や警察といった次元の話で言えば、前述したような野党勢力そのものを徹底的に監視し、それを失脚させる事が可能になってしまっている状況であるという。この問題、エドガー・フーバーなどを考えるとイメージが沸くかも知れませんが、ありとあらゆる情報を掌握する者は、おそらく政治家をも失脚させる事ができてしまい、また、フーバーのケースで言えば、キング牧師を徹底的に監視し、スキャンダルなどで失脚させようとしていた事が露見していますが、つまりは、そういう状況になっているというのだ。(歴代のアメリカ大統領もフーバーを怖れていたと思われる訳ですね。情報機関や諜報機関は、情報をコントロールできるという巨大な権力となり得る。最悪、証拠を捏造し、敵対関係にある政治家やジャーナリストを抹殺する事も出来てしまう訳で。)

ここで現実の国内政治を合致させると確かに不都合な事実が存在しているようにも勘繰れる。稲田朋美氏が政治家としての失脚をする羽目になったのは防衛省が南スーダンに於ける国連PKO活動に参加していた際の日報を隠蔽していたところから始まり、その後、国会が紛糾した森友学園問題と加計学園問題が火を噴いたが、この過程で明らかになったものも不可解な情報であった。情報をリークした前川喜平氏に対しての援助交際を疑わせるような奇妙な記事が読売新聞に掲載されたり、また、詩織さん問題が沸き起こったり、週刊新潮が報じたスパコン不正問題などが起こり、その2件ではジャーナリストの山口敬之氏の名前が取り沙汰された。更に更に、厚生労働省による毎月勤労統計などの基幹統計の改竄・捏造の問題を契機として、厚労省に限らず各省庁での改竄や隠蔽を疑わせるような事例が多数あった事が発覚した。これは列挙するのもめんどくさいレベルですが、細かい事を言えば障害者雇用枠の捏造はじめ、諸々あって、まるで政策を肯定する為に統計データを修正していたようだと指摘されても仕方ないような状況にある。一体全体、何が起こっているのか、不可解だったのですが、どうも、この監視資本主義とも警察国家化が関与しているような状況が確かにあるんですね。

イスタンブールのサウジアラビア大使館で、NYタイムズの記者であったカショギ氏が殺害されていたり、或いはパラダイス文書などでは、国境なき記者団として活動していた女性ジャーナリストがクルマもろとも爆殺されるなど、非常に恐ろしい事件も起こっている。

根源は何なのかというと、監視にあり、現在ともなると、技術的にありとあらゆるデータの複製や保存が可能になってしまったので、そうなってしまった。NSAでは911テロ以前から大手通信会社のAT&T社と通じて盗聴活動をしており、911テロ後、より大胆に、この監視複合体が機能したという。

世界的にも、その監視複合体が拡大した。エシュロン盗聴問題などは何故か日本では話題になる事も少ないのですが、欧州議会では「エシュロン盗聴システムに関する特別委員会」を設置し、米、英、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドが共通の民間通信衛星傍受システムを開発、友好国である筈の西側諸国の外交情報や産業情報を盗んでいたと2001年、最終報告書を出しているという。そのエシュロンによって集められた情報は、検索システム「エックスキー・スコア」のデータベースに収められているという。

日本も例に洩れず、クロスヘア(CROSSHAIR/照準器の十字の意)という国際盗聴プログラムに参加しているという。この協力国は2005年時点で16ヶ国あったといい、オーストリア、デンマーク、エチオピア、ハンガリー、イスラエル、インド、イタリア、日本、ヨルダン、韓国、オランダ、ノルウェー、パキスタン、サウジアラビア、スウェーデン、台湾が参加しているという。しかし、日本の場合は一度、2009年にクロスヘアへの参加を取りやめたという。しかし、2012年7月に復帰するという動きがあったという。日本の防衛省は手動によって方向探知機を操作する事を望んだが、そこで軋轢が生じた為であったという。その後、手動によって方向探知機を操作する合意が出来た為に復帰し、現行の情報網社会になったという具合に読める。

スノーデン氏が暴露したクラッキング手法の中には「クァンタム・インサート」なるものがあったという。スノーデン氏に言わせれば、それは「まるで野球カードのように、人々のいのちをトレードしている」という。飽くまでテロリストを監視する為の手段であるとされているが、巧妙に対象者をウィルスを仕込んだサイトやサーバーに誘導してウィルスに感染させ、パソコン内の全データをそっくりそのままNSAのサーバーに送り込めてしまうという。しかも、諜報機関が標的としていのはテロリストだけではなく、ジャーナリストや人権団体、労働組合、平和運動、環境運動に関わる人々も標的にされてしまっているという。(簡単に言えば、テロリストの監視目的だけに使用されているのではなく、拡大解釈して運用されてしまっているの意でしょうか。)

そしてメディア・コントロールの問題にも触れられている。この箇所は引用で大丈夫かな。

あなたの手元のスマートフォンやパソコンに絶えず流れ込んでいく情報の質をよく見てほしい。増える一方の健康・美容記事、有名人のゴシップ、商品知識、お笑い芸人の発言、ネットを席巻するゲームとポルノ――役に立つ情報、気を紛らわすネタは山のようにある。が、そこから闇の奥へと通じる真実だけがきれいに切除されている。米国の批評家ノーム・チョムスキーによれば、メディア・コントロールの真髄は人々の関心を政治からそらし続けることだという。あふれる情報が真実の不在を隠しているのだ。はびこる監視と情報統制に風穴を開けるには、闇の奥を照らす真実の断片を投げ込むしかない。



著者は、映画「1984」を挙げることなく、編まれていましたが、私がこれまでに目にしてきたものだと「1984」は結構、引用されていましたかねぇ。先日、Eテレでも取り上げられていた気がしますが、この監視社会問題というのは、かなり厄介な問題っぽい。巷間に流れる言説そのものがコントールされている、或いは日本の場合は萎縮であったり、忖度などによって勝手に自嘲してしまったりする傾向があるように思えますかねぇ。

週刊新潮あたりが、関西電力問題を報じているところによると、結構、企業名や顔役であったという森山氏の人権活動ぶりにも触れている。同和団体の支部長であったので地元では逆らいようがなかったし、また、顔役として福井県警にも付け届けをしていたらしき証言が掲載されている。新聞報道では関電の経営陣らに批判の矛先が向き、辞任などの報道があり、第三者委員会を設置して事実を究明するというのが表向きの公論という事になりますが、週刊新潮の記事からすると有名政治家も福井県警も森山氏からの付け届けを受けており、公然とした顔役であったであろうことが浮かび上がってしまう。これが現在の日本の構造だと思うと、かなり、ヤバい状況のような気もしますけど。ホント、これだったら上級国民が中級以下の国民をダマして肥え太っているという構図になっちゃうしねぇ。

2019年10月14日

映画「猫が教えてくれたこと」の感想

トルコ・アメリカ合作「猫が教えてくれたこと」なる映画を、洋画専門チャンネル「ザ・シネマ」にて視聴。

ノンフィクションで、トルコの古都イスタンブールの野良猫たちの生活を地上10cmの視線で撮ったという2016年製作の映画でした。以前にも、NHKの番組、確か「ねこ愛ワールドカップ」とか、そんな番組で、トルコでは野良猫へのエサやりが当たり前のように行われているという話が取り上げられ、スタジオ内からも「羨ましい!」という声が沸き起こったのですが、その野良猫との共生を実践しているイスタンブールを舞台にして、猫と人間との共生を、原寸大で描いたドキュメンタリー映画でありました。

イスタンブールの市街なのでしょう、コミュニティ道路上、ちょろちょろと猫が闊歩している。屋外にあるカフェでは客の足元で猫が昼寝をしているし、海産物を平台に積んで売っている市場の中にも猫がうろうろと歩いており、図太い猫になると商品であろう野菜に背中をもたれかけるようにして丸くなって寝ている。その市場で働いているおじさんやおばさんたちは、当たり前のように餌を与えている。

港では漁師たちが猫と鴎とに当たり前のように御裾分けをしている。無数の鴎が分け前を待って上空を飛んでいる中、その中は誰よりも最初にバケツからぶちまかれた生魚を一匹、咥えて持ち去ってゆく。そういう光景が当たり前なのだそうな。イスタンブールは大航海時代に交易の拠点として繁栄した古都であり、そこには色々な国の船がやって来て、また、その船が色々な国の猫を積んできた。古くは港町のイスタンブール自体がネズミに悩まされ、船がネズミ捕りの用途で猫を乗船させていた事にヒントを得て、皆が猫を飼い出したところ、ネズミが減ったのが切欠で、以降、イスタンブールは猫と人とが共生する歴史が定着したのだという。だから、イスタンブールの人たちからすると、猫が通りを闊歩したり、市場の中でちょっとしたイタズラをしている事、どこかの邸宅の屋根に上っている事なんてのは、当たり前の光景でしかないらしい。

或る漁師の話は面白かったですかね。ツッコミどころ満載なのだけれども。

「昔、全財産を叩いて漁船を買ったんだ。でも半年もしない内に嵐が来て船が壊れちまった…。途方に暮れて浜辺を歩いていたら、一匹の猫がオレに向かって鳴いていたんだ。一度じゃなくて、何度もだ。オレに用でもあるのかと思って、その猫の方に近づいていったら、そこに財布が落ちてんだよ。しかも当座の生活資金が入っていた」

って、これ、日本では拾得物横領罪だのなんだのってなってしまいますがカンケーない。その漁師にしてみれば、「オレが窮地に立っている時に、その猫がオレに財布が落ちている事を教えてくれた」という回路でしかないのだ。だから、財布が落ちている事を教えてくれた猫、いやいや全ての猫という生き物は有難い生き物だ」という風に認識している。現在は無事に生活を立て直して、また、漁に出ているが、その漁船には2匹の猫を乗組員にしている。どうみても猫は段ボールの中で昼寝しているだけなんだけれどもね。

イタリアンな雰囲気のカフェの主人は、店先にやってきた猫に感心して特別な餌をあげていた。何に感心したのかというと、その猫はお客に迷惑を掛けてはいけない事を知っているという解釈でした。そのカフェはオシャレで、室内には通常のカフェになっていて屋外にもオープンカフェのようなつくりになっているのですが、その猫は、決して店内に入ってくることはなく、調理場の窓の前に現れて行儀よく人間を待ってくれているのだという。オープンカフェの客にエサをねだる事もなく、決まって窓の外から調理場に向かって「エサをもらいにきました」という態度で待っている。だから、イタリア風の髭をははやらかしたオシャレな店主は、当初、ローストビーフを与えたところ、猫が喜んで毎日のように来るようになった。しかし、「徐々に猫が太り始めてしまったので現在では、カロリーの低いチーズとチキンを与えるようにしたのさ」、と、語る。

店番をしている脇で、猫を昼寝させている女性によると、その猫は室内飼いではなく、自由に外を闊歩している野良猫だという。つまり、昼寝したくなったら、その猫は、その店に入ってきて、そのお決まりのベッドの上で昼寝していくのだという。その女性に拠れば、猫は気ままなところが猫らしいだから、これでいいのだという。

古都イスタンブールにも、開発の波が押し寄せており、近くには既に大きな商業施設が出来たという。その女性は「土がなくなったら猫がトイレをする場所がなくなってしまう」といい、更には「もし、このまま開発が続いて猫が居なくなってしまったら、もう、それはイスタンブールじゃなくなってしまうわ」と語り、更に「猫と人との共生」というワードにまで言及する。

また、女傑ネコの話がありました。その老人が語るには「あの雌猫は、この地区の大ボスなのさ」という。縄張りを巡回し、何かあれば威嚇したり、猫パンチをして追い出してしまう気の強い雌猫らしい。そんな雌猫を、その老人は「この猫はサイコパスなんだ。ピットブルのような犬さえ、威嚇したり、襲い掛かっちまう迷惑猫なんだ」と語る。夫だという、その雄猫にカリカリを与えると、そこに妻たるサイコパス猫が登場、カリカリを食い散らかして退散する。その様子を説明して、「こうだ。あの雌猫は夫を尻に敷いていやがる。夫は余ったエサを食べるだけだ。な、迷惑な猫だろう?」と語るが、目尻が下がっている。

更には、掌に乗っかってしまうような仔猫が店に届けられる。何やら、大人の猫に襲われたのだという。すると、その店主は「ああ、これは手遅れかも知れない」と呟くが、店主の掌の上で、かすかに前脚が動く。その店主はクルマで動物病院へ向かう。掌の上には瀕死の仔猫が乗っかっている。どうなったんだっけかなぁ…。

先に紹介した漁師らが語っている。

「猫が足元に来てくれたら喜びを感じるね。動物を愛せない人間に人間なんて愛せやしないさ」

「猫と居ると幸せなんだ。神に感謝するよ」