2017年02月22日

我慢を強いられるのは現場

今度は、マクドナルド妙典駅店が、お叱りを受けて、謝罪する羽目に――。

つい一週間前の「めがねお〜」で万引き犯のモザイク画像を公開問題の発生から、これで三度目となる話ですが、今回はマクドナルド妙典駅(みょうでんえき)店で、暴言&暴行を受けたマクドナルド妙典駅店側が暴行犯の移った画像を使用して作成した警告ポスター(貼り紙)が問題視されたというものでした。しかも今回のケースではマクドナルド本社側から妙典駅店に指導を行なって貼り紙の撤去をし、マクドナルド本社は「お詫び」を告知するに到ったという流れですかね。

これなんですね、世論の正体というのは…。

おそらく、妙典駅店という店舗内の判断としては、「悪質なクレーマーは御免である。店舗の権利として犯罪者を懲らしめる権利がある。そもそも、相手は犯罪者なのだ」というホンネがあるが、タテマエとしては「犯罪防止に繋がる事を期待しての警告である」だとなる。

うーん。タテマエで組み立てて、タテマエで争うという態度は、正しいようでいて正しくないと思う。ホントは、店舗の判断というのは、懲罰感情から発するものであり、しかも、その暴行を受けた店員を守らんが為に店長を責任者としての現場部隊、その現場部隊一丸の判断によって、「犯罪者の顔を晒すべし!」という思惑がホンネとして介入していると捉えるべきなんですよね。タテマエで争っては、全く論点が異なってしまう可能性があり、タテマエで争えばタテマエで争うほど迷路に迷い込んでしまう可能性がある。

現場が蔑ろにされている、そういう事なんでしょ、ホントは? もっと【感情労働】という概念を世間に承認させた方がいいと思う。余りにも消費者至上主義が蔓延してしまっており、最早、限界レベルの衆愚社会になってしまっているのが現在ではないの?

万引きされれば万引きされた方が悪いと言って、テレビやネットで批判され、嫌がらせの電話やFAXを受ける。今回のマクドナルドのケースは暴行を受けた被害者であるのに、ただただ、客商売に従事しているだけというだけで暴行を受けても我慢を強いられ、少しでも強気の自衛の態度を取れば批判を浴びてしまう。更に、実は店舗からすれば親分筋にあたるマクドナルド本社の方から犹愼貝瓩箸いμ召亮言佞鮗けている。

これでは、愈々、現場というのが報われないのではないか? 

以前に、ローソンのなんたら支店で、ドキュンと呼ばれるタイプの客がローソンの店長ほか店員、更にはローソン本社の人間をも土下座させたという騒動が動画として出回ったことがありましたよね。店員の中には戦かおうという意志のある者があったのに、本部側の人間が犹愼貝瓩靴道なかれ主義を貫徹し、結局は店員に土下座することを容認しているように見えました。

何を言いたいかというと、マクドナルドにしても、ローソンにしても、現場部隊は尖兵に過ぎず、どんなに消耗しても構わない、とにかく、謝罪しろ、謝罪するのが業務なのであると暗に認めてしまっている、そのクダラナイ、消費者至上主義にあると思うんです。分かり易く、「本部」と「現場」という言葉に置き換えますが、つまり、本部は現場を見殺しにする事で体面を取り繕っているという異常な状態。クレームがコワいから末端兵士に屈辱的な土下座を強いているんじゃないの? そのクセ、本部は現場の奮闘によって実利益にありついているという構図もフランチャイズ制の中に隠れているワケですよね。

実際にクレームに対応した者、或いは目撃したり、体験談でも理解できるハズと思うけれど、凶暴なクレーマーに暴行されたなんてケースは「ちょっとしたトラブル」なんてレベルじゃなくなっていますよね。実際、暴行罪だし、その被害者だ。しかもモンスタークレーマー(モンスターペイシェント、モンスターペアレントも同義)ですが、対応して一方的に理不尽な面罵を浴びせられることが、どれほどの大きなストレスとなるのか、ちゃんと理解しようとした方がいいと思う。不眠になったり、発熱してしまうなど身体に影響が出るレベルのストレスですよ。

モンスターペアレントのケースなんて、学校が機能不全になるという。機能不全と言われてもピンと来ない人は、現場に疎い人だと思う。朝に昼に夜に無遠慮に電話を掛けてきたり、奇襲攻撃で職員室に押し掛けては、「校長室に入れろ、校長を出せ」と凄まじい勢いで騒いだりするワケで、刺激してはいけないと対応するから振り回されっ放しとなり、冷静を喪失し、来る日も来る日も職員室そのものが浮き足立ってしまい機能不全となる。

「クレーム対応なんて簡単さ、担当にやらせておけ」なんて軽く考えていたら大間違いで、現在ともなると常識なんてものは通用しやしない。深夜にも電話、早朝にも電話で、感情的な暴言を叩き付けられるだけの繰り返し。それに反論禁止で対応しろという。そんなの無理でしょ? それが現場なんだよ。埼玉県行田市で小学校の教師が父兄相手に訴訟を起こしてしまった事があったけれど、ホントにアンラッキーな場合だと、心身に不調をきたすレベルでガンガンと攻めてくるクレーマーだと、そういう対応も有り得るって事だと思う。当時、「教師が父兄を訴えるなんて言語道断」という尾木直樹さんの指摘もあったけれど、それはクレーマー側の異常な執着を甘く見ているんだと思う。「話せば分かる」が通用した時代なら的確な指摘だけど、最早、自己肥大化した現代人の増長や著しく、何かと言えば権利を主張し、ここのところ、店員に土下座を迫るような自己肥大化人間がゴマンと溢れているのが現実でしょう。既に日本社会全体がクレーマー体質の全盛時代になってしまったんですよね。(私は必要以上に消費者を持ち上げる、過度な消費者至上主義と関係していると思っているワケです。)

どんどん、日本のサービス業の現場というのは【感情労働】が増大して、その代わりに異様なまでの膨張した消費者至上主義が蔓延し、客であれば何をしても許されるという傲岸不遜な考えを抱く者が多数派となる醜い社会に変質してしまった――と、そーゆー事ではないの?

掃除してもらう者と、掃除をする者。

あやされる者と、あやす者。

その差異。

この現場部隊に我慢を強いてでも、企業イメージの毀損を免れようとする昨今の風潮というのは、非常にキモチ悪くないだろうか? 

本来、窃盗犯や暴行犯というのは、れっきとした犯罪者であり、その犯罪者の逮捕に貢献せんと努力する店舗の行為を無下に否定し、どんな屈辱を受けても平伏すべきであると、本社も、バカなマスコミも承認してしまっているんですよね。

昨日、TBSかな。まぁ、街行く一般人の意見が夕方のニュースショウで取り上げられていましたが、マクドナルド妙典駅店の例を語って、

「冤罪の可能性があるし、妙典駅店の反応は問題があると思う」

と言っていて、驚きました。

冤罪の可能性なんてないでしょ、マクドナルド妙典駅店のケースは。その画像に、現場らしきものが収められているのであって、事前に警察にも相談し、警察への相談後、その妙典駅店内の現場部隊の人たちは「警察はあんな態度か。これでは腹の虫が収まらんよな。我々に出来る範囲で、なんとかしようじゃないか!」と思い立って、そのポスター(貼り紙)の作成と掲示に到ったんだと思いますよ。これは決して公序良俗に反した行為ではないんのでは? 昨日の「めがねお〜」事件を週刊新潮の特集記事に沿って展開させた通りであり、何故、公序良俗に反した行為と認定したがるのか? むしろ、暴行野郎の顔を晒すという行為は「公共の利益」に寄与すると考えられないのか? 

「こいつが暴行犯です。これが暴行犯の写真です」

と、人々に告知して何が問題なんスかね。ホントの事なんですよ。どちらかというと犯罪の減少に寄与する「公共の利益」の貼り紙じゃないんスかね?

所詮は、「消費者サマ」なんてのは、受け身の人たちで、中には増長して自己肥大化してしまっている者の少なくない括りなんじゃないんスかね。モラルのようなものを判断する際、この自己肥大化した群衆がつくる世論というのは、結局は、働いている人達に我慢を強いて、社会にストレスを撒き散らしているだけ、害悪なんじゃないんスかね。

そもそも論で述べるなら、

「未逮捕の犯罪者に、プライバシーなんてものはねーよっ!」

ぐらいに強気な態度で向き合わないと、このテの犯人なんて検挙できるワケがないし、おそらく現在でも、このテの逮捕、逮捕に関して言えば民間人が逮捕してもいいワケですよね。

それを、人権侵害だとか、個人情報だとか、プライバシーだとかって騒ぐのは、間違ってないスすかね?



チカラの構造として、捉えてみる。

現場従業員がありますね。その中に店長なり何なり、現場の責任者が置かれている。この現場の責任者までもを含めて、現場部隊ですな。

で、本部(本社)がある。この本部は現場にアレコレと指令を出して、効率的に利益を稼いでいる。

本来、本部と現場とは、味方同士なんですね。何故なら、同じ企業に属して、その目的である利益を上げることで利害関係が一致しているから。

で、そこに、お客様、消費者というものがある。消費者あってのサービス業である。しかし、しかしですよ、もし、仮に本部が、消費者へのサービスばかりに夢中になり、現場部隊を蔑ろにするとなると、この関係性はややこしい事になるワケです。消費者と本部とが結託して、現場部隊に過剰サービスや感情労働といった我慢、忍耐を押し付けてしまっている可能性がある。

末端兵士を守らない本部。現場部隊を守ろうとしない本部。現場の隊長は末端兵士を気にかけて現場部隊一丸となって暴行犯と戦おうとしているのに、本部は現場部隊の対応は間違いであったと頭越しに謝罪をして、解決としてしまう。それで衆愚から形成される世論と、その衆愚に迎合しているマスコミとが「今回も我々が勝利したのだ!」とワーイワイって。この構図ですね。ここに問題はないだろか?



調子に乗っているTBSあたりは、典型ですよ。ホームレスは異端視する存在としてパロディ化して取り扱うが、その一方で生活保護受給者は徹底的に擁護し、批判者があれば血眼になって差別は許されないと騒ぎ立てる。「考えようによっては生活保護を受給せずに生活しているホームレスの方が不遇な人たちなんじゃないの?」という思考がない、不思議な思考なんですよね。(他にもTBSは「依存症は病気である」と、アル中やギャンブル中毒に同情するような報道をする一方で、ゴミ屋敷の主については晒し者にして嘲り笑うという偏執・矛盾がある。)

ホントは、本質を見ることなく、バカにしていいかバカにしちゃまずいかだけの判断基準なんだと思うよ。みすぼらしい風体、それを感じ取っての差別であり、いわば異形の者に対しての直接差別であり、最も避けて欲しい差別なんですよね。

「わーい、わーい、乞食だ、乞食だ」

と、叫びながら石ころを乞食に投げつける、そういうクソガキみたいなもんでしかない。

手がべとべとしているキモチワルイ人と握手をさせられたので、それを苦として自殺未遂を図りましたと言われて、何を、どう同情すればいいのか、ホントに理解できない。

どこかの島の酋長さんが、親交の証にと差し出した盃を、キモチワルイと拒否しちゃうんだろうか?

いやいや、死ぬほどキモチワルイのであれば、その仕事を断固として断るのが本人の務めってもんじゃないの?

こちらの話の場合、相手、先方が不快な思いをする事、失礼に無頓着な一方で明快に「イヤ」という拒絶反応を優先させる何かですよね。キモチワルイ人と握手をするのが苦痛だという状況は有り得ると思うけど、だからとって拒絶が許されるのかどうかという問題が同時に発生する。仲間内で「キモチ悪かった」のように密かに言い合って慰め合うのはストレス解消にもなるし、そのベタベタな手をしている相手に対しての非礼にもならないからヨシとして、しかし、それを死にたいに直結するのは、ちょっと理解に苦しみますかねぇ。

それで、世の為、人の為になるように出家するという。うーん。実は自己肥大化と関係しているんじゃないのかなって疑っているんですけが。

いや、だってさ、病原菌への感染リスクがあるのであれば握手を拒否するよ。あれこれと理由をデッチアゲてでもね。しかし、それでも相手を傷つけないよう何某かの配慮を模索すると思う。少しぐらいの気持ち悪さについてはガマンするのが社会であり、相互コミュニケーションの基本なんじゃないんスかね。握手をした後に手を拭いたいと思っても、そうしてしまうと相手を傷つけてしまう可能性があるから、相手の視線を気にするぐらいはするでしょう? 友人から水筒が回ってきて、「え。回しのみかよ」と内心、思うけど、だからといって、いちいち、「こいつが口飲みした水筒でオレも口飲みするのはイヤだ。菌が移るかも知れないから消毒してくれ」と発言したりしたら、それはイヤな思いを相手や周囲に振り撒く行為だからねぇ。酋長の盃の話を持ち出したのは、別に唐突な例ではなくて、実際、古今東西、そういうコミュニケーションがあるんですよね。その盃を交わしてくれというジェスチャーに応じる事に拠って「敵意がないこと」、「仲間であること」の証にしてきたのが人類の歴史であって。

或る意味、タレントさんの売り込み方として、事務所がファンとの握手を仕事として課しているのだろうから、その意味では行き過ぎたサービス業なのでしょう。構図として本部が現場に過剰サービスを課しているという意味に於いては似ている。マネジメント会社の意向と、その意に沿って接客する現場個人があり、ファンがある。マネジメント会社はファンに媚びるが余り、握手会なんてものを乱発する。しかし、AKB批判で展開させてきた通りで、そもそもからして、会いに行けるアイドルだの、握手できるアイドルなんて概念を私は批判してきたのであり、あれら会いに行けるアイドルみたいなものを素晴らしいビジネスモデルであると評してきたのは、私とは真逆の価値観の人たちなんですね。

県知事や県職員が恋チュン動画をアップしている事も批判しましたが、「大衆迎合が過ぎる」と批判したのであって。社会全体が幼稚になったと表現すると語弊があるのかな、まぁ、恋チュンみたいな、そういう典型的にミーちゃんハーちゃんなコンテンツを称賛し、それに社会全体が迎合し続けて、近20年ぐらい歩んできているんですよね。基準を幼稚園児ぐらいに絞って迎合し、そこで醸成された世論が安心安全を民間企業に要求し、行政は消費者サマサマに日和見して対処している。

仮に早食い大会に出場して、自分の意志でモチを口いっぱいに頬張って死んでしまった者があれば、その死んだ人への同情を強制し、企画者や運営者、酷い場合にはモチの製造会社が行政指導を受ける。この構図というのが共通しているんだよなぁ…。モチを食べるときには気をつけなきゃいけませんよという大前提は個々人に課された責任ですよね。その個人という単位は、どうしようもなく基本単位。法律以前に基本単位なんです。だから各個人は「自分の命を守る」というのが大原則。なのに、被害者を鞭打つのがイヤだからとヘンチクリンな偽善を発揮し、あれこれと関係ない周囲に責任を押し付け、犯人捜しをする。偽善この上ない話だ。「モチの早食いをさせて死なせてはいけません」となれば、過保護でしょうしねぇ。小さな一理はあるよ。そんな大会を企画する方にも瑕疵はあるかも知れない。だけど、それ以上の大原則として、自分の命は自分に帰属するが最優先の大原則であって。ホントは、誰しもが言わんとしていることは誰もが分かっているハズなんで。自業自得って、唱えてみるべし。他人を処罰することで快楽を得るのは、醜い行為じゃないの。

中抜き構造といえば中抜き構造なんだけれど、結果、最も何もしない上級国民と、特に何もしていない消費者とが結託し、労動に従事する者を巧い具合に縛り付け、日々、感情労働を激化させてしまっている。ここへ導いた世論の形成主というのは、それでしょう。

2017年02月21日

ブラック・ジャックの名台詞

昨秋、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の連載が終了するとの事で、急に漫画に目を通してみたい衝動が沸き起こって、コンビニにて「傑作選」と銘打れた廉価版の単行本を三冊ほど購入して読んだのですが、実は、そこで感じたのは、連載終了やむなしという感慨でした。

単純に述べると、面白いと感じることが出来なかったんですね。もっとハチャメチャだったんじゃなかったっけ、と。よりストレートに言ってしまうと、美少女キャラが沢山、登場していて何が何だか設定が判らなくなっていた上に、主人公である「両さん」にしても、なんていうのかな、キャラクターが変わってしまったかのように感じました。クズ警官であったところが、何故かスーパー警察官になってしまっており、人情話の挿入しても鼻につくような感じ。大原部長や本田巡査ら、そこら辺のキャラクターはキャラクターとして変化していなかったと思うんですが、基本的にアイコン化してしまっているな、と。

美は乱調にあり――。ここのところ、大杉栄関連本を読んでいた事もあって、そんな事を思いました。私の感想ではありますが、おそらく「こち亀」の連載終了というのが大正解であり、幕引きのタイミングを待たれる段階にあったのだと思う。【乱調】の反対語は【諧調】なのですが、既に「こち亀ワールド」というのは描き尽くし切っており、ハチャメチャを描こうにもハチャメチャが諧調になってしまっており、読み手を魅了するだけの乱調になっていなかったというかね。なんだかエラそうに、そう評論してしまいますな、えっへん。

で、やはり、今でも全巻読破をしてみたい漫画って何だろうって考えると、私の場合は仏恥義理で、手塚治虫の「ブラック・ジャック」ですかねぇ。単行本で20冊近くは読んだと思うんですが全巻は読んでいない。書店で思い立って購入してみると、少年チャンピオンコミックスではない体裁の単行本が出版されているので、何が何だか分からなくなり、購入してみたものの、少年チャンピオンコミックスとダブりまくるという悲劇に見舞われてしまう。
カネと時間をかけて、任意のシリーズで全巻集めてみたいなんて考えるのは、やはり、「ブラック・ジャック」でしょうかねぇ。


ブラック・ジャック先生は、御存知の通り、モグリの天才外科医である。そう、犯罪者なんです。確かに誰もが見捨てるような難易度の高い手術を成功させるが、その手術代は法外な金額を請求するというタチの悪い人なんですね。

犯罪者だというのに、何故、ブラック・ジャック先生は、カッコいいのか?

どう考えても、あのブラック・ジャック先生のクールな部分に魅力がある。そのクールさとは、一つはニヒリズムであり、もう一つはというと、ニヒリズムのウラにあるヒューマニズムでしょう。

素晴らしいほどに洗練されたキャラクターであると思う。

以下、ブラック・ジャック先生の名セリフを、着色文字で書き起こしてみる。

「からだも心もくさっているやつは手術したってむだだ」
(第1話「医者はどこだ!」)

「助からないでしょうな」
(第205話「海は恋のかおり」)

「むだと知りながら手術(オペ)なんかやるおれは……よっぽどのバカだな」
(コミックス第154話「恐怖菌」、連載時第46話「死に神の化身」)

「この空と海と大自然の美しさがわからんやつは―――
生きるねうちなどない

(第81話「宝島」)

ひょぉぉぉぉ、クールだぜ、BJ先生のセリフってのはサイコーに。いや、ニヒリズムが滲んでいる。

しかし、それが単なる虚無主義なのかというと、そうではない。BJ先生はヒューマニズムを自分なりに有している。

「わたしは死にものぐるいでなおそうとする患者がすきでねぇ」

(第120話「悲鳴」)

「いいか、患者に治ろうという努力の気持ちがあってこそ、医者の治療はききめがあるんだ」
(第236話「されどいつわりの日々」)

(ジャングルの中で、夜空に向かって)
「医者は人間の病気をなおしていのちを助ける! その結果 世界中に人間がバクハツ的にふえ 食料危機がきて 何億人も飢えて死んでいく……
そいつがあなたのはおぼしめしなら……
医者はなんのためにあるんだ

(第51話「ちじむ!!」)

――と、豊福きこう著『ブラック・ジャック「90.0%」の苦悩』(秋田文庫)のページを捲りながら、そんな事を思いました。

確か、手術代を請求するがラーメン一杯分の代金にしてしまう話とかあった記憶があるけど、ちょっと今は探し出す余裕がない。なのですが、BJ先生はヒューマニストであり、「あなたが働いて得た自分のお金で手術代を払ってくれるんなら、それでいいですぜ」的なニュアンスだったんですよね。あ。第212話「ある女の場合」で、未亡人となった女性に手術代を請求するシーンだったか。更に第206話「山猫少年」に到ってはヤマネコに手術をしてあげて、そのオペ代を魚2匹にしてしまった事もある。魚2匹って…。確信犯的にモグリの外科医なんだけれど、結構、根はいい人なんじゃ――。

てか、強きに厳しく弱気にやさしく――か。BJ先生基準のヒューマニズムというか、そのへそ曲がり主義が気味がいい。現在ともなると秩序に逆らう反抗的態度は徹底的に糾弾され、均(なら)されてしまう。そのクセ、弱い者には容赦なく全力を上げて吊し上げる性悪が蔓延し、社会全体が悪人化している。

その対極として、法外な手術代を吹っ掛けているケースは政府要人であったり、某習い事供出の家元に対してであったりする。更には、次のようなセリフもBJ先生は残している。

(ヒステリー症状の学園長の娘が患者のケースで)
「おかあさん あんがい原因はあんたのしつけにあるんじゃないですか?」
(第20話「発作」)

それと、さりげなくイケメンなんだよなぁ、BJ先生ってのは…。

第57話「ブラック・クイーン」では、ブラック・クイーンの異名を持つ「桑田このみ」という女医が登場し、その桑田このみに、BJ先生はラブレターらしきものを渡そうとするが破り捨てる。

第180話「土砂降り」では、BJ先生が片思いであった「清水きよみ」の墓前で、ポツンと呟く。

「あなたの美しい顔にメスを入れたくなかったのですよ…」

うーん。そうでしたよね、30年前の日本の価値観というのは。これは自然美と人工美の話でもあると思う。顔の整形についても幾度も取り上げられていた筈だしなぁ。はて、いつの間に時代の価値観ってのは、これほどまでに変わったんだろ。

飽くまで私見ですが、つまり、「こち亀」は時代に対応してしまった為に陳腐化してしまい、一方の「ブラック・ジャック」は時代に対応せず、そのヒューマニズムを現在でも作品の中に湛えているって事なんじゃないのかなというのが結論でゴワス。

週刊新潮による「万引き画像公開問題」

先に物議を醸し、このブログでもクダを巻いた万引き画像公開問題ですが、週刊新潮2月23日号が特集記事として取り上げていました。

事件のアラマシをおさらいすると、2月7日、眼鏡小売店「めがねお〜」が防犯カメラに映った犯人のモザイク画像をアップし、3月1日までに返却か弁償をしない場合はモザイクを外すと宣言した。盗まれたとされているのは俳優の哀川翔さんプロデュースの眼鏡であり、予約制の上に限定発売の品であり、一本が約3万円。盗難に遭ったのが7本だから約21万円分もの盗難であった為、めがねお〜側では何とか、洒落にならない損失だと考え、モザイク画像公開に踏み切ったという。

モザイク画像公開に踏み切るにあたっては細心の注意をしていたともいう。当初、社長は警察に被害届を出したが、警察の反応は鈍かったという。

「防犯カメラの映像には不審な男が店から外へと出る決定的な場面は映っていないから万引きした事の証明にはならない」

旨の説明を受けた。その後、盗難された翌日、近所の中古ブランド眼鏡の買取店で働いている元従業員から、盗難のあった当日夜に「SAMURAI SHO」ブランドの眼鏡7本を売りに来た男がいたが、盗難品ぽいから買取を拒否したという。元従業員に防犯カメラが捉えた男の画像を電子メールで送信したところ、元従業員は、「こいつです!」と確認してくれた。なので、社長は警察に買取店で得た話も説明したが、警察の反応の鈍さは変わらず。社長は、犯人の顔まで分かっているというのに、泣き寝入りするしかないのかと眠れぬ夜を過ごしたが、後にホームページで犹慳昭蠻朖瓩垢襪海箸鮖廚い弔い燭箸いΑ

気持ちとしては「警察が動かないなら、自分がやるしかない」、と。ホームページ上で指名手配することについても弁護士に事前に相談したという。弁護士からは名誉毀損やプライバシー侵害で訴えられるリスクの説明も受けたが、その上で、モザイク画像をアップしての指名手配に踏み切った、と。この決断まで、2日半ほど悩み抜いたものであるという。

間もなくテレビや新聞といった大手メディアが問題・騒動を取り上げたんですね。私が目撃した中で、ワイドショウ系のコメンテーターの質の低さに驚きました。

「冤罪だったらどうするんですか」

「プライバシーの侵害、名誉毀損の可能性があります」

は、或る種、情報が足りないが故の無明ではありますが、中には

「事業者にとって万引き被害はコストと考えるべきです」

というものもありました。そりゃそうなんだけれども、オメェっちみてぇなインテリ風情が箸にも棒にも引っ掛からないような偽善の正義を撒き散らすからじゃねーかと感じたワケです。分かりますよ、コストとして考えるべきという次元の話も。ですが、万引きに苦しみ万引きと戦っている事業者に向けて放つべき言葉じゃないやな。ホントは、前回の「まんだらけ」と今回の「めがねお〜」とに共通して、テレビの中のインテリは、敢然と「まんだらけ」と「めがねお〜」に対して準メディアリンチを仕掛けたようなものであったと思うよ。だってさ、居並んでいるコメンテーターの中に、店側擁護が少なかったでしょう? 「実は私の実家が眼鏡店(酒屋?)でして」と前置きした俳優の高橋克美さんが「店側の気持ちは分かる」と発言したぐらいだったんじゃないのかねぇ。

法的見解というのは、現実としてはアテにならないものなんですよね。しかも、案の定、警察の対応というのが、コレであるワケでしょう。実際には泣き寝入りの強制をされているようなもんでしょうし、ホントにテレビ的な言説が正論中の正論であると周知されてしまったら、こんばバカな社会はない。

実際にそうらしいんですよね。私が住んでいる埼玉県でも日に一件ほど小さな規模の書店が消えていると報道されているのだったかな。そんな中、中部地方の書店店主のコメントが週刊新潮に寄せられていました。

少年ジャンプ一冊盗まれると、50冊も売らないとカバーできません。うちの店は万引きで赤字になっていると言ってもおかしくない。他も同じで、書店店主の集まりでは、いつも万引きの苦労話ばかり話題になっています

事情は大手書店でも一緒らしく、大量万引きに頭を抱えているという。大量万引きに遭っても、実は警察は取り合ってくれないのだそうな。被害額はピーク時には売り上げの10%を窃盗で失ったという。大手チェーンの場合、万引き被害の責任も店長に押し付けられるので、万引き犯を捕まえた店長が殴りかかろうとした店長が実在したといい、そうではなくても凄まじい敵意で万引き犯を睨みつけているという。

福島県にあるセリザワ書店は、四半世紀前に防犯カメラで撮影した画像をビデオにして販売すると宣言し議論を巻き起こした万引き犯と戦う書店の元祖であるという。記憶にありますかね。で、あのセリザワ書店にも取材をし、コメントを得ていました。

何せ、被害が酷くてね。知り合いの本屋の奥さんはノイローゼになってしまったくらい。結局、売るのは辞めたけど、効果はあって、万引きはゼロになったばかりか、地域で少年犯罪が減ったと警察に褒められたくらいです。あの時は牴个弔韻討笋襪勝瓩覆鵑禿渡辰發△辰燭發里世韻鼻逆に爐茲やってくれた瓩箸いξ紊泙靴眤燭った。人権なんて言っているのは、自分が関係ないから。自分が被害に遭っていたらとてもそんなこと言えるはずがないよ

だって。

更に、役立たずの警察に次いで、もう一つの役立たずである弁護士の見解ですが、週刊新潮は次のような事も掲載している。

元東京高検検事・川口克巳弁護士の弁が以下です。

名誉毀損は、それが専ら公益を図る目的であった場合、免責されます。この場合、21万円という多額の被害から回復を図るのは、社会秩序を守ることの一環として捉えることも出来る。公益性があると解釈する余地はあるのです

だって。

うーん、弱いな。やはり、法律関係の思考だと、立ち位置として「他人事」として処理している。まぁ、戦う余地があるとしている点では、充分なんだけれども。

評論家の呉智明氏のコメントが以下。

「『自力救済はダメ』『国家に委ねるべし』というのは、法律論としてはその通り。近代国家は国民から処罰権を召し上げていますかね。でも逆に言えば、それも『法治主義』なる一つのイデオロギーに過ぎません。一方で万引きの被害者が救済されないという現実がある。それを補おうとする店主の自衛行為を『私刑』と批判する人は、イデオロギーを守ることが最優先。現実に盲目な余り、目の前の現象がその矛盾を衝いていることに気付かないのです。まさに『イデオロギーファースト』で、被害者のことなど眼中にないのです」

だって。

週刊新潮特集記事は、以下のように結ばれている。

安全地帯から「人権侵害」とのたまうお歴々と比して、どちらの主張により説得力があるのかは明らか。そんなに人権が大事なら、率先して、出演料の一部でも被害店主に寄付してあげてはいかがだろうか

と、シニカルに記事を結んでいる。

呉智明の見解にしても、赤文字にしてしまったけれど、多分、一般人でも語れる内容であろうと思うんですね。この処罰権は国家が召し上げているという法解釈は、山口県光市事件あたりでも何度も何度も持ち出された一節だし、少年法を巡っても何度も繰り返されてきた一節でもある。しかし、被害者に成り代わって、きちんと裁いてくれているのかというと、実は、そうなっていない。警察にも事情があるんでしょうけれど、万引きだの、ストーカーだのという犯罪の場合、やっつけ仕事に終始し、身を入れて捜査してくれているとは言えないのが現状だし、酷い例になると、神戸立ち去り警官事件があったり、桶川ストーカー事件、更には角田美代子事件のような、奇妙な事件が表沙汰になったりする。事実が明らかになってみると、「ん。それって警察は助けられた可能性があるよね?」と警察の対応に首を傾げざるを得ない事件なんてのもあった。極めつけは菅家さん冤罪時代であり、警察は科学検査が未熟であった事を認めたくないが為に不手際の隠蔽に務め、それを裁く立場であった司法システムにしても、事実無根で真っ白の潔白であった菅家さんを納得のいくレベルで救い出したとは言い難い。司法もまた権力機構側の一部であったかのような、後味の悪さを残してしまったと思う。

うーん、やはり、基本は自衛じゃないんスかね。自分の財産は自分で守るという事を基本に据えておかないと、おそらくは自分の命も守れないし、自分の家族も守れない。警察に全て委ねる事が可能であるとか、法治主義に全て委ねることが可能であるというのは、現実的ではないんですよね。週刊新潮も触れていましたが、テレビの中の住人は、加害者の人権を守れという。しかし、それに囚われるが余り、事業者の生存権を蔑ろにしている。「人権侵害だ」と叫ぶ輩は法律を盾にそのようにいう。

生きるには働かねばならなず、そのナリワイの原理からして労働者は労動し、事業者は事業にアクセクしているのであって、その事業者や労働従事者が自衛しようとするのも、いわば生存権そのもの係る問題でもある。つまり、仕事、働くことを生業とする当事者にとって万引きの問題は死活問題と直結している。それなにの犯人のプライベートの侵害がどうだとか、名誉毀損だとかいうヘンテコな理屈が罷り通る。マスコミや司法は既に既存カーストの中で上位だから、それを支えてくれている大衆、その中でもプチブルな衆愚層が大好きなんだろうなって思う。電車の中で大便を垂れてしまう幼児があれば、当該幼児や保護者を叱らずに、管理責任のある鉄道会社の社員に気色ばんで恫喝を浴びせ、清掃員を罵倒するという寸法かな。最も厄介な部分には向き合わずに済む、最良の統治術かもね。

犯罪者の肩を持ちたがる偽善が持て囃されるのは、ホントは、トランプ大統領と、その支持者の大行進と何が違うの? 働く者よりも万引き犯の味方に正義もクソもあるのかな。より深く考察すると、消費者至上主義と関係していて、労動に従事するタイプの者を蔑ろにして、別に労働によって価値創出してくれているワケではない消費者、そのレベルの大衆にゴリゴリに迎合しているんだと思うよ。缶コーヒーのボスのCMに登場するような職種の人たちを低層カーストとして眺め、その労働価値を不当に低く評価し、一方で、傲慢で怠惰でワガママな消費者層ばかりを持て囃すという醜悪さに気付かない。きっと、お客様は神様ですとホンキと思っているんだと思う。労働者よりも消費者が偉い=カネを使える者が偉い=カネ持ちは偉いとする、その秩序を官憲が監視している空間。机上の論理で思考するインテリの主導する醜悪なポピュリズムに日本は蝕まれているというかね。

拙ブログ:肥大化した権利主張〜2017-2-11

2017年02月20日

野坂昭如の「死と自殺観」

引き続きまして、同じく第8章「死について」から。こちらは文章は『私小説』(中央公論社)1979年のものを、『終末の思想』(NHK出版新書)が収録したもののよう。

人間は年中死を意識している、そして、意識しながら、上手に死ぬことはいっさい考えず、ただもう不老長寿をのみねがい、健康こそが人間の幸せと信じこんだふりをする、あまりにも意識し過ぎる怯えが強すぎて、具体的に考えない。

しかし、健康雑誌という、御節介かついかがわしいものを定期購読しようと、人間ドックとかいう気やすめにたよろうと、当たり前の話だが人間は、必ず死ぬ。

であるからして、考慮すべきはその上手下手であろう。

〜略〜

かつての人間は、つまり農村が生活の基盤だった頃は、まだしも死をを真面目に考えていたと思う、都市という異常な空間が、人間の営みの中心となり、そこでの考え方が支配的になるにつれて、死はないがしろにされはじめ、いや、死に直面する勇気を失ったといった方がいい。

〜略〜

死を、観念的に情緒的に扱うのもいいが、またごく即物的な描写もあって当然だろう、首になわをかけられ、橋から吊るされた男の、絶命までによみがえった過去の記憶やら、腹を刺された少年が、舗道に倒れて夢を追い求める小説を読んだ覚えがあるけれど、苦痛については、ほとんど触れられていない、これはなんたることだ。

吊るされた場合、脛骨が折れるから、一瞬にして知覚を失い、つまり苦しくない、故に、わが国において、人道的見地から絞首刑が採用されているわけだ、しかし、腹を刺される、あるいは弾で射抜かれれば、いずれの場合も、腸をずたずたに裂かれてしまうわけで、これは、のんびりと舗道に血を流してあらまほしき夢を追うどころではないらしい。

外科医に教えられたことだが、直接の死因は、出血多量によるけれど、この間の苦しみたるや筆舌につくしがたいという、戦場で腹を撃たれたら、余力のあるうち、銃口を口に突っこんで引金がひくのがいちばんらしい。


〜略〜

寝たきり老人の、周囲に及ぼす影響はともかく、恍惚と一言でいっても、さまざまらしい、これも付添婦の話だが、たしかに昔にもどる、はたで見ていても、多分、いちばん楽しかった時代に魂を遊ばせていることがある、小学校で優等の免状をもらった時、仕事が成功した日の、高揚した気分が、そのままよみがえるらしいが、いいことばかりではない、何かに怯えて泣き出し、溺れかけた時の恐怖感や、子供にそむかれた際の孤独な心境にも、ひきずりこまれるらしい。

これは心理的なことだが、記憶は生々しい痛覚を伴い、息苦しさを再現させ、癌の苦痛とは比較にならないまでも、けっこう肉体的にも苛まれているのだ。


〜略〜

そして上手な死にかたについて、自殺はすすめられない。青酸加里は一瞬で片がつくというけれど、ぼくの知人で、戦時中、メッキ工場へ動員され、あやまってごく微量のこれを口に入れてしまった、彼は手当てをうけて、生命をとりとめたが、舌にふれたとたん、頭をぶんなぐられた如く感じ、全身の血液が煮えたぎり、しかも意識ははっきりとしていたという。都市ガスも、死体を検分すれば、決して睡るが如くとはいえぬ、吐瀉物はあるし、かなり苦悶のあげくと判る姿なのだ、水死は、まあ風呂の中に頭をつけて試してみれば判る、長く泳いでいるうちには、体温をうばわれ、凍死と同じく幻覚が起って、甘美な死にかたができるようにいわれているけれど、暗い海や、冬山に一人で漂い、さまよいつづける意志があれば、さらにいい方策を発見できるはず。

首吊りは、脛骨を折るほどの衝撃を求められなくても、頸動脈を圧迫し、脳への血液補給をさえぎればいいのだから、ドアのノブにロープひっかけてもできる、墜落は、頭からとびこむだけの気力があれば、立ったままでんぐりがえしをうって、頸の骨、頭蓋骨を損傷し得る、鉄道はさらに楽だし、死ぬ気になれば、自分の頭を柱からとび出てる釘にぶつけても、果し得る。

しかし、どうも自殺者の気持は、ぼくには判らない、他の遊星の生きものを見るような感じで、ぴんと来ないのだ。死の苦痛にどう対抗し、上手にことをおさめるかを考える上で、参考になりにくい。ま、死にたい人は死んでくれという他ないだろう。



物騒な描写も散見している毒のある文章であり、また、吊るされる場合は一瞬にして知覚を失いウンヌンや、鉄道はさらに楽だ等の表現、そこら辺の内容の信憑性については保証しませんけど、具体的に死に方に伴なう苦痛、その類例を列挙してみることで、読み手は嫌が応にもリアリティーとして、それら苦痛と向き合わされてしまうと思うんですよね。漠然と死を捉え、死を死として忌避する態度ではなく、死をリアルに捉えるべきだという主旨の元に展開されている。

また、ブラックユーモアにも思えますが、(飛び降り自殺をするのであれば、)頭から飛び込むだけの気力があれば、断崖に立って、そこから、でんぐり返しをうてれば上手に死ねるだろう、と。頭の中でアニメーション化してみると、おもしろ怖ろしい描写も交えてある。

我が家にも完全自殺マニュアルだかなんだかって書籍があった筈なんですが、昨年か一昨年に処分してしまったかな。目を通すのがコワくて。冗談であっても、その知識を得てしまう事が、既に怖い。臆病だから怖いとも言えるんですが、それだけではなくて、ひょっとしたら自殺願望のようなものに取り憑かれてしまった場合、「お。そうだ。オレは、いい自殺の仕方を知っているんだった」と、そちらの思考回路に向かってしまう可能性にビビるんです。

自分自身、自覚しているところでは「自殺なんてとんでもない」と思う。そう自覚している。ところが、気の迷いが生じたり、カーッとなるなどして衝動的に行動してしまわないという絶対的な自信もない訳で(怯

夢というのは、夢の中で何某かの体験を疑似体験しているとも言える訳ですが、夢の中の自分の制御できなさというのは、コワいですよね。消防車を呼ばねばならない、火事だという夢をみて、電話の受話器を持ち上げているんですが、電話番号が出てこないという夢を見た記憶があります。110番は警察だから119番だろうと思うものの、119番は救急車だから117番ではなかったかなんて事を考え出し、いやいや、117番は天気予報だろ、いや、時報が117番だったかな。どうしよう、どうすればいいんだ。あー、困った。早くしないと火が燃え広がってしまうじゃないか。あー、117番である事に賭けてみるかな。いや、やっぱ、違うよなぁ。確か119番だったと思うけどなぁ。実際、救急センターみたいなところに繋がってしまい、「火事ですか? 火事だったら消防署へ電話してください。イタズラは辞めて下さい。こちらは救急センターですっ! 」と怒られるかもな。ええーい、もう、いいや。消防車を呼ぶの、諦めよう。きっぱりと諦めて、オレは隣の家が燃えているなんて何も気づかなかったことにして、ベッドに入って寝てしまおう――、と。

ベッドの中で、心臓どきどき、喉からから。そのまま、寝入ってしまい、朝起きてみたら、近所で火事はなかったようなので、そこで昨夜の電話番号が判らずにフテ寝した一件は夢だったのか、と知ることになりました。

こんなデタラメな思考回路のオレを信用できるワケがない。完全自殺マニュアルの話に戻れば、寝ぼけたまま自殺しかねない。死にたくないのに自分に殺されてしまう可能性にビビっているワケで。

他殺の怖さとは質が違う。他殺の場合には、相手の殺意に気付いたなら、絶対に抵抗する、と心に固く決めている。どうせイザという状況になってしまったらアレコレと迷ってしまう性質なのだから、もう、最初から迷わないように決めているんです。なので、夢の中でも迷わない。ただのコソ泥に対しても死に物狂いで殺しにいくと決めている。何もせず、無抵抗なままに殺されるということこそが最も避けたい死に方なので、もう、そこはね。少なくとも自分の命は自分で守る。結果として抵抗した上で殺されるのであれば、その場合には諦めると自分の中で決めている。もう、生きるか死ぬかという状況で血迷うことこそが、恐怖なのであって。

ああ、死ぬんなら、やはり、痛みとか恐怖を味わわずに、安らかに死にたいよなぁ…。眠くて眠くて仕方がないや、ふわぁ〜わ、と、睡魔に負ける感じで眠るように死にたいやね。確かに、どこか高い場所からダイヴするとか、首を吊るというのは、結構な気力があるヤツじゃなければできないハズで。

いや、実際には気力の強弱は関係なく、最近ともなると「ええーい、死ぬとかって、よく分からないやぁ。たぁ!」という現実感の欠如したフワフワした精神状態のままに、日々、先進国諸国では自殺が行なわれているというのが、よりリアルなのかも知れないけどね。


◆オムニ7のアフィリエイトです。700円でした。
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2017年02月19日

野坂昭如の「安楽死観」

これは、中々、衝撃的な内容だなと感じたのが、野坂昭如の「安楽死は最高の老人福祉である」という文章でした。野坂昭如著『終末の思想』(NHK出版新書)の第八章なのですが、元々は「新潮45」、2010年10月号に掲載されたものだというから、その頃のものですかね。

長文の引用となってしまいましたが、密度が濃いので、省略しての引用にしたかったのですが、どうしようもなく長文引用になってしまったという感じですが、以下へ。

死を思う故に生在りなど、陳腐なことだが、古今東西を通じ、現在の君たちほど、死をかえりみずに生きている存在はないように思える、死についての想像力など持たぬ方が、気楽かも知れぬ。犬や猫や、野鳥や、ゴキブリなどをみていればつくづく思うが、君は、飼われているのでも、寄生しているのでもないだろう。自立とは、死を、自分のものにすることだ。

ぼく自身が、そろそろの年齢に近づきつつあって、ことさら意識するのかもしれないが、ボケと、差別的に呼ばれる老人の状態は、きわめて悲惨である。その実態をかいま見て、ショックを受けたわけじゃなく、ぼくの父親が最後はこの状態だったし、以後、老人専門の医療施設を、傍観者として時に見学した。

よくいわれることだが、このての施設は、現代の姥捨て山であり、住いに、一人寝かせておくゆとりがない、看護の手がないとかの理由で、老人が送り込まれてくる、世話をする人たちの、獅子奮迅ぶりをみていると、これはもう感動するだけだが、老人の立場で考えてみれば、かなり疑問を覚えるのだ。

ぼくは今のところ、肉体的にはボケていない。精神面については自信がないものの、ふつうに生活はしているつもりだ。だから、ボケ老人の気持など判らず、こっちの考えを強制的に押しつけていることになるが、ボケのボケたる由縁、これにもいろいろ程度があるけれど、さまざまに露わとなしつつ、ただ食べて、排泄するだけの存在を、永らえさせておくだけが、人の道なのか。

当人にほとんど識別が不可能であっても、これは、やはり肉親が面倒をみる、そして手に余ったら殺す。深沢七郎の『極楽まくらおろし図』は、少しむつかしいだろうけど、今は、いろんな麻薬がある。なにも、若者たちが法をくぐっての、一時の陶酔に供するだけが能じゃない。


〜略〜

現在でも、一種の安楽死は実行されている、終末期の患者の苦しみをやわらげるため、延命の点ではマイナスの、麻薬が射たれるし、いたずらな生命維持の仕掛けも、ほどよいところで取外される。ボケは病気とはいえない、しかるべき看護、それはもっぱら、食事、下の始末、監視だが、きちんとすれば生き永らえる。この老人に、べつだん苦しみを除去するためでなく、当人が進んで求めるでもない麻薬をほどこし、死期を早めるのは、殺人に違いない。

〜略〜

老人の知恵を生かすといったって、ボケの場合は無理だろう、「お年寄りを大事に」など、そらぞらしいことをいっても、現実はまるで違う。大事にするというのなら、病院へ放り込まず、自宅で面倒をみる、そして、手に余ったら、子供の手で殺す。殺すといういいかたに抵抗はあるだろうが、しかるべく医師によて調製された薬を、ほどこす分には、老人にことさらな苦しみもないし、きわめて効果は緩慢、一種の衰弱死をとげる。

奇型の子供、あるいは成長したところで、幸せになれない、このいいかたはきわめて曖昧だけれども、母親がかく判断した時、子供を殺す。親がボケてしまい、このままでは一家共倒れと思えたら、子供がしかるべく殺す。即ち、病院にまかせない、自分の判断で行ない、このことについて他人はいらざる差し出口をしない。

かくする時は、生命を軽蔑する風潮を生じ、強者のみが世にはびこる時代となるとの叱責があろう。この説に対して、ぼくは反論することができない。しかし、ぼくたちの時代の、科学技術の進歩のおかげで、以前なら、死ぬのが当然だった奇型を、一方で続々と産出し、かつ生き永らえさせている。ボケ老人についても同じ。昔なら、老人にはそれなりの役割が与えられ、ボケずに済んだだろうし、ボケと死はほぼ一致していたように思う。少なくとも、ぼくの子供の頃、このての老人はいなかった。

ベトナムの二重体児は、その医療スタッフの努力は認めるけれど、結果的には見世物になっている。米軍の残虐な作戦をしめす、現の証拠であり、かつ、ダイオキシンのもたらす影響について、ほんの一瞬だが、日本のTVの視聴者を考えせしめた。〜略〜この二重体児を産んだ時、産婦も産婆も失神した、そのまま放置すれば、彼等は死んだ。それが、とりあえずの自然ではないのか、枯葉作戦が、非道きまわりないことはよく判る、ベトちゃんドクちゃんは、その犠牲者として、死産でよかった、他の、いくらでもいるはずの、棄てられて世を去った二重体児と同じように。


〜略〜

現代日本人は、異常に死を怖がる。よくいえばデリケートである、癌の告知を考えてみても、われわれの反応は特異であるらしい。誰だって死にたくない、死を身近かにしたくないにきまっている。ましてや殺したくない。しかし、親として、あるいは子供として、このことを覚悟する必要があるのではないか。とても育てられないと、産まれた赤ん坊の首を絞め、山に埋め川に流した母親、また、背負い子(しょいこ)に、老いた母をのせて、棄てに行く息子の事情は、旧弊の、貧しかった時代のことではない、死がこわくて、あえていえばヒューマニズムにとらわれて、目をそむけ、他人まかせにしているだけだ。他人というよりも国家である、生死の問題は、個人にとりもどした方がいい。

死はあくまで個人に属する。

故に安楽死は個人の問題。現在、生が歪んでいる以上、死も歪む。あるいはその逆もいえるだろう。

医学の進歩は死ぬべき人を死なせない。病院は末期の患者に対し延命を行う。この是非はともかく、これは生物である。人間の自然の姿ではない。

安楽死は人間を人間たらしめるべくある。

安楽死を認めよ。



うーむ。刺激的に感じてしまうというのが第一印象になってしまう可能性もあるんですが、やはり、野坂昭如という人物は大そうな言論を繰る人であったのだろうな、と感じました。密度が濃い。死生観としての死が語れているワケですが、言及している問題が多岐に渡っていると思うんですね。先ず、【間引き論】と呼ぶべきか、それですね。読み進めてみると、やはり、これは【間引き論】だと確信させられることになる。ともすれば優生学的な内容にも照応できてしまいそうなのですが、それでいて、そこには日本的な伝統としての、誰も望んでやってきたワケではないが悲しい歴史としての姥捨山の例に触れている。

この難題は、このブログでも執拗に取り扱ってきた内容ともダブるんですよねぇ。先ずは、渡辺昇一の「神聖なる義務」と題したコラムが巻き起こした、かつての論争がある。当時、それに寄せられた批判は「ナチス肯定だ!」とか「ナチス的な優生学の復活論だ!」と批判してしまったワケですが、現実問題として医療が進化してしまったので、出産する前段階で奇形などが確認できた場合、人工中絶を選択する自由というものが技術的に可能になってしまったんですよね。これはマイケル・サンデルを引用して展開させましたが、案の定、この問題というのは似た問題で倫理を考えさせる事になる。アメリカの共和党と民主党との間でも大きな問題となっている人工中絶の問題でもあり、産むにあたっての選択が可能なのであれば中絶したいと考える者もあるというのが現代であり、如何なる理由があったとしても中絶は許されないという伝統を守ってしまうと、わざわざ避けられる不幸を避けないよう強制してしまう事になる。

マイケル・サンデル以外にも、NHKが長期取材したドキュメンタリー番組「ヤノマミ」の、あの、問題提起とも共通している。しかも、更に共通しているのは、「選択権は母親にあるのではないか?」という部分でしょうか。今回、さらりと野坂昭如が「母親がかく判断した時、子供を殺す」という箇所がありました。サンデル風に言い換えても同じなんですよね、「産むか産まぬかは母親の選択に委ねられる」としていた。そして、我々が映像として視聴し、あんぐりを口を開けて視聴することになった、例の「ヤノマミ」、ヤノマミ族を取材していると産まれたばかりの赤子を蟻塚に入れて燃やしてしまう「精霊返し」という奇習が描かれていたワケです。あるお笑い芸人さんは「アレって、つまりは殺人でしょう?」と後に語っているシーンを、やはりテレビで目撃しましたが、それなんですよね…。そのような野蛮な風習は辞めさせるべきだと展開させれば、おそらくは我々の感情のザラザラは取り除くことが出来る。しかし、という、その更に奥の問題なんですよね。

また、ボケ、痴呆、介護問題、長寿社会の問題というのも、実は同源であるなと気付かされる。技術として生き永らえさせることが一定レベルに達してしまったから、昔であったなら姿を見る事がなかったであろう、認知症の進行した老人を、社会が抱えるようになってしまったという問題ですね。

うーん。これは色々と感慨もありますかねぇ。数日前に一つの親戚の訃報があったんですが、50代男性の急死の報でした。しかも、健康そうな方と伝え聞いていた上に病院にも通院している中での動脈瘤断裂が死因であるといい、妻と二人の娘を残しての急死だという。やはり、世の中、そういう事ってあるんですよねぇ。死ぬ瞬間までは、よく死を捉えられない。

あ。伊丹十三監督の映画(作品名忘れ)の中で、津川雅彦演じる人物が

「死は、突然、やってくる。老人をナメてはいけない。老人は二種類の老人がいる。一つは、死にたくない、もっと生きていたいと考える老人だ。そして、もう一つは、さほど生きたくもないと考えている老人だ。死というのは、或る日、突然、ドブ川に落ちるようにして訪れるものでもあるのだ」

てな感じのセリフを言ったかと思うと、そのまま、津川雅彦は拳銃で自分の頭を吹き飛ばす。

さて、野坂昭如は、間引き論(人工中絶や延命医療の問題を)、いわば殺人であると捉えている。しかし、その上で、「死を、個人に所属する事柄として、個人が取り戻すべきだ」というのが、野坂の論旨なんですね。死を国家や社会に委ねるな、所詮、死は個人に帰属するものなのだ、という考え方。そうなれば自ずと、尊厳死・安楽死の肯定となり、結論としての「安楽死を認めろ」に繋げている。

で、非常に苦慮するのが、殺すことがヒューマニズムだという論法なのですが、このブログでも10年ぐらい前に猫殺しの考察として、作家の故・坂東眞佐子が増えてしまった子猫を岩にぶつけて殺しているという話を受けて「子猫殺し」と題して、少し展開させましたが少し似た思考方法を採っていると思いました。子猫を殺すなんて許せないワケですが、ある次元に到達すると、心を鬼にして子猫を殺さねばならないという必要性に迫られてしまうという心理状態があるのではないか――と。私の場合は、それを責任感だと考えたのかな。殺しなんて絶対に回避したい。しかし、その最も忌み嫌われる背徳的にして呪われた行為を、自らの手で汚し、その手で犯すことで、自らの責任を果たしているのだろうか――と。

坂東氏の行為を好ましいとは思わないけど、糾弾に値するかどうかは微妙かも。むしろ、保健所に電話して始末したとして、その飼い主が罪悪感を背負わないのであれば、考えようによっては手を汚さないだけ、そちらの方が罪深くも感じる。

いや、理解できないとか、理解したくないとか、色々な感想があると思うんですが、突き詰めてしまうと、そういうヘンテコな問題に直面してしまうのが、このテの問題だと思うんですね。死を直視しようとすればするほど、ホントは、中途半端なヒューマニズムによる思考停止であるとか、或いは空気を読んでタダの偽善に満足してしまっているのかも知れず。

で、特に野坂の優れているところは、「死は個人に帰属する」といった考え方をしていることでしょうか。人間中心主義の視点ですかね。つまり、「生かされているのではなく、生きている」と考えねばならない。生かされている生の状態を、望まない。生死とは一個人が有する権限であり、社会のものでもなければ国家のものでもなく、法律のものでもない。当然、自己があって、尊重されるべき人格が認められて、それで一個人であるワケで。

何故、「生き死に」という根源的な問題をも、外部に委ねるのか。法律に従えばいいとか、諸外国の例に倣えばいいとか、そんな曖昧な態度なのか。

また、野坂は、この問題について、人文の分野からの言及であることに触れている。主旨としては医者や法律家に、この問題を委ねておいても彼等にとっても重荷である筈だ、と。宗教や哲学、芸術などの人文分野が曖昧な態度であったことは怠惰であるとも述べている。

拙ブログ:ヤノマミの補足〜2013-4-19

拙ブログ:「神聖な義務」に思うところは…〜2010-10-31

拙ブログ:「私」という名の存在とは〜2009-2-1

拙ブログ:優生学的なにか〜2015-10-16

あ。大切なことを書き忘れていたかな。「死は個人に属する事柄である」という解釈は充分すぎる程の解釈なのですが、それを突き付けてゆくと、生かされている状態でもいいが生かされている状態は御免だ考えるのが人間中心主義になるんですよね。つまり、主体となるのは世間ではなく、その当人自身だ。だから、国が法律で定めてどうこうとか、常識がどうのこうの、偉い学者のどうのこうのというのは関係ない。それが理解できれば、何故、産むか産まないかの問題に於いて、その決定が母親の権限に委ねられるべきなのかという部分にも延長できると思う。

また、その延長は、認知症問題にも延長できそうですかね。勿論、社会や国が認知症の老人を殺してはいけないし、他者が殺す他殺はいけない。しかし、その決定権があるのは本人ではないのか。その決定権は「判断が明瞭である認知症になる前段階の本人の意志」に帰属するという事にするのがヒューマニズム。本人の意志が最優先されるべきであるが、それが不可能な状況なのであれば、決定権は肉親に移行すべきだとする。つまり、親が親の権限で子を殺し、子が子の権限で親を殺す。確かに、突き詰めていったとき、自然界の法則性というのは、そういうものなのかもね。