どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

惹句 DE JACK〜名言&迷言

第三次世界大戦にどんな武器が使われるかはわからない。
だが第四次世界大戦は、棒と石で戦うことになるだろう。

アルベルト・アインシュタイン

大貫隆訳・著『グノーシスの神話』(講談社学術文庫)の終盤には「終わりなき日常とグノーシス主義」という一節があり、非常に興味深い論点が語られていました。

先ずは【終わりなき日常】というワードがあって、この提唱者は宮台真司氏であった。宮台氏の著書を引用しながら説明してありましたが、「終わりなき日常」とは次のような意味である。一定程度、時制を考慮する必要性があり、実際には1990年代に登場したワードという事になりますが、つまり、ブルセラ、援助交際、オヤジ狩りなどの女子高生の生態があったが、それらは「終わりなき日常を生きている女子高生たちの知恵である」のように宮台氏は展開させていた。

ああ、そうであったかな。在りし日の「朝まで生テレビ」の一場面が脳裡に残っていますが、宮台真司氏は新鋭の若手論客として登場し、視聴していても「彼は何者なんだ?」という感慨があった。ホントに新鋭も新鋭であったので、そのような感慨になったのでしたが、宮台氏は「僕は少女漫画フリークなので…」のような発言をしていた。少女漫画を読む男性というのも非常に珍しかったし、まだ、当時は【フリーク】というカタカナ語が登場していましたが、「✕✕+フリーク」と表現する事で何となく成立してしまうものなのだなという感慨を得たのであった。これが仮に「少女漫画フリーク」ではなく、「少女漫画オタク」と称していたなら、これまた別のニュアンスで受け止められる事になっていただろう時代であった。既に【少女漫画オタク】という言葉にはキモチワルイものというニュアンスがあったところ、その神経質そうに眼鏡をかけている新鋭の若手論客は【少女漫画フリーク】と称する事で、なんとなく話の主導権を握ってしまう人物であった。

今一度、【終わりなき日常】の話に戻しますが、「世紀末という終わりなき日常を生きる女子高生たちの知恵がブルセラであり、援助交際である」のように展開させられてしまうと、その鮮やかなレトリックに多くの者が喝采を送った。《終わりなき日常》という言語センスの素晴らしさが一つ。それと、くだんの女子高生たちを悪者にせず、社会に問題があるのだと展開させる論理構成の妙があった事に気づかされる。冷静に考えれば、ブルセラショップなる場所に出向いて、そこでブルマーやセーラー服、唾液などを売って金銭を得ていた女子高生を悪者にしない事なんてのは、或る種のヘンテコな話である事は直観的に理解できる筈なのですが、宮台氏(以降は、一定以上の尊敬を込めてミヤダイと呼ばせてもらう。)が、そういう論法をやったものだから、基本的には世論はミヤダイ仮説をおそらくしは支持したのだ。

「悪いのは彼女たちではない。そんなブルマーやセーラー服なんてものを買う変態オジサンたちが全て悪いのであり、ブルセラ少女や援助交際する女子高生は悪くない。若者たちには希望がなく、そんな希望のない〈終わりなき日常〉を生きている若者の気持ちなんてものが、中高年や老人に理解できますか?」的な、そうした速射砲的に相手をやり込めてしまう新しい言説であった。しかし、もう、あれから30年以上が経過している。冷静に考えてみてどうであっただろう? ホントは自明ですやね。

ヒトには認知バイアスというものがあり、信じたいものを信じてしまうというバイアスがある。出来る事であれば、対象を悪者にしない事が好ましいと考えるのがオトナの対応でもある。その点、ブルセラ問題に対して「不遇な終わりなき日常の時代を生きる女子高生たちの知恵である」という風に指摘する事は、認知バイアス的には全方位的に支持される事になる。上手に丸く収めてくれているのであり、敢えて蒸し返すようにしてアレコレと指摘するのは憎まれ役になる覚悟であるとか、孤立を畏れぬだけの胆力が必要になる。また、その後、日本では「KY」(空気を読めの意)という流行語があったように、「その場の空気を読んで反応しましょうね、それこそがコミュニケーション能力が高いという事なのですよ」という厄介な事を要求される時代にもなった。

非常に面倒臭い時代になっているので、今一度、正確を期して説明すると、ミヤダイの指摘そのものはブルセラの肯定そのものではない。飽くまでも社会学的な考察として、子供たちが原っぱで遊び、家電製品も揃っていなかった時代であれば、「頑張れば、もっと豊かになれる」という希望を持てた。しかし、社会が成熟してモノが溢れるようになってくると、輝く希望のようなものは見い出せなくなる。それが1990年代であり、確かにバブルが弾けた後の時代であり、その頃にブルセラショップなるものが出来て、ブルマーやセーラー服を売る女子高生が登場、そして、それに恥も外聞もなく群がるオジサンたちが登場、まさしく、或る種、世紀末の様相であった事が思い起こされる。更に、そこにミヤダイの場合は「終わりなき日常」という概念をブチ込んでみせた。しかも正確には「ブルセラを売る女子高生が」と、対象をそうした女子高生に限定して発言したものではなく、希望を持てない時代に生きる人々は、そうなると述べているのが確認できる。

ただ、ここには意味があって、当時の論争では「ブルセラ」&「援助交際」&「オヤジ狩り」といった若年層に顕われた好ましくない風俗と結び付けて、実際に理解されていたという事だ。大貫隆訳・著『グノーシスの神話』(講談社学術文庫)の著者は東京大学名誉教授との事ですが、そこを看破している。「終わりなき日常」を生きているのは勿論、女子高生だけではない。サラリーマンも自営業者も年金生活者もホームレスも、性別や年齢に限らず、実は誰もが90年代以降は「終わりなき日常」という時間の中を生きているのだ。

終わりなき日常――。これは評価されてしかるべきフレーズだったのでしょう。実は延々と語られ続けている真のテーマとは「物質的な豊かさを実現してしまったので、希望のようなものが持てない灰色の時代になった」であり、そういう時代を生きる人々が身を置いている場を「終わりなき日常」と表現したに過ぎない。また、当時のミヤダイは「自分や他人を傷つけないで生きるには知恵が必要になる」と説明しており、その知恵がブルセラ少女やエンコー少女らの生態と関係していると、当時は考えられていたのだ。

補足すると、この90年代から近年まで日本に於ける中高年の自殺者数も年々増加の一途を辿っていたことからも「希望のない時代」の生活や人生、或いは「終わりなき日常」に疲れたと感じてしまう現代人の感覚が顕われているという訳です。

この問題は、おそらく、カウンターカルチャーとして起こったものがメインカルチャー化してしまったので収拾がつかなくなったと展開させているジョセフ・ヒース+アンドルー・ポター著/栗原百代訳『反逆の神話』(NTT出版)の指摘とも符合する。

何故、『反逆の神話』の意義は大きいのかというと、実際にはカウンターカルチャーがメインカルチャー化してしまい、収拾不能になってしまう構造を指摘した事にある。ヒッピー文化とて政権を獲ったような感慨はないが、そのヒッピーの源流からビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが登場したのであり、カルチャーという意味で言えば「ビートルズ」、或いは「ジョン・レノン」あたりだって実際にはカルチャーのイニシアチブを掌握していたと考えられる訳です。このあたりの事情は映画「アメリカン・ビューティー」&「イージー・ライダー」あたりを視聴してレビューを読むのが最も分かり易いかも知れない。彼等は戦争をやっているのは昔ながらの軍国主義者たちであるかのように考えているが、実際に戦争をやっているのは消費至上資本主義に浮かれている有象無象のリベラルな人たちであり、実に巧妙な二重基準のレトリックが通用してしまっているのが、戦後世界の現実である事に気づくかも知れない。

もしかしたら、ヘビーな問題と真摯に向き合わないで済む為に、マス大衆は娯楽に興じることとし、刹那的な生き方をしているのかも知れない。いやいや、ホントに『グノーシスの神話』の中で、その話が出てきているのだ。少々、めんどくさい話になりますが、援助交際をしている少女は相手のオヤジを〈汚物〉と仮定し、仕方なく、その汚物に身体を売っていると考え、そう認識する事によって自分自身のイノセントを守っているのではないか…という。つまり、「心が汚れているオヤジの方であり、私の心は汚れていない」という論法になる。ここで重要になるのは「イノセント」ですよ。「こんなふざけた世界を断固として拒否する」という態度、「世界を拒否する」という態度が関係しているという。更に噛み砕いていうと、つまり、グノーシス主義的な態度、世捨て人的な態度になっているという事ではないのか――と論じられている。

『グノーシスの神話』の中にも【世論】と【輿論】との差異に触れられている。前者は実はマス大衆の気分、センチメントを意味しており、後者には公的な議論として相応しいものという意味があるが、或る時期から世界の主導権を握ってしまったのは世論というマス大衆のセンチメントに委ねられてしまっていると考えられる。逆に宗教史や思想史のような分野からすれば近現代の価値観の昏倒は酷くデタラメなのだ。

そしておそらく、その空白に付け込んで勢力を拡大させたものがリベラル的な言論統制であるポリティカル・コレクトネス、通称ポリコレだ。ポリコレ論陣のみが、客観性や中立性に対してもゴリ押しが通ってしまっている。

ヒストリーチャンネルにて「潜入!アメリカにはびこる白人至上主義」なる90分程度のドキュメンタリー番組を視聴した。どうしてKKK団やネオナチといった白人至上主義がアメリカに蔓延しているのかという歴史についての解説もあった。70年代には白人至上主義はさほど活発ではなかったが、80年代になって「スキンヘッド」と呼ばれる組織が登場し、90年代になって白人至上主義を掲げる小集団が乱立する時代になったという。そして1995年にオクラホマ・シティで大規模な爆破テロが起こって実に168名もの死者を出す大惨事を起こしたという。首謀者は白人至上主義者であった事で、一度は白人至上主義の膨張の波は止まった、という。しかし、その後、21世紀になってからの対テロ戦争とイラク戦争があり、国際秩序の軋みと同時に再び白人至上主義が台頭したという流れなのだという。つまり、トランプ現象にまで関係したものと思われますが、1995年に白人至上主義は一度、膨張の波が止まって減少していたが、復活してしまったというのが実相らしい。アメリカに於けるKKK団やネオナチのような白人至上主義は21世紀に入ってから再び盛り上がってしまっているという事なのだ。

2014年の時点で確認されている白人至上主義者団体は、同番組によると862団体だという。そして2017年の時点では米国内に100万人規模で白人至上主義者が存在していると説明していた。これらの分析からすれば、実はトランプ現象にも影響していたであろう事は容易に想像がつく。そして「2017年時点では100万人規模になっている」と説明した人物は白人至上主義者ではなく、飽くまで中立的に現象についての説明をしていた人物であったが、この急増している現象の理由について、以下のように語っていた。

「現在、全米50州で同性婚が認められてますが、15年前には想像もつかない事態でした」

であり、その言葉が含意していたのは〈こうした急激な変化が白人至上主義を盛り上がらせているようです〉というニュアンスであった。これなどは、そのまんまが実相という事なのでしょう。A氏からすれば「よかれ」と思っている事であっても、あらぬ人たちを、B氏やC氏を精神的な抑圧にさらしてしまっていると考えられるの意だ。

実際問題として、同性婚に反対する立場というのは伝統的な価値観であるにもかかわらず、ポリコレ的な事情によって僅か15年の間に大きな価値観の転換を迫られた事を意味している。当然、快く思わない人たちも存在している。また、白人至上主義の問題は複雑で、やはり、学歴差別や経済格差の問題も複合的に絡み合うようにして、一部の白人たちに「現在のあなたのダメダメな境遇は自己責任なのです」と突き詰めて追い込んでしまっているところがある。構造としては日本と同じような自己責任論として作用している可能性がある。(※最後に少し触れます。)

オクラホマシティ爆破事件、実は記憶がなかったんですが、1995年4月だったんですね。で、日本の地下鉄サリン事件も1995年7月だ。そして人民寺院事件は1978年なのだけれども教団の発足は1995年であり、実はどうも根っことしては、何かが繋がっている可能性があるような気がしないでもない。というのは、それが「終わりなき日常」に代表されるような先進国諸国にとっては、凄まじい閉塞感に包まれており、『グノーシスの神話』では、その問題が論じられている。つまり、カルト、しかもテロを起こしかねないカルト集団の問題でもあるのですが、実は世界は圧倒的な閉塞感に包まれているので、日本ではオカルトブームが、米国でもチャネリングのブームが起こった。また、現在でもアメリカ東海岸ではヨガ、ホットヨガなんてものまでブームになっていますが、あれらは全て繋がっていると見る事ができる。

終わりなき日常に生きる人々は、おそらく希望らしきものを求めている。だから非日常的なもの=神秘、そして東洋思想、ヨガ、禅などに関心が向かっている事が推測できてしまうのだ。これが何を意味しているのかというと「物質的な豊かさ」だけでは満たされることのない何か、おそらく心を充足させてくれる何かを人々は求めている。だからこそ、こうしたムーブメントになっているのであり、実は世界同時発生的に起こっているという解釈が披露されている。


(※)日本でも猛威を奮っている自己責任論ですが、これはやはり自業自得とは異なるニュアンスを持っている。厳しく他者の責任を追及し、罰しようとしている日本社会の風潮は末期も末期でしょう。彼等は必要以上の熱量で、過剰なまでに若者やZ世代に嫌われぬように振る舞っている訳ですが、婉曲的にはああした他罰行為こそが人々を苦しめ、社会全体を窒息させている可能性が高い。相互監視社会であり、厳罰主義であり、ポリコレ的な言論規制を筆頭にしている強度な抑圧社会なのだ。

他人に厳しいとは、どういう事かと考えた事があるだろうか? 言ってしまえばポリコレ筋の正義な彼等には謙虚さがないと思う。彼等は常に自分たちが正義の味方であり、且つ、いつだって自分は被害者のつもりになっている。なので他者に厳しくできるのだと思う。しかし、昨今の若い人たちの声の中には「責任なんて負いたくない」や「誰も傷つけたくない」のような意見を見つける事ができてしまう。そうした現実は完全に昨今の狂乱社会の鏡写しであり、その内包しているものは「せめて精神的な部分だけは…いや、せめて自分だけはイノセントな存在でありたい」というキモチの顕われでしょう。つまり、イノセントであらんが為に無意識的に社会を拒絶している、と。
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歌謡ポップスチャンネルにて「あなたが選ぶ女性アイドルソングベスト100」(70〜80年代編)なる番組が4時間ほど放送されまして、最初の1時間と最後の1時間を視聴。なんでも音が評論誌の「レコード・コレクターズ」の企画に便乗したランキングらしく、興味深く視聴しました。

ランキングにされてしまうと色々と思う部分、つまり、異論も思い浮かんでしまうものではありますが、画面に表示される楽曲評を読んでいると、確かに納得せざるを得ないのかなという気もする、そんなランキングでした。以下、25位からカウントダウン方式にて――。

第25位 セシル/浅香唯 1988

すんません。いきなりなんですけど、もう、この頃にはアイドルソングは聴いてなかったし、印象がない。結局、テレビモニターでも「スケバン刑事」のフィギュアとか映していたし。

第24位 青春の坂道/岡田奈々 1976

この曲、ちゃんとCD音源も持っていてカーステレオでも聴いていたのですが、そんなに上位には来ませんね。決して岡田奈々さんを不当に低く評価しているつもりはないんですけど…。ここでも映像は岡田奈々モデルのリカちゃん人形の映像が流されていた。

以降、少しマトモになっていきます。

第23位 時をかける少女/原田知世 1983

これは順位は仕方がないとして上位である事には異議なしって感じですかねぇ。出来たら大林宣彦監督作品「時をかける少女」のエンディングで楽しんで欲しい一曲ですかね。映画のラストは、芳山和子役の原田知世さんが撮影が終わったとばかりに急に立ち上がって、イントロが流れて、そのまま、いっきに唄い始めるという学芸会風の演出でのエンディングに言葉を失う事になる。

第22位 まちぶせ/石川ひとみ 1981

いわずもがなのアイドルソングの傑作ですな。元々は三木聖子の曲で、歌詞は三木聖子さんの体験を当時の荒井由実が聞いて作詞したものだったのだとか。画面に映し出されたレコードコレクターズのものと思われる石川ひとみ評では「歌唱力はアイドルの中でダントツ」という表現が用いられていました。

第21位 セーラー服と機関銃/薬師丸ひろ子 1981

この曲は私の評だと時代を象徴した一曲というイメージですかね。映画の主題歌は、本来は来生たかおの「夢の途中」を予定していたが、相米慎二監督の要望で急遽、主演の薬師丸ひろ子がレコーディングしたものという。個人的にどちらが好きかと言われると「夢の途中」の方かな。

第20位 小麦色のマーメイド/松田聖子 1982

うーん、この企画だと上位は松田聖子だらけを予想していたのですが、第20位にこの曲なのか。ふむふむという印象。楽曲評で気付きましたが歌詞で「裸足のマーメイド」と唄っているが、実は作詞家の松本隆によるケアレスミスなのだそうな。人魚には足はありませんな。しかし、そうした矛盾をも松田聖子は楽曲を自分のものにして押し切っていた――と。

第19位 ガラスの林檎/松田聖子 1982

オンタイムでも「いい曲だよね」と評していたとは思いますが、改めて懐メロ全般を回想した時にもスケール感のある名曲だったよなぁ、と思い知らされる。作曲は細野晴臣。楽曲評は「聖歌を彷彿とさせる」となっていた。


第18位 年下の男の子/キャンディーズ 1975

ん? まぁ、そうか。別におかしくはないけど。キャンディーズのベスト盤ぐらいは聴きましたが、楽曲としては、もっといい曲があるような気もしてしまった。「哀愁のシンフォニー」とか、改めて聴くと、味があります。

第17位 春一番/キャンディーズ 1976

キャンディーズ続きのランキングだ。選者はキャンディーズ世代の人だろうか等と考えてしまった。決して「春一番」は相応しくないと思っている訳ではなく、確かにピンクレディーとキャンディーズを後年になって聴き比べしてみるとキャンディーズの楽曲の良さは際立って聞こえるのは確かなのですが――。

第16位 飾りじゃないのよ涙は/中森明菜 1984

うむむ。確かに印象に残っているし、好きな曲であった。でも、あんまり「女性アイドルソングですよ」という印象はない。井上陽水なんですよね。ああ、三田寛子の「駈けてきた処女」、いやそれよりも「夏の雫」など、この頃の井上陽水が書いたアイドルソングは非常に個性的であった。成功例は、この「飾りじゃないのよ涙は」なんだろうね。

第15位 Woman〜Wの悲劇より/薬師丸ひろ子 1984

数年前に薬師丸ひろ子さんのベスト盤CDがヒットしていた頃に聴きましたが、これは今になってみると、とんでもない傑作ですやね。聴いていると、まるで気が遠くなってしまうような感慨を受ける。呉田軽穂とは、あのユーミンの名前の一つですが、呉田軽穂名義の楽曲の中では最高傑作だと認めているらしい。

第14位 北ウイング/中森明菜 1984

え? そうなのかな?! もしかしたら私は明菜派ではなかったのかも知れない。私は明菜であったならエキゾチック路線の楽曲の方が好きだから、勿論、楽曲は知っているけど名曲だと言われても実はピンと来ない。しかし、楽曲評では「歌謡曲最後の名曲」とまで絶賛されていた――。

第13位 17才/南沙織 1971

確かに名曲なのかな。南沙織バージョンも森高千里バージョンも知っている世代だ。でも南沙織で語るのであれば「色づく街」の方のような気がする。川島なお美と三田寛子がカヴァーしていましたが哀愁のある楽曲はアイドルソングらしくなく、ポップな曲の方が評価が高いのかも。♪ 街は色づくのに〜、あいたい人は来ない〜。

第12位 チェリーブラッサム/松田聖子 1981

松田聖子という方のは歌謡界の女王の系譜からすると、謂わばラストエンペラーであって、「女王」と呼ぶに相応しいスターの系譜とは美空ひばり→山口百恵→松田聖子と流れる。「ポスト百恵」なんて呼ばれていた時代があったものの、或る時代の象徴にまで登り詰めた。楽曲はピンと来なかったのですが、松田聖子伝説の中ではレコード売上で第2位の記録を持つ曲なのだそうな。勿論、知っているし、悪い曲だとも思わないけど、いっぱい名曲を持ってるからなぁ…。作曲は財津和夫であり、財津和夫はその後も「夏の扉」、「白いパラソル」をヒットさせ、松田聖子時代の基盤を形成したという。

第11位 微笑がえし/キャンディーズ 1981

これはリアルタイムでも「名曲だなぁ…と感じたし、今でも名曲だなぁ…と感じる一曲。改めて楽曲評に目を通したら作詞は阿木燿子。阿木さんがキャンディーズのラストソングに相応しい詞をと、過去の楽曲を鏤めた訳か。そして牴物瓮團鵐レディーの人気に押されて、実はキャンディーズはランキングで1位を獲った事はなかったが、このラストソングで見事に売り上げランキング第1位を獲得。「普通の女の子に戻りたい」として解散――。アイドル史としては伝説をつくったと言える訳ですね。楽曲もよくできているし、やはり、歌詞も味があります。引っ越しの手伝いにきた〈あなた〉がある。♪ いやだわ、あなた、煤だらけ〜 おかしくって、涙が出そう。この「おかしくって涙が出そう」って凄くないスか。阿木燿子だけど。カラッとした明るくて元気なイメージのキャンディーズの面々なのですが、やはり、寂しさは隠せない。解散だもんね。その心情が「おかしくって、涙が出そう」に込められている。キャンディーズの面々が「あなた、煤だらけじゃない、イヤだわ」と明るく笑った直後、ふと、こんな風に笑えるのも最後なのよねという思いが込み上げてしまって思わず涙が出そうになって、目頭に手をやるような描写だ。凄すぎる。アッパレ。

第10位 セカンド・ラブ/中森明菜 1982

「あー、いい曲ですよ」。質問されたら、きっと、そう答える。確かに、そう答えると思う。何も不満はないのだけれども、このランキングには何故かピンと来ない。薄々、推測できてしまう事は、きっと「スローモーション」は、更に上位にランキングしているであろうという事だ。なにせ、もう、残りは9曲しかないのであって。

第9位 天国のキッス/松田聖子 1983

むむ、むむむむ…。これも分からんなぁ。松田聖子は名曲だらけというイメージがあるので、それら名曲を押しのけて、この曲になるのものかなって思ってしまった。多分、女の子とデートして「プルメリアの伝説」という映画を観たような気がする。その体験があるのでほろ苦い記憶になってしまっているとか…。因みに作詞家の松本隆は、はっぴいえんど仲間である細野晴臣と組めた楽曲という事もあるらしく、この曲を「最高傑作」と評しているらしい。

第8位 MI・AMORE/中森明菜 1985

これは、どこか納得がいくランキングのような気もする。片仮名で「ミ・アモーレ」ではなく、シングル盤のジャケットには確かに「MI・AMORE」と記されていたので、ランキング発表時にもそのような表記になっていました。確かに、この辺りの楽曲になってきてしまうと「アイドルソング」とは呼びにくくなってしまう。

第7位 卒業/斉藤由貴 1985

あー、これも納得かな。初めて耳にしたときから、なんだか名曲っぽい雰囲気があって、まんま、「斉藤由貴」という人を強烈に印象づけた大きな大きな一曲であった。作曲は筒美京平。楽曲評はべた褒めであり、「80年代アイドルポップスの至宝」とまで表現されておりました。イントロからして、また、歌い出しの歌詞も印象的だったしねぇ。♪ 制服の胸のボタンを⤴、でしょ。で、サビでは、卒業式で泣かないと、冷たい人と言われそう〜、と。

第6位 DESIRE/中森明菜 1986

なるほど、そう来たかぁ…。確かに異論を挟みにくいランキングだなぁ…。確かに強烈に中森明菜時代を感じさせる一曲であったなという記憶がある。楽曲評では「80年代歌謡曲の頂点」という表現が使用されている。80〜99位ぐらいに本田美奈子の「ONE WAY GENERATION」がランキングしており、その評が「歌謡曲時代を終わらせた」という表現が使用されていたので、その評者は、どこかの基準で「歌謡曲」と「歌謡曲以降/超歌謡曲」とを分けているらしい。

第5位 スローモーション/中森明菜 1982

出ましたね、ここで。「少女A」がヒットしている頃になって「おいおい、中森明菜のデビュー曲って知ってる? あっちの方が、よくない?」のような会話をしていたのを思い出す。ラジオの深夜放送でも似たような反応であったと思う。来生えつこ&来生たかお。改めて作品評を読んで納得した部分もありました。来生えつこは、もう、デビュー曲の時点で「心だけが先走りね」や「恋の景色、ゆるやかだわ」といった歌詞を書いており、後の中森明菜の魅力を見抜いていたらしい。

第4位 風立ちぬ/松田聖子 1981

これは納得の一曲かな。楽曲を聴いて驚いた感覚が今でも残っている。初めて耳にしたのは、ラジオであった。日曜の夜に「松田聖子 夢で逢えたら」という番組があったのだ。記憶もドンピシャっぽく、1981年なので合っていると思う。中学生だったけど「聖子ちゃん」にはメロメロにされましたかねぇ。

第3位 青い珊瑚礁/松田聖子 1980

この楽曲が第3位というのはどうなのだろう…。確かに松田聖子伝説を語るには欠かす事も出来ない楽曲だとは思うのですが、他にも名曲揃いだからなぁ…。作曲は小田祐一郎で、楽曲評に拠れば、実は若い作曲家が提供したフレッシュなこの楽曲こそが、松田聖子を世に出すキッカケになった事は幸運であった筈であるという具合のコメントが付されていた。まぁ、あの躍動感のあるイントロ、伸びやかなボーカル、確かに魅力的でした。

第2位 木綿のハンカチーフ/太田裕美 1975

この楽曲が上位ランキングなのは分かるけど、これはアイドルソングにカウントしていいのかなって少し戸惑ってしまった。楽曲的に傑作である事は否定しようもありませんが、「え? 太田裕美ってアイドルという括りでいいんだっけ?」という部分の方に戸惑いがある。知らぬ間にアイドルというと熱烈な親衛隊が居てみたいなイメージがある中、そんなにアイドルアイドルしていたイメージがない。まぁ、「こち亀」の大原部長がファンだったという設定だからアイドルだったのでしょう。いやいや、最近のトーク番組では実はキャンディーズのスーちゃんと仲良しで、キャンディーズも太田裕美さんもスクールメイツから選抜されて歌手デビューしたというから、れっきとしたアイドル歌手だったという見解でいいみたい。因みに楽曲評は「後世に残る大傑作」となっていた。

となると、残された第1位は、アレですね。私は、ここで第1位の予測を的中させる事ができましたが――。

第1位 赤いスイートピー/松田聖子 1980

なんだか納得の第1位なのかなって感じました。上位ランキングは必至なのに挙がっていませんでしたからね…。もう、リアルタイムのそれよりも後になってカラオケ人気などでも色々と証明済みの名曲と言えそう。楽曲評は「80年代の純情歌謡を代表する一曲」と控え目な評にも思えました。だって中森明菜「DESIRE」が「80年代歌謡の頂点」と評されている中、「80年代の純情歌謡を代表する一曲」ってのは渋ったようなコメントに読めなくもない訳で。また、呉田軽穂名義のユーミン作品であるという事は、ユーミン自身は「Woman〜Wの悲劇より」との比較も味わいがあるかも知れない。しかし、国民の認知度からすれば「赤いスイートピー」の第1位は妥当であるとしか、言いようがないと思う。



以下、個人的な所感となります。

全体としては納得のランキングと認めざるを得ないのですが、それでも気になる事はありましたかねぇ。例えばですけど、山口百恵が25位以内に一曲もランクインしていない。また、サブカル層にとっては「時代のアイコン」とまで評された小泉今日子もなし。工藤静香の「恋一夜」もなしですが、工藤静香さんによれば後藤次利は最高傑作だと思っていると思うなんて発言していたけど…。まぁ、妥当といえば妥当なランキングなのでしょうけど、「あなたが選ぶ」と冠しているのだから、もう少しバラエティに富んだアーティストがラインナップしてもいいような気がする。また、アイドルソングと冠するのであれば、堀ちえみ、早見優、松本伊代あたりに結構、味わいのある楽曲が多いような気がする。

「木綿のハンカチーフ」の箇所で少し触れましたが、「これはアイドルソングに分類されるのだろうか?」と悩むアーティストというのはあると思う。山本リンダはアイドル? 「私のハートはストップモーション」の桑江知子はアイドル? 「ウェディング・ベル」をヒットさせたシュガーはアイドル? 「東京ららばい」の中原理恵はアイドル? 微妙といえば微妙な気がするんですよねぇ。一方で70位以下に「ひまわり娘/伊藤咲子」がランクインしていたので、つまり、伊藤咲子はアイドルでいいらしい。となると、阿久悠が自身の葬式に使ってくれと言い残していたという逸話を持つ「乙女のワルツ」はアイドルソングに分類していいのだろうか? 岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」もアイドルソングに分類していいのだろうか? 一周してしまいますが、そうなのであれば山口百恵の「曼殊沙華」や「さよならの向こう側」あたりが25位に入っていないというランキングには説得力がなくなってしまうのではないか? あのテの名曲については「アイドルソング」という括り方を超えてしまっているのでランキングしていないという解釈なのだろうか? 

まぁ、個人的な基準に偏らぬよう、万遍なく売上などの基準を用いてランキングしたと考えるべきなのでしょうねぇ。因みに私が記憶しているところでは「春なのに/柏原芳恵」は第88位。ランキングとしては低すぎるかなって感じましたかね。「憂いのある歌唱によってヒットにつながった」みたいな楽曲評でした。「ヤマトナデシコ七変化」も70位以下だったかな。楽曲評は「小泉今日子がアーティストとして覚醒する以前の曲だが、楽曲を従えて唄っているところに凄味を感じる」といった主旨でした。

では個人的にはどうであったか? 第1位については「赤いスイートピー」以外にも、以下の曲であれば私は異論もなかったかな。「まちぶせ/石川ひとみ」、「風立ちぬ/松田聖子」、「ガラスの林檎/松田聖子」、「曼殊沙華/山口百恵」、「秋桜/山口百恵」、「いい日旅立ち/山口百恵」、「さよならの向こう側/山口百恵」、「狼なんて怖くない/石野真子」あたりを実は密かに予想しました。そう考えるとアーティストの格付けみたいなものを度外視して私に本命に推させている「まちぶせ/石川ひとみ」こそが、実質的なアイドルソングのナンバーワンであったような感慨も、ちょっと湧いたりする…。失恋ソングなのでスケール感はないのだけれども、なんだか「夕暮れの街角で喫茶店を覗いてしまって、とんでもないものを目撃してしまった感じ」というのは情景が思い浮かんじゃうし、ドロドロしている訳ではないのだけれども、若い時分の得も言われぬ情念や、切なさみたいな感慨は、あの曲は充分過ぎるぐらいに表現されているよな、と。

さて、「アイドルソング」というか主にアイドル歌謡という事になるかと思いますが、意外と忘れてるんじゃないかというものを列挙して終わりにします。先ず、「Rosa/中山美穂」はアイドルソングらしくないけど私だったら上位ランクにする事も検討したかなぁ。それと「未来航海〜Sailing/荻野目洋子」は「わぁ、アイドルっぽい綺麗な声」に衝撃を受け、「気分をかえて/香坂みゆき」になると「こんなに迫力のあるボーカルでいいの?」となる。そして超大穴になってしまいますが、私の学生時代の感覚だと誰に尋ねても「あの曲、いい曲だよね!」となったアイドルソングがある。それは「ありがとう/石坂智子」であった。
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昨日のブログ記事は、最後の最後まで書き切れなかったのですが、何を言いたかったのかと考えるとホントは世相に沿っているか、もしくは先行していると思う。29日のテレ朝「ワイドスクランブル」では特集としてZ世代に蔓延している「蛙化現象」についての解説であった。内心では「ホレ、見なさいよ」と感じていた。別に若者言葉を追い掛けているタイプではないのですが、数ヵ月前に「蛙化」については目にしていたし、その意味合いとしても「王子様が蛙に見えてしまう、醒めてしまうこと」である事は薄々は理解できていたと思う。キスをしたらカエルが王子サマに化けるのではなく、王子サマの言動に引いてしまい、王子サマに見えていたものがカエルに見えてしまうという訳だ。なんだか青空球児好児の「ゲロゲーロ」が聞こえてきそうな響きだ。パチンコの反対、コンチパ。

同番組内で解説に登場した牛窪恵さんが「蛙化現象」の名付け親は、どこぞの偉い先生であった旨の紹介していましたが、ネーミングの妙みたいなものは確かに感じるかな。でも、私の記憶だと赤塚不二夫の『レッツ・ラ・ゴン』の中に、カエルにキスをしてみたが王子様にはなってくれないというネタがあったと思う。しかも「ざけんなよっ、バーロー!」ぐらいにカエルが扱われてしまうという、かなりナンセンスに乱暴なネタであったような印象がある。

「ワイドスクランブル」が取り上げたのは、結局のところ、「恋愛しないZ世代」のようにして取り上げており、彼等はZ世代に対しての思い入れが不必要なまでに強いので、嫌味なニュアンスを徹底的に排除しながら、ああして取り上げていたのだと思いますが、実際には同じ問題のウラオモテになっている。

50歳でも60歳でも70歳でもいいのだけれども、そんな年齢になってみたり、或いは「そんなに長く生きられないかも知れないぞ」と気付いた時に、人生を振り返る事になる。そこで自らの歩んできた道の総括を迫られるのだ。波乱万丈の人生を歩んだとか、自叙伝を著わせるレベルの人は稀であり、多くの者の人生は凡人の人生であると考えられる。認めたくなくても、そうなる。何故なら、あなたはショウヘイ・オオタニではないし、カオル・ミトマでもない。ましてやショウヘイ・ビッグ・ババ(ジャイアント馬場)でもない。それでも諦めずに「いいえ、私は違います! 痩せたい人は食べなさい!」のように強情を張って拒絶し続ける出来きる。しかし、そうした拒絶は何よりも虚しい、そう気付く事になる――。

過去記事にも記してあるのですが、御近所に或る高齢女性のDさんという方があって、その方の場合は、義父の介護を15年ぐらいした後に、次には夫の介護を15年ぐらいしたという。夫が亡くなった時に、洩らした言葉は「あたしの人生はなんだったんだって思うよっ!」であった。語気は荒かった。もう、その頃にはDさんは70歳前後になっていたのだ。それだけでも重い話だなって感じるかも知れませんが、人生というのは残酷なもので、そのDさんは、それから間もなくして脳梗塞で倒れてしまった。現在、Dさんは呂律が回らなくなり、乳母車を押しながら歩いている。年齢的には、まだ80歳にはなっていないんじゃないのかな。でも、そういう人も現実に居る訳です。

そのDさんは年齢的には私からすると「近所のオバチャン」である訳ですが、フツウのやさしいオバチャンですかねぇ。先月、ヤマザキ製パンのブランデーケーキ(5個入り)をDさんからもらった。「これ、食べて」と。有難く頂戴しながらも、どうせ、ぱさぱさとした食感で、おいしく感じることもないのだろうと思ってしまうものだ。しかし、食べてみたら、これが、意外においしかった。Dさん、乳母車を押して買い物へ行っているけど、こんなもの、一体、どこで買ってきたんだろう? まぁ、他人というのはそれぞれの生活を持っているので、私では開拓しようのないものを開拓していたりするものなんだなと思い知る羽目になった。きっと私だったら、せいぜい、みたらし団子とか大福を買ってしまうだろうからね。ブランデーケーキをチョイスするという小癪な真似は、自分自身ではできないものだったりするからね。

だらだらと書いているので、どこが本旨なのか読みにくくなってしまっていますが、勿論、この話の本旨は「あたしの人生はなんだったんだって思うよっ!」というDさんの言葉にある。これに似た話を友人の御母上のケースで、もう一つ知っている。人という生きものは、何かの区切りで自分の人生を振り返ったときに「私の人生って何だったんだろう?」と総括する事になる悲しい生きものなのだ。

教条的な「おかしな教え」や「価値観」がある。そうした正しいとされている考え方の中には、利他を説き、自己犠牲を説く。しかも平然と、自己犠牲こそが幸福なのであるみたいな事を平気で言っている。しかし、「それは偽りである」、「誤まりである」という事を実は主張したいのだ。

自分が我慢する事でその場の平穏が維持できるのでれば我慢も忍耐も必要だ。しかし、そうした我慢や自己犠牲には限度があり、自分が後悔するレベルの自己犠牲であると予見できたなら、その自己犠牲は請け負うべきではないというのが真理だ。しばしば、利他に託けて自己犠牲を強いる論者がいるので紛らわしいが、利他とは自己犠牲ではなく、そこは「自利利他である」と強調したい。色々と煩雑で、紛らわしいのだけれども、その問題だ。

魔法から醒める事が幸福なのか、醒めない事が幸福なのかという問題になってゆく。幸福というのは主観、主観ではなくとも当事者の認識と深く関係しているので、おそらく、幸福なのは後者でしょう。知らぬが仏だ。しかし、確かに若年層の間で起こっているという蛙化現象みたいなものも分かる。店員に対しての横柄な態度を目撃したりしてしまえば、百年の恋も一瞬にして醒めてしまうという事は珍しくない。或る意味では懸命な判断だ。しかし、それでも生きている間に心をワクワクさせたり、ソワソワさせたり、そんな風に心底から躍らせる事ができる機会というのは、そんなには多くはない。結局のところ、「い〜のち、みじ〜かし、恋せよ乙女〜」と、ブランコに揺られながら口ずさむ事になるというのが、この日本サブカル史が示した一つの答えなのですよ、と。
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里見清一さんの中に19歳のナース候補生から「40歳まで生きられればいいです」という言葉を聞いて心の中で、「そんな風に思うものだろうけど、40歳なんてすぐに来てしまうもんだぜ」と思ったという描写があった。その箇所で「40歳なんてすぐに来てしまうもんだぜ」も理解できるし、他方で自分が19歳なんていう年齢の頃には、やはり、老い先の事なんて考えていなかったので、おそらく「40歳まで生きられれば充分です。その先を考えるのは無理です」のように考えていたと思う。

光陰矢の如し。浦島太郎の玉手箱みたいなもんで、うたた寝をして、ハッと目を覚ましていたら初老ですよ、初老! もう棺桶に片足を突っ込んでるようなものかも知れない。明智小五郎や金田一耕助よりも年上になってしまっている気がする。美空ひばりや石原裕次郎なんて享年52歳とかでしょう? 早い人は早いのであって。

凡人の生涯なんて虚しいものであって、その人なりには波乱万丈なのだろうけど、誰かに話して聞かせる程のドラマチックなストーリーでもない。多くの者は凡人といえば凡人であり、凡人としての人生を歩む事になる筈で、実際は、そんなものだろうなって思う。

しかし、そうした凡人が歩む人生の中に面白味を見い出せるとしたら、やはり、日常の中に非日常を切り拓く〈秘密のときめき〉みたいなものではないのかなって思う。家田荘子著『大人処女』(祥伝社新書)では、その感覚を取り戻せた。実際、あからさまには語られる機会は少ないものの、実際、人ってヘンテコな事を考えたり、或いは凄い行動をしながら人生を歩んでいるものだよな、と。

現在ともなると非常に複雑な事になっているらしく、性衝動が沸かないという人や、恋愛感情というものが分からないという人などについてもインターネット上では名称がつけられているという。自己申告になってしまうところもあるのでしょうけど、それで悩んできたという口調、その印象からすると信憑性を感じなくもない。

『大人処女』では9名のインタビューが為されているが、その内の一人のケースでは、高校時代に同じ部活動であった男子高校生とデートをしたが、その時には特に恋愛関係に発展せず、大学生になってから電話があって公園に呼び出されてデートする関係になったが、友人関係みたいな形で継続していたところ、相手の男性に彼女が出来てしまったと打ち明けられ、なんだか期待していたらフラれるという羽目に。しかし、その女性の話が面白いのは、その相手の男性はそんな事があってから10年とか15年とか経過しても連絡を取って来るのだという。その女性は既に35歳とか、そんな年齢になってしまっているが、その間にも、その男性以外の男性とも交際するも肉体関係を結ぶまでに到らず、そんな時にまたまた、高校時代にデートしたカレから連絡が来て会ってりしているという。なんだか煮え切らぬ、そのカレシに問題があるのではないかという視点も浮かび上がるものの、そのカレに振り回されているつもりはないが、振り回されているようにも見える。或る意味では見事な腐れ縁なんでしょうねぇ。実話なのであれば、その男女関係の織り成す綾、その妙のようにも感じた。高校時代のデートを三十路半ばまで引き摺ってしまい、実は私、処女なんですって、それはそれで凄い人生だよね、と。

そうかと思うと、性交時の挿入時に痛みを感じてしまい、悩んで医者にも相談したが異常はなかったというので、事情を明確に説明して〈開通〉させてくれる男性を何人も紹介してもらったという体験談もあった。その女性はできれば性交渉が可能な身体になりたいと欲している。そんな世界があるのかと思うものの、家田荘子さんが調べてみたところ、実際にあるらしい。「そんな事でお悩みでしたら私が手を貸して差し上げましょう」という男性は何人か登場したが全て撃沈したという。「きっと私が痛がるからダメなのだろう」と考え、その女性は「私が痛がったとしても開通させて下さい」とまで頼んでもダメであったという。多くの男性は「よろしければ私が…」と登場して密室で秘密の儀式に挑むものの、必死になれば必死になるほど、勃たなく訳です。エロいようでエロくない。むしろ、リアルな怪談だ。男性のアレを「男性自身」なんて呼ぶ事がありますが、その男性自身とやらを精神的にへし折られてしまうかのような怖い話でもある。

そうした秘密というのは、その者だけの体験であり、ストーリーである訳だ。しかも本来であれば、そうした事柄は、暗黙の秘密協定みたいなものがあって、生々しくあの時にあの部分をこうしてああしてのように語るのは暗黙の秘密協定的にはタブーであった。それらを本人を特定するようにして暴露する行為は道理としては許されないという暗黙の協定みたいなものがある。いや、現在もしくは未来になると、「ある」ではなく「あった」という過去形になってしまうのかな。だってさ、世の中、どんどん無粋な方向へ持っていかれてますよ。それこそ、若い連中は性欲も強いのだろうから、そここそ、フラストレーションが溜まらないのかなって思う。もしかしたら少し淫靡な世界が許容されているぐらいの方が幸福なんじゃないのかねぇ?! 

黒澤明監督の映画「生きる」では、死期が近づいた志村喬演じる人物がブランコに座って「ゴンドラの唄」を口ずさむ。「いのち短し、恋せよ乙女」という歌詞ですが、いいチョイスなのは確かでしょうねぇ。人生を人生として捉え直してみた時、多くの者は「もっと色々な事を愉しんでおけばよかった」という後悔が押し寄せる。あれもこれもでしょう。しかし、身近に体験できて自己完結が可能なのは、それだ。結果として独り善がりになり、失恋で終わっても、いや、恋にさえ発展せずとも、そのプロセスの中で、心は動くものなので〈ときめき〉みたいなものは確かに味わう事になるのでしょう。
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Eテレ「世界サブカルチャー史〜日本編」は80年代編の第1回を見逃したものの、他は視聴できている。取り上げられた映画として「太陽を盗んだ男」と「家族ゲーム」を多目に取り上げたのは納得だよなと思いながらも「逆噴射家族」は未視聴でした。「逆噴射家族」?! とはいえ、音楽では甲斐バンドの「HERO〜ヒーローになる時、それは今」をBGMにして「テレビ出演を拒否するアーティストがあった」という話などにも触れており、往時の流れを思い出させてくれた。勿論、本筋は荒井由実であり、「中央フリーウェイ」を流し、ゲストの林真理子氏が「都会のオシャレな文化が…」みたいなコメントをしていた。

しかし、あの編集でいいのかなって少し感じてしまった。というのは吉本隆行であるとか埴谷雄高であるとか、浅田彰であるとか、あの辺りを取り上げてサブカル史でいいのかな的な気がしたんですね。まぁ、私が知らぬところで、そういう文明批評が存在していた可能性があるのですが、それにしては現在ともなると死滅し過ぎていやしないだろうか。本当に同番組の論評の通りなのであれば、現代批評というものは常に相応に鮮烈でありながら、そうでありながら常に無視されてきた事になりやしないだろうか。物凄い分かり易い形でカルチャーそのものの劣化を感じ取らねばならない気もする。

映画「家族ゲーム」が、家族は終了しているのに家族を演じ続けている事を描いたものであるという評が紹介されていた。その通りであろうと思う。しかし、そうなると、それ以降の約40年間、我々は何をやってきたのか――という話になってしまうと思う。ずっと家族ごっこを続けている事になる。それは評としては正しいと私も思うのだかれども、人々の実感するところの認識と合致するだろうか? 現在でも日本の税制や社会保障制度にはロールモデルが用いられている。いやいや、米国のバイデン政権でさえ、米国家族計画なる方針を打ち出している。いやいやいやいや、旧統一教会が政治家に食い込んでいるのも家族の在り方について出し、エマニュエル・トッドの本業たる功績は、その民族が持っている家族観が文化に影響しているという比較人類学的文化論だという。それらを考えたときに、「本当は家族なんてものは終了しているのに、延々と家族ごっこを続け、家族の一員であることを演じ続けている」という事実は、中々に衝撃的ではないだろか? 

実際に思い当たる節があるのもホントで、下重暁子氏の『家族という病』は大ベストセラーであり、数日前に読み終えた家田荘子著『大人処女』にしても実際に個々人の内情というのは、政策として打ち出されているものや、マスメディアがポリコレに乗って宣伝している「正しい価値観」とも全く異なってしまっているのだ。おそらく「余計なお世話だ!」と吐き捨てたくなるような言説ばかりが、やたらと多いのが昨今のオピニオンではないのだろうか。

イジメ事案が報じられると、ネット上には怒りを露わにするようなコメントが並ぶ。みんなイジメを怨んでいるのだ、そうなのであればイジメは減るのだろうと予測を立てる事ができる。イジメのような現象は少数派が多数派に対して行なう事は出来ないし、弱者が強者に対して行なう事もできないという性質を本源的に持っている。なのに、イジメは減らないというか、実際には陰湿なイジメは増えてしまっているような感慨がある。また、イジメに限らずかも知れませんが、何がしかの不祥事が報じられていると、懲罰的なコメントが並ぶようになったと指摘されている。悪い奴は罰してしまえという考え方であり、罰する事で対応せよという意見なのでしょう。それが量的に嵩張ってしまう事で多勢による無勢に対しての攻撃、つまり、イジメの構造を、本人たちは無意識に、期せずして具現化してしまっている。正義のつもりで、イジメの構造をつくりだし、それに加担してしまっているように見える事がある。謝罪している者に対して、それ以上の石ツブテを投げつける事には意味はないのに、やってしまっているのだ。その辺りから徐々に正義中毒の問題になってくる。常に誰かを叩いていなければ気が済まないというSNS時代の残念な風潮だ。

残念ながら、この世の中というのは、弱い者いじめが好きな人が多い、もしくは弱い者いじめを好む者が多いというのが現実だと理解した方がいいと思う。否定しようがない。


あれこれと宗教や思想を考えていると、当たり前の事に気づく事になる。何故、多くの宗教では、この世界を地獄だと理解しているのかという問題だ。ギリシャ哲学ストア派の流れを汲んでいると解説されているグノーシス主義にしても同じだったので「やはり、昔からそう考えられているのだな」と愕然とした。この世界をつくったのは神ではなく、悪魔の方であるという。真の神、まぁ、創造神の事だと思いますが、その創造神は遠い遠い光の国、空の彼方、宇宙の果ての光の国に住んでいて、あまりにも目映いので目には見えぬ存在であるという。また、マニ教はグノーシス主義を反映しているらしく、この世界には光の成分が人質として捕らえられてしまっており、この世界は暗黒世界であるが、暗黒に捕らわれてしまった光の成分があるので、その光の成分を持つ者が苦しむ事になるのだという。裏返せば、この世界は悪魔が牛耳っている世界であり、この世界を苦しみだと感じる者は、その者の中に〈光の成分〉があるという解釈になるらしい。

ああ、サブカル史でも「鶴田浩二」が取り上げられていましたが、アレだ。


義理が廃れば、この世は闇だ

(村田英雄「人生劇場」)

であり、


何から何まで真っ暗闇よ

(鶴田浩二「傷だらけの人生」)

なのだ。

正統派と自称する人たちは、この世界は神に祝福されていると思っているので、グノーシス主義のようなものを異端視し、悪魔崇拝者と糾弾する。しかし、西洋の中世なんてのは暗黒として語られているのが実際で、ヒストリーチャンネルでも今夏に、ローマ帝国の滅亡以降に訪れた長い長い欧州暗黒史を紹介する番組が放送されていたので視聴しましたが、確かに、この世界は闇に包まれている。神これはキリスト教史だけではなくて、ですよ。近現代だって戦争、戦争、戦争だ。殺して殺して殺しまくっている。新しい科学技術が生まれたら、それを兵器に応用して殺戮と支配に使用し、弱い者の生き血を啜って生きているのが人類史であったりする。

この世界は美しくない。「世界はときどき美しい」というのが実際であり、通常の世界はそんなに美しくもない。総体として語れば世界は醜悪であると理解した方が言い得ている。

また、グノーシス主義では、ゼウスやデウス、或いはヤハウェなどの創造神・創造主は、謂わば「偽りの神」であり、その正体は悪魔であると考える。何故なら真の神なのであれば、地獄のようなこの世をつくる訳がないから。真の神は光に包まれており、正体なんてものは見えないと説く。ここに真言密教が崇める大日如来を当て嵌めれば、究極の神とは「宇宙の意志」である――となる。

また、グノーシスとは「認識・知識」の意味であり、実は仏教が説いていた唯識論に似ており、実は超理性的な神の解釈である。最新の脳科学であるフリーマン理論は唯識論と酷似しているという。(ついでに言えば、実は「人類をつくったのは宇宙船に乗ってやってきた異星人である」のように解釈するエーリッヒ・フォン・デニケンのエノク書の解釈であれば、真の神は遠い星に住んでいる異星人であり、人類をつくってしまったのは偶々宇宙船で地球にやってきていたその異星人の中の反乱部隊(堕天使)の連中であるという具合になる。)

マニ教では、光と闇との戦いが続き、最後の日には光の勢力が勝利する事になるという。もう、この辺りがキリスト教の正統派の中にも伝わっている終末論の結論みたいなものだ。何故、イエスは再臨するなんて言われているのか? おそらく、或る時代の或る地域に芽生えたマイトレーヤー信仰が関係している。救世主は希望なのだ。救世主は、この世の終焉のとき、最後の日に出現する。救世主は本物の神であり、光の成分だ。永い永い暗黒支配に救世主は終止符を打つ。光は解放される。

マイトレーヤーという言葉を使用すると、日本人からは遠い話のように思えてしまう。しかし、これは弥勒の事であり、弥勒は現時点では弥勒菩薩であるが、この世に下生した際には仏になっているとされている。下生(げしょう)とは弥勒が現世に姿を顕現させる事を意味しているが、それが意味していることは救世主であるイエスが終末に降臨すると言っている事と、充分すぎるほどに意味は重複している。そして確かに日本には救世観音や弥勒菩薩があり、聖徳太子との所縁が囁かれていた、かの法隆寺夢殿に安置されていた秘仏、その正体は救世観音であった。

救世主(メシア)は神の下僕なのではなく、〈神そのもの〉になると考えられている。弥勒菩薩も現在は菩薩であるが我々の前に現れる時にはホトケ(仏)になっているとされる。そして、その救世主は「光の国」から、やって来るらしい。なんだかホントにウルトラマン的な世界っぽい。
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胸につけてる マークは流星

自慢の ジェットで 敵を討つ

光の国から ぼくらの為に

来たぞ 我等のウルトラマン


画像は某ホームセンターでウルトラマンフェアみたいなものが開催されており、物色していたら衝動買いしてしまった科学特捜隊の流星ピンバッジ。これでハヤタ隊員と連絡が取れるから安心だね☆彡
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この2日間ほど、テレ朝も日テレも揃って政府の思惑に沿うかのような106万円&130万円という年収の壁問題をワイドショウでは特集している。まぁ、それは既に分かっている話だとして、どんな政策をとるにも税収を増やすことしか頭にないのだなと途中で気がついてしまい、イライラしてしまった。何のことはない、政官財がアナウンスしている「新しい資本主義」とは完全差配方式の超統制型の共産主義体制みたいなもので、彼らの頭の中にあるのは税収を上げる事に尽きる。税収、税収、税収。どれもこれも税収を上げる為の経済政策であり、成長戦略なのが分かってしまう。ただただ命じるだけで、その通りに搾り取れてしまうというのは、なんとも羨ましい限りだ。

「税収の最大化」が目的になっているあたり、チョムスキーらが言うところのコーポレーションの原理でしょうねぇ。企業家とか投資家の思考回路だ。市場経済なのではなく、社会そのものが市場化させられてしまっている。

しかも、憤慨してしまうのは、彼らの頭の中では「税収が増えている今こそ、大胆にカネを使うタイミングだ」と考えている事だ。税金を原資とした予算を彼らに与えるだけ、なんだか無駄な気もするかなぁ。何もしないでくれればいいのに。彼等の周辺は、やたら景気がいい人たちだらけなのかも知れない。しかし断じて法人税は上げさせないと経済団体とタッグを組んでいる。どんなにカネを投じても産業構造や人口動態は変わらないであろうに、どこぞの経済学者に吹き込まれた〈理論〉なんてものを信じ、豪快に差配する政策を採るのでしょう。しかし、そこでホントに彼らが狙っているのは優遇する者と冷遇する者との恣意的な選別をする事なんじゃないのかな。そして、またまた官民格差を拡大させてゆくという事になるのだと思う。昨日から米国経済リセッション入り観測も出ている訳ですが、そんな事は関係がない。「新しい資本主義」だってさ。なんだかんだいって自公連立政権による擬制民主主義体制の完成だね。

あ。「公明党の幹部は癌だった」と麻生元総理が発言したのに、公明党はスルー。選挙協力の為であれば侮辱にも耐えるという事なのかもね。ぼちぼち旧統一教会に対しての解散命令を検討するよりも、政治と宗教との分離を徹底する方が早いのでは? 政教分離の問題を政治のテーマにしてみてもいいのでは? バラマキ政策を大々的に発表して、また、解散総選挙に持ち込むという憶測が出ているというけど、なんだか危ないね。よくよく考えてみると、そうした解散というのは国民の事を考えているのではなくて、自分たちの事だけを考えているって事なんだろうにね。
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ブレイディみかこ著『R・E・S・P・E・C・T 』(筑摩書房)に目を通しているところですが、そこに「パンと薔薇」というフレーズが登場する。「人はパンのみにて生きるにあらず」に通じる用法として登場しており、意味合いとしては「パンだけではなく、薔薇も」の意になっている。

イエスが述べたという「人はパンのみにて生きるにあらず」は、その後に「神の言葉によって生かされている」のように続くのでしたが、「パンと薔薇」の場合の「薔薇」は「人間らしく扱え」という人間観の表現しているらしいと、そう知る事になりました。(これがガンズ&ローゼス等にも共通する薔薇の隠喩なのかどうかは知りませんが…。)

そして「労働党は貧困者の味方だと思うなよ」という鋭い指摘も綴られている。(イギリスの)労働党は、その名称も含めて、なんとなくイメージとしては労働者の味方であり、弱者の味方のような幻想を抱くものであるが、選挙時の集票につながらない問題に真剣に向き合うハズはないと喝破し、カラクリとしても弱者支援を掲げる非営利団体が行政とは別に介在しており、行政と非営利団体との間で問題を押し付け合う中で、実際の問題は蔑ろにされるという問題にも言及している。実際に起こったシングルマザーらに対しての立ち退き運動、それに対しての抵抗運動をモデルにして小説化したものとの事ですが、まぁ、イギリスの実情らしきものは読み取れそうですかね。また、こうした構造に気づいていない日本人は多い。

そして「薔薇」という事になる。自由主義的な解放運動の象徴なのでしょうか、「パンと薔薇」という風に展開されてゆく。人間らしく扱え、リスペクトせよ、と。

「リスクペクト」というのは、日本でもいつの頃よりか浸透したカタカナ語だよなって思う。私の実感するところだと、安室奈美恵さんあたりの楽曲が決定打であったような印象がある。以降、ただただフレーズとして乱発されるようになった。分かっているのか、分かっていないのかは分からない。何かしらトレンドとして「リスペクト」という言葉はメジャーになったよなという感慨がある。

勿論、【リスペクト】には、「尊重する・尊敬する」のような意味があるという。しかし、その原義は「後ろを振り返る」なのだそうな。自分だけが先に行けばいいのではなく、後ろを振り返りなさいよの意だ。

これは、昨年、急に新聞の書評欄で起こった『うしろめたさのアナキズム』にも通じるものであったなと感じる事になりました。本来であれば、後ろめたく感じて当たり前の事に対して、現代人は既に感覚が鈍くなってきている。しかも、それは社会通念や法制度体系などをも巻き込んで、鈍感になってきている。福祉制度の重要性を訴える人たちにしても「彼等にはパンのみを与えておきゃあいいんだよ、後は自分で何とかしろって言ってやれ」という唯物的な思考なので、そこには本当に人間的回路が存在していないのだ。知らぬ間に現代リベラル思想は唯物的な金銭市場主義になってしまい、人と人との絆のようなものを無価値として判断している。共感らしい共感も、また、慈悲や愛も、困ったときはお互い様という精神という意味での相互性原理も、人として果たすべき、最低限度のリスペクトも無くなってしまったという事かもね。

或る意味では自分たちで唯物的な金銭至上主義を選択してしまったまま、後ろを振り返る事もしないので、孤独・孤立の問題や、深刻な分断にも繋がっているように見える。精神を病む者が増えてしまっている事、更にはジョーカー現象みたいなものにも影響していそうな気がしますけどね。
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ジェイコムTV「柏原芳恵の喫茶歌謡界」には江木俊夫さんがゲストで出演されており、前編・後編と併せると60分近くも江木俊夫さんのトークを聴いた事になりますが、色々と複雑な思いがしましたかね。。。

江木俊夫さんといえば、元フォーリーブスのトシ坊である訳ですが、それ以前から子役として活躍しており、黒澤明監督の「天国と地獄」、そして手塚治虫の原作を実写化した「マグマ大使」のマモル少年として有名であったという。そろそろ子役としてお声が掛からなくなってきたので、フツウの学生に戻るのかなと思っていたタイミングで、「ジャニーさん」ことジャニー喜多川氏に声を掛けられたという。ジャニーズ事務所では、あおい輝彦らからなるジャニーズを所属タレントとして抱えていたが、そのジャニーズが解散することになり、その後釜としてフォーリーブスを構想しており、白羽の矢を立てたのが有名子役の江木俊夫さんであったという。

その為、フォーリーブスの活動初期には「江木俊夫とフォーリーブス」のようなグループ名で活動していたのだとか。

番組収録時には、性加害問題は沸騰していなかったものと思われますが、番組の中での江木さんはジャニー氏を恩人として扱っており、多くの人たちが様々なジャニーズ系と呼ばれたタレントさんたち語っていたように「ジャニーさん」と「さん付け」でジャニー氏を回想するというトークが続いたのでした。

江木さんによれば、「ジャニーさんには20回以上、ラスベガスへ連れて行ってもらった」という。勿論、ラスベガスで本場のショーを見せる為にフォーリーブスの面々をラスベガスへ連れて行っていたという意味であり、江木さんは、ジャクソン・ファイブ時代のマイケル・ジャクソンも生で観た事があると語っていた。子役出身であった江木さんのキャリアからすると、歌とダンスの世界は別世界であったが、ジャニーさんのそうした教えによって何とか、今日まで芸能人としてやってこれた旨に語っていた。

フォーリーブスは紅白歌合戦には何度も出場していたが、実は年末の賞レースとは無縁であったという。その意外な事実について尋ねられると、江木さんは「ジャニーさんの教えだった。君たちが目指すのは賞レースではなく、お客様に喜んでもらう事だ。一度、観た人に、もう一度、観たいと思わせるようなエンターテイナーになれ」という教えであった旨、答えていた。

既に、往年の「トシ坊」とて、世間一般の価値観からすれば高齢者になっている訳ですが、そんな江木さんのやさしい語り口を考慮すると、今日的には大騒動になっているジャニーズ性加害問題が落としている〈大きな暗い影〉にも嫌が応にも気が付いてしまう。ジャニーズ系の歴史としては、ジャニーズの次にフォーリーブスですが、このフォーリーブスのファンであった世代になってしまうと、おそらく還暦前後の人たちのアイドルであったという事になる。ああ、私の思春期の頃に「たのきんブーム」が起こったので、フォーリーブスは小学生のテレビの中の人になる。同番組の中でもジャニーズ事務所の歴史を日本芸能史の一コマとして語っていたところがあったと思いますが、1970年代から2023年までの日本のテレビ的な芸能シーンの相応の歴史を構築していたのが「ジャニーズ系」と呼ばれる男性アイドルグループであったよなとの思いに到る。しかし、そうであるが故に、この大きな暗い影の大きさにも思いが到る。

江木さんが屈託なくフォーリーブスを回想する。フォーリーブスは1976年に解散。しかし、2004年に再結成したという。実に28年ぶりの再結成であったが、実は北公次さんだけが大反対していたと語っていた。もう、この辺りになると、在りし日の北公次さんが抗議する映像なども報道番組で流されているので、色々と感じる事になる。週刊誌の企画で再結成させたいグループの第一位にフォーリーブスが選出されたとの事で、その再結成企画が進んだが北公次さんが大反対。しかし、フォーリーブスの4人が集まって話し合いをした結果、一回限りの再結成という話になる。しかし、その一回限りの再結成コンサートが盛況であったので、その後も再結成した50代のフォーリーブスはしばらく芸能活動もしていたのだそうな。

どうしても注意深く視聴してしまうもので、江木さんは北さんを語る場合に「公ちゃん、北公次さんですけど」のように「北公次さん」と名前を言い直していた。既に故人であり、芸能界からも一線を引いてしまっている人というニュアンスにも思えたが、遠征時の部屋割りでは、いつも江木さんは北さんと一緒の部屋に泊まっていたので、メンバーの中では最も仲がよかったと語り出した。おりもさんや青山さんを語るシーンは殆んど無かったのですが、北さんについてのエピソードは多かった。

「北公次さんはフォーリーブスに入っていなかったら、オリンピックとかに行った人ですよ」

と真顔で語っていた。また、「公ちゃん、北公次さんですけど…」と名前を言い直しながらニューカレドニアの思い出話を披露していた。「天国にいちばん近い島」として知られているニューカレドニア島へ行った際、江木さんは北さんに「星を見に行こう」と誘われたのだという。だって、そこは天国にいちばん近い島なのだから――という訳です。夜中に北さんと江木さんはホテルを出て、ニューカレドニアで最も星がきれいに見える場所まで、20〜30分も歩いて行ったという。なんのことはない道路の上であったが、そこで江木さんは北さんと一緒に星を見たのだという。聞き手の柏原芳恵さんが「え? ロマンチック。もしかして手をつないで?」と尋ねると、「そんな訳ないでしょ。なんだか殆んど口も利くでもなく、北さんと一緒に星を見に行ったって話ですよ」となったが、話の様子からすると北公次さんだけがフォーリーブスの中で少し特異なポジションにあったのだろうなというニュアンスは、感じ取れるような逸話に聞こえなくもなかったですかね。

そしてカラオケで江木俊夫さんが「踊り子」を唄った。あー、すっかり忘却の彼方にあった楽曲でしたが、いい曲だなと思った。今回のジャニーズ性加害報道の後に聴くと複雑なニュアンスも加わってしまうのですが、いい曲である事には変わりはない。

♪ 私は踊り子よ うらぶれた灯の下で

 踊っていることが 大好きな踊り子



これまた全く何の意図もなく、現在、読んでいる家田荘子著『大人処女』(祥伝社新書)にもジャニーズの追っ掛けをしていた人物のインタビューがあった。30歳を過ぎてもセックス経験のない人たちにインタビューをしたものである訳ですが、ある人の場合は痛みやら不安によって何度も何度も〈開通〉に挑戦してきたがダメで医者にも相談した事があるが出口が見えないという。そんな彼女の生き甲斐にしているものが、ジャニーズ系のコンサートへ行く事、嵐の追っ掛け、特に「松潤」への情熱であった。仲間とわいわい追っ掛けをするのではなく、単身で追っ掛けをして全国各地に行くのだという。自分自身や自分の身の回りにそういう人がいないので、ピンと来ない部分もありますが、思えば、有り得る話だよなぁ…となる。現代人のライフスタイルを考えて見た時、テレビに雑誌、インターネットでも日本のエンターテイメント界の小さくない一角を半世紀近くも占めて来たのが、いわゆる「ジャニーズ系」と呼ばれた人たちではなかったか? 

その『大人処女』に登場する女性の場合は、「セックスをしたい」という気持ちも分からないし、「気持ちがいい」という感覚も実感として全く理解できていないが、それでも松本潤さんが唄ったり踊ったりする姿を見て、たまらなくカッコいいと感じている――という意なのだ。しかも、この女性の場合などは周囲がカレシがどうのこうの、更に友人たちが結婚して去っていく中で、「あれ? みんなフツウに出来ている事が、私には出来ないらしい」と焦り、不安を抱えている。そんな彼女が人生の中で唯一、熱狂できるものがジャニーズの追っ掛けだと言っているのだ。なんだか、他人事ながら息苦しくも感じてしまう。

別にジャニーズの追っ掛けに限らず、何かしらの趣味に没頭し、それを生き甲斐にして生活している現代人というのは少なくないのではないか? AKBに代表されるような女性アイドルグループの人気にしても、そのような層に支えられているように見えるが、思えば現代社会を生きようとすれば、そうなりますやね。阪神タイガース優勝で先週のワイドショウは盛り上がっていましたが、ああしたコンテンツとだって、上手に付き合えば、人生を豊かにできる訳だ。永く永く愛せるなんて羨ましいよなって思う。あゝ、沢田研二の追っ掛けの方の日記が書籍になっているものを読みましたが、ホントはああいうアーティストとファンとの関係というのが実に30年とか50年とか継続するというのは、その人の人生にとっては欠かせない何かであり、幸福の一部なのでしょうからねぇ。その人の人生の中には、いつもジュリーがあって、彼女の人生にはジュリーは欠かせないものであった。当然、ジャニーズ系のファンの方達というのも同じようなもので、熱心にファンをやっていた人たちは、今の報道に、何とも言えぬ複雑な思いで心を痛めているところも大きいのでしょうねぇ。


いやいや、テレビのような媒体では取り上げていないが、国立社会保障・人口問題研究所の調査で、次の事柄を気に留めなかったら、大切な問題についてすっとぼけた事になってしまうと思う。

30〜34歳の未婚男性の37.2%は性交体験がない

30〜34歳の未婚女性の44.4%は性交体験がない

これはねぇ。昭和の時代の若者のように性的欲求にガツガツしていないというのもホントなのでしょうし、また、ガツガツしないでも相応に好きなように生きられる時代になっているという事も暗示している。この箇所は「どちらか」ではなく、「どちらも」なのだ。なので、誰も明確な答えは持っていないし、線形因果律として「こうだから、こうなった」のように短絡的に語るべきではない。実は、これは物凄く基本的な事柄ですやね。

家田荘子さんの事を引用すると「結婚や恋人に興味を持たない男性・女性が年々増えてきていることも注目すべき事実ではないか」や「未婚者で交際を望まない人々は、「自由」「生きがいとなる趣味がある」「ひとりは寂しくない」など、自分の生活スタイルを大切にしている人々であると、出生動向基本調査でも顕著に顕われている。」(どちらも『大人処女』のはじめに)と論じてる。実は、これらの事柄は、公然と語られていないだけで、実は、そのまんまの話なのだ。


自由とは書いて字の如く「自らに由る」という意味と解釈するのが本来の東洋思想であるという。リベラルやフリーダムというのは外来語の和訳になってしまう。で、この話はブッダの「法に依れ、自らに依れ」にも通じており、実は物凄く大切な事なのだ。そして現代における自由は、以下のようになる。

現代において「自由」、特に「自由意志」という観念が提起している問題について、伊藤邦武氏は次のように述べておられる。

「自由とは、我々は何かの共生や規則に縛られていないという意味(結婚・思想・宗教・移動・職業選択の自由など)において、伝統的で専制的な政治・社会勢力による基本的な人権の侵犯に対して、それらの束縛を拒否するあり方を示す為に用いられる。しかしその語は、自分自身で自分のあり方を選択する、自分の個性を存分に発揮する、あるいはその責任を自分で引き受けるという意味も持っており、その場合に重要なのは、強制の不在ではなく、自発性、自己決定性、自己責任ということである。
(浅野孝雄著『心の発見』79頁/伊藤邦武著『辞典・哲学の本』(講談社)からの孫引用に該当する。)

誰もが「道」を歩んでいる。この「道」というのは人生みたいなものだ。道は一本道ではなく、幾度となく分岐点がある。道を歩いていると、仲良くなって歩調を合わせて同道する者もあれば、また、そこで分かれ道に差し掛かり、そこで別れる者もある。そして、その歩いている者自身も、いつかは、その「生きる」という歩みを止める時がやってくる。勿論、全員が全員、同じ道を歩いている訳ではなかったりするのだ。しかし、誰かが任意の誰かの人生を評する場合に、ついつい自分の尺度を当て嵌めて評してしまうものであったりする。
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ゲノム編集技術が確立されて、将来的にはデザイナーベビーが登場する事が予測できる。技術が確立されてしまうと、それを応用すべきではないという禁則を課しても、おそらくはルールを破る者が出てくるだろうし、つい最近も電動キックボードのルールが緩められましたが、もう、政策的なものは大衆迎合型ポピュリズムに傾斜する方針が明確になってしまっているので、もう、なし崩し的にそうなっていくのでしょう。

遺伝子を操作してでも、抜群の美貌に超人的な運動能力、超人的な知能を欲する。その欲望を制止できるものは見当たらない。世界大戦を巡っての話で『グレート・ナラティブ』には、何故、そのように予測しているのかについて、「つまり、戦争を回避するインセンティブが存在していない」という説明をしていたと思いますが、それに似ている。経済界は、それで儲けたいだろうし、カネを持っていて、デザイナーベビーを希望する者があるという場合に於いて「それは人類滅亡の危機になるから辞めるべきだ!」と言っても、きっと通じない。禁止にするだけのインセンティブがない。なので、それなりに、そちらになる可能性は高いんじゃないだろうか。

ホモ・サピエンスは旧人類になり、ゲノム編集を施した全方位的に優れた遺伝子を持つデザインベビーたちの末裔であるポストヒューマンの時代になる。サヨナラ人類。

しかし、この問題は想像以上にイヤラシサが付き纏う。おそらく、優生思想を公然と復活させてしまう可能性が高い。優秀な遺伝子を持つ者だけがラグジュアリーな生活をする世界になり、優秀な遺伝子を持たぬ者は苦力(クーリー)になり、自らの境遇を呪いながら生きるしかなくなる。まぁ、富裕層はゲノム編集しますワな。既に、その傾向は、「おカネを払ってでもスポーツジムに通う」といったライフスタイルあたりにも出ている。人々は生活階層を競い合っている。

映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の靴任蓮◆嵬ね茲任魯ネを払って、わざわざ運動するだって? バカな事を言ってらぁ!」と主人公がからかわれる描写があった。また、同気任魯泪ぅ吋襦Γ福Ε侫ックス演じる主人公が「あなたの名前はカルバン・クラインでしょ? だって胸に名前が刺繍してあるもの」と言われるシーンがある。勿論、企業名が刺繍されたTシャツがオシャレと認識される未来なんて、おかしいという感覚のズレを小ネタにしていたという事だ。昔であったなら到底、考えられないような価値観が近現代には常識化している事のバカバカしさを指摘するユーモアであったと思う。カネを払って運動をし、デザイナーの名前が書かれたシャツを高い金を出して購入し、一生懸命に《宣伝してさし上げている》というのが現代の消費者の姿であったりする。

自然界であるとか、生態系と呼ばれるものは、実は複雑系システムであり、複雑な因子が絡み合うようにして循環している。風が吹けば桶屋が儲かるのような具合で、何が何処にどんな風に影響しているのか、よく分からないところがある。改めて、この話の重要性がテーマになって来たのは最近であり、物理法則を絶対的価値観としてきた科学主義では線形因果律であったが、量子力学の研究が進展してみたら自然界は線形因果律だけではない事が分かって来てしまった。どういう事かというと、先述した通り、複雑に因果か絡み合うようにして形成されている循環因果律であったという事になる。ピンポイントで何かを予測する事は、そもそも困難であったという事が分かって来てしまったのだ。

鶴見和子著『南方熊楠』(講談社学術文庫)を開く機会があったのですが、そこでは「南方マンダラ」に関するページに目が止まった。「中村元博士は一目見て〈これは南方マンダラですね?〉と見破った」旨のエピソードが綴られていた。改めて南方マンダラの図を見ると、中央の球らしいものがあり、その他には長い線に短い線、更には、そもそも的を射ていない線も描かれている。今にして思えば、南方熊楠は、世界には比較不可能な無数の線形因果律が走っており、その因果律が重なり合うところが重要であるとして萃点(すいてん)を論じていた。しかし、そもそも、あんな図形が理解できる訳がない。しかし、確かに今、確認してみると当て嵌まっている。

で、それらの体系というのは、実は「自然界の中に人が存在している」という体系なのだ。東洋思想的な体系。対して「ゲノム編集」や「AIに意志決定を任せるべき」みたいな考え方は、神を神とも思わず、「ヒトは自然を支配する事も許される」という神殺しの体系であり、どうも西洋文明の背後にある一神教は、そちらの系統だと多くの論者が敏感に感じ取ってきているという事でもある。よく言えば、理性で理性を克服しようとする体系なのですが、神概念に従うとか、我々も自然界の一員なのであるという部分を突き抜けて思考してしまう系統である。それにロマンを感じる者も少なくないのでしょうけど、そうした次元のテクノロジーが惹き起こすリスクは甚大で人類を滅亡に導くような巨大なリスクがあるという。

また、想定外、想定外と我々は言葉を使用しますが、想定外にも厳密には意味が二つあり、「そもそも、その事態を想定していなかった」という想定外と、「想定していなかったが、どんな事態が発生するのか皆目見当もつかない」という次元の想定外があるという。小川和也著『人類滅亡2つのシナリオ』(朝日選書)が示している「超知能AIによる支配」と「デザイナーベビーの量産」の二項目について後者のリスクであると指摘している。


ポストヒューマン? イヤな時代だね。しかし、この問題を考えている傍から気になっている事柄がある。それは優生思想に繋がりかねないものであるとは多くの人は自覚していないものの、既にスコア化社会になっているし、並べられる綺麗ごととは別にして既に人為的淘汰が強力に推進されているような気がする。例えば、昭和60年前後であれば、人の幸福とは生理的な欲求を満たす事であり、衣食住に不自由しなければいいとか、性衝動(性的欲求)についても性的解放論として展開されていた記憶がある。しかし、現在は色々と違っている。殊に性衝動、当時は「性衝動」という呼称ではなかったような気もしますが、そこには或る種のヒューマニズム的な接合が肯定的に語られていた訳です。しかし、現在ともなると〈非常に閉ざされている〉と感じる。ホンネとタテマエが巧妙に入り混じってしまっており、実相とは乖離した「正しさ」が言論的イニシアティブを掌握してしまっているように思える。

家田荘子著『大人処女』(祥伝社新書)は、そのタイトルの通り、大人(同著では35歳ぐらいを設定)になっても処女であり続ける人たち9名へのインタビューをしたものである。もう、どうしようもなく理由は様々だ。「これは、こうだから、こうなのだ」という説明では追いつけない、どれもこれも極私的な事情によるものであり、問題を一般化しようとしている事自体が誤まっているのではないかと思い知らされる。著書の家田荘子氏は既にセックスしない男たちについての著書もあるし、まぁ、そちらの場合は多少なりともこれまでにも説明が為されていたと思う。現在なら非モテの問題という事になるのでしょう。

『大人処女』の中には、仮名の33歳の梓さんの例が紹介されている。鹿児島県で育ったという梓さんの場合は、「したいと思ったことがない」という状態のまま、生育したという。学生時代に男の子を好きになる事もなく、高校を卒業。老舗旅館に勤めた後、21歳で東京に出てきて、飲食店、コールセンター、派遣社員として働く中でバーの勤める。バーに勤めた。バーに勤める際、梓さんはママに、自分はお酒も飲めないし、実は男性経験がないと打ち明けたが、そのまま、勤めていた。そのバーに出入りする人物に紹介されて、19歳年上のイラン人男性と結婚した。

梓さんは33歳で、そのイラン国籍の夫は52歳だという。これについては別にビザ目的の結婚を疑いたくなるが、そうでもないらしい。兎に角、不思議なのだ。イスラム教の教えで婚姻交渉は禁じられているので、夫は手を出さないのだろうと思っていたが、新婚初夜にしても帰ってきたら別々の部屋で寝たという。家賃と光熱費は夫が出し、梓さんは家賃さえ知らないという。食費と携帯代は各自が別々に払っているという。しかし、どういう事なのか夫は、かかさず梓さんを駅までクルマで送り迎えするという。梓さんによれば、シェアハウスみたいなものだという。そもそも夫の裸を見た事もなく、そういう同居生活であるが、それが梓さんに言わせると「心地好い」のだという。シェアハウスの住人みたいなものだから、互いに狆来や責任も負わなくても済む瓠△箸いΑ

家田氏は、その夫について「(夫さんは)同性愛者?」と質問をぶつけると、梓さんは「もしかしたら外に相手がいるかも知れないと思ったことはあります。でも全然、そんな素振りがないんですよね」と自然な口調で答えたという。「(夫さんは)どのように性欲を処理しているのか気になることはないか?」という質問に対しても、梓さんは「聞いたことはありません。聞けないし。私もこのままがいいと思っているので、今更、聞けないし、聞きづらいです」と返答している。つまり、梓さんにすればセックスのない夫婦生活こそが理想と考えており、それに見事にマッチしたのがバーで紹介されたときに「女性に奥手な男がいるのだが…」と紹介されたイラン人の夫であったという事らしい。

家田氏が「ある日、その夫さんから〈あなたとは別に好きな人が出来た〉と告げられたら?」と質問をぶつけている。その質問に対して梓さんは「もし夫に好きな人ができたら、それはそれでしょうがないのかなと思います。そうなったら、夫の希望を受け入れてあげるしかないんですよね。今のままがすごい居心地がいいんです。私は今のままがいいと思っていて、それが自分らしい生き方だと思ってるんです」という具合に回答している。

この梓さんの場合は、そもそも「したいと思った事がない」という。ケータイの待ち受け画面は韓流アーティストだが、顔がカッコいいなと思っている程度であり、性的に興奮するとか、体が疼くかのような性的欲求は少なくとも自覚していないという。また、梓さんは自分自身に30歳を過ぎても男性経験がない事については少し不安があるとも認めているが、今の夫だからこそ、今の快適な生活が成り立っていると、ふんわりとした笑顔で語ったという。

まぁ、数週間前の読売新聞の人生相談コーナーには、どういう訳か「夫婦たるもの、性交渉は1日おきに行なうものである」という思い込みを持った夫に手を焼ているという相談があった。相手の事なんて考えてくれない。そういうものだという思い込みなのだ。義母にも相談して精神科に夫を生かせたところ、どうも何かしらの障害みたいなもので堅固な思い込みになってしまっているので治らないのだという。怖ろしい世界ですなぁ。


奈良県の名家の一人娘だという仮名の静香さんは44歳。お嬢様系の短大を卒業後にお見合い結婚をした。老舗の家業を営んでいる名家であり、静香さんは幼少時から「将来はお婿さんをもらうのだよ」と言い聞かされて育ったので、静香さん自身も「お婿さんはおばあちゃんに決めてもらった方がえんねんわぁ」と思いながら暮らしてきたという。しかし、そのおばあちゃんは静香さんが24歳の時に他界。29歳の頃からお婿さん探しのお見合いを始めたという。

そんな中、母親の知り合いで結婚相談所を営んでいる人からの紹介でA氏とお見合いをした。1〜2年の交際期間はあったが、静香さんとA氏との間では手をつなぐといった事もなかったという。そして、静香さん32歳、A氏が37歳の時に結婚した。

新婚旅行では露天風呂付きの高級旅館に泊まったが、性的交渉は何もなく熟年夫婦のように過ごしたという。この旅行では高級シティホテルにも宿泊したが何もなし。箱入り娘として育った静香さんには男性経験はなく、この新婚旅行の際には「きっとA氏が誘ってくるだろうから…」と言い聞かされていたが、全く裏切られたという形になったらしい。

静香さんの家としては、跡取り息子を持つ為に婿取りをした事もあり、大騒動になってA氏を問い詰めたところ、A氏は「できないですぅ」や「元気にならないですぅ」と打ち明けた。挙げ句、A氏は実家に帰ったきり、戻って来なくなってしまったという。また、A氏が勃たない理由の一つに静香さんの鼾を挙げた事で、どんどんギクシャクしてゆく。「自分が勃たない事を棚に上げて、勃たない理由を静香さんの責任にするとは、なんてふざけた婿である事か!」となっていった。

静香さんが35歳の時に不妊治療を開始。静香さんは男性経験ナシのまま、産婦人科に指導されたとおりに自然妊娠を目指して、あれこれと努力するもA氏の勃起障害は治らず。結局は体外受精によって着床、念願の跡継ぎとなる男児を出産。晴れて跡継ぎを得た静香さんファミリーであったが、その後もA氏とA氏ファミリーとの縁は続いているという。


仮名の由紀さんは46歳。群馬県在住。この由紀さんの場合は「35歳になるまでは絶対に男性と肉体関係を持たない」と決意していたという。その理由は由紀さんが10歳の時、母親が34歳で早世してしまった為だという。親戚の中には「由紀を産んだ後に体調を悪くした」という人があり、その言葉を受けて「子供を産むと死んでしまう可能性があるのか」と思った由紀さんは、性に目覚めた15歳の時から「35歳になるまで男性と肉体関係を持たない」と決意したという。

由紀さんはデパート勤務であり、いわゆるデパガ(デパートガール)になった。職場は「女の園」であり、「カレシが迎えに来た」とか「また、別の男が迎えに来ている」とか「✕✕売り場の誰々と✕✕売り場の✕✕が不倫している」のような話は日常茶飯事であったが、そうであるが故に、由紀さんに音っ子がない事に誰かが気付く事も無かったという。そのまま、この由紀さんは大人処女になってゆく。

しかし、由紀さんには驚愕の秘密があった。実は22歳の時からSMクラブに出入りしていた。レディスコミックを入口にSMに興味を持ち、現在は休刊になっている『SMスナイパー』を買って衝撃を受けたという。その後、SMクラブに足が向かっていたという。

職業としてのM嬢ではなく、SMクラブに通うM女だと、縛られたり、吊るされたり、サディスティックな虐めに遭うが、無理矢理にヤラレる事はないのだという。また、由紀さんの場合はSMクラブで大勢の前で裸にされる事に対して、気持ち良さを感じるという。つまり、そういう快感もあるという事らしく、あの家田荘子にして由紀さんへのインタビューは「敗北したような気持ちになってきた」と記している。

30歳の頃、デパートの婦人雑貨売場を担当していると、熱心にお茶を誘いにくる中年の経営者があったという。シャイな男性であったが、その男性と月イチのデートを開始。徐々に頻度を増やしていったという。その後、同居を始めたものの、由紀さんは「35歳までは…」という決意があったので、鍵付きの部屋で同居するという状態になったという。

その男性との出会いから5年、同居生活から1年半後に、由紀さんは35歳の誕生日を迎えた。この男女は北海道旅行で、そのイベントを迎えた。

その彼は由紀さんの布団の中に「いい?」と言って入って来たという。その後の記憶は由紀さんにはあまりないという。痛いというだけの記憶だけで、記憶らしい記憶がボーンと飛んでしまったという。その妙に気長な彼は行為後に「ホントに処女だったんだ? ありがとう」と言って涙を流したという。

しかし、この不思議な由紀さんの話は暗転する。北海道旅行から戻って間もなく、彼は吐血して倒れたという。持病の肝硬変を悪化させたものだった。医者も由紀さんも、彼にアルコールを辞めるように厳しく言ったが、彼は開き直った。

「もういいじゃないか。楽しくやろうよ。楽しく飲ませてくれよ」

北海道旅行から約一年後、その彼は呆気なく死んでしまった。彼は46歳、由紀さんは36歳であった。

そしてインタビュー時点では、由紀さんは46歳になっている。つまり、その話からは10年が経過しているのだ。しかし、ずっと彼の事を引き摺っているという。思い出してしまうと涙が出てしまい、次なる男性は存在していないという。SMクラブについても封印したという。由紀さんは「恋をする気がしなくなって。未だに彼のお墓参りに行ったり、そんな事ばっかりしています」という。

家田氏が質問をぶつけている。

「肉体関係がなくても、信頼関係は築けるものなのか?」

「築けたと思っています」

と由紀さんは力強く答えたという。


まぁ、十人十色というか、色々な事情があるものですねぇ。しかし、本来的な性の在り方というのは、本人もしくは本人たちにしか理解できないものであるという風に考えて来たのだったと思う。勿論、その辺りの事についても触れられていますかねぇ。切り口も様々であろうし、解釈にも差異があると思う。とはいえ、曖昧さを持ちながらも、おそらく本人の中では一応は物語性らしきものがあり、自らの歩んだ道として理解されている風でもある。

何かしらの目的の為に存在していて、生まれてきたり、勝利する為に生まれてきているのか、ホントは、そこら辺の話は、人間性から乖離した薄気味の悪い生命倫理や、実は偏見の強い非人間的なセックス観になってきてしまっているような気がしないでもない。

国立社会保障・人口問題研究所は5年に1度程度の頻度で出生動向基本調査を行なっているという。2021年の調査では、以下のような数字が出ているらしい。

30〜34歳の未婚男性の38.9%、同女性の33.9%が「異性との交際の経験がない」と回答しているという。更に30〜34歳の未婚男性の37.2%、同女性の44.4%が「性交渉の経験がない」という。

山田太一脚本ドラマの「女ともだち」では、女は25歳までに結婚しなければならないという世の中の偏見と闘う三人娘を題材にしていた。また、同じく山田太一脚本「真夜中の匂い」では女性の性事情をドラマのモチーフとし、実は「翔んでる女」が持て囃されている中で原寸大のオトナの世界に戸惑う女子大生を題材にしていた。とはいえ、これらのドラマも家田荘子著『大人処女』も一気通貫していて、自由な人生というものを考えた場合に、どうなっていくかというテーマにもなっている。勿論、みんな揺れる思いの中である訳ですが、現在の世論は、かなり悪い方向にしか向かっていないようにしか感じませんかね。人間関係は金銭的に数値化され、結局のところ、人間的感情という部分では〈憎しみばっかり〉になっている気がする。
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あれれれ、前記事の「遺伝子改変の未来」の前半部分がごっそりと消えている。。。。。自分で消去した記憶はないんですけどねぇ。

何かミス操作なんてしたかなぁ。

もう、何でもアリになってしまっているんじゃないだろうね。
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