2016年08月31日

『コンビニ人間』の感想

第155回芥川賞受賞作となった村田沙耶香さんの『コンビニ人間』を読みました。文藝春秋の二段組のページ換算で70ページ超あって、最後まで読み終えるのに100分程度の時間を要しましたが、お手上げでした。降参だという読後感ですかね。過去にも嫌がらせに近い感じで芥川賞作品の感想を書いていた気がしますが、最も好奇心をそそられ、且つ、愉しめました。

ああ、選評の中で、「声を出して笑ってしまった。芥川選評をやっていて初めての経験だ」的な言葉がありましたが、それとは少し違うニュアンスですかね。単純に笑わせてくれたのは川上未映子さんの『乳と卵』があり、ひたすらに関西弁のおばちゃんの一人語り文章がオモシロいという反則ワザが仕込まれていた。また、ちょっとしたブームになった綿谷りささんの『蹴りたい背中』もユーモラスで論者によっては腹を抱えて笑ったという。しかし、この『コンビニ人間』の場合、そういう牴直个渓瓩任呂覆ぁ3里に声を出して笑ってしまう箇所があるという意味で、ユーモラスなのですが、私の場合は人間観察の鋭さ、考察の鋭さを感じた上に、社会風刺でもあり、最後の結末なんてのは鳥肌が立つようなホラーだとまで感じました。つまり、総合的に面白かったという印象ですかねぇ。

選評に目を通した感じだと、村上龍さんぐらいしか、そのコンビニ人間の社会風刺部分のリアリティーに触れていないので、やはり、読み手によって、受け止め方に差異があるなとも感じてしまいました。或る意味では現実を描いているという部分があって、その異常な主人公である「古倉さん」は、「実はどこにでもいる可能性がある」という社会風刺評をされていたのが村上龍さんだけであったのが気になりましたかね。その風刺の部分が軽んじられている。この底辺、底辺と底辺に括られてしまう人たちの感覚というのは、最早、そこそこ現実だよな、とね。

とゆーのも、突き詰めたとき、ヒトは誰しもが何某かの役割を演じているだけだというのは真であろうし、世間体を取り繕って生きているというのも現実だからねぇ。この部分は今ではサイコホラーのような効果があると思う。あれこれと外世界から干渉される事を忌避する感覚というのは、誰しもに在ると思う。随分、昔の話になってしまうけど宇多田ヒカルさんが「子供はまだなの?」という具合に尋ねられる事に対しての不満を口にして、インターネット上でトピックスになっていたのを記憶している。社会というのは、そういうものであり、ヘタをしたら善かれと思って、そんな風に声を掛けてくるワケですが、それを尋ねられる方は、実は、いちいち面倒くさいと感じ、更には土足で内部に立ち入ってくるような行為は辞めて欲しいと感じているワケですよね。

コメディ映画『40歳の童貞男』でも同じ描写があったかな。40歳で童貞という設定のアンディという主人公は職場の仲間たちにバレないようにビクビクしており、しかも、その怯え方はユーモラスでありながら本人にとっては深刻であり、その手の話題にならないように振る舞う。コメディはコメディなのだけれども主人公的にはサイコホラーでもある。

ああ、【便所飯】の方が好例かな。何年前でしたっけ、クローズアップされたのは…。孤独である姿をみせたくないから、便所に籠もって食事をするという。「便所で食事をする」というアンバランスな感覚を多くの人が理解できないから衝撃的であったワケですが、裏返せば、孤独である事がバレてしまうことの恐怖、孤立している事そのものの恐怖が、その者を便所でメシを食うように仕向けているのでしょう。見栄といえば見栄なのか、それとも異物と認定されることが絶望を意味しているのか、そんな事の裏返しであったのかも。何故か当時の若年世代の中から、「空気を読め」とか「KY」というフレーズが乱発されるという奇妙な時代に突入したのだったかも。

そして、それらは厳密に言うと、特異ではないんですよね。誰が真実の自分を自分として証明できるのかというと、忽ちのうちに困ってしまう。ホントは何某かの仮面を被ったり、衣裳をまとったりして、その役柄としての自分を演じている。この感覚に気付いていない人は健全であるが、それでいて真理には疎いと思う。「自分は自分に決まっている。疑いの割り込み余地はない」という言葉が通用する人間か、それが通用しない人間かの差異がある。

思惟する自分は自分だけのオリジナルかというと、そうではなく、他の誰かの模倣だったり、書籍などから得た知識で構成されている自己であり、純粋なオリジナル製品としての自己を認識できないんですよね。で、これが実は『コンビニ人間』の作品中に投影されている。主人公の古倉さんはナントカ障害が当て嵌まりそうな異質の人であり、誰かの口調を真似する事で人間として認識され、安堵している。口調も真似ならファッションも真似する。恋愛をした経験がないとバレてしまうと、アレコレと詮索された上に、異物であると認識されてしまう事を恐れているから、適当に居心地が良くなるように世間体を取り繕って生きている、そういう人物。ですが、これはホントは誰しもが共通していると思う。

誰にも影響されていない完全にオリジナルな自分の意見を語れるかというと、実は語れない。知識にしても体験から得たものにしても自分以外の何かに影響を受けている上に、しかも狭いコミュニティ内で感化し、感化されるという相互性の小さな社会の中で、自己というものをつくっている。作品中に、誰の口調が誰に移るという描写がありますが、きっと、その話であろうなと思いながら読み進めました。

登場人物が壊れている。主人公の30代女性「古倉さん」も壊れているが、その古倉と絡むダメ人間「白羽」の壊れ方もヤバい。白羽の壊れ方は、どこか脚色した壊れ方でもあるけど、古倉さんの壊れ方は、ちょっと考えさせられてしまいました。「古倉さん」は察するにナントカ障害という表現が似合う。発達障害は成長すると解消されるという風に定義されているから、それが使用できないんですが、ああした類いのナントカ障害。フツウの感覚が理解できないので、フツウの人に成りすまそうと、それなりに努力して生きている。一方の白羽は、いわゆるニートで、働かない割には口だけ達者というキャラクター。しかし、両者には異物として常識から疎外されるという不安を抱えているという点で共通している。

村上龍さんが「この十年、現代をこれほどまで描いた受賞作はない」と評していますが、まさしく、そこですかねぇ。全く同じ感想でした。一見すると滑稽な話なんですが、色々と凄い。そもそもからして、コンビニ店員は底辺なのかという問題がありますが、底辺であるという世間評があり、主人公は脳機能障害と思われる感覚を有しているのですが、自らを異物であると感じているが底辺であるという自覚は無い。しかし、世間評としてコンビニのアルバイトである自分を「このままでは社会の御荷物であるらしいから、転職しなくてはならない」という具合に陥れられてゆく、その物悲しさが漂っている。

常識を押し付けられ、その常識から外れた異端者(異物)は社会から排除されるという現代風刺が根底に転がっている。その上での、エキセントリックな現代人の、可笑しくも、どこか物悲しく、更に狂っているのは社会なのか、登場人物の方なのか――という問い掛けを読み取れる。

そもそも一生懸命に働いている店員に善悪があるだろうか。アルバイトは恥ずかしいのだろうか。或いはコンビニ店長に向かって、「コンビニ店長ふぜいが!」という具合に侮蔑的ニュアンスを吐き出すシーンも綴られていましたが、そういうコンビニ観。また、一方では、そのコンビニの店員間での、「あいつこそ人間のクズじゃないか」のような、そうしたシニカルなコンビニの眺め方になっている。確かに生身の人間を勝手にカテゴライズし、階級化し、理解することもなく、勝手に好きな解釈をして語りたがる昨今の現代社会を描いているよなって思う。

ここまででも充分に感心できましたが、更に空虚感がある。主人公の女性はコンビニ人間であるが故に18年間にわたってアルバイトを務め続け、しかも男性との交際経験もない。周囲がアレコレと心配するので、周囲を安心させる為にアルバイトを辞めることにする。で、アルバイトを辞めた後の描写があるんですが、自分がコンビニという装置の一つの部品であったかのような、そういう感慨を吐露するんですね。「心にぽっかりと穴が開いたようだ」という具合に表現されてきた、その喪失感のようなものなのですが、そうした表現を使用せずに、部品であったかのように語る。コンビニ店員という仮面を外してしまったら、自分の居場所がなくなったかのような、そういう空虚さをも描いている。自分がバイトや辞めたら絶対にコンビニは回らなくなるだろうぐらいの自負はあるが、実際に辞めることができてしまうという事は、きっと、自分は部品に過ぎないのだろう的な。


あー。色々と書き散らかってしまったから、その「すごい現代風刺だな」と感じたポイントについて、今一度、箇条書きにしてみると以下のような感じかなぁ。

1.「役割」を演じているだけである。

2.自己はない。基本的に模倣であり、感化されているだけである。

3.「役割」を演じているのは周囲に合わせる為である。

4.演技がバレてはならない。周囲に異物である事を見破られてならない。

5.異物であることを見破られてしまうと排除される。

6.社会が異物を理解することはない。

7.社会は異物に対しての解釈を自分の都合で好きなように解釈する。

8.みんな部品に過ぎない。部品は交換される。自分も交換される。

9.一生、隠れて暮らしたい。

10.自分のような人間は遺伝子を残してはいけない。

かな。

選評欄は文字数が限られている為なのか、それらに余り触れられいなかったのですが、よく切り取ってあるなって感心したのは、そういう部分でした。高次なんたら障害であろう主人公というフィルターを通して、現代社会の中で自己を肯定することの難しさ――が描かれている。

(こう述べているが実際には選評欄を読む限りでは、そうした細かな部分までは選評者は理解していないような気もする。選評者は、高所から評しているのが基本スタンスで、文芸批評のようなものって、「彼の、これについての批評は凄いぞ」という批評家の批評と少し違う。先日の香山リカさんの著書に触れたのと同じで、おそらくは相対主義が厳格なレベルで、まだ浸透しておらず、なんでもかんで【センス】に還元してしまう曖昧な基準の高所から評されてしまっている感は否めないよな――がホンネですかね。受賞から漏れた作品の作品評に、その断片を読み取れる。この『コンビニ人間』の可笑し味は、「マイナビウーマン」的な価値感を疑わない者も或る種、底辺に生きる人たちへの「見下し」によってユーモアを感じ取れそうでなんですが、そちらのドライなユーモアではなく、「マイナビウーマン」的な極めてチープな現代的な価値感の危うさを理解した上での牴直个渓瓩任△蝓⊆造鷲刺が全体に行き届いた全体評で語るべきだと思いました。)


で、オチなんですが、読み進めていて、私が抱いたのが

「あれ? まだ続きがあるのか。きっと蛇足だろうな…。ここでスパンと小説が終わった方が読後感がいいのに、作り手というのは、そういうのが理解できないんだろうなぁ。わざわざ付け足して説明がましくしてしまうのが、今どきの作風らしいからな」

という感慨だったのですが、完全に裏切られました。予想を裏切られたんですね。こういう結末なのか。或る意味、サイコホラーのような幕切れでしたが、それが尚更に余韻を残す。

2016年08月30日

あまりにも不都合なはなし

橘玲著『言ってはいけない』(新潮新書)を読んでいる最中ですが、色々な事を考える材料になる。遺伝と脳という側面から解剖してしまう、人間の全般のはなしであり、あれは行動心理学から脳科学、利己的遺伝子論、それと禁断の統計で語ってしまう、不都合なはなし。著書のサブタイトルは「残酷な真実」と銘打たれいますが、ホントは私もそう思っている。考えてみたら竹内久美子信者なのだから、当然といえば当然なんですけどね。ただ、こういう話はタイトルの通りで「言ってはいけない」という制約がかかっている。

どの例を挙げるべきかも迷ってしまう。優れたリーダーとは、その顔貌で決定している可能性があり、そのリーダーに相応しい顔貌を選択しているのは、実は我々自身であるという、話が一つ。

これは、テストステロンのレベルが高そうな顔、つまり、攻撃力の高そうな顔を無意識に我々が選択し、リーダーに据えている可能性があるという話。強いリーダーの庇護下にある事が自らの生存競争に有利に働くから、実は、優れたリーダーの顔というものを我々は無意識に認識しているのではないかという仮説で、確かに成功企業の経営者の顔写真を見せて、「誰が優秀な経営者であると思うか」のような質問をすると、被験者は無意識に的中させるらしいんですね。勿論、顔貌以外にも声や話し方という要素も加わるのですが、30秒間も映像を見せると、誰にリーダーシップがあるのかを、そこそこの精度で当てることが出来てしまうという、お話。これの不都合な部分というのは、顔貌や声、話し方といったものだけで、リーダーシップの有無が決定してしまっている可能性があるという部分でしょうか。

面長の顔は力強さに欠けられるらしく、実は顔の横幅が広い攻撃的な人物の顔がリーダーに相応しいと認識されているという。そして、その顔の幅が広いという事は、テストステロンのレベルが高い事と相関関係が疑われており、つまり、努力して得た知識などとは無関係に、かなり生得的な意味合いの遺伝子によって、その者の一生が決定しまっているのではないかという話。仮に、その人が優れた能力を有していても、面長の顔であった場合、部下たちがリーダーに相応しいと認識してくれないので、やはり、社会で、そのリーダーシップが成功する可能性は低い。一方、幅の広い顔の場合は、その者の持つ能力以上に外部から「彼こそがリーダーに相応しい」と選択してもらっている事によって、より、効率的に、そのリーダーシップを発揮し、他の企業との競争に対しても攻撃性と冷徹さを発揮できる――という。

容姿といえば、美醜の不公平がありますが、それも勿論、述べられている。美貌を5段階で評価し、平均を3とした場合、4と5の「容姿として優れている」という評価を得た女性は、平凡な容姿の女性に対して8%ほど収入が多い事が判明したという。つまり、実際に美人であることは経済活動として有利に働いているという事が考えられる。更に、平均を3とした場合の2と1、つまり美貌の評価が低かった女性群、つまり不美人は、平均よりも4%ほど収入が低かったという。この8%プレミアムを持つ層と、4%のハンデを持つ層が同じ社会で生きているワケです。単純に数値化した場合、生涯賃金ベースで美人と不美人との間には約5000万円に相当する有利、不利があるという。

しかし、この美醜の話は、男性でこそ、より顕著な結果となった。同様の手法で美貌を5段階評価にして収入の統計を取ったところ、意外な事実が明らかになったと言う。美形男性は平均よりも4%多い。ここは問題がないんですが、不細工な男性群は平均よりも13%も収入が少ないという調査結果が得られたという。なかなかに衝撃的ですね。

不細工な女性以上に不細工な男性にハンデが負荷されている統計結果になったが、それは男女による就業比率の差であろうという意見が付されている。つまり、不細工な女性群は、同じ仕事をしても評価は抑えられてしまう不公平があることを知っているので、自ずと就業率が低くなり、故に4%ほどのマイナス効果という統計になったものという。また、不細工な男性の負ったマイナスが大き過ぎることについては、その不細工な顔の奥底に潜んでいる暴力性を嗅ぎ取られたのではないかとしている。

しかし、ホント、この美醜に係るはなしなんてのは、残酷な真実ってのがあるのかもね。社会的評価というのは外的評価によって決定するものだから、世俗的な価値感の何かなんですね。「オレには社会的ステイタスがあるのだ!」と自分で宣言しても間抜けだと評価されるだけなのであり、周囲から「彼は社会的ステイタスが高い」と認識されなければ、そのステイタスは確立しない。先の、リーダーに相応しい顔か否かという話と関係していて、多分に社会での成功には、生得的な何かが深く関わっているのではないかという話ですね。しかも、そこには顔貌、体型、声、話し方などが影響していると考えられる。実は、我々が美徳として捉えている「努力」のような概念は、あんまり関係ないかも知れない。※

それこそ、先のリオ・オリンピックが開催され、そのテレビ中継に対しての熱狂がありましたよね。あれは先天的な天賦の才を有したアスリートたちの祭典であると言える。ここに引っ掛かるのが人間でもある。天才をみて、その天才に歓喜をしているとは考えたくないから、一部の人は、次のように展開させる。「アスリートたちが先天的な素質を持っていた事は確かだけれど、努力が無ければメダルは獲得できない」と。それも正論なのですが視点として、そこに努力の痕跡を見い出したいという態度の表出でもあると思う。オリンピック中継を視て感動したと言っている人たちや、その報じ方を観察すれば一目瞭然で、マスコミは必死に感動秘話を演出しようと躍起になっているし、視聴者も、それら苦難の道のりの果ての挑戦であり、その挑戦の果てに獲得したメダルだからこそ感動している。つまり、ドラマ仕立てなものとして解釈し、感動している事に気付かされる。

ゆずの歌う「栄光への架け橋」の歌詞に、それが読み取れると思う。「誰にも見せない涙があった、人知れず流した涙があった」と歌い、「悔しくて眠れなかった夜があった」と歌い、「悲しみや苦しみの先に、それぞれの光があった」と歌う。結局は、そういうドラマとして、ああした感動シーンを捉えているのは否定できないんですよね。それこそ、最近のテレビ実況は感動を演出せんと演出過剰になっており、むしろ、シラケさせてしまうほどの実況になっている気がしないでもない。

しかし、現実に戻ってしまうと、一般的な人たちとは殆んど無縁であろう狡境瓩里弔「スポーツエリート」と呼ばれる人たちの物語であり、別世界に住む人たちの物語でもある。平凡な身体能力の者が努力に努力を重ねたとしても、あのレベルには到達するのは不可能に近い。しかし、それでも一縷の夢をみたいから、あれらスポーツエリートにしても同じ人間であるという風に眺めて、努力の成果を見い出そうとしているのではないか。「天才とは1%の才能と99%の努力だ」に惹かれる人が多いのだと思う。だけど、現実として語れば、そんな次元ではないだろうというのもホントなんでしょうしねぇ。

背の高いか低いかという問題について、日常会話で遺伝の影響である事を語ることが許されている。運動能力の高低についても遺伝の影響を語る事は認められている。しかし、より多くの資質が遺伝と関係している事を語ることは躊躇(ためら)われる。当然、学習に対しての得手不得手という資質も遺伝と関係しているが、それをリベラル思想の体系は語る事を許さない。「ヘッドスタート」というリベラル思想が軸にしている概念があり、つまり、赤ちゃんは誰しもがマッサラな白紙状態からスタートしているとする考え方があり、個々の努力を測る指標、その尺度を変えられないので、それについては口を噤むことになるという。機会の平等という風に軟着陸させててしまうが、実はそもそもからして、その競争は平等ではないという不都合な真実があるという。

(生得的な資質はそもそもからして均等ではないという不都合な事実ですね。思うに、そこから個に対しての適性を適性として評価するだけの多様性を以って共生できる社会モデルに移行すべしと展開させれば問題はないのですが、そうなるとは限らない。有能は有能、無能は無能という尺度として優生学的に展開されてしまう深刻なリスクを孕んでいる。)



※努力が結実するとは限らないという部分に重点を置きましたが、実は、容姿や話し方などのいわゆる外見、それも遺伝子由来の外見が左右するという話です。狹慘廊瓩汎韻犬茲Δ豊狎深造記瓩癲⊆造鰐鬚卜たないのだそうな。というのは、誠実さの場合、不誠実な人間でも誠実そうに振る舞うことが出来てしまうらしいんですね。とゆーわけで、「彼は誠実そうである」という類いの証言はアテにならない。努力も誠実も役立たずなのではないかという話。

ussyassya at 11:49|この記事のURLComments(4)TrackBack(0)雑記 

英EU離脱劇と欧州委員会

週刊新潮9月1日号の特別読物は、非常に面白い記事でした。

「英国の巨匠2人に尋ねる『EU離脱は衆愚の選択』だったのか?」

という企画で、登場したのは私も名前を知っていたフレデリック・フォーサイスと、もう一人は元デイリー・メール紙の外務部長を経て小説やノンフィクションを書く作家となったというブライアン・フリーマントル。

(フレデリック・フォーサイスの方はロイター通信、BBC放送を経て作家へ。昨年、MI6(英国秘密情報部)と協力関係にあった事を公表したという。)

共にイギリス人であるワケですが、フレデリック・フォーサイスは「欺瞞に満ちた支配から国を取り戻せ」であり、一方のブライアン・フリーマントルは「EUは10年以内に内部崩壊する」と、いずれもブレグジット(英国離脱)を支持している。

イギリスのEU離脱に関しては、既にウンザリするほどの文字数を費やしてきたので、さほど、記事に期待は無かったのですが、意外な盲点が指摘されており、興味深かったですかね。実は両名ともに、同じ問題を指摘し、同じ相手を敵視していました。敵視している対称は――、欧州委員会でした。ひょっとしたら浜矩子さんあたりが触れていたのんだったかなと思い、文藝春秋の過去号に目を通してみたものの、やはり、「欧州委員会」という名称は挙げられていませんでした。とはいえ、欧州石炭鉄鋼共同体がEUの母体になっているという解説は数年前にしていたし、池上彰さんも、ブレグジット後でしたが、丁寧に欧州石炭鉄鋼共同体から欧州統合の流れから現在に到っている事を説明されていたかな。

欧州委員会とは何かという解説は少なく、意外にも事典系では見当たらず、広辞苑にありました。「EUの行政機関。各加盟国から1名の委員が任命される」という旨の、ごくごく短い説明でした。それは、そうなんだけど、これが盲点に感じました。というのは、英国の巨匠2名が揃って、「欧州委員会は何ら民主的手続きに拠って構成されているものではないのに、実質的にEUを動かしているエリート官僚主義の巣窟に過ぎない」という見解なので驚きました。

フレデリック・フォーサイスの方を先ず引用。

(欧州統合の幻想はジャン・モネというフランス人に端を発するとした文節につづけて)
二度と人民に権力を委ねてはならない。民主制はあまりにも危険すぎる。

モネが考え出した体制は、教育と見識を備えたエリート――すなわちモネ自身やその同僚たちによる統治を必要とした。〜略〜

EUにおける最高統治機関は、ブリュッセルに本部を置く欧州委員会である。28の加盟国からそれぞれ一人ずつ任命された委員によって構成される。私のように反対する者たちは、民主制では最高権力機関は必ず選挙で選ばなくてはならないと考える。そうして選出された政治は、さまざまな役職で、さまざまな役割を果たさせようと、例えば軍指揮官や警察署長、行政官、公務員、銀行家などに非選出の人間を任命するかもしれない。彼らは人民に仕えるよおうに任じられるが、最終的には選挙で選ばれた政府に従う。だが、ブリュッセルの欧州委員会は、各国政府の上位にあるにもかかわらず、選挙で選出されていない。これは民主主義ではありえないことだ。

ところが、モネはそこからさきに踏み込んだ。自らのユートピア的ビジョンの中で、民衆がすんなり主権を手放さないことに気づいたのだ。そこで非公式にこんなことを書いた。

「欧州各国は、その国民に実情を知らせることなく、欧州合衆国へと導かねばならない。これは経済的な目的を装いながら、最終的、不可逆的に連邦へと誘導することで段階的に達成できる」

要するに、我々国民を説得することができないなら、騙せばいいということだ。欺瞞による統治である。


少しだけ補足すると、その経済的な目的を装いながら欧州統合を進めるという部分は、EECからECへと転身し、更にEUへと組織改編が為されているが、その中核にあるのは常に欧州委員会であり、その欧州委員会は各国から1名づつの委員を出し合ってはいるが、そこに民主的な手続きは存在していないの意。それでいて民主主義的な手続きを経て生まれたEU加盟国代表の上部組織として欧州委員会が存在するという構図を説明している。その上で、「欧州委員会とは、エリート官僚らによる巨大な官僚主義の産物である」とする。

ああ、知っているつもりになっていたという典型の気分を味わわれました。フレデリック・フォーサイスの記事を読んで意味が理解できました。なるほど、「欺瞞に満ちた支配から国を取り戻せ!」とイギリス人が考えるのも分かる気がしてくる。実は丁寧に、「人民の、人民による、人民の為の」というフレーズが冒頭で記されており、アカラサマに「支配されている」という意識が英国の知識人層の深部にあった様子がうかがえる。

で、その欧州委員会というものに対しての犖立て瓩蓮▲屮薀ぅ▲鵝Ε侫蝓璽泪鵐肇襪砲盒δ未靴討り、イギリスが先の国民投票で戦った相手とは、実は牴そ0儖会瓩任△辰燭蕕靴ぁ

現在、欧州委員会がイギリス政府との間で離脱を巡る交渉責任者になっているのは、元フランス外相のミシェル・バルニエであるが、元々、バルニエは「欧州市場とロンドン市場は共存しえない」と発言した事のある人物で、しかもバルニエは欧州の銀行、市場、保険関連の法規を書き換える40もの提言をした人物であるという。

(数年前にもTPPに於けるSDI条項でも注目を集めた話ですが、原則として爛襦璽襪鯱れる立場にあると、その者は利益を誘導できる瓩箸いΕラクリがあるワケです。政治家が政治家自身を規制しないように、「ルールをつくりましょう」という話し合いを持ち掛けた場合、その実務を掌握してしまう側の者は必ず損をしないという法則がある。パチンコ店のような胴元の側が損をしない原理に似ているかな。玉を出すも出さぬもコントロールできるのだから、パチンコ店側が客との勝負では必ず勝利できるようになっている。気前よく玉を出し過ぎて潰れるという事は起こり得ない。)

また、附随してフレデリック・フォーサイスの話になりますが、「欧州委員会は英国政府の意向を抑え込める。欧州司法裁判所は英国最高裁判所の決定を覆せるが、その逆のことは決して起こらない」と記して居る。

更に、残留派の打った戦略の二枚舌にも言及している。離脱派が怪しげな言説を繰り出して勝利したように言われているが、そもそも残留派のデイビッド・キャメロン(前)首相が「首相の座をかけて国民投票に踏み切った」という態度からして非論理的であり、更に、キャメロン率いる政府は「プロジェクト・フィアー」と呼ばれる恐怖をかきたてる宣伝戦略を公式に立てていた事を挙げている。つまり、毎日のように「離脱すれば破局する」を繰り返していたし、とりわけ馬鹿げていた事として、「離脱すると世界大戦が起こる」とまでキャメロンは仄めかすなどしていたという。(両成敗的に、ボリス・ジョンソン前ロンドン市長が「(オバマには)ケニア人の血が入っている」と差別的な発言をし、尚且つ、謝罪を拒否したことにも触れている。)

そして、EUは10年以内に内部崩壊するという話に到る。IMFの御目付役をしている独立評価機関のレポートでは、「ブレグジットから2年後には、英国の経済成長はドイツやフランスを上回るだろう」と早々に予測されていると指摘する。

日本国内でも、EUを離脱したイギリスからは次から次へと企業が逃げ出してゆくという狠Ρ册欧瓩魑鵑欧董▲ぅリス経済は破綻へ向かうという言説が流行しましたが、完全に逆の結果に向かっているし、どうも、かなり早い時点で、脱英入欧は深刻化しないという見解が存在していたよう。(浜矩子さんや藤原正彦さんは7月の時点で指摘していた通りの方向性へ。)

実際に、具体的も上げられている。製薬会社大手のアストラゼネカは430億円かけてケンブリッジに世界的規模の研究所を建設中である上に、グラクソ・スミスクラインも英国内の製造工場に350億円を新たに投資すると発表している。

更に、新たに英首相になったテレサ・メイは高い支持率に支えられている現状があり、しかもテレサ・メイは「急いで離脱手続きをすることはない」、「英国とEUの双方に等しく有益とは言えない取り決めを行うつもりもない」と明言しており、欧州委員会が離脱をしたイギリスに対して制裁的な態度を採らんとしていること、それに屈さない態度になっている英国政府についても述べている。

ほんの数行ですが、ブライアン・フリーマントルも引用します。

既に、フランスでも脱退賛成が60%を超えている調査結果が出た。ドイツ、イタリア、スペインでも反EUのうねりが、選挙における極右政党の躍進によって高まっている。

確かに、どう考えてもEUは崩壊に向かって入るように思える。これにスコットランドがイギリスから独立してEUに参加すると本気で考えて国際情勢を分析し、

「こんなものは衆愚政治だ!」

と怒ったりしていた評論家が日本マスコミの大勢であったという事実は念を押しておかないとダメかも。専門家という肩書きであっても、緻密さを欠く分析だったのは明らかになってきたみたいだし。

まとめですが、欧州委員会による束縛、それに対しての反発こそが離脱の原動力であったというニュアンスですかねぇ。両名が共に「欧州委員会」という名称を挙げていたのも特徴的と感じました。思いの外、欧州委員会に対しての不信が潜んでいたかのようで。

2016年08月29日

私心は無けれども。

日本映画専門チャンネルにて倉本聰劇場にて「遠い絵本」の第一部と第二部を視聴。これは、東芝日曜劇場作品で、池部良と八千草薫が主演している作品で、八千草薫さんの若い容姿からすると、そこそこの年代物のドラマのような雰囲気。特に視聴する気はなかったのですが、思うところがあって視聴することになりました。

多分、一通りの放送も終わったと思うので、適度にネタバレします。輪郭としては、戦前、池部演じるシロウと、八千草演じるサエコとは交際をしていたが後に破局。25年とか30年ぶりぐらいに偶然にアンカレッジで再会することになる。サエコはアラスカはアンカレッジ空港の免税店で働いていたという設定であり、シロウに猊垰弋弔米本人瓩箸いΩ斥佞鯏蠅欧ける。

「日本人は小さな世界しか見えていないのよ。上司と部下とが居るでしょ? すると日本人の部下は上司の為であれば他の客を押し退けたりして買い物をするの。一人だと大人しいのに上司の為だとなると必死になって、広い世界が見えなくなってしまうのよって、免税店の店員たち同士で話しているわ。日本人は不思議な生き物だって」

あれ、鋭いセリフだなと思ってしまったので、視聴を続ける事にしました。どうやらドラマの構成としても、その猊垰弋弔米本人瓩箸いΕーワードが中心に置かれており、幾度となく、「不思議な日本人」というフレーズが繰り返される、中々、渋いドラマでした。

いやいや、その考察が鋭いというか的確だなって直感しました。ドラマの中の台詞なのにね。確かに日本人は礼儀正しいというイメージがあるし、親切なイメージもあると思うんですが、それでも何か間が抜けているのは、まさしく、そういう思考回路にあるのではないか。自分の為に他の客を押し退けるという不作法は働かないのかも知れませんが、これが一たび、自分の帰属している組織の為であるとか、上司の為であるとか、そうした大義のようなものを背負ったとき、不作法になる。しかも、それは自分自身の為ではなく、上司の為であったりするワケですよね。或る意味では、非常に日本人気質を言い得ているよな、とね。

私自身にも当て嵌まるかなぁ…。自分自身の何かを通す為にがつがつとした行動をとることは少ないと思うんですが、これが一たび、仕事の為であるとか、そうした理由というか大義というか、そうしたものがある場合、そこに責任感を感じてしまう事もあって、ついつい、気が大きくなる。少しぐらいの時間なら路上駐車してもいいだろ的な、そういうレベルですが、そういう気持ちになるのは、実は個人の用事を果たす場合ではないかも。

また、山田太一脚本の「あめりか物語」というドラマにも少し触れましたが、或る意味では鋭く、その日本人の国際感覚を描いていました。戦前の日系移民は日本人である事で差別を受けた。それが第一話から第三話ぐらいまで続き、最後の第四話になると、二世、三世の時代になっているという時間軸のドラマでした。そして、二世、三世の時代となると、黒人と結婚する事に日系人たちが反対するという、これまた渋いドラマでしたかね。アメリカ社会に於いて差別をされる事の苦労を知っているからこそ、未だに残っている差別感情を考慮して黒人男性との結婚を躊躇うヒロインがあり、その周辺の人々も黒人男性と結婚すれば苦労することになるのが目に見えているじゃないかとヒロインに対して忠告する。地味な展開ながら、差別問題の深部を抉っているよな、とね。

しかも、その「日本人は小さな世界しか見ていない」という表現は強烈でもある。個人は大きな世界とは向き合わないで済むという事であり、その「小さな世界」の為であれば日本人は厳しく組織の為に尽くすという事を含んでの表現なんですよね。中村元著『日本人の思惟方法』で言うところの狷臭瓩箸いζ本にだけ存在するという漢字の話との関係性を疑うことができるし、ひょっとしたら「統合する象徴」という意味の天皇制にも関係しているかも知れず、また、その片鱗は現在進行形である可能性がある。アメリカの意向に従順である事が成功の秘訣であり、自国の歩みを無視して平気でフランスが発信するトレンドこそが流行の最先端であると解釈して飛び乗ってしまう。

二・二六事件に於ける青年将校らを斟酌するように昭和天皇に上奏された問答もそれだったのかな。青年将校たちは国を憂いての行ないなので斟酌するようにと上奏したが、昭和天皇は「それは私心がないというだけの話ではないのか?(朕の股肱の老臣が襲撃されたというのに)」と返しましたが、あれに構図が似ている。

古いドラマの中で耳にした「不思議な日本人」という響きに、そんなものを感じました。ドラマの中でも、池部良演じる初老の男は激しく動揺する。有名商社で企業戦士として自分自身の幸福というものを顧みることはなかったが、愈々、窓際族へと追いやられた我が身に当て嵌める。窓際族に追いやられても猶、企業戦士であり続けることしか能のない我が身を憂う。

しかし、初老男にも言い分はあった。戦争に行ったのは、八千草演じる当時の恋人から「意気地なし」と言われ、その言葉に背中を押されて戦争に行ったというのが、池部演じる企業戦士が背負ってきた人生の分岐点だったのだ。不思議な日本人である事に気付き、それを修正しようとしても、既に、その男には「不思議な日本人」というものが染み着いてしまっていて、どうにも出来ない。

そんな粗筋でしたが、この問題が「公共モラル」にも当て嵌まるかも知れませんよね。日本人は、どの方角を向いてモラルをモラルとしているのか。ドラマで提示された空間は免税店という空間でしたが、その空間全体を見渡す視野からのモラルではない。自分が従事している組織、更に具体的には自分の上司しか眼中にないという種類のモラルだったという事になる。それが公共な空間に於ける規範意識の高さとは、少し異なる種類の規範意識の高さなのではないかなんて事を考えさせられましたかね。

確かに、個人に依拠する私心が希薄なのでしょう。他者を押し退ける事とて自分の為ではないのだから私心がないという意味に於いては美徳でしょう。しかし、広く共有する空間に於けるマナーとかモラルに置き換えた場合、日本人の行動様式は確かに奇異なのかも知れませんやね。しかし、同時に私心が希薄であるが故に、自分自身の幸福にも無頓着なのかも知れませんやね。しかし、それは責任、無責任とも関係しているかも知れない。


――まぁ、相対的な眺め方ではあるけれど。



ussyassya at 11:18|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)雑記 

2016年08月28日

トッドの語るEU離脱劇

文藝春秋9月号にはエマニュエル・トッドが登場、『EU崩壊で始まる「新世界秩序」』と題した記事がありました。このブログ的には、「ほらね」という話でもあり、且つ、主流派は明らかに世界情勢を読めていなかったという事に対して更に、その傷口にカラシを上塗り付けてしまう、意地悪なニュアンスでもある。

しかし、ホントに変なんですよ。ここのところ、テレビやテレビに出演するコメンテーター氏や学者たちの失態が続いていると心底から思うもの。

「アイム・シャルリー」、どうでした? フランスでデモする人々と一緒になって戦う姿勢を示す態度になることが正しかっただろうか? 週刊誌では「結局、フランスは、その後もテロ行為に見舞われている」とサラリと触れていたりするレベルですが、どうでしょう。その後もフランスは世俗主義でイスラム教徒にフランスの伝統に従がうことを強いていますが、あれで解決の出口に向かっているだろうか。ホントは、あの方向性が正しいと思うかというと、全く、思わない。

それと、トランプ旋風とサンダース旋風の読み間違えの問題があったと思う。不満が起きているから、ああした騒動になっているのに、かなりの長期間に渡って、ヘンテコな解説が為されていましたよね。ミドルアメリカの落ちこぼれた白人どもがデタラメな事をやっているようだが、どうせ泡沫候補に過ぎないとか、若い学生たちが社会主義者を担ぎ出したと解説していたものの、それは並行してウォール街的な自由主義への行き詰まりを示していたという見解が登場するまでには半年や一年以上の歳月が必要だったワケで。

更に、EUを巡る問題は特に日本は苦手なようで、ギリシャ問題とイタリアの問題でもヘンテコな解説が主流で既存の秩序の中で財政タカ派、その幸福論なき経済論者である事が悉く、露見してしまったと思う。EU盲信というか、グローバル盲信というか、財政に忠実というか、つまり、既存体系の大きな組織に盲従することが正しいという思考回路。ギリシャを貶し、イタリアを貶し、そんな事をしてドイツに罰せられても知らないぞ的な嘲り方をするんですよね、日本人って。ああ、ミヤネ屋さんあたりで視ましたよ。あれです、あれ。アレが良識派のように見えていて、実はハズレまくる。

で、その最たるものが、イギリスのEU離脱劇だったと思う。思い出して欲しいんですね。あの際、テレビの中の住人は、自分の思い通りにならなかったから、「感情が理性に勝利した」とか「衆愚政治だ」とか、「リーマンショックの再来だ」とか、「この後、イギリス経済は大変なことになる」とか、「後でイギリスは吠え面をかくことになる」とか、「既に離脱を選択した愚か者たちは後悔している」、「そんな重要な事柄を国民投票で決めることが間違っている。国民投票をやり直すべきだ」等、さんざんぱらイギリスを貶し、離脱派を貶していたんですよね。

しかし、ホントの事を言えば、EUなんてものは、そもそも泥船ではなかったのか?

まぁ、実は、その震源地は、エマニュエル・トッド氏でしょうかねぇ。「アイム・シャルリー」のプラカードを持つ人たちがいきり立っていた最中でも、フランス人でありながら、「現在は感情的になっている状態だ」と冷静に指摘されていたのですが、確かに、なんで、日本人までもが「アイム・シャルリー」デモに乗ろうとしたのか理解に苦しむところがありましたかね。

(忘れた事にするという態度は許しませんぜ。番外編として「アイム・ケンジ」とツイートするのが流行し、場外乱闘としてはテレビの中で「アイム・ノット・アベ」というフリップを出した人もあったという蛇足も…)

冷静さを欠き、感情で国際情勢を語ってしまってきて、反省もしてないというのが、なんともコワいところですが、これが現在の日本の有識者というもののクオリティなのかも…。

さて、引用します。

欧州を一つに束ねようとするEUの試みは、いまや失敗であることが明らかです。ところが、誰もそれに対して「ノー」だと立ち上がろうとしない。宿命的で仕方ないものだという諦めに近い雰囲気があります。なぜなら、フランスもスペインもイタリアも、現在は自国に対する誇りを十分に持っていないからです。

一方、イギリスは「ドイツに支配されているヨーロッパ」に対して立ち上がったのです。イギリス人自身は、この事実に必ずしも自覚的ではないかも知れません。イギリス人は、自分たちのナショナル・アイデンティティに疑いを抱いていません。その点、日本人のアイデンティティ意識に通じるものがあります。日本人にとっては、自分たちが「日本人であること」は自明でしょう。ただ、その感覚は大陸のヨーロッパ諸国では必ずしも一般的とは言えないのです。また、イギリスは日本と同じように島国であり、独立にこだわっています。

イギリスがEUを離脱した第一の動機は、移民問題ではなく、英国議会の主権回復だったことが出口調査の結果から明らかになっています。すなわち、EU本部が置かれて官僚が跋扈しているブリュッセル、あるいはEUの支配的リーダーとなっているアンゲラ・メルケル首相率いるドイツからの独立だったのです。

〜略〜

今回の国民投票では、多少の分裂はあったにせよ、エリート層は概してEUに残る方を選んでいました。私は毎朝、ガーディアン、インディペンデント、デイリーテレグラフといったイギリスの日刊紙を読むことを日課にしていますが、新聞の論調は圧倒的に残留派が優勢でした。

しかし、実際の投票行動を分析すると、一般大衆の世論は大きく離脱に傾きました。つまり、普段は比較的おとなしい英国の庶民、労働者階級の人々が、エリートに対して「うんざりだ」「これ以上は耐えられない」と拒絶のメッセージを突き付けたわけです。これはイギリスの社会を知る人間としては、これまでのビジョンの中に納まりきらない部分であり、特筆すべき現象だと言えます。

その背景にあるのは、行きつくところまで行ったグローバリゼーションへの反発でしょう。アングロサクソン国家のイギリスとアメリカは、グローバル化の流れに先鞭をつけた二カ国です。結果として経済的格差も大きくなっている国でもあります。

イギリスは、いわゆる「サッチャリズム」と呼ばれる市場原理主義的な経済政策を、アメリカのレーガン政権に一年先駆けて導入しました。サッチャーは「ゆりかごから墓場まで」に象徴される手厚い福祉に守られてきた国民に対して、「個人の力」の重要性を強調して「社会などというものは存在しない」との有名な言葉を残しました。ところが、今度のブレグジットで発せられたのは、「いや、社会は存在している。我々は我々として存在しているんだ」というイギリス国民の叫びだったのではないでしょうか。自らが世界に打ち出したグローバリゼーションにもっとも苦しめられた結果、旧来的なナショナルな方向にバランスをとったわけです。

そして、グローバリゼーションが進んだいま、先進国の人々は、多かれ少なかれ同じような精神状態に置かれています。フランスもまた同様です。

〜略〜

ブレグジットに象徴される大衆の抵抗を「ポピュリズム」という表現で説明しようとする向きがありますが、私はむしろ「エリートの無責任さ」こそが問題を理解するキーワードだと考えています。

どんな社会でもエリートは特権を持っていますが、同時に社会全体に対して責任を負うべき立場にあります。しかし最近では指導者たちが自分の利益のみを追求するようになってしまっている。そうしたエリートの無責任さが、ないがしろにされた大衆の間に不満を生み出す根源となっていることを理解しなくてはいけません。

〜略〜

注目に値するのはボリス・ジョンソン前ロンドン市長に代表されるエリート層の一部が民衆とともに離脱を叫んだ点です。〜略〜オックスフォード大学出身のジョンソンは、英国王室にも連なる血筋の持ち主で、紛れもないエスタブリッシュメントの一員です。そんな彼がエリート層の少数派として大衆側についた。政権与党である保守党議員の半分ぐらいがEU離脱派に名を連ねた。だからこそ、イギリスはポピュリズムから免れつつあるのです。日本で言うならば、たとえば東大法学部を出た超エリートが自分の階層のエゴイズムを超えて民衆の側に与し、それによって民衆的な政治運動をポピュリズムの罠から救い出すようなものです。

これが私が羨望してやまない、自己改革のために登場するリーダーの姿です。〜略〜フランスにとって大いに問題なのは、エスタブリッシュメントの中から、大衆の利益をあえて引き受けるエリート少数派が出てこないことです。

〜略〜

ドイツを中心としたヨーロッパの歯止めなき移民受け入れは、表面手的にはヒューマニズムを装っているものの、実際にはヨーロッパ諸国民を不安な状態にさらす悪しき制度です。

民主主義的に統治されているナショナルなテリトリーに住まう人間には、領土的安全への権利、移民流入をおだやかにコントロールする権利があります。もしこの権利を否定するならば、西洋社会は一気に無秩序な空間に変貌してしまうでしょう。「移民を制限することは排外主義的だ」と一方的に主張することは、実は無責任極まりないのです。これは私がかねてから訴えてきたことで、この点でもイギリス人の判断は理に適っています。


だってさ。いや、ところどころ、さすがだなと感心してしまう内容でした。

最後に一カ所、引用します。

ブレグジットを機にスコットランドが連合王国から独立して、独自にEUに加盟するとの説を唱える人もいます。しかし、これはヨーロッパ諸国の怒りや苛立ち、腹いせといった感情から生まれた類いのものであって、日本の読者は騙されてはいけません。メタファーとして言うのならば、EUは沈没しつつある大きな船です。イギリスがその船から脱出することに決めたのに、なぜ再び沈没する船内に戻ろうとするのか。それはまったくの不条理です。

確か、読売新聞や宮家邦彦さんや櫻井淑子さんあたりは「スコットランドが独立して、EUに加盟したらどうするんだ。グレートブリテンは終わりだ。こんなものは衆愚のワナだ」的な話にも言及していたと思うけど。

追記です。今週号の週刊新潮にフレデリック・フォーサイスが登場、やはり、「EU離脱は必然だ」という論旨だったのかな。カラシの上塗りだ。日本の言論は妙に偏っている上に感情的な言説も目立ったというのが総括ですかねぇ。戦略的思考とか言っちゃってる割には感情に流されがちというか。別にね、著名な学者の名前、その威厳や権威に基づく権威主義として推し量っているのではなく、自分のアタマで考えるべし。ホントにグローバリゼーションを盲信する人が大杉。