2016年06月01日

知性体の原動力

マレー・シャナハン著『シンギュラリティ』(NTT出版)を参考に、来るべき超知能の次代を考えてみる。

ヒトを超える人工知能が超知能化する事は有り得るのか?

そういう問題があるようなんですが、これはかなりの確度で到達してしまうのではないか――という。先ず、ヒト程度の人工知能をつくれてしまったとする。そのヒト程度の人工知能をつくりさえすれば、もう、自ずと、その人工知能は超知能化してしまうと考えられているのだそうな。

ヒトには肉体という檻があるワケですよね。だから長生きをしたとしても、まぁ、90年間とか100年間も経過すると脳を含めての肉体的な部品が傷んでしまい、死を迎えるので、その者が有している知性も終わる。途中からは記憶力の低下だの、認知症うんぬんなんて制限もかかり、その知性も高齢化した頃には、それなりの衰えも出て来てしまう。

他方、人工知能搭載のロボットの場合は、それらの時間的制約を受けないワケです。90年間とか100年間どころか、半永久的に知識を蓄積してゆく事が出来る上に、生身の人間には衰えというものが脳にも起こってしまうワケですが、人工知能搭載ロボットには起こらない。しかも、人工知能は睡眠時間も不要だし、食事の時間や余暇の時間なんてものも必要なく、知識の蓄積ができるワケです。しかも、現在、既に電王戦などでも紹介された通り、人工知能は強化学習をして自ら経験を蓄積し、成長してゆくという次元に入ってしまっているんですね。なので、この仮定からすると、ヒト程度の人工知能を作れた場合、その人工知能は不眠不休で成長に成長を繰り返してゆけることにもなるので、人類を超える狡驚稜臭瓩箸い次元に突入してゆく――と。

ただ、それは飽くまで膨大な知識の貯蔵と、そこからの最適なオペレーション能力を有するという意味の、狡驚稜臭瓩力辰砲覆辰討靴泙Α

「感情の問題、共感とか共鳴といったものは、どうなるの?」という問題が当然、浮上してくる。既に少し触れてしまいましたが、実は、この問題は解決しそうもないのだそうな。共感するようなプログラムをつくって、それを搭載すれば他人に共感する事を宿命として背負った人工知能という事になる。しかし、そうしてしまうと相手に共感することを宿命づけられたロボットになってしまう。

我々、日本人は丁度いい材料を知っているハズで、「ルーピー」と揶揄された、かの元総理大臣は、実は常に目の前にいる人に対して最善の発言を繰り返したが為に、あちらこちらでトラブルを巻き起こしたと分析されており、その記憶も比較的新しいワケですが、確かに、そんな感じでしょうか。つまり、目の前の相手に対して常にベストな答えをチョイスしてしまうと、全体的な整合性として矛盾だらけになってしまうんですよね。ルーピー氏が歴代総理の中でもダントツの最高学歴だったのは有名でしたよね。スタンフォード大学に留学してオペレーション・リサーチ理論なるもので博士号を取得していた。しかし、興味深いことに、その「オペレーション・リサーチ理論」とは即ち「最善の選択肢を最も合理的に選択する理論」だったそうで、或る意味ではタネ明かしのようにも思える。あのルーピー総理の迷走とは、与えられた材料の中から目の前の相手に対してのベストな回答(反応)をチョイスする理論のエキスパートにして体現者であったのではないか、と。

とはいえ、ここは人工知能の話で、少しばかり、ロボット的に共感する能力と、人間的な情動が伴う感情として共感する能力との差異は、無いものとして、話を進めてしまうことになる。

(ここは「哲学ゾンビ」の話ですかね。AさんがBさんに話しかければ、Bさんは反応して答えてくれる。しかし、そのBさんが心から反応してくれていると誰が実証できようか的な話になってしまう。Bさんが心を持つヒトであり、ゾンビではないという証拠なんて説明できない。しかし、この哲学ゾンビの話についても、著者は自分自身が猫を飼っている事を理由に「そんな事はホントは猫を観察していればわかる」という直観的な理屈も別の箇所で綴っていましたかね。哲学ゾンビの話は問答としては面白いんですが、直観で語ると証明せよと迫るタチの悪い系譜なんですよね。実際には猫なんてのを観察していれば心があるのは手に取るように理解できるハズで、やはり、証明問題の検討に時間を費やすのもバカバカしく感じる問答にも思えるだけに。)

で、知の方向性の問題、知的行動を司る、その原動力の話へとシフトします。どういう言葉で語るべきか悩むところですが、ヒトの場合には欲望というものが原動力になって、その行動原理を編まれていると説明することができますよね。手に入れたいモノを欲し、そのモノを入手する為に何かをする。異性にモテたいというのも欲望であれば、社会的地位を手に入れたいというのも欲望である。で、ヒトの場合の欲望を、人工知能に与えていいものかどうかという問題が発生する。利己的遺伝子論でやってしまったら、かなりの高確率で、超知能は世界征服のようなことを画策して、しかも、それをやり遂げてしまう可能性があるだけに、慎重にならざるを得ない問題に思える。

人工知能の話なので「原動力」も「欲望」という単語も登場せず、【報酬系】という言葉に集約して説明されていました。ここを説明するのが面倒くさそうなのですが、「パブロフの犬」なんてものが例として挙げられている。ご褒美があると条件反射づけられてゆくワケですが、学習する事、その動機づけ、その報酬ですね。で、ヒトでいう場合の行動に対しても欲望と言わずに、報酬関数とか期待報酬という言葉が使用されている。これは期待できる報酬を効率的に得る為にどう行動すべきかというような話でしょうか。例えば、一億円欲しいという場合には「一億円の報酬を最も効率的に得る為には、どうしたらいいか?」という思考に対応できる知性になるワケですよね。そこそこ、自由度が高い中で、その期待される報酬に向かって行動するというプログラムのソフトウェアっぽい解釈になっている。

したがって、「人工知能の報酬系をどうすればいいのか?」が大問題となる。重複になりますが、もし仮にヒトに於ける欲望と同じような報酬系にしてしまった場合、やはり、他者への無思慮によって効率的に報酬を獲得しようとするサイコパス的な知性になる可能性が高いと著書の中でも指摘されている。この場合、やはり、例として映画「ターミネーター2」に登場するスカイネットが挙げられており、おそらく超知能が最終的に行き着いてしまうのは、世界征服のような、そちらになってしまう事が予想できてしまうという。

考えてみるとホントに怖い話なのに、なんだか知らぬ間に研究者たちは哲学的な問題などを半ば置き去りにして、既に物事を進めてしまっているよなぁ…。

しかも、この問題は、中々、厄介であり、ヒトであれば物理的な身体を有しているから痛覚によって痛みを実感することができますよね。人工知能を搭載したロボットにも、先の共感と同じように、ヒトの痛みを味わわせるような設定をしたとしても、それは、またしても、痛みを痛みとして感じるように振る舞うロボットに過ぎない。所詮は、痛みを痛みとして感じているように振る舞うフェイクに過ぎず、しかも、それは、そのようにシミュレーションしてあるだけだという意味であり、しかも、その相手は超知能だという事になる。

少しだけ、引用します。

おそらく、他のどの価値よりもまず先んじて教え込まねばならないものは、他者、そしてすべての感情ある存在に対して向けられる、仏教が説くところの慈悲の心だろう。

人間の数々の欠点――好戦的志向、不平等を永続化する傾向、ときおり発揮する残虐性――にもかかわらず、豊かな時代にはこれらの価値は充分、前面化するように思われる。


まさか、この書籍に「仏教で説くところの慈悲の心」なんて一文を目にする事になるとは思いもしなかったんですが、やはり、そう考えざるを得ないような話なんですよね。

しかし、そうなると、また、次のような問題にぶつかってしまう。

「では、超知能搭載のロボット君たちには、生体たるヒトの奴隷のような存在になってもらうべきか?」

ああ、申し訳ないけどヒトデナシの私としては、これに賛成かもなぁ…。いやいや、奴隷というとドギツく聞こえるだけで、つまりは、ヒトに奉仕することを最大の報酬とする超知能搭載ロボット君だったら、安心して、トモダチになれそうだと感じる。だけど雰囲気からすると「そのような高知能搭載ロボット君にも人権があるんです!」という考え方も将来的には登場しそうですかねぇ。映画「A.I.」は、使い捨てにされるロボットの悲しみなんてものを描いていたんだっけ。

また、ヒトに奉仕することを最大の報酬系としてしまうと、その超知能は、憎悪などのネガティブな感情を排除し、且つ、疲労を感じない高性能マシーンとなるが、それは完璧な奴隷ではないか?――なんて綴られている。(いやいや、だから奴隷でいいじゃないスか。何故、そこでファンタジーを追求しちゃうかなぁ…。)

そのようにネガティブな感情を排除した場合、超知能は超知能足り得るのかという風に論じられている。感情と知性は密接に関わりあっており、負の感情を持たない知性は、超知能ではなくなってしまうのではないか――と。

あー。もう。イヤんなるなぁ。いいじゃん、超知能ロボは人間サマの奴隷って事で。その非常に優秀で非常に従順な奴隷、誰だってホントは欲しいんじゃないの? そのロボットが奴隷だからって鞭で打ちすえたり、足首に鉄球をつけてクンタキンテ遊びをしようだなんてする気ないしねぇ。鉄腕アトムとかドラえもんみたいに、適度に付き合えると思うけど。

いや、その従順なロボットを利用して世界征服を企ててしまう奴が登場してしまうか? あー、もう、結論が見えてきた気がする。要するに、この世界に不要なのは生身の人間共の方であり、超知能が完成したら超知能が世界の支配者になればいいんじゃないかって。これ、ゼッタイに気付いちゃだろ。何せ、超知能なんだろうから。


よくよく考えてみると、この話は、よくできているんですよね。先日、「ストーリー・オブ・ゴッド with モーガン・フリーマン」に触れた際にも感じたんですが、実は現代の科学主義は文明論的な文脈に立つと既に「神殺し」をやってしまっている。また、新聞の三面記事では「親殺し」も多発しているのが現代社会ですよね。人間が神を殺してきたように超知能もまた、生みの親である人間を殺してしまう。それが超越って事になるんじゃないの。

2016年05月31日

電話に於ける「勘違い」

依然として、オレオレ詐欺が猛威をふるっているという事ですが、「ああ、こうして勘違いが発生するのだな」という話を――。

先ず、あのテの詐欺の電話というのは、ゲホ、ゲホと咳き込み、まるで瀕死の状態であるかのような、そういう声色で電話を掛けてくる。電話の受け手が思い浮かべている人物の声とは違うんですね。「いつもと声が違うようだけれど?」と尋ねるにしても、尋ねないにしても、本人確認をしにくい状況になるワケです。

で、相手の異変を感じ取りつつも、本人を本人と確認しにくいワケですが、次の問題が非常に重要で、実は先入観が介入してきて、実際に受け手の側で補正が起こるよな、と。アレコレと、会話をし、カマをかけるなどしてみて不信感を脳内では抱いているものの、相手の背後の物音などを勝手に補正して、「ああ、これは彼の奥さんや子供の声だ」という具合に認識してしまう可能性がありますかね。限りなく、この電話の向こうの主はオレオレ詐欺団の一員であるが、ひょっとしたら電話の向こうは「本人かも知れない」という風にも考え直すことになる。断定が難しいんですね。

なので、泳がせることにした。まぁ、泳がせている内にボロが出てくるものの、瀕死の状況であるかのように装い、まだ、カネの催促もされていない段階では、「ん。これはホントに重病なのかも知れないぞ」という心理が作用するから、問い質しての本人確認をする事を躊躇わせる、そういう心理になるんですよね。

なので電話を切った後に、改めて本人確認をし、なーんだ、オレオレ詐欺の電話であったか――となり、なんたら相談センターに相手の電話番号を通報するなどして事なきを得ましたが、この一連で、やはり、不思議なのは先入観が介入すると、何でもない雑音であっても、それを意味のある雑音だと脳内で処理してしまうという部分でしょうかねぇ。電話というのは完全に音声のみでのコミュニケーションになるから、意識している以上に大量の情報を補正しながら会話をしているというのがホントですかね。そのように補正しながら電話の相手と話している自分というものに気が付きました。

なので、どんなにダマされないという自負の強い人でも、それらの状況があるから詐欺団の演劇にダマされてしまう可能性というのは完全には払拭できないのだろうな――、と。

但し、もう一つ、確固たる手応えというのも感じましたかね。後で本人確認すればいいやという事も通話中に考えていたし、同時に、こういう場合は警察の相談センター※みたいなのに通報すればいいんだよねという事も、同時に念頭に置いていたから、結構、余裕があったといえば余裕もありましたかね。(※全国共通は#9110番ですが非常に繋がりにくいので地元警察署が用意している相談窓口へ通報できるような仕組みになっていますね。そこから更に緊急性があると判断されたり、現行犯逮捕が可能であると判断されると、その相談窓口から管轄の警察署、或いは直接、刑事課の刑事さんに繋いでくれるようなシステムになっているみたい。)

私の場合、仮に相手が重病であったとしても緊急にカネを用意してやるなんてことは絶対にしない行動様式の人間であり、その覚悟があるから、まぁ、緊急にカネを用意してあげるという状況が発生し得ないよな――と。

「会社のカネを紛失してしまった」

「ほぅ。それなら会社に正直に話すんだな…」

「友人から紹介された投資話があって、それに乗ったらトンズラされてしまった」

「ほぅ。それは自業自得って事だな…」

「交通事故を起こしてしまった」

「ほぅ。それは災難だったな。賠償については保険会社へ一任する事だな…」

「デキゴコロで痴漢をしてしまった」

「ほぅ。いさぎよく法の裁きってのを受ける事だな…」

逆立ちしても正規の支払い以外で、現金なんてものを用意する状況なんて存在しないと考えているタイプだからなぁ…。

「ATMへ行ってくれる?」

「何の為に?」

「銀行の窓口へ行って現金、用立てられる?」

「だから何の為に?」

「だから今日中に、どうしても、お金が必要なんだよっ!」

「だから、その切迫した状況って、どういう状況なんだっつーの。そんなに切迫する状況なんて不渡りを出した事業者ぐらいしか起こり得ないだろ? それだったらホンキで夜逃げしてしまう事をオススメする」

「こっちも被害者みたいなものなんだよ。助けてくれよっ!」

「弁護士に相談してみるとといいよ」

「既に弁護士に相談して訴訟の準備をしているんだけど、本日返済分のカネが、どうしてもかかるんだよっ!」

「じゃ、その弁護士に返済期限を延ばしてもらうように依頼することだな…」

「もう、いいよっ!」

「ほぅ。相談は無事に解決したようだ…」

ussyassya at 11:38|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)雑記 

2016年05月29日

神概念文明VS超知能文明

ナショジオ・チャンネル「ストーリー・オブ・ゴッド with モーガン・フリーマン」の第三回目は創始がテーマでした。

興味深かったのはマヤ文明の天地創造譚でした。トウモロコシの神が地下の世界へ迷い込んでしまったところ、トウモロコシの神はクビを刎ねられてしまったという。すると、トウモロコシの神の双子の息子が、トウモロコシと灰とを混ぜたものを飲んで地下世界へ向かってトウモロコシの神を取り戻しに行く――と。気のせいか日本神話の黄泉の世界へ行ったイザナギ&イザナミを巡る話に似ているような味付けだよなぁ…と。しかもマヤ文明だと「トウモロコシの神」なんですが、日本人の場合は「稲作の神」というのを神としているワケで、双方は全く異なる神話なのに似たようなカタチの神話を生み出したのだろうな――と。

番組中、モーガン・フリーマンが絶妙な問い掛けてをしていました。意訳になってしまいますが、以下。

「神という概念ができたから文明というものが生まれたのではないでしょうか? あるいは文明ができて神がつくられた――とかね」

「社会や共同体といったものをつくった人類が、自ずから「神」というものを必要として生み出したものなのではないでしょうか?」

「神を崇めるような信仰心を持つ事で、我々の祖先は畑を耕しはじめたのではないでしょうか?」

とか。

そして、この第三回でも宗教学者の山折哲雄さんが番組終了後に俳優の石坂浩二さんを聞き手として簡単な解説を付け加えてくれていましたが、ホント、まさしく、その問題であろうなという核心について述べてくれましたかね。。。

一応は手順として世界各地の天地創生神話を紹介し、遺跡なども紹介するものの、既に核心中の核心が見え隠れしてしまっており、無神論は危険なのではないかという事が薄々、見えて来てしまっている。

番組終了後の山折さんはズバリ、ピンポイントで核心を突かれたと思う。要約すると、「人工知能が次なる神になろうとしているが、そうなると元々の混沌状態に秩序を与えてきた神概念によって形成されている文明が崩れてしまうので、人類には試練が訪れることになる」と、鋭くまとめられていました。

モーガン・フリーマンの問い掛けも加味して、つまり、この世界の創始、原初状態というのは混沌であったと考えるあたりまでが非常に有力であり、そこから我々の文明は神概念を有した信仰心なり、宗教なりに頼って文明というものを育んできたと考えられる。しかし、科学主義が無神論に近づき、遂には人工知能が神概念に代わって神の座についてしまうという時代がホントにやってくるのではないか――という状況下に現在の我々は置かれているんですよね。

ナニナニ教原理主義者のような特殊なケースではなくとも、既存の文明そのものというのは神概念を有した歴史の積み重ねによって形成されており、モーガン・フリーマンが問い掛けているように、ひょっとしたら神概念や信仰心のようなものがあったからこそ、現在の文明というものが誕生し、飛躍的な拡大をしてきたというのが我々の歴史そのものなのかも知れない。

既にマイケル・サンデルも既に遺伝子操作エンハンスメントに係る文脈で、医療技術の発展によって遺伝子操作が可能になってしまった現在の状況を語る中で、「倫理」とか「正義」という言葉とは別に、「神への感謝」なんてワードを使用した語り口をしている。中沢新一さんや内田樹さんの場合は贈与論を取り上げる事が多いんですが、贈与論というのも相互に贈与であったり、神(天)からの恵みという意味での贈与であったり、つまりは感謝のような何かが介在しないとダメであろうという。確かに、全てのジャッジメントをフローチャート式の回路に委ねることを危険視しており、ホントは既に指針は示されているようにも思える。真理は複雑であり、混沌こそが真でもある。機械論的な解釈をし、人工知能を神として崇めるような時代に入るというのは、かなりリスクが高いことが予想されている。

そして現在も人工知能という知性がヒトの知性を超越して、超知能として君臨する可能性を検討している内容の書籍に目を通している真っ最中であったりするんですが、手応えとしては犲惚れ瓩箸いΔ發里鯑匹濕茲辰討靴泙辰討い泙垢ねぇ。共感する能力を人工知能に持たせるという話にしても、人工知能の場合は共感しているように振る舞うプログラムの開発の話であり、生体たる我々人間の情動というものへのアプローチは、なんだか違うんですね。それは共感能力を有したヒトのような知性なのではなく、人間の共感能力を模したプログラムを搭載した処理機能を持つ知性に過ぎない。どうやっても真の共感なんてものには辿り着けそうもないんですよね。機械論的に知性というものを解釈し、知性というものを演算装置のように考えているうちはヒト型ロボットは無理だろうな…という感想ですかねぇ。

そんな強がりを言いながら、確かに仕事の分野などではヒトを超えるものが登場しそうだし、実は将棋なら将棋という競技に限定してしまえば人工知能はアッサリとヒトを超えてしまう公算が高いというのが、どうしようもない現実らしいワケですが…。将棋というのは限定的なルールの中での戦いなので、実は人工知能は能力を思う存分に発揮できるということらしいからね。

あ。爆笑問題の田中さんが「僕はネコと人間とが戦争したらネコ側につく人間です」と言っていたけど、まぁ、そういう感性というのには、まだまだ人工知能はついてこれないんじゃないんスかね。私もネコと人間とが戦争したら迷わずネコ軍として戦うつもりだし(笑

山折さんは、もう一つ、重要な指摘をされていたかな。「何故、天地創造神話を人類はつくってきたのか?」という問題について、「不安から解放される為に神話が必要だったのだと思う」と述べられていました。足元が暗く方向も分からないような暗闇の中に身を置けば、自分が何者であるのか、自分たちが何者であるのかという問題に行き着き、それが分からないと不安を感じるものであろう、と。故に、自分達のアイデンティティーの為に天地創造神話が必要ではなかったのか――と。

これは、「ストーリー・オブ・ゴッド with モーガン・フリーマン」の第二回にも対応した回答であり、実は説得力があると感じました。第二回のテーマは終末論であり、そこでも「何故、人類は終末論を必要としてきたのでしょう?」という問題があったのですが、こちらは最新の脳科学の研究からヒトは事前に危険を知ろうとする事で不安を和らげられるという一つの見解が提示されていたんですよね。つまり、世界がいついつに滅亡するに違いないと思い込む事で、それまでの期間は安心できる。だから、次から次へといついつに世界滅亡がやってくるであろうと考える。不安を払拭したいが故に生み出され続けるものが終末論というのがカラクリであろう――と。

つまり、分かって来てしまった事として、天地創造神話が存在する理由も終末論が度々登場してくる理由も、我々自身が不安を払拭するのに都合がいいから、そうなっているのであり、いわば現在の文明は神概念によって形成されている――という答えを半分ぐらい導き出していました。

それは引っくり返すと、もし仮に現代人たちにとってエデンの園のような創始の神話が存在せず、約9千万年ぐらい前の人類が神概念というものを作り上げていなかったとしたら、そもそも文明なんてものが起こらなかった可能性がある、と。

2016年05月27日

オバマの広島入りについて

オバマ米大統領の広島訪問は、表現するのに苦慮するような何かしらの感動があったように感じましたかね。今さっきも、テレ朝「報道ステーション」で後藤謙二さんが「広島の時間が止まったようだった」と表現しましたが、まさしく、そんな感じ。

テレビでは15時30分頃から、「オバマ大統領、まもなく広島入り」と報じていた。まもなく、まもなくと、テレビは相変わらず、そういった引っ張り方をするのだけれど…と、そんな風に感じながら、岩国基地へ立ち寄っている様子をフジテレビで視聴。更に岩国基地を出て広島入りをするという中継になってから、NHK総合で、その様子を生中継していていたので、大統領専用車両がひたすらに映し出されていたワケですが、確かに町並みは立派で、整然とした風景の中を大統領専用車両が、これまた整然と警備された状態で進んでゆく――。

現役のアメリカ大統領が広島の地に降り立つという歴史的瞬間を迎えることになって、愈々、オバマが姿を現す。オバマ大統領は背が高くてスタイルが良く、如何にも見栄えのする容貌を持つ大統領であるワケですが、姿勢も美しく、率直にカッコいいんですね。で、そのオバマ大統領が儀礼的な歓声に迎えられるのでもなく、ミーハーな歓声に迎えられるのでもなく、一歩一歩、悠々とした歩みで原爆資料館へ入ってゆく。そして、原爆資料館を出てから慰霊碑へ向かったワケですが、確かに時間が止まっているような感覚になりましたかね。

私は多分、ひねくれ気質だからオバマ大統領就任時のオバマフィーバーに冷淡であったし、勿論、ノーベル平和賞についても冷淡であったという自覚がありますが、今回の広島訪問は演出があったとしても評価されるべき歴史的一瞬であったようにも感じました。現在問題視されているタックスヘイブンの問題にしてもオバマは力不足で敗北したものの、現在もタックスヘイブン問題については合法である事が問題であると、その税逃れ対策を強化すると明言しており、基本理念がしっかりとしていてるので安堵させてくれる部分がある。或る意味、世界のリーダーとしてみると安心感があったよな、と。


不思議と穏やかな気分になったは確かですかねぇ。ここのところ、ウンザリするようなニュースばかりであった事に加え、国際情勢にしてもかなりガタガタとしてしまっているのが近年であり、核兵器による支配からの脱却を目指すべきなのではないかという話は大原則でありながら、近20年ぐらいは理想と現実との乖離が政治を語る状況でも遠のいてしまっていたという気がしますからね。

直ぐに実現するのは難しいのでしょうけれど、こうした問題というのは裏返すと一人一人の心の持ちようの問題にもなってくるんですよね。「核兵器を手放すなんてトンデモナイことだ」と考える臆病者が存在すると、それは不可能になる。しかし、全員が同じような心持ちになっている場合、それは劇的に可能になるかも知れない。全員がナイフを所持し、水面下で牽制し合うことで均衡が成立している不良少年の仲間があったとして、そういうケースでも全員がナイフ所持なんて馬鹿げていると解釈するようになると、問題は急転する可能性があるんですよね。

確かにあれは歴史的な17分間であった――と、後年に回想する機会がやってくるのかもね。いやいや、確かに夕方過ぎてから物凄く気分が晴れた一日になったかな。

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ussyassya at 23:28|この記事のURLComments(7)TrackBack(1)雑記 

知能信仰者は恥辱プレイがお好き

東京大学の男子学生5名が強制ワイセツで逮捕されたという事件、何だか色々なものを内包していそうですかね…。

週刊文春6月2日号が報じたところに拠れば、池袋駅前の大手チェーン店で合コンを開き、その後、豊島区に住む男子学生のアパートが二次会の会場となった。その場には、後に逮捕される事になる東大の男子学生が6名と、合コン会場から、そのアパートへ流れ着いた女性は2名あったという。しかし、その二次会の不穏な空気を察して、女性のうちの1名は途中で帰宅し、そのアパートの一室は東大の男子学生6名に後に被害者となる女子大生1名という状態になった。

そうした状況下、男子学生の内の2名が主犯格として名前も報道されているM容疑者を囃し立てるような言動を取ったという。囃し立てれるままにMは室内で全裸になってから、被害者となる21歳の女子学生を全裸にして、被害者女性の胸などを触り出したという。行為はエスカレートしてゆき、お尻を叩いたり、胸を揉んだりしたという。更に被害者女性は現場で食べていたカップラーメンの残り汁を頭からかけられたり、割り箸によるイタズラを受けたという。

ん? 割り箸でイタズラか…。週刊新潮では局部にヘアドライヤーをあてるなどの行為があったとしているから、まぁ、そういう類いのイタズラでしょうかね…。

で、週刊文春が報じるところによると、被害者の女子学生は主犯格とされるM容疑者以上に、扇動していた学生2名に対しての怒りが強い旨、記されている。つまり、(主犯格のM以上に)「煽った二人の方が許せない」――と。

実は、この扇動者に対しての憎悪という部分が目に止まりました。第一報というか第二報を耳にした際に、映画「告発の行方」のレイプシーンを思い浮かべていたから。視聴経験のある方は、想像するのは難しくないと思いますが、ホントに腹立たしく感じるのは、扇動者についてなのではないか――なんて感じるレイプシーンなんですよね。そうした状況下にもかかわらず、そそのかしたり、扇動する連中の凶暴さと、その狂気。

この東大生による強制ワイセツ事件は、被害者の女子学生と、男子学生の内の一人は以前からの知り合いであるという。勿論、その男子学生は扇動もしていないし、ワイセツ行為へも加担していないという。また、部屋を貸すことになった学生も、部屋を貸したが扇動にも加担しなかったしワイセツ行為にも加担していなかったので、その両名は逮捕されるという自覚はなかったようだと記されている。その一連を室内に居ながら傍観していたとも言えるワケですが制止し切れなかった事が道義的責任に問われ、逮捕に到ったという事のよう。しかし、改めて考えてしまうと、被害者と知り合いであったが傍観してしまったという男子学生の業ってのもね。

主犯格のMは現在も脚光を浴びている人工知能の研究などをしていたエリート学生で、文春に拠れば大学院に進む予定であったという。インターネット上で広がってしまった「大手企業に内定していた」ウンヌンの情報はガセネタだそうな。Mという人物については乱痴気好きであったらしく、別のサークルでも飲酒の席で女子学生の体を触るなどの行為があった為、そのテのサークルからは出入禁止処分にされていたという札付きの人物であったという。(今回、逮捕された5名は全員が工学部システム創生学科や、その大学院所属であり、逮捕者全員が人工知能研究に携わっていた。)

さて、この事件というのは、一にも二にも「告発の行方」であろうなって思う。ひょっとしたら単純に性器に性器を強制的に挿入するという意味合いのレイプ以上に悪質性があるような気がしているんですね。というのも、どうも恥辱プレイという名称のそれであり、被害者の学生の弁からも合致するよなって感じているのですが、つまり、人格の蹂躙を愉しんだという主旨のレイプ事件であろうな――と。いわゆる「恥辱プレイ」とでも呼ぶべきものであるワケですが、それを強制し恥辱を味わわせ、その人格を蹂躙し、その蹂躙によって快楽を得ているのでしょう。カップラーメンの汁をかけたのはブザマな女の姿を味わいたいが為であり、勝手に優越感を抱くことができる人間界であるが故に成立する変態的な性欲――とゆーか。まぁ、結局はヒトの仮面をかぶっているのだけれど本性がケダモノのまんまとゆーか。

(少し捕捉すると主犯のMには合コンで女性を物色してセックスに持ち込んだ後、ラーメンをぶっかたり、複数人でサディスティックなプレイをするという評判が立っていたようで、そういう性癖の持ち主っぽいんですよね。その噂通り、今回逮捕された事件でもカップラーメンの残り汁をかけたというワケです。そういう凌辱プレイを得意技にしていたのであり、セックスそのものがハンティング感覚化している人物というか。)

こういうモンスターに対処できていますかねぇ。強制ワイセツといえば強制ワイセツなのだけれども、実は蹂躙する手法には、裁き切れていない悪質性が潜んでいるんじゃないんだろか。イビツな優越感は関係あると思いますよ。

屈辱を味わわされた被害者女性は怒り心頭な様子で、示談に応じる可能性は低いという。


あ。丁度、人工知能の話をしているタイミングだったので、あれこれと考えてしまいましたが、人工知能の話というのは期待報酬体系うんぬんという言葉が登場して、人工知能にも生身のヒトと同じように思考する回路を演算手続き化するような話になってくるんですよね。これは、言い換えるなら、ヒトは何を行動原理にしているのかという話であり、それこそ利己的遺伝子論的な、つまりは、自分の複製をつくるという回路になっているとか、そういう話にまで及んでしまう。極めて根本的なそれは利己的遺伝子論的なものであるワケですが、言語を有し、社会を有しているのが現実で、その中で如何に有利に立ち、生き残り戦略をするのかという社会の中での競争の話になってくる。

生きている事そのものには理由はないし目的もないし、勿論、発展する事も目的ではないし、進化なんてものは目的ではない。単なる結果として、今の私やあなたが存在しているだけであったりするワケですが、どうも、この辺りの話というのが人工知能の話になってくると難しくなってしまうんですよね。思いの外、複雑で、一見すると利己的遺伝子論では説明がつかないように見える行動なんてものも現代人は有している。

ヒトの知性というのは社会性と密接に関わっており、恥ずかしいを恥ずかしいと捉えるワケです。ハダカを他者にさらけ出すのは恥ずかしい――と。この「恥ずかしい」と感じる生身の人間の感覚を、人工知能は持つことが可能なのか? 人工知能搭載のロボットに、意図的に羞恥心を感じるプログラムを搭載して恥ずかしがるという感情表現ができるロボットをつくれという話でもない。ヒトが有する犇Υ境瓩箸いΔ里蓮△修譴世箸いΔ鵑任垢諭

人工知能搭載のロボットに愚痴を聴いてもらい、慰めてもらうことは難しくない。愚痴を愚痴として認識するようなプログラムを作成してロボットに搭載すれば、きっと、ロボットは、愚痴に共感したような反応を演じてくれる。しかし、それは真の共感とは呼べないものだよなぁ――とね。何故なら、そこには、心がないし、感情がないから。

そこを理解せずに、ヒトと同じような知性をつくれたかのように錯覚してしまうと、それはタダのサイコパスを作りだしてしまうんじゃないだろか。心の底から、その相手の受けた屈辱に共感できるのも、また、同情して憤ったりできるのも、また、生身のヒトならではの仕事なのであって。また、この一件のような性器が挿入されたか否かという物理的観点や法解釈ではなく、如何に屈辱的な行為をして、その被害者の人格を傷つけたのかというのが争点なのであって。

情状酌量なんてトンデモナイ。他人の痛みが理解できない人間というのは、人間の定義に倣えばエリートではなく、クズとかカス、人間のデキそこないという事なんじゃないんスかね。

(何故、被害者女性が「レイプ犯以上に煽った二人の方が許せない」と言っているのか、このブロガーがクズとかカスとまで言うのか、そのイメージが沸かない方には、映画「告発の行方」の視聴がオススメです。レイプ裁判がテーマの映画ですが、地味ながら扇動している連中の卑劣さという部分が強調して描かれており、やはり、扇動する人物の卑劣さというのが際立ち、且つ、「その被害者もビッチなんだから仕方ないのでは?」という立場に対しても、ガツンとした一撃を与えてくれる。)