2016年06月25日

イギリスのEU離脱で

イギリスのEU離脱を報じるニュースを眺めていて、なんだか身勝手な意見が多いよなと感じました。インターネット上で逸早く、その指摘を目にしていたんですが、日本のマスコミは楽観ムードというのが事前に漂っていて、「結局は離脱しないんでしょ」という論調が多数であったと思う。しかも、オメデタイことにEUというブロック圏の是非というのが念頭にないんですよね。フジテレビの番組でしたが、

「いくら民主主義だといっても、こんな重大な事を国民投票で決めていいのか?」

なんて言説を耳にして驚きました。

察するに現行体制の問題点に無頓着であり、数値としての経済指標が堅調であれば世界平和なのです、先進的なのですというぐらいの認識なんじゃないのかなって思ってしまいました。

既に経済トピックスで同じ意見を見つけてしまいましたが、市場と政治とを一緒にし過ぎだし、市場に依存することが当たり前だという感覚になってしまっている。それでいて、一人一票の原則がどうのこうのといったり、弱肉強食の法則が定石だといったり、財政規律を整える為に増税すべきといったり、要は、都市生活者の利益を主張しているだけのように思える。

移民問題で苦しんでいる者が意見を述べてはいけないの? 国民投票で重要な決定をすることが何故いけないの? 舛添のような輩をコテンパンにテレビでバッシングするのは民意だといい(私が思うに愚民政治)、その裏では離脱と決着する国民投票については「民主主義だからといって許されない」ってどうなの? 

支離滅裂じゃないの?

自分が思うような結果にならなかったから掌返しをしているだけなのか、それとも自らが頑健に信じる現行体制にとって不利益だからダダを捏ねているか、どちらかなんじゃないんスかね。

厭味を覚悟で言えば、都会にあって勝ち組で、殆んど人生なんてものもチャラチャラと生活できる水準にある者は、多分、生活困窮者の困窮を理解できないという事なんじゃないの?

電通を通じてワイロでオリンピックを招致した事には電通の名前も出せずにダンマリを決め込んで、低学歴の連中の声に対しては「衆愚」と叩き斬るあたり、大した度胸だよなぁ。むしろ、利権にまみれで周囲が見えなくなっている衆愚の王様というのはテレビなんじゃないんスかね? 

イギリスの例だって都市部のビジネスマンと、地方で農家だの漁師だの商店経営だのをしている人々とは生活水準に差異があり過ぎだという。しかも、ホントの事を言えば、都市部というのは人口を密集させ、その人口ボリュームの恩恵、いや、アガリってものを活かして都市生活の快適さを実現しているワケで、その裕福にして快適な生活は、低賃金労働者に支えられているという現実を考えないんだろうね。都合よく、現在の自分が社会の中で上位のステイタスにあるのは、ひとえに自分の力量や正しさに拠るものだという傲慢があるんじゃないだろか。ホントに文明の恩恵を受けているのは「お金持ち」と「学識者」という指摘があるしね。

テレビなんて媒体は、一つのテレビ局が圧倒的な視聴者数に情報を発信できる反則ワザみたいな性質があって、一対一でははく、一対多数型のシステムですよね。一応は、自力で勝ち取った地位であるという事になっているけど、それは有難い社会システムがあってはじめて成立する話なんだと思うんですよね。いや、学歴社会的序列なども含めて、それらはアリトアラユル部分で生じる格差の問題であろうと思う。何か一つの事柄で都会人が有利なのではなく、ありとあらゆる事柄で都市部が恵まれており、現在の一極集中システムでは、何から何までアドバンテージを受けているのがホントじゃないの? 恨みを買っているであろう事に思いが及んでいないのであれば、中々のオメデタイ頭って事では? 足利事件をはじめ、冤罪事件に長々と触れましたが、その裏側には残念ながら対象者への偏見が大きく関与している。その一方で、自分の信じる何かを盲信しようとする進歩的現代人の感覚があるというか。

まぁ、今朝の読売テレビの番組も、NHK総合の番組でも、総じてEUの理念を善とする前提の上で説明し、離脱に賛成する人々に対して、衆愚という言葉を使用していたのですが、そういうのも衆愚かな。自治するという理念を経済合理性の価値感で勝手に優劣をつけて論じてしまっているのもホントであろうと思うから。

一人ぐらい文明論や幸福論の系譜の論客を配して暴れまくらせれば、面白かったのだと思う。決定は決定として尊重せざるを得ないというのがホントなのだと思うんですよね。何故、移民を受け入れるなどの決定に盲従させることを正しい事と考え、それが絶対的に正しい道であると認識しているのか、それが結構、根幹の問題だろうしねぇ。文化が違うのに垣根を取っ払えば混乱するんじゃないのという指摘は、最低でも十年前から指摘されてきた話だし。

実際、自分の就業環境や住環境に悪影響を受けていると感じたら、ノーと声を上げるのがフツウだろし、いつぞやの、「アイム・シャルリー」と同じ匂いの問題か。意識は高いが、それは意外と浅い受け売りであったりするのも現実であって。おそらく、彼等の言う衆愚とは、そういう意見に「ノー」の人たちなのだと思う。朝日新聞に拠ればC.W.ニコルさんは離脱を選択したとコメントを寄せていましたが、つまりは、そういう人々を衆愚であると括ってレッテル貼りをしているのは純然たる衆愚なのではないか。気付かない愚であるだけ、自覚のある愚よりもタチが悪い。どうせならグローバリズムを続ける事が正しい路線なのだと思いますという、その論拠を自分の言葉で説明してくれなきゃ。

少なくとも、自分の思うようにならなかったらケチをつけるという態度は自称マジョリティの奢りなんだと思うよ。

2016年06月24日

残留か離脱か

イギリスのEU離脱を巡って行なわれた国民投票、その開票結果を睨んで東京市場。我が目を疑いましたが、開票の序盤は離脱が優勢であるという。ところが、見込みに拠れば残留が濃厚であるというトピックスが配信され、実際に日経平均も残留決定を前提にしたと思われる買いが入っているという状況。

昨日、購入した週刊文春にはジョージ・ソロスが金(きん)現物を証券化した金融商品を購入していることから、あのジョージ・ソロスは、大混乱が起こる方のポジションを取っているらしいという記事も目にしましたが…。

で、私の場合は、やっちまいましたという感じでしょうか。恐怖指数に連動するとされているVIX短期先物ETFを、購入。4営業日前に売っていれば2万円ぐらいのプラスで終わったのですが、売り損じまして、現在、マイナス4千八百円という状況。ああ、勿論、トータルではマイナスで百万円ぐらいは言っていそう。昨年はプラス収支だったのに、一たび、地合いが悪くなって相場が停滞したりすると、ガタガタになってしまう(汗 

内心では黒田バズーカってのを、今こそ放って欲しいところですが、そういう度胸はないようで、ここのところ、黒田総裁が故意に演じて大胆不敵ぶっていることに気付いてしまいましたかね。ホントに度胸があるとか、ホントに肝っ玉が据わっているのであれば、誰も予想不可能な不可解なタイミングで、発射してくれればいいものを。


しかし、世界は確実に「マクドナルド対ジハード」の様相になってしまいましたかねぇ。単純明快に言い換えると、「グローバリズムVSナショナリズム」であり、「国境不要論VS国境必要論」でもある。現時点に於ける良識派は、ユーロ残留を訴える英キャメロン首相に代表されるような系統でしょうか。ナショナリズムなんてものは偏狭なものであり、経済を第一に考えてもイギリスはユーロに残留すべきである――と、そういう感じ。

推測ですが、おそらくは池上彰さんあたりもグローバル派ですかね。しかし、それが意味しているものというのは現行秩序への依存でもあり、リベラル体制を信奉しているという事でしょか。宮崎哲弥さんもリベラルでバランス型なのだと思いますが、成長路線には賛成派。しかし、ホントに「成長するしかない」というのだけれど、そこが問題でもある。水野和夫さんが示してしまった現実からすると、成長するしかないという考え方には落とし穴があるのではないか。それこそ、財政出動を繰り返していれば株価を支えることができる。しかし、そこに成長というものがホントに伴っているのかという問題がありますよね。中島岳史さんが「保守リベラル」であったか「リベラル保守」という具合に自称するようになり、「基本的には少しづつ進んでゆくという漸進主義しかないと思うのです」と自分の立場を説明している事には好感を持っていますが…。

グローバリズム対ナショナリズムという風に説明された場合、おそらくはグローバリズムが先進的で開放的な何かであり、ナショナリズムとは偏狭な何かであるという風に説明されてしまうと思うんですね。しかし、現在、起こっているナショナリズムの高まりというのは、事象、事象を語ろうとすれば、ホントは自明の話ではないのかなって思う。

移民の流入によって自分が貧しくなったり、もしくは町の治安が悪化するという場合、

「移民政策をなんとかしろ!」

と声が上がるのは、健全な民主主義の姿だと思う。そこに目が向かないのは、国家であるとか、国際的にはIMFとか国連とか、そういう現世界の権威を権威として承認し、盲信しているという条件が根拠になっていますよね。しかし、残念ながら、もう、国連やIMFには崇高な理念はなく、ただただ、秩序の維持装置として、自身の保身の為に存在するかのような事になってしまっている。

文藝春秋6月号であったと思いますが、トランプ旋風についての対談があり、その中で、鋭い指摘があったのだったかな。ドナルド・トランプは片っ端から悪態を吐くというスタイルで、人々の支持を得ていた。ヒラリーをディスると演説会場は物凄く盛り上がったという。ところが、もう一人、アメリカには旋風を起こした人物が居ましたよね。自称社会主義者のサンダースが。バーニー・サンダースをトランプがディスったときに、演説会場がどうなったのかといと、あまり盛り上がらなかったのだそうな。それは容易に確認できてしまうレベルで起こっていて、つまりは次期アメリカ大統領を巡っての民意の推移は、アメリカのリベラル体制に対しての憤りが原動力であろうというもの。

昔ながらの白人社会を知っている層であればトランプ候補に魅力を感じるだろうし、一方で若者はサンダースに魅力を感じた。何故な、現行体制としてのリベラルに「ノー」だから。よくよく、説明を眺めていると、ホントにアメリカも切羽詰まっていて、そうであるが故に、そういう現象が起こったのに、それをリベラル盲信の者からすると、

「危険なナショナリズムが高まっている」

という考察だけになってしまうのでしょう。しかもナショナリズムというものへの対しての嫌悪感も付帯している。しかし、現実的には彼等を追い込んだのはリベラル政治であったという反省点は無いんですよね。いきなり、貧乏人が発狂してナショナリストになったと思い込んでいるし、いきなり若年層が社会主義者を担ぎ出したという程度にしか受け止めきれていない。

そもそもからして、EUのようなブロック圏の建設は正しい選択なのかどうなのかという疑問があるワケですよね。問題が噴出してしまっている。誰かの利益は別の誰の不利益なのであり、その方向性に正しいという自信なんて持つのは、傲慢の始まりなのかも知れない。だから、キャメロン首相のように「離脱したら経済的ダメージを受ける」という言説が強力に作用するんですが、マイケル・サンデルが朝日新聞に登場して朝日の記者に言い放ったのは「既に社会全体が経済に飲み込まれてしまっている」旨の発言をしているんですよね。「市場経済ではなく、最早、市場社会になってしまっている」、と。

何を決定するにも経済優先であり、もう、人間が生活する社会の指針として、そういうのはおかしいのではないか――と。サンデルは行き過ぎたリベラリズム批判、リバタリアン批判として展開させているワケですが。

トランプ旋風は6月に入ってから銃乱射事件の影響を受けたのか勢いを衰えさせているという。しかし、これで次のヒラリーが「信任された」という風に解釈してしまうと、アメリカ国内の不満という民意は、どう昇華されてゆくんだろか。


ぎゃ! 1ドル=99円台になってる! ひでえ!

また、ジョージ・ソロスが大儲けか。

2016年06月23日

菅家さん冤罪事件の情緒的な風景

菅家さん冤罪事件(足利事件)というのは、語ろうとすると自然と膨大な量の話になってしまうと思う。語り口が何系統にもなってしまうんですね。猾雄甅瓩箸いι分にクローズアップして裁判システムの矛盾を語れるだろうし、また、DNA型鑑定の誤判定が明らかになった事からすれば科学主義の盲信というテーマで語ることもできる。それと、冤罪が確定してしまったが故に真犯人は現在も捕まっていないという事になり、事件そのもの、或いは、この事件の場合は連続性も疑われている事件であるから北関東連続幼女誘拐殺人事件の中の一未解決事件としての語り口もあるワケですよね。

清水潔著『殺人犯はそこにいる』(新潮文庫)のページ数が500頁。それと、もう一冊、下野新聞編集者編『冤罪 足利事件〜「らせんの真実」を追った400日』(下野新聞社)の方も400頁超でしたが、どちらも裁判に関わる内容や、DNA型鑑定に関わる内容があるので、自ずと濃い内容になっていますかね。しかし、これは或る種の障壁であり、入り組んだ内容だから手をつけないという風に反応してしまうと、いわゆる冤罪事件が示している現代社会の闇というのを放置してしまうことになるんだろうなという気もしている。折よく、名張ぶどう酒事件を扱った東海テレビ製作の『約束』という映像作品を途中で視聴したこともあるんですが、実は、冤罪事件というのは、思うに「一般社会との戦い」という構図になってしまったり、或いは「無理解に対しての孤独な戦い」という構図を持っているかのようで、面倒くさがらずに、その本質、その暗部を知るという事は、現代人にとっては重要であろうなという手応えを感じましたかね。

語り口は多様ながら、印象に残っている内に事件を描写しようとすると、改めて生身の人間の側面が目立つものなのだなという印象が強かったですかね。何をごちゃごちゃ前置きしていやがるんだと思われてしまいそうですが、つまりは、事件を事件として、或いは、物事を物事として眺めたり、語ったりすべき事柄ではないと感じました。認定される事実がどうのこうのではなく、当たり前に人が人を語るときに、その相手の気持ちを斟酌したりする情緒としての狄祐岫瓩箸犲匆餃瓩箸い辰寝麩で語るべき内容であろうな――と。



これは随分と昔の記憶なのでしょう。徹夜マージャンをしながら、足利事件についてアレコレと話題にしていたんですね。で、マージャン卓を囲みながら、

「体液って何だろうね?」

と、多分、私が切り出したのだったかな。ニュースではDNAとやらが一致して、元幼稚園バス運転手を逮捕したという具合に報じられていた頃だから、1991年12月中旬だったのだと、今、気付かされる。

「体液って何だろうね? 汗? 唾液? それとも精子の事?」

「精子って事はないだろ?」と誰かが言うも、別の誰かが断定的に言った。

「精子の事に決まってるだろ。ヘンタイ野郎のシワザで、相手が幼女でも強引にヤッちまうんだよ」

――と。

この1〜2年前に宮勤事件が発生、逮捕されしていた。どうにもおどろおどろしい事件が起こるようになったものだという空気が既にあったんですね。宮勤が逮捕されたのが1989年か。それから2年半ほどして足利事件の犯人という人物が逮捕された。2件は勿論、直接的には関係ないワケですが、それを「時代の負のアイコン」というか「時代の象徴」のように感じていた。【小児性愛者】という何とも薄気味悪い名称と、それとサブカル的に広く世間に認知されることになった【ロリコン】というキーワード。

私の感覚だと【ロリコン】という言葉にはライトな感覚、使い勝手としてもポップなんですが、その一方で【小児性愛者】とか【ペドフィリア】という言葉には、なんだか随分と薄気味悪さを孕んだ言葉のように感じていた。

マージャンを続けながら、少しばかり、その話題を続けたと思う。仮に、それが犯人が被害者女児の遺体なり、遺留品に残した精液(精子)であったとして、それは、どういう状況を意味しているのかと、具体的に考えてしまったんですね。被害者は幼女であるが犯人は容赦なく強姦したという意味を表わしての射精だったのか、それとも、そういう変質者は殺害する事が先で、その後に遺体の前で自慰行為をして射精に到るという一連の行為をしたという意味なのか――。

文章にしてしまうと違うニュアンスに読み取れてしまうかも知れませんが、「性的暴行」と表現される内容というのが、具体的に、どの次元で起こったのか、正直、一般人は知らないし、限られた情報の中で、想像する事も難しいんですね。また、そうした想像は悍(おぞ)ましい内容も含んでいるし、且つ、諸々の配慮から言葉にして語ることが憚(はばか)られる内容でもある。

ですが、この冤罪事件というのは、俗世間的な価値感による偏見、色眼鏡というものも大きく関与しているなと感じることになりました。【偏見】や【色眼鏡】というのは説明するまでもなく、その意味ですかね。或る意味では無理解とか無知、無関心が偏見や色眼鏡に関与している。そして、そうしたものが冤罪というものに直結したかのようにも思える。真実に対して徹底的にアプローチするという、その態度が希薄であったが故に、偏見が偏見を生んで真実を捻じ曲げてしまっていた事件であったのだろうな、という感想に到りました。徹底的に真実にアプローチするよりも、どこかしら知ったかぶりをしてしまうことで、偽りを真実であるかのように誤まって認識してしまうところがあるよな――と。

で、マージャン卓の会話をしていた際、そのメンツの中で私だけは少しだけ違う思いがあったんですね。足利市あたりには友人が居たし、事件の現場となった渡良瀬川付近ではないものの、高校時代には渡良瀬川河川敷を毎日のように眺めて通学していた事もあって、全く知らない土地で起こった事件ではないかのような、そういう感覚があったので。これは何というべきか、「ああした風景の中で、そんな事件が起こるなんて!」という特別な感慨を抱かせるものだったの意です。

で、現在ともなると、あの時の会話の内容に審判を下すことができる。足利事件のDNA型関係に於ける体液とは、汗でも唾液でもなく、精液を意味している。その精液は被害者女児が遺留物である半袖シャツから微量だけ検出されたとされたものであった。(犯人と思われるものの汗、毛髪も残っていたが、DNA型鑑定の試料となった体液とは精液の事であった。)

では、手淫によって犯人が射精したものだったのか、あるいは、犯人は強姦するなどの性的暴行をした上で射精したものだったのか? 

私も初めて知ったんですが、菅家さん冤罪事件となった「真美ちゃん事件」、また不起訴になったが菅家さんが自供したとされていた「万弥ちゃん事件」に関して、その被害者の遺体からは《暴力的な性被害を受けた形跡はなかった》のだそうな。(下野新聞編集部編『冤罪足利事件』P45参照)

裏返すと、奇妙な事件であり、幼女が誘拐殺人に遭遇するケースでは暴力的な性被害を受けた痕跡が残っているのが通例だという。それにも関わらず、「真美ちゃん事件」と「万弥ちゃん事件」については、強姦を含めた暴力的な性被害の形跡がなかったというのだから、むしろ、特異なケースの幼女誘拐殺人事件であったという事になる。この部分なんてのは、今更ながらに気付かされてしまった部分でもありましたかね。

こうした内容というのは、内容が内容であるから諸々を考慮して報じられないという側面がありますよね。で、視聴者や読者というのは、その部分の詳細が報じらないから憶測するしかないとなってしまい、しかも、その憶測というのが見当違いなものになったりするものですね。

しかも、当時は新聞もテレビも「DNA型の一致」という事柄を、明らかに過大評価して報道していた。動かぬ証拠が科学によって証明されたとか、これからは科学捜査の時代であるとか、マスコミも警察の大手柄であると報じ、また、後に冤罪判決を下してしまうことになる裁判官らも心証では、やはり、DNA型鑑定の信憑性に後にケチがつくようなデタラメなものであるとは、さすがに疑えなかったし、容疑者として取り調べを受けていた菅家さんにしても、実は否認していたところにきて取調室にて「DNAが一致した」とか「お前と同じ精子が被害者のシャツからも出た。お前と同じ精子を持っている奴が他にいるのか」等と迫られ、虚偽自白に到っており、何とも罪深いDNA型鑑定だったのだ。

あの1991年当時、日本中が「これからは科学捜査の時代だ」とか「幼女に性暴行をはたらくヘンタイ野郎が逮捕されてヨカッタじゃないか。死刑にすべきだ」なんて思われていた、あの瞬間というのが、菅家さんにしてみると無実なのに崖下へと突き落とされた瞬間だった――という事なんだと思う。

真実と懸け離れたところで勝手に成立してしまう、その「ポジティヴとネガティヴ」という明暗を分ける分岐点であったのだろうなぁ…とね。

ここで「体液って何だろうね?」という20数年前に感じた素朴な疑問という部分に立ち返ってみる。その体液とは、即ち、精液であった。なのに、暴力的な性被害の痕跡は無かったともいう。とはいえ、射精した痕跡は残されていたという。ワイセツ目的で幼女に接近し、連れ去った。そして連れ去ってから間もなく殺害し、その殺害現場で自慰行為をして射精したという事なのあったのでしょう。遺体発見現場近くに残されていた被害女児の半袖シャツに犯人の体液が付着していたというのは、即ち、半袖シャツに犯人のものと思われる精液が付着していたの意であり、そういう犯行だったのだ。勿論、その一連は充分に「鬼畜の所業」であるワケですが、何もかもを強烈な性衝動に衝き動かされ、力づくという意味の暴力を一から十まで行使して、自らの性衝動を満たしたというのではなく、冷静に標的を物色し、冷静に連れ去って、やはり、冷静に現場を選んで殺害に及び、そこで性的イタズラを含むのかも知れませんが自慰行為をし、立ち去ったという事なのでしょう。或る意味で、犯行は冷静さを伴なったまま遂行されており、それは秩序だった思考回路が機能した者の犯行だったのだろうな、と、思い知らされる。



いわゆる足利事件を含めて北関東連続幼女誘拐殺人事件は、行方不明事案の横山ゆかりちゃん事件を含めての5件が連続性のある事件ではないのかという見地からの名称であり、既に国会の質疑応答でも用いられた事件名だという。つまり、事件は5件あったのではないかという話なのですが、そのうちの3件の事件は、パチンコ店が連れ去りの舞台になったものでした。

で、やはり、私の周辺でも事件が報じられる都度、

「そんな小さな子をパチンコ店になんて連れて行くなんて!」

という類いの言葉を、誰かしらが必ず指摘することになる。これは、いちいち、ゴモットモな指摘をせずにはいられない第三者的なホンネでもあるワケですが、日テレ清水潔さんの『殺人者はそこにいる』でも指摘されていた通りであり、そうした感慨を抱くのは一つのホンネでしょうが、そこの固執する人々というのは当たり前の事に推測が及んでいない――という。これは、つい先日、北海道で発生した折檻のつもりで山中に我が子を置き去りにしてしまった騒動にも通じる話ではありますが、当の親は自らの過失によって我が子が行方不明になってしまったという風に心を痛めている可能性が非常に高く、いちいち、その指摘を繰り返す事の無理解について指摘されていました。ワイドショウであれば、事件は第三者的なコメンテーター氏が、いちいち、その感想を述べて事件を語るという報道になりますが、そうなると、その「親の責任」について語るコメントは、一つの放送局に限らず、別の局のものも含めて番組の数だけ繰り返され、更にはコメンテーター氏や解説者の数だけ、何遍も何遍も、似たようなコメントが繰り返されるという仕組になっている。

下野新聞(しもつけしんぶん)は栃木県のローカル新聞ですが、いわゆる足利事件(真美ちゃん事件)に於ける遺族の苦悩という部分についても、ありのままに記している。

真美ちゃん事件とは――。

1990年5月12日18時頃、真美ちゃんは父親に連れられて足利市伊勢南町にあったパチンコ店「ロッキー」へ行った。その前日にも同パチンコ店に真美ちゃんを連れて行っており、そのパチンコ店で真美ちゃんは同年代の友達ができたらしく、12日のケースでは、真美ちゃんの方から

「パパ、きのう遊んだお友達と遊びたいから、きのうのパチンコ屋に連れてって」

と言われたのだという。

真美ちゃんは、そこのパチンコ店で友達をつくっていたのか? 下野新聞社編『冤罪足利事件』では「同年代の友達ができたらしい」という一文が記されているが、清水潔著『殺人犯はそこにいる』の方では、真美ちゃんのいう猴達瓩寮蟻里魯僖船鵐嚇垢涼鷦崗譴鬚佑阿蕕砲靴討い唇貮い涼秧Гぅ優海鮖悗靴討い燭箸いΣ椎柔を示唆しているようにも読めてしまいますかねぇ。

というのは真美ちゃんは大のイヌネコ好きの子であったという。清水著『殺人犯はそこにいる』では、真美ちゃんの母親に「どんな子であったのか?」と尋ねている。(P165)

「動物が好きでしたね……。猫とかね。二匹も三匹も飼ってました。白と黒のパンダみたいな猫ですね、寝る時に両腕に猫を抱いてね……」

そして、取材の中で清水記者は、連れ去り現場となったパチンコ店で働いてた「当時の若いスタッフ」という事でしょうか、その元女性従業員を探し出し、連れ去り当日と前日の証言を聞き出している。父親がパチンコ台に向かっている間、真美ちゃんはパチンコ店の駐車場で遊んでいたのだ。(P53)

「でんぐり返し、っていうんですかね? あれを私に見せてくれたんですよね。駐車場で下が固いのに……。活発でかわいい子だっていう印象ですね」

更に、その元女性従業員は真美ちゃんと会話も交わしていた。

「知らないおじさんについていっちゃダメだよ。アイスとかお菓子とかあげるって言われても、絶対にダメだよって言ったんです」

「大丈夫、真美ちゃん、行かないよ」
と元気そうに答えた――と。

パチンコ店の駐車場には小さなプレハブの両替所が設置されており、この両替所に勤務している女性も、真美ちゃんの事を記憶していたという。それは日本テレビのニュース映像に残されていたそうで、真美ちゃんは前日も一緒に遊んだ野良猫を探していたという。前脚をきちんと揃えて座る茶色の太った猫であり、当時のニュース映像に、その猫も映り込んでいたという。(清水記者は、実は165頁と53頁とで、「真美ちゃんは猫に会えたのだろうか?」とまで記している。)

12日の19時頃に、父親は真美ちゃんの姿が見えなくなった事に気付き、父親は娘の名前を呼びながら捜しまわった。パチンコ店内から駐車場、道を隔てての渡良瀬川の土手も捜してみたが見つからない。真美ちゃんの父親は真美ちゃんの母親にも連絡し、真美ちゃんの母親もパチンコ店に駈けつけて捜したが見つからず、最終的に足利警察署に救いを求めることになった。

決して栃木県警の動きは鈍くなく、県警本部からも捜査員が続々と足利の現場にやってきたという。そして捜査幹部の一人は現場で、真美ちゃんの父親に会うなり、こう怒鳴ったという。

「なぜ子供をパチンコ店に連れてきたんだ!」

何故、こんな引用の仕方をするのかというと、その捜査幹部と同じように、メディアも、そして世間の良識というものも、同じ反応をしてしまうものであろうと思うから。しかし、そうした反応が、どのように、当事者に降りかかるものなのか――を、人間観というフィルターを通して情緒的に捉えようという主旨です。

真美ちゃんの御両親の元にはマスコミが殺到した。勿論、捜査幹部が放った言葉を疑問形の言葉として「何故、連れて行ったんですか?」という具合の質問を浴びせられるワケですよね。ホントに後悔して苦しんでいたのは、その父親であっただろうに、そういう思慮というのが構造的に欠けてしまっているのが現代社会の仕組みなのでしょう。

で、この先は下野新聞社編『冤罪足利事件』に掲載されていた被害者遺族に寄り添った記事となりますが、真美ちゃんは行方不明になった翌日、行方不明になったパチンコ店から南へ約三百メートルの場所にある河川敷の葦の茂った場所で、変わり果てた姿として発見された。死亡推定時刻は、12日の19〜20時頃の間。真美ちゃんの父親が激しく動揺していたであろう、その時間帯に真美ちゃんは何者かに殺害されてしまっていたという事になる。

勿論、真美ちゃんの御両親は自宅に待機し、一睡もせずに13日を迎えた。13日の正午頃に足利署から電話が入り、「渡良瀬川の河川敷で見つかりました」という報告を受けたという。遺体で発見されたという、その知らせに、真美ちゃんの母親は気を失ってしまったという。

事件発生から一週間後、真美ちゃんの母親はチラシの裏に何やら書き物をしている夫の姿を見つけ、不審に思った。夫、つまり、真美ちゃんの父親はチラシの裏に遺書を綴っていた。

「先立つ不孝をお許しください。真美の元へいきます」

チラシの裏面には、そう、書かれていたという。

その逸話について、父親は捜査関係者に苦しい胸の内を吐露していたという。いわく、

「一粒種の真美が元気に成長してくれることだけが生きがいだった。それがパチンコに夢中になっている間に何者かに連れ出されて殺されてしまい、真美や女房に申し訳ない。働く気力もなく、自殺しようと考えた」

と。

真美ちゃんの御両親は人目を避けるように足利市内のアパートを離れ、県外へ転居した。(何度か引っ越しを繰り返されたような記述も、どこかにありましたかね。)

真美ちゃん一家は、事件の一ヶ月前に新潟県から栃木県足利市に引っ越してきたばかりで、足利市での生活にようやく馴染み始めた頃、事件に遭遇してしまっている。真美ちゃんが「昨日遊んだお友達と遊びたいから、きのうのパチンコ店へ連れてって」と発言していた事の裏側には、そんな理由もあり、遺族に対して向けられる「何故、パチンコ店へあんな幼い子を連れていったんだ!」という類いの批判は、あまりにも無粋、あまりにも無思慮、余りにもデリカシーのない言葉であったかのような印象を受けましたかね。。。。誰が一番、苦しんでいるのか、そうした事に思いが到らない「世間という名の大バカヤロウ」というものを思い知らされてしまう。



それだけにあらず、同事件で冤罪なのに17年間半もの間、犯人扱いされ、刑務所で生活をすることになった菅家さんの出所後の実情という部分にも触れられていました。

支援者たちに支えられ、晴れて無実を勝ち取って釈放の日を迎え、自由の身となった。しかし、失われた時間は膨大である上に、精神的に不安定な状態を抱えていたという。菅家さんは2010年3月26日に再審判決公判があって自由の身となったのですが、その3日前、つまり、23日の深夜に地元の下野新聞の或る記者の携帯電話に電話を入れて来たという。

電話の向こうの菅家さんは涙声で、言ったという。

「おれは独りぼっちなんだ。もう生きていたくない。生きたくないよお」

と。

ハレて自由の身を獲得できそうな見込みになっていた、その3日前の菅家さんの様子とは、そういうものであったという。

映画「ショーシャンクの空へ」で、長期間服役していたモーガン・フリーマン演じる囚人が仮釈放だかなんだかになって、シャバへ出てみたものの、刑務所生活の長い囚人にとってみると、最早、シャバへ出ることの方が怖lく、映画の中の、その囚人は首吊り自殺をしてしまう。意表を突く、その意外な映画の展開に頭の中が真っ白になった視聴感がありました。フィクションとはいえ、そういう精神状態というものが有り得るという事に限っては、あながちデタラメではないのでしょう。

その電話から3日後には、我々も記憶している、あの釈放シーンとなる。清水潔記者は、あの釈放シーンでは取材者ではなく、菅家さんの傍らで菅家さんを迎える側の人間として映像に映り込んでいたという。確か、お寿司屋さんへ行った映像なんてのも、日本テレビで放送されたのだったかな。

しかし、それは一断片であり、自由の身となった後の菅家さんの「心の後遺症」なるものを、『冤罪足利事件』には綴られている。無実を勝ち取って足利市の市営住宅で暮らし始めたものの、菅家さんの様子はかんばしくなかったという。食事もとらず、何事にもやる気が沸かない感じ。目はうつろとなり、頬はこけ、釈放される前よりも体重を減らしてしまっているなど、そうした後遺症らしいものを下野新聞の記者は菅家さんの自宅に訪問してみて目撃したという。「自殺も考えた」とも口にしたし、「夢の中で、母に爐發Δ垢阿修辰舛帽圓から瓩噺世辰燭鵑」とも口にしたという。

そうした内情とは裏腹に、冤罪事件は、思い込みが激しい世間には、正確に伝わらないという事情があるよう。

『殺人者はそこにいる』P444では、冤罪確定後に一人の制服警官が取材陣の元へ駆け寄ってきたという逸話に触れられている。その制服警官は唐突に

「菅家は、実は本当の犯人なんだよ」

と言ったという。驚いた記者が、その記者が根拠を問うと、その制服警官は

「先輩がそう言ってるから間違いないんだ」


と答えたという。その逸話は単純に「栃木県警内の内情」を表わしているとも言えるのですが、つまりは、「根拠らしい根拠がないものを平気で信じてしまう、狒韻た有瓩旅ノ磴任△蹐Δ隼廚Δ鵑任垢諭おそらく、その制服警官は善かれと思い、報道陣に対して、その情報を告知している。しかし、根拠らしい根拠を示すというレベルの返事はない。その善い人によれば、「先輩たちがそう言っているから」という次元の話なのだ。

1983年に清水潔記者は免田事件の免田栄さんを取材した経験があるという。この年、免田さんは無罪が確定していた。熊本市内で免田さんと一緒に食事をとって、その帰りに一緒にタクシーに乗車したという。そのタクシーの車中で、免田栄さん自身がタクシーの運転手に

「あんた、免田って人、どう思うね?」

と、世間話のように問い掛けてみせたという。続けて、免田さんは

「あの人は、本当は殺ってるかね? それとも無実かね?」

と問い掛けたという。暗い車内のことで、タクシー運転手は質問主が免田さんだと気付かくこともなく、返事をしたという。

「あぁ、免田さんね。あん人は、本当は犯人でしょう。なんもない人が、逮捕なんかされんとですよ。まさか、死刑判決なんか出んとでしょう。今回は一応、無罪になったけど……知り合いのお巡りさんも言ってたと」

そういって、そのタクシー運転手は笑ったという。冤罪事件には、こうした「無罪になったけれど、ホントは犯人なのでしょう」という疑惑の目が付き纏うというのが現実のよう。これが世俗世間というものの一面を如実にモノがっている気がしないでもない。

既に、この菅家さん冤罪事件では、森川大司・元検事が逮捕から1年後頃に菅家さんを取調べした際の録音テープが開示された。元検事は、黙秘権についての告知も怠り、弁護士への連絡もしてしておらず、後に違法な取調べであったことが確定している。そのテープが公開された法廷で、菅家さんは森川元検事に

「森川さん、私の家族に謝って下さい。苦しんでいる」

と訴えたが、森川元検事は明言を避けるかのように

「申し上げた通りです」

を繰り返した。実は遡っても森川元検事は冤罪についてどう思っているのかと問われて、「非常に深刻と思っています」と述べただけに過ぎず、ただの一言も謝罪はしない。「非常に深刻と思っています」という言葉を以って、以降は「申し上げた通りです」と繰り返し、菅家さんの追求を突っぱねたままなのだ。

それとは別に、テレビでも姿を見掛ける事のある福島章医師も、菅家さんの精神鑑定書を書いている。その精神鑑定書では、菅家さんを「代償性小児性愛」と診断していた。福島医師は実際に菅家さんと面会をし、生活歴、家族歴を調べ、問診と心理テストを繰り返したという。その菅家さんの精神鑑定書には、「本件犯行で幼女に性的行為を行っている」や「逮捕前に十年以上にわたって幼稚園、保育所に職員として勤務し幼児との接触を好んでいた」等の点を重視し、狢綵性小児性愛瓩箸い診断を下したのだ。

代償性小児性愛とは、簡単に言えば成人女性に向けられるべき性衝動、その性衝動が代償として小児性愛に向かったという意味であり、つまり、そのように診断を下され、裁判の材料となった。福島医師の精神鑑定書とは、菅家さんが犯人である事を前提にして鑑定したものであり、控訴審第十回公判に於いて、出廷して福島医師は、認めた。

他の専門家の意見としても、精神鑑定を依頼された精神科医は冤罪か冤罪ではないかを鑑定できるものではなく、犯人である事を前提として精神鑑定を書かざるを得ず、福島章医師(上智大心理学学科教授)の鑑定を責められないであろうと擁護する声があったという。

菅家さんの無罪、それどころか実質的には「真っ白な無実」、真相としては国家権力による捏造にも近いデタラメが介入した冤罪であった事が確定したワケです。

冤罪確定後に下野新聞が福島医師に対して、

「菅家さんが無罪であるならば、犯人を前提とした鑑定の信用性も問われるのではないか?」

と質問したが、福島医師は、「いや、同じ。鑑定結果は変わらない」と強弁したという。

「専門家としてそう判断した。鑑定には自信がある。(菅家さんに)謝罪する考えは、ありません」

だって。

更に、東京高裁で開かれた控訴審第十回公判では、精神鑑定について証言台で説明をしていたという。

「本人が真美ちゃんを殺していないということであっても小児性愛と言えるかどうかというご質問であれば、それは言えると思います」

「それはいろいろな間接的な情報ですけれども、そういうものを総合的に判断するということですね」


まさしく、素晴らしき愚民社会の構図が描かれいますやね…。

以降に述べますが、菅家さんには全くロリコン要素もないし、小児性愛の要素も事実として確認できない。むしろ、全く、ロリコン嗜好が無い人物なんですね。それを小児性愛者に仕立て上げる為に、「代謝性」という言葉がアタマにくっつけられ、「小児性愛」と診断されたに過ぎない。つまり、成熟したグラマー好きな性嗜好の持ち主であっても、「いやいや、お前は成熟したグラマーな女性への性欲を実現することができないから、小児性愛に走ったのだ」という鑑定なんです。そんな鑑定が罷り通るのであれば、誰しもを小児性愛者にできてしまうって事なんじゃないの。で、それが「やっぱり小児性愛者の殺人犯だったか。とんでもないヤローだ。死刑にしろ」として拡散してゆくワケで。

また、真美ちゃん事件と万弥ちゃん事件には暴力的な性被害の痕跡が見つからなかったという話が、この代謝性小児性愛という診断名にとって都合がよかったという事になる。暴力性はない、ただ、成人女性に対しての性衝動が幼女に代謝として向けられただけであると解釈できる。デタラメな精神鑑定過ぎるだろ、でも謝罪はないし、鑑定には自信を持っていますって、おかしいよなぁ…。



足利事件発生直後、捜査本部は容疑者をリストアップする為に幼児にイタズラをする性的異常者、幼児に興味を持っている者を調べ上げたという。他の事件でもレンタルビデオ店のレンタル履歴などがリストアップに利用されたようですが、このときにも過去の性犯罪歴者のリストアップは勿論のこと、ポルノビデオ通販業者などからロリコン愛好者を把握していったという。また、幼児に興味のある者として、幼女趣味のありそうな教諭、塾講師も捜査の過程で調べ上げられ、そのリストは形成されていったという。(小学校の教諭や塾講師って、こういう事件が起こると捜査対象になるって事かも。)

そうしたリストに引っ掛かることなく、菅家さんは狎験萇埒骸圻瓩箸靴徳楮座仂櫃防眈紊靴燭箸いΑM由は、週末だけ借家で過ごす不審人物という線であったという。当初は地元の駐在員がピックアップした一生活不審者に過ぎなったという。

菅家さんは足利市中心部、足利市家富町の生まれ。地元中学を卒業後、市内のメリヤスセーターを編む会社や金物会社に勤めたという経歴を持つ。二十代後半の時に同級生と結婚したが、ほどなく離婚。実家で両親と妹と一緒に住むが三十代になって間もなく、後にアジトとして報じられる事になる足利市福居町に家賃一万円の借家を借りて独り暮らしをして独立をしたが、後に幼稚園バス運転手となってからは、週末のひと時をその借家で過ごすようになったという。無口なタイプであったが勤務態度は真面目で雪が降る日には自主的に早い時刻に出勤して、嫌な顔もせずタイヤチェーンを着ける人であったという。また、同僚であった元保母によれば「寒いね」と言って缶コーヒーを、そっと手渡してくれるやさしい人柄であったという。

生活不審者の菅家さんには行動確認が付けられた。24時間体制で不審な点がないか菅家さんを徹底的に尾行したのだ。しかし、問題行動は確認できない。女児への声掛けのようなシーンも確認できない。運転も慎重なタイプで法定速度を守るタイプであり、夜間に外出もしない。コンビニで手にする雑誌も一般的な雑誌でしかない。ごみを路上に捨てることさえしない真面目なタイプ。

そんな菅家さんがDNA型鑑定なる杜撰(ずさん)な鑑定結果を皮切りにして、イッキに小児性愛者の凶悪犯に仕立て上げられてゆくという、怖ろしい展開をみせる。

その借家で寝間着姿であったところに、警察が踏み込んで突き飛ばすなどし、任意同行として強制的に警察署に連行。否認するが否認を認めないという取調を受ける中で、虚偽の自供に追い込まれ、そのまま、逮捕。

逮捕直後、新聞には次のような記事が掲載された。「菅家容疑者 ロリコン趣味の四五歳」、「狃桔の隠れ家畆擇蠅襦廖◆屬海劉狃桔の隠れ家瓩砲蓮⊂女を扱ったアダルトビデオやポルノ雑誌があるといい、菅家容疑者の少女趣味を満たすアジトとなったらしい」(読売新聞1991年12月2日付)

他にも、「犯人のアジトを発見」とか「大量のロリコン物のアダルトビデオがアジトから発見された」という具合にマスコミが報道していた。

しかし、冤罪確定後に『真犯人に告ぐ!』(朝日新聞出版)で、菅家さん自身が「小児性愛者だなんて大嘘ですよ。グラマーな人の方が好きですから」とコメントしている通り、そもそもからして、デタラメだったのだ。

『殺人犯はそこにいる』でも『冤罪足利事件』でも触れられていますが、実際には200本超のビデオテープがあり、そのうちの133本が、いわゆるアダルトビデオであった。アダルトビデオ以外は「男はつらいよ」であったり、「インディ・ジョーンズ」であったり「座頭市」などの一般作品であった。アダルトビデオは133タイトルあったが、タイトルとしてロリコン作品と紛らわしいものが1作品あっただけで、実質的に菅家さんが所有していたアダルトビデオ133本には1本たりともロリコン作品はなく、いわゆる巨乳ものであったというのが事実だったという。

マスコミが一斉に大量のロリコンビデオが所有していたと報じたのは、警察関係者からのリークを鵜呑みにして報じたものであり、ロリコン趣味なんて持っていない者が一躍、憎むべきロリコン犯罪野郎として祀り上げられた大きな契機であったのだ。

精神鑑定書を巡って、仮に菅家さんが犯人ではなかったとしても菅家さんは代謝性小児性愛とする診断を覆す気はないし、謝罪する気もないという福島章医師の態度は、理解に苦しみますかねぇ。

総じて、そういう態度の者が多い事を考えると、「吾輩の辞書には反省も懺悔もない」という人たちによって、社会が形成されているのかもね。

裏返して、菅家さんを支えた人たちというものにも触れられている。女手一つで新聞配達をしながら子育てをしていたという女性が自身も幼稚園バスの運転手をした経験から、報道を信じられず、冤罪の可能性というものを信じてみて獄中の菅家さんに手紙を出して、支える会が発足したという。また、フリーライター小林篤氏が裁判を追う中で冤罪の可能性に気付き、記事を掲載、後に出版され、その著書が元になって、日テレ清水記者、或いは下野新聞の記者の中にも影響を受けた記者があったとしている。

菅家さんは拘置所内から実家の母親や妹に宛てた手紙があり、その手紙の中には次のような追記文があったという。

あと一回税金(二〇〇〇円)がのこっておりました。どうかよろしくお願いします。市役所に迷惑かけますがどうかよろしくお願いします

何を意味しているのかというと、逮捕された後も菅家さんは税金の滞納を心配していた事を表わしている。おそらくは、相当、生真面目な人なのでしょう。菅家さんは1991年に逮捕され、その2年後に心労で父親を亡くしており、その父親の死には菅家さんの逮捕が強く影響しているという。そして自由の身になる前に母親も亡くされている。45歳で逮捕されて、晴れて冤罪を勝ち取ったものの、失われた17年間は重たく、故に狄瓦慮絨箴畢瓩出てしまったという事のよう。

さて、真実を見い出したのは権力機構の外の者ばかりである事に気付かれされる。「支える会」の構成員も主婦や自営業者らであったという。真実を捻じ曲げて捏造に近い冤罪に加担し、尚も、謝罪を拒絶しつづけたのは、いわゆる官憲と、官憲に近い権力システム側の人たちばかりであったなぁ、と。

考えるに、こういうのは最も重大な人権蹂躙の事案のように思えますが…。



2016年06月22日

ちあきなおみVS藤圭子

飽くまで個人的な夢の対決というのが、ちあきなおみ対藤圭子でありまして、共にカバーの名手なんですね。で、何気に、両者は同じ楽曲をカバーしている。

アカシアの雨のやむとき(西田佐知子)、

星の流れに(菊池章子)、

カスバの女(エト邦枝)、

花と蝶(森進一)、

別れの一本杉(春日八郎)、

ゴンドラの唄(松井須磨子ほか)、

夢は夜ひらく(園まり)

逢わずに愛して(内山田洋とクールファイブ)

と、実は8曲ほど手持ちのCDとしてカバーがダブっている事に気付き、こうなったら徹底的に聴き比べをして、決着をつけてやろーじゃねーか、どーですか、お客さん(パン、パン)という精神状態に追い込まれる事となりました。

まぁ、勝手に脳内で、ドリーム歌謡ショー、夢の対決を実現させちゃうよ的な――。


◆ROUND:1…アカシアの雨のやむとき

オリジナルである西田佐知子バージョンが既に相応の完成度を誇っていると思われますが、ちあきなおみと藤圭子とを対決させてどうか? オリジナルに近いのは藤圭子。アレンジをしているのが、ちあきなおみ。さて、圧倒的に情景が伝わって来るのは藤圭子ですが、ちあきなおみの「しっとりと歌う感」は尋常なレベルじゃありません! うーむ。ホントに甲乙つけられないなぁ…。どうすりゃいいんだ…。ボクシング採点で点差をつけねばならないというマストシステムであるとしたなら、苦渋の決断という事になるんでしょうけど、ホントに比較が難しい。このレベルになると、好きか嫌いかというジャッジも難しいので、今一度、一曲づつPC音源を聴きながら考えてみたのですが、ここは、どうやってもドロー、いや、藤圭子に軍配かな。思いつめてしまっている感がハンパじゃない。器用さ、巧さが光るちあきなおみよりも、全力投球で剛速球を放り投げてくる藤圭子の気迫ってのは…。

点数に例えるなら、98対99ぐらいの僅差かな。

◆ROUND:2…星の流れに

飽くまで個人的な感想ですが、基準となりそうなオリジナルの菊池章子バージョンよりも、明らかに、ちあきなおみ、藤圭子はハイレベルな出来としてカバーしている問題の曲です。オリジナルは全てが優等生、正攻法なのですが、カバーでは適度に味付けが施されており、まさしく、「正真正銘のカバーの女王はどっちなのか?」と考えたときに、好材料となる楽曲。

この「星の流れに」という曲は、当時「パンスケ」と呼ばれた、いわゆる「夜の女たち」から支持を受けた曲であるというんですが、確かに昭和の名曲中の名曲であろうという楽曲ですかねぇ。正真正銘の歌謡曲、流行歌という性格を体現しているというか…。

🎶
星の 流れに 身を うらなって

何処を ねぐらの 今日の宿

すさむ心で 居るのじゃないが

こんな女に誰がした


ちあきなおみは、しっとりと歌っており、表現力豊かで、哀感もたっぷり。それに対して藤圭子は、やさぐれ感が抜群なのであり、これまた「こんな、女に、誰がした〜」という恨み節は藤圭子にハマってしまう。実は、どちらも菊池章子のオリジナルバージョンには無い味付けなんですよねぇ。これも実質的には互角、甲乙つけがたい展開であり、気分次第、コンディション時代でジャッジも変わってしまうだろうなという僅差の対決ですが、冷静にマストシステムである事を考慮すると、ちあきなおみに軍配ですかね。楽曲そのものが、そこそこモダンな楽曲でもあり、ちあきなおみの表現力というのは捨て難い。ちあきなおみは「黄昏のビギン」とか、ちょっとモダンな曲で抜群な表現力を発揮するタイプでもあり、この「星の流れに」という楽曲という事を意識してしまうと、これは、ちあきなおみであろうか、と。

点数にするなら、100対98ぐらいか。


◆ROUND:3…カスバの女

この曲は、「🎶此処は地の果て、アルジェリア」というフレーズで有名な歌ですね。とはいえ、懐メロ中の懐メロですが。うん、ここは、始めてジャッジとして、悩まないで済むラウンドになったかも。ちあきなおみの歌う「カスバの女」と考えるとハマるだろうと思っていたんですが、思っていたよりもフツウ、平坦。楽曲としてムードのある曲なので、その点ではハマりそうなんですが、どうも抑揚、声量の小さい大きいの落差が少ないので、ちあきなおみのカバーにしては、感動が少ない。対して藤圭子ですが寂寥感に徹したアレンジになっており、「此処は地の果てアルジェリア」という歌詞の雰囲気、「明日はベニスか、モロッコか、泣いて手を振る後ろ影」という歌詞の情景が伝わって来るのは藤圭子。ちなきなおみの節回しが船村徹センセ的な演歌に引き摺られてしまっている点と比べて、藤圭子が優位かなという印象。なので、軍配は藤圭子としました。

点数にするなら、88対92ぐらいという印象ですかね。

◆ROUND:4…ゴンドラの唄

この楽曲は大正時代の流行歌との事ですが、黒澤明監督の映画「生きる」の中で、死にゆく志村喬が雪の降る公園のブランコに乗って、

「いのち みじかし 恋せよ おとめ」

と、歌った、あの曲ですね。うー、これは再び難しいジャッジになりそうですかねぇ。。。藤圭子って、ホントに凄いんだよなぁ。決して負けていないと思う。だけども、ちあきなおみの小さな節回しというべきか、ビブラートというべきなのか、それが利いているような気がするんだよなぁ。これは互角だよなぁ。いや、やはり、これは、ちあきなおみですかね。安定している上に少しだけメロディーで盛り上がる部分があるんですが、その箇所で藤圭子の方が盛り上げ切れていないのに、ちあきなおみはパーフェクト、まさしく、流麗な流れとして歌ってしまっているという感じ。なので、軍配はちあきなおみですかね。聴き直してみると、これは差があるかも。

点数にすると、100対95ぐらいの点差としてジャッジすべきかな。

◆ROUND:5…逢わずに愛して

この楽曲は、内山田洋とクールファイブの楽曲であり、つまり、ボーカルは前川清って事ですね。藤圭子にしてみると夫の曲、もしくは夫だった人物の曲であるという事になりますかね。タイトルではピンと来ない曲ですが、CMなどでも使用されていたかな。ちなきなおみ、藤圭子が共にカバーしている通りで、知名度以上の名曲です。

🎶
ゆめの、ゆめの、続きを〜

せめて、せめて、心に〜

あああ、永久に ちりばめェッ


と、あの曲です。

またまた、これは微妙なジャッジとなりそうです。藤圭子は情感たっぷりに歌っており、例によって情景を想起させるような歌いっぷり。ちあきなおみは垢抜けた表現力を発揮しており、これまた情景が浮かび上がって来るような歌いっぷり。オリジナルである前川清に近いのは藤圭子と思われますが、ちあきなおみの表現力ってのにハマっている気がするなぁ…。曲全体としていいとゆーか、ちあきなおみの方が楽曲全体を通して聴かせる歌い方であったとゆーか。最初に「ちりばえェっ」の語尾の跳ねる部分を聴いたときには藤圭子の勝利を確信したんですが、ちあきなおみは違う方法で、その語尾を歌い熟しているんだなぁ。これが抑揚ってやつか。とゆーワケで、軍配はちあきなおみですかね。

点数としては、そんなに差をつけたくはないけど、100対98ぐらいか。

◆ROUND:6…別れの一本杉

この「別れの一本杉」は春日八郎がオリジナルで知名度の高い楽曲ですが、困ったことに私は個人的にはあんまり好きじゃない曲だったりします。聴き比べてどうかなぁ…という印象。

ちあきなおみは、私が絶賛するところの「矢切の渡し」風の歌い方です。おそろしく調子がいい、あの節回しを利かせた歌い方です。一方の藤圭子は相変わらずの全力投球っぷりで、所々、唸り節にハスキー声を織り交ぜての熱唱であり、確かに、これも藤圭子がドスを利かせてド演歌を歌い上げる場合に得意としている歌唱法なんですよね。うーむ。個性と個性とのぶつかり合い。マストシステムである事を考慮して甲乙をつけるならば、軍配は、ちあきなおみかな。

点数としては100対98ぐらい。

ここまで、何勝何敗だってっけ? ちあきなおみの4勝2敗。藤圭子が2勝4敗。うーむ、自分でジャッジしておきながら信じられんな(笑

◆ROUND:7…夢は夜ひらく

藤圭子の代表曲「圭子の夢は夜ひらく」は、元々は園まりの「夢は夜ひらく」なんですね。で、ちあきなおみはというと、「ちあきの夢は夜ひらく」という具合にアレンジして歌っている。「なおみの夢は…」ではなく、「ちあきの夢は…」なんですね。一方で、オリジナルとなる園まりバージョンもユーチューブで確認しました。飽くまで私見ですが、かなりの大差で、藤圭子、ちあきなおみのカバーがオリジナルを上回ってしまった好例のような、そういう対決です。

ひょっとしたらと思ったのですが、これは、あんまり迷わないですかね。「ちあきの夢は夜ひらく」は想像していたよりも、フツウ。ちあきなおみの歌の凄味というのは、まるで、その一曲が一つの劇であったかのような、一曲全体を通したときの味わいにあり、一曲の内に聴かせどころが何カ所もある、競馬馬に例えれば二の脚、三の脚、粘り腰のような、そういう展開があって一曲の世界を表現しているという風に感じているのですが、この楽曲は、割と展開が少ないんですね。暗いステージの中で一点にスポットライトを当てられて、歌一本勝負という感じの楽曲なのだろうと思う。対しての藤圭子の歌う、この歌については、語るまでもないですかね。声の涸らし具合から、聴く者に対して語りかけるように、その人生を歌っているという演出の楽曲であって、この歌で対戦を組むのは少しハンデがあったかも。というワケで、軍配は藤圭子です。

点数にするなら、98対105ぐらいか。藤圭子の歌う、この楽曲には付加価値点があって然るべきだしね。

◆ROUND:8…花と蝶

この楽曲は森進一の曲なんですが、作詞は川内康範であり、その詩、そのデキというのは日本歌謡史に残る、豪快な一曲です。玉置宏が歌謡曲紹介をしたときの、あの口調で歌詞を読んでみれば、

花が男か 女が蝶か

蝶のくちづけ 受けながら

花が散るとき蝶が死ぬ

そんな恋する女になりたい


おそろしく、シンプルな歌詞なんです。それでいて、花が散るときには蝶も死んでしまうという、そういう豪快な歌詞であり、曲調も豪快です。森進一バージョンだと、

(花が)はうあながぅぁ

(男で)をとこでぃぇぃぇ

(女が)をんながわぅぁ

(蝶か)ちょおぅおぅかぅわぅ


ぐらいの唸り節の連発。しかも、全盛期の森進一がオリジナルであり、しゃくりまくり、うなりまくりの奇跡の一曲です。

ちあきなおみは垢抜けたアレンジにしており、唸りません。「黄昏のビギン風」というか、既に触れた「星の流れに」でも披露したジャズ調の楽曲、モダンな味付けでカバーしている。森進一のオリジナル版は参考外であろう、そういう出来映え。対する藤圭子の出来映えも凄まじく、あの飛び道具であるハスキーボイスでガンガンと唸り節を織り交ぜており、しかも巧い上にハマっているかのような印象。うーん。ちなきなおみを聴き直してみると、それは完璧な出来だよなって思う。そして、藤圭子を聴き直してみても、これで負けることなんて無いだろ、ゼッタイにという出来映え。音楽的素養のある人のジャッジであれば、ちあきなおみのような気がするんですが私は音楽的素養がないので、やはり、圧倒的な情念で鬼気迫る藤圭子に軍配ですかねぇ。これは、意図せずして、凄い接戦の最終ラウンドであったと思う。

点数にするなら、100対101か。100点を超えての1点というのは、つくづく、藤圭子の場合はプラスアルファみたいなものをホントに持っている歌手だからなぁ…。想定を越えて、肉薄してしまう何かを持っている歌い方だと認めているから。

うーん、4勝4敗のドローか。まぁ、妥当な結論ですかねぇ。事前に計算しての八百長だと勘繰られそうですが、ホントに、甲乙つけるのは間違っている、それを敢えてマストシステムだと思い込むによってジャッジしてきた結果なので、どうしようもない部分がありますかねぇ。敢えて言うなら、「圭子の夢は夜ひらく」は先入観も作用しただろうし、圧倒的に藤圭子が有利な楽曲であっただろうから、冷静に語るなら、ちあきなおみの勝利という感じなんですが、それを突破してまう情念のようなものが確かに藤圭子の歌には宿っているというか、これは人物の秘めた何かって事になるんのかなぁ。


因みに、他のカバー曲で、これはヨカッタというものを、一曲づつ。

ちあきなおみさんなんですが「夜霧を今夜も有難う」、イイですね。そう、石原裕次郎のヤツ。ああいうムードのある曲で、しかも、スローというか、ゆったりとした曲だと、その歌い手さんの魅力というのが際立つよな、と。既に何度も「黄昏のビギン」を挙げてしまいましたが、静かにスローに曲に入って来て、そのまま、ムード満点に最後まで歌い上げてしまう。その必殺パターンが一つ。それと、もう一つ必殺パターンがあり、それは「矢切の渡し」のような民謡風というか演歌調というか節回りアリ、そちらにもスイートスポットがあるのだと思う。で、この「夜霧よ今夜も有難う」は色々な人がカバーしている曲であり、御馴染みの曲でもあるのですが、その中でも、やはり、ちあきなおみさんの歌は味わいが深いよなぁ…と感じた一曲でした。

藤圭子さんですが、ハマりそうでハマらないカバー曲というのも正直、幾つか見つけてしまったかなという印象なんですね。確かにドスを利かせた歌唱法は藤圭子さんの魅力であり、飛び道具のような武器なのですが、ハマらないものがあったりする。森進一や矢吹健の歌はハマりますが、高倉健の「唐獅子牡丹」、北島三郎の「兄弟仁義」あたりは期待を超えてまでどうのこうのという印象ではない。実は演歌歌手なんですが演歌以上にブルースの人であるというのはホントで、オススメの一曲はカバーして紅白歌合戦にも出場したという「さすらい」ですかね。これは殺人犯として逮捕されてしまった克美しげるさんがオリジナルであり、男の歌です。

この歌には藤圭子さんの地声なんでしょうか少しくぐもった声色、で、サビで張り上げるんですが絶妙に裏返ってシビれてしまう音があるんですよね。変声期の少年のような音で、「みなしごハッチ」や「ハクション大魔王」の主題歌を歌っていた嶋崎由里さんも出す音なんですが。非常に魅力的。

🎶
泣いて〜くれるな〜

流れの星に〜

かわいい瞳に〜

よく 似てる〜

おーもい〜 出さすな〜

さすらいものは〜

明日への命もままならぬ〜


オトコマエなカッコいい歌声でも在り、艶のある歌声でも在り、ハスキーなのに伸びのある歌声とゆーか。

2016年06月21日

18歳選挙権を巡って

選挙権が18歳にも与えられる事となって、次の来月10日の参議院選挙からは実際に18歳から投票に参加する事になったという。

主権者意識を巡っての教育というもの、それを教えるのに苦慮しているという報道をみかけることという事態になっていますやね。高等学校などの現場でも、生徒にどのように教育すべきか悩んでいるところであるという類いの報道を先日も眺めていました。

しかし、この問題というのは、どうも喉に小骨が引っ掛かるかのような、そういう違和感ってないでしょうか。

おそらく、現在のテレビ的オピニオンリーダーは、既に現時点で、或る種の犹從猫瓩鯤えてしまっているのだと思うんですね。それは、例えば次のような主張であろうと思う。

「今の日本はシルバー民主主義になってしまっている。是非とも若者の声を政治に活かすべきなのです。だから、なんとしても若年世代に投票に行ってもらわねばならないのです!」

という主張。これが何度も何度も繰り返されている。しかも、投票所へ足を運んでもらう為に、アレコレと方策が練られている。気軽に投票して投票率を上げる選挙こそが正しい選挙の在り方であり、若者の声を政治の場に届けるべきなのです――と、選挙を主催する選挙管理委員会そのものが、その正しい選挙の在り方を提示し、妙に若者に媚びるかのような宣伝に手を染めてしまっている。

タレント「ぺこ&りゅうちぇる」を擁しての啓発映像は、なんとなく、「ひらけポンキッキ」的というか「ウゴウゴルーガ」的というか、まるで幼児向けの宣伝映像になっているといい、確かに、酷そうだなと感じるのは、偽らざるホンネであろうと思うんですよね。もし仮に、ホントに、そのレベルまで投票行為への敷居というものを下げてしまって、大丈夫なんだろかという疑念をおぼえないでもない。

重低音が響くラジカセ。それを背負うように、ラップだとか、レゲエの大音響を周囲に響かせながら、若者サマが投票所へ登場! もろ肌をさらすような和柄のシャツの胸元からトライバル系のタトゥーがチラチラとみえていて、態度はいわゆるオラオラ系であり、グラサンの奥からは

「オメーらジジババどもが、オレ様にどうしても投票所へ足を運んでくださいっつってから、こうして、来てやったんだよ、タコ! 有難く迎えやがれや、コラ!」

という、オラオラなオーラ全快。

それでも、

「ハハー、ありがとうごぜえますだ、若者サマ。ほんに、若者サマサマなんで、ごぜぇますだ」

と、迎えちゃうとか?!

いいんスかね? こんなに敷居を下げてしまって――。どうせ数年後に後悔する事になるんじゃないの?

もしくは、ワケのワカラナイ系のエコノミスト兼NPO団体主宰の謎の人物が、

「若者の投票率を上げないと、この国の将来はないワケですよね。どうすれば若者が投票所に足を運ばせることができるのかっていったら、インセンティブを付けてしまう事が唯一の解決法ですよ。投票したものには、Tポントがもらえるなどの特典を与えるように変革すべきです」

と、言い出す。ここで反論が起こる事を期待するんですが、最早、今の日本じゃ、反論は期待できないんですよね。

「うぇーい、そうだ、そうだっ! Tポイントとか、楽天ポイントをつければ、投票率が上がるじゃないか! ついでに夏フェスも開催すれば若者が集まるじゃないスか! ゆるキャラも呼ぼう! 御当地アイドルもゲストに呼んでイベントにしちゃおう! シルバーデモクラシー反対っ! ジジイババアしねっ! 保守系のバックラッシャーどもはキモいんじゃ、ゴラ! 二ホン氏ね!」

と、言い出しかねないと思う。本来であればスジ違いであろうヘンテコな予防線というものがホントに張られてしまうのが昨今なのではないだろか。いや、それぐらい絶望的な状況になってしまっているような…。勿論、若者を蔑視しているのではありませんで、真面目な者は真面目に決まっている。ただ、潮流として大衆迎合路線になっており、より、平たく言えば方向性として大衆迎合のチンドン屋路線になってしまっているのは現実ですよね?

って、やはり、本来的には、媚びるとか迎合するのではなく、マトモに主権者意識というのものを教えるべきなんじゃないんスかね。

で、そういう態度を取っている新聞紙面が多いのだそうな。というのは週刊文春6月23日号の「新聞不信」が取り上げているテーマであり、あれこれと考えさせられてしまいました。

基本的には「新聞不信」にしても次のような主張であるのだと思う。着色部分は引用ですが――

政治に関心のない若者たちを導かないといけないという風な狆紊ら目線瓩鼻につく。

だって。

半分賛成なんだけれど、半分は保留ですかねぇ。というのは、前段の政治に関心のない若者たちを導くこと、それへの固執については疑念を抱いているんですね。ですが、上から目線であるという分析が異なる。私が思うに上から目線ではなく、純然たる迎合であると感じているから。シルバーデモクラシーからの脱却を掲げているという事は、既に、若者に対してのほんの少しだけ迎合しているようなものであり、本来なら、カネをかけてあれやこれやとPR活動しなくても、自覚のある若年層は勝手に投票所へ足を運ぶものなのではないかと信じたいから。アメ玉だの、アイスクリームだの、そんな餌を用意して行使される一票なんてキモチワルイ。それで、高い投票率というアベレージを叩き出して、それで、なんになるの? 低い投票率であるのは、その選挙民の政治への関心度の顕れかも知れず、それは小手先の誘導で解決すべき問題ではないよな、と。主権者意識の問題であり、有権者であることの自覚に覚醒して、例え大雨でも台風であっても一票の行使の為に投票所に馳せ参じるぐらいの意識の覚醒ってのは望んではいけないの? 

さて、新聞不信から抜粋すると、

読売新聞は12日付の朝刊で「投票で未来に影響を与えよう」と記したという。新聞不信は、「いただけない」と難癖をつけている。続けて、

投票所に足を運ぶ自覚を持つ必要がある」、「大切なのは民主主義の根幹である選挙の仕組みへの理解を深め、投票によって参政権を行使する重要性を教えることだ」という読売紙面に対しても、「大上段の物言いだ」、「上から目線」と批判的に扱っている。

ん? この新聞不信の担当者は、何を言いたいのだろうってなりました。私個人は、ひょっとしたら読売的言説に賛成なのかも知れない。

なんて、考えながらと読み進めてゆくと、新聞不信は次のように続く。

そもそも主権者意識というのは、大人が教えるものなのだろうか。あくまで個人の自覚の問題であって、放っておくべきではないのかとの感を受ける。選挙のときだけ、しかも投票率を上げるための大人の都合も透けて見えるなかで、「主権者意識」を教え込まれる未成年にとっては、大きなお世話だろう。

ああ、サスガだな。そう、それだよ。要は、どんなことをしたって選挙に足を運ぶという行動は、本人の自覚の問題だって。その後、新聞不信は、朝日新聞を取り上げて若者に寄り添わんと思いを馳せてみせるオトナな意見に対しても、一撃、「だから何だ、と言いたくなる。余計なお世話だ。」として結んでいる。

ああ、それなんだよね。あれこれと干渉したって、どうしようもない問題だし、説教を垂れても仕方ないし、迎合しても仕方ないというのが、真理であろうと思われ――。

但し、選挙ってね、別になんでもいいんのはホントですかね。別に大上段に構える必要性はない。だって、「政治の問題なんて考えたこともないッス」という者に無理矢理に投票させる必要性はないし、また、媚びて媚びて清き一票をお願いするというオトナの態度も違うと思うから。

ただ一つ、足が向かなくなってしまう可能性があるというのはホントであろうと思う。やはり、周囲を見渡したときに現在の40代であっても「ん? オレ、選挙って一度も行った事がないんよ」というタイプの人たちが実在するのは確かであり、そういう人は、どうも話していると、タイミングを逸してしまった感というのがあるんですよね。20代の頃から投票経験がないから、30代になっても40代になっても投票所に足が向かない。既婚者であっても夫婦揃って投票経験がないなんてのはザラですかねぇ。なので、いざ報道で政治に関心を抱き、投票に行くべきだと感じるような事があっても、その判断を「めんどくさい」という風に感じて鈍らせてしまう心理があるみたい。つまり、タイミングを逸してしまった感だよな、と。そういう部分を目撃してきたつもりなので、私の意見としては基本的に若い内には半強制的にでも「投票に行ってこい」とか「選挙、行ってきなさい」とか、そういう足がかりとなる言葉があった方がいいような気もしますかね。

勿論、友人同士、ベストなのは友人と誘い合わせて投票場へ行ってみるという経験してしまう事かも知れませんが、若者には若者なりに事情があって、そう上手くはいかない。しかし、行くキッカケがなかったからといって後々まで足が遠のいてしまう事を想定すると、やはり、帰属社会と自分との紐帯、社会と、その人との紐帯が切れてしまい、やはり、後悔することになるんだと思うんですよね。別になんて事ではない。選挙の投票日に投票所へ足を運んで、紙切れに名前書いて投票して、後で選挙速報を確認すれば愉しめてしまうマツリゴトの話なのであって。

間違っても「行ってくださいマセマセ」なんて下手に出るのは反対ですかね。薄っすらとではあっても、責務であるとか、責務を果たすべきだとか、そうしたニュアンスで、その人が後に自覚するように促した方がいいという意味です。「促す」というのは、まぁ、「消極的な推奨」というニュアンスですが、それぐらいの温度ですかね。

テレビに拠れば、諸外国との比較によって18歳選挙権の妥当性を広報しているみたいですが、シビアに物事を捉えようとすると学生に政治、学生に選挙権というのは、現状として、そぐわないのはホントだと思う。中には熱心に取り組む者もいると思うけど、「若者層」という括りで括った場合、そんなに関心は持っていないような気がするから。しかも、現在の選挙制度根無し草的な民主主義であり、やはり、ポピュリズムに陥り易いという風に捉えていますかね。それなりに真面目に考えて一票を投じるのが筋であり、不真面目な一票も一票は一票ですが、啓蒙なき一票だらけとなると民主主義は終わってしまうんだろうからねぇ。なので、「自覚してから投票してもらう」というタテマエは堅持すべき重要な部分だと思いますかねぇ。

人気者の芸能人を起用して、どんじゃかどんじゃかと宣伝し、扇動してみせて投票率が上がったとしても、それは大衆迎合度合いの濃度を高めているって事だろうし。

で、過去の選挙の傾向からすると、扇動すれば投票率は上がるんだけれど、郵政解散選挙や政権交代選挙など、もう、政治的プロパガンダが、投票率向上運動にリンクしてしまっていますよね。無党派層に訴えかけるような主張、公約を掲げている政党や候補者は、きっとニンマリでしょう。

そうした民主主義が何を意味しているのかというと、フェイストゥフェイス、郷土愛とか地域コミュニティの破壊であり、紐帯の断絶でしょう。テレビやインターネットから降り注いでくる無党派民の育成でしょう。むしろ、ゆっくりとしてでもいいから、人々の中に「オレも社会の一員であり、どこそこの市民の一員である」という具合の自覚に到達してくれるのが望ましいのではないか。それは公的な視点から望ましいとだけいうのはなく、そこで生活するその個人にとっても帰属意識の確保という意味で安心感に繋がるのだと思う。中々、ピンと来ないかも知れませんが、ご近所さんと顔見知りであることなんてのは、生活する上で、楽と言えば楽なのもホントですからね。自治会長とか、民生委員とか、地元の議員さんあたりに「あざーす」って挨拶できるぐらいの方が住環境として安心できるのがニンゲンであって。