2016年07月27日

相模原障害者施設襲撃事件の雑感

相模原市の障害者施設に26歳の元従業員の男が多数の入所者を襲撃したという事件は、犠牲の大きさからも、また、その犯行の内容にしても歴史的大事件という事になりそうですが、その所感について。

いわゆる無差別に被害者を物色した通り魔事件ではなく、後に明らかになった衆院議長宛ての書簡の内容からすると、明確に重複障害者についての安楽死について述べられているという点で、中々、強烈なインパクトを残した事件だと思いますかねぇ。

複数回に渡って安楽死の問題については述べてきましたが、回想してみる。現実問題として考えるべき大きな問題が一つ、紛れ込んでいると思うんですね。

近所の70代の女性は、或る時に、次のように洩らした。

「看病、看病で、もう、こっちが先におっ死(ち)んじまうよぉ」

――と。

その方は何年、病人の面倒をみてきたのだったかな。その女性の一生に関わる愚痴だったんです。嫁いできてから義父母の看病をして15年で、それが終わったと思ったら旦那が病気になってしまったので更に10年ぐらい病人の面倒ばかりを看ているという自らの一生を回想した上での、

「もう、こっちが先におっちんじまうよぉ」

だったんですね。実際に外見からして疲労困憊が窺えた。間もなく旦那を看取ったのでしたが、一年もしない間に、その方、御自身が脳梗塞で倒れられた。

まぁ、そうした事情というのは現実問題であろうと思う。

もう一つ。こちらのの話、私は幼馴染の友人から「ウチのオフクロが最近、認知症になってみたくてさぁ…」という感じで打ち明けられたんですが、結構、深刻なので衝撃を受けました。

同級生の御母上のケースなんですが、こちらは先に訃報を聞かされた女優の白川由美さんのような、ちょっと上品な雰囲気を持っていた方だったんですね。旦那は一部上場企業のサラリーマンであった。年に一度は家族旅行をするという、時代を考慮すると、相応に余裕のある狎ぢ哭瓩箸いΔ牴搬沖瓩任△辰拭実際に二人の息子も国立大学を卒業させ、或る意味では昭和に於けるサラリーマン世帯の模範的なファミリー像を体現されていたようにも思える。

旦那が定年退職を迎えたが、相応の退職金ももらえた世代であり、経済的な困窮は感じられない。しかし、その旦那は脳梗塞で倒れたのを契機に車椅子生活を余儀なくされ、その面倒をみるようになってから5〜6年も経過した頃から、様子がおかしくなったという。

話を訊いてみると、いくら老夫婦として歩んできたとはいえ、来る日も来る日も病人の介助をするというのは相当なストレスらしいんですよね。ふと、気が付くと、母親がブツクサと小言を吐き出す事が頻繁になり、時として、カナキリ声を上げるようになった――と。で、やはり、

「私はなんで一体、こんな人と結婚したんだろうねっ! アタシの人生はめちゃめちゃだよっ!」

等と、言い出すようになったという。ストレスが溜まると、そんな事を言い出すのがヒトというものかも知れませんよね。しかも、そのフレーズは何度も何度も繰り返されるようになり、友人の御母上はお見合い結婚だったらしいのですが、そのお見合いを取り持った人物への恨みなんてものまで口に出すようになってしまった――と。

ヘビーな話ですが、こーゆーのが現実だよなって思う。家族の壊れ方というのがテレビドラマ「岸辺のアルバム」どころじゃなく、完膚無きレベルで老境に差し掛かってしまったときに破壊されてしまうという現実だと思うんですよね。

「はて、シアワセとは何であっただろうか」って思わず、考えさせれてしまう。

で、考え方としては、先ず、現実を現実として認識すべきだと思う。ここに分不相応なヒューマニズムを、ぶち込むのは、似非ヒューマニズムだよな、と。明らかに問題は単純ではなく、恐ろしいほどに複雑な問題だと思うんですね。

しかも、それら看る側の心労の問題に他に、看られる側の問題として認知症の問題がある。認知症の話になってくると、その人が認知症になる以前の人格は期待できなくなり、近親者にも失望を与えてしまうことになる。ああ、ここで【人格】という言葉を使用してしまいましたが、人格は人格です。精神的は働きや特性。パーソナリティー。それが程度はありますが喪失されてしまうのが認知症であり、それをどう対処すればいいのかというのは、ホントは大問題中の大問題ですよね。つい最近も田原総一朗さんの弁を取り上げた週刊新潮の記事を引用しましたが、尊厳死の話こそが喫緊の大問題中の大問題であると思う。

このブログでは、植物状態とはウンヌン、危篤状態とはウンヌンなんて話にも触れてきた通りだし、マイケル・サンデルというフィルターを通して生命倫理や人格権の話についても考えてきたつもりなんですが、おそらく、現状の介護システムや、それに係る倫理は問題点を抱えていそうですかね。医療技術が進んでしまったので、産む産まないの選択をする時代になってしまったし、意識の有無や人格の有無を問わずに生命を存続させる技術が完成しつつあるというか、一部では完成してしまっているというか。それらは技術革新によって実現されたものなのなんですが、それら技術のスピードに人の倫理が追い付いていけない。

とはいえ、ここまで述べてきた問題は身体障害者の問題そのものでありませんやね。身体障害者についての福祉理念の話はシュメール人の話で触れたかと思いますが、もう、その頃から存在している。社会なり、共同体が障害者を守るという理念は途轍もなく古い。そちらについては既に確立されていると言っていいんじゃないだろか。

で、そういう問題で必ず立ち塞がることになる問題が、遺伝子の選別の問題であるとか産むべきか産まぬべきかという選別の問題であり、その先にあるのが、ヒトを優劣基準で判断して要不要を語ることなんですね。昨日、ナチズムに触れる中でゲルマン民族至上主義に触れましたが、それは優学的な意味合いで人種、遺伝子に優劣があるという考え方をし、劣等民族に対しては抹殺しても構わないという、そういう論理を本気で実行した話なんです。優生学そのものの発祥はアメリカだったらしく、まぁ、イヤラしい話ですが科学的というか学術的に優劣を証明できないものであろうかという観点からスタートしている。自分たちの考えるところの優秀な者の世界を是とし、劣等者は抹殺する事も許されるという冷徹さが横たわる。どうでしょ、こういう話に憤りを感じるのは、人道主義があるからではないのかって思うんですよね。しかし、昨今、道徳や倫理を否定して、経済合理性を重んじようする気運が急激に拡大している。それを敏感に感じ取ってしまったものが、今回の犯人のような狂信的な優劣論者に行き着くのではないか。

酒鬼薔薇聖斗は確か、殺害した男児が軽度の障害があった事を以って、それを根拠に差別的な発言をしていたのだったかな。確か現在は廃刊になってしまった朝日新聞社編『暗い森』に記述があったと思いますが、つまり、それなんですよね。後に酒鬼薔薇の等価思想は狷伐耋性瓩箸いιに分析されてゆくのですが、かなり自分勝手なんです。

以下に過去記事のコピーを。

酒鬼薔薇聖斗事件の少年Aの場合、快楽殺人としての異常だから全く系統は違いましたよね。ですが、反社会的な心理という部分では、共通点もあったような気がする。少年Aは【等価思想】なるオリジナル思想を有していたという。朝日新聞編集部刊の『暗い森』などでも取り上げられていたもので、少年Aの心の闇、その闇の一端なのですが、どんな命も等しい価値であるという。カエルの命も、人間の命も、等価だという理屈なのだという。人間だけを殺害してはいけないというが、どの命も等価なのであるから、ヒトを殺害するのと、カエルを殺害するのとは同じであるという、そういう理屈。

で、そこからワンステップして、「どんな命も等価なのだから、強い者が弱い者を殺しても問題はないのだ」という風に少年Aの精神世界では、理屈づけが為されていた。

バモイドオキ神という、自ら創作した神を崇めるという、異常もしており、単なる妄想といえば妄想なのですが、実際にバモイドオキ神なる神の絵を描き、そのバモイドオキ神に報告する形式で、犯行ノートをつけていたとなると、この異常っぷりは尋常ではないと気付かされますよね。

「どんな命も等価なのだから、強い者が弱い者を殺しても問題はない」という、その少年Aが「オリジナルの思想です」と言い張る異常心理、その異常心理を或る精神鑑定士は【虚無的独我論】と命名し、鑑定書に記していたという。

当初、私も「虚無的独我論」という命名を訝しく思いました。というのは【虚無的】という部分が理解できなかった。結局、この少年Aは、自分に抵抗できないであろう相手を選んで事件を起こしていた事からすると、単なる独善的な、自己尊大の極致に思える。独我論というのなら分かるが、そこに虚無的と敢えて付けているのが腑に落ちませんでした。

が、人間というのは複雑怪奇な生き物で、やはり、少年Aについての「虚無的独我論」という表現の妙も少し理解できてきた気がする。というのは、「独我」の裏側に「虚無」が潜んでいるというのは確かだろうという解釈にならざるを得ないんですよね。

単純化してしまうと、苦労知らずで甘やかされた人物が自己尊大になるという文脈で説明されますが、そうではなく、少年Aのケースなどは、一度、少年A自らが説明したような虚無的な「等価思想」を経ている。このプロセスを経た後に、「強い者が弱い者を殺して何が悪いんや」という、冷酷無比な独善的な精神世界の理屈づけになっている。


優劣がホントに在るのか無いのか? 

これは荘子の狹月皚瓩農睫世靴芯未蠅如∋筝朕佑賄月發力辰郎任盻斗廚奮某瓦世茲覆辰道廚ΑF本人にしても福沢諭吉で御馴染みの「天は人の上に人をつくらず…」もありますが、そういうものは東洋思想の叡智であろうと思う。ホントは優劣の観点というか、その尺度には作為性が介入しているというか、恣意性が介入しての優劣であり、それを超越しての多様性の話なのに、現在、多くの識者が語る多様性はカタカナ語として輸入してきた爛瀬ぅ弌璽轡謄瓩力辰任△蝓△海譴泙深蠢位A垢並人誉の肯定になっていると思う。なんていうのかな、その意味では社会に溢れている経済合理性論者の考え方から生まれた醜悪な優越論があり、そこから生まれた奇形思考が、この事件の犯人であったような気がしないでもない。

知識の始まりは分類する事からスタートするというのですが、分類したと同時に世俗的な価値感は優劣をつけてしまうんです。例えばクマとヒトとを区別する。同時にヒトの優越性を感じたがあるワケですよね。クマとウマとは同等ですがウマがヒトの役に立つ生き物だと知ると、ウマには価値があるがクマには価値が無いなんていう風に言い出すワケです。更には文明人は孤島で原始的な生活をしているものを劣った者とみなし、更には都会人はイナカッペを勝手に劣った連中であるレッテル貼りをして劣者とみなし、金持ちは貧乏人を劣った者だとみなす。価値のあるものとは生産性のあるモノだけだという風に思考している。その延長線上に、酒鬼薔薇や今回の相模原障害者施設襲撃事件の犯人のような、優劣の価値感、現代的独我論というものが成立しているのではないだろうか。

酒鬼薔薇にしても、今回の犯人にしても、勝手に他者を不要物であると考えてしまっているワケですが、これは現代社会に溢れる歪んだ優越意識が更に歪んで投影されたケースのようにも思えますかねぇ。実際、社会一般でも、そうした優劣をしてしまうのが世間一般の価値感として固定しているのが現実ですからね。

言葉と意志と混乱と本質

【ファシズム】と【ナチズム】との差異を語れるだろうか? 

勿論、狭義の意味では簡単ですよね。【ファシズム】は、ムッソリーニ率いるファシスト党の政治思想、政治体制を指していて、【ナチズム】の方は、ナチスの政治思想、政治体制を指している。

そこではなくて、実際のシーンで使用すべき【ファシズム】と【ナチズム】の差異の話であり、それをやるには、その言葉の意味を明確にしておく必要があると思うんです。

【ファシズム】⇒全体主義にして権威主義。議会政治の否定する一党独裁体制。国粋主義的な性格。反自由主義にして反共産主義、反社会主義。軍国主義的。タカ派。

【ナチズム】⇒ゲルマン民族至上主義。反ユダヤ主義。全体主義にして権威主義。一党独裁体制。民主主義、共産主義を徹底的に攻撃した。「指導者原理」という統治原理の徹底。国粋主義的な性格。軍国主義的。タカ派。

大雑把には、上記のような感じですかね。以前にも「ナチスは右翼なのか左翼なのか?」という話に二度ぐらい触れているんですが、意外と難しい話なのだそうな。国粋主義という意味ではナチズムもファシズムも明らかに右翼的な性格が強く、右翼思想が根源にあるものと思えるのですが、共に労働者階級の革命運動の中で台頭したという意味で言えば左翼的である。実は「右翼と左翼」という分類方法では、どうもキチンと分類できそうもないんですね。

DVDで「ヒトラー最後の12日間」を視聴したばかりで、その余勢を駆って語るなら、実は「右と左」という分類方法は、実際に使用されている頻度以上に貧弱な分類方法ですよね。マルクス主義に影響を受けているものを左翼とし、そうではないものを右翼としている程度の分類でしかない。厳格に国粋主義を解釈しようとすれば、それは右翼ではなく、保守思想であろうと思う。この場合は革新イデオロギーに対しての保守イデオロギーであるから、自明でしょう。となると、ファシズムもナチズムも、革新を掲げて台頭した何かであるものの、それでいて民族や国家の固有性とか伝統文化の優越性を訴える国粋主義的なイデオロギー(政治思想)であった事を考慮すると、いわゆる左翼体系とは異なる革新イデオロギーであったのかも知れない。しかも、それが利用したのは自民族中心主義(エスノセントリズム)であった。

【ファシズム】と【ナチズム】との差異としてはどうか?

やはり、差異として際立つのは、ナチズムの側の非常に強烈なゲルマン民族至上主義ですかね。その根底には反ユダヤ主義があり、それは遺伝形質の優劣をも持ち出して展開され、優生学的な人種差別を伴うものであった――という部分でしょうか。後は政治思想的な差異は、そんなに無いように思える。

日本の場合はどうでしょう。一応は【日本ファシズム】、【天皇制ファシズム】という言葉が存在する。全体主義的権威主義という特徴は当て嵌まるし、勿論、自民族中心主義、国粋主義も軍国主義も当て嵌まる。しかし、労働階級による革命運動から生じたものではなく、また、そうした勢力が権力を奪取して成立したものではないという意味で、ファシズムともナチズムとも異なる。これは決定的な差異のようにも思える。日本の場合は政治変革によって登場した勢力がどうのこうのという文脈がなく、状況が切迫するしてゆく過程で、国粋主義的全体主義にシフトしたという感じでしょうか。日本を考える場合は、空気を読むという国民性があり、且つ、明確な意思を有さぬままに、瓦解するかのようにして「戦時体制としての全体主義」に転がっていったという特殊な文法があったような感じですかねぇ。そこに明確に「国家としての意思」が存在していたのかどうかは、意外と大きな差異にも思える。おそらくは、明確な国家としての意思もないままに、満州事変に引き摺られて、その体制に移行したというのが最も説得力のある説明ですかねぇ。


で、昨今、やたらと【ファシズム】や【ナチズム】という単語を耳目にする機会が増えたと思う。何かと言えば、そういう単語を使用したがる人たちが存在するよな――と。小泉純一郎に対してヒトラーのようだという批判があったし、また、現在の安倍政権に対しても、そういう反応がありますよね。要は「タカ派である」の意で、そうした言葉が発せられてしまうのでしょうけれど、率直に、過剰反応である上に批判は適正さを欠いていると思う。こういう事情のウラには、なんでもかんでも【ナチス】や【ファシスト】という単語を使用してさえいれば、それが人々には犒拔膈瓩箸靴禿舛錣觧が予想できるから、それを利用して扇動として使用されているのでしょう。そこまで無意識に計算しているか、もしくは無明か。これは、なんでもかんでも【レイシズム】とか【ハラスメント】とか叫んでさえいれば、そうした主張がアッサリと通ってしまう事とも関係していると思う。要は、レッテル貼りをして非難を浴びせれば、そのままロクに中身も検証させず、その対立問題を優位にしてしまうテクニックなのでしょう。その「甘い汁」に気付いてしまった人たちは、それを常套手段と化した。しかも、現在ともなるとテレビ等のメディアが先導して社会全体が「レッテル貼り」を盲信し、意志・意思もロクに弁えぬままに単純二択化を盲信するまでになってしまっているのが現実ですよね。

それと、もう一つ、現在の安倍政権は自公政権であるワケですが、野党が総崩れになってしまった事で済し崩し的に高い内閣支持率と安定的な議席数を誇るという状況にあり、護憲派は危機感を募らせ、それを全体主義的と感じている可能性がありますかね。都知事選を巡っての野党統一候補を決めるドタバタ劇の中で、それが顕著に表れていたと思う。都知事選という首長を選ぶ選挙でしたが、その水面下に潜んでいる論点は明確に「憲法改正への憂慮」があったように思える。

表面的なコトバ、そのウラには大きな意識が投影されている。単純な暗喩と直喩の話ではなく、その発言者なり記述者の無意識が言語としてイメージされる。それは言語の形式をとっているが飽くまでイメージであり、そのイメージの更に奥には、思惟と感情とがあるという。ノーム・チョムスキーの話なんですが偶然にも読み掛けている二冊の本(「脳科学者の伝記」と「アメリカ現代史」)に記されていたので改めて目が向きましたが、殆んどの日常的なシーンでは語られない奥義のような話でもある。言語には言語化されない本質があるという話であり、そこから記述者や発言者の思惟や感情を読み取ることもできるという事が大真面目に検討されている。これが何を意味しているのかというと、表面的な言葉なんてものは多分にオブラートに包まれてしまっているものだという事を意味している。「言葉狩り」のようなものを実際に日本社会は重視しているんですが、それは著しく幼稚なんですよね。本質ではない、その字面や言葉尻を捉えて相手を黙らせる手法を駆使しているだけで、意見を意見として真正面から理解し、それを展開させようという力を、自ら諦めて感情に訴える手法に終始してしまっていますやね。おそらく、劇的なレベルで既存の左翼イデオロギーは縮小してしまっていると思う。旧社会党の社民党の存在感がゼロに等しいのも、社民党の近20年ぐらいの歩みを回想すれば、多くの者は思い出せるでしょう。実は殆んどが無意味でしかなかった。

左派に対しての苦言を呈しているのではなく、自称保守にしても自称リベラルにしても、同じ事が当て嵌まると思う。何故なら言葉狩りに怯え、表面を取り繕う事に神経を費やし、それを善とする社会にしてきたのは現代社会そのものの空気だったと思うから。トリックスターの登場に頼ったり、兎にも角にも、その場を丸く収めることが正しいという風に思考したり、そういう環境だから余計に混乱してしまうんですよね。どういう意見なのか、どういう意思・意志なのか、それを整理するだけでも容易ではない。何故なら言葉尻以上に字面以上に、その言葉に奥にあるものを読み取ろうという態度が大事なのかも知れないのにね。


【ゲマインシャフト】とは【共同社会】と訳され、そこでは共同体の構成員は互いに感情的に融合し、全人格を以って結合する社会と仮定される。血縁関係に基づく家族、地域に基づく村落、友愛に基づく都市。そして、歴史としては「共同社会」(ゲマインシャフト)は「利益社会」(ゲゼルシャフト)へと移行すると考えられた。ここには「共同社会⇔利益社会」という対立構図が見い出せるワケですね。その利益社会とは、目的や共通の利益のために作為的に形成する社会集団を意味しており、国家・都市・会社・組合などが挙げられる。この類型はドイツの社会学者テンニェスに拠る類型なのですが、この考え方を受け容れる事は可能だろうか?

共同社会(ゲマインシャフト)は、これまたテンニェスの用語であるところの猖楴前媚岫瓩砲茲覺袷瓦陛一体であり、血縁社会(家族)、地縁社会(村落)、友情社会(中世都市)の典型とした。これは言い換えると、血縁、地縁、友情のようなものは本質意志に拠って結合した社会だという意味に取れますかねぇ。しかし、それが利益社会(ゲゼルシャフト)に発展する――という仮定。利益社会にあるのは本質意志による結合ではなく、狒択意志瓩砲茲觀觜腓砲覆襦宗修箸いΣ渉蝓

移行すべきのなのか移行しなくてはならないのかという問題は兎も角として、共同社会が本質意志による結合であるのに対して、利益社会が本質意志による結合ではないと分類されている事に気付かされる。また、利益社会とは本質意志ではない選択意志であるという。しかも、この話はマックス・ウェーバーとも関係しており、マックス・ウェーバーの方は、選択意志については、思慮的結合であり、契約によって結合されており、大都市、国民、世界に示されるという。

現在、世界各地に起こっているテロリズムや排外主義を訴える人々が台頭していますよね。多くの論者は、ああいう様子を表現して「エゴイズムだ」とか「ナショナリズムの台頭だ」と解説する。しかし、よくよく考えてみると、ああした反乱が起こるのは一つの猖楴銑瓩領れなのではないか。既に「マクドナルドVSジハード」の対決構図とは、「グローバリズムVS反グローバリズム」だと述べてきましたが、この対立構図は歴史的必然として起こっているようにも感じてならないんですよね。単純に、低賃金労働者が暴れているとか、偏狭なナショナリストがワガママを言っているという次元ではない。大都市圏に於ける社会が契約関係に基づき、また、思慮的な選択意志によって利益社会として成立しているというのは、まだ、理解する事も可能ですが、現在、実際に展開されているグローバリズムの本質とは、帝国主義的な膨張であるのも明白だから。思慮的結合なんてものじゃなく、強者が強者と同盟を組んでシェアを奪い取り合うりゲームをしているようなものですからねぇ。その意味では目的と手段とを分けているようにも見えますが、実際には分けていませやね。本質は単なる私的な強欲に委ねられており、その根幹に据えられている強者の目的とは自己増殖の為の競争、拡大することの競争であり、平和な世界の実現であるとか、共生しようとしていませんやね。グローバル資本主義の中で拡大を続ける力、その力の猝榲瓩箸蓮崋らを自己増殖させる為だけのもの」であり、本質的に協調であらねばならない社会という概念を既に脅かしてしまっている。

2016年07月25日

ポケモンGO現象と町の様子

筋金入りの無趣味人間なので21過ぎや22時過ぎに近所の公園を運動がてらに歩くことにしている。場合によっては怪しい徘徊者だよなぁ…と思うものの、そこそこ継続しているので警備員さんとも会釈を交わすようになっている。

この数日なんですが、22時過ぎから23時過ぎという、そこそこ遅い時間帯にポケモンGOをプレイしていると思われる人々がうろうろとしている事に気付きました。公園の外周が1000歩ほどなのですが、6〜7名がスマホを眺めているという風景。22時過ぎ、23時頃であっても街灯が設置されており、コンビニもあるし、警備員の巡回もあるので、実は23時過ぎに犬の散歩をしているという中高年男性を見掛けることは少なくないし、22時頃まではスポーツウェアに身を包んで単身でジョギングをしているという30〜40代女性もポツポツとは見掛けるという感じが通常なのですが、一昨日の23時頃は、少し風景が違いました。暗闇の中に浮かび上がる立ちスマホ、歩きスマホをする無数の人影がありました。

何故、ポケモンGOをプレイしている人だと断定できるのかというと、これにも証拠があって、道端で20代前半ぐらいの若者が昔の同窓生に偶然に出くわしたらしく、大きな声で会話しているのを耳にしましたからね。不意に傍らに軽自動車が停車したかと思ったら、そこから若い女性の明るい声が響いたのでした。

「久しぶり〜、あたし、分かるゥ? こんな時間にこんな所で、何やってんのぉ? ひょっとしてポケモン? (だははっ)」

それに対して、同窓生と思しき白ポロシャツの青年が幾分か抑えたテンションで対応していました。

ああ、やっぱホントにポケモン流行しているんだな、と確信させられました。土曜日であったけれど23時頃だから、やはり、特殊なんですよねぇ。私でさえ、23時過ぎちゃったから深夜徘徊をしている不審者として認識されないようにしなきゃという意識があるってのに。

ホントに一大ブームなのだなぁ…と痛感させられました。別に迷惑ウンヌンという話ではなく、「ホントに23時過ぎにスマホを持ってうろついている人が増えてるぞ」という意味で。

おっと。こちらも23時過ぎにだらだらと散歩をしいている不審な人物と思われてはいけないので、少し気を張って「私はウォーキングをしているんです」という具合に前向きな人間であるかのような態度を装って、通り過ぎましたけど。


ほんで、早朝。日曜の朝に早起きする習慣はないのですが、偶々、5時頃に目が覚めたので、どれ早朝の様子というのを見ておくかという気分になって散歩してみました。夏場だから早朝5時でも人の姿は、そこそこありましたかね。基本的に犬の散歩をされている方が多く、例外なく高齢者ですかね。

《よっしゃ、折角、早起きしたんだから神社まで歩いてみるか。こんな早朝に参拝したら、さぞや神様も感心してくれるんじゃねぇのか?》

神社に行くまでに昔から在る住宅街を突っ切る必要があったんですが、早朝の様子というのは、ああいうものだったんですね。80歳ぐらいのランニングシャツ姿のおじいさんが自分の家の庭先で動くこともなく、ぼんやりと門扉に寄り掛かって佇んでいたり、70代ぐらいの年配女性が、ひたすらにアスファルトに視線を向けたまま、一心不乱に早歩きをしていたり。古い住宅街であった事も関係しているんでしょうけど、早朝5時半頃から頬かむりをして草むしりに精を出している高齢者夫婦が居たりね。で、スマホを持っている人の姿は皆無でした。早朝というのは、そういう世界だったのか。

目的の神社はいい感じでしたかね。そこそこ人出のある神社だし、宗務所にも知っている人がいる可能性があるので、ゆっくりと散策できる機会はあるようでなかったなぁ…とね。

で、どうせなら、この時期にしか見られないという古代蓮のある池を通ってみるかと思い立って、そちらへ行ったのが6時少し前でしたが、こちらは結構な人が集まっていました。埼玉県でもさいたま市よりも北の地域になると、点々と古代蓮の池があるんです。10年ぐらい前に古代蓮を成長させることに成功したとかで、各地で貯水池などに古代蓮を見学できるような簡素な池をつくったから。本格的な装備をしているアマチュアカメラマンらしい人から、6〜7歳の子供を連れて記念撮影をしている家族であるとか。しかし、そういう中でも、お年寄りは、ひたむきですかね。日除け用の身支度をして、一輪車を押してたりする。こちらにもスマホ族はありませんでした。

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ゲームをする人たちの「夢中になる」、「熱中する」という感覚は、なんとなくですが分かりますかねぇ。しかし、それとは異なる感覚があるといいますか。時間の流れ方が違うというか。

ussyassya at 15:45|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)雑記 

大転換到来の考察〜2

複数回、取り上げて来た水野和夫さんの指摘を手短に、オサライすると、「利子率の低下」が指摘される。資本主義のシステムからすると投資家が投資をして利潤を得て資本を自己増殖させてゆくというものが資本主義システムの極めて基本的な性質であるが、現在の利率の低水準が意味しているものは、既に開発するフロンティアの枯渇を意味している。特に先進国諸国で利潤率が低くなっている事は低利子と同じ事を意味しており、それは成長しようにも成長するだけの場、ノビシロが枯渇したの意と同様であるという。先進国の成長率が鈍化することは既に常識化していますが、それとも関係している。アフリカ大陸に開発の余地を残しているというものの、既にサイバー空間の開発も一定以上済ませており、投資をして利潤を得られる場が既に限られてしまっている。既に10年国債に設定される金利は主要国では1997年の日本を筆頭に2%を切っており、しかも日本と欧州に到っては御存知の通り、マイナス金利が導入されている。

評論家としては信用度の高い、池上彰さんや宮崎哲弥さんにしても共に「成長戦略以外にない」としており、やはり、リベラル路線で切り抜けられるだろうという部分に期待を寄せているのが分かるのですが、文明論として眺めた場合、「長い16世紀」が終わり、大きな枠組みの変更が余儀なくされる「長い21世紀」の始まりになるという指摘をしている。まさしく、大転換期の意ですね。冷静に考えれば冷静に考えるほど、永久に成長を持続する事は不可能ではないのか。まぁ、宇宙開発をするという手もありますが、さすがに難しいのではないか。

で、もう一つ、現在の経済を牽引しているのは実体経済の成長を伴なっておらず、金融資本主義であり、しかも、現在の市場は、周知の通り、各国の中央銀行による金融緩和策に頼っている状態である事が挙げられる。もし、仮に金融緩和策が行われていなかったら既に市場は存続していないんですよね。しかも、リーマンショック後には大金融緩和時代に突入している。アベノミクスに最たるものかも知れませんが、そういう金融政策が意味している事実とは、何か?

本年3月、イングランド銀行のマーヴィン・キング前総裁が『錬金術の終わり』とう一冊の書籍を上梓したという。金融政策は或る種の錬金術であり、魔法であるワケですが、近い将来、この魔法が解けてしまい、錬金術が終わるという内容だそうな。ドキュメンタリー映画「インサイド・ジョブ」に描かれた内容とも共通しますが、市場の実情というのは、一般的なビジネスマンが認識しているよりも遥かに異常な世界であり、格付け会社にカネが渡って、その格付けがなされ、その格付けを元に證券会社などが顧客に金融商品を売っているなんてのは当たり前の世界であり、しかもヘッジファンドは既に当たり前のようにタックスヘイブンを利用し、巧妙な税逃れをしている上に、政界にも莫大なカネが流れてしまっている。現在、注目を集めているアメリカ大統領選でも、トランプ候補を警戒する意識が強いものの、ヒラリー候補が順当に勝利した場合、相も変わらずウォール街からの強力な資金提供を受けている政権の誕生になる。カネは万能であり、学者にも渡るし、マスコミにも流れるから、なんとなくアメリカの場合は民主党政権が正しいかのような錯覚が起こるんですが、現実問題からすると既に「99%の反乱」としてウォール街占拠運動が発生した通りで、そこに在るのはグロテスクなまでの格差社会なんですよね。仮に現行体制を続けたとしても、いわゆるアメリカ人が救われるというのではなく、一部の富裕層が救われるという仕組みになってしまっている。

で、錬金術の話に入りますが、ひょっとしたら魔法が解けてしまうのではないか? 魔法が効力を維持しているのは狄用瓩維持されているから魔法の効力があるのであり、その信用が喪失したときに一気に魔法が解けてしまう。実例も指摘する事ができてしまい、第一次世界大戦後のドイツで起こったハイパーインフレが挙げられる。なんと物価が一兆倍に暴騰したという。実際には1971年のニクソン・ショックにしても、それまでは米ドルは金と交換が可能だったのに突如として金交換を停止させ、強引に変動相場制にシフトしてきたのが史実であり、実際に市場に出回っている貨幣、その貨幣価値というのは、各国中央銀行の信用によるものですが、これとビットコインとを比較することも出来てしまうんですよね。魔法の効力が解けてしまう可能性がホントにあるのではないか。壮大なネズミ講ゲームである事に誰かが気付いてしまい、債権の投げ売りが始まってしまった場合、どうなるのか? アベノミクスが実は引っ掛かってくる。急先鋒は浜矩子教授ですが、アベノミクスの提唱者であった浜田宏一教授もリスクを口にしているのが現状であり、アベノミクスのこれまでを一定以上に評価できたとしても、大博打をいつまで続けられるのかは、際どい問題なんですよね。冷静に金融政策、或いは貨幣価値というものの本質を眺め、

「この紙幣に価値は無いよね。こんなのただの紙切れじゃないか!」

と気付いてしまった場合、その魔法はアッサリと解けてしまう可能性がホントにある。ジョン・ローについて語られた『21世紀の貨幣論』というオックスフォード大学教授の書籍に触れたことがありますが、貨幣の本質とは実は危ういでんですよね。「一億円の貨幣に一億円の価値があるのか?」という問題がある。それはマルチ商法の原理と似ていて、「みんなが一億円の価値がある」と信じているから、それは一億円の価値がある事になる。それだけ。

よぉぉぉく、考えて欲しいのは、ジョージ・ソロスのケースですかねぇ。一昨日、取り上げた話とも重複しますが、ジョージ・ソロスは1992年、英ポンドが割高である事に気付き、売り仕掛けをした。イギリスの通貨当局と、一投資家であるジョージ・ソロスとの通貨戦争が勃発した。イギリスの通貨当局は、ポンド買いをしたし、金利を立て続けに上げた。浜矩子教授の話によれば一日に5%も金利を引き上げるなどの、かなり強烈な対策もイギリス通貨当局は打ったという。しかし、勝利したのはジョージ・ソロスの方だったんですよね。これが何を意味しているのかというと、実は、各国の通貨当局、中央銀行にしても限界があり、一投資家にKO負けしてしまうことが有り得るという厳然たる事実でしょう。また、その5年後となる1997年にはタイのバーツ暴落を契機にしたアジア通貨危機でも、多数のヘッジファンドが実際よりも割高である事を見抜き、空売りを仕掛け、アジア通貨危機は底なしとなり、韓国を含む複数の国がIMF管理下に追い込まれた。

うーむ。カンタンなようで難しいという話ですが、これらを考慮すると、主要先進国が破綻させられるという事も有り得るように思えませんかね? 折からの金融政策によって金融市場にはマネーがジャブジャブとしているのだから、ヘッジファンドが売り仕掛けをして、それに乗っかって別のヘッジファンドも容赦なく売り浴びせることが出来てしまうという事のような。しかも、これは、その都度、きっと、当該通貨を担当する通貨当局が対応を迫られる事になるのだろうけど、そういう金融資本主義が果たして何を意味しているのかという問題にもなってしまう。

壮大なスケールで各国の政府や中央銀行によって市場にカネが投下される。市場は一時的に活況をみるが、どこかで実体経済にそぐう市場に戻さなければいけない。しかし、それが出来ない。その頃には再び暴落が起こる。そういうゲームになっている。しかも、やるせない事に、そのゲームを繰り返せば繰り返すほど、実は潤うのはヘッジファンドであったり、資産家階級の人々なんですね。「日々、労働にいそしんでいます」という類いの多くの者、平民一般は、この壮大なマネーゲームの中で相対的に貧乏くじを引かされて続けている可能性が非常に高いと思う。


財政が破綻してしまうと囁かれているのに、不満が噴出してしまっている為に福祉政策を辞められない。福祉政策を辞めようとせず、そればかりか負担を増やしていますよね。これは日本に於ける民主党政権がどうのこうのではなく、実は自民党政権も保守政党を名乗りながら丸で当たり前のように福祉政策を実施している。しかし、これはローマ帝国の没落が始まった際にも起こった問題であり、ローマ帝国は膨張・拡大が終わった後に穀物を低価格で供給しだし、やがて無料化され、高坂正堯著『文明が衰亡するとき』に拠れば、《やがて豚肉、ブドウ酒、現金もリストおに加えられていった》という。平たくいえば、「パンとサーカス」ですが民衆の不満を和らげる為に、そのようにするのであり、しかも、財政が破綻状態にあるのに福祉政策を辞められないという意味で現在と一致していますやね。

福祉を否定的に語るのは結構、重圧があるのですが、今回、週刊ダイヤモンドでもバッチリと触れられていました。財政がヤバいのなら福祉を削減すればいいのに、そういう決断はせず、口を揃えて増税せよ、福祉を手厚くせよという。おそらくはプロパガンダであり、それが好都合だから誰も「おかしい」と指摘しないのでしょう。しかし、そんな事をしている財政が危機的な状態になったと考えるのは難しくない話のような気もするんですけどねぇ。

自称「リベラル」も自称「保守」も自分を欺いてるという事ではないのか。リベラルは小さな政府を目指すといっていたし、保守であれば革新に対しても懐疑的な態度であるべきなのに、既に国家資本主義とか国家社会主義というか、そういう風になってしまっている。系統としての左派政権が福祉をと言っているのではなく、弱肉強食的な言質を操るリベラルや保守を掲げている政権が当たり前のように福祉政策に予算を割いている。また、公共事業についても同じで、公共事業を慢性的に投下しないと経済が維持できないという現実が何を意味しているのかというと、やはり、自律性が失われているという事ですよね。

経済同友会のナンタラという人物が「将来世代の為に一刻も早く消費増税せよ!」と文藝春秋でケシカけていましたが、これも説得力があるようで実は感じませんでした。50年後や100年後と簡単に言ってくれているのだけれども、50年後にも現行体制が継続しているという仮定そのものが甘いんですよね。皮肉を言えば、まるでお花畑サヨクのような仮定をしている。2013年の時点で、この日本でも金融資産ゼロという世帯が31%へと跳ね上がっているのが現実なのであり、現役世代にしても生活が苦しくなってしまっているのが実情だと考えるべきで、3年後、5年後の事だって現在の状況からすると予測が困難ですからね。現行秩序のエスタブリッシュメントな階層を平民(下級労働者)たちが汗水を流してでも後生大事に手助けしてあげる必然性は無いと考えるのが真理でしょう。これはEU離脱劇やトランプ旋風にしても明らかに観察できますよね。

「政治とはマキャベリズムだとかリアリズムなのである」というのであれば、尚更で、現行制度をイタズラに継続させることよりも、もう成長なんてしない可能性があると肝に銘じるべきではないのか。考え方としては「EUからイギリスが離脱したからEUが破綻する」のではなく、「EUという枠組みそのものが間違っているか限界に差し掛かっているから必然として離脱劇が起こる」のであり、それは資本主義世界の必然的な到達地点という流れ、歴史的文脈としての流れなのではないのか? 希望的観測に立脚した者がリアリズムやマキャベリズムを武器にして「増税すべきだ」という財政タカ派の論陣を張っているんですが、むしろ、正反対であるべきではないのか?

本年1月に日本はマイナス金利導入を発表するも効果は長続きせず、三日天下に終わったこと、同じく3月に欧州中央銀行が大胆な緩和パッケージを決定させたが市場の反応は鈍かった事を考慮すると、既に魔法が効きにくくなりつつあるような気もするんですよね。口先介入なら問題はありませんが、当然、口先介入だけであれば投資家に見抜かれてしまう。魔法の賞味期限がどれだけ続くのかも微妙な状況でしょうしねぇ。アベノミクスというものについても、今後は、それに気付かないと。

例えるなら、

「強い麻酔薬が必要とされている。もっと強い麻酔薬を打ってくれ」

という或る種の依存症の話と似ているというか。


あ。オリバー・ストーンのような意見を「あんなのはサヨクだ!」とレッテル貼りをして批判するのは、物凄く簡単ですよ。気に入らない意見に対してはフタをしてしまえばいいのだから。しかし、問題はそこにはない。レッテル貼りをして拒否して耳を塞いで怒鳴り散らしているに過ぎない。内容を吟味するという態度であれば、「それはホントにサヨクなのか?」、「それはどこが間違っているのか?」と自分のアタマで吟味しないとダメなんですよね。なんでもかんでも爛譽奪謄訶修雖瓩鬚靴討靴泙Δら本質に近づけないのであり、実は、そういう態度は右派にも左派にも見受けられる。しかし、その既存のイデオロギーに捉われている事が現実に対応できていない事にも繋がっているのであって。搾取されているのに搾取されていないと思い込んでいるのであるとしたら、中々に、オメデタイ態度だという事になってしまうでしょうし。

参考:「週刊ダイヤモンド」7月16日号掲載の特集記事「EU分裂は必然!大経済史」

2016年07月24日

大転換期到来の考察〜1

【Gゼロ】という表記をみて、「はて? これは何だ? グラウンド・ゼロの略だろか?」と思っていたんですが、この「Gゼロ」という言葉は、超大国が世界秩序を維持できていない状態を指す言葉なのだろうな。イアン・ブレマーなる国際政治学者が提示した言葉であり概念だという。

【G20】とか【G7】とか、あの用法としての【Gゼロ】。つまり、「主導国と言える国はゼロ」の意味であるという。

「アメリカは衰退してゆく」という前提ですかね。既に「Gゼロであり、現状がGゼロだ」という立場もありそうですが、混乱しないように「今後はアメリカが衰退してゆくという前提」とします.(提唱者のイアン・ブレマーは「2008年から既にGゼロ時代に入った」という見解。)

有り得るだろうかと考えますが、これは有り得るだろうし、既に始まっている可能性もある。オバマ政権も「世界の警察」という部分では消極的であったと思うし、旋風を巻き起こしているドナルド・トランプの発言などからすると、一見、「強いアメリカを」という具合の発言が目立っているものの、発言内容から沸いてくるのはアメリカの国益重視の態度にも見え、日米安保条約に係る発言からすると、アメリカの国益に適わないものには関わらないという内容でもあるから、いわゆる「アメリカは世界の警察だ」という考え方をしていないような気がする。

同盟国である日本にしてみると非常に苦慮させられそうですが…。

日本国内の読売的言説を予想するに、おそらくはアメリカがモンロー主義になる事を怖れており、それは自ずと既存の対米追従型の思考なのが明々白々なんですよね。で、実際に近年までは、それがオーソドックスな見立てであっただろうと思うのですが、実際、近2〜3年で何が明らかになってしまったのかというと、日本が沖縄基地問題で揺れている間にも、既に米軍内部からも沖縄に展開している事への懐疑のようなものが表に出て来てしまっている。トランプ候補が公然と口に出しているアレですが、「米軍が日本を守ってやっているのは不公平だ」、「日本は自力で核武装すればいい」という論法です。荒唐無稽にも聞こえるんですが、どのような思考で、そうなるのかというと、もう、そのまんまなのでしょう。「アメリカは狎こΔ侶抻´瓩覆鵑得こ戦略からは降りて、本格的に自国の利益の為だけに動きたい」という意味にしか取れないんですよね。それを察知して保守ともリベラルともつかない日本の論陣が声を荒らげて騒ぐワケですが、よくよく考えてみるとアメリカ人がそのように考えるのも必然かも知れない。

というのも既に、春名幹男さんが指摘したように日米同盟は双務性が崩れてしまっている。これは物凄く大きな指摘なんです。太平洋戦争終結のときから、既にアメリカはソビエトを仮想敵国として展開していたのであり、日本に軍事展開しておきたいという明白な目標があったんですよね。実情というのは、トルーマン・ドクトリンによっての世界戦略があり、アメリカは対ソビエト、対共産主義の軍事シフトを敷く必要性があった。進駐軍として留まり、その後も軍事基地を日本に残しましたが、勿論、それはアメリカのドクトリンからすれば日本国や日本列島を防衛する為に軍事展開をしたのではなく、対共産主義の軍事シフトであったワケです。なので、岸信介、佐藤栄作の時代から冷戦終結までの期間の日米同盟には双務性があったんです。アメリカは日本に米軍基地を展開したいという明確な意志があり、それに対応して、日本は基地を提供する見返りに米軍の庇護下に入る。まさしく双務性ですね。

しかし、ソ連が崩壊してしまい、冷戦構図が崩壊してしまった。そうなってみると、双務性は片務性になってしまったワケですね。しかし、冷戦構造の崩壊後、ブッシュ政権下でネオコン化が起こった。サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」に基づくような地政学重視の世界戦略であり、引き続き、世界規模の軍事展開を必要とした。しかし、実際に対テロ戦争に突入する。オバマは対テロ戦争の終結を宣言しましたが、世界情勢はどうでしょう? 実際には混沌化しましたよね。国家と国家との戦争ではなく、国家を有さないテロ組織との戦争というのは実は大きな落とし穴があったんですよね。タリバンを叩いてみても、或いはアルカイダの要人の暗殺に成功してみても、フセインを滅ぼし、カダフィを滅ぼしてみても、終わらない。狢丱謄軅鐐茘瓩箸禄亳のない戦争であり、アメリカは、それに引きずり込まれてしまったという見解が成立する。実際にアルカイダの幹部らは、どれだけの経済的損失をアメリカに負わせたかで物事を思考している可能性もあり、アメリカにしてみると、確かにウンザリするような展開になってしまったとも言えるワケですよね。イスラム国の台頭もあり、原油価格の下落なんてものもあり、アメリカの国策的にも分岐点に立たされてしまっているのはホントなのであろうと思う。

映画「アメリカン・スナイパー」を大絶賛しましたがアレですかね。「もう、よく分からない」という次元にアメリカ人自身が突入してしまっている。軍人というのはアメリカでも基本的には武骨な人々であり、国家や軍隊に忠誠心を誓い行動する。しかし、実際の戦場は精神を病んでしまうような殺し合いの連続で、主人公自身も強い違和感を抱え、ひょっとしたら半分ぐらいは壊れかけていたかのような印象を残す。アメリカ人たちは、アメリカ史上最強のスナイパーである主人公を英雄だと称える。しかし、何かがズレているのだ。戦地では女や子供でも射ち殺すという苛酷な任務をし、仲間が死ぬという体験を繰り返しているが、いざ、アメリカに帰ってみれば家族があり、週末はショッピングセンターで買い物を楽しむというライフスタイルのアメリカ人なんですよね。そのギャップに精神は蝕まれてしまう。何の為に、あの苛酷な戦場に身を投じているのか――と。アメリカの繁栄、その一翼の最も過酷な部分に身を投じているのは彼等であるが、実際のアメリカを直視すると、ウォール街が支配する社会であり、人々は戦争なんてものが現在進行形で行なわれていないかのような感覚で、実際に猜刃足瓩吠襪蕕靴討い襪里任△辰董


世界秩序について【Gゼロ】を提唱したイアン・ブレマーは、単純に、そう見立てたワケではないという。アメリカと中国とが強調体制をとる米中二大国による「G2体制」が一つ考えられる。米中が強調するのか、対立するのかという軸があるワケですね。それともう一つ、「米中以外の国が強い場合」と「米中以外の国が弱い場合」という軸も設定できる。

1.米中が協調路線を採り、第三勢力が強い場合⇒米中協調路線

2.米中が協調路線を採り、第三勢力が弱い場合⇒G2体制

3.米中が対立し、第三勢力が強い場合⇒地域分裂社会

4.米中が対立し、第三勢力が弱い場合⇒冷戦2.0(米中による冷戦)


という具合に、今後の世界秩序を見立てているという。そう予測できるものの、では、どこに転がると更に予測しようとしても、難しいんですよね。日本の安全保障の観点からすれば、3番や4番の方が有難く、そうなれば日本は日本なりに世界秩序の中でも存在感は示せるのではないかと考えるワケですが、3番4番になる保証は無い。将来的にアメリカが中国に歩み寄らないという保証は全くないんですよね。

とはいえ、単純に【Gゼロ】と言った場合、どれを指しているのかと考えてしまうと、3番あたりが濃厚ではないんだろか。なんだかんだいってロシアがあるし。

また、この話は、単に軍事力支配による世界秩序の側面の話ですが、勿論、軍事力だけが全ての秩序を決定づけるものではない。ひょっとしたら、資本主義の終焉が迫っているのではないかという文明論的な文脈にもなってしまう。(つづく)