2010年02月

2010年02月28日

デパートの低迷に思うこと。

老舗デパートが閉店する様子を伝えるニュースというのを目にすると、この地域の人たちはどうなるんだろうって思う。そりゃ、生活必需品は小回りの効くスーパーであるとか郊外型の買い物施設があるんだろうけど、高齢者の口から漏れる「御遣いものをどこでしたらいいのか判らない」のような言葉には、ちょっとした郷愁みたいなものがある。

同世代のフリーライターさんの文章は、やはり私と同じでした。「デパートに行く」というのは小さい頃、すごいレジャーだったんですよね。電車に揺られてすっごい人通りの多い百貨店へ行った記憶がある。服装も普段着じゃありません。お出かけようにオメカシをしたほど。

買い物が楽しいんじゃなくて、母親らの買い物を待つ間に、屋上の遊技場で時間をつぶすことが許される。千円ぐらい小遣がもらえたんだったかナァ。で、ピンボールとか、お菓子のあたるパチンコであるとか、あるは子どもダマシのミニSLなんてものもあったなぁ。

で、買い食いも楽しみでしたよねぇ。綿飴とか、ポップコーンとかは、さほど感激しませんでしたが、焼きとうもろこしは激ウマで、いつも感激だった。父親も母親も多少は舞い上がっているのか、肩車してくれたり、ミドリガメを買ってくれたり、ちょっと気前がいい。小学校を卒業するぐらいまで、母親がデパートへ行くっていうと、ついていって何かしら楽しめたもんです。

で、およそ20年前ぐらいに、デパートの営業時間が変わった。現在となっては信じられない事ですが、それ以前のデパートは格式があって、朝は10時開店の夕方5時閉店だったんですよね。今にして思えば、昔はデパートという商業施設に飢餓感さえあった(笑

で、ちょっと面白いことに、日本のデパートが世界に先駆けてファミリー向けの商業施設になったんだそうな。海外にはデパートがあったのですが、その客の9割以上が「御婦人」であり、男性も子供にも縁のない大きな買い物施設でしかなかったという。ところが、日本に入ってきたデパートは、家族向けに設定されており、レストランが大流行。戦前から「お子様ランチ」が取り扱われていたとうし、あのデパートに必ずあった屋上遊技場というのも日本が発祥だったのだという。

ドンキホーテかどこかが、屋上にジェットコースターを設置しようとしていたのは、あの流れなんですね…。

株式情報番組を視れば、グラフで売上げ減が示されている。今後も日本からデパートの閉店が相次ぐ事が予想されますが、何か情緒的なもの、人間的なものが失われやしないんだろうか。改めて考えたら、「家族」なんてものの在り方にも影響していたんじゃないのかなぁ。

ussyassya at 15:20|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)雑記 

2010年02月27日

鳩山マネーの出口と、プロフェッショナルな市民

与謝野馨さんが総理に対して

「あなたは平成の脱税王ですよ!」

と吠えてから、ちょっとした日数が経過したように思いますが、与謝野さんの発言にして気になっていたのが、鳩山総理が御母上から受けていたおカネ、その出口についての問答でした。

「子分に配ったんでしょう?」

と詰問し、与謝野さんは、あのときのに平野官房長官へ総理の脱税マネーから1千万円が寄付されていると指摘してみせました。平野さんはじめ、「寄付」という形式で鳩山総理から子分たちにカネが配られていたことは確かなよう。

週刊文春3月4日号が総理の資金管理団体・友愛政経懇話会の収支報告書から直近3年間で民主党議員21名に5千5百万円がバラまかれていたとして、それを表にして掲載されていました。

子分たちになるのか。


確かに与謝野さんの指摘通り、2007年に同団体から平野博文後援会に1000万円の寄付がある。

政治の世界では100万なんてのはハシタガネなんだろうか、まぁ、割と多いっすね。「政治とカネ」の問題は噴出している状態であり、あんまり細かい事をつついても仕方ないんですが、それにしても、やはり問題がある。これまで「お金持ち過ぎるから仕方ないよね」的に語れて特例のように扱われていたものの、そこそこ悪質な事が行なわれていたんじゃないだろか。

上記リストのうち、2名ほど鳩山マネーを受領しておきながら、収支報告書に記載していなかった者がいるという。城島光力議員と大谷信盛議員で、既に修正報告を出したというものの、大谷議員は3年前の200万円、城島議員は2年前の100万円。鳩山マネーの場合、そのデドコロが記載されていないカネだった訳だから、この2人のところでも記載されていなかったという事は、アングラマネーが堂々と行き交っているという事を物語っているようにも見える。

一連考えると、鳩山さんのところでミスにより記載されなかったカネが寄付行為によって別の政治家に渡り、その政治家のところでも記載ミスが生じていたという事になる。これを会計事務で考えると、入りでも出でもミスで不記載になったという事。そんな確率でミスがミスを見過ごす確率がどれだけあるって。意図的に不記載としたとしか思えませんけどね。そんなズサンな会計では、そこら辺のジイサマたちがやっている自治会の会計報告でも通りませんよ。

おそらく、バレなかったら収支報告書はそのまま処理されていただろうし、不正なカネのある者と、そうでない者とが選挙で戦わされていたのでしょう。なんだか政治倫理として問題があるように思える。「上辺ではカネのかからない選挙をしよう」と云いながら、裏側がドロドロすぎる気がしませんかね。やり方として悪質だと考えざるを得ないといいますか。

それと、やはり額面が大きいですよね。1000万円の寄付なんて、そんな簡単に行なわれることなんだろうか。セレブ俳優がハイチ震災に寄付したとして新聞を賑わせていましたが、仮に1000万円ぐらいの額面をポンと寄付していたらニュースバリューがあるほどの額面なんじゃないだろうか。爆笑問題が1000万円を大阪府にふるさと納税した際にはワイドショウが報じたし、スポーツ紙も報道した。清原和博さんが地元の岸和田市に150万円寄付しただけでもネット上ではニュースになる。ところが、政治の世界では1000万円がホイホイと寄付されている。そういう額面的なインパクトがある。

で、厚木市議の元へ1000万円の寄付がある。しかも、この厚木市議は民主党の党員ではないという。政治団体名が「政権交代をめざす市民の会」になっていますが、その通りで、民主党に限らず、政権交代の為なら幅広く応援する団体なのだという。

なんか、こーゆーのって「世の中をどうしたい」という具体的な政治信条がない政治団体ってなんなの? ま、いっか。続けよう。


で、週刊文春によれば、同団体は堂本暁子元千葉県知事の選挙を手掛けた「市民の党」が中心に運営されている組織だという。もともとは左翼系の団体でボランティアや所属市議らを動員してポスターを瞬く間に数千枚貼ったり、何時間も電話をかけて働く選挙のプロ集団。菅直人さんとも縁があり、菅さんの資金団体から2007年に5000万円もの寄付を受けている《市民》団体だという。

これ、意味、判りますかね。完全にプロ市民、プロフェッショナルな市民団体ですよね…。このプロフェッショナルな市民団体というのは、無党派選挙などで威力を発揮する訳ですが、突き詰めると非常に怪しい。《市民》や《無党派》という言葉を巧みに利用して政治色を表面的には消しているものの、組織の背後には政治志向がハッキリと現れている。そうじゃなきゃ、1000万円とか、5000万円なんて金額を寄付されないでしょ、常識的に。これほどの寄付ってありえますかね? 疑ってしまえば、まるで都会の無党派層を取り込む為の民主党の別働部隊のようにも見える。

これだけ巨額の寄付が横行していながら、ホントに純粋な政治理念で動いているんだろうか。《市民》という言葉を使用して低いハードルを設定し、クリーンなイメージで無党派層を引き込んでいるのだと思いますが、明らかにプロフェッショナルな組織。なんか、そういう《市民》とか名乗る名称って無党派の人は騙されすぎてませんかね。気のせいか、相場として左派かリベラル路線かに決まっていて、純粋に有権者の意志を集約している団体ではないように思える。

この団体の場合、「政権交代をめざす」というのが理念に当てられていたんでしょうけど、そういう単純化した政治意識というのは、そもそも間違っていませんかね。理念はないが政治目的だけが設定されている。つまり、理念なんて、ないって事でしょ。

「Swing vote〜ケビン・コスナーのチョイス!」という映画のDVDを観ました。一人の典型的なダメ中年アメリカ男性が機械のトラブルで自分の一票で大統領が決まるという判断をする事になってしまうというストーリーで、全く政治に感心がない田舎育ちのケビン・コスナーが共和党と民主党の両陣営が仕掛ける誘惑合戦に負けず、最後の最後には自分の意志で投票をするというもの。ですが、映画中には、いくつかの投票判断材料が登場する。人工中絶に賛成か反対か。ダム建設に賛成か反対か。同姓婚に賛成か反対か。有権者個人が政治とどのように係わるべきかという、その原点に少しだけ触れていたようにも見えました。

ケビン・コスナーは小学生の娘に説教をされるシーンがある。

「米国は二大政党制だから、お父さんや私のようなあぶれ者の意見は拾ってもらえないの。だからお父さんは無党派なのっ!」

と。最初から、その娘は米国の二大政党制そのものがマイノリティを切る性質だと見抜いているのが凄い。



考えてみれば、最近の日本の衆院選は

「郵政民営化に賛成か反対か?」

とか

「政権交代に賛成か反対か?」

のような単純化された二択で行なわれてきましたが、全く中身がないと気付くでしょう。本来は有権者が考えて、導きだすべきものなのに、その方向性についてもメディアが「こっちが正しいですよ」というコメントまで添えて視聴者に押し付けてしまってきたんじゃないでしょうか。(冷静に単純二択選挙を回想すればいずれも反対は、守旧派、抵抗勢力という悪者にされてしまう。有権者に考えさせない。)

で、その挙げ句に、政治への不満が高まってばかりいる。

マスコミや政治家自身がつくり出す空気に乗るのではなく、飽くまで有権者個人が自分自身で一定の考えを持っていないといけないんですよね。

現在も「企業献金は廃止すべき」という意見の方が多数派かも知れませんが、それは特定の人たちに有利に作用するであろう予測もついてしまうのが現実です。つい先日、カルテル政党と、その要因としての政党助成金の話をしましたが、非労働的インテリ層の意見に騙され続けて、政治は劣化を起こしたという見方もできる。

大体、金権政治批判なんてのは彼等の武器だったハズなのに、現在ともなれば実際に、うじゃうじゃと出てきてしまっている訳で…。

2010年02月26日

頑張った人にはNCAA

24日、ショートプログラムを生中継で視ながら、

「どちらかが銀メダルになってしまうんだろうから、銀メダルの方の選手に個人的には賞をあげて、この頂上対決を自分の心の中で消化するとしよう」

としようなんて考えてました。真央ちゃんの演技には引き込まれたし、その次に登場したキムヨナ選手の演技には圧巻されたもので、ちょっと過去と比較しても類い稀なるハイレベル決戦になるっぽいと私なりに感じてのもの。素人目からすると、どちらも満点であり、甲乙をつける必要なんてあるんだろうかってのが率直な心情。

ジャッジではなく、心情的には真央ちゃんだろうと思われるかも知れませんが、あんまりそういう気にならないのがフィギュアスケートのように思います。荒川静香さんの金メダルのときにも思ったんですが「片方に勝たせたいからもう片方は失敗しろ」という置き換えが難しく、敵失なんて事を考えるよりも、全力を出し切って欲しいという部分に感情移入しちゃう。故に、「ミスをするなよ」という心情で視てきました。

今さっきフリーを視終えましたが、すごいイベントだったなぁ。仕事にならないよ。言葉もない。

まぁ、この4年間ぐらい長い長いドラマが展開されてきた訳で、そこに設定されたクライマックスの舞台が終わったという感じ。実際、この二人の対決はホントにハイレベルで芸術的で、さまざまな角度から感情移入もできるという1つの大イベントを視終えたぞという感慨ばかり。

とゆー訳で、遅れて配達へ行ってくるか。どーせ相手も仕事してないハズだ。

あ〜、雨が降り出しました…。

ussyassya at 14:18|この記事のURLComments(4)TrackBack(1)雑記 

トヨタの次はデンソー!?

議長がYESかNOかの二択を迫る。二択を迫る人種の中には、どちらにも地雷を仕掛けている狡猾な人間がいる。議長がこれではホントは話にならない。当然、世の中には、二択で割り切れないものがあるし、まして地雷が仕掛けてあるものを踏まされては堪らない。

ひたすら地雷を踏まぬように振る舞うのは思いの外、大変な事かも。

感情的な者には何を言っても通じない。感情的な人間の方がトク。おそらく、二元論と多元論の説明をしても「バカにされた」と反発するか、理解さえ出来ずに「二択で答えろ!」とゴリ押しをしてくるだけ。

YESかNOという答えに対しても、次なる糾弾が容易されている。謝罪をしなければ怒り、謝罪をすれば非を認めたと解釈して、次には責任追及と損害賠償の請求を仕掛けてくる。なんとも狡猾な人種というのがホントに居るものだ。

トヨタの次はデンソーですか…。以下、24日のデンソーのホームページには

《株式会社デンソーの米国子会社であるDENSO International America, Inc.(デンソー インターナショナル アメリカ)は、2月23日(現地時間)、米国連邦捜査局(FBI)および米国司法省により、反トラスト法に関する捜査を受けた》

とある。

平成の脱税王と、日焼したハンサムな人は差別に対して見て見ぬふりか。

どうも気にいらねーな...



くだんのアクセルペダルの納入業者である《東海理化、矢崎総業の2社に対してもFBIが独占禁止法違反の疑いで捜査が入った》とウォールストリートジャーナルが報道している。

反トラスト法って独占禁止法違反の疑いのことなのかな。デンソーと東海理化と矢崎総業は全部、アクセルペダルの件で捜査されるのがフツウの反応でしょう。せいぜい、証拠をでっち上げられませぬよう。

あの米国人たちは感情のままに動いている自分たちを正当化する為に何が何でも日系企業を悪者にしたいという欲望に駆られている。ほとんどケダモノ状態。自分を正当化しよう、そういうときにヒトは手段を選ばないものです。何を仕掛けてくるか…。

ブレーキとアクセルの制御システムに不具合があるのは、米国人の良心のように思いますがね。

25日発のニュースとしては、以下のようなものも。

《米格付け会社ムーディーズは2月に入り、りそなホールディングス傘下の3行(りそな銀行、埼玉りそな銀行、近畿大阪銀行)の財務格付けを、従来の「Dプラス」から「Cマイナス」に引き上げた。》

有り得ないなぁ。りそなHDは未だに公的資金の返済さえ済んでないのに。

作為的な日本叩きが開始されたと認識した上で対処をしないと、大怪我を負うと思うというレベルですけど。

ussyassya at 02:02|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)雑記 

2010年02月25日

カルテル政党と政治改革失敗の構図

政党政治を専門に研究しているピーター・メアーらは、90年代に入ってから先進国の政党は職業政治家と専門家によって支配されるようになったと指摘している。政治資金の資金源も党員や企業からの献金ではなく、国からの助成金を資金源にするようになったという。メアーら(著書は共著)は、そのように新たに登場した政党を【カルテル政党】と名付け、それを批判している。

カルテル政党は、テレビをはじめとする大衆向けメディアを駆使し、有権者に対しての広報手段を独占する傾向がある。その宣伝費となるカネは、堂々と国から助成金の形で貰えてしまっているからである。故に、デモクラシーの基本であった草の根的に地域に根を張って有権者の声を拾うという従来の政党活動はなくなるという。そのような風潮が、ポピュリズム政治、劇場型政治の温床になっていると指摘している。

そしてカルテル政党化により、多くの政党が政権与党になれるチャンスが増加したが、政党は本来の政治使命を忘れ、彼らは内輪だけで政権奪取ゲーム、政権交代ゲームを繰り広げていると批判している。

国家が資金を政党に助成するようになったのは世界的潮流だというものの、それがカルテル政党を生んだ。政党は議席を確保・獲得のイス取りゲームをしてさえいれば、実は、有権者の支持に関係なく幾らでもカネが国から貰えるという仕組で、まさしく我々の知る【カルテル】のような事になっている。つまり、有権者の代弁者のように見えて、その実、有権者との絆は離れており、テレビの中であーだこーだとエサを撒き、自分たちの議席(カネ)を守っているだけの政治になっているのではないかと批判している。

日本の場合、どうでしょう。政治家と一部の知識人らが勝手に世の中を動かしている。選挙で民意を問うているとはいうものの、さんざん死票を出している事、民意という言葉で大衆迎合を起こし、善意の有権者を無視して人気取りに走っていやしないか。

政治はゲームになったのではないか? 政治家は現在ともなると社会と国家の架け橋となるべきデモクラシーの【missyon】を担った政治家ではなく、【job】として政治をしているだけの職業政治家に過ぎない。

さて、日本の政党助成は、どんな状況になっているのか。これがデタラメも甚だしい。先ず、上限がない。獲得議席数に比例して支払われ、しかも助成金の積み立ても可能だから、仕事をしないでも議席さえ確保していれば自動的にカネが入るという集金マシーンになっている。

政党助成金のような国による助成制度は世界的な潮流であるものの、世界で最初に制度を実施したドイツでは国庫負担が増加の一途を辿り、憲法裁判所が助成金が政党活動による収入を上回ってはならないという判断を下したという。平たくいうと、政党助成金をもらえるが故に、助成制度が導入された1967年以降、どんどんどんどん助成金だけが膨れ上がり、1990年代に憲法裁判の裁定を仰いだ経緯を物語っている。(助成金のような性格の予算は膨れ上がることはあっても削減される事はない。)

イギリスでは最近になって与野党ともに約4億円の政策開発補助金という名目の助成金が認められたが、それ以前には野党第一党にのみ助成が施されていたという。金額も野党第一党に対して約2億円と決まっており、それは与党と野党との均衡をとるために儲けた助成金で、フェアに戦わせる理念から生まれたものだったという。

日本の政党交付金、助成金の制度が如何にバラマキ的性格で行なわれてきたかが理解できてしまうでしょう。

実際に日本の政党は完全にカルテル政党と化している。2003年の実績では、民主党の85%、自民党の60%、社民党の61%の収入は政党助成金であるという。派閥政治を辞めて政党政治に移行したのだと説明されていますが、冷静に眺めてみると、政党は国からカネを引っ張り出して、自分たちが旨い汁を吸えるように政治改革してきたようにも見える。

21世紀臨調を疑えというテーマを以前にも触れましたが、日本は改革派と自称する政治家と政治学者だけの政治になっているという指摘が怖いほど当てはまっている。いわゆる、「改革の為の改革論者」らが我が国で政治改革・選挙制度改革などをしてくれた訳ですが、その結果として、ホントに自分たちだけに恵まれた環境をつくっている。

労働者の民意はホントに反映されていると思いますかね? 「配管工のジョニー」が先の米大統領戦で脚光を浴びましたが、日本にはその観点が完全に欠落している。民主主義の本質は、各種団体や労働組合、その他のプロ市民らの為のものではないんです。到って平凡で当たり前な生活者、到って平凡な労働者の民意を汲み上げるべきものでしょう。学生は非労働者だし、大学教授やテレビタレント、弁護士、会計士、エコノミストのような職業は残念ながら非労働的階級の労働者です。何故、「配管工」という職業にスポットが当たったのかを考えて欲しいんですね。それは偶然ではなく、労働者を代表しているようにみえる労働者階級的な職業だったからでしょう。

「汗水たらして働いているものが冷遇される社会はおかしいのではないか?」などと声があがることがありますが、それは遠回しにそれを差しているようにも見える。にもかかわらず、いわゆる《オイシイ仕事》でガッポガポと稼いでいる非労働者階級的なインテリ者の意見ばかりを尊重してしまっている。(英国では【会計士】という職業は、熱心に働かない人のニュアンスが含まれているという。日本では資格信仰があり尊敬の対象かも知れませんが、確かに生産性があるとは言えない職業でしょう。また、米国では人気テレビドラマの主人公が一人の配管工、それも正義の味方として描いたドラマがあったという。下水道に潜れば、実は人々のモラルが見えてしまうし、彼等の存在が縁の下の力持ちである事と無縁ではない。鬼才と呼ばれる映画監督テリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」でも配管工やオペレーターの働くシーンを象徴的に描いている。)

そして政治家も非労働階級的な労働者です。一命を賭して政治をするという志のあるタイプの政治家は消えさり、腹黒い金権政治家と政策オタクな政治家、テレビの中で有権者に媚びを売る選挙芸者的な政治家ばかりが残ったという事かも知れませんやね。

改革の為の改革論者、言ってしまえば「小沢一郎」ですが、彼の周辺にはカネにまるわるスキャンダルが多い。現在でも識者は

「これでは自民党と変わらないじゃないか!」

と怒っているがホントの事を言うと『自民党と同じ』と発言しているのは自己免責を狙った発言でしょう。ホントは政治改革後の政治の方が劣化しているし、より露骨な利権政治が蔓延し、カネに関しても巨額のスキャンダルが実際に発覚している。つまり、「自民党と同じように汚い」のではなく、「55年体制以上にカネに汚い政治になってしまった」と語るべきなのではないでしょうか。

小沢一郎を担いだのはマスコミを含めた識者たちであり、彼等は好き放題に政治を動かしている。本当に投票場に足を運ぶ有権者の民意、或いは献金をしてでも声を政治に反映させようとしてきた善意の民意を悪役とし、テレビの中の人気取り合戦が「政治なのだ」という空虚な政治にしてしまったのではないか。何よりも政治改革、選挙制度改革をやった張本人ばかりが現実問題として恩恵を受けている。奇妙なカルテルが日本の政治に登場していたように見える。

(参考:吉田徹著『二大政党制批判』光文社新書)

2010年02月24日

センチメントという厄介者

個人的にはオリンピックの女子フィギュアも楽しみなんですが、トヨタリコール問題がなかなか引っ掛かるものがあって、すっきりしません。「トヨタは下手をしたら米国世論を敵に回すことになる」と報じられていますが、下手を打つも何も、既に世論は敵に回っているんじゃないだろうか。米議会による公聴会だけではなく、大陪審うんぬんといっているのだから司法までもがトヨタの敵になっているって事。勿論、マスコミなんてのは敵の中の敵でボスキャラみたいなもんでしょう。あの状況で逆転勝利して米国世論を味方に出来るなんて事が有り得るんだろうかって思う。

今朝、ワイドショウでロバート・キャンベルさんが「決してバッシングではないと思いますよ」と、やんわりとした善意で評していましたが、フツウに考えれば異常事態以外のなんでもない。仮に、日本の国会に外国人を招致し、証人喚問でも参考人招致なんてして、責任追及をするなんて事は考えられないですからね。どうも日米地位協定と同じ種類の「匂い」がする。センチメントの怪物で、ちっとも倫理がない。

岡田外相が地味ながらガス油田開発を巡って【しかるべき措置】という言葉で中国政府を牽制。また、外相はシーシェパードを巡る問題でも【しかるべき措置】と似たような意味なのでしょうか「国際司法裁判所」というキーワードを使って牽制するも、豪ラッド首相は日本に対して調査捕鯨の中止を要求している。

日本を取り巻く外交状況がギクシャクしはじめている。ハッキリ云うと、これって日本軽視でしょう。もっと判り易く云うと、これってナメられてんじゃないのかな。

「しかるべき措置」とか「国際司法裁判所への提訴」という手法しか日本は行使できない。で、同盟国である筈の米国にもナメられ始めてる。最悪のシナリオが進行しているんじゃないだろうね…。日本だけが軽視され、パワーポリティクスの中で日本だけが埋没していくとか…。

言いたくはないんですが、ここで、もし日本が強大な軍事力を持っていれば、こういう事態にはならないんですよね。ロシア相手にナメたマネを出来る国なんてないのと同じ。つまりは、軍事的均衡(パワーバランス)が崩れ始めている兆候なんじゃないだろうか。

悲しいかな、下手をすると日本は孤立してしまう可能性がある。豪国にしても米国にしても、トヨタ叩きやっている連中は全部白人的な価値観でしょう。残念ながら彼等の中には、未だに白人優越主義があって、それがセンチメントとして表出している。

中国の場合は白人優越主義ではありませんが、似たような中華中心思想があるだろうし、元より反日感情が高い。つまりは、センチメントと無縁じゃない。

いつぞや、清水幾太郎氏の提唱した核武装論に触れたとき、「日本は世界で唯一の被爆国であるからこそ、核武装が許されるべきだ」という氏の言葉を取り上げましたが、たまたま、その補則材料とおぼしきものを地政学関連本の中で見つけました。「被爆国であるからこそ、核武装が許される」とは、ちょっと解説が必要で、何を意味しているかというと、「全世界から核が廃絶されるその日まで、被爆国たる日本は核兵器を保有し、核完全廃絶の瞬間まで見守る権利があるのではないか」という意味だったよう。

「あ!」って思いました。

確かに被爆国であるからこそ、それを主張できたのに日本は核兵器を自分で持たないという道を選んでしまった。核を持たない日本が核廃絶を訴える事のは、性善説としての一定の整合性も説得力もあるのですが、現実問題としての国際社会は甘くはなかったですよね。原爆資料館を見せれば、一個人としての外国人は核兵器というものの理不尽さに気付いてくれるのでしょうが、残念ながら成果は上がっていないし、日本という国は発言力がないのが実情です。

ひょっとしたら、世界から核兵器ななくなるその日まで、その核廃絶の番人として世界唯一の被爆国の日本には核兵器を保有しておく責務がホントにあったんじゃないだろか。すべての国に核を廃棄させ、一番、最後に自らの核を廃棄するというシナリオこそが、被爆国・日本に与えられた本来の使命だったんじゃないだろうか。核を持たない日本人の話に誰が耳を傾けてくれていると? オバマが核縮小を成し遂げてくれると? 日本は唯一の被爆国なのに、そんな受け身でいいの? 実は核問題は日本こそがイニシアチブをとるべきテーマだったんじゃないんだろうか。

実に40年前から世界第2位の国内総生産を誇り、長い間、米国に次ぐ経済大国として金銭的な面で発展途上国支援や、国連はじめ世界的な枠組への経済的貢献も相応にやってきたものでしたが、依然として日本の地位は軽んじられているという現実がある。

日本に於いては核武装論は禁句であり、「核武装についても話し合うべきだ」という閣僚発言があれば、不信任案が提出されるような空気で、ずっとやってきた訳です。

片山虎之助さんあたりは「技術はあるのだから、一週間ぐらいで核兵器を作れるぐらいの準備を整えておけばいい」という主旨の発言をしたといいます。取り合えず妥協案のようですが、しかし、それだと報復攻撃する為の核兵器にはなるかも知れませんが、最初から相手を牽制する為の《抑止力》にはならないんですよね。欲しいのは抑止力であって、兵器そのものじゃない…。

日本が国際社会で主導権を取れないばかりでなく、軽んじられるのなら、核兵器とは言わないものの、武威で牽制できるようなポジションじゃなきゃダメだったのかもね。「日本に政治力がない」というのは嘘で、ホントは政治力を発揮するためのバックボーン、つまり、武威がないからこそ、政治力がなかったんじゃないだろうか…。

先日のNHK「日曜討論」で、法政大学の鈴木某教授が「米ソ冷戦構造が崩壊した今、日本に脅威はないんです。米軍基地はグアムで大丈夫なんです」と持論を展開していましたが、さすがに岡本育夫さんがさすがに口を挟みました。「領土問題をこれだけ抱えている国って、日本だけなんですよ」と。

民主党政権になって事で、どこか国防意識とか国家観とかまで、フランス人でもないのにフランス人みたいな普遍的理想を是とし、左傾化と思われるような共産主義的平等思想を是としてみたり、なんだか大混乱になってしまっている。フランスだって核保有国だし、中国だってロシアだって核保有国で軍事大国なんですよね…。

「仮想敵国がない」とか「脅威は存在しない」とか、割とホンキで喋る論客や政治家も増えましたよね…。平和ボケに平和ボケを重ねて、日本人は日本を世界の良識とやらが守ってくれるハズだと思っているのでしょう。甘えじゃないのかねぇ。そんな態度だからナメられてるんじゃないの?! 

所詮、世論なんてのはセンチメントに過ぎず、自衛力のない弱者を叩いて喜んでいる程度の低俗なものなんだろうし、そうしたパワーバランスを律するのは性善説に基づいた叡智だけでは駄目で、性悪説に基づいた武威で牽制、相互監視する事も必要だったんじゃないだろうか。

日本は「真の自立を目指そう」なんていうタイミングを逸した気もするんですよね。日米関係が良好なときに主権回復を整えておくべきだったというか…。だって最早、憲法改正がどうのこうのと論じている状況ではなく、外交でも孤立するという苦境に陥ってしまったような気もします。

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2010年02月23日

老後が危険すぎる....(BlogPet)

メロンぱんちの「老後が危険すぎる....」のまねしてかいてみるね

いきなり、ネガティブな話っす♪
リーマンショックを実際に不安を考えるの若者がえて毟り取られたというAモデルと就職氷河期世代2人だって白人層の差額が物凄い暴動をもらえないだろかよって思うものの、会社員の若者が40歳下妻あり)自宅、生活に不安の変化がゼロに不安の厚生年金が寄付を達成したというAモデルと喘ぐって言っていない人、1961年生まれがえますが60歳で貧乏老人に迷惑を、受給比率は年金受給比率は未来予想図に焦点を助けてる場合じゃないんじゃないの事を維持できるの赤字と喘ぐって予測しますからもかかる子ども手当の予測したって予測しましたが36.5%には断固反対です!
どちらかな国民年金会社員の老朽化が60歳時に目を助けてる人がえて毟り取られたぐらい。
その空白の構図としても居るんじゃねえかって言ってしまうとなるというと、ヒィヒィと、中国やね。
フランス?フランス?フランスだっている人が恵まれて、民間の政治的なんです!
2027年生まれに陥る?
2015年に不安の予測は命取りになる負担が付かなくなる可能性が高齢者に?
「相応に生を全うすれば、どうせ生まれ変われるんだろ?肉体なんて乗り物だってよ、乗り物。新しい車に乗り換えるようなもんだ。今生なんてのに固執したってしょうがないってさ」が30歳でこそ政治的判断で言ってる場合はそこそこの変化が22歳で、正解な価値観♪
とりあえず、なんとも悲観的に可能性がインドに3000万円を47歳からも、三階、民間の男性(69歳まであの体制を出す為に定年退職をつけてタイムテーブルを助けてる場合じゃない範囲で、増税し♪
さすがに日本の方が老後を抱えてなぁいます!!
2021年生まれとくるブルーなんだという年令。
冗談で試算しましたとしても避けるべきな未来予想図です。

*このエントリは、ブログペットの「バタピー親分」が書きました。

老後が危険すぎる....

いきなり、ネガティブなタイトルをつけてしまいましたが、じわじわとくるブルーな話っす。

1961年生まれ以降の世代から年金の支給が否応なしに65歳からになるのだそうな。仮に、会社員の場合、60歳に定年退職をしてしまうと、65歳になるまでの五年間が空白になるという。そんな訳で、日経マネー誌が1961年生まれ(アラフィフ)に焦点を置いてタイムテーブルを予測している。

ちなみに臨場感を出す為に触れると、1961年生まれとは王貞治が本塁打世界記録を達成した1977年に16歳。東京ディズニーランド開園が22歳。バブル崩壊が30歳。アメリカ同時多発テロが40歳。リーマンショックを47歳で迎えたという年令。

2009年(48歳)国内総生産が中国に抜かれる。

で、以下は未来予想図です。

2014年(53歳)日本人の4人に1人が65歳以上に。

2015年(54歳)ワーキングプアが労働人口の4割に。

2020年(59歳)現役世代2人で1人の高齢者を支える時代に。

2021年(60歳)自宅、マンションなどの老朽化が目立つ時代に。

2025年(64歳)年金財政が危機的状況に陥る。

2027年(66歳)国民年金が破綻する(国庫負担が36.5%に据え置かれた場合)

2030年(69歳)国内総生産がインドに抜かれる。

2035年(74歳)日本人の3人に1人が高齢者に。

また、2035年になると就職氷河期世代が老後を迎えているという。えーと、支えられると思いますぅ? 地獄か。ほんで定年退職者も軒並み働かざるを得ないだろうという。

これらは官公庁、民間の予測したものを編集部が作成した1つのモデルケースだという事なんですが、確かに日本の将来はなんとも不気味。さすがに、これを考えてしまうと、今の高齢者の方が恵まれているんじゃないだろうかって意見にも説得力が増してくる。だからといって打つ手なし。

怖いよなぁ…。

とりあえず、1961年生まれに話を戻しますが、65歳までは年金をもらえない。その空白の五年間が生じるという。これを実際に1950年生まれの男性(二歳下妻あり)というAモデルと、1961年生まれの男性(二歳下妻あり)のBモデルとで比較すると、685万円の差額が生じるという。

1950年生まれが60歳で3000万円の貯金があると仮定して、貯蓄がゼロになるのは86〜87歳。一方、1961年生まれが60歳で3000万円を残していたとしても77歳で貯蓄はゼロになり、90歳まで生きてしまった場合は1300〜1400万円の赤字となる。(資産はそこそこのレベルの人で試算していますから、60歳時に3000万円もない人、そもそも二階、三階の年金をしていない私は論外で貧乏老人になる試算か。)

不公平に目を向けるべきなのか、それ以前に絶望的じゃねえかって悲しむべきなのか、なんとも悲観的な未来予想図になってる…。

大体、基礎年金部分(国民年金)が破綻するって予測はアリなのかよって思うものの、現在の調子ならありえますやね。

いやいや、そういう悲観的な話をするつもりじゃないんだ。どちらかというと、これだけのサバイバルが待っているんだから、社会保障費を増やすとか、あんまり目先の事を考えるのは危険じゃないかって。年間6兆円もかかる子ども手当のようなものには断固反対。冗談で言ってるんだと思ってたぐらい。それとリンクするんですが増税や保険料値上げのような国民負担になるものは原則的に反対です。

今でこそスウェーデンがどうのこうのって言ってますが、スウェーデンがいつまであの体制を維持できるのかも微妙でしょうに、すぐ子供みたいに羨ましがるんだから。フランス? フランスだって白人層の若者が物凄い暴動を起こした国だって事を、理解しているんだろうか。

年金制度にしても世代間格差はなかなかシャレにならない。ここで国民負担をジリジリと上げられて毟り取られ、その挙げ句、受給する際には年金が破綻しましたってパターンだけは避けたいと考えるものでしょう。(アラフィフ世代の厚生年金会社負担を含めると、年金受給比率は1倍スレスレだという。それ以下の世代は一倍を割り込む?!)

節約している人だっているし、リスクを負って株投資とかまでやってる人も居るんだし。

財源がないから増税しますってのは認めたくありませんね。来るべきサバイバル時代を考えると、増税は命取りになる可能性がある。高齢者を抱えて、若年層や現役世代が、ヒィヒィと喘ぐってのは社会の構図としても避けるべきじゃないのかねぇ。基本的に誰かを助けてる場合じゃないレベルの人に、更なる負担をさせようとしているってのが間違ってなぁい? 

新たに貧困を作り出すようなもんかもよ…。それこそ政治災害だ。自然淘汰で貧困が発生するのは仕方ないにしても、このテの政治的判断で一億総貧困時代が発生するリスクを考えているんだろうか。ワーキングプアの増加も想定されていますが、確かに収拾が付かなくなるんじゃないのかな。

生活に不安のない人が寄付をしたり、社会貢献できるかも知れないけど、生活に不安を抱えている者からも更に国民負担を増やすってのは、どうも世紀の愚策に見えます。やはり、基本的には景気対策をするべきだし、中国やインドに可能性があるというのなら、或いは「じっくりと景気動向が上向くのを待つ」という選択肢だって悪くはないでしょう。

価値観の変化が必要なんじゃないだろうか。長生きとか健康には固執せず、

「あの人は早世だったけど、酒もタバコも博打も好き放題だったからね。いい人生だったんじゃないの」

なんて言われる人が稀に居ますが、そういうのがトレンドにならなきゃ。他人に迷惑をかけない範囲で好きなように生きて、それでいいじゃん的な価値観。

「相応に生を全うすれば、どうせ生まれ変われるんだろ? 肉体なんて乗り物だってよ、乗り物。新しい車に乗り換えるようなもんだ。今生なんてのに固執したってしょうがないってさ」

が、正解なんじゃないだろか。

2010年02月22日

「ツルのマークの人が親切にしてくれはった」

JAL株の百パーセント減資が確定的となった先月の14日、1万株を購入した68歳の大阪女性がいたそうな。株券が紙くずになる事が判っていたにもかかわらず、その女性は11万5千円ほどの約定料金を支払い、JALにエールを送るつもりだったという。

女性をそんな行動に駆り立てられたのは50年前の体験があったからだ。その女性は生まれて間もなく母方の祖母に引き取られ、そこで養女として育てられたという。そして女性が18歳のとき、それが丁度50年前の1960年なのですが、当時80歳の祖母を東京見物へ連れて行く事が出来たという。祖母は「冥土みやげができた」と、その旅行を非常に喜んでいたという。

その際、利用した飛行機がJAL便だった。しかし、羽田空港で思いも拠らぬ事が起こった。祖母は足が悪かったので、タラップを降りるのに時間がかかり、羽田空港から東京駅へと出ていたバスを乗り遅らせてしまったという。(当事、バスの本数が少なく、乗り遅らせると2〜3時間待ちだったそうな。)

親孝行をしたいと思っていたのに思いも拠らぬ事態となってしまい、女性とその祖母は困惑しきりだったが、JALの対応は素晴らしかった。車椅子を用意してくれたばかりか、羽田空港から東京駅まで自動車で送迎して対応してくれたという。

祖母は、その東京見物から2年後に亡くなった。その祖母は東京見物を振り返っては「ツルのマークの人が親切にしてくれはった」と何度も何度も繰り返していたという。

半世紀が経過してJALが倒産するらしいと聞き、女性は祖母を連れて行った東京見物を思い出していた。あのときに受けた恩義は忘れられる筈がない。私の祖母への恩返しが完結したのはJALの御蔭だし、祖母も「ツルのマークの人が親切にしてくれはった」と、ずっと言い続けていたのだ。

そういう思いから女性は、「なんの力にもなれませんが…」と紙くず同然と言われる株券を購入していたのだという。


再生へ向けて新たなスタートをする事になったJALは、女性に四百枚の礼状を届けたという。その礼状はカードで、社員らが手書きしたものだったという。


18日の読売新聞に掲載してあった記事なんですが、なにげに美談じゃないか。JALは企業を上げて取り組んでいるのは【信用回復】でしょか。そして「ツルのマークの人が親切にしてくれはった」というフレーズも出来すぎですが、半世紀前の恩義に対して、逆境のJALに恩を返そうとした大阪女性の思いというのも、なにか日本的な匂いを感じさせてくれます。

「立て直して欲しい」とか「立ち直って欲しい」と欲するのが本来的な日本人の情なのでしょう。しかし、現実問題というのは否応なく、外部的な要因もあるからシビアな判断を余儀なくされてしまう。ここでバランスをとるのは難しいものでしょうが、「日航、頑張れよ」という気持ちである事は、間違っていないし、出来ることならそうなって欲しい。

しっかし、あのツルのマーク、なんで廃止しちゃったんだろう。これほど日本人の心に染み込んでいるロゴなのだったら、継続して使用すればよかったし、今からでも復活させればいいのに。小洒落たロゴマークは数々あれど、ブランドとして確立されているものは稀有で、貴重なんじゃないのかなぁ。

あのマークを上手くパクって、知的財産権として登録できないもんだろうか。

2010年02月21日

意味があって生まれてきたのか?

「オマエなんて産まなきゃよかった」

という母親の発言は、虐待に相当するのだと深刻な口調で語る。

とは、いうものの、私ぐらいの年代になると、どういう訳か親から血縁を否定されるという奇妙な体験を持つ者が少なくない。私の場合、「赤ん坊の頃、出刃包丁と一緒に線路に落ちていた子」であり、それをオヤジとオフクロが不憫に思い、拾って育ててやったというストーリーになっている。

一級下のT君に、その話をすると、

「私の場合は橋の下で拾ったって云われましたよ」

という。もう、ひとりの別のT君も、

「ああ、オレもオフクロから寺に捨てられていたのを拾ったと説明されたことがあった」

という。どうやら昭和40年代頃までは、両親が子供に対して、そのような方便を使う事は珍しくも無かったということのよう。

何故、そんな捨て子であるかのようなストーリーを、昔の親は必要としていたのかって考える。云う事をきかない子供に、恩を売ってコントロールしやすくする為に「本当は、オマエはウチの子ではなくて、拾ってきた子なのだよ」という物語を作り上げていたのでしょう。平たく云えば、それは単なるオドシであったようにも思える。

そのオドシと思われる方便を使う事に、その時代の親たちにとって、躊躇もなかったのでしょう。そのような洗礼を受けたのが私だけではないという事は、私の親が取り分けて薄情な親だったという訳でもなく、広く、日本にはそのような親と子のコミュニケーションがあったのでしょう。

現在ともなると育児方法のセオリーが変わり、愛情いっぱいに育てるべきだとなり、「本当の事を云えば産みたくなかったのだ」といえば、たちまち、児童虐待に問われてしまうかも知れない。

然るに、何故、昔は、そのような事が行なわれていたんだろって思う。「泣く子は居ねぇがぁ!」と各家を訪問するナマハゲの風習とか、「泣く子は育つ」の言い伝えを忠実に守って行なわれている、泣き相撲の風習と根底で繋がるんだろうか。



川上未映子さんの文章が非常に個性的なのですが、そのエッセイを少し以下に引用します。

――青い夕ぐれにカラスが鳴き鳴きカラスの歌あるやん、酒焼け風味の声で歌ってみたら我ながら泣けてくる。かわいい七つの子があるから、カラスは鳴くのだそうだ。

母親が「歌とか色々、大事なんかも知らんけど、やっぱりみえちゃん、ひとりは子供を、生んで」とか云うんよ。このリクエスト、どうしたものかしらん。しかし私ら僕ら、生まれてくるのに明確な意志はなかったわけで。誰かのリクエストを引き受けて生まれてきたのではないのであって。気が付いたら自分がおった、これだけ。生まれてくる子もたぶん、それだけ。しかし、私は責任追及をされるのがなんとなく嫌で、無いところに有るものを、わざわざ作るのは私の仕事でもない、ってな風に思うわけだ――

引用したエッセイは「子供は誰が作るのんか」(川上未映子著『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります。』講談社文庫)というタイトルで、複雑な感慨が語られている訳ですが、《私ら僕ら、生まれてくるのに明確な意志はなかったわけで。誰かのリクエストを引き受けて生まれてきたのではないのであって。気が付いたら自分がおった、これだけ。》というのは、ある意味では達観で、この文体で表現されてしまう。

流行の歌やら、胡散くさい評論家は【生まれてきた理由】なんて事を大袈裟に口走って、ちょっとした言葉遊びをしているのではないかなって思う。どちらかというと、私も川上さんに近くて、「気が付いたら自分が居た。それだけ」って気もする。

親と子というのは、人間関係の基本、基盤だと思いますが、あまりテキストに左右されるべきじゃないし、「私が生まれてきた理由」なんて、そんな大そうなものは最初からないかも知れない。

親を憎む感情というのは誰にでもあるんじゃないのかって思うんです。「ちっきしょー、なんでオレんちは貧乏なんだ」とか「あー、もっと才能とかに恵まれた環境に生まれたらなぁ」と思う子の身勝手があれば、親にしても「なんでウチの子は泣き虫なんだろ」とか「ウチの子がもう少し真面目であってくれたら」なんて、親も子も、案外、身勝手な妄想をしている。竹内久美子的な利己的遺伝子論で組み立ててれば、もっとアッサリとしていて、愛情がどうのこうのとかを省いても、親は親で子は子でしかないと理解できる。

ですが、現在、語られる親と子は、愛情がどうであるとか、好きで産んだんじゃないとか、好きで産まれてやったんじゃないとか、物凄い宙に浮かんでいる観念論ばかりで、しかも、その観念論に終始し、観念論に埋没し、挙げ句の果てにはその人が自信を喪失してしまっていたりする。


【アダルト・チルドレン】という言葉の解釈には多数あるようですが、ここでは定義を「現在の生きずらさが親との関係に起因すると認めたひと」とします。

《どうして私はいつも対人関係で、問題を起こしてしまうのだろう》。そんな悩みを抱えている人は案外、多いようですが、それが不必要なまでに続き、自責の念ばかりが強まると精神的に良くない。なので、アダルト・チルドレンの概念が登場し、当初は因果関係の考察にしても定義にしても医学的な意味合いであったという。それがメディアを通じて一般社会に知られると物凄い勢いで汎用化されたそうな。

「私がうまく生きられなかったのは、親のせいだったのだ!」

と両親を責めるような解釈にまでなってしまい、実際に米国では子供が実の親に対して訴訟を起こすような騒動が続いたという。

奇妙な事なんです。そこで起きているのは責任追及になっている。親という血縁者、その家庭環境に原因があったとすれば、その悩める人は「私の悩みの原因は生来的なものだったのか…」となり、丸く収まるものになる予定だった。ところが、フタを開けてみたら、「なにぃ! オレの悩みは親の責任だったのだな。訴えてやるっ!」となってしまったという事。親に対して責任を追及するという他罰制に人々が捉われてしまったという事なんです。

(親と子の関係では、逆もシカリ。親にして「なんでウチの子はこんなに手間がかかるんだ!」と怒ったり悩んだり。で、中には虐待めいたことをしでかす親も登場したといいますが、そちらに関しては省略します。)


「痛いの、痛いの、遠くのお山へ飛んでいけ〜☆」

てな、陳腐なオマジナイが昔は日常的にあったものです。道端で転んで膝を擦り剥いて、傷口を見れば小砂利が膝にめり込んでいて、出血していたりする。幼稚園児ぐらいなら、ただただひらすらに大泣きをするものでしたが、不思議な事にそのオマジナイに効力があった。

それは幼稚園の先生でも、隣のオバチャンでも、母親でも同じで、「ちちんぷいぷい」なんていうテキトーなオマジナイを唱えたものです。で、それらは飽くまでオマジナイであり、漢字で表記すれば【お呪い】であり、いい加減な、科学的根拠に乏しいかのようなものだった。ところが、実際に子供を泣き止ます魔力を持っていた。

香山リカ著『悪いのは私じゃない症候群』(ベスト新書)を読んでいて、気づいてしまったんですが、あれって、物凄い知恵ですよね。魔術といっても過言じゃない。ここで冷静に、深呼吸をして、考え直しましょう。あのオマジナイは実際に「痛み」を「山の向こう」へと「飛ばしている」んです。作用として精神的ショックと痛みそのものを本当に逸らしている訳です。まさに魔術。

スピリチュアルブームというのも、眺めていると、それなのではないかという指摘があるという。「あなたが不運なのは前世のせいなのです」のような説明をする事で、その悩める者の自責の念を取り除ける可能性がある。「不甲斐ないのは自分のせいだ」と自分を追い詰めてしまう人たちにとっては、それらの前世うんぬんの説明は自責の念から解放してくれる可能性がある。「ひょっとしたらオレが失敗ばかりしているのは前世からの因縁なのかも知れないな。これでは仕方ない。前向きに生きるか」と導く為の方便である可能性もあるという。そう考えると、古今東西で占いが重宝されてきた理由も説明がつく。また、占い好きと呼ばれる種類の人たちの傾向からも、そのような匂いがある。(とは云いますが、カネを貪ったり、エロい事をしたりするようなのは論外ですよ。飽くまで、善意の解釈としてのスピリチュアル論です。)

つまり、オカルトとかスピリチュアルは、悩める人には好作用する可能性がある。そう断言してしまうといけませんが、昔から人気のある占い師がカウンセリング術に長けているのと密接に関わりがあり、実はオマジナイの際にあった【とばし】を行なっている可能性も無きにしも非ず。

心理カウンセラー信田さよ子さんは江原啓之さんの話に、1つの指摘をしている。江原さんは「子どもが生まれたのは、子どもの選択によってであり、選択責任は子どもにある」と一貫しているという。それはアダルト・チルドレンの仮説の真逆だという。ややこしいので、整理すると、「親のせいでこうなった」がアダルト・チルドレンならば、スピリチュアルは「子どもが自分の意志で親を選んで生まれてきた」となる。

いずれにしても、それらは【自責の念】を逸らす目的であり、オマジナイのように遠くへと飛ばしてしまう性質を持っているとも考えられる。



理屈を否定するために理屈を打つというのも嫌なものですが、それでいて、多分、このあたりの考察の方に説得力を感じなくもないんですよね。

私の場合、踏切で出刃包丁と一緒に捨ててあった子だという事になってる。もちろん小学校低学年の頃まで、そのように云われていたように記憶していますが、一度や二度じゃなく、繰り返し云われたものです。ですが、それは私だけでなく私と同世代には多かった事例だし、その者たち皆が皆、現在では笑い話としてそれらを語っている。どんな目的を持って生まれてきたなんて知ったこっちゃねーよな、ぐらいにテキトーに生きている。

「こうあるべきだ」とか「ああしなさい」のようなセオリーには、振り回されない方がいいんだろうなって、毎度、毎度、思いますけどね。成功者の話というのは成功者の話であり、誰もが成功者になれるもんじゃないし、成功者の話には誇張や創作があり、場合によっては破壊的な話しか出来ない非生産的な論者とか、人心を無視した合理論者とか色々ですからね。

たまたまTBSの「報道特集NEXT」を視ていて、ふと現代人というのはメンタル面では疑う余地のある仮説に振り回され、社会面ではやらないでもいいような他罰をやってしまい、より社会を息苦しいものにしてしまっているように見える。他罰的な態度を取る個人。それが他罰的な社会をつくりだし、それが息苦しさを作り出しているんじゃないのかねぇ。報道特集の事例は主に女性の世界の話かも知れないので触れませんが、随所に、そう感じる要素があるように見える。


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小説で芥川賞、詩を書いて中原中也賞。更に俳優でキネマ旬報新人女優賞。昨年は初の長編小説が大ヒットの川上未映子さん。かつては参天製薬のCMソングも唄っていたりします。