2010年02月04日

「日本辺境論」という切り取り方

内田樹著『日本辺境論』(新潮新書)は、新書シリーズにしては大ヒットという事になるんでしょうか。まぁ、絶賛という事はありえないんですが、概念としての提起はあり。断片、断片、断片から構成されているので、正直、読後感はスッキリとしません。

ざっくりと説明すると、日本は辺境であるという説明です。世界の中心から発信される《光》は中華皇帝にあり、その光は徐々に薄まっていき、朝鮮半島、日本列島、東南アジアなど、いわば、それらの国々は僻地である。日本などは、光が届かない、薄暗い辺境の地であるというもの。

朝貢される中華皇帝と、朝貢する国とがあり、歴史的に眺めると東洋史は中華皇帝が中心の光であり、そこから距離を経るに従って、辺境地が広がる。円の中心には光があるが、それが周縁に向かえば向かうほど光は弱くなる。

で、日本人は最初から、その中華皇帝中心主義を認めた上で成り立っているというのが筆者の説明です。たとえば【日本】という国名がありますが、それは「日ノ本」の意であり、「太陽の昇るところ」を意味している。何処から見て太陽が昇る場所なのかというと、中華皇帝から見たときに日の昇る方向を意味している事を名乗りとしている、と。これは【東京】しかりです。アジアに目を向けた世界観、世界に目を向けた世界観とはいうものの、やはり、世界の中心は中国だと思っているのではないか、と。

これは【朝鮮】(朝日が鮮やかに見える場所)シカリだし、ベトナムを漢字表記したときの【越南】(国境をこえて南のところ)シカリ。どこからみて東なのか、どこからみて南なのか。殊に、日本人の語る日本は、無意識に中華皇帝中心の文化圏の住人である事を、自ら認めてしまっているという指摘から始まります。

「日本の中心は京都どすえ。東の京都だから東京どす。日本が世界に向けて、『此処は日の昇る国どすえ』と云って何が不思議と、おっしゃりますんやろ。ほな、さいなら(ぽっく、ぽっく…)」という感想を持たれるとは思いますが、まぁ、一理あるといえば一理ありますかね。

まぁ、あまり、そこに固執してしまうと著者の指摘を読み誤まる可能性があるので、じっくりと考えてみるのがいいでしょう。ここで、著者が言わんとしている事を汲み取ると、「日本は所詮、ローカルな国なんですよ」の意ぐらいに理解していれば問題はなさそう。

日本は辺境地であり、そこに住む日本人は最初から辺境な文化の住人であるという。さまざまな世界の常識が日本の非常識にあたる。しかも日本人は、それを気にする。

「日本は世界標準と違うじゃねぇか!」

などと、どういう訳かきょろきょろして、周囲の対応を気にする。その、周囲の対応を常に気にしている態度こそが、辺境人そのもので、田舎者そのものであり、それが日本人の文化的特性であると展開します。フツウに論じる場合の【島国根性】というのがありますが、あれに通じる話で、いわば日本人は中心ではなく周縁で、常に存亡と隣り合わせになる歴史の中で育まれた人たちであるという。

「日本人がきょろきょろと見回してばかりいる」というのは、間違いないでしょう。あまり、自分自身が中心だと思っていないし、自国文化を主張するよりも、自国文化を受け入れるという受動的な態度で物事を考える事が多い。これは否定できそうもない。

で、ここからが著者の面白いところで、「だったら、いっその事、日本人は辺境人を徹底してしまったらどうだろう?」と提起します。

ですが、まぁ、あんまり、しっくりと来ませんでした。新渡戸稲造の『武士道』、ルース・べネフィクトの『菊と刀』、山本七平の『「空気」の研究』など、このブログとも非常にダブる引用もあるのですが、「比較する事でしか日本人を語れない日本人はおかしい」等と展開されても比較以外に方法がないんですよね。それこそ比較せずに辺境人である事を悟れというのは矛盾にも感じてしまうワケで…。

ま、兎に角、深く考えないで、対処の方法だけを考えてさえいればよいという考え方が日本人の中にはあるという事で、それを肯定してしまえばいいという話のようなのですが、その部分が抽象的にしか読み取れないといいますかねぇ。

言いたい事は判るけど、相手がいる事、比較対象がある事などを無視しての中心主義なんてのは成立しないんじゃないのかねぇ。実際、日本固有のローカルルールには哲学がないという考え方は、個人的には違和感もありましたかね。

具体的に「日本人は仕事を与えられたら仕事の効率化を話し合う力はあるが、何故、その仕事をするのかという思考力がない」のような指摘をしている訳ですが、それは日本人であっても考えている人は考えていると思うんですよね。そういう偏りがあるというのなら理解できなくもないんですが、そこまで日本人は無知だろうかって気がします。

理解できない事はないんですが、ちょっと理解できない。細々として比喩などが、私にはしっくりと来ませんでした。もっと簡潔な日本人論は幾らでもある気がするし、仮に日本人は物事を深く掘り下げて考えないとか、日本人は生来的に無責任であるという論を展開するにしても、もっと適切な手法があるように思えたというのが率直な感想でした。

「日いずる処の天子日没する処の天子に書を贈る」でも、「日の出処の天子、書没する処の天子に贈る」でも解釈は構わないんですが、その世界観そのものが中華皇帝中心主義だと言い出しすのってどうなんでしょ。個人的には日本は割と早い段階から属国的支配ではなく、自立を掲げていたようにも感じるんですよね。ずーっと近代史を追っても日本人は不平等条約の撤廃に明け暮れている。辺境人だという事には変わりませんが、かなり強烈な意志を有している気もします。対人関係、外交問題のような現実があるから対応を迫られているのであり、尚且つ、独立を維持したいと欲する気持ちがある小国日本が、そうした処世術に長ける形で進化してきた事は必然であって、「辺境だ」と自覚する必要性を感じないといいますか。

著者は語ります。「もし日本が欧米よりも先に原子爆弾の開発に成功していたらサンフランシスコでも何処でも原爆を投下していただろう」、と。

それは現代人が考える理屈だと思うんです。当事の日本人なら躊躇せずに原爆を投下したでしょうと推測する事には全く意味がない。歴史というのは善悪論で語れば見誤るに決まっているんです。そもそも原子爆弾は米国によって落されたし、現在でも原爆投下を米国は肯定しているし、戦争というもののリアルに迫れて居ない。日本人が先に原爆を開発していたら、投下していても不思議はないでしょうが、だからといって、それが日本人の思考回路がどうのこうのっていう理屈に誘導するのは難しい気がしたし、違うなって感じてしまう自分がいましたかね。

「先ごろ、米国では国旗を燃やしても刑事罰に問われないという判決があった」てな文言も。透けてみえるのは反日デモで日章旗を燃やされた事に対して、怒った日本人を揶揄しているようにもとれるんですが、怒るのが必然だし、怒りとして表出するのは素直な日本人の反応でしょう。そこで「どうでもいい」と世論が反応する方がフツウではない。

説得力があるかないか。それは自分自身で判断すべき問題で、権威のある文献や権威のある学者の言葉を引用してあろうが、説得力を感じなければそれまで。なので、私は、あんまり辺境人には当て嵌まらなかったのかも。

日章旗は、いつ何処で誰が定めたものかのか。君が代の作曲者を知らないクセに有難がるのは何故なのかと、ちょっとネットウヨクと呼ばれる人たちを挑発しているつもりなのかも知れませんが、感性というのは理屈じゃないし、日の丸を美しいと感じる人たちが居ても全く問題はない訳です。で、先手を打ち、「こう述べると批判が起こるだろうが、そういう事を言っているのではない」という傍線引きの注釈が多用されているのですが、実際に書籍の中で挙げられている具体例が「日章旗、君が代の起源も知らないのに何故、ありがたがるのか?」、「先に日本が原爆を開発していたら…」「パリ平和会議で欧州諸国は戦争防止を模索していたのに日本だけが権益を要求していた」等という例を挙げていたりする。曖昧なところに来て、少し偏見もマギレており、日本文化論としては、そんなにデキがいいようには感じなかったというのが正直な感想でしょうか。



ussyassya at 11:26│Comments(0)TrackBack(2)書籍・音楽 

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1. 日本辺境論 読了  [ 温故知新〜温新知故? ]   2010年02月04日 19:40
少し古いのかな、話題になっていたり、本屋に山積みされている本書を読んだ。 結構売れているらしい。 結論から言うと、私にはなぜ売れているのか、何を持って皆が読んでいるのかがわからないという感想だ。 日本は辺境の地であり、中国の国名は漢や秦、明のように1字で皇...
2. 一阿のことば 33  [ ガラス瓶に手紙を入れて ]   2010年02月08日 17:49
今のマスコミや識者の言うことにフラフラついてゆくと、とんでもない所へ行ってしまい ます。

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